ラテラン教会の献堂 福音朗読 ヨハネ2章13~22節
<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗
今日はイエスさまのエルサレムの神殿の清めの物語です。マタイ、マルコ、ルカの共観福音書では、エルサレムの神殿の清めは、イエスさまの宣教活動の終わりごろ、エルサレム入城後の出来事として描かれています。しかし、ヨハネは宣教活動の始めの出来事として描かれます。いずれにしても、イエスさまのエルサレムの神殿への批判、ユダヤ教の信仰形態への問題提起ということがテーマになっています。それは同時に、わたしたちの信仰形態、またわたしたちが現在抱えている教会制度を問うということでもあります。
当時のエルサレムの神殿は、ユダヤ人たちの信仰の最大の拠り所でした。過越祭、七旬祭、仮庵祭の年3つの大祭にエルサレムの神殿に巡礼し、そこで生け贄を捧げることがユダヤ人の大切な信仰行為でした。特に過越祭はもっとも重要で、自分たちの祖先が神の導きによって、エジプトから解放されたというユダヤ人の民族的アイデンティティにつながる大切な祭りでした。過越祭のときは、多くのユダヤ人がエルサレムに巡礼し、町はごった返していました。そして、神殿でたくさんの生け贄がささげられ、献金することは、ユダヤ人にとっては大切な信仰の表現であったわけです。お稲荷さんにお参りにいって、ろうそくをあげて、油揚げを捧げて、お賽銭を投げるようなものです。しかし、そこにはいくつか問題がありました。先ず生け贄にする牛や羊、鳩を、家から連れてくるのは大変なことでした。何日もかかってエルサレムに巡礼してくるわけですから、その旅に牛や羊を連れてくることは大変手間がかかることでした。また、エルサレムの神殿でお賽銭をあげるわけですが、当時のユダヤではローマの貨幣が使われていましたが、異教の貨幣は不浄であるとして、神殿用の貨幣を使わなければなりませんでした。ですから、エルサレムの神殿の境内には、生け贄の動物を売るお店や、神殿用の貨幣に両替するお店が軒を並べていたわけです。伏見のお稲荷さんにお参りにいくと、参道にろうそくや油揚げが売られているのと同じです。
イエスさまはそれらをひっくり返し、商売をするものを追い出されたわけですから、何をするんだということになるわけです。ここでイエスさまが問題提起されたのは、まことの礼拝とは何か、まことの信仰は何かということでした。当時のユダヤ人は、エルサレムの神殿に巡礼し、いわゆる本山詣でをし、生け贄をささげ、献金をすることが、自分たちの信仰の熱意を表すことだと考えていました。わたしたちも、例えば毎週ミサに欠かさず出席するとか、決まった祈りを唱え、信心業を熱心にするとか、決められた献金をするとか、一生懸命ボランティア活動をするということが、いわゆる信仰深いよい信者さんであると教わってきたかもしれません。確かに、それらは信仰心から出てきたことかもしれません。しかし、イエスさまが指摘されたことは、それが本当の信仰ということなのか、まことの礼拝ということなのかということです。
イエスさまの時代に何が起こっていたかというと、信仰、礼拝の形骸化ということでした。確かに、それらの行為は素朴な信仰心からできたものかもしれません。しかし、いつの間にかそれらは形だけの礼拝、制度、組織となり、こころが伴わないものになっていったということです。そればかりか、形式主義になっていくと、それをやっているということで慢心に陥り、かえって我が強くなり、それを信仰熱心であることと勘違いするようになるということです。これはわたしたちにも容易に起こってくることなのです。
詩編51に「あなたはいけにえを望まれず、燔祭をささげても喜ばれない。神よ、わたしのささげものは打ち砕かれたこころ」とあります。まことの礼拝は、いけにえを捧げるという決められた儀式をおこなうことではなくて、「わたしの打ち砕かれたこころ」「悔い改めるこころ」だといわれます。儀式という形式ではなくて、わたしたちのあり方だといわれるのです。イエスさまは「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」ともいわれました。神殿もいけにえも、わたしたちが神さまと出会うための手段、場にすぎません。しかし、イエスさまは、わたしたちと神さまの出会いのためには、もはや神殿という建物やいけにえという形式はいらなくなるといわれたのです。
わたしたちが容易に勘違いしてしまうことは、わたしたちが何かをすれば、どこかの場所へ行けば、神さまと出会うことができると考えてしまうことです。確かに、わたしたちが神さまとの出会いを乞い求めていかなければなりません。しかし、わたしたちに神さまと出会いたいというこころを湧き立たせ、また出会いのための場を差し出してくださるのは神さまなのです。わたしたちの中に神さまへのあこがれ、渇きが生じますが、わたしたちに神さまへのあこがれ、渇きを与えになるのは神さまです。そして、イエスさまが人間となってわたしたちのところに来られたこと、イエスさまがわたしとなられたことによって、わたしの中に神さまとの出会いの場が設けられたのです。つまり、わたしたち人間が神さまとの出会いの場とされているということなのです。わたしたちの中にイエスさまが生きておられ、わたしたちはそこでイエスさまと出会い、信仰を生き、礼拝するのです。もはや神殿もいけにえもいりません。それがイエスさまの復活ということであり、まことの礼拝するものは、真理と霊をもって礼拝するといわれたことなのです。
イエスさまは、ユダヤ教が神殿宗教に成り下がっていることを厳しく批判されました。ということは、カトリック教会も神殿宗教になってしまうことを厳しく戒められているということなのです。教会は神殿となってはならないのです。イエスさまのからだ、つまりわたしたちが聖霊の住まい、わたしたちのうちに神が現存されているということをいわれたのです。イエスさまによって生かされている人間わたしたちが、神さまとの出会いの場、信仰の場、礼拝の場なのです。それなのに、いつのまにか制度や建物、組織が神殿になっていないか、キリスト教が神殿宗教になっていないかということが問われているのです。これこそ批判されなければなりません。ですから教会の献堂自体、イエスさまの思いに反することなのです。まことの神殿は、生きているわたしたちであり、まことの礼拝はわたしたちの生き方なのです。
