年間第11主日 福音朗読 マタイ9章36~10章8節
<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗
今日の福音はイエスさまが、12使徒を選び、福音宣教に派遣される箇所です。イエスさまが、12人を選び、福音宣教へと派遣されるのは、人々が「飼い主のいない羊のように弱り果てて、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれ」たからです。そのために「汚れた霊に対する権能をお授けになった」とあります。12使徒の選びと派遣の目的は、イエスさまの深い憐れみです。12人は、自分から志願して使徒になったわけではありません。ただイエスさまの使命を果たすために、イエスさまが呼ばれたのです。
イエスさまはすでに町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやしておられました。イエスさまをそのような行動に駆り立てたのは、人々への深い憐れみでした。聖書の中で「深く憐れんで」ということばは、スプランクニゾマイという有名な言葉で、その大半はイエスさまの人間への憐れみのこころの動きを表すために使われています。日本語にも「断腸の思い」という表現がありますが、その言葉は「子どもを失い、悲しみのあまり死んでしまった母親の腸がズタズタにちぎれていた」という故事成語に由来しているといわれています。単に気の毒に思うとか、同情するという感傷的なこころの動きよりももっと強い言葉です。よく知られたところでは、放蕩息子を迎え入れるお父さんのこころをあらわすために,また善きサマリア人のたとえにも出てきます。憐れむということば自体が、少し上から目線な印象をもってしまうかもしれませが、聖書をよく読み込んでいくとそうではないことがわかります。
放蕩息子を憐れに思う父親も、半殺しの旅人を思うサマリア人も、子どもを憐れむのはあるべき父親の姿だからだとか、困っている人を助けるのは隣人愛の掟だからそうしたのではありません。そこには、いずれも「憐れに思い、近寄って」と書かれています。ですから「憐れに思い」と「近寄る」のは同時なのです。憐れに思って、これはすべきことだからと頭で考えて近づいたのではないのです。相手の現実を見て、思わず駆け寄ったというか、体が動いてしまったということだと思います。この感覚はわたしたちもわかるのではないでしょうか。例えば道で誰かが倒れている人がいたら、この人を助けることは、教会が教えているからとか、キリスト者は隣人愛を実行しなければならないからとか、そんなこと誰も考えません。その前に、体が動き、手が出てしまいます。隣人愛の掟も理屈もありません。わたしたちはなぜそのように頭より先に、体が動いてしまうのでしょうか。それは、わたしたちが深いところでつながっているからではないでしょうか。そして、同じ神のいのちによって生かされているからなのです。だから、そのいのちが発動するのだといってもいいかもしれません。宗教とか道徳の問題ではありません。いのちには、人種も国境も、宗教もありません。誰からいわれたわけでもない、誰から教わったわけでもありません。わたしたちの中に同じ神のいのちが流れているのです。
仏教で利他行というのがありますが、利他というと何か他者のためによいことをすることのように思われていますが、利他行というのは自他を越えた感覚で、もはや自他の区別がないことといわれています。イエスさまの中に自他の区別はありません。ですから、人類の苦しみ、世界の苦しみはご自分の苦しみなのです。ここにイエスさまの憐れみの源があります。これはいのちの感覚であるということができると思います。そして、わたしたちはこのいのちによって生かされているのです。イエスさまが弟子たちにお望みになったのは、単に教えを伝えることだけではなく、その根底にある神の憐れみ、このいのちの感覚を人々に呼び覚ますことだったのではないでしょうか。
実際的には、病や患いで苦しんでいる人たちへの神の憐れみは、汚れた霊を追い出し、病が癒されることによって現れます。現実に苦しんでいる人を目の前にして、神の憐れみを説いても何にもならないでしょう。しかし、聖書の中には、悪霊からの解放、病からの癒しを通して、神の憐れみに出会っていく人々の姿が描かれています。わたしたちは自分が苦しいとき、どうすることもできないとき、その状況からの解放を先ず求めます。人間として当たり前のことだと思います。しかし、使徒の使命は病人を癒し、悪霊追い出すことに尽きるのではないのです。その業を通して、人々がイエスさまの憐れみと出会うことに他ならないのです。
今日の第2朗読でパウロは、「しかし、わたしがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」といいます。神さまの憐れみはすべてにおいて先行している、そのしるしとして病の癒し、悪霊からの解放があるのです。わたしたちのすべての状況に先立って、神さまがわたしたちをこころにかけ、わたしたちのために苦しみ、悩み、痛んでおられる、その神の憐れみがよい知らせ、福音であり、それが神の国なのです。確かに、すべての人が癒され、すべての人が悪から解放され、この世から死がなくなるわけではありません。しかし、すべての人間の現実に先立って、神の慈しみ、憐れみがあり、今すでにその神のいのちが与えられている、わたしたちは神のいのちをともに生きているのだという真実、それが福音であり、神の国なのです。12人の派遣は過去の出来事ではありません。わたしたちにも、その同じ神のいのち、その神の憐れみが注がれています。その憐れみに触れたわたしたちは、その神の憐れみの証人、使徒となるように呼ばれているのです。
