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年間第23主日 勧めのことば

年間第23主日 福音朗読 マタイ18章15~20節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の福音は、マタイが教会をどのように考えたかということがテーマになっています。冒頭の15節だけが、ルカに並行箇所を見ることができますが、それ以降の箇所は共観福音書の中に並行箇所はありません。イエスさまが宣べ伝え、人々の間にもたらそうとしたのは神の国であり、教会を創設することではなかったというように、現代の聖書学では主張されています。歴史の流れの中で、キリスト教がユダヤ教から完全に分離し、自らのグループを形成していく状況の中で、「教会」という言葉が使われるようになっていきます。

4福音書の中で「教会」という言葉が使われているのは、マタイだけで、先々週のペトロの信仰告白の箇所と今日の箇所だけです。教会という言葉は、元々ギリシャ語のエクレジア、「人々の集まり」という意味で、組織や制度、建物を指す言葉ではなく、イエスさまを救い主として信じたキリスト者の集いをあらわす言葉として使われるようになっていきます。イエスさまが目指したのは、教会を設立することではなく、あくまでも人々の間に神の国をもたらすことでした。それでは、教会とは何でしょうか。

教会は神の国ではありません。神の国はわたしたちの救いの現実であるとすれば、教会は神の国を求めるわたしたち人間の集まり、グループです。イエスさまの神の国が完成するときまで世界の中で働き、奉仕し、イエスさまを証しするのが教会の役割です。神の国が完成されたとき、教会はその役割を終えていきます。ですから福音宣教において、教会が目的となったり、絶対的なものになったりすることはないということです。教会の洗礼を受けた人たちだけが、神の国のメンバーであるということはありませんし、教会という制度や洗礼・秘跡よりも、神の国はもっと広いものだといったらいいでしょう。

それでは、そのような前提の上で、わたしたちは教会として、現代社会の中で何を証ししていったらいいのでしょうか。それが、今日のマタイのメッセージだと思います。今日の箇所で大切なのは、ゆるしと教会共同体のあり方ということだと思います。ゆるしについては、来週に語られますので、その場を譲りたいと思います。今日は、教会共同体をどのように捉えていくかということをお話ししたいと思います。今日の箇所で、教会のあり方として大切な箇所は、「はっきりいっておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである(18:19~20)」というところです。

マタイ福音書のメッセージは、「わたしたちとともにおられる神」、インマヌエルである神です。ここでは、イエスさまの名によって二人、三人以上が集まることが、教会であるといっています。イエスさまはわたしとともにおられますが、そのわたしたちがイエスさまの名において集まるときに、その集いの中にもイエスさまが現存しておられるのです。復活されたイエスさまが、わたしとともにいてくださるということを知り、それを体験した人と人とが集い、そのことを互いに喜び合い、分かち合うこと、それが教会共同体なのだといえるのではないでしょうか。教会は組織でもなく、建物でもなく、イエスさまを中心とした人と人との集いであることがわかります。事実、初代教会には、教会堂も、位階制度もなく「毎日ひたすら心を一つにして…家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって…(使徒言行録2:46)」集まっていたと書かれています。そして、その生き方ゆえに、皆から好意をもたれた(同2:47)と書かれています。イエスさまを中心とした輪が広がっていった姿が描かれます。そこでは、イエスさまと出会わせていただいた喜び、その喜びが大火のように、パンデミックのように広がっていく様子をみることができます。これこそが教会の真価であるといえるでしょう。

今、わたしたちが懸命になって維持しようとしている、現在のカトリック教会の制度が整っていくのは、キリスト教がローマ帝国から公認された3~4世紀以降です。カトリック教会という組織や制度、建物などは、相対的なものにすぎません。芭蕉のことばに不易流行というのがあります。いつの時代も変わらない本質と、時代や人々の要求に合わせて変わっていくものがあるということをあらわした言葉です。教会の不易、つまり本質にあたるものは、福音、つまり復活されたイエスさまとの出会いということでしょう。それ以外のものは、時代と場所によって変わっていくものです。これが流行といえると思います。カトリック教会は、流行を不易と混同した時代がありました。しかし、イエスさまに直接由来しない教会の制度や決め事は、変わっていくというか、変わっていかなければ、時代の中で取り残されてしまいます。また伝承は、受け取る相手があって初めて成り立つものです。いくら素晴らしい伝統であっても、受け取る人がいなかったり、人々の魂に響かないようなものであれば伝承は途切れてしまいます。大切にしなければならないのは、イエスさまとの生きた出会いに呼ばれたということであり、組織や制度の維持、教えの護持だけではありません。イエスさまとの出会いを喜び、目の前に生きているひとり一人の人間を、兄弟姉妹として喜ぶということだと思います。

親鸞聖人の晩年のことばに、「一人居て喜ばば、二人と思ふべし。二人居て喜ばば、三人と思ふべし。その一人は 親鸞なり」というのがあります。わたしたちが本当にイエスさまと出会い、その出会いを同朋として喜んでいるのかどうかが、今、わたしたちひとり一人に問われているように思います。その喜びを生き、分かち合っていく共同体が教会なのだということを、今一度、こころに刻みたいと思います。そして、わたしたち自身が、そのような教会になっているのかを、一人ひとりが問いながら歩んでいきたいと思います。

年間第22主日 勧めのことば

年間第22主日 福音朗読 マタイ16章21~27節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は、イエスさまの受難予告とそれに反応する弟子たちの姿が描かれていきます。イエスさまは、自分はエルサレムで、苦しみを受けて殺されることになっているといわれました。イエスさまがおっしゃったことは、普通の感覚であればば、誰もがイエスさまをお諫めすることでしょう。どうぞ、いってらっしゃいとはなりません。それなのにペトロは厳しく怒られてしまいます。「サタン引き下がれ」と。ペトロは、何のことかわからなくなってしまいます。しかし、ここで問題になっているのは、いのちをどのようにとらえていくかという問題です。

弟子たちは、イエスさまがエルサレムにいかれるなら、そこで新しい王として大きな力を発揮されると思っていたのでしょう。そもそも王というものは、すべてを自分の思う通りにできる存在です。わたしたちは、そこまでいかなくても、自分の思いが据え通ることが人間としての幸せであり、自分のいのちが輝くことだと考えているのではないでしょうか。それがこの地上で極まった姿が王であるわけです。それが「全世界を手に入れる」といわれることです。しかし、イエスさまはそのようなあり方に問題提起をしていかれました。

イエスさまは、本当に自分のいのちを救いたいと思うのであれば、わたしたちがいのちと思っている有限ないのちに執着することをやめなければならない、そのいのちを失わなければならないといわれるのです。本当のいのち、永遠のいのちは、“神さまご自身”であって、わたしたちのいのちを長らえさせるとか、不変なものにするということではないということです。いのちとは本来、無限、永遠である神ご自身であって、わたしたちがいのちだと思っている個々の有限のいのちは、本当のいのちがわたしという個の枠の中に、一定期間留まっているものにすぎないということなのです。ですから、永遠のいのちとか神のいのちを離れて、わたしたちのいのちというものがあるのではないのです。わたしたちのいのちは、神のいのちに参与することによって、本来のいのちになるのです。

しかし、わたしたちが生きているいのちは、ご飯を食べたり、働いたりして過ごす一生のことで、死ねば、お墓に入ってしまうものと考えてしまいます。わたしたちのいのちはもちろん尊いものですが、わたしたちが一番大事だと思っている個のいのちを生かしている根本的な大きないのち、神のいのちがあることを知らせるのが宗教の本来の役割だといったらいいでしょう。ですから、宗教は、生きたい生きたいと願っているわたしの個のいのちを永らえさせること、不滅にすることではありません。つまり、個人の野心や欲望につながっているようないのちを拡大させることではないのです。

しかしながら、わたしたちが生きているいのちは、自らのうちに自分を超えていくという性質をもっています。多くの植物や動物は、自分のいのちを伝えるという使命が終われば、自分のいのちを終わらせていきます。それがもっとも苦手というか、難しい生命体が人類なのです。おそらく、人間はいのちを物質のように理解しているのではないでしょうか。だから、いのちという現象を恒久的な状態に閉じ込めようとしてきました。それが不老不死を願ったり、永遠のいのちを求めたりすることと繋がっていきます。しかし、いのちという現象は、動きであり、生きよう生きようとして、今のいのち以上になっていこうとします。すべてのいのちには成長というプロセスがあり、それがある点に達したとき自らを壊して、他のいのちに変容していこうとします。動物の脱皮もそうですし、芋虫がさなぎになって、蝶に変態していくのもそうです。そのもっとも根本的なものが、自分の死を通して、次世代にいのちを受け渡そうとすることです。つまり、いのちそのものの中に、自らが個体を壊して、個体の外へ溢れ出ていくという性質があるのです。このように、自分を超えていく動きが、いのちそのものの中にあるのではないでしょうか。それをイエスさまは「自分のいのちを救いたいと思うものは、それを失うが、わたしのためにいのちを失うものは、それを得る」と的確にいわれました。また別の箇所では、「友のために自分のいのちを捨てること、これ以上に大きな愛はない(ヨハネ15:13)」といわれました。しかし、人間は、他の動植物が自然なこととして生きていることができません。わたしの個のいのちだけがすべてだと思って、それに執着しているからです。それだけなら、わたしは本当のいのちを知らないし、半分しか生きていないということになります。

ただ、このようないのちのあり様を認識できるのは、おそらく人間だけです。人間だけがわたしという輪郭を意識するがゆえに、わたしの中に閉じ込められた、あるいは生きているいのちというものを認識することができるのです。動植物は、わたしという輪郭をはっきりもっていません。しかし、人間であれば、どんなに個性が強くない人でもわたしという輪郭はもっていて、わたしのいのちが終わることを意識して、死を恐れます。常日頃は、当たり前のように生きているので、いのちというものを意識しません。海の魚が海を意識していないのと同じです。しかし、わたしのいのちというものを意識するとき、そのわたしという個の

いのちがなくなったら大変だ、死なないようにあれこれ頑張ろうとします。

いのちが本当のいのちになるということは、個となったいのちのあり方が破られる必要があるのです。それがいのち本来のあり方です。わたしの中で意識しているいのちは、蝶の世界を知らない芋虫のようだといったらいいかもしれません。芋虫は、自分の生きているいのちがすべてだと思っています。空に高く舞い上がるいのちが、自分の中にあることを想像することすらできません。しかし、芋虫はときがくれば、自らで自分の内に入ってさなぎを作り、自分に死んだようになって、そしてさなぎを破って蝶となり、空高く舞い上がります。わたしたちは、わたしのいのちの殻を破って脱出していくこと、わたしのものと思って自分で握りしめているいのちを、大きないのちのうちに解放していくところにいのち本来の動きがあるのです。そのことをイエスさまは、「わたしについて来たいものは、自分を捨てて…」といわれました。それがいのちの本来のあり様であり、大きないのちを生きるためには、個のいのちを否定するのではなく、個という枠の中に閉じ込められたいのちを、大きないのちの中に解放していくことなのです

イエスさまはご自分の生き方、死に方で、わたしたち人類に本来のいのちのあり様を単的に示されました。わたしたちが生きるということは、自分という殻の外に出て、大きないのちの中に自分を解放することなのです。そのとき、わたしたちははじめて、生きたといえるのだと思います。芋虫がおのずから蝶になっていくように、わたしたちもいのちのあり様を本来知っているはずです。しかし、利己心によってそれが見えなくなってしまっているのでしょう。そのいのちのあり様をわたしたちに知らせ、目覚めさせてくださるのがイエスさまであり、そのイエスさまをわたしたちは信じるのです。そのあり様は、大いなるいのちとしてわたしたちの中にすでに与えられており、わたしたちはその動きに自らを与え、解放していくように働いています。その大いなるいのちの働きが、イエスさまご自身であり、イエスさまご自身がわたしたちの中で生き、働いておられるのです。わたしたちはこのイエスさまの内なる働きに、自らを与えていくように召されています。これが自らの十字架を背負ってイエスさまに従うことなのです。

年間第21主日 勧めのことば

年間第21主日 福音朗読 マタイ16章13~20節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の福音は、イエスさまとは誰かという大きな問いをわたしたちに投げかけています。弟子たちは、もう何年間もイエスさまとともにいました。それなのに、イエスさまは「人々はわたしを何者だといっているか」、そして「あなたがたはわたしを何者だというのか」と問われます。ともにいたのであれば、すでにイエスさまと出会い、誰であるかもわかっていたはずです。それでもなお、イエスさまは「あなたがたはわたしと出会っているのか」と問いかけておられるように思います。

マタイ福音書の大きなテーマの一つは、「わたしたちとともにおられる神」、インマヌエルです。「世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいる」というのは、イエスさまご自身のお約束なのです。ですから、イエスさまがわたしたちとともにおられるかどうかが問題なのではありません。イエスさまは、どんなときにもわたしたちとともにおられます。問題は、わたしたちがそのイエスさまに気づき、出会っているかということなのです。

イエスさまがともにおられることと、イエスさまと出会っていることとは同じではありません。出会うということは、わたしたちとともにおられるイエスさまに気づき、その働きに目を開かれるということです。それは、単にイエスさまについて知識や情報をもつことではなく、わたし自身がイエスさまと関わり、その方に触れられていることに気づくことです。そして、その気づきがわたしたちの回心といわれています。

今日の福音で、弟子たちはイエスさまに問われて、「洗礼者ヨハネ」「エリヤ」「預言者の一人」と答えます。それはイエスさまについて聞いていたこと、知っていたことです。しかしイエスさまは、さらに「あなたがたはわたしを何者だというのか」と問われます。

人間関係でも、長い時間を一緒に過ごしているからといって、その人を本当に知っているとは限りません。どんなに近くにいても、心が通い合わないことがあります。一緒にいることがあたりまえになり、その人がそこにいることさえ意識しなくなることもあります。弟子たちも、イエスさまと長く一緒にいたからこそ、かえって「ともにおられる」ということがあたりまえになっていたのかもしれません。わたしたちも同じです。イエスさまを自分の外へ外へと探し求めます。もちろん、イエスさまは聖体の秘跡の中に、教会の聖櫃のうちに、また教会の礼拝の中におられます。しかし、イエスさまは外におられるだけではなく、わたしたちのうちにもおられるのです。

どんなに自分をつまらない人間だと思っても、どんなに罪深く、どす黒い心を抱えていると思っても、イエスさまはそのわたしから離れておられるのではありません。ところが、愛や憎しみに翻弄されるわたしたちは、「こんなわたしのことを、イエスさまが思ってくださるはずがない」と思い込んでしまいます。その思い込みが、すぐそばにおられるイエスさまを見えなくしてしまうのです。

わたしたちは、自分のこころを浄め、イエスさまを探し求め、近づこうとします。しかし、福音はそれとはまったく逆のことを告げています。わたしがイエスさまを探すよりはるか前に、イエスさまがわたしを探しておられるのです。わたしが見ようとするより先に、イエスさまがわたしを見つめておられ、わたしが救いを求めるより先に、すでにわたしを救い取っておられるのです。ですから、わたしたちは「どこにイエスさまがおられるのか」「どうすれば救われるのか」と思い悩み、自分の至らなさを嘆き悲しむ必要はないのです。むしろ、すでにイエスさまに見いだされ、救われていることに気づき、そのことを喜ぶのです。この真実のイエスさまに出会うこと、それが回心なのです。

しかし、わたしたちは一度イエスさまに出会ったなら、その後は決して迷わなくなるわけではありません。イエスさまのことを忘れてしまうこともあります。愛と憎しみ、疑いと不信に振り回され、相変わらずイエスさまから逃げ続けることさえあります。それでも、イエスさまはわたしたちをお忘れになりません。逃げ続けるわたしたちをなおも探し求め、「わたしはあなたとともにいる」と呼び続けてくださっています。わたしたちがイエスさまを忘れることがあっても、イエスさまがわたしたちを忘れられることはありません。わたしたちがイエスさまから離れても、イエスさまがわたしたちから離れることはないのです。

この真実のイエスさまと出会ったとき、わたしたちの口から「あなたはメシア、生ける神の子です」という信仰告白が生まれてくるのです。それは、わたしたちが自分の力でイエスさまについて正しい答えを見つけたということではありません。わたしたちが逃げ、背き、自分に都合のよいイエスさまだけを求めていても、それでも「わたしはあなたとともにいる」と呼び続けてくださるイエスさまに気づかされたとき、その信仰告白がわたしたちの口から生まれてくるのです。

だからこそイエスさまはペトロに、「あなたにこのことを現したのは人間ではなく、天の父だ」といわれたのです。ペトロの信仰告白の根底には、ペトロ自身の力ではなく、先に働いておられる神さまの恵みがあるのです。わたしたちも、このような真実のイエスさまと出会うように呼ばれているのです。

年間第20主日 勧めのことば

年間第20主日 福音朗読 マタイ15章21~28節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の箇所は、イエスさまがというより、初代教会が異邦人宣教をどのように捉えていたかということがわかる箇所です。この箇所は、すべての人の救いか、それとも一部の人の救いかという問いでもあります。ユダヤ教はユダヤ人だけの救いを説いてきました。それに対するアンチテーゼとして出てきたのがキリスト教です。しかし、キリスト教の中で、自分たちと意見が違う人々を異端として排除していくという動きが起こってきます。こうして、イエスさまによって始まった神の国の福音に垣根を作って、神の国を狭めていくようになります。それが、まさに今日の福音のなかで、イエスさまに「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」といわせてしまっていることなのです。この言葉は、イエスさまに由来するというよりマタイの教会の言葉であると思われます。初めに書かれたマルコ福音書にこの言葉はありません。ここに、本来すべての人の救いを説く宗教が、特定の人のための宗教になっていくプロセスを見るような気がします。これが、キリスト教のユダヤ教への先祖返りという問題なのです。どの宗教においても、このような問題が起こってきます。そして、どの宗教においても源泉へ立ち帰る改革がおこなわれてきました。そのような動きは、ときとしては分裂を引き起こしてしまうこともあります。これが人間としての宗教の限界なのでしょう。

わたしたちが救いというものを捉えるとき、先ずはわたしが救われて楽になること、わたしの願いが満たされることしか考えることができません。今日の福音でいえば、カナンの女は、救われ難いわたしたち人類の代表です。そして、この女性はイエスさまとの出会いを通して救われていきます。しかし、同時に「この女を追っ払ってください」という弟子たちの姿は、自分たちは救われた側にいると思い込んで、そこに安住しているわたしたちの代表でもあるのです。つまり、そのような救いに安住している弟子たちも救われ難いわたしたち人類でもあるのです。果たして救いとは何かということが、カナンの女にも弟子たちにも問われているのではないでしょうか。それは今、救いを必要としているのは、他の誰でもないわたし自身であるということに気づかされるということではないでしょうか。

このことは、わたしがわたしというものから解放されるということでもあるのです。わたしは救われた側にいて、あなたも救ってあげましょうというようなものではないのです。そういうふうに考えているあなたこそ、救われなければならないんですよということなのです。自分の救いや自分の幸福を第一に考えていた人たちの中から、本当に苦しんでいる人たちの救いを望むようなこころが生まれてくるはずがありません。大体、多くの宗教は人を救うとか助ける、奉仕することを教えます。しかし、人を救う、助けるという発想は、自分を人を助ける側に置いてしまいます。人を助けることが悪いのではありませんが、人を助けるということを、自分が上に立つこと、自分が救われた側に立つこととして考えてしまうと、そこには我欲が入り込んできます。人を助ける側になるということは、今日の弟子たちと同じです。自分が救われた立場にいて、上に立って、そこに安住して人を救おうとします。これはイエスさまのこころではありません。どこまでいっても救われた人と救われていない人の壁を作り出していくことに他なりません。自分は信仰があるとして、話をしたり、活動したりしている、そして、救われなければならない人の上に立っています。イエスさまの宣教とはそのようなものだったのでしょうか。

多くの宗教は同じ信念、教義を共有して満足し、そこに安住していきます。これはどこまでいっても閉じられた世界、自己満足の世界です。これが本当の救いとはいえません。わたしたちは、結局は自分が安心して満たされたいというところから自由ではありません。これが現実の世界か、来世かの違いだけで、自分の思いを優先していることに変わりはなく、これではどれだけ学んでも、どれだけ祈っても、単なる我欲に過ぎません。自分ひとりが救われて、そこに沈んでいく世界です。そんな救いはイエスさまの救いではありません。ですから、本当の救いは、わたしが思い込んでいる救いからわたしが解放されることなのです。しかし、わたしの救いから解放されるということなど、わたしの力ではあり得ないことなのです。だから、救われるというのは今のわたしの問題なのだということに気づかされること、これが大切なことであることがわかります。

今日の福音の箇所は、初代教会の回心の箇所であるともいわれています。イエスさまに「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」といわせていますが、実はイエスさまのことばを通して、初代教会の中にあったひとつの問題を問うているのかもしれません。イエスさまは、ユダヤ人異邦人、老若男女、身分貴賤の別なく、すべての人の救いのために働かれました。しかし、イエスさまが亡くなり、教会が福音宣教に出ていくとき、自分たちはイエスさまによって救われていて、そこに安住し、そこに人を呼び込むという動きが頭をもたげてきたのではないでしょうか。そして、救われたものと救われていないものを区別し、グループを作っていったのです。しかし、イエスさまは、ご自分を救われたものの立場に身を置かということはされませんでした。イエスさまの生涯、特に十字架はユダヤ人には決して課されることがない、もっとも不名誉な呪われたものの死でした。つまり、イエスさまはもっとも救われ難いものとしてその身を置き、呪われたもの、罪と悪を一身に受けて、救いから除外されたものとして死んでいかれたのです。

そのことに、初代教会は異邦人の宣教という局面において、わが身のあり方をイエスさまから問われていったのではないでしょうか。ああ~イエスさまはそうではなかったのだ、ということに気づかされ回心していった出来事、それが今日の箇所なのです。イエスさまの道は、自分をもっとも救われ難い身に我が身を置き、人々とともに陰府に下り、地獄にまで堕ちていくことによって、人類を救っていく道なのです。だから、自分は救われて、天国にいって幸せになりたいなんて思っているわたしの救いが打ち砕かれて、わたしの救いから解放されていくことこそが、わたしの救いなのです。今日、わたしたちもイエスさまのその真実のこころに触れさせていただく恵みを願いましょう。

年間第19主日 勧めのことば

年間第19主日 福音朗読 マタイ14章22~33節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の聖書の箇所は、マタイの教会の抱えていた状況を色濃く反映した箇所であるといえるでしょう。紀元70年に、エルサレムの都がローマ帝国によって滅ぼされ、ユダヤ教は律法主義を中心としたファリサイ派が主流を占めるようになっていきます。同時に、キリスト教はユダヤ教から完全に排除され、異邦人世界へと宣教の目を向けていかなければならなくなります。しかしながら、マタイの教会は、ユダヤ教からの改宗者が中心で、ユダヤ教の伝統を色濃く残していました。ですから、律法主義への誘惑が常にあったのです。律法主義の根本的問題は、律法の遵守によって神から義とされるという自力作善の信仰理解です。簡単にいえば、人間は、自分の力で神に至ることができる、救われるというものです。しかし、人間の力で救いに至ることができるのなら、イエスさまも、信仰も不要となってしまいます。そのような、状況にあったマタイの教会の人々に、イエスさまとは一体だれか、人間とは一体何かということを問うというのが、マタイ福音書の大きなテーマとなっています。

この問題は、実は、最も現代的な問題であるともいえます。近代以降、人間はこの世界の支配者として君臨し、人間の力ですべてを解決でき、自分の力で幸せになることができると信じて歩んできました。それは、神抜きの世界を築いてきたということに他なりません。しかし、現実はどうでしょうか。人間中心主義によって推し進められてきた結果、社会の中に様々なひずみ、問題が出てきています。実は、現代の教会の問題も、キリスト教であるといいながら、イエスさま抜きで、人間の力で何とかしようとしていることです。わたしたちも知らず知らずのうちに、イエスさまに委ねるより、自分たちの経験や知識に頼ろうとしてしまいます。イエスさまの名前を使っていますが、本気でイエスさまを必要としているのでしょうか。これはまさに、マタイの教会が直面していた律法主義であり、人間の力で何とかしようとしていることです。人間の力ですべてができるという奢り、そして、そのような自分たちのあり方を疑ってみることもないという、人間の深い闇に対する無自覚こそが問題なのです。そのような、状況を押さえて、今日の福音をもう一度読んでみたいと思います。

 イエスさまは、このような生き方をしてしまっている弟子たちを、「強いて舟に乗せ、向こう岸に先に行かせ」ようとされます。その舟の中には、イエスさまはおられません。弟子たちの何人かは漁師で、ガリラヤ湖は自分たちの仕事場でした。経験もある、ノウハウもある、自分たちでやれるという自信があるわけです。だから、イエスさまがいないことに不安も感じていなかったでしょう。しかし、突然、想定外の嵐に巻き込まれて、自分たちの経験では何も役に立たない状況に追い込まれてしまいます。海、湖は人間のコントロールできないものの象徴です。これは、今まさに、わたしたちが体験している状況であるといってもいいでしょう。わたしたち人間は生老病死という現実の前には、結局は無力であることを体験させられます。人間の力ですべての病を克服することはできませんし、寿命を延ばすこともできません。さらに、死という現実の前には全く無力です。

現代社会は、人間の力を絶対視して歩んできました。それが現代の大きな潮流となっています。その中で、真の人間性を回復することが、宗教の役割なのですが、宗教の中にまで、その人間中心主義が入ってきています。わたしたちカトリック教会でも例外ではありません。自分たちの信念という信仰があれば、ペトロのように水の上さえも歩けるという奢りに陥っています。自分たちは伝統も、経験も、知識もある。そのため、自分たちの教えだけでわかったつもりになっています。そして、病を癒し、寿命を延ばし、死を克服することが宗教の目的であるかのようなことを教えています。このことが人間の真の姿を見えなくし、人間の愚かさに気付かなくさせてしまうのです。

その現実に気づかせるために、イエスさまは戸惑う弟子たちに近づかれます。しかし、弟子はそれがイエスさまであることがわからないほど、自分の印象に囚われて混乱しています。その弟子たちに、「安心しなさい。わたしだ」といわれます。「わたしだ」といわれている言葉は、神さまがモーゼに現れたときに、告げられた名前です。「恐れるな。わたしがあなたを購った。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたが水の中を渡るときも、わたしはあなたとともにおり、川の中でも、川はあなたを押し流さない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎もあなたに燃え移らない…恐れるな、わたしはあなたとともにいる(イザヤ43:1~5)」と、イザヤ書でいわれている方が、今、目の前におられ、そのみことばが実現しているのです。このイエスさまと出会っていくことを通して、愚かな、わかったつもりになっている自分が破られていくのです。

そのことを信じきれないペトロは、「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いて…」と答えます。考えてみてください。ペトロが自分の信仰で、自分の信念で湖の上を歩いたんでしょうか。そうではありません。大体、わたしたちは救われるということを、自分が楽になること、自分の思いが満たされること、自分の計画が実現することだと考えてしまいます。わたしたちは救いさえも、自分の願いをかなえてもらうことのように考えてしまいます。天国や永遠のいのち、救いはわたしたちが思い描いているようなものではありません。しかし、確かなことは、イエスさまの「来なさい」という声が聞こえるということです。イエスさまは、ペトロに心が整ってから来なさいといわれたでしょうか。嵐のような状況のなかで、ただ「来なさい」といわれたのです。もっと信仰深くになってからとか、こころを準備してからというのではないのです。そんなわたしの状況に一切関係なく「直ちに来たれ」というのが、イエスさまのご命令です。準備して、明日、明後日、1か月後ではなく、「今、そのまま来なさい」というイエスさまのことばが聞こえてくるのです。

このイエスさまのお言葉への信頼がまことの信仰なのです。ですから、信仰の本体はイエスさまのお言葉、ご命令であって、わたしのこころに起こるとか、わたしの努力とか、わたしの信仰の深さではないのです。どうしても救われようがないわたしが救われる、ペトロの力ではどうにもならないことがイエスさまによってなされていく、イエスさまの方からすでに手が差し伸べられていた、これがまことの信仰の意味なのです。信仰とは、来なさいといわれるイエスさまのことばがわたしに届いていることから始まります。信仰は、イエスさまからペトロに向けられたイエスさまの救いの現実、イエスさまからの呼びかけへの信頼なのです。ペトロが疑っていたこころ、信仰薄いこころを頑張って強くしましょう、というようなわたしたち人間の次元の話ではありません。わたしたち人間のこころは、信じると疑うとの間で絶え間なく揺れ動きます。しかし、「来なさい」というイエスさまの言葉が揺らぐことがありません。

そして、わたしのうちにイエスさまを受け入れ、イエスさまが舟に乗りこまれると嵐は静まっていきます。こうして、弟子たちは、浅ましい人間の知識より解放されて、自力で苦海を渡ろうとしていた愚かさに気づかされ、イエスさまの救いの舟に身を委ね、真の信仰へと突破口が開かれていくのです。そして、「本当に、あなたは神の子です」と信仰告白します。その後もわたしたちの愚かさは変わらないかもしれません。苦しいこともなくならないでしょう。しかし、わたしたちに「今、来なさい」、「わたしである」といわれるイエスさまの声が、わたしたちの人生に絶え間なく響いているのです。

8月の予定

■熊本地震の被災地支援の募金を行います。ミサの行われる日曜日に聖堂に募金箱を置きますので、ご協力ください。

■第2日曜日のミサはありません。近隣の教会のミサに与ってください。

■23日㊐は第4日曜日ですが、集会祭儀となります。

■30日㊐は第5日曜日ですが、ミサが行われます。

■聖母マリアの被昇天のミサは、15日㊏10:30から行われます。ミサ後、生きたロザリオを行いますので、ロザリオをご持参ください。

■厳しい暑さが続いています。どうぞくれぐれも無理をされないようにご自愛ください。

災害被災者のための祈り

父である神よ、
すべての人に限りないいつくしみを注いでくださるあなたに、
希望と信頼をこめて祈ります。
災害によって、苦しい生活を送り、
不安な日々を過ごす人々の心を照らし、
希望を失うことがないよう支えてください。
また、亡くなられた人々には、永遠の安らぎをお与えください。
すべての人の苦しみを担われたキリストが
いつもともにいてくださることを、
祈りと行動によってあかしできますように。
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

(2021年2月16日 日本カトリック司教協議会認可)

年間第18主日 勧めのことば

年間第18主日 福音朗読 マタイ14:13-21

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

 今日の福音はイエスのパンの増やしの奇跡です。この箇所を読むときに、わたしたちは5つのパンと2匹の魚がどのように人々の飢えを満たすことができたのであろうかとか、どのようにパンが増えたのだろうかということを考えてしまします。しかし、今日の福音の伝えようとしていることは、人間的に見れば、5千人の飢えを満たすことなど不可能と思われる5つのパンと2匹の魚を、弟子たちがイエスさまに差し出し、イエスさまが手に取り、それを皆にお与えになると、それはすべての人を満たしたということです。

イエスさまが人々の飢えを満たすためには、先ずイエスご自身の存在が必要なことは明らかですが、福音ではもうひとつ大切なことがいわれています。それは5つのパンと2匹の魚です。イエスさまは、弟子たちは「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」といわれます。弟子たちは困り果てて、「ここには5つのパンと2匹の魚しかありません」といい、自分たちがもっているものが何の役にも立たないといいます。しかし、イエスさまは「それをここにもってきなさい」といわれました。それで、弟子たちは5つのパンと2匹の魚をもってきて、それをイエスさまに渡し、イエスさまが手に取って、天を仰いでそれを御父に捧げ、裂いて弟子たちにお与えになります。そして弟子たちが人々にそれを配りました。そうするとすべての人々が満たされました。この出来事をどのように理解するかはいろいろな考え方があります。しかし福音書がわたしたちに伝えたいことは別のところにあります。

ここで大切なことは、弟子たちがイエスさまのところに5つのパンと魚をもっていったということです。つまり、それがどんなにつまらないものであっても、何の役にも立たないように思えるものであっても、それをイエスさまのところへもっていくということです。たとえどんなにつまらなくて、人間的に見れば決して華々しくもなく、価値もなく、かえって恥ずかしくて隠したいと思えるようなものであったとしても、イエスは「それをわたしにところへもってきなさい」といわれるのです。そして、それがイエスさまの手に取られ、御父にお捧げになるとき、それは変えられ、人々を生かすものへと変えられるということなのです。

ミサの中で奉納行列があります。そのときに共同体を代表して、パンとブドウ酒が主の祭壇に運ばれます。このパンとブドウ酒は単なるお供え物ではなく、わたしたちの生活、人生、わたしたち自身をあらわしているのです。「神よ、あなたは万物の造り主、ここに供えるパンはあなたからいただいたもの、大地の恵み、労働の実り、いのちの糧となるものです」。この供え物は、わたしたちの日々の生活の実り、またわたしたちが抱えている日々の生活の糧、それは労苦や、問題、苦しみや悲しみ、わたしの病です。また自分ではどうすることもできない過去に受けた傷や心の闇、そしてわたしたちの罪、わたしたちの人生をあらわしているのです。そして、イエスはわたしたちにいわれるのです。「それをわたしのところへもってきなさい」と。聖堂の入り口で、聖水で自分を清めて、日々の生活の労苦、問題、罪をおいて入ってくるのではなく、それらすべてわたしのところへもってきなさいとイエスさまはいわれるのです。それをイエスさまが受け取り、イエスさまの手によって御父に捧げられるとき、それは光へと、恵みの源へと変えられるのです。これは奉納の意味であり、ミサの意味でもあるのです。わたしたちの人生、生活とミサは別々のものではありません。イエスさまの大きないのちの働きの中に、わたしたちの人生があるのです。

わたしの人生を横において、わたしの人生を素晴らしいものにしてミサに参加するのではないのです。わたしたちの人生そのものをイエスさまの手にお委ねし、わたしたちの人生をミサの奉献をとおして、キリストの現存のしるしとしていただくのです。そのためには、わたしたちが自分の人生をイエスさまにお渡ししなければならないのです。そのとき、つまらないと思えるわたしの人生が、価値がない、否定してしまいたいようなわたしの人生が、イエスさまの手に取り上げられるとき、たとえ問題は解決されることなく、痛みは取り去られないかもしれませんが、わたしの人生はイエスさまのうちに光へと、恵みの源へと変容されるのです。イエスさまは神さまです。こんなに小さな石ころからでも、いのちを導き出すことがお出来になるのです。まさに蓮の花が、高原の清い水から咲くのではなく、じめじめとした泥の中から咲くようなものです。

 今日の福音の箇所がわたしたちに教えることは、イエスがパンを増やされたという単純な話ではありません。イエスさまの手に渡されるのであれば、それがどんなにつまらないものであったとしても、それが人間的に見れば効果をもたらすように見えないものであったとしても、それが罪であったとしても、それはイエスさまが自らの手に取り、御父に捧げられるとき、それは神の現存のしるしとなり、キリストの救いの業に結ばれ、恵みの源となるのです。これがミサとわたしたちの関係なのです。ミサに参加できてよかったというだけではなく、ミサの中でイエスさまとわたしの関係があらわされているのです。大切なことは、イエスが御父にお捧げになることができるように、わたしたちがそれをイエスさまの手にお委ねすることです。よい悪い、大きい小さいは関係ありません。ただ、自分自身をイエスさまの手にお委ねすることです。イエスはわたしたち一人ひとりにいわれているのです。「それをわたしのところへもってきなさい」と。

年間第17主日 勧めのことば

年間第17主日 福音朗読 マタイ13章44~46節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日のたとえ話は、イエスさまのたとえ話を理解していくための大切な視点が描かれています。多くの聖書の釈義や説教では、畑に隠された宝、高価な真珠は神の国であり、わたしたちがすべてにおいてそれを捜し求めなければならないというふうに説明されます。確かに神の国がわたしたちの間に到来しており、すべてにおいてそれを探し求めなさいという主張からすると、そのように解釈されるのが普通でしょう。また、マタイの教会の置かれていた状況から考えると、すべてのものを売り払ってでもそれを手に入れたいと願う、それが神の国なのだと説明するのが当然かもしれません。しかし、普通ならそんなに素晴らしいものであれば、どんなことをしてでも手に入れるということは、理屈にかなっており、そのことに誰も反対する人はいないでしょう。でもよく考えると、誰もが納得できる話をなぜわざわざ、イエスさまはたとえ話で話す必要があったのでしょうか。人々に神の国の素晴らしさを説明するために、わざわざ、このようなたとえが用いられたのでしょうか。そのままいえばわかるのではないでしょうか。

わたしたちは、このたとえ話の中で、畑を買う、また真珠を探し求めて買うというときの主語を、わたしたちだと思い込んでいるのでないでしょうか。神の国のたとえは、いつも神さまの働き、その神秘をわたしたちには解き明かすために用いられてきました。それであれば、その主語はわたしたちではなく、イエスさま、神さまではないでしょうか。今日は、あらためてイエスさまを主語にして、このたとえを読み直してみたいと思います。そうすると、宝を探す人、商人はイエスさまです。そして、高価な真珠はわたしたちで、宝が隠されている畑も、わたしたちの人生を思い起こさせるのではないでしょうか。事実、イエスさまはわたしたちのために、自分の持っているものをすべて売り払って、わたしたちを買い戻してくださいました。これがイエスさまの十字架の意味です。パウロは、「あなたがたは、代価を払って買い取られた(Ⅰコリ6:20)」「神の畑(同3:9)」なのです、といっています。わたしたちは、イエスさまからみたら高価な真珠、宝が隠されている畑なのです。先々週からの種まきのたとえで、種がまかれている畑、その畑がどのような畑であっても、その土地には種がまかれているということが話されました。その畑が荒れ地で、茨の地で、ごつごつした岩だらけの土地であれば、わざわざそれを買おうとする人はいません。しかし、イエスさまにとっては、わたしたちは皆、宝が隠されている畑なのです。どんなに酷い土地であろうと、また豊かな実りをもたらす畑であろうと、もたらさない畑であろうと、わたしたちの人生は宝が隠されている、つまりイエスさまにとって愛おしい土地なのです。そのことをイザヤは「あなたを創造された主は、あなたを造られた主は、今こういわれる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ…わたしの目にあなたは値高く、尊く、わたしはあなたを愛する…恐れるな、わたしはあなたとともにいる(イザヤ43)」といいました。わたしたちは、かけがえのない価値のある、大切なものなのです。イエスさまは決して、わたしたちを上から目線で救ってやろうというのではなくて、すべてを投げうって畑を買って、自分が泥まみれになって、わたしを探しておられるのです。イエスさまにとっては、わたしは大切なのものなのです。わたしが素晴らしい豊かな土地だからそうしておられるのではないのです。

わたしたちは競争と区別、結果と評価の世界に生きています。だから、競争に勝って選ばれ、より優れたものになり、結果をだして認められなければ価値がないというような価値観を生きさせられています。一般の社会でもそうなのに、宗教の世界にまでその価値観が持ち込まれてしまっています。洗礼を受けて、神さまに選ばれたものにならなければならないとか、たくさんお祈りして、施し善行をして、社会貢献しなければならないとか、もちろんそれらのことは素晴らしいことには違いありません。しかし、そのこととイエスさまがわたしたちを愛されておられることとは関係もありません。イエスさまは、わたしがしたこと、しなかったこと、わたしが罪人であったか、なかったかに関係なしに、わたしを愛し、大切にしてくださるのです。イエスさまは、わたしをわたしであるということだけで、わたしを愛しておられるのです。そのために、自分のすべてを売り払って、血を流して、わたしを探し求め、わたしを買い戻してくださった、わたしたちを地獄の淵から引き出し、解放してくださったのです。それは、わたしたちが魂の深みにおいて、愛され、受け入れられ、認められ、大切にされることに飢えかわいているからなのです。なぜなら、わたしたちは拒否され、拒絶され、傷つけられ、心のうちに寂しさと孤独、絶望と闇をかかえていることを、イエスさまはだれよりもよく知っておられるからなのです。イエスさまは神さまなのです。わたしたちに何が本当に必要なのかを知っているのは、わたしではなく、イエスさまなのです。

イエスさまはこのご自身の愛を全人類に知らせるために、たとえで話すしかないのです。なぜなら、わたしたち人間が、今まで体験したことも、考えたこともない愛をそのまま話してもわかるはずがありません。だから、イエスさまは神の国をたとえで語られるのです。それが、宝が隠された畑、高価な真珠のたとえなのです。そして、イエスさまは、真実の愛を具体的に知らせるために、わたしと同じ人間となって、血を流して、十字架にかかられたのです。それは、そこまでしなければ、競争社会を生きさせられ、結果を出すことを求められ、駆け引きの世界で生き、拒否され、拒絶され、傷つけられて、傷ついて、“それが世界のすべてだ”と思い込んでいるわたしたち人類に、真実の愛を伝える方法が見つからなかったのです。

神の国が素晴らしいからそれを手に入れるために頑張りなさいというのであれば、だれでもわかります。そして、そのように教えることで、イエスさまの話をわかっているつもりになっている、それならこの世の競争原理と何ら変わりません。わたしたちは、イエスさまのことをわかっていると思い込んでいる、しかし、実はイエスさまのことをわかっていない、そのずれに気づいていないのです。わたしたちはイエスさまにあわれんでもらうことしかできない、あわれな、愚かな罪人なのです。イエスさまの本当の愛が知らされることで、わたしたちは自分の本当の罪、無知について知らされます。本当の罪とはこのイエスさまの真実を知らないで、駆け引きでイエスさまと何とかやり取りをしようとしていること、それを信仰生活だと錯覚していることなのです。イエスさまを知らされれば知らされるほど、わたしたちは自分の中にある愚かさ、闇が知らされ、イエスさまにあわれんでいただくことしかない罪人であることが見えてきます。イエスさまを知るということは、自分を知るということであり、自分を知るということは、イエスさまを知ること、イエスさまと出会うことなのです。わたしたちが神さまを探し求める以上に、神さまはわたしをはるかに大きな愛をもって探し求めておられるのです。

年間第13 主日 勧めのことば

年間第13 主日 福音朗読 マタイ10 章37~42 節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の福音は一見すると、イエスさまに従っていくためには、家族をも軽んじるようにいっておられるかのように聞こえる箇所です。それでは、イエスさまは家族を捨てなさいといわれたのでしょうか。そうではないと思います。家族もまた神さまから与えられた大切ないのちだからです。しかしわたしたちは、ときに家族や自分のいのちをすべてであると考えて、それを絶対化してしまいます。イエスさまは、もっと深いところにあるいのちに目を向け、そこに根を下ろしなさいといわれているのではないでしょうか。「自分のいのちを得ようとするものは、それを失い、わたしのためにいのちを失うものは、かえってそれを得るのである」といわれています。イエスさまが「かえって得る」といわれたいのちとは何か、人間が生きるとはどういうことかを考えなさいということだと思います。わたしたちは、普通はどのように生きるべきかというふうに考えると思います。しかし、イエスさまが問題にされたのは、いのちとは何か、生きるとは何かという問いです。多くの宗教が何を追求してきたかといえば、このいのちの正体ということだと思います。どのように生きるかであれば、道徳とか人の道の話になってしまいます。そうではなく、生きるとは何か、いのちとは何かという根本的な問題を問われたのです。今日は、イエスさまが「わたしのためにいのちを失うものは、かえってそれを得る」といわれたそのいのちの深みに入っていきたいと思います。

わたしたちがいのちについて考えるのは、人間の死を通してです。わたしたちは日々、誰かの死をニュースで知ります。しかし、もっとも心を揺さぶられるのは家族や友人の死です。特に大切な人の死を経験するとき、わたしたちは大きく影響を受けます。そして、死は大変なものであると想像してしまいます。しかし、自分自身の死については誰も経験したことがありません。なぜなら、わたしが死んだときわたしの意識はないからです。ですから、誰も死が何であるか説明することはできないのです。ただ、この地上の生命体をいのちだと考えているのであれば、わたしたちの身体的生命は必ず死を迎えます。この地上での生命尊重だけを説くのであれば、普通現代人が考えている生命観に留まってしまいます。かといって過去の教会のように、この地上の人生を延長した天国にいくことを目的とする生命観も違うように思います。この地上のいのちを説くにしても、天国でのいのちを説くにしても、それらは決して間違いではありませんが、イエスさまはもっといのちの深みへとわたしたちを導こうとされているのです。それは、イエスさまこそがまことのいのちであり、いのちそのものであるからです。

いのちについては、特にヨハネ福音書が取り上げていますが、そのなかでイエスさまは「わたしは復活でありいのちである。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きているものでわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことがない(11: 25)」といわれました。ここでイエスさまとは何かというと、イエスさまが本当のいのちであり、いのちそのものであるといわれています。このいのちというのはイエスさまの個人のいのちではなく、小さな自分を捨てて自分を与えて生きているイエスのいのちを指しています。そしてこのいのちは死なないといっておられます。自分がこれがいのちだと思っている小さな身体的ないのちにしがみつくのをやめたら、死んでも死なないといわれるのです。そして、死んでも死なないゆえんのものを見出していくことが宗教だといえると思います。

ですから、本当のいのちを生きるということは、イエスさまを信じること、その大きないのちに自分をまかせることであるといわれています。本当のいのちとは、死後のいのちではなく、わたしたちが今生で生きている生命活動でもなく、今、わたしが生かされているところのいのちを生きること、信じるとはそのいのちをいただくこと、そしてそのいのちを生きて、大きないのちそのものの根源に帰っていくことであるといえると思います。ですからイエスの弟子となることは、単に教えを学ぶことではなく、イエスさまの生き方、そのいのちのあり方に自分を重ねていくことなのです。

まことのいのちは、イエスさまの生き様に現されています。そのいのちは、個体のうちにある生命現象を超えていくというところにあるのです。つまり、本当のいのちというものは、自己の中に留まらず、個体の外に溢れ出ていくところにその本質があります。神のいのちの本質は愛ですから、愛は自分のすべてを絶え間なく与えることにあります。ですから、まことのいのちそのものであるイエスさまは、自分のいのちを他者に与えるということにおいて、自分を十字架に釘付けにするということにおいて、いのち本来の姿を生き抜かれます。ですから、イエスさまにおいては生きるとは、自分のいのちを失うこと、自分のいのちを捨てること、自分を超えていくことであるといえるでしょう。わたしたちも、わたしの個体だけがいのちだと思っている限り、本当のいのちを知ることはできません。死んでしまったらお終いだという考え方も、死んでから魂は天国にいくという考え方も、いのちを自分のものとして握りしめ、個人の小さな枠の中に閉じ込められたものだけを考えているように思えます。いのちを自分の中だけに閉じ込めて握りしめるのではなく、自分という枠を出て、自己を超越していくことによって初めて、本当のいのちになるのだということではないでしょうか。

実は、わたしたちはこのいのちのあり様を知っているはずです。なぜなら、わたしたちはそのいのちを生きているからです。どこまでも生きたいと願うのはわたしですが、わたしは自分という小さな枠を出ていくことの大切さも知っています。イエスさまがそれをはっきりと教えてくださいました。そして、わたしたちはそのことを生まれながらに知っているのです。とっさのとき、わたしたちは自分のいのちを守ろうとします。しかし、同時に自分のいのちを省みず他のいのちを守ろうともします。危機のときに己のいのちを顧みず見ず知らずの誰かを助けようともする、これが人間なのです。わたしたちのうちに、すでにいのちの根本的なあり様、まことのいのちの働きが与えられているのです。そのいのちの働きに気づいていくこと、ここに信仰の本質があるのです。そして、この信仰はわたしたちにすでに与えられたイエスさまのいのちなのです。そのいのちはすでにわたしたちの中に愛として働いています。その働きに気づき、そのいのちに身を委ねて生きること、それが今日の福音が招いている広いいのちの世界、イエスさまにおける信仰を生きるということではないでしょうか。

年間第12主日 勧めのことば

年間第12主日 福音朗読 マタイ10章26~33節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の福音は一見すると理解するのが難しい箇所です。「恐れるな」ということばが3度繰り返されます。マタイ福音書の書かれた時代の教会の状況を見ると、ローマ帝国によるエルサレムの都の陥落、神殿の破壊という出来事を体験します。また、ユダヤ教の一派のナザレ派としてやってきたキリスト教ですが、ここに至ってユダヤ教から追放されるという困難を体験します。今までユダヤ教の庇護のもとにあったキリスト教ですが、ローマ帝国の中へ、福音宣教に打って出なければならなくなっていきます。このようなマタイの共同体は、非常に不安定な状況に置かれており、人々の動揺が伝わってくるような箇所でもあります。そのような状況と、イエスさまが12人の弟子たちを福音宣教へと遣わすときのことばとが重なってきます。それで、イエスさまは「恐れるな」といわれているのです。

「2羽の雀が1アサリオンで売られているではないか。だが、その1羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛まで、1本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりはるかにまさっている」といわれます。そして、先週の福音からの続きとして読んでいくと、あなたがたは神さまから憐れまれ、慈しまれている、だから恐れることなく大胆にそのことを宣べ伝えるようにいわれます。そして、この個所はイザヤの預言の個所とも響き合っています。バビロン捕囚にあるユダヤ人たちに、希望を捨てないように呼びかけている箇所です。

「イスラエルよ、あなたを造られた主は、今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。わたしは主、あなたの神、イスラエルの聖なる神、あなたの救い主…わたしの目にあなたは価高く、貴い。わたしはあなたを愛し、あなたの身代わりとして人を与え、国々をあなたの魂の代わりとする。恐れるな、わたしはあなたとともにいる(イザヤ43;1~5)」

マタイ福音書の一貫したテーマは、冒頭に出てくるインマヌエル「神はわれらとともにおられる」(1:23)、そして最後に出てくる、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいる」(28:20)です。つまり、イエスさまはどのような状況においても、わたしたちとともにおられるということが強いメッセージとなっているのです。イエスさまの時代もいつの時代も、わたしたち人間は皆、様々な状況を抱えています。病気、天災、災害、老い、死から始まって、人間関係や社会や家庭生活の中で起こる様々な出来事など、わたしたちを不安にさせることに事欠きません。そのような状況の中で、自分たちの力でなんとかできることはごく限られており、わたしたちは無力でなすすべをもちません。そのような状況の中で、わたしたちを不安と恐れから解放してくれるものは何でしょうか。医療や制度や家族の支えは大切です。しかし、それらによってもなお解決できない多くの苦しみがあります。そして、もっとも苦しい現実として、苦しんでいる人に誰も代わってあげることができないということです。わたしの苦しみ、痛みはわたしだけのものであって、誰もそれを本当の意味で理解することはできないということです。

ヨハネの手紙に次のような箇所があります。「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。わたしたちが愛するのは、神がまずわたしを愛してくださったからです(Ⅰヨハネ4:18,19)」。どのように困難な時でも、自分を抱きしめ、愛してくれる誰がいれば、たとえ問題は解決しなくても、わたしたちは少し安心していられます。わたしたちが何かを恐れるのは、自分がひとりぼっちだと感じ、世界からも人からも見捨てられ、自分は罰せられていると感じるからではないでしょうか。わたしたち皆は弱いので、不安になったり、心配になったりする。事がうまくいかないとき、失敗としか思えないことが現実として起こってくる。この世界からすべて否定されたように感じる。自分の力ではどうすることも出来ない現実が起こってくる。そのようなことを全て分かったうえで、イエスさまはわたしたちのところへ来られます。イエスさまは、わたしたちを裁くためではなく、わたしとともにいるために来られたのでした。確かに、苦しみがすぐに取り去られるとは限りません。しかし、苦しみの中にわたしを一人で置き去りにされることはありません。一見、何にもしてくださっていないように感じるかもしれません。唯、わたしの横で手を取ってともに泣いてくださっているだけかもしれません。しかし、それでも、イエスさまはわたしとともにいたいと望まれました。しかも、わたしが望んだのではなくて、イエスさまがわたしとともにいたいと望まれたのです。今日の福音はその真実が前提にあるのではないでしょうか。だから、恐れることはないといわれるのです。なぜなら、イエスさまはわたしたちのいのちの主でおられるのですから。

 

わたしたちキリスト者に、イエスさまのこの慈しみの働きを宣べ伝えるように招かれているように思います。決して大きなことをすることではありません。わたしの身近にいる人たちの支えになること、ともにいること。また、わたしたちも誰かに支えてもらうこと、ともにいてもらうこと。そのようなお互い様の世界をイエスさまは望んでおられたのではないでしょうか。わたしたちがイエスさまと出会い、知らせていただいたのはそのためではないでしょうか。今日の福音の「恐れるな」という言葉は、単なる励ましではありません。「わたしはあなたとともにいる」という神さまの約束に支えられた言葉なのです。イエスさまがまずわたしとともにいてくださる、だからわたしたちもともにいることができるのです。

 

年間第11主日 勧めのことば

年間第11主日 福音朗読 マタイ9章36~10章8節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の福音はイエスさまが、12使徒を選び、福音宣教に派遣される箇所です。イエスさまが、12人を選び、福音宣教へと派遣されるのは、人々が「飼い主のいない羊のように弱り果てて、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれ」たからです。そのために「汚れた霊に対する権能をお授けになった」とあります。12使徒の選びと派遣の目的は、イエスさまの深い憐れみです。12人は、自分から志願して使徒になったわけではありません。ただイエスさまの使命を果たすために、イエスさまが呼ばれたのです。

イエスさまはすでに町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやしておられました。イエスさまをそのような行動に駆り立てたのは、人々への深い憐れみでした。聖書の中で「深く憐れんで」ということばは、スプランクニゾマイという有名な言葉で、その大半はイエスさまの人間への憐れみのこころの動きを表すために使われています。日本語にも「断腸の思い」という表現がありますが、その言葉は「子どもを失い、悲しみのあまり死んでしまった母親の腸がズタズタにちぎれていた」という故事成語に由来しているといわれています。単に気の毒に思うとか、同情するという感傷的なこころの動きよりももっと強い言葉です。よく知られたところでは、放蕩息子を迎え入れるお父さんのこころをあらわすために,また善きサマリア人のたとえにも出てきます。憐れむということば自体が、少し上から目線な印象をもってしまうかもしれませが、聖書をよく読み込んでいくとそうではないことがわかります。

放蕩息子を憐れに思う父親も、半殺しの旅人を思うサマリア人も、子どもを憐れむのはあるべき父親の姿だからだとか、困っている人を助けるのは隣人愛の掟だからそうしたのではありません。そこには、いずれも「憐れに思い、近寄って」と書かれています。ですから「憐れに思い」と「近寄る」のは同時なのです。憐れに思って、これはすべきことだからと頭で考えて近づいたのではないのです。相手の現実を見て、思わず駆け寄ったというか、体が動いてしまったということだと思います。この感覚はわたしたちもわかるのではないでしょうか。例えば道で誰かが倒れている人がいたら、この人を助けることは、教会が教えているからとか、キリスト者は隣人愛を実行しなければならないからとか、そんなこと誰も考えません。その前に、体が動き、手が出てしまいます。隣人愛の掟も理屈もありません。わたしたちはなぜそのように頭より先に、体が動いてしまうのでしょうか。それは、わたしたちが深いところでつながっているからではないでしょうか。そして、同じ神のいのちによって生かされているからなのです。だから、そのいのちが発動するのだといってもいいかもしれません。宗教とか道徳の問題ではありません。いのちには、人種も国境も、宗教もありません。誰からいわれたわけでもない、誰から教わったわけでもありません。わたしたちの中に同じ神のいのちが流れているのです。

仏教で利他行というのがありますが、利他というと何か他者のためによいことをすることのように思われていますが、利他行というのは自他を越えた感覚で、もはや自他の区別がないことといわれています。イエスさまの中に自他の区別はありません。ですから、人類の苦しみ、世界の苦しみはご自分の苦しみなのです。ここにイエスさまの憐れみの源があります。これはいのちの感覚であるということができると思います。そして、わたしたちはこのいのちによって生かされているのです。イエスさまが弟子たちにお望みになったのは、単に教えを伝えることだけではなく、その根底にある神の憐れみ、このいのちの感覚を人々に呼び覚ますことだったのではないでしょうか。

実際的には、病や患いで苦しんでいる人たちへの神の憐れみは、汚れた霊を追い出し、病が癒されることによって現れます。現実に苦しんでいる人を目の前にして、神の憐れみを説いても何にもならないでしょう。しかし、聖書の中には、悪霊からの解放、病からの癒しを通して、神の憐れみに出会っていく人々の姿が描かれています。わたしたちは自分が苦しいとき、どうすることもできないとき、その状況からの解放を先ず求めます。人間として当たり前のことだと思います。しかし、使徒の使命は病人を癒し、悪霊追い出すことに尽きるのではないのです。その業を通して、人々がイエスさまの憐れみと出会うことに他ならないのです。

今日の第2朗読でパウロは、「しかし、わたしがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」といいます。神さまの憐れみはすべてにおいて先行している、そのしるしとして病の癒し、悪霊からの解放があるのです。わたしたちのすべての状況に先立って、神さまがわたしたちをこころにかけ、わたしたちのために苦しみ、悩み、痛んでおられる、その神の憐れみがよい知らせ、福音であり、それが神の国なのです。確かに、すべての人が癒され、すべての人が悪から解放され、この世から死がなくなるわけではありません。しかし、すべての人間の現実に先立って、神の慈しみ、憐れみがあり、今すでにその神のいのちが与えられている、わたしたちは神のいのちをともに生きているのだという真実、それが福音であり、神の国なのです。12人の派遣は過去の出来事ではありません。わたしたちにも、その同じ神のいのち、その神の憐れみが注がれています。その憐れみに触れたわたしたちは、その神の憐れみの証人、使徒となるように呼ばれているのです。

キリストの聖体 勧めのことば

キリストの聖体 福音朗読 ヨハネ6章51~58節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

三位一体の主日の翌週である今日は、キリストの聖体をお祝いします。三位一体のお祝い日は、わたしたちを生かしている大いなるいのちの働きについて黙想しました。わたしたちの信じている神さまというのは、遠いどこか、雲の上の天国におられる神さまではなく、わたしたち生きとし生けるものを根底において支え、わたしたちをそのいのちで生かしておられる方であることを味わいました。ですから、神さまといってもどこかに他所におられる方ではなく、神さまがわたしを包み込んでおられる、と同時にわたしの内にも神さまがおられる。あたかも海の魚を大海が包み込んでいるかのような、またその魚を海が満たしているように、大きな神さまの中にわたしがいて、そしてわたしを神さまが満たしておられるといえばいいのかもしれません。そして、絶え間なくわたしを支え、いのちを与えておられる。それも、ご自分のいのちを与え、失うことによってわたしたちを生かしておられることを、イエスさまの生涯、特に受難、死、復活によって示してくださいました。そのことを聖体の祝日として祝います。

わたしたちのからだを構成する細胞は、一日に何億個もの細胞が死んで新しい細胞に生まれかわります。わたしたち個体は古い細胞が死ななければ、わたしたちのいのちを保つことはできません。つまり、死があってはじめて生があるというのが、いのちの本来の姿なのです。ですから、わたしたちが生きるということは、いつも死と一緒に生きているのです。この地球自体も、過去からの無数の生きものたちの死体が積み重なって出来ており、わたしたちはお墓の上に生活しているようなものです。化石燃料にしてもそうで、わたしたちは死者によって生かされているのです。このように、わたしたちは他のいのちによって生かされているのです。ですから、わたしたちは決して自分ひとりで生きているのではありません。わたしたちはいのちを分け合っていくことによってしか、生きていくことはできないのです。この地上において、すべての生きとし生けるものは自分以外の他のものからいのちをいただくことによってしか、そのいのちの営みを続けていくことはできないのです。

そのわたしたちが、そのいのちを保つための根本的な行為が食べるということです。食べなければ死んでしまいます。昔は、食べられなくなるとお迎えがくるといったものです。そして、わたしたちが食べるということは、必ず他の生きものからいのちをわけてもらうことなのです。しかし、知性をもった人類だけが、必要以上のいのちを狩り、搾取し、強奪し、乱獲するようになってしまいました。そして、その欲望はとどまるところを知りません。その欲望は、わたしとわたしの親しい周りの人以外のすべてのいのちに向けられていきます。それが人間に向けられていくとき、富の独占と搾取という形態を取り、貧困、飢餓、戦争にまで発展します。わたしは決してそういうことをしませんとは誰もいえなのです。わたしの中にある自己中心性というものが、ありとあらゆる問題を引き起こしているのだということに気づく必要があると思います。わたしがよい人間だから、キリスト者だから殺さないのではないのです。それはたまたまであって、わたしという人間は、状況が変われば百人千人でも殺す身となるのです。わたしたちは状況や立場が変われば、殺す身にもなり、また殺される身にもなるのです。

こうして、わたしたちは、イエスさまを2千年間食べ続けているのです。それなのに、わたしたちはまだ何もわかっていないのではないでしょうか。ここまで食べても、まだ食べ続けようとするのです。わたしは決して食べられる側にはまわろうとはしないで、食べつづける側に居続けようとするのです。どうして、これをおかしいと思わないのでしょうか。イエスさまを食べ続けて、ミサに与って、それをお恵みだという、こんな身勝手なことがあるでしょうか。わたしたちはどうして、「イエスさま、どうぞわたしをお食べください」といえないのでしょうか。わたしは何と惨めな人間なのでしょうか。

しかし、この惨めなわたしたちをイエスさまが解放してくださったのです。イエスさまはわたしたちを責めるのではなく、そのわたしたちにご自分のからだを裂いて、血を流して食べ物として与え、わたしにご自身を食べさせることによって、わたしたちのいのちとなり、わたしたちのうちにご自分のいのちを注いでくださいました。その真実に触れた人々が、おこなうようになったのがミサ、感謝の祭儀です。

聖体の祝日とは一体何でしょうか。イエスさまがわたしたちのための食べ物、飲み物となってくださったことを記念して感謝します。もちろんそうでしょうし、ミサはお恵みでしょう。しかし、同時にわたしたちは平気でイエスさまを食べ続けている、どこまでいっても自己中心な愚かな己に、思いを致すことを忘れていないでしょうか。でなければ、ミサは感謝の祭儀でなくなってしまいます。ご聖体をいただいて当然、いただくことがお恵み、説教がわからなくてもご聖体をいただけたらラッキーという、自分勝手な思いから、わたしたちは出ることはできないのです。今日、わたしたちは改めてわたしたちの愚かさ、闇の深さを思い起こしたいと思います。そして、それにもかかわらず、わたしたちのことを決して諦めることなく、わたしたちに自分を与え続け、養い続けようとされるイエスさまの思いを受け取りたいと思います。そのイエスさまの願いは、わたしたちにいのちの本来の姿を生きてくれよという願いそのものなのです。わたしたちを生かしているのはイエスさまのいのちで、わたしたちの中にそのいのちが流れています。だから、わたしたちはそのいのちに目覚めることができるのです。そして、そのいのちの目覚めを体験したマザーテレサは、「イエスさま、今日一日、どうぞわたしをお使いください」といったのです。

三位一体の主日 勧めのことば

三位一体の主日 福音朗読 ヨハネ3章16~18節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

わたしたちは、主の復活、主の昇天、聖霊降臨を通して、わたしたちを生かし、動かしている大きないのちの働きを黙想してきました。そして、今日、わたしたちは三位一体の主日を迎えます。今日の集会祈願では「聖なる父よ、あなたは、みことばと聖霊を世に遣わし、神のいのちの神秘を示してくださいました」と祈ります。わたしたちを生かし、動かしている大きな働きは、実は三位一体のいのちであったというのが、今日のお祝い日の意味です。それで、今日は「神のいのちの神秘」を祝うのだということが分かります。そのことをご一緒に見ていきましょう。

三位一体のお祝い日は、御父による神のみことばと聖霊の派遣によって、神のいのちの神秘を示してくださったということがいわれています。そのいのちの本質は、自分自身を出ていく、自分自身を与えていく、溢れ出ていく、自分自身を超えていくところにあるといえます。つまり、このいのちは、わたしという個体のいのちが個体以上のものになっていく、個体の外へあふれ出ていくところに特徴があるといえるでしょう。そのもっともわかりやすい例は、すべて生命体は自分のいのちというものを超えて、次の世代にいのちを受け渡していくということです。いのちは、自分という枠組みを壊して、自己という輪郭の外へと溢れ出ていこうとするのです。それを多くの生命体は、わが子を生み養い育てていくこと、そして自分のいのちを子に与えていくこと、また自分の死として生きています。

と同時に、このいのちは自分が生きているいのちですから、あまりにも当たり前で、自分では意識することがないほどあたりまえとなっている現実でもあるということです。海の中にいる魚は、自分が泳いでいる海というものを意識することがないのと同じようなものです。このようにわたしたちを生かし、わたしたちを超えて、またわたしたちを包み込んで働いているこの大きないのちのありさまを、父と子と聖霊、三位一体とわたしたちは呼んでいます。このいのちは単なる宇宙エネルギーとかではなく、わたしたちを愛し、呼びかけ、わたしたちに関わってこられる神ご自身なのだということです。

そして、そのいのちが限られた個体の中に宿るとき、わたしたちはそのいのちを生身のものとして認識することができるのです。この神ご自身である大いなるいのちが、地上の限りある人間として宿られたのがイエス・キリストです。ですから、イエスさまは人間によって知られることとなられた神、わたしたちに人格的にかかわってくるいのちの主なのです。ご自身がいのちそのものであるのにもかかわれず、限りある人間となって、その生きざま、死にざまによって、わたしたちにいのちの神秘を具体的に示してくださいました。

そのイエスさまが第一にいわれたことは、いのちを生きている大自然に聞くことでした。「野の花を、空の鳥を見なさい」ということが代表的ですが、さまざまな自然界のたとえ話を話されました。成長する種のたとえ、種まきのたとえなどです。そして、次にはいのちを生きている人間の姿をさまざまなたとえ話で教えられました。よきサマリア人のたとえや放蕩息子のたとえなどです。そして最後には、ご自分の生きざま、死にざまを通していのち本来の姿を示されました。それがイエスさまの受難、死、復活です。それによって、いのちは自分のいのちを他に与えることによって、本来のいのちになるのだということをはっきりと示されました。イエスさまが「友のためにいのちを捨てることこれ以上に大きな愛はない」といわれたことです。イエスさまの十字架はまさにその言葉を生きることでした。イエスさまは十字架の死を通して、いのちをこの世界に与え、いのちそのものとなれらました。これがイエスさまの復活です。

わたしたちはそのことが大切であるということを知りながらも、先ずはわたしのいのちの安泰を考えてしまいます。それは人間である限りそうなのです。そして、わたしが一日でも長く生きながらえるためであれば、他のいのちを利用してもかまわないという考えが、今、世界を支配しています。最後の最後まで自分のいのちを握りしめているのが人間なのです。しかし、それはいのちの本来の姿ではないのです。

宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」の中に「蠍の火」という話がでてきます。普段は他の虫を取って食べている蠍が、いたちに追いかけられて井戸に落ちてしまいます。そして、そのときになって、蠍は自分の身勝手さに気づきます。そして、蝎は井戸で溺れかけて次のように祈ります。「ああ、わたしはいままでいくつのもののいのちをとったかわからない、そしてそのわたしがこんどはいたちにとられようとしたときはあんなに一生けん命にげた。それでもとうとうこんなになってしまった。ああなんにもあてにならない。どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちにくれてやらなかったろう。そしたらいたちも一日生きのびたろうに。どうぞ神さま。わたしの心をごらんください。こんなにむなしくいのちをすてずどうかこの次はまことのみんなの幸いのためにわたしのからだをおつかいください」と祈ります。そしたら、蠍は自分のからだがまっ赤なうつくしい火になって燃えて夜のやみを照らしているのを見ます。いのちの危機に瀕したとき、蠍に自分のありのままの姿に気づかせ、そして蝎をもってそのように祈らせたのは一体何なんでしょうか。それは蝎ではなく、蝎を生かしているいのちだったということができるのではないでしょう。そのいのちは、すべてのものを生かし、すべてのものの中に等しく流れている大いなるいのちなのです。そして、そのいのちが蠍の中にも流れ、わたしたちの中にも流れているのです。

自分さえよかったらいいと思いで生きてきた蝎が、死の間際に井戸の中で自分のいのちに目覚めさせたその働きを聖霊というのです。誰かに教えてもらったわけでもなく、本を読んでわかったのでもありません。蠍は、自分の内に流れているいのち、神のいのちに目覚めたのです。

三位一体とは、わたしたちと関係のない教えではありません。父として、わたしたちを生かし、子として、わたしたちのただ中に来られ、聖霊として、今もわたしたちの内に働いておられる、そして、そのいのちを他に与えるように呼びかけ働いている、それが三位一体のいのちなのです。わたしたちはこの三位一体のいのちの還流のただ中にいるのです。わたしたちは、そのいのちに生かされています。そして、そのいのちを生きています。さらに、その深みに目覚めよと呼びかけられているのです。わたしたちは、今すでに三位一体のいのちの中に生かされているのです。

聖霊降臨の主日 勧めのことば

聖霊降臨の主日 福音朗読 ヨハネ20章19~23節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

わたしたちは50日間にわたって、イエスさまの復活を記念してきました。そして、今日、イエスさまの復活の頂点でもある聖霊降臨を祝います。イエスさまの復活は、わたしたちを存在の根底から生かしている大きないのちの姿を、わたしたち人類にイエス・キリストという出来事を通して示されたことであったといえるでしょう。そして、そのいのちの本来の姿をわたしたちに気づかせ、わたしたちがそのいのちを生きるようにとの呼びかけであるともいえるでしょう。その大きないのちの姿は、自らのいのちを他のものに与え、己のいのちを失うことによって、そのいのちの本質を生きるというものです。そのことをイエスさまは、先ず大自然のいのちの営みを通して教えられました。「野の花、空の鳥を見なさい」と。野の花も、空の鳥も、この世界からいのちを受けて生かされ、またこの世界に自らのいのちを与えながらいのちを全うしていきます。つまり、死と再生という大きな生命の循環を生きることで、この大いなるいのちを生きているのです。空の鳥は、この地上の花や木の実、虫たちからいのちをもらい、そのいのちを次の世代に繋いでそのいのちを全うし、あるいは天敵にそのいのちを奪われることで他のいのちとなっていきます。野の花も同じことでしょう。

仏教のお釈迦様の前世譚に月のウサギという物語があります。手塚治虫のブッダでは、昔、森にウサギ、クマ、キツネが住んでいたということになっています。ある日、帝釈天がみすぼらしい旅人の老人の姿で現れます。今にも倒れそうなおじいさんを見て、皆は食べ物を探そうということになります。動物たちはそれぞれ、クマは魚を、キツネは木の実などを老人にもってきました。しかし、ウサギは何も探すことができません。そこでウサギはおじいさんに「火を起こしてください」といいます。そして、「わたしには差し出せる食べ物がありません。どうかわたし自身を食べてください」といって、自ら火の中へ飛び込みました。帝釈天はその尊い慈悲と自己献身に心を打たれ、ウサギを永遠に伝えるためにその姿を月に映したという話です。本当に尊いものは、力や所有することではなく、自分を分かち合うことである、というのがブッダのテーマになっています。何もこれ以上説明する必要がないほど明らかな、いのちの本質の姿を描いています。これがいのちの本来の姿なのでしょう。このいのちの本来の姿をイエスさまは、ご自分の生涯、特に受肉、受難、死によってわたしたちに見せてくださいました。ウサギは夜空を照らす月となったように、イエスさまのあのような生きざま、死にざまが、復活としてあらわされたということではないでしょうか。そして、今日祝う聖霊降臨は、このいのちの働きが、わたしたちを生かし、その働きがわたしたちのうちにすでに働いていることを記念するのです。

わたしたちが生きているということは、わたしたちのうちにこのいのちが与えられ、その働きが及んでいることを意味しています。今日の第2朗読の中で、聖霊はわたしたちを生かす働きであると述べられています。聖霊は、洗礼を受けた人にだけ働いているのではありません。聖霊はすべての生きとし生けるものを生かし、わたしたちを夫々の場において生かしています。そして、聖霊は、わたしたちを夫々の場において、他のものを生かすための賜物として働いているのです。これこそが聖霊の賜物なのです。聖霊はわたしたちが生かされている夫々の場において、家族、地域、国、制度に留まらず、この世界中でこの大自然の一員として、宇宙の中におけるわたしとしての場へと遣わしているのです。夫々の役割や場は違っていますが、わたしたちは同じいのちを生きるものとして生かされています。皆夫々違っていて、ユニークな存在であって、夫々の場があります。どの動物も植物も分類することはできるとしても、ひとつとして同じものはありません。それがいのちの豊かさなのです。そして、わたしたちは夫々のおかれた場で、そのいのちをお互いに分かち合いながら生きているのです。それなのに、いつのまにか人間だけがこの豊かないのちを独占するようになっていきました。人や国を支配し、人間以外のいのちにも名前をつけ、それを支配し搾取してきたのです。このいのちは人間だけのものではありません。そして、わたしが“わたしのいのち”といっているいのちも決してわたしのものではないのです。そのことがわからなくなっている、これが人間の罪ということなのです。

イエスさまは、本来のいのちのありさまを語っただけではなく、ご自分を完全に与え尽くすことで、神のいのちそのものを現された出来事が、イエスさまの復活です。そして、聖霊降臨はわたしたちがみな同じいのちによって生かされており、しかもそれぞれの文化、言語、背景、個性をもちながら、それでも同じいのちによって繋がっていることをあきらかにした出来事です。今日の聖霊降臨は、そのいのちの多様性と、わたしたちが同じいのちによって生かされていることを祝います。わたしだけ、特別ないのちをいただいたのではありません。わたしはわたしであって、他と入れ替えることはできません。しかし、そのわたしとわたし以外のものも生かしているいのちは同じいのちなのです。そのいのちに優劣、差別、区別はありません。人間だけが自分を特別視し、他と優劣をつけ区別して優位に立とうとします。動植物はお互いを比べることはしません。

しかしながら、今生で、そのいのちの真実の姿を認識することができるのは人間だけなのです。ですから、わたしたちが心の目を開き、耳を傾ければ、わたしたちは生きとし生けるすべてのものから、いのちの真実を聞かせてもらうことができるのです。わたしたちはこのいのちの真実に目覚め、このいのちを生きていくようにと呼びかけられているのです。だから、わたしだけが救われていくような教えは、イエスさまの教えではありません。わたしひとりだけが救われていくということなど、あり得ないからです。そうではなくて、わたしひとりが救われることと、すべての生きとし生けるものが救われていくことがひとつとなるような出来事、これが聖霊降臨です。それがイエスさまの真実であり、そのイエスさまの真実に出会わせていただくことが、わたしが信仰をいただくということに他ならないです。

聖霊を生きるとは、特別な能力を持つことではありません。今日、自分の前にいる人を、自分と同じいのちを生きる存在として見ることです。自分の利益だけではなく、お互いに生かし合うことに開かれていくことです。そして、自分の思いに閉じこもるのではなく、イエスさまのいのちの真実へ開いていくことです。わたしたちは、自分だけのために生きるとき、かえっていのちを失っていきます。しかし、自分を超えて他を生かそうとするとき、不思議なことに、わたしたちはもっとも深く生かされていくのです。

主の昇天 勧めのことば

主の昇天 福音朗読 マタイ28章16~20節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は主の昇天のお祝い日ですが、主の昇天が何であったかを解説すること自体あまり意味がありません。現代、イエスさまが天に昇っていかれたというのは、明らかに寓意的な表現であるということをわたしたちは知っているからです。主の昇天は、主の復活という出来事を体験した弟子たちが、自分たちの復活体験を表現したひとつの類型であるといえるでしょう。聖書に書かれている出来事は物語であって、現代科学の報告書のように読むものではなく、救いの真実を証しするものです。ですから、物語の背後にあるメッセージ、真実が何であるかを捉えるようにしていかなければなりません。今日の箇所では「弟子たちは…そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑うものもいた」と書かれています。そこで、信じることと疑うこと、これがいったいどういうことかという問題提起がなされています。今日はそのことを深めていきたいと思います。

わたしたちは、福音書にそのように書かれているのを読むと、イエスさまの弟子たちの中にも不信仰なものがいたのかと思い、そうだったのかと不思議に思ったり、別の意味で安心したりします。なぜなら、わたしたちも同じ問題を抱えているからです。わたしたちも信じきれないとか、信仰が薄いとか、信仰が強くならないといって、どうしてどうしてと嘆くのです。また、何か不幸なことがあると、それはわたしの信仰が弱いからだと自分を責めたりします。それは信じるということをわたしのこころの問題として捉え、疑うこともぶれることもない、確固とした信仰に留まるようにならなければならないと思い込んでいるからではないでしょうか。そして、イエスさまの弟子たちは、きっと素晴らしい確固とした信仰をもっていたに違いないと勝手に想像しているのです。

キリスト教では、信仰というと人間の意志の行為を強調しますが、そもそもわたしたち人間が疑いなく信じるということができるのでしょうか。疑いというものがあっても、わたしたちの努力で、疑いのこころが消えて、一心に信じることができるようになるのでしょうか。また、そのようになったとしても、そのような状態を持続することができるのでしょうか。そのような問いが出てくるのは、信仰をわたしのこころの状態だと考えているからです。過去の教会では、教会が教えていることを疑うことは罪で、疑いなどもたないで、そのまま信じるのがよい信者だと教えられてきました。中世ならそれでよかったかもしれませんが、現代では通用しません。なにも考えず、とにかく信じろというのはカルトと同じです。

そのようなことが起こってくるのは、信仰宣言の中でも「わたしは…信じます」というように、信仰の主体をわたしたち人間であると捉えるところからくる問題のようです。信仰を人間のもの、つまりわたしの信仰であると考えると、信仰はわたしの所有物ですから、わたしの力でどうにかできるということになります。だから人間の意志で、つまりわたしの力で、頑張って信仰を強めることができるということになります。しかし実際のところ、わたしの力ではどうにもなりません。それなのにわたしたちは自分の力で何とか信仰を強くしようと頑張るのです。人間の力でどうにもならないと、今度は権力とか権威で強要するようになってしまします。

少し冷静になって自分のこころを見ればわかることなのですが、わたしたちは信じようとすればするほど、疑いが起こってきますし、無理強いすればするほど、反発するこころが起こってきます。頑張って聞いていれば信仰が深まどころか、聞けば聞くほど疑いが深くなるというのが偽らざるところではないでしょうか。わたしたちは自分のこころの中に信仰の確証や救われた証拠を求めようとするのですが、わたしのこころを自分の力でどうこうできないのに、わたしのこころの中にそんなものがあるはずありません。信仰はわたしのこころの問題ではないのです。信仰をそのように捉えている限り、わたしたちは真実に触れることはできません。

大切なことは、そのような不信仰な、こころの定まらないわたしたちにイエスさまが近づいて来られるということです。「イエスは、近寄ってきていわれた…わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいる」といわれました。このイエスさまのことばが真実なのだといえるのではないでしょうか。わたしが信仰深かろうが、不信仰であろうが関係ないのです。わたしがイエスさまに頑張って近づくのではなく、イエスさまが近寄ってきて、わたしとともにいるといわれるのです。このイエスさまの姿、イエスさまの真実が信仰なのです。

信じるという漢字の「信」という言葉は、もとは真理の「真」と同じ意味であるといわれています。信号機という交通標識がありますが、信号機は嘘をつきません。もし信号機が信用できないのであれば、誰も安心して道路を渡れません。そのときの信号機の信は、“真(まこと)”という意味なのです。この信号機は信じられるだろうか、信じられないだろうかと考える人はいません。わたしがどう感じるかに関係なく、信号機はいつも真実だからです。ですから、いつも安心して道路を渡ることができます。わたしがどうしたら救われるだろうか、この方を信じていいのだろかとわたしのこころの中で算段しても、信仰は確固たるものにはなりません。救いはわたしの問題ではなく、イエスさまの専権事項です。「わたしを救う」という名のイエスさまが救うといわれたら、その言葉に二言はないのです。これがイエスさまの真実、イエスさまの信ということです。だから、わたしたちが何であってもなくても関係ないのです。

そのことがわからないので、わたしは救われるだろうか救われないだろうか、わたしのこころで考え続けます。また、わたしはゆるされるだろうかゆるされないだろかと、自分のこころであれこれと考えてしまいます。イエスさまが救う、イエスさまがゆるすといわれたら、それをわたしが本当か本当でないかなどとわたしが算段しても仕方ありません。これではイエスさまを信じているといえません。それならイエスさまを試しているだけであって、これほどイエスさまに失礼なことはありません。

教会は、人間の努力や功徳によって、救われるか救われないか、ゆるされるかゆるされないかが決まるかのように教えてしまいました。そのようにしてきたこと自体が大きな問題です。イエスさまが世の終わりまでいつもあなたがたとともにいるといわれたのですから、それが真実なのです。そのことを疑ってもどうにもなりません。イエスさまはわたしと一緒にいないということはできないからです。それがイエスさまの真実だからです。わたしがイエスさまを信じる、それはわたしの疑いをなくすことでも、わたしのこころを強くすることでもありません。自分の計算や不安や思いを手放して、「わたしは、世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」といわれるイエスさまに信頼をおくことなのです。弟子たちは、疑いながらも、イエスの前に立っていました。わたしたちも同じです。疑いがあってもよいのです。大切なのは、わたしの状態ではなく、イエスが共にいてくださるという事実です。こそが、私たちの信仰の出発点であり、真実なのです。この真実の中に、安心して生きていきましょう。

復活節第6主日 勧めのことば

復活節第6主日 福音朗読 ヨハネ14章15~21節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は、イエスさまが“わたしの掟”についてお話になります。わたしの掟とは何でしょうか。イエスさまの掟とはイエスさまの願いです。それは、イエスさまが愛しておられるように、わたしたちが愛し合うことです。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である(15:12)」といわれました。イエスさまがわたしの掟、新しい掟といわれるのは、実はこの相互愛の掟です。

聖書の中には、神への愛と隣人愛の掟も教えられています。これがあたかもイエスさまの教え、キリスト教の教えのようにいわれていますが、イエスさまはこれをわたしの掟といわれたことはありません。旧約の律法の掟の中でどの掟がもっとも大切ですかと尋ねたファリサイ人に対して、イエスさまは「こころを尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」という神への愛と、「隣人を自分のように愛しなさい」という隣人愛が、旧約の律法の中で一番大切な掟だと答えられました。

しかし、イエスさまは人生の最後、自分の死を前にして、最後の晩餐の席で弟子たちの足を洗い、「主であり、師であるわたしがあなた方の足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合いなさい(13:14)」と教え、さらに「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい(13:34) …友のために自分のいのちを捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である…互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である(15:13~14、17)」といわれました。イエスさまがわたしの掟、新しい掟といわれたのは神への愛、隣人愛ではなくて、相互愛の掟なのです。旧約の律法の掟とイエスさまが教えられた新しい掟は一見似ているように見えますが、根本的に異なっているものなのです。

旧約の律法の掟の出発点は、いつもわたしです。わたしが神を一生懸命に愛する、自分のことのようにわたしが隣人を愛する。出発点はいつもわたしたち人間です。ですから、この掟は人間の倫理道徳の域を出ません。しかし、イエスさまの掟の出発点はイエスさまです。「わたしがあなたがたを愛したように」といわれ、「わたしが自分のことを愛するように」というのとは違います。出発点がわたしたち人間であるのか、イエスさまであるかは根本的な違いなのです。

ですから、イエスさまの掟の主語は“イエスさま”です。イエスさまがされることが、わたしたちのすべてにおいて先行しています。実は旧約も初めはそうでした。しかし、時代が経るに従って人間の思惑で、神中心から人間中心の信仰へと歪められていきました。イエスさまの登場によって、原初のあり方が回復されていくのです。そのイエスさまの第一の願いは、先ずイエスさまがわたしたちを愛することです。なぜなら、イエスさまの本質は愛であり、その愛は神の愛そのものだからです。だから、イエスさまは愛さないでいることはできません。愛と訳されている日本語が適当かどうかはわかりませんが、イエスさまの本質、つまり神さまの本質は愛ですから、愛さないでいるということはできないのです。しかし、愛の本質は、愛することだけでは終わりません。愛することは、愛されることでもあります。愛するだけの愛はありません。それならそれはただの一方通行の、自己本位の愛になる可能性を含んでいます。愛は、愛し愛されることによって初めて成り立つのです。しかし、それだけで愛は完成されることはありません。愛の本質は、自らを与え、それを受けるとるものが受け取り、また受けたものがそれを返すという終わることがない循環だからです。終わることのないキャッチボールだともいえるでしょう。しかし、イエスさまの願いは、先ずこの愛を受け取ってほしいということなのです。

愛を受け取るということは、イエスさまにわたしが愛されること、イエスさまに愛されることをわたしが受け取ること、イエスさまに愛されることをわたしがわたしにゆるすことなのです。わたしたちが何かをしたから、何かができたから愛されるのではありません。愛は無条件です。頑張って愛されるに値するものになったから、愛されるのではありません。イエスさまの中で愛するということは、水が高いところから低いところに流れるように自然なことなのです。わたしたちが考えるような、また教会で勘違いして教えてしまうような、わたしが頑張って神さまを愛するとか、頑張って隣人を愛するというような恣意的なものではなく、もっと自然なものなのです。神さまの本質が愛そのものだからです。本当の愛には力みがありません。愛は恣意的ではなく、水が流れるように自然なことなのです。それは、友人の中で交わされる友情に似ています。ですから、イエスさまの中ではあなたがたを愛してやるんだとか、救ってやるんだというような力みは何もないのです。確かにあるときは、友のためにいのちを捨てるようなことがあるかもしれません。しかし、愛はわたしたちが考えるよりもっと自然なものなのです。そもそも、わたしが愛するんだとかいうのは、恣意的で力が入っていて、愛される側はうっとうしく感じるのではないでしょうか。一歩間違えればストーカーになってしまいます。

イエスさまはお前を救ってやるんだとか、恵みを与えてやるんだとか、そういう上から目線のことをいっておられるのではないのです。今までは、わたしとお前たちは、主人と僕の関係だったけれど、もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人の顔色だけを窺っているだけで、主人の本当の願いを知らない。しかし、わたしはわたしのすべてをあなたに知らせた。わたしの思い、わたしの願いをすべて話した。そして、そのようにあなたがたを愛してきた。だから、あなたがたはもう僕ではない。友である。わたしとあなたはひとつ、一体である。だから、あなたがたはわたしの願いを自分の願いとし、わたしと同じ働きを生きてほしい。そして、その願いに目覚めてほしい。そして、そのものの名前がキリスト者であるということなのです。

そのイエスさまの願いが実現するとき、愛する側と愛される側、救う側と救われる側、助ける側と助けられる側、こちら側とあちら側という区別がない世界が出現するのでしょう。それは、おたがいさまの世界です。もはやいかなる区別もありません。というか、元々の宇宙、世界にはそのような区別などなかったのです。ただ、人間がその区別を作り出してしまいました。これが原罪だともいえるでしょう。

そのような区別が絶えた世界、これを神の国というのです。そこには誰が与える側だとか、奉仕する側だとかという区別がありません。お互いに与え合い、奉仕し合います。そもそも与えるだけでは、“与える”という行為は成立しません。それを受け取る人があって、はじめて与えるという行為は成立するのです。奉仕もそうなのです。どちらが上で下でというようなことはありません。キリスト教は慈善団体やNPO法人ではありません。イエスさまの世界はお互いさまの世界なのです。与えるものになったり与えてもらうものになったり、愛するものになったり愛されるものになったりする、これがいのちのありさまなのです。そのいのちの姿に目覚めさせていただくこと、これがイエスさまの新しい掟なのです。ですから、この掟は新しい掟ではなく、もっとも古い掟、原初からあったお互いさまのいのちのあり方そのものなのです。

復活節第5主日 勧めのことば

復活節第5主日 福音朗読 ヨハネ14章1~12節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の福音は、最後の晩餐の席で、イエスさまが弟子たちのもとを去っていくことをお話になります。それに動揺する弟子たちに、イエスさまは「わたしは道であり、真理であり、いのちである」といわれました。今日はその意味を味わっていきたいと思います。

先ずイエスさまは「いのち」について、ヨハネ福音書の中で次のようにはっきりといわれました。「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたをお遣わしになったイエス・キリストを知ることです(ヨハネ17:3)」と。永遠のいのちとは、わたしたちがイエスさまを知り、信じていることそのものが永遠のいのちであるといわれました。永遠のいのちというと、死後のいのちであるとか、今のいのちとは別に、恵みとして与えられる神のいのちであるとか考えられがちです。また、わたしが努力をして、信仰を深めて、徳を修め、来世でご褒美として与えられるものと思われてきました。しかし、イエスさまははっきりと永遠のいのちとは、「唯一のまことの神であられるあなたと、あなたをお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」といわれました。永遠のいのちとは死後のいのちであるとか、わたしたちが生きているいのちと別のいのちではなくて、今、わたしたちがイエスさまと出会い、生きているその関わりそのものが永遠のいのちであるといわれたのです。

今日の福音でフィリポはイエスさまに、「主よ、あなたがどこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません」といい、「わたしたちに御父を、つまり神をお示しください」といっています。おそらくフィリッポは、永遠のいのちとか神さまというのは、自分たちが生きているところとは別のところにあるものと思っていたのでしょう。しかし、イエスさまはそのフィリッポに「あなたはこんなに長い間、わたしと一緒にいるのにわたしがわかっていないのか」といわれます。つまり、「あなたはわたしとすでに出会っているではないか、わたしと一緒にいるではないか」といわれます。さらに「わたしを見たものは、父を見たのだ」といわれます。イエスさまと出会い、関わり、一緒にいるということは、神さまと出会い、関わったのと同じだといわれるのです。そしてその関わりこそが永遠のいのちであり、それが真理であるといわれたのです。

そして、わたしたちはイエスさまの生きざまを通して、いのちの真実を見させていただいたのです。イエスさまは、「友のためにいのちを捨てること、これ以上大きに大きな愛はない(15:13)」といわれました。いのちの真実のありさまは本質的に自分自身を他に与えていくこと、自分を脱出していくこと、自己忘却にあるというのです。イエスさまはその真実を、ご自分の生き方、特にその十字架の死を通してわたしたちに完全に啓示されたのです。

これはすべてのいのちあるものの法則であり、いのちは自分の個体の中に留まっている限り本来のいのちの姿になりえず、自分の個体を出て個体以上のものになっていくところにいのちの本質があるのです。ですからこのいのちの自己超越こそが、いのちの特徴であるのです。わたしの個体だけがいのちだと思っている限り、本当のいのちを知らないということになります。つまり、自分のいのちのありさまに拘っている、自己中心性にとどまっている限り、本当のいのちを知らないのだといえるでしょう。いのちの本質は、個体を超えて、自分を出て他になっていくところにあるからです。ですから、いのちは自分という自己中心性の殻を破っていくこと、究極的には死を通して、他を生かすいのちとなっていのちをつないでいくところにその本質があるのだといえるでしょう。そして、そのいのちのダイナミズムは永遠であるということなのです。ですから死は自己の消滅ではなく、与えることによる変容であり、大きないのちのうちにおける完成であるといえるでしょう。これがイエスさまの復活です。このいのちの真実を、イエスさまを通して啓示していただきました。

このいのちの根源的な感覚は死にたくないということです。でも、死にたくないというのは、いのちの本質は永遠であるということの裏返しでもあるのです。イエスさまは「野の花、空の鳥を見なさい」といって、自然にいのちを生きている大自然に学びなさいといわれました。しかし、いのちの真実に対して目が閉ざされているわたしたちに対して、いのちの本質を見せるために、イエスさまはあのように死んでみせたのです。いのちの真実を見なさいと。

そして、この本当のいのちを発見していくための入り口は自己譲渡であるといわれました。「一粒の麦は地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ(12:24)。」 これがいのちのありさまであり、いのちの真実なのです。野の花も空の鳥も次の世代にいのちを渡し、いのちをバトンタッチしていきます。その個体のいのちは滅びるように見えますが、そのいのちは確実に受け継がれていきます。ですから、いのちそのものは永遠なのです。このあたりまえのいのちのありさまを妨げているのが、人間の罪、エゴイズムなのです。

旧約までは、人間は個体のいのちが永らえることが神さまからの恵み、祝福だと考えられてきました。あるいは、今でもそう思われているかもしれません。「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた(ヨハネ1:17)」といわれています。つまり、モーセの律法を守って義とされる時代は終わり、イエスさまを通して、全人類に恵み、つまり永遠のいのちがすでに無償で与えられている、その真理がわたしたちに完全に示されたといわれるのです。イエスさまは人間という個体の中に実現したいのちを、自分のいのちとして握りしめるのではなく、そのいのちを他者に解放されました。いのちそのものが、わたしが握りしめているいのちをもっと大きないのちの中に解放しなさいと教えているのです。信仰というのはこの個体を突破していく力、働きなのです。わたしたちが信仰をいただくということは、自分のエゴの外に出るということなのです。これがいのちの本来の姿なのです。だからそのようないのちのありさまは真理なのです。

イエスさまは、この真実の道をわたしたちは知らせてくださいました。わたしたちは今生かされている日々の生活の中で、このイエスさまの道を歩むように招かれています。そして、その真実をわたしたちは自分の中にもっており、いのちの真実を知っているのです。それは、わたしたちが日々の生活の中で、家庭、職場、共同体の中で、お互いに分かち合い、ゆるし合い、仕え合っていくこと、自分を他者にほんのわずかであっても明け渡していくことです。このいのちのお互いさまという生き方が、わたしたちをわたしのエゴから解放してくれます。これがイエスさまのいのちの道なのです。わたしたちはこのいのちの真実を知らせていただき、今わたしたちはそのいのちの中にあり、そのいのちを生きているのです。日々、その道を歩ませていただけるように祈りましょう。

復活節第4主日 勧めのことば

復活節第4主日 福音朗読 ヨハネ10章1~10節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日はよき牧者の主日といわれ、羊飼いと羊のたとえを通して、知るということの意味が語られます。今日はこの知るということがどういうことかを考えてみたいと思います。

今日の社会の動きを見ていると、知るということは、単に情報を手に入れることだと捉えているように思われます。今、AI(人工知能)を使ってできることが飛躍的に広がっています。今日の福音のたとえにあてはめるのであれば、羊飼いが羊についてのあらゆる情報を把握し、それをもとに飼育するということになります。確かにAIは、羊のそれぞれの状況や健康状態など、あらゆる情報を把握することはできるでしょう。そして、羊飼いとして羊に対する最適な対応をプログラムし、羊を管理していくことも可能でしょう。実際、人間の食品となる動植物の分野では、そのような人工栽培、飼育がすでにおこなわれています。そうなると、人間の羊飼いなどいずれ必要なくなるのかもしれません。

今日の箇所で問題になっているのは、この“知る”ということの意味です。羊飼いは羊を知り、羊も羊飼いを知っているといわれるときの知るとは、一体どういうことなのかということです。この箇所を、司祭と信徒の関係にたとえる人がいますが、それは本質的に違うように思います。そもそも、自分は羊飼いで、信徒は羊だという発想自体、どこか上から目線を感じます。イエスさまがいわれたのは、そのように管理するものと管理されるものの関わりではなく、イエスさまとわたしたちの真実の関わりです。イエスさまがあなたがたを知っているといわれたとき、それは、わたしたち一人ひとりの情報を知っているという意味ではありません。もちろん、イエスさまはわたしのすべてをご存じです。しかし、わたしたちは情報ではありません。教会は毎年、教勢調査といって、教区内の教会の信徒の数、洗礼、初聖体、結婚、死亡数等をまとめローマに報告します。しかし、旧約聖書には、ダビデが人口調査をおこなったことで神さまの怒りを招いたという出来事が描かれています(歴代誌上21章)。カトリック教会はそのことを忘れてしまっているのでしょうか。イエスさまはわたしたちを100名の中のひとり、統計上のひとりとして知っておられるのではありません。イエスさまはわたしを、“いのち”として知っておられるのです。いのちには温かみがあります。イエスさまの知り方は、このいのちの温かみがある知り方なのです。

親が子どもを知っているというときそれは理屈や情報による知ではなく、肌と肌が触れ合うような、温かみのある知り方なのです。それは、子どもについての情報を知っているということではなく、同じいのちをともに生きているところから生まれてくる知り方です。イエスさまがわたしを知っておられるということ、またわたしがイエスさまを知っているというのも、このような知り方であるといえるでしょう。それは、聖書をたくさん知っているとか、カトリック教会の教えを詳しく知っているとかということではありません。イエスさまとわたしの知るという関係は、同じいのちが触れ合うような関係です。それをわたしたちは祈り、イエスさまとの交わり、イエスさまとの親しさというふうに呼んでいます。単にミサに参加することや、聖書を読むこと、決まった祈りを唱えることだけではありません。もちろん、それらが大切で助けになることは確かです。しかし、イエスさまとの関わりは生き生きとした、いのちの交わりです。同じいのちを生きているからこそ、相手が苦しんでいれば自分も苦しくなるし、相手が痛んでいれば自分も痛くなる。相手がうれしければ自分もうれしくなる。隣人を愛することが掟であるから、教会の教えであるから、相手を愛するのではないのです。イエスさまがそう教えられたから、という理由でさえありません。いのちが触れ合うとき、こころが自然に動き出すということなのです。今の教会を見ていると、弱い立場の人、貧しい人々と連帯しなければいけないからとスローガンを掲げていろいろやっていますが、どこか形だけのポーズように見えてしまうことがあります。

はちみつをまったく知らない人に、はちみつについてその成分や構成、色や形状を説明することはできるでしょう。しかし、はちみつは実際になめてみなければ、本当の意味ではわかりません。はちみつをなめたことのない人がはちみつについて説明するのと、はちみつをなめたことのある人が説明するのでは、何かが違ってきます。難しい成分や構成を詳しく知らなくても、はちみつを実際なめたことがある人が、一度もなめたことがなくていろいろな情報を知っている人が説明するのとで違ってくるのです。科学的な情報はないかもしれませんが、はちみつを知っていますから、その説明、証しには当然力があります。イエスさまについてたくさんの情報や神学的知識をもっていても、イエスさまを体験したことがなければ、イエスさまは人には伝わっていきません。イエスさまの情報を知りたいのであれば、現代ならAIに聞いたほうがよっぽど正確でしょう。イエスさまを体験するということは、わたしたち自身がはちみつをなめるということなのです。キリスト教がそのように広まってきました。

では、どうしたらはちみつをなめられるのかといわれると難しいのですが、それはあたかも海の中にいながら、海を体験するようなものだいえるかもしれません。海にいる小さな魚が歳をとった魚に、どうしたら海を見つけことができるのかと尋ねることと似ています。歳をとった魚は「海とは、今お前が泳いでいる水なんだよ」というと、小さい魚は「これが海?ただの水じゃないか」といって、小さい魚は海を探し続けるのです。イエスさまを体験するということは、今、自分が生きていることそのものが、すでにイエスさまの現実なのだということに気づくことであるといえるでしょう。わたしたちが探し求めているイエスさまは、今、ここで生きている「わたしのいのち」そのものなのです。ですから、わたしが頑張って海の中に入っていく必要はありません。たとえわたしが飛び込んでいく勇気もなく、入っていく気力さえないほど弱っているとしても、わたしたちはすでにイエスさまという大きな海に飲み込まれているのです。イエスさまという大きな海の中に、わたしたちはすでに受け入れられているのだということなのです。これは、わたしが何もしなくてもいいということではありません。出発点は常にわたしではなく、イエスさまなのです。できる人は頑張ってもいいでしょう。しかし、それが宗教そのものではありません。人間ができることですべてを推し量ろうとするのであれば、宗教もイエスさまも必要なくなってしまうでしょう。

真の宗教は、それこそわたしが入っていくのではなくて、イエスさまが入って来られること、あるいは、わたしはすでにイエスさまの中にある、大きないのちの中に受け入れられているということに気づくことに他なりません。この視点の転換を回心(心を回す)というのです。人間がやろうとすることはこころを改める改心であり、わたしたち側からの反省や内省にもとづいて軌道修正をします。しかし、イエスさまがしてくださるのはこころを回す回心であり、わたしがこころを改めるのではなく、イエスさまがわたしのあり方をひっくり返してくださるのです。その出来事がどのように起こるのか、わたしたちにはわかりません。イエスさまはいろいろな方法でわたしたちに働きかけて、そのことに気づかせようとしてくださいます。人の温かさや優しさを通して、またわたしの人生の困難を通して、いろいろな出来事を通してその真実に気づかせようとしてくださっています。わたしが自分で知ることができるようなものは、すべて過ぎ去っていきます。たとえすべてが過ぎ去っても、決して過ぎ去らないイエスさまがわたしを知っていてくださる、そのことに信頼することきりしか、わたしたちにはできないのではないでしょうか。その信頼を信仰というのです。

復活節第3主日 勧めのことば

復活節第3主日 福音朗読 ルカ24章13~35節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日はエマオへ向かう弟子たちに復活したイエスさまが現れたという物語です。これは、当時の初代教会の中で、復活されたイエスさまと出会う場は何処であるかということが問題にされています。当時の人々は、聖書のみことば、感謝の祭儀、分かち合いの中で、復活されたイエスさまと出会うことができると考えました。それが今日の聖書の物語の中で、イエスさまによる聖書の解き明かし、エマオでの会食、3人の分かち合いとして描かれています。これは、現代においても通用することで、わたしたちが聖書を読み、その解き明かしを聞くとき、感謝の祭儀を祝うとき、わたしたちが分かち合うとき、その中にイエスさまがおられます。この3つの場は、復活されたイエスさまと出会うことができる場として教会が大切にしてきたものです。しかし、この場があれば、自動的に復活されたイエスさまと出会えるのかというとそうではありません。イエスさまとの出会いは自動的ではないからです。ですから、聖書を一生懸命勉強して聖書の知識を身につけるとか神学をやるとか、欠かさずにミサをおこなうとかミサに与るとか、分かち合いすることで、自動的にイエスさまと出会い、こころが燃え上がり、信仰が深まるかというとそれは少し短絡的すぎます。それにこころが燃え上がるというのはあくまでも、わたしのこころの状態の問題であって、こころが燃え上がるということがイエスさまと出会っているという証拠にはなりません。

わたしたちは、とかくすると信仰をわたしのこころの問題として捉えがちです。しかし、わたしのこころはひとときもじっとしていません。あるときは燃え上がり、あるときは意気消沈し、あるときは何ともないというのがわたしたちのこころです。わたしのこころは絶えず疑いと信仰の間で揺れ動き、それが定まるということはなく、またその思いが持続することもありません。そのようなわたしのこころの中に、イエスさまとの出会いの証拠や確証などあるはずありません。それなのに、わたしたちはこのようなわたしのこころのどこかに、イエスさまとの出会いや救いの証拠、確証を見出そうと躍起になります。また、ある人たちは自分のこころを整えていくことで、イエスさまとの出会いが叶うと主張します。教会が大切にしてきた3つの場を実践し、自分がイエスさまとの出会いに相応しいものになることが大切で、そのようなわたしにイエスさまは当然会いに来てくださるのだと考えます。そのように考えるのは、もっともなことだと思います。しかし、そうではないのです。イエスさまとの出会いは、わたしのこころの問題ではありません。信仰もわたしのこころのもち方でもありません。会いに来てくださるのは、イエスさまなのです。わたしたちが何かができるわけではないのです。その訪れはいつも前触れなく突然で、わたしのこころの状況など関係ないのです。

今日の物語で、2人の弟子はイエスさまと出会うために相応しいこころの準備をしていたでしょうか。むしろ2人は、イエスさまの十字架に絶望してエルサレムから逃げていく途上だったのではないでしょうか。彼らは自分たちに追手が及ぶのを恐れて、イエスさまのことなどそっちのけで逃げ出してきたのではないでしょうか。彼らのこころはイエスさまを受け入れるような殊勝なものは、ひとかけらもなかったのです。さっさとエルサレムをあとにして、イエスさまを見限って、自分たちの新しい生活を探していたのです。結局は自分のことしか考えていない弟子たちであり、わたしたちもそうでしょう。その弟子たちに「イエスご自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた」とあります。しかし二人の目は遮られていて、イエスさまだとはわかりません。イエスさまが一緒に歩いてくださっていても、彼らはそのことがわからなかったのです。彼らの目は遮られていました。イエスさまは彼らを咎めるのではなく、弟子たちに近づき、旅の道連れとなって歩いておられたということなのです。

彼らの目が開かれて、イエスさまであることに気づいたとき、イエスさまは見えなくなってしまいました。その気づきのきっかけになったのが、上で述べられた3つの場でした。しかし、それはきっかけであって、イエスさまを指し示すものであるとしても、イエスさまそのものではありません。多くの人は、イエスさまと出会ったきっかけにしがみつきます。そして、そのきっかけがイエスさまであるかのように錯覚するのです。そして、イエスさまと出会ったという自分の体験をこころ中に握りしめようとします。確かに何かのきっかけでわたしのこころが動かされた、“こころが燃えた”かもしれません。しかし、わたしのこころの記憶はイエスさまではないのです。また、その体験がイエスさまでもありません。わたしたちはいつも勘違いしてしまいます。ちっぽけなわたしの体験やわたしのこころの中にイエスさまを繋ぎとめておくことなどできないのです。イエスさまだと気づいた瞬間、風のように通り過ぎてしまわれます。

わたしたちは、イエスさまであると気づかせていただくと、そのことをわたしのこころで握りしめ、またその気づきを絶対化していこうとしまいます。しかし、わたしのこころでイエスさまを握りしめようとしても、その体験は長続きしません。やがて、その体験は薄れていき、わたしたちは疑いの淵へと沈んでいきます。いっとき雲が晴れたように思いますが、しばらくすると今までと何も変わらないわたしを発見するのです。わたしがイエスさまのことを感じられたとか、わかったとか、納得したとかではないのです。それならどこまでいってもわたしのこころのもち方の問題で終わってしまいます。そうではなく、大切なことは、自分に拘り続け、自分のこころの中に信仰の確証を探し求めて、信仰と疑いの間をいったり来たりし、迷いの淵に沈んでいる、そのわたしとともにイエスさまは歩み続けておられたということなのです。主語はいつもイエスさまなのです。わたしではありません。イエスさまがしておられるのです。このような愚かなわたしとともに“イエスさまが”歩んでおられたのだ、そのことへの驚き、その感動、そのイエスさまの働きが真実、まことの信仰なのです。そして、その感動が、驚きがわたしを動かし、生かすのです。

イエスさまは、教会が大切にしてきた3つの出会いの場を通して、またそのようなもの関係なく、わたしたちの人生のすべての出来事を通して、また生きとし生けるすべてのものを通して、わたしが考えられるうることをはるかに超えた方法で、過去そうであったように、今、イエスさまはわたしに絶え間なく働きかけてくださっているのです。わたしがイエスさまを求める前に、イエスさまはすでにわたしとともにおられた、歩んでくださっているというその驚き、その感動がわたしたちを前進させるのです。今日はそのことを味わってみましょう。