四旬節第2主日 福音朗読 ルカ9章28~36節
<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗
今日の福音のなかで、イエスさまは栄光に輝く姿を弟子たちに現されます。栄光とは、一般には人が成功・勝利などによって他人から得る好意的な評価のことを意味します。弟子たちにとってのイエスさまの栄光は、エルサレムで勝利を治め、ユダヤ人国民から好ましい評価を得て、英雄として褒めたたえられることです。いわゆる世間で成功を収めることと考えられていました。しかし、栄光に輝くイエスさまが、モーセとエリヤと話し合っておられたことは、イエスさまがエルサレムで遂げようとしている“最期”についてでした。エルサレムでの最期とは、イエスさまが全人類のためのご自分のいのちを十字架上で与え、死んで新しいいのちへと移っていかれることです。これが弟子たちにとって、イエスさまの栄光であるとは到底考えられなかったでしょう。
ここで使われている最期ということばは、旧約聖書の出エジプトを表す“エクソドス”、「脱出」ということばです。このエクソドスということばは、過越しとも訳されています。つまり、ある状態から別の新しい状態への移行を表しています。過越しとは、イスラエルの民にとっては、奴隷状態のエジプトから約束の地へ脱出していくことであり、神の力によってなされた出エジプト、過越しという出来事です。復活祭はパスカといわれ、このパスカは過越しのことであり、エジプトからの脱出を記念する過越祭に由来します。復活祭はイエスさまが全人類の救いのために、十字架の死を通して、新しいいのちに移っていかれたこと、パスカとして記念します。そして、この過越し、脱出には必ず困難、痛みを伴います。それは、ある種類の生き物が成長していくときに脱皮をしていくプロセスと似ています。脱皮はある種の動物にみられ、自分の体が成長していくにつれて、その外皮がまとまって剥がれることをいいます。つまり、より成長するために、いのちが開花していくために、今までの古い自分を脱ぎ捨てていくことです。これは節足動物、爬虫類、両生類だけに見られる現象であるだけではなく、すべての生きとし生けるもののいのちの営みでもあるのです。すべての生きとし生けるものは、自分のなかで絶えず死と再生を繰り返しています。わたしたち人間も、ほぼ1年ですべての細胞が入れ替わるといわれています。古くなった細胞は、排泄物として外に出されます。つまり、わたしたちが生きるということは、絶えまない死と再生を繰り返していくことに他なりません。そして人間にとって、その一番大きな脱出が死という苦しみを伴った現象なのです。
大自然のいのちの営みを現わす現象に、「倒木更新」というものがあります。原生林では木が切られることがありませんから、何百年も生き続けた巨木は枯れて倒れていきます。そうすると枯れて倒れた木は次第に腐敗してゆき、その木の表面に苔類が生え始めます。そこに木の種子が落ちて、木の子どもたちが育ち始めます。倒れた木の上は日当たりもよく、雑菌もいませんから、枯れた木を養分としてすくすくと育っていきます。これが自然界の倒木更新といわれる現象です。「親は子のために倒れる」、そして年月が経ち子どもたちは大きくなり、親はその養分となって消滅していきます。しかし親は子のいのちとなって生き続けます。親は子のために倒れ、子は親を忘れない。大自然はこのようにして、いのちを繋いでいくために、古いものは新しいものに場を譲っていくことをしていきます。これを人間以外のいのちは、自然なこととしておこなっています。イエスさまのエルサレムでの最後、エクソドスは、まさにそのような大きないのちの営みそのものだったのではないでしょうか。イエスさまの栄光とは、自分が注目されて称賛を受けて光輝くものとなることではなく、「子のために親は倒れる」こと、人類のために自分が倒れること、それこそがイエスさまの栄光であり、イエスさまにとってもっともイエスさまらしい生き方であったのでしょう。それがイエスさまの栄光です。
しかし、人類はその歴史が始まって以来、自分の手に力、権力、富、名声を掌握することが、人間の幸福、生きる意味、栄光であると錯覚して生きてきました。その結果が、今日もたらされている競争、戦争であり、富の不均衡、民族間の格差、差別、自然破壊なのです。そのあわれな人類に、イエスさまはいのちをかけて、大自然としてのいのちの当たり前の姿を示してくださったのです。イエスさまの生き方は特別なものではありません。わたしたち生きとし生けるものが本来的にもっているものなのです。すべてのいのちは生かされるためにあり、わたしのいのちを次のいのちに自分の場を譲っていくことで、わたしのいのちはもっと大きないのちの中に自分を解放していくことによって、そのいのちを永遠に繋いでいくのです。来世に永遠のいのちがあるとか、そのいのちがどこか他所にあるのではなく、いのちそのものが永遠なのです。植物、動物はそのことを当たり前のこととしてやっています。その当たり前のことができないのが人間なのです。イエスさまから見れば、人間は他の動物や植物が当たり前としておこなっていることができない、畜生以下のあわれな生き物、最低の霊長類なのです。人間にだけに魂があるなどと誰が教えたのでしょうか。そのあわれな人間に、すべてのいのちとの共生を思い出させて、いのち本来のあり方をご自分の生き様、死に様をもって示し、わたしたちをいのち本来の姿に呼び戻してくださる、それがイエスさまの過越し、エクソドスなのです。
「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしの『内なる人』は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです(Ⅱコリ4:16~18)」
わたしたちは病気になる、歳をとることを衰えるとか老化するとしか捉えることができません。確かにわたしたちの外なる人はだんだん、衰え、弱っていくかもしれません。しかし、わたしたちの外なる人が衰えていくことによって、わたしたちの内なる人は、日々新たにされていくのです。人間として、いのちとして本来の姿になっていくのです。わたしたちは、弱ること、歳をとることを、何かができなくなることを否定的に捉えがちですが、実はそうではなく、それこそが内なる人が成長していくことに他ならないということなのではないでしょうか。わたしたちは弱くなること、できなくなること、貧しくなることによって、確かにわたしたちの「内なる人」は成長していくのです。そして、死という事実を通して、わたしたちのいのちを永遠のいのちという大きないのちのうちに解放していくのです。これこそがまことの成長であり、わたしたちの過越し、いのちを生きるということに他ならないのです。