あけましておめでとうございます。
神様の祝福に満たされた1年となりますように。
今年も高野教会をどうぞよろしくお願いします。
■京都みんなで捧げるミサ ミサは「神の母聖マリア」です。
司式はウイリアム神父様です。
■ミサの予定は以下の通りです。いずれも10時からです。
感染防止対策の上、ご自分の地区のミサに与ってください。
また、どの教会も人数制限などの措置を行っていますので、他の教会のミサには行かれないようにお願いします。
高野教会の現在の最大収容人数は50人です。
1月
2日㊐ 主の公現 AB地区
8日㊏、9日㊐ 主の洗礼のミサはありません。
15日㊏ 年間第2主日 AB地区
16日㊐ 年間第2主日 CD地区
22日㊏ 年間第3主日 CD地区
23日㊐ 年間第3主日 AB地区
29日㊏ 年間第4主日 AB地区
30日㊐ 年間第4主日 CD地区
主の公現の福音と勧めのことばをお送りします。
カトリック高野教会
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福音朗読 マタイによる福音(マタイ2章1~12節)
イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。
『ユダの地、ベツレヘムよ、
お前はユダの指導者たちの中で
決していちばん小さいものではない。
お前から指導者が現れ、
わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。
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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗
伝統的に主の公現は1月6日に祝われてきました。その起源は、冬至の太陽神の祭りをキリスト教化した降誕祭より古く、イエスさまの人類への現れ(エピファニア)を記念するものとして祝われてきました。古代教会で主の降誕を祝うという習慣はなく、3人の占星術者の訪問、主の洗礼、カナの婚礼での最初のしるしをイエスさまの人類への公けの現れとして祝ってきました。
主の降誕もそうなのですが、イエスさまの誕生を祝うというよりも、人類を照らす光としてのイエスさまの訪れ、到来を祝うところに中心があります。主の降誕夜半のミサのイザヤ書でも「闇に住む民は、大いなる光を見、死の影の地に住む者の上に、光が輝いた」と述べられ、イエスさまは闇を照らす光であると説明していきます。そのように、光が光として意識されるのは、闇のなかにおいてです。イエスさまは全人類の救い主ですから、その光はいつの時代も、どの時間、どの場所にいる人にも等しく注がれています。しかし、昼間には光というものはあまり意識されません。むしろ、イエスさまをわたしの救い主として意識できるのは闇を体験している人、あるいは闇のなかにいる人たちです。その光に気づかされるのは暗闇においてなのです。
それでは、今日の福音のなかでイエスさまはどのように光として意識されたのでしょうか。主の降誕では羊飼いたちにイエスさまの誕生が告げ知らされますが、今日は占星術の学者が登場します。羊飼いたちというのは、当時は賤しい人々、堕落した罪人の代表でした。東からやってきたと言われる占星術の学者というのはどういう人たちでしょうか。日本では東という方角は日が昇るというよいイメージがありますが、ユダヤの世界では東によいイメージはありません。地形的にもエルサレムの東には、ヨルダン川が注ぐ死海があり、死海の東岸には砂漠が広がっていて、不毛、死の土地のイメージです。旧約聖書のなかでも、東風が吹くと植物が枯れるとか、東風に乗っていなごが押し寄せるという記述があり、東にいいイメージはありません。占星術の学者とありますが、原文は「マゴイ」であり、学者でも王でもなくて、占い師です。占い師は、人の悩みを聞き、その人たちの心身のケアに携わる人たちでした。人生に疲れ悩み苦しむ人、その多くの人たちは病人や悪霊に憑かれた人たちで、マゴイはその彼らと関わるわけです。当時、病人や悪霊に憑かれた人たちは、汚れたもの、罪を犯したので病気になったものと考えられていました。マゴイは、その彼らの病や苦しみに寄り添っていくわけですから、自分も汚れに触れることになります。
善きサマリア人のたとえで、司祭やレビ人が、血だらけになり半殺しになった旅人に触れようとしなかったのは、何も彼らが無慈悲で血も涙もない冷血漢であったからではありません。その旅人に触れることは、血や傷に触れることになりますから、それによって自分が汚れて宗教上の務めを果たすのができなくなるのを恐れてのことでした。それに対してサマリア人は、もともとユダヤ人から賤民扱いされていましたから、宗教的な縛りがなかったのです。ここに出てくる占星術者も、東から来たいかがわしい占い師でしかなかったのです。ですから、ユダヤ人から見たら、異邦人であり、罪深い仕事を生業としている人たちでした。つまり、正統なユダヤ人から見れば、堕落した罪人たちであったわけです。その事実に目を閉じて、東方から来た3人の王(カスパー、メルキオール、バルタザール)などといった伝承を作り上げて、主の公現を神聖化したのです。ここにも、真実を見ようとしない有様が出てきます。
元々マタイ福音書は、ユダヤ人でキリスト教になった人たちのために書かれました。ですから、彼らがこの物語を読んだとき、占星術の学者がどのような人たちであるか分かったわけです。そして、イエスさまはユダヤ人の救い主であるだけでなく、全人類の救い主であり、それも救いからもっとも遠いとされてきた人々、堕落し罪人であるとされた人たちの救い主であることを容易に理解したのです。
そもそも、わたしたちが光を意識できるのは闇においてです。昼間にお日さまの光を、強烈な形で意識することはありません。むしろ、日の光は暖かい穏やかな明るい日向、生きとし生けるものを育みいつくしむ光として体験されます。しかし、暗闇においては、すべてが闇に包まれており、何も見えないわけですから、そこに希望も救いも何もないわけです。それは、どのように救いを求めればいいのかさえ分からないほどの暗さであるということなのです。そのような、わたしたちの極度の弱さ、貧しさ、辛さ、惨めさのさなかでは、光はわたしたちをいつくしむ光というより、わたしたちの闇も罪も汚れもすべてを射し通す光、何ものをも区別差別しない光、わたしたちをあわれんで抱き取って離さない希望の光として体験されるのではないでしょうか。暖かい日向の光しか知らない人にとっては、その光は思いもおよばぬものではないでしょうか。闇のなかでその光を体験した人こそが、イエスさまがまことの光であることを証しすることはできるのではないのではないでしょうか。ですから、イエスさまの誕生、この世界への現れは、誰からも期待さえることもない、誰からも相手にもされない羊飼いや星占いに知らされたのです。わたしたちが、祝っているクリスマスの風景とはなんと異なっていることでしょうか。
わたしたち人間は自分より弱い、小さい、貧しい人々を作り出すことで、また相手をそのように見なすことで自己肯定しようとします。それこそが、相手を見下して自分を相対評価し、自己肯定しようとする人間の真の闇の姿です。よく、「自分よりもっと大変な人がいる」とか、「あなたよりもっと苦しんでいる人がいる」という一見するともっともらしいことがよく言われます。しかし、わたしの苦しみはわたしの苦しみであって、他の誰よりはましだとか、誰より大変だと言えるようなものではないのです。
ユダヤの社会だけではなく、現代社会も同じように、律法を守れる人と守れない罪人、勝ち組と負け組というような上下区別を作り出して、そこに自分を位置づけて自分を確認しようとします。その価値観、その考え方こそが、まさにわたしたち人間の抱えているわたしの闇であり、堕落しているわたしなのだというところまで思いが至りません。だから、とかくすると人間は援助する側に立ちたがります。援助すること自体は大切なのですが、そこには大きな危険が潜んでいます。わたしたちがその危険から自由であるためには、わたし自身がイエスさまの助けをもっとも必要としている稀代の罪人であり、堕落しているものそのものであるという健全な自己認識が必要なのです。そして、そのような健全な自己認識は、イエスさまのあわれみに触れることによってしか得られません。イエスさまと出会えば、わたしはイエスさまにあわれんでいただくことしかない罪人であることが分かります。“ああ、ベトレヘムの羊飼いは、東方の星占いはわたしのことであったのだ”、ということに気づくのです。
そのような気づきは、わたしたちを卑屈にはしません。むしろ、イエスさまが全人類の救い主、わたしの救い主であることを認め、誰とでもともに生きていけるようになるということだと思います。これが、本当の意味で、わたしたちが“ともに生きる”という意味なのです。