年間第23主日 福音朗読 マタイ18章15~20節
<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗
今日の福音は、マタイが教会をどのように考えたかということがテーマになっています。冒頭の15節だけが、ルカに並行箇所を見ることができますが、それ以降の箇所は共観福音書の中に並行箇所はありません。イエスさまが宣べ伝え、人々の間にもたらそうとしたのは神の国であり、教会を創設することではなかったというように、現代の聖書学では主張されています。歴史の流れの中で、キリスト教がユダヤ教から完全に分離し、自らのグループを形成していく状況の中で、「教会」という言葉が使われるようになっていきます。
4福音書の中で「教会」という言葉が使われているのは、マタイだけで、先々週のペトロの信仰告白の箇所と今日の箇所だけです。教会という言葉は、元々ギリシャ語のエクレジア、「人々の集まり」という意味で、組織や制度、建物を指す言葉ではなく、イエスさまを救い主として信じたキリスト者の集いをあらわす言葉として使われるようになっていきます。イエスさまが目指したのは、教会を設立することではなく、あくまでも人々の間に神の国をもたらすことでした。それでは、教会とは何でしょうか。
教会は神の国ではありません。神の国はわたしたちの救いの現実であるとすれば、教会は神の国を求めるわたしたち人間の集まり、グループです。イエスさまの神の国が完成するときまで世界の中で働き、奉仕し、イエスさまを証しするのが教会の役割です。神の国が完成されたとき、教会はその役割を終えていきます。ですから福音宣教において、教会が目的となったり、絶対的なものになったりすることはないということです。教会の洗礼を受けた人たちだけが、神の国のメンバーであるということはありませんし、教会という制度や洗礼・秘跡よりも、神の国はもっと広いものだといったらいいでしょう。
それでは、そのような前提の上で、わたしたちは教会として、現代社会の中で何を証ししていったらいいのでしょうか。それが、今日のマタイのメッセージだと思います。今日の箇所で大切なのは、ゆるしと教会共同体のあり方ということだと思います。ゆるしについては、来週に語られますので、その場を譲りたいと思います。今日は、教会共同体をどのように捉えていくかということをお話ししたいと思います。今日の箇所で、教会のあり方として大切な箇所は、「はっきりいっておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである(18:19~20)」というところです。
マタイ福音書のメッセージは、「わたしたちとともにおられる神」、インマヌエルである神です。ここでは、イエスさまの名によって二人、三人以上が集まることが、教会であるといっています。イエスさまはわたしとともにおられますが、そのわたしたちがイエスさまの名において集まるときに、その集いの中にもイエスさまが現存しておられるのです。復活されたイエスさまが、わたしとともにいてくださるということを知り、それを体験した人と人とが集い、そのことを互いに喜び合い、分かち合うこと、それが教会共同体なのだといえるのではないでしょうか。教会は組織でもなく、建物でもなく、イエスさまを中心とした人と人との集いであることがわかります。事実、初代教会には、教会堂も、位階制度もなく「毎日ひたすら心を一つにして…家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって…(使徒言行録2:46)」集まっていたと書かれています。そして、その生き方ゆえに、皆から好意をもたれた(同2:47)と書かれています。イエスさまを中心とした輪が広がっていった姿が描かれます。そこでは、イエスさまと出会わせていただいた喜び、その喜びが大火のように、パンデミックのように広がっていく様子をみることができます。これこそが教会の真価であるといえるでしょう。
今、わたしたちが懸命になって維持しようとしている、現在のカトリック教会の制度が整っていくのは、キリスト教がローマ帝国から公認された3~4世紀以降です。カトリック教会という組織や制度、建物などは、相対的なものにすぎません。芭蕉のことばに不易流行というのがあります。いつの時代も変わらない本質と、時代や人々の要求に合わせて変わっていくものがあるということをあらわした言葉です。教会の不易、つまり本質にあたるものは、福音、つまり復活されたイエスさまとの出会いということでしょう。それ以外のものは、時代と場所によって変わっていくものです。これが流行といえると思います。カトリック教会は、流行を不易と混同した時代がありました。しかし、イエスさまに直接由来しない教会の制度や決め事は、変わっていくというか、変わっていかなければ、時代の中で取り残されてしまいます。また伝承は、受け取る相手があって初めて成り立つものです。いくら素晴らしい伝統であっても、受け取る人がいなかったり、人々の魂に響かないようなものであれば伝承は途切れてしまいます。大切にしなければならないのは、イエスさまとの生きた出会いに呼ばれたということであり、組織や制度の維持、教えの護持だけではありません。イエスさまとの出会いを喜び、目の前に生きているひとり一人の人間を、兄弟姉妹として喜ぶということだと思います。
親鸞聖人の晩年のことばに、「一人居て喜ばば、二人と思ふべし。二人居て喜ばば、三人と思ふべし。その一人は 親鸞なり」というのがあります。わたしたちが本当にイエスさまと出会い、その出会いを同朋として喜んでいるのかどうかが、今、わたしたちひとり一人に問われているように思います。その喜びを生き、分かち合っていく共同体が教会なのだということを、今一度、こころに刻みたいと思います。そして、わたしたち自身が、そのような教会になっているのかを、一人ひとりが問いながら歩んでいきたいと思います。

