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四旬節第2主日 勧めのことば

四旬節第2主日 福音朗読 ルカ9章28~36節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の福音のなかで、イエスさまは栄光に輝く姿を弟子たちに現されます。栄光とは、一般には人が成功・勝利などによって他人から得る好意的な評価のことを意味します。弟子たちにとってのイエスさまの栄光は、エルサレムで勝利を治め、ユダヤ人国民から好ましい評価を得て、英雄として褒めたたえられることです。いわゆる世間で成功を収めることと考えられていました。しかし、栄光に輝くイエスさまが、モーセとエリヤと話し合っておられたことは、イエスさまがエルサレムで遂げようとしている“最期”についてでした。エルサレムでの最期とは、イエスさまが全人類のためのご自分のいのちを十字架上で与え、死んで新しいいのちへと移っていかれることです。これが弟子たちにとって、イエスさまの栄光であるとは到底考えられなかったでしょう。

ここで使われている最期ということばは、旧約聖書の出エジプトを表す“エクソドス”、「脱出」ということばです。このエクソドスということばは、過越しとも訳されています。つまり、ある状態から別の新しい状態への移行を表しています。過越しとは、イスラエルの民にとっては、奴隷状態のエジプトから約束の地へ脱出していくことであり、神の力によってなされた出エジプト、過越しという出来事です。復活祭はパスカといわれ、このパスカは過越しのことであり、エジプトからの脱出を記念する過越祭に由来します。復活祭はイエスさまが全人類の救いのために、十字架の死を通して、新しいいのちに移っていかれたこと、パスカとして記念します。そして、この過越し、脱出には必ず困難、痛みを伴います。それは、ある種類の生き物が成長していくときに脱皮をしていくプロセスと似ています。脱皮はある種の動物にみられ、自分の体が成長していくにつれて、その外皮がまとまって剥がれることをいいます。つまり、より成長するために、いのちが開花していくために、今までの古い自分を脱ぎ捨てていくことです。これは節足動物、爬虫類、両生類だけに見られる現象であるだけではなく、すべての生きとし生けるもののいのちの営みでもあるのです。すべての生きとし生けるものは、自分のなかで絶えず死と再生を繰り返しています。わたしたち人間も、ほぼ1年ですべての細胞が入れ替わるといわれています。古くなった細胞は、排泄物として外に出されます。つまり、わたしたちが生きるということは、絶えまない死と再生を繰り返していくことに他なりません。そして人間にとって、その一番大きな脱出が死という苦しみを伴った現象なのです。

大自然のいのちの営みを現わす現象に、「倒木更新」というものがあります。原生林では木が切られることがありませんから、何百年も生き続けた巨木は枯れて倒れていきます。そうすると枯れて倒れた木は次第に腐敗してゆき、その木の表面に苔類が生え始めます。そこに木の種子が落ちて、木の子どもたちが育ち始めます。倒れた木の上は日当たりもよく、雑菌もいませんから、枯れた木を養分としてすくすくと育っていきます。これが自然界の倒木更新といわれる現象です。「親は子のために倒れる」、そして年月が経ち子どもたちは大きくなり、親はその養分となって消滅していきます。しかし親は子のいのちとなって生き続けます。親は子のために倒れ、子は親を忘れない。大自然はこのようにして、いのちを繋いでいくために、古いものは新しいものに場を譲っていくことをしていきます。これを人間以外のいのちは、自然なこととしておこなっています。イエスさまのエルサレムでの最後、エクソドスは、まさにそのような大きないのちの営みそのものだったのではないでしょうか。イエスさまの栄光とは、自分が注目されて称賛を受けて光輝くものとなることではなく、「子のために親は倒れる」こと、人類のために自分が倒れること、それこそがイエスさまの栄光であり、イエスさまにとってもっともイエスさまらしい生き方であったのでしょう。それがイエスさまの栄光です。

しかし、人類はその歴史が始まって以来、自分の手に力、権力、富、名声を掌握することが、人間の幸福、生きる意味、栄光であると錯覚して生きてきました。その結果が、今日もたらされている競争、戦争であり、富の不均衡、民族間の格差、差別、自然破壊なのです。そのあわれな人類に、イエスさまはいのちをかけて、大自然としてのいのちの当たり前の姿を示してくださったのです。イエスさまの生き方は特別なものではありません。わたしたち生きとし生けるものが本来的にもっているものなのです。すべてのいのちは生かされるためにあり、わたしのいのちを次のいのちに自分の場を譲っていくことで、わたしのいのちはもっと大きないのちの中に自分を解放していくことによって、そのいのちを永遠に繋いでいくのです。来世に永遠のいのちがあるとか、そのいのちがどこか他所にあるのではなく、いのちそのものが永遠なのです。植物、動物はそのことを当たり前のこととしてやっています。その当たり前のことができないのが人間なのです。イエスさまから見れば、人間は他の動物や植物が当たり前としておこなっていることができない、畜生以下のあわれな生き物、最低の霊長類なのです。人間にだけに魂があるなどと誰が教えたのでしょうか。そのあわれな人間に、すべてのいのちとの共生を思い出させて、いのち本来のあり方をご自分の生き様、死に様をもって示し、わたしたちをいのち本来の姿に呼び戻してくださる、それがイエスさまの過越し、エクソドスなのです。

「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしの『内なる人』は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです(Ⅱコリ4:16~18)」

わたしたちは病気になる、歳をとることを衰えるとか老化するとしか捉えることができません。確かにわたしたちの外なる人はだんだん、衰え、弱っていくかもしれません。しかし、わたしたちの外なる人が衰えていくことによって、わたしたちの内なる人は、日々新たにされていくのです。人間として、いのちとして本来の姿になっていくのです。わたしたちは、弱ること、歳をとることを、何かができなくなることを否定的に捉えがちですが、実はそうではなく、それこそが内なる人が成長していくことに他ならないということなのではないでしょうか。わたしたちは弱くなること、できなくなること、貧しくなることによって、確かにわたしたちの「内なる人」は成長していくのです。そして、死という事実を通して、わたしたちのいのちを永遠のいのちという大きないのちのうちに解放していくのです。これこそがまことの成長であり、わたしたちの過越し、いのちを生きるということに他ならないのです。

四旬節第1主日 勧めのことば

四旬節第1主日 福音朗読 ルカ4章1~13節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

四旬節に入りました。今日の福音は、イエスさまの荒れ野での40日間の滞在の箇所が朗読されます。ルカはイエスさまがヨルダン川で洗礼を受けて、聖霊に満たされて、聖霊によって荒れ野を引き回され、誘惑を受けられたと書いています。イエスさまを荒れ野に導き、誘惑を受けるという出来事の主導権を取っておられるのは聖霊であることがわかります。そこで、今日は聖霊に満たされるということ、聖霊に導かれるということが何であるかをみてみたいと思います。

まず誘惑とは何でしょうか。わたしたち人間は本能的に苦しいことや辛いことを避けようとします。それは人間として当たり前のことだと思います。イエスさまも弟子たちに主の祈りをお与えになったとき、「わたしたちを誘惑におちいらせないでください」といわれました。また、ゲッセマネの祈りのときにも、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と2度も弟子たちに話しておられます。今日の箇所では、「神の子なら…」ということばが2度出てきます。ここでの誘惑は、あなたは神の子なのだから、何でも自由に自分の思い通りにできるはずだ、それなら…しなさいという形をとって表れていることがわかります。つまり、イエスさまは神の子ですから、自分の力、能力を自由に使うことができる、だからその力を自分のために思い通りに使いなさいというのが誘惑であるということがわかります。わたしたちは、自分の思いが叶うことが人間の幸せであり、目的であるというふうに考えています。だから、自分の思いが叶うようにすべてを動かそうとします。そして、それが悪いことであれば少し遠慮がちに、よいことであれば大手を振ってそれを叶えさせようとします。しかし、そこには善悪の違いはあっても、結局は自分の思いを叶えようとする自己中心という問題が潜んでいるのです。

宗教の世界では、自己放棄や利他の奉仕をするとか、修行や犠牲をすることが大切にされていますが、よくよく考えてみると、一体それを何のためにしているのかが問われてきます。それが人々のため、世界のためといいながらも、自分が救われたいとか、自分が認められたいとか、自分の主義主張を通したいとか、よいことをやっている自分に納得したいとか、結局わたしたちは何をするにしても、わたしがしているという限り、自分のためにしているというところから離れることはできません。それがどれほどすばらしい利他の行いであるといっても、わたしたちは、自分が目的になるところから完全に自由になることはできないのです。それでもしていかなければならないのですが、おそらく、そのことをもっとも痛感しておられたのはイエスさまご自身でしょう。わたしたちは信仰云々という前に、徹底した自己認識から出発しなければならないのです。その自分の姿を見つめるということがなければ、それこそイエスさまがいわれた愚かもの、偽善者になってしまいます。

それならば、どのようにしてわたしたちはその自己中心性というあり方から解放されていくのでしょうか。それが今日の福音でいわれている、「聖霊に満たされ、聖霊に引き回され、聖霊に導かれる」ことによってであるといえるでしょう。それでは、聖霊に満たされるということはどういうことでしょうか。聖霊に満たされるということは、特別な神秘体験をすることではありません。イエスさまは、洗礼を受けられたときに聖霊に満たされるという体験をされました。イエスさまは神さまですから、今までなかった聖霊に満たされたということではなく、自分が聖霊、いのちに満たされているということを体験されたのだといえるでしょう。それはわたしたちも同じことだと思います。わたしたちもすでに聖霊に満たされているのです。洗礼によって聖霊に満たされるのではなく、イエスさまと同じように、わたしたちがこの世界においていのちをいただいていることが、わたしたちが聖霊に満たされているということに他ならないのです。洗礼の有無ではありません。洗礼を受けていない人は聖霊に満たされていないとでもいうのでしょうか。聖霊は、すべての生きとし生けるものを活かす神の霊、神のいのちです。

そして、その聖霊がわたしたちを満たすとき、霊はわたしたちを荒れ野へと導きます。荒れ野はわたしがわたしと出会うところ、わたしとイエスさまと出会いの場、イエスさまの思いを知らされるところです。と同時に、荒れ野はわたしたちの力が及ばないところです。荒れ野は、わたしの思いが何ひとつ叶わないところなのです。荒れ野では、わたしたちの日常生活の常識がすべて奪い取られ、わたしたちの能力、社会的な資格、タイトル、役割などがすべて奪い去られるところです。荒れ野では、わたしは社長だとか、先生だとか、司祭だとか、シスターだとか、司教だとか、熱心なキリスト者だということが何も通用しないところです。荒れ野は、すべてを奪い取られたわたし、無一物のわたし、父母未生以前のわたしがあらわになるところです。それでは、その荒れ野はどこにあるのでしょうか。わたしたちは、荒れ野を探して、黙想の家や修道院、巡礼にいかなければならないのでしょうか。そうではありません。わたしたちの荒れ野、わたしたちの思いの叶わないところ、それはわたしたちの生活の場、わたしたちの人生です。わたしたちの人生は、わたしたちの思い通りにはなりません。しかし、多くの人がそこで自分の思いを叶えようと権力、力、能力、名声、名誉などにしがみつき、何が何でも自分の思いを通そうとします。それが誘惑の正体です。あきらかに悪いことであれば別ですが、たとえそれがどんなに社会的に、宗教的によいことであっても、自分の思いを通そうとするのであれば、わたしたちはイエスさまに従っているのではないのです。聖霊に導かれているのでもありません。それは、ただ自分の思い、我欲に従っていることに他なりません。わたしたちは、自分の思い、我欲を過ぎ越していかなければなりません。

イエスさまの生涯は、聖霊に導かれ、聖霊に従うことでした。イエスさまは聖霊に導かれて、荒れ野へ、ガリラヤへ、エルサレムへ、そしてカルワリオへと過ぎ越していかれました。イエスさまは、ご自身で自分の行き先を決められません。ただ霊に導かれて、その時々の状況を受け入れて、過ぎ越していかれました。その終着駅が、たとえイエスさまが望まなかったカルワリオであったとしてもです。イエスさまは、そのときの状況、人との関わり、そして出来事に、イエスさまはご自身を与えていかれました。これが聖霊に導かれるということなのです。自分の思いを通すのではなく、内なる聖霊の導き、つまりその時々の出来事や状況のなかに、自分の歩まなければならない道を見出していかれたのです。わたしたちは人生のなかで自分の思いをがむしゃらに通そうとするとき、必ず道を見誤ります。しかし、わたしの人生のなかでわたしの身に起こってくる出来事や状況は、わたしに必要なのでイエスさまがわたしに起こしておられるのです。ですから、わたしたちがその出来事に自分を与えていくとき、イエスさまの望みに従っていくことになります。これはわたしたちがよくいう“お任せ”ではなく、単なる諦めや厭世主義でもありません。むしろ、自分の人生を積極的に選んでいくことに他なりません。それが、わたしが人生を生きるということなのです。わたしたちの人生が荒れ野であり、修行の場、過越しの場なのです。

そして、そこでわたしたちはイエスさまと出会います。四旬節だからといって、特別の犠牲や苦行、信心をする必要がないのです。わたしたちは日々の生活、人生を荒れ野としていかなければなりません。そのために、わたしたちに働きかけ、わたしたちの中でわたしを導いておられる聖霊と親しくならなければなりません。この聖霊は生涯イエスさまを導き、イエスさまを生かした愛の息吹です。その同じ霊がわたしたちの中に現存しておられるのです。聖霊は、わたしたちにイエスさまの思いを知らせ、人生、日々の荒れ野を歩んでいく小道を教えてくださいます。これこそ、聖霊に導かれること、回心の歩み、過越しの歩みなのです。

年間第8主日 勧めのことば

年間第8主日 福音朗読 ルカ6章39~45節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の福音では、自己認識という難しい問題を取り上げています。「善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す」といわれています。また「悪い実を結ぶよい木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない」ともいわれます。人の行動の結果から、原因が分かるということがいわれているのでしょう。しかし、この一連の並行箇所はマルコにはなく、解釈の難しい箇所です。

わたしたちは感謝の祭儀のなかで、「思い、ことば、行い、怠りによってたびたび罪を犯しました」と告白します。それは、思い、ことば、行いという夫々の罪があるということだけではなく、思い、ことば、行いは繋がっているということをいっているのだと思います。わたしたちの心のなかに先ず思いがあって、それがことばとして結集し、それが行動となって表れてくるということなのでしょう。例えば、わたしのなかにある人への怒り、憎しみの感情があって、それがことばとなり、それが行動となって表れるということでしょう。このことは良い実を結ぶたとえから考えると、わりと簡単に理解することができると思います。しかし、ことはそんなに単純ではないように思われます。

わたしたちは「どうしてあんなことをしてしまったのだろう」、「どうしてあんなことをいってしまったのだろう」ということも体験します。つまり、こころのなかで考えていることとまったく違うことをやってしまったり、思ってもいないことばが口から出てきたりします。そもそも、わたしたちはこころというものが何なのかよくわかっていないのです。ですから、必ずしも良いものを入れたこころの倉から良いものが出てくる、悪いものを入れたこころの倉から悪いものが出てくるんだという単純な話、単純な教えではすべてを説明することができないのです。どういうことでしょうか。わたしたちは自分のこころというものがあると考えて、わたしのこころを自分でコントロールできると考えていますが、果たしてそうでしょうか。

「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の丸太に気づかないのか」といわれます。これは、相手のことはよくわかっても、自分を正しく知るということは難しいということでしょう。わたしたちは、相手のことをわかったつもりになりますが、自分のことはわかっていないということではないでしょうか。わたしたちは、怒ってはいけないと思っていても腹が立ってきますし、憎んではいけないと思っていても憎しみのこころが湧き上がってきます。わたしのこころがわたしのものであれば、わたしは100%、自分のこころをコントロールできるはずです。しかし、わたしたちは自分のこころを自分の思うようにすることはできません。わたしたちは自分のことばも行動もコントロールできないように、こころもコントロールできないのではないでしょうか。キリスト教では人間の感覚とこころを区別して、理性でコントロールしないさいといわれます。しかし、わたしたちが感じることとわたしたちのこころをそんなに簡単に区別することはできないのです。そもそも、わたしが自分のことさえよくわからないのに、どうして自分の目から丸太を取り除くことができるのでしょうか。修行を積んだら、自分の目のなかの丸太に気づいて取り除いて、先生のようになれるとでもいうのでしょうか。

パウロは「わたしの内には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうとする意志はありますが、それが実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っているからです(ロマ7:18~19)」といい、わたしたちの内なる罪、悪ということを問題にしています。ですからわたしたちは、「善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す」と決めつけることはできないのではないかと思います。わたしたちのこころは、刻一刻と変化していきます。外ずらや体裁では、怒ってはいけないとわかっていても怒りの心がわいてくる、憎んではいけないと教えられても憎しみの心がわいてくる、信じなければいけないといわれて信じているような顔をしていても、内側は疑いと不信の嵐が吹きまくっています。わたしたちは、自分でどんなに努めても、自分のこころを常に正しく保つことなどできないのです。わたしたちは、自分の意志では、自分のこころをどうすることも出来ないのです。パウロは「わたしは、なんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、誰がわたしを救ってくれるのでしょう(7:24)」と、うめきの叫びをあげます。わたしたちは、どんなに努力しても頑張っても、自分の目のなかの丸太、第2朗読でいわわれる「死の棘」を自分で取り除くことなどできないのです。しかし、パウロは「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします(7:25)」と感嘆の叫びをあげます。イエスさまだけが、わたしたちを救ってくださる、イエスさまだけがわたしの目から丸太を、死の棘を取り除いてくださる、イエスさまだけがわたしを信じるものにしてくださるということでしょう。「十分に修行を積めば」と訳されていることばは、「神があなたを完全にする」という意味であり、人間が修行をするのではなく、神が人間に働きかけてくださることを表しているのです。人間ではなく、神の働きなのです。

先週の日曜日の福音で、神さまは「恩を知らない者にも悪人にも、情け深い」あわれみ深い方であることが知らされました。わたしたちはそのような神さまの完全性、無条件のあわれみに触れるとき、自分ではどうすることもできない惨めな自分の姿が見えてきます。しかし、神さまはそのわたしを否定したり咎めたりするのではなく、大きな憐れみと慈しみの光でわたしたちを包んでくださいます。ですから、わたしたちはそのイエスさまの光に触れるとき、神さまの慈しみと憐れみを発見します。同時に、自分の姿が浮き彫りにされていきます。その姿はわたしたちが思っていたような自分ではなく、むしろ惨めすぎるわたしです。イエスさまという光に照らされて、わたしたちは自分の影、自分の闇、自分の汚れを発見します。わたしたちは自分の欠点や罪を正面から指摘されたら腹が立つでしょう。しかしそのことを一切咎めず、裁くこともなく、わたしを包み込んでくださる慈しみと憐れみの神さまが知らされてくるのです。わたしを優しく包み込んでくれるものの前では、ただ涙するしかない惨めなわたしを素直に認めることができるのではないでしょうか。イエスさまの眼差し、イエスさまの光だけが真実のわたしを知らせてくれます。その真実のわたしは、惨めすぎるわたしかもしれません。しかし、イエスさまのわたしたちに注がれるいつくしみの眼差しのもとでは、もはや罪の大小も欠点も問題になりません。わたしを貫き、あたたかく包み込むイエスさまの眼差しは、わたしたちに己の泥を見せつけます。しかし、わたしたちが自分を知る、自己認識はそれ自体が目的なのではありません。あくまでも神さまに向かっていくために、わたしたちが一体何もので、自分がどのようなものであるかが知らされ、どのように神さまと関わっていかなければならないかを知らせていただくためなのです。

洗礼を受けて漠然とイエスさまと関わっている人たちが、イエスさまの光によって最初に知らされるのは、わたしたちの罪、惨めさ、貧しさです。そして、わたしたちは人のおが屑を取ることができるようなものではなく、先ずは自分の丸太を取り除かなければならないもの、しかし、自分で取り除くことはできず、取り除いていただかなければならないものであることが知らされていきます。そのような自己認識は、正しい神認識によって起こってきたものであり、神さまは慈しみと憐れみの神として、ゆるしと癒しの神として体験されます。そして、その神さまは、おが屑や丸太の区別なく、すべてを焼き尽くして、ひとつの炎と化してしまう愛の生ける炎そのものであることが知らされていくのです。

年間第7主日 勧めのことば

年間第7主日 福音朗読 ルカ6章27~38節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の福音の箇所はイエスさまが敵への愛を教えられた箇所です。マタイ福音書では「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしはいっておく。敵を愛し、自分を迫害するもののために祈りなさい(5:43)」の並行箇所にあたります。ユダヤの律法で「隣人を愛し、敵を憎め」と教えられていましたが、しかし「わたしはいっておく」といって、イエスさまが律法を超える新しい教えを述べられた箇所になります。

「隣人を愛し、敵を憎め」といわれていることは、ユダヤ教だけでなく、わたしたちにとっても当たり前となっている価値観です。同胞の権利を守り、敵国を排除すること、また被害者の権利を守り、加害者を罰することなど、わたしたちは普通のこととして考えていることではないでしょうか。そして、多くの国の法律がその考えに基づいて定められています。しかし、イエスさまは、わたしたちがよい市民であるとしても、それだけで満足しているのであれば、それならだれでもしていること、罪人でも同じことをしているといわれます。イエスさまは「敵を愛し、あなたがたを憎むものに親切にしなさい」といわれました。わたしたちの悪口をいうもののために祈り、頬を打つものにもう一方の頬を向け、上着を奪い取るものに下着をも与えなさいといわれます。それでは、そんなことはわたしたちに可能なのでしょうか。

イエスさまはその根拠として、天の父の憐れみ深さをもって説明しようとされます。「いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである」といわれます。そして、「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深いものとなりなさい」といわれます。マタイでは「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全なものとなりなさい(5:48)」といわれています。そこでは、神の憐れみ深さというものが天の父の完全性に置き換えられています。わたしたちは、神さまの完全性というと、神さまの全知全能ということを考えます。全知全能ということは、いつでもどこでも自分の思いや願いを叶えることができるということだと考えます。そして、わたしたちは自分の思いや願いが叶うことが、幸せであると考えます。しかし、自分の思いや願いが簡単には叶わないことも知っています。ですから人間社会のなかでは、自分の思いや願いを叶えることができるような一握りの権力者やリーダーになることを目指します。そして、それが現代社会の価値観ともなっています。

しかし、神さまが全知全能である、またその完全性というものは、自分のやりたいこと思うことができるという意味ではなくて、神さまの完全性とは慈しみ憐れみ、愛そのものであるということがイエスさまによって明らかにされます。つまり神さまの完全性、その本質は、慈しみ憐れみ愛することそのものであるということなのです。ということは、神さまは、相手を慈しみ、愛し、ゆるし、自分を与えることしかできないということなのです。それが神さま、真実の世界のあり様であるというのです。ルカでは「いと高き方は、恩を知らない悪人にも、情け深いからである」といわれています。このことは、マタイでは「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しいものにも正しくないものにも雨を降らせてくださる(マタイ6:45)」といわれていることです。太陽や雨は善人悪人、正しい人正しくない人を区別しません。すべてのもの上に平等に注がれます。これが神さまの完全性ということなのです。人間であれば、善人を選び、悪人は退けるとか、正しい人は受け入れ、正しくない人は受け入れないということをするでしょう。しかし、神さまの慈しみの愛の完全性というものは、善人悪人、聖人罪人の区別をすることがなく、ただ人間を等しく慈しみ、愛し、ゆるされる、そのようにしかできないということなのです。これが神さまの慈しみ、憐れみ深い愛の本質であり、愛は慈しみ、憐れみ、ゆるすことしかできない、そして、人間を愛し、憐れみ、慈しむことが神さまの喜びなのです。なぜなら、神さまの本質は慈しみ、憐れみ、愛ですから、その本質を実現することしかできませんし、そのことが神さまの喜びだからです。神さまの愛は、わたしたち人間の正義や善悪の基準に左右されません。神さまはわたしたちのように、人を罪人だと決めつけたり、裁いたりはされないのです。

実はこのような無条件の、絶対平等の愛を、わたしたちは人間の赤ちゃんのとき体験しているのです。ただ、そのことを覚えていません。しかし、この世に生まれてきたということ自体が、たとえわたしたちが覚えていなくても、無条件の愛を受けたという事実に他ならないからです。赤ん坊は何もできません。おなかがすいたといって泣き、おむつか濡れたといって泣き、泣くことしかできません。その度に親にあたる人たちは、よしよしいい子といって、わたしを受け入れて、愛してくれたのです。おしめを濡らしたらダメといわれなかったのです。人間として自分では何もできなかったのです。勉強ができたとか、お祈りができたとか、よいことが何かできたわけではありません。それなのに何をしても何をしなくても、よしよしといって、わたしは一身に愛を受けたのです。これは、まさに親という方を通して神さまがわたしを愛してくださったことそのものではないでしょうか。しかしながら、わたしたちはそのように愛されたことを忘れてしまっています。でも、わたしたちの体はその愛を覚えているのではないでしょうか。わたしたちのなかに、イエスさまの、神さまの愛の痕跡が残っているといってもいいでしょう。イエスさまと同じ愛が、同じいのちがわたしたちの魂の深いところに地下水のように流れているのだと思います。ですから、わたしたちがイエスさまのことばに触れるとき、また真実に触れるとき、その愛がわたしのなかで呼び覚まされていくのです。わたしたちがそのような愛を理解できるのは、そのような愛で愛されたからに他なりません。

わたしたちは、無条件で愛されたという事実をほとんど覚えていません。わたしたちが成長過程で覚えているのは、条件付きの愛だけです。「~ができたので、誉めてもらった」とか、「~をしたので、認めてもらった」という、「~ができた」「~した」という条件付きで受けた愛だけです。それが成長する、大人になるということなのでしょう。教育にはそのような要素もありますから、そこで承認欲求が生まれ、競争心も養われ、社会性を身につけていくのでしょう。ですから愛が無条件であるとかいわれても、頭では理解しても、なかなか実感がわきません。本能的に疑ってしまうのです。しかし、わたしたちが覚えていなくても、わたしたちは確かに無条件で愛され、慈しまれ憐れまれたのです。ですから、その真実に触れるときに、わたしたちの中でわたしたちの神さまの愛の記憶が呼び覚まされていくのです。

イエスさまは、その真実を証しするためにこの世界に来られました。そして、イエスさまご自身が、その真実そのものでいらっしゃいました。愛、慈しみ、憐れみ、ゆるしそのものでおられたのです。ですからイエスさまは、敵を愛し自分を迫害するもののために祈りなさいと教えることができ、そして実際そのようにされたのです。イエスさまは、ご自分を十字架に釘付けにしようとするものたちのために、「父よ、彼らをおゆるしください。自分が何をしているのか知らないのです(23:34)」と祈られました。イエスさまは、敵への愛を“教え”として説明されたのではありません。イエスさまは、ご自身をもって教えられたのです。ですから、イエスさまの「あなたがたも憐れみ深いものになりなさい」というのは、わたしができるとかできないとかの掟や命令ではなくて、イエスさまのわたしへの愛の呼びかけとなっているのです。ですから、わたしたちがその愛を理解し、そのような愛をもってわたしが愛されていることを信じるとき、その愛はわたしたちの中で現実のものとなっていくのです。

年間第6主日 勧めのことば

年間第6主日 福音朗読 ルカ6章17、20~26節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の箇所はマタイの山上の説教に対して、ルカの平地の説教といわれる箇所です。マタイ福音書は、ユダヤ教からキリスト者になった人々宛てに書かれたといわれており、イエスさまを新しいモーセとして描いていきます。ですから「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くによって来た(マタイ5:12)」という書き出しで始まります。その姿は旧約のモーセを思わせます。しかし、ルカでは「イエスは彼ら(弟子たち)と一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった」と始まります。その姿は、モーセのような偉大な預言者として上から教えるというのではなく、ルカ特有の低みに立つイエスさまの姿です。そのように書くと、イエスさまは神さまなのにわたしたちのところまで上から降りてこられたとか、イエスさまの謙遜の姿であるというふうに考えがちです。なぜかというと、わたしたちは、神さまは上におられるというふうに考えているからです。それは、わたしたちがこの世界の物事をすべて、上下、大小、多少で捉えることしかできないからです。ですから当然神さまは上におられて、人間界に人間となって天から降りてこられたと考えます。謙遜もそのように身を低くすることだと考えます。そもそも上下、大小、多い少ないを決めているのは人間であるわたしたちです。だから山上の説教とか、平地の説教とかいうふうないい方をしてしまうわけです。しかし、神さまには上も下も、大きい小さいもありません。

山上の説教では、「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄ってきた。そこで、イエスは口を開き、教えられた」とありますから、話される対象は弟子たちであることがわかります。それに対してルカでは、「イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子たちとおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、イエスの教えを聞くため、また病気を癒していただくために来ていた(6:17~18)」と書かれており、イエスさまが話しておられる対象は、様々な苦悩や病を抱えて毎日の生活に喘いでいる人たちでした。その人々に対して、「貧しい人々は幸いである…今飢えている人は幸いである…今泣いている人は幸いである…」といわれるわけです。マタイでは、「心の貧しい人は幸いである」といわれています。わたしたちは聖書の中の表現、いい方に慣れてしまっていますが、少しわが身を振り返って見ると、自分が苦しんでいるとき、病気のときにお見舞いにこられ、「これも神さまからのお恵みですよ」とか、「あなたは幸いな人ですよ」とかいわれたら、腹が立ってカチンとなるのではないでしょうか。

イエスさまは決して、貧しいことや病気、困苦欠乏がよいといわれたのでありません。また、「心の貧しい人は幸い」というときによく説明されるような精神論を説かれたわけでもないと思います。イエスさまの意図はどこにあるのでしょうか。イエスさまは何ができるとかできないとかではなく、ただルカで述べられているような病人や悪霊に取りつかれている人、罪人とみられている人々、様々な苦しみ痛みを抱えている人々、女性、子どもたちとともに、とにかくまず一緒にいたいと思われたのではないでしょうか。わたしたちは、直ぐに救いだとか、癒しだとかを考えます。もちろん、イエスさまは神さまですから、病人を癒したり、悪霊を追い出したりしておられました。しかし、イエスさまが先ずしておられたことは、自ら小さなものとして彼らとともにいることだったのではないでしょうか。わたしたちは自分が苦しんでいるとき、その苦しみはなくならなくても、誰かが一緒にいてほしいと思うのではないでしょうか。ただ手を握ってくれるだけでも、体をさすってくれるだけでもいいのです。大切な人が苦しんでいるとき、わたしが代わってあげたいと思っても、代わることはできない、何もできなくてもただ一緒にいたいと思うのではないでしょうか。イエスさまご自身も同じであったと思います。イエスさまご自身が小さい方、小さい神さまでいらっしゃって、天から降りてきて人間を救い上げるような力強いタイプの神さまではなかったのだと思います。

しかし、ただ小さい神さまといっても、大きいと比べて小さいという意味ではなく、大きい小さい、上下、多い少ないというような枠組みや基準ではなく、いつでもどこでも誰とでもともにおられる神さまであるというということなのです。特に弱く苦しんでいる人とともにおられる神さまであるということではないでしょうか。というのは、弱く貧しい人というのは、自分が望んでそうなったのではなくて、強いもの豊かなものから貧しく小さくされたということなのです。そして彼らは、どのようにしてもその貧しさ小ささから抜け出すことはできないのです。イエスさまは、決してその小ささ貧しさがよいといわれたのではなく、ただ彼らとともにいることしかできなかったということではないでしょうか。かといって、今日の福音のように、イエスさまは貧しい人々とともにおられるけれど、豊かな人を否定し、そのような人たちはダメだといわれるのでもないと思います。豊かなものは不幸だというような書き方をされているのは、イエスさまのことばが長い伝承の中で、人間にわかりやすく説明しようとすることの中で起こってきたものなのでしょう。イエスさまの思いは、すべての人とともに等しくあることです。しかし、それを妨げている人間のあり方、それが貧しさであれ豊かさであれ、飢えであれ満腹であれ、そのような囚われ、格差や区別を作り出している人間のありさまを疑問視されていかれたのです。それが人間の思い、人間の欲望、社会的な構造やシステムや制度、律法のような規則であれば、それらを意義申し立て、神さまの思い、イエスさまの願いを中心とする真実の世界を告げ知らせられました。それが神の国といわれ、今日の福音のなかで、小さく貧しい人たちは神の国を体験しているといわれたのです。そして、イエスさまは目をあげて、その人々をみておられたのです。そのまなざしは慈しみと憐れみのまなざしです。

イエスさまが貧しい人たちは幸いといわれたのは、誰のことでもなく、このわたしのことなのです。教会の中で貧しくならなければとか、謙遜にならなければならないといいますが、イエスさまは貧しくなりなさいとはいわれませんでした。人間としてのわたしという存在そのものが貧しいのです。わたしたちの貧しさとは、わたしたちは無であり、わたしたちのすべてはいただいたもの、受けたものであり、自分には何もないということなのです。わたしのいのち、わたしの力、わたしの能力、わたしのすべて、わたしたちはそれらを自分のものであるかのように錯覚し、それを自分の思いのままに利用しています。しかし、わたしたちの中に、わたしのものといえるものは何もないのです。わたしたちは、ただイエスさまから憐れと慈しみを受けるものでしかないのです。わたしたちは貧しいから、小さいから、神さまにすべてを期待し、神さまからいただくことができるのです。わたしたちは小さく貧しいものであるから、神さまからいただくことができる、神さまの憐れみと慈しみに出会うことができるのです。わたしたちが憐れまれ慈しまれなければならないものであるから、神さまの憐れみ慈しみと出会うことができるのです。

わたしたちの貧しさ、弱さ、欠如は、わたしたちにとってよいものでも、快いものでもありません。仕方ないといってあきらめるものでもないのです。しかし、わたしたちは受けることによって、神さまの慈しみ憐れみが知らされ、神さまが神さまであることがあきらかにされるのです。もしわたしたちが、受けるもの、与えられるものでなかったなら、人間はもっとひどいものになっていたでしょう。イエスさまは今日のみことばの中で、わたしたち人間の本質をあきらかにされます。それをわたしたちは人間の了見で勝手にしてきた。その人間の了見が、ものごとを混乱させてきました。わたしたちは、人間が作ったとか、こしらえたというふうにいい、すべてを自分の思いのままにしてきた、ここにわたしたちの罪があるのです。しかし、その人間の罪もお使いになって、神さまはご自身をあらわそうとされるのです。神さまは、わたしたちをゆるし、憐れまれることで、ご自身の本質を啓示されます。わたしたちの闇、罪と神の憐れと慈しみという一見相いれないと思われるものが、神の働きの場となっているという逆説を味わわせていただきたいと思います。

年間第5主日 勧めのことば

年間第5主日 福音朗読 ルカ5章1~11節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は最初の弟子の召命について描かれています。共観福音書にはいずれも最初の弟子の召命について報告がありますが、ルカの特徴はその出来事の内面を描いているということです。今回は、それを見ていきたいと思います。

わたしたちは召命というと、すべてを捨ててわたしたちがイエスさまに従うことだと思いがちですが、わたしたちの側からみればそうかもしれませんが、それは召命の一面を捉えているとしかいえません。聖書において召命は、イエスさまが彼らを見て、イエスさまが彼らをお呼びになる出来事として描かれています。そこには、わたしたちが何かをする前に、イエスさまの存在、働きというものが先にあるのです。わたしたちは自分が何か新しいことを始めるとき、自分が選択して決断したと考えます。しかし、わたしが何かを選んで決断したというよりも、新しい生き方がわたしを選んで、わたしを動かしている出来事なのだというふうにいえないでしょうか。わたしたちの力や努力、計画やはからいを超えた何か大きな力がわたしたちに働いて、その大きなものにわたしたちが突き動かされるというような体験です。それをわたしたちは召命ということばで説明しています。召命のラテン語の元の意味は「呼ぶ」であって、その主語はわたしではなく神さまです。神さまが呼ばれる、これが召命の意味であって、わたしの決断とか選択という意味はありません。それがいつの間にか、わたしが何かを決断すること、応えることだと思われるようになってしまいました。

しかし、今日の福音を読むと、イエスさまが弟子たちを見て、呼ばれるということがはっきりしています。過去、教会のなかでは、召命というと司祭・修道者になることだと狭く解釈されてきました。それはひとつの結果であって、大切なことはわたしたちが何か大きなものに呼ばれていることに気づかされ、その懐深くに入り込んでいくことであるといえるでしょう。そこには、まずわたしたちの力や予測をはるかに超えた大きな存在、働きがあって、それが自分に働きかけてくるという体験をすることが大切になります。ですから百人いれば百通りの体験があるということになります。それがペトロの場合は、不思議な大漁ということでした。イエスさまの話を聞こうとして、多くの人が集まっています。イエスさまは漁の片づけをしているペトロの持ち船に乗って、人々に教えられました。ペトロは、イエスさまが自分を選んでくださったのだと、調子に乗っていたかもしれません。話が終わると、イエスさまはペトロに沖に漕ぎ出して漁をするようにといわれます。ペトロの機嫌は急に悪くなったのではないでしょうか。ペトロはプロの漁師で、昨夜は一晩中漁をしましたが何も取れませんでした。この無謀な申し出に、ペトロの機嫌は悪くなり、こころは不信でいっぱいになったのではないでしょうか。しかし「おことばですから、網をおろしてみましょう」と漁を始めます。そうするとおびただしい魚がかかるという出来事が起こります。

そこでペトロは、自分の力をまったく超えた大きな神の働きを体験します。同時に自分とは何かという自己認識も深めていくことにもなります。それがペトロの「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深いものなのです」ということばとなって表れてきます。ペトロが何か罪を犯したわけではありません。しかしペトロはイエスさまのことばを通して、漁師としての自分のキャリアもプライドも打ち砕かれるような体験をします。そこで、ペトロは自分をはるかに超えた大きなものと出会うという体験をしました。「降参です」とか、「参りました」といって頭を下げるという感じでしょうか。イエスさまはこの出来事を通して、ペトロに正しい自己認識、己の限界と罪深さということを体験させたのです。このような体験は必ずしも、わたしたちにとって心地よいものではありません。しかし、こうした体験を通して、わたしたちの心のやわらかさが養われていきます。

ペトロは、カファルナウムの住民の中では、自分は罪人であるとは思っていなかったでしょう。この町で、ペトロは普通のユダヤ教の信徒、それほど熱心なわけではないけれど、かといってそれほど悪くはない。ペトロを支配していた思いは、自分は胸を張れるほど熱心で信仰深いわけではない、でもあの徴税人や娼婦ほど悪くはない、どちらかといえばまだまともな人間だと思っていたのではないでしょうか。ちょうどわたしたちが、自分はそれほど悪くない、少しはまともな人間だ、よいカトリック信者だ、司祭だと思っているのと同様です。ですから、自分が罪深い人間、罪人だとは間違っても思っていませんでした。自分はまともだとか、誰よりはましだと思っていますから、人への優しさや愛情をもつこと、人の痛みや弱さに共感していくことは難しかったのではないでしょうか。しかし、イエスさまは武骨なペトロを、神さまの憐れみと慈しみに触れさせ、自分の罪深さについて自発的に、それも卑屈にならずに認めさせ、自分こそ神さまの憐れみとゆるしを必要としている第一の人間であるということに気づかせられたのです。わたしたちは、自分に注がれている神の憐れみと慈しみを体験すればするほど、自分こそが他の誰よりも神さまからの憐れみと救いを必要としているもっとも貧しい罪人であることをはっきりと思い知らされます。他の誰かよりはまともだなどとは考えもしないのでしょう。このような自己認識は究明、反省をして得られた自己認識ではなくて、神さまの憐れみに触れることによって恵みとして与えられたものなのです。苦労して頑張って、反省しても、神の慈しみの体験がないのであれば、その人は道徳的な内省に留まっており、福音的ではなく、むしろ害悪となってしまいます。

イエスの弟子となるということは、自分が他の誰よりもイエスさまの救いと憐れみを必要としている大悪人、罪人の中の罪人であることを知るということです。それは、自分が具体的な罪人であるという意味ではなくて、わたしが実存的な意味で罪人であることを知っているということなのです。このような自分の限界、貧しさを体験することを通して、イエスさまとのさらなる深みへと招かれていきます。召命はイエスさまから呼ばれ、それに応えることだけでは終わりません。さらにイエスさまの懐深く入っていかなければなりません。自分の内なる魂の深みに降りていくことだともいえるでしょう。キリスト者であれば、自分は洗礼を受けたとか、司祭になったとか、修道院に入ったとか、結婚生活に入ったとか、どこからどのように入るのかという形に囚われがちですが、大切なのは形ではありません。どこからどのように入ったとしても、いつまでも入り口でうろうろしていないということが大切なのです。いつまでも自我をくすぶらせ、イエスさまの懐深くに入り込むことなく、イエスさまとの関わりを深めることをないがしろにして、自分の立場や生活に囚われて、入り口をちょろちょろするようになってはならないのです。罪を犯さなくなるとか、倒れなくなるということが問題なのではなく、いついかなるときにおいてもイエスさまにおいて前進することが大切なのです。どれほどの信徒・司祭・修道者がイエスさまとの関わりをないがしろにして、組織の運営、維持管理、形式的な祈り、外面的な信仰生活に留まり、そこにエネルギーを裂き、キリスト者として生きていると錯覚していることが何と多いことでしょうか。これこそ召命への不誠実ということなのです。

最初の弟子たちは、イエスさまとの出会いの驚きを通して、自己認識を深めイエスさまとの深みへと招き入れられてきました。イエスさまと出会いは、絶え間のない驚きの連続であり、わたしたちに自分の真の姿を見せつけます。イエスさまに頭を下げて「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深いものなのです」といい、「主よ、罪人であるわたしをあわれんでください」というしかない我が身を見せつけられます。しかし、イエスさまは「恐れることはない。わたしに従いなさい」といって、わたしたちをご自身とのさらなる深みへと招き入れてくださるのです。罪人でしかない己を知るという出発点にわたしたちが立ち、そこから生涯をかけて、日々イエスさまとさらなる懐深くにまでわたしたちが入り込んでいくこと、ここにわたしたちの召命、信仰生活があるのです。

主の奉献 勧めのことば

主の奉献(年間第4主日)  福音朗読 ルカ2章22~32節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は主の奉献の祝日です。第二バチカン公会議前は「マリアの清めの祝日」でマリアの祝日でしたが、公会議後は焦点をイエスさまにあわせ、主の奉献の祝日として、イエスさまの祝祭日となりました。今日の祝日も主の洗礼の祝日もそうですが、少し理解に苦しむ祝日です。主の洗礼の祝日は、イエスさまがどうして洗礼を受ける必要があったのかということです。なぜなら、洗礼者ヨハネがおこなっていた洗礼は、メシアの到来を準備するための民の改心と清めの意思表示としての洗礼でした。それをメシアであるイエスさまが、どうして改心と清めの洗礼を受ける必要があったのかということでした。主の奉献の疑問点は、イエスさま自身が生きた神殿であるのに、どうして人間の作った神殿で捧げられる必要があったのかということです。聖書の中では「律法の規定どおり」とありますから、イエスさまは望むと望まないに関わらず、律法に従われたということになります。イエスさまは赤ちゃんですから、自分の力で何もできない弱い存在です。だからマリアとヨゼフのする通りに、人間の決めた通りにするしかできないわけです。いくらそれが理屈に合わないことであっても、不条理なことであってもそれを受けていく、イエスさまはそれほど弱く、貧しく、小さい者となられたということなのでしょう。そして、この弱く小さい貧しいイエスさまが、「万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、イスラエルの誉れ」であるという逆説的な真理を表しています。イエスさまの救いは、人間の理解を超えた世界です。

それでは異邦人を照らす啓示の光、万民の救いとなる光とはどのような光でしょうか。そもそも光は何ものも区別をしません。日の光はすべてのもの上に平等に注がれます。「善人の上にも悪人の上にも太陽を昇らせ」とイエスさまがおっしゃるとおりです。このように、すべてを照らすイエスさまの光は、ユダヤ人であるとか異邦人であるとか、善人であるとか罪人であるとか、男であるとか女であるとかの区別なしに、すべてのものを照らし、すべてのものを包み込みます。まさに万民の救いです。イエスさまの愛は、すべてのものを包み込み、すべてのものを救い取ります。何ものも取り残したり、排除したりしません。イエスさまはこのような意味で光そのものです。しかし、わたしたち人間は、わたしたちの小さい頭で考えた人間の救いの基準で、自分という基準で、あるいは教会が決めた基準で、イエスさまの愛を判断してしまいます。そして、人のことを、また自分のことを見てしまいがちです。しかし、イエスさまの愛はすべてのものをあまねく照らす光であって、そこに何の障りもなく、区別もありません。

このような光は、闇の中で意識され、闇を照らし、闇を追い払うような光です。光が光であることが意識されるのは、たいていは闇の中にいるときです。昼間、日の光が満ち溢れているときに、光を意識することはありません。ですから、光としてのイエスさまをわたしたちが意識するのは、わたしたちが闇の中にいるときなのです。わたしたちはよく、これは神さまのお恵みであるとか、神さまの働きであるというようないい方をします。それはたいていの場合は、自分が助けられたとか、困っていることが解決したとか、自分の思いがかなったとか、病気が治ったとか、罪がゆるされたというようなことではないでしょうか。それは何かというと、神さまに向かうのを妨げているとわたしが思っているものを、神さまが取り除かれたということではないでしょうか。重い病気があればそれが治るとか、犯した罪がゆるされたとか、解決できないような問題が解決されたとかいう場合です。つまり、わたしの都合がよくない何かがあって、それがひとつの闇と思っていて、そこに光が差した、何かがよくなったということを神さまのお恵みだといっているのです。ですから闇に輝く光として光を体験することは、わたしたちにとっては、イエスさまがそこにおられ、働いておられる単純なわかりやすいしるしになるということなのです。しかし、それはまことの光を体験したことにはなりません。自分の都合がよくなっただけの話だからです。

光は夜昼関係なくわたしたちを照らし続けています。わたしたちが救われたとか、助かったという実感があってもなくても、光はわたしたちに注がれていることになります。わたしたちが、これは神さまの恵みだとか、神さまの働きだと感じなくても、絶え間なく神の恵みはわたしたちのところにあり、神は絶え間なくわたしに働いておられるのです。わたしたちは、このような真昼の光、わたしたちが捕らえられないような当たり前となっている光を意識することは大変難しいといえるでしょう。わたしが理解し体験できる光は、わたしの知性と感覚で捕らえることができる有限な光であって、有限な光であれば、すべてのものを照らすことはできないのです。人間が捕らえることのできる有限な光というものは、影を作り出してしまいます。光そのものは、すべてのものを平等に照らしているようですが、大きなものが前にあれば、その後ろにあるものは影になって光はあたりません。また強い闇の中では、光は闇に吸収されてしまいます。しかし、イエスさまが光であるといわれるような光は、何ものも区別することなく、何ものも妨げとなることなく、地獄の底の底まで照らし、この宇宙の隅々まで満たすような光、働きなのです。ですから、通常わたしたちには捕らえられないのです。復活徹夜祭で歌われる復活賛歌の中にあるように、その光は「火の柱の輝きによって、罪の闇を打ち払い」、「絶えず輝き、夜の闇が打ち払われ」るような光、「その光は星空に届き、沈むことのない明けの星」、陰ることのない光、無量無辺で無碍の光、永遠の光、「人類を照らす光」です。キリスト者だけの専売特許の光ではありません。すべての人に、すべてのものに、すべてのところに、いつの時代にも、時間と空間を超えた照らされる永遠の光なのです。このような光によって、わたしたちは照らされ、収め取られているのです。この光は何も区別しない、何も差別しない。キリスト者であろうと、仏教徒であろうと、宗教をもたない人であろうとなかろうと、善人悪人を問わず、全人類、全宇宙の隅々にまでいきわたる光なのです。これが、イエスさまが異邦人を照らす光、すべてのものの救いであるといわれる意味なのです。

ところが、わたしたちはこのイエスの光の中にあっても、わたしたちの小さな頭で考えた理屈や教会の決めた基準で、その光に背を向け、わたしたちの心の目が覆い隠されてしまいます。わたしの小さな自我へのこだわりが、イエスさまの救いを妨げ、イエスさまの働きを拒否し、イエスさまの光を自分自身で見えなくしてしまっているのです。それが、わたしたちが自分で闇をつくり出していること、無明、罪といわれるものなのです。それでもイエスさまは、あきらめることなく、倦むこともなく、わたしたちを照らし続けてくださっているのです。これがイエスさまの大いなる慈悲の光なのです。これは人間の頭や知恵の理解を超えた世界であり、そのことをわたしたちは今日記念します。わたしたちのうちに光として来られたイエスさまは、何の条件もつけず、無償で、照らし続けておられるという真実にわたしが気づかせていただき、その慈しみの光にわたしたちは身を委ねればよいのです。わたしたちの罪とか弱さ、限界によって、イエスさまの光が妨げられることも、遮られることも、陰ることも一切ありません。わたしたちはわたしたちを救おうとされているイエスさまの働きに目を向け、イエスさまの知恵、慈悲に出会わせていただくように呼びかけられているのです。その光、その声は、今、わたしに届いているのです。このイエスさまの慈悲と出会うことが信仰といわれ、この信仰を生きることがわたしたちの祈りなのです。祈りは、難しいことばを唱えることでも、特定の祈りの文句を唱えることでもありません。わたしを救おうとされるイエスさまの働きに、わたしたちが単純化された愛のまなざしを注ぐこと、イエスさまの愛のまなざしとわたしのまなざしが出会うこと、この2人の愛の交流にわたしが身をゆだねることに他ならないのです。

年間第3主日 勧めのことば

年間第3主日 福音朗読 ルカ1章1~4節、4章14~21節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の福音の箇所は、イエスさまが40日間の荒野での誘惑を終えて、初めてご自分の生まれ故郷であるガリラヤに戻り、ナザレの会堂での出来事が朗読されます。そのときイエスさまは、すでに「霊の力に満ち」、人々に「教え」、「尊敬を受け」ておられました。人々の称賛を呼び起こしたのは、イエスさまの上に霊の力が働いていたからで、イエスはこの霊に導かれた宣教活動に乗り出されます。その始まりがナザレの会堂での出来事です。会堂でイザヤの預言が読まれ、イエスさまはご自分の使命をイザヤのことばを用いて宣言されました。

「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」 ここでイエスさまは、ご自分の使命は、貧しい人に福音を告げ知らせることであるといわれます。そして、よい便りといわれる福音の内容は、「捕らわれている人に解放を」、「目の見えない人に視力の回復を」、「圧迫されている人を自由に」することであるといわれました。解放、回復(癒し)、自由です。自由と訳されていることばも、解放と同じことばであり、イエスさまの福音の中心的なメッセージは解放であるといえるでしょう。それでは解放とは一体何なのでしょうか。

イエスさまが生きておられた当時、ユダヤはローマ帝国によって支配されて、人々は重税と苦役、貧しい生活、飢え、病気に苦しんでいました。だから、人々が先ず望んだことは、ローマ帝国の圧政からの解放、そして貧しい生活、病苦からの解放でしょう。わたしたちは皆、神の似姿として、神の子として神と人々に向き合い、神を賛美するために創られています。しかし、様々な病や苦しみ、特に社会的圧迫による貧困などは、わたしたちの身もこころも不自由にしてしまいます。病気であれば、自分の体のことで頭は一杯になってしまいます。極端な貧しさの中にあると、とにかく飢えているので食べることだけがすべての関心事となってしまい、他人のことや他のことなど何も考えることができなくなってしまいます。今も全世界の中に、わたしたちが考えることもできないような貧しさが蔓延しています。貧しさのただ中にいると、生きることがすべてとなってしまい、生物的な欲求、飢えや安心を満たすことを求める生活になってしまいます。このように社会的な圧政や貧困はわたしたちのこころを捕らえてしまい、わたしたちを不自由にし、わたしたちは奴隷となってしまうのです。だからイエスさまは、先ず人間が基本的に人間として生きることを妨げているようなものを取り除いていこうとされるのです。それがイエスさまの癒しの業、パンの増やしなどのしるしとなって現れます。

それでは基本的に人間の生活が満たされれば、人間は自由であるかというとそうでありません。今度は、自分が満たされたこと、満たされたものを必死に守ろうとする欲が出てきます。そして、わたしたちは物、お金、権力、名誉の奴隷から始まって、この救われた状況、この平安な状況にしがみつきます。また、人間関係の奴隷にもなっていきます。わたしたちは人間関係において、自分と相手の立場がどうであるか、どちらが上で下であるとか、無視されたとかどうとか、派閥だとか、異様なほどに人の目、評価を気にします。教会の中にあっても上下などないはずなのに、異様に気にします。どうしてそのようなことが起こるのでしょうか。それはわたしたちのこころの根底に、今の自分の状況を守りたい、この安定を確保したい、自分が正当に評価されたい、よく思われたいという思い、つまり根底に「自分がかわいい」というこころがあって、その自分の状況にしがみつくようになります。こうして人間は自分の思い、自分のこころの奴隷になってしまうのです。

わたしたち人間は、神さまと人々と物との関わりにおいて、また自分との関わりにおいて、本質的に病んでいるのです。すべての人間は何かの奴隷となり、自由に神さまと人々と物と、また自分自身と正しい関わりをもつことができない状態に閉じ込められているのです。この状況をパウロは「罪の奴隷」と呼んでいます。イエスさまは、このようなわたしたちを罪の奴隷から解放するために、自由にするためにこられました。しかし、イエスさまがわたしたちを解放し、自由にするといわれるとき、それはわたしたちを病から解放して病気のない状態に、貧しさから解放して豊かな状況に、奴隷として捕らわれている状況から自由人にするというところから始まりますが、その次元に留まりません。先ずそのようなところから始まるかもしれません。しかし、それはわたしたちをまことの解放へと招き入れるための方便なのです。確かに生活そのものがわたしたちを圧迫しているとき、わたしたちは生活の奴隷であって、先ずそこからは解放されなければならないでしょう。しかし、困っている状況がよくなったとか、苦しみがなくなったということは、それ自体としてはそれでよいとしても、わたしの問題解決の次元に留まっているわけです。それは自分が好むものは受けるが、好まないものは拒絶していくという、どこまでもわたしの自己中心的なあり方そのものに光があたっているわけではないのです。それだけなら、イエスさまのいわれる解放というのは、わたしの欲望が満たされるだけで終わってしまいます。

イエスさまが宣べ伝えた解放というのは、わたしたちの外的な状況、病や貧しさからの解放とか、わたしの罪のゆるしとか、わたしが罪を犯さなくなるとか、わたしが救われるというような個人的、表面的なことではなく、わたしたちの物的次元、社会的次元から始まって、わたしたちの魂の深みに至るまで、全人間的、全人類的、全宇宙的な次元にまで及ぶ解放、回心なのだということなのです。イエスさまが望まれたのは、わたしたちをあらゆる次元において解放し、神と人と自然、物、そして自分自身との正しい関係、調和へとわたしたちを招き入れることなのです。お互いがお互いを搾取し、排除し、利用し、所有化しようとする動きからわたしたちを解放し、わたしたちを内的に高めるところにまで及ぶのです。神さまとの関わりにおいては「奴隷の子」、「怒りの子」から「神の子」へと、人との関わりにおいては支配被支配の混乱から「兄弟姉妹」へと、自然、物との関わりにおいては利用し利用される関わりから共存、調和へと新しく造りかえられていくのです。いきつくところ、イエスさまによる解放というのは、わたしが「わたし」という捕らわれから解放されること、わたしが「わたしの救い」から解放されることにあるといえばいいでしょう。わたしが救われたい、楽になりたいというのが、人間の一番の捕らわれなのです。

わたしたちは、わたしが救われることがもはや目的にならない、先ずすべての人の救いがあって、わたしも人々とともに救われていくというところまで解放されていかなければならないのです。頭でわかっていても、わたしの救いをまず考えてしまう、ここにわたしへの最大の捕らわれがあるのではないでしょうか。イエスさまは自分のすべてを放棄することで、全人類の救いを成し遂げられました。自らが十字架にかかられたということは、自分のすべてを後回しにされた、つまり自分の救いを放棄することによって全人類の救いとなられたのです。このことはわたしにとっても同じことです。わたしたちは自分という捕らわれ、自分の救いから解放されることによってのみ、わたしは真に解放されるのです。そのためには、「聖書のことばは、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」といわれるように、この解放のことばが今日わたしたちに届けられていることに気づかせていただくことが必要です。この神のことばは、わたしがわざわざどこかに探しにいかなくてもいいのです。勉強する必要も、本を読む必要も、黙想会にいく必要も、教会にいく必要さえありません。神のことばは、わたしたちが謙虚に「聞く耳」をもつとき、わたしのあらゆる生活のただなかに今届けられており、そこで神の国はわたしたちのうちに実現しているのです。神の国は遠くにあるのではなく、わたしたちのただ中にあるのです。

年間第2主日 勧めのことば

年間第2主日 福音朗読 ヨハネ2章1~11節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日はカナの婚礼で、イエスさまが最初のしるしを行われた箇所が朗読されます。この場面は、元々は1月6日の主の公現において祝われてきました。主の公現の起源はクリスマスより古く、救い主であるイエスさまが全人類にご自身を公に現された出来事を、東方の占星術者の訪問、主の洗礼、カナでの最初のしるしとして祝ってきたことに由来します。

さて、今日の場面は婚礼の席上です。聖書のなかで婚礼は特別な意味をもっていて、婚礼は喜び、祝いのシンボルで、花婿と花嫁の関わりは、しばしば神とイスラエルの民との関係にもたとえられてきました。そしてここでは、婚礼は神の国が到来しているしるしとして描かれています。そこでひとつのハプニングが起こります。それは婚礼の席で欠かせないぶどう酒が足りなくなるということです。物語の顛末は、イエスさまがユダヤ人の清めに用いる石の水がめに水を満たし、水をぶどう酒に、しかも最上のぶどう酒に変えたということで宴会が無事に終了します。さて、この物語の意味は何でしょうか。

ここでユダヤ人が清めに用いる石の水がめというシンボルが出てきますが、ユダヤ教の律法によると、人間が聖なるものとなるために、つまり神さまによって義とされる、よしとさるためには、徹底して汚れを避け、汚れを清めることが大切とされてきました。清められて聖なるものとなること、これがユダヤ教の救いと考えられてきました。どの民族、宗教にも汚れという考え方がありますが、そもそも汚れという考え方は清いという概念を前提としたもので、ものごとを聖と汚れとにわけ、汚れを避けて聖となることで、聖なる方、神さまと一致すると考えられてきました。日本の神道などはその典型です。ユダヤ教でも、汚れを避けるということが最重要とされ、聖書のなかでも「ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある(マルコ7:3~4)」と記されています。ですから「ユダヤ人の清めのしきたり」を守るためには、多くの水が必要で、そのためにどこの家でも清めのための水がめがあったのです。食事の前や帰宅したら手洗いをする、沐浴をする、また食物についての禁忌などは清浄規定といわれるもので、衛生という観念がなかった時代、それらのしきたりを守ることで人間の心身の健康を保つという人間の知恵だったのです。実際、それらのしきたりに宗教的な意味をもたせることで、人々によりその規定を守らせようとしました。しかし、清めという考え方は、ものごとの区別、差別を生み出していくことになります。「汚れたものが触れるものは、すべて汚れる(民数記19・22)」と考えられるようになり、宗教的な規定は自分の内にも、自分の外にも区別、分断を作り出していきます。ですからユダヤ人は自分が汚れることを極端に恐れ、日に何度も手洗い、沐浴をするようになり、そのためにどの家にも水がめがありました。

しかし、日に何度も繰り返される清めで、人間の外側の汚れを拭い去ることはできても、人間の内側の汚れを拭い去ることはできないことにすぐに気づきます。つまり、わたしたち人間の外側を清めるという行為や自らの努力では、人間の内側は清められないし、それによって聖なる方と一致することはできないということなのです。そのことに気づかず、それを毎日延々と繰り返し、そのむなしい努力によって神さまに近づこうとしている、これが旧約聖書であるということです。そこには、どれだけ入念に清めや沐浴をおこなったとしても、これで大丈夫という安心はなく、そこにまことの平和、喜びはありません。規則は守られていて非の打ち所がないのかもしれませんが、そこにいのちがない、喜びがない、愛がないということが起こってきます。これがまさに旧約であり、婚礼のお祝い喜びの席に不可欠なぶどう酒がない状態なのではないでしょうか。しかし、イエスさまは、カナの婚礼の席で祝宴のために不可欠なぶどう酒がないという状況を、ユダヤ人が清めのために使う石の水がめに水を満し、それをよいぶどう酒、それも最上のぶどう酒に変えることで喜びの宴へと変容されました。旧約時代、人間はどれだけ自分の力や努力によって自分の汚れを拭おうとも、自力で自らの汚れを拭い去ることはできませんでした。ですから婚礼の席でぶどう酒がない、表面上が整っているようでも内的には喜びがないという状況だったわけです。しかし、自力で自分を清くすることができると思い込んでいたファリサイ人たちにとってはそれしかなくて、延々と清めを繰り返すという負の連鎖に陥っていくしかなかったのです。

ここで大切なことは、今まで清めのために必要であった石の水がめの水を、イエスさまがぶどう酒に変えてくださったということです。つまりわたしたち人間の力で千年かかってもできなかったことを、イエスさまは一瞬のうちに成し遂げてくださったということなのです。イエスさまは「外から人の体に入るもので人を汚すことのできるものは何もない(マルコ7:14)」といい、人間の外の汚れを清める石の水がめを満たしていた水を、婚礼の祝いの席の最上のぶどう酒に変えてくださいました。つまり、今までわたしたちの外側を清めるために使われていた水がめの水を用いて、わたしたち人間が口から飲み、人間を内側から養い、わたしたちの内も外も包み込んで、わたしのすべてを喜びに変えてくださったということなのです。イエスさまは、聖と汚れという区分を相対化し、清めのための水を喜びのぶどう酒に変えてくださったのです。何とかしてちまちまと汚れをはらっていたという次元から、わたしたちを直接に神さまとの交わりに高めて喜びで満たすという、まったく違う次元にわたしたちを招いてくださったのです。

こうして、今まで人間が自分の力で自分を清めようとしていたあり方を終わらせ、イエスさまがわたしを根本的に変える働きとしてご自身を示してくださったのです。この新しい新約のとき、主語がわたしたち人間から、神・イエスさまに根本的に転換されていくのです。このイエスさまの働きを押し広げていくためには、わたしたちはイエスさまの働きに身をゆだねていかなければならないのです。イエスの母を通して「この人が何かいいつけたら、そのとおりにしてください」といい、わたしを変えるイエスさまの働きに自分をあけわたすように招いています。わたしたちが頑張って悪い心からよい心になるのではありません。イエスさまの働きに、わたしたちをあけ渡していくのです。そのときイエスさまが働かれ、清めのための水は婚礼のぶどう酒に変えらます。イエスさまがわたしのうちにおいて働かれるためには、イエスさまがわたしたちのうちで自由に働きになれるようにして差し上げること、これが新約を生きるということなのです。その秘訣を洗礼者ヨハネは、「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない(ヨハネ3:30)」といい、イエスの母は「この人が何かいいつけたら、そのとおりにしてください」といい、己の身をイエスさまにあけ渡していくように招いています。

カナの最初のしるしは、イエスさまがわたしたちを変えることができ、救うことができる救い主であることを人類に現されたことを記念します。この旧約時代から新約への転換、このイエスさまの新しさにわたしたちが与るためには、「この人が何かいいつけたら、そのとおりにしてください」といわれた招きに従い、わたしの中でイエスさまが自由に働かれるように、我が身をあけ渡していくように招かれています。こうしてわたしの中でイエスさまが主となられ、わたしの中ですべてをしてくださいます。わたしの中でイエスさまがすべてをさせるとき、わたしは使徒、福音宣教者なのです。イエスさまはわたしを使って福音宣教をすることを望んでおられます。しかし、わたしがイエスさまの働きの邪魔をしてはならないのです。イエスさまがわたしの中で自由に福音宣教することがおできになるように、我が身をあけ渡していくこと、その大切さに気づかせていただく恵みを願いましょう。

主の洗礼 勧めのことば

主の洗礼 福音朗読 ルカ3章15~16,21~22節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

ルカ福音書における主の洗礼の特徴は、洗礼者ヨハネはすでに投獄されているので(3:20)、イエスさまの洗礼は過去の出来事の思い出として描かれている点です。その記述は非常にシンプルです。そしてイエスさまの洗礼の記述のあとに、イエスの系図が描かれていきます(3:23~38)。マタイ福音書では冒頭に系図が置かれているのに対し、ルカではイエスさまの誕生物語のあとに系図が置かれています。ルカの系図とマタイの系図の違いを見てみると、その意図が見えてきます。マタイの系図は、ヨゼフの系図でアブラハムを起源としています。ですからイエスさまはユダヤ人という一民族の枠組みのなかに誕生し、ユダヤ人を通して人類に救いが広がっていくという視点で描かれています。しかし、ルカの系図は人類の系図で、アダムを通して神にまで遡ります。それによってイエスさまはユダヤ人という枠組みからではなく、初めから人類の救い主であることが強調されます。実は、ルカの誕生物語では、イエスさまはユダヤ人という境遇のなかに誕生しますが、ヨゼフともマリアとも血の繋がりがない、つまりユダヤ人としてではなく「人類」として誕生されたのだということをいおうとしているのだということなのです。ですからイエスさまはユダヤ人の環境の中に生まれますが、アダムの血統まで溯ることによって、ユダヤ人としてではなく、「人類の代表」として誕生したのだといおうとしているということです。その点からイエスさまの洗礼の箇所を読み直していきたいと思います。

 「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると」という記述から始まります。ここで、「イエス『も』」と書くことで民衆とイエスさまが並列に描かれています。ここからもイエスさまは、人類の代表として洗礼を受けられたのだということがわかります。そこからわかることは、「イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降ってきた。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」という出来事は、民衆に、つまり全人類に起こっている出来事であるということなのです。それでは、その中身を詳しくみていきましょう。

ここで「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」ということばを聞くと、わたしたちはイエスさまの神の子としての適性がいわれているんだという意味に捉えてしまいます。しかし、原文はメシア詩編と呼ばれている詩編2の7節の「あなたはわたしの子、わたしは今日、あなたを生んだ(詩編2:7)」の箇所を意識しており、「あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜びとする」とも訳せる箇所です。イエスさまは、神の子として相応しいとか、適性があるとか、資格があるというような意味ではなく、イエスさまは何であっても何でなくても神さまの喜びであるということなのです。それはまさに親が我が子を自分の喜びとするその感覚です。ヨハネ福音書では、全人類、つまりわたしたちについて「この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである(1:13)」とのべ、全人類が、つまりわたしたちは神によって生まれたものであるということをあきらかにします。神から生まれたのですから、わたしたちは神の子といわれます。人間の考え得るなかでは、生むものと生まれるものとの関係は親と子ですから、神が生むなら、生む神は親で、生まれたものは神の子となるわけです。イエスさまの洗礼の記述のなかで、イエスさまは「あなたはわたしの愛する子」といわれているわけですから、神から生まれたわたしたちも神の子であり、神の喜びであるということになります。ですからこのことばはイエスさまだけにではなく、わたしたち全人類、そしてわたし自身に宛てられているということです。

これはエフェソ書でいわれていることと同じです。「わたしたちの主イエス・キリストの父である神はほめたたえられますように…天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、ご自分の前で聖なる者、汚れのないものにしょうと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子としようと、御心のままに前もってお定めになったのです(1:3~5)」。ここでは、わたしたち全人類は天地創造の前に、イエスさまにおいて神の子として定められていたということがはっきりとのべられています。洗礼のときではなく、天地創造の前、つまり永遠においてわたしたちは「すでに神の子(Ⅰヨハネ3:2)」とされているのです。聖書のなかで度々出てくる「選ぶ」ということばは、今日のイエスさまの洗礼の箇所でも訳されている「適う者」というような意味として理解されてしまい、多くのものがいてそのなかから相応しいもの、適性があるものが選抜されたというように捉えてしまいます。しかし、聖書の中の「選ぶ」ということは、何かを排除し何かを区別して、それ以外のものを取捨選択するという意味ではなく、「生む」ということばのもっているような無条件でおこなわれる行為自体を現します。つまり「選ぶ」ということばは、「愛する」ということばと同義語であるということなのです。ですから、わたしたち全人類は人類であるということにおいて神から生まれ、神から選ばれ愛されているということです。そこに適正とか、条件は求められません。幼児洗礼というのはそのような観点からおこなわれてきました。赤ちゃんには何の資格も、適正も求められません。まさに、そのままでということなのです。

ですから、わたしたちが洗礼を受けるということによって、何か特別に選び取られるという意味ではなく、救われるものの集いに入るという意味でもありません。確かにそのように教え方、そのようなことが強調されてもきました。しかし、洗礼とは、ただイエスさまが洗礼のときに聞かれた声、「あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを生んだ。わたしはあなたを喜びとする」という声を、わたしたちが聞くことに他なりません。これは、洗礼によってわたしたちは神の子になるのではなく、洗礼のときにわたしたちは天地創造の前にイエスさまにおいて愛されて、神の子とされているという永遠の真実があきらかにされるということなのです。これが人類の本来の姿なのだということなのです。そのあきらかなしるし、イエスさまの「あなたはわたしの愛する子である」という名乗り、これがわたしたちが洗礼を受けたということなのです。今日、イエスさまの洗礼の祝日にあたり、改めてわたしたち人類の、そしてわたしの本来の姿がわたしのなかであきらかにされていく恵みを願いましょう。このようなわたしたちの本来の姿があきらかにされていくこと、それを福音宣教といい、この本来の姿に目覚めることを、わたしたちは召命と呼ぶのです。

主の公現 勧めのことば

主の公現 福音朗読 マタイ2章1~12節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

主の公現は1月6日に祝われてきました。その起源は、冬至の太陽神の祭りをキリスト教化した降誕祭より古く、イエスさまの人類への現れ(エピファニア)を記念するものとして、4世紀にエジプトで祝われてきました。古代教会で主の降誕を祝うという習慣はなく、占星術の学者の訪問、主の洗礼、カナの婚礼での最初の奇跡を、イエスさまの人類への公(おおやけ)の現れとして祝ってきました。主の降誕もそうなのですが、イエスさまの誕生を祝うというよりも、人類を照らす光としてのイエスさまの訪れ、到来を祝うところに中心があります。主の降誕夜半のミサのイザヤ書でも「闇に住む民は、大いなる光を見、死の影の地に住む者の上に、光が輝いた」と述べられ、イエスさまは闇を照らす光であると説明していきます。そのように、光が光として意識されるのは、闇のなかにおいてなのです。イエスさまは全人類の救い主ですから、その光はいつの時代も、どの時間、どの場所にいる人にも等しく注がれているはずです。しかし、昼間に光というものは意識されません。イエスさまをわたしの救い主として意識できるのは、わたしが闇を体験しているとき、わたしが闇のなかにいるときです。光に気づかされるのは暗闇においてなのです。

それでは、今日の福音のなかでイエスさまはどのように光として意識されたのでしょうか。主の降誕では、イエスさまの誕生はまず羊飼いたちに告げ知らされますが、今日は占星術の学者が登場します。羊飼いたちというのは、当時は賤しい人々、堕落した罪人の代表でした。ある意味で闇を生きている人たちだったわけです。それでは、東からやってきたといわれる占星術の学者というのはどういう人たちでしょうか。日本では東の方角は日が昇るというよいイメージがありますが、ユダヤの世界では東によいイメージはありません。地形的にもエルサレムの東は、ヨルダン川が注ぐ死海があり、死海の東岸には砂漠が広がっていて、不毛、死の土地のイメージです。旧約聖書のなかでも、東風が吹くと植物が枯れるとか、東風に乗っていなごが押し寄せるという記述があり、東にいいイメージはありません。占星術の学者とありますが、原文は「マゴイ」であり、学者でも王でもなくて、星占いをする祈祷師です。祈祷師は、人の悩みを聞き、その人たちの心身のケアに携わる人たちでした。人生に疲れ悩み苦しむ人、その多くの人たちは病人や悪霊に憑かれた人たちで、マゴイはその彼らと関わったわけです。

当時、病人や悪霊に憑かれた人たちは、律法を守らず罪を犯して病気になったもの、汚れたもの、罪人と考えられていました。マゴイは、その彼らの病や苦しみに関わっていく、それを仕事としているわけですから、自分も汚れに触れることになります。善きサマリア人のたとえで、祭司やレビ人が半殺しになった血だらけの旅人に触れようとしなかったのは、彼らが無慈悲で血も涙もない冷血漢であったからではありません。その旅人は同胞でしたが、彼に触れることは血や傷に触れることになり、それによって自分が汚れて宗教上の務めを果たすのができなくなるのを恐れてのことでした。ユダヤ人にとって律法は神の掟であり、明らかな神のみ旨、神の意志ですから、これを守らないということはあり得ませんでした。律法というものは絶対であって、彼らは神の掟を守るために、同胞を見捨てざるを得なかったのです。このような宗教が果たしてまことの宗教か、イエスさまはそこを問題視していかれたのです。ここに出てくる占星術の学者も、東から来たいかがわしい祈祷師でしかなかったのです。ですから、ユダヤ人から見たら異邦人であり、罪深い仕事を生業としている人たちであったわけです。その事実に目を閉じて、東方から来た3人の王(カスパー、メルキオール、バルタザール)などといった美しい伝承を作り上げて、主の公現を神聖化してしまいます。ここに、真実を見ようとしない人間の愚かさがでてきます。

元々マタイ福音書は、ユダヤ人でキリスト教になった人たちのために書かれました。ですから、彼らがこの物語を読んだとき、占星術の学者がどのような人たちであるか、すぐにわかったわけです。そして、イエスさまはユダヤ人の救い主であるのだけでなく、全人類の救い主であり、それもユダヤ人が考える救いからもっとも遠いとされてきた人々、異邦人、堕落した罪人であるとされた人たちの救い主であることを理解できたのです。しかし、そもそもわたしたちが光を意識できるのは闇においてです。昼間にお日さまの光を、強烈な形で意識することはありません。わたしたち日本人は、日の光は暖かい穏やかな明るい日向、生きとし生けるものを育みいつくしむ光として捉えます。しかし、ユダヤの世界では、お日様は必ずしも良いイメージではなく、干ばつ、日照り、厳しい日差しなどを連想させる負のイメージもあるのです。しかし、日の光がない暗闇においてはすべてが闇に包まれ、何も見えないわけです。そこには希望も救いも何もないわけです。それこそ、どのように助けを求めればいいのかさえわからないほどの暗さであるということなのです。そのような、わたしたちの極度の惨めさ、弱さ、貧しさ、辛さの中では、光はわたしたちを優しくいつくしむ光というより、わたしたちの闇も罪も汚れもすべてを貫き通す光、何ものをも区別差別しない光、わたしたちのすべてを焼き尽くし、浄める激しい火のような光として体験されるのではないでしょうか。暖かい日向の光しか知らない人にとっては、その光は思いもおよばぬものかもしれません。闇のなかでその光を体験した人が、イエスさまがまことの光であることを証しすることができるのではないのではないでしょうか。ですから、イエスさまの誕生、この世界への現れは、誰からも期待されない、相手にもされない、見捨てられた羊飼いや異邦人の占星術者に告げ知らされたのです。わたしたちが、祝っているクリスマスの風景とはなんと異なっていることでしょうか。

わたしたち人間は自分より弱い、小さい、貧しい人々を作り出すことで、また相手をそのように見なすことで自己肯定しようとします。「自分よりもっと大変な人がいる」とか、「あなたよりもっと苦しんでいる人がいる」というようないい方は、一見するともっともらしく聞こえます。しかし、わたしの苦しみはわたしの苦しみであって、他の誰よりはましだとか、誰より大変だとかいえるようなものではないのです。ユダヤの社会だけではなく、現代社会も同じように、掟や道徳を守れる人と守れない人、弱い人と強い人、勝ち組と負け組というような上下優劣を作り出して、そこに自分を位置づけて自分を肯定しようとします。その価値観、その考え方こそが、まさにわたしたち人間の抱えているわたしの闇であり、わたしが堕落しているのだというところに思いが至りません。だから、人間はとかくすると援助することで、無意識に上位に立ちたがります。援助すること自体は大切なのですが、そこには大きな危険が潜んでいます。わたしたちがその危険から自由であるためには、わたし自身がイエスさまの助けをもっとも必要としている稀代の罪人であり、堕落しているものそのものであるという健全な自己認識が必要なのです。そして、そのような健全な自己認識は、イエスさまのあわれみの光に触れることによってしか得られません。イエスさまと出会えば、わたしはイエスさまにあわれんでいただくことしかない罪人であることがわかるのです。“ああ、ベトレヘムの羊飼いは、東方の星占いはわたしのことであったのだ”、ということに気づかされるのです。そのような気づきは、わたしたちを決して卑屈にはしません。むしろ、イエスさまが全人類の救い主、わたしの救い主であることを認め、人々と共生していけるようになるということだと思います。これが、本当の意味で、わたしたちが“ともに生きる”という意味なのです。

主の降誕(日中のミサ) 勧めのことば

主の降誕(日中のミサ)  福音朗読 ヨハネ1章1~18節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の福音は「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」と始まります。そもそも、ことばというものは何でしょうか。ことばの「こと」というのは音のことであり、音が意味をもったものがことばになるようです。ですから、ことばとは意味であるといってもいいと思います。わたしたちは普通にことばを使います。話すだけでなく、読んだり書いたりします。このことはよく考えてみると、非常に不思議なことです。わたしたちはいつどこで、ことばを使い始めたのでしょうか。自分のことを振り返ると、ことばを話す前の子どもであったとき、周りの大人や親から教わったといえるでしょう。しかし、その大人は誰から教わったのでしょうか。「オギャーオギャー」という音だけではことばになりません。音がことばになって意味がわかるようになるのですが、そもそもそのことばが何を意味するか皆がわかっていなければことばにはなりません。例えば神さまといったとき、神さまがいてもいなくても、皆はそれが何を意味しているかわかります。では、皆がわかっているそのことばの意味をだれが決めたのでしょうか。このようなことばの意味の不思議さに気づいた人が、「初めにことばがあった」といい、ことばはわたしが生まれる前より、人間がこの世界に誕生する前に、この世界や宇宙が誕生する前からあったといったのです。ですからその「ことばは神であった」といったのでしょう。

科学が発展したこの世界において、人間はすべてがわかると思っています。しかし、このわかるということは、わたしたちがそのことの意味をわかっているということであり、そのことをわたしたちはことばでわかっているのです。そして頭の中で、ことばで考えて理解しているのであり、ことばにならないものはわからないのであって、わたしたちがことばにすることで、わたしたちの世界が作られていきます。子どもがことばを覚えることで、自分の世界が広がっていく、その世界が作られていくのと同じです。現代人は見えるもの、理解できるものしか信じないといわれていますが、考えてみるとわたしたちは見えなくて、わからないものをずいぶん信じているわけです。愛情とか友情とかは目に見えませんが、それをことばにすることであたかもそれが実在するかのように信じているわけです。ですから、わたしたちはことばによって信じているともいえるのです。確かに友情も愛情も存在していますし、その意味でわたしたちはことばで信じており、ことばがわたしを生かしており、ことばはわたしそのものを作っているといっていいのかも知れません。人がことばを使っているようですが、実はことばが人を作っているのだといってもいいのはないでしょうか。

主の降誕はイエスさまの誕生を祝います。マタイ福音書では、「その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからです」といわれ、「その名はインマヌエル」といわれてもいます。イエスという名前は「わたしはあなたを救う」という意味であり、インマヌエルというのは「神は我らとともにおられる」という意味です。ヨハネがいおうとしていることは、先ずことばそのものというものがあって、わたしたちはそのことばによって創られて、そのことばによって生かされているのだということをいおうとしたのだと思います。そのことばそのものである方は、「わたしはあなたを救う」という方であり、「神は我らとともにおられる」といわれる方であるということをいおうとしているのでしょう。そして、そのことばは神であって、光であって、いのちであって、真理であって、恵みであるということをいおうとしているのです。

ことばが光であるということは、その光はすべての暗闇を照らす光であって、太陽のように影を作り出す光ではなく、影を作り出すことがなく、すべてのものを貫く光そのものであり、照らされないということがない、時間と空間を超えた光であるということを意味しています。わたしたちが理解できる光はすべて限界をもった光ですが、この光はこの世界、宇宙をあまねく照らし満たすような光であるということを意味しています。これが、ことばが光であるということの意味です。ですからこのような光はいのちそのものでもあるわけです。わたしたちが理解できるようないのちは、空間と時間の中にある限界をもったいのちですが、この世界にあまねく満ちる光であるいのちは、空間や時間に制約されるようないのちではありません。このいのちには限りがありませんから、永遠のいのちと呼ばれます。この世界は、このような永遠の光、永遠のいのちに満たされているのです。わたしたちはことばそのものが人間となること、つまりわたしたちのことばとなることで、その意味を知らせていただきました。ですから、この永遠の光、永遠のいのちはことばそのものであり、そのことばはこの世界、宇宙を満たしており、それをわたしたちは神と申し上げるのです。

このことばを通してわたしたちに知らせていただいたことが真実であり、真理なわけです。この真理はわたしたちが発見する前から、わたしたちがこの世界に誕生する前からあり、あきらかになっていることであって、わたしが信じる信じないに関係なく、わたしがわかるわからないに関係なく、この世界にあきらかにされており、この世界そのものであるところのものなのです。それがことば-イエスという方によってあきらかにされていくのです。このイエスという方は、「わたしはあなたを必ず救う」という方そのものであり、「わたしは世の終わりまであなたとともにいる」といわれる方なのです。わたしが、信じても信じなくても、わたしがキリスト者であろうとなかろうと、そんなことに一切関係なく、この世界の真実としてわたしたちとなって、この世にこられました。アウグスティヌスはこの真理のことを「おお、古くてまた新しい美、真理よ、わたしはあなたを知り愛することにあまりにも遅すぎました」と嘆いています。この真理に触れた人は、この真理に魅せられて、もはや自分の狭い了見や救いも罪も何もかも吹っ飛んでしまうのです。ことばの力が、わたしたちに日々働きかけ、今わたしのこころを動かすのです。ことばが世界を、宇宙を動かすのです。

イエスという名は、「わたしはあなたを必ず救う」という名、「わたしはあなたとともにいる」という名であり、そのことばがわたしたちのところにこられた、そのことばがわたしに届けられていることがあきらかにされたこと、それが主の降誕です。そして、わたしに届けられているその働きに気づくことが主の降誕を祝うこと、神の恵みというのです。「こうしたら救われる」「ああしたら救われる」というわたしのはからいの世界ではなく、ことばの受肉において、永遠においてすでに実現している真理と恵みに気づかせていただくとき、時間と空間を貫いてわたしの中に永遠が入ってくるというか、今わたしが永遠の中にいることに気づくこと、そのことが救いなのです。これは2千年前の話でも、死んでからのことではありません。今、わたしに起こっていることなのです。ただそこのことを知らせるためにだけ、ことばは人間となられ、わたしたちの中にすべてがあることを教えてくださいました。救いは遠きにあるのではなく、わたしの中にあるのです。

(勧めのことばは主の公現から再開します。)

主の降誕(夜半のミサ) 勧めのことば

主の降誕(夜半のミサ) 福音朗読 ルカ2章1~14節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今は復活祭と並んで大きく祝われる降誕祭ですが、その起源は、ローマ帝国で行われていた冬至の祭りをキリスト教化したのが由来です。元来、古代教父たちはイエスの誕生ということに重きを置いていませんでした。むしろ降誕祭は、キリスト教が広まっていくなかで、人々の慣れ親しんだ冬至の太陽神の祭りをキリスト教化することで、民衆の支持を得るという政治的な意図で始まったものです。それが今では、キリスト教の2大祭日となっています。しかし主の降誕は、主の復活の視点から見なければ意味のないものになってしまいます。そもそも、初代教会はイエスさまの誕生について関心をもっていませんでした。マルコ福音書には、マリアの息子という記述以外、イエスさまの誕生についての一切の記述はありません。初代教会ではイエスさまの出自について、関心がなかったことが分かります。しかし、復活されたイエスさまとの出会いのなかで、人間イエスへの関心がその誕生、出自へと向かわせたというのはわかる気がします。しかし、教会が祝ってきたのは、イエスさまの誕生というより、人間の救いのために神が人類に関わってきた、受肉の神秘であるということです。ですから、降誕祭はイエスさまの誕生日ではなく、神さまの人類への関わりを祝うことが中心です。神が人間となることにより、人間が神の子とされる不可思議な“聖なる交換”を記念します。それでは、その中身がどのようなものであるかを見ていきましょう。

わたしたちは毎年祝うクリスマスのなかで、マリアとヨゼフに見守られた幼子イエス、ベトレヘムの貧しい馬小屋、羊飼いたち、天使たちの歌声など、その温かい心安らぐイメージに親しんでいます。しかし、主の降誕に登場するヨゼフとマリア、ベトレヘムの馬小屋、羊飼いたちは、当時のユダヤの社会のなかでもっとも弱い立場におかれ、貧しく堕落しているものの象徴でした。そもそも、イエスさまがベトレヘムで生まれたということ自体、後代の教会の伝承です。ヨゼフとマリアは人口調査のために本家の村に帰ったわけですが、マリアは出産間際であったのにかかわらず「泊まる場所がなかった」と書かれています。実家の村ですから、親戚や知り合いの家はいくらでもあったはずです。それにもかかわらず、宿屋さえみつけることができませんでした。これはどういうことでしょうか。これは、マリアの妊娠がヨゼフと関係のないものであるということを皆が知っていたということです。ユダヤの伝統では、家族や一族をとっても大切にします。ですから、妻が妊娠しておめでたで、実家に帰るといるというのであれば、一族上げて歓迎するわけです。しかし、ヨゼフたちを受け入れてくれる親族は誰もおらず、宿屋からも断られてしまいます。わたしたちは、マリアの妊娠は天使のお告げであることを知っていますが、当時の人々はマリアの子はヨゼフの子でない不義の子、罪の子であることを知っていたのでしょう。だから、律法に背いた堕落した罪人を受け入れれば、自分たちも汚れるとして、人々はヨゼフたちを受け入れようとしなかったのでしょう。そして、どこにも身を寄せるところがなく、イエスさまは家畜小屋で、“罪の子”として生まれてくるのです。このことを、先ずきちんと押さえておきましょう。

そして、わたしたちが慣れ親しんだ馬小屋も、決して暖かなものではありません。藁だらけの、糞だらけの家畜小屋です。そこでイエスさまは生まれるのです。生まれたばかりのイエスさまを寝かせるための暖かなベッドも布団もありません。家畜が餌を食べる、飼い葉桶に寝かされたと書かれています。家畜の餌皿に寝かされたということです。イエスさまの誕生は、誰からも祝福されない、望まれない、喜ばれない誕生であったということなのです。ヨゼフとマリアにしても、血の繋がりがない子どもの誕生を心から喜べたかどうかわかりません。聖書は淡々と描いていきますから、わたしたちはあまりにも綺麗なベトレヘムの馬小屋の風景に慣れてしまっています。しかしベトレヘムは、いくら金箔をはっても、所詮糞まみれなのです。それなのに、ベトレヘムを美化し、神話化し、崇高な物語のような話を作り上げてきました。糞に金箔をはっても、所詮糞なのです。でも、その糞まみれの現実のなかに来られたのがイエスさまだということなのです。だからこそ、イエスさまはすべての人の救い主であるのです。

 そして、イエスさまの誕生をはじめに知らされた羊飼いも、堕落した人間の代表でした。アブラハムの時代、羊飼いは、ユダヤ民族にとっては誇り高い仕事でした。しかし、カナンに定住していくと農耕牧畜生活に移行していき、そのなかで羊飼いをしている人たちは、本当に貧しい人々か、罪人と呼ばれる人たちでした。そもそも、羊飼いたちは移動して仕事をしていきますから、律法を守るということができません。羊飼いたちは、安息日を守れないのです。ですから、常習的に律法を破らざるを得ません。当時、そのような仕事をする人たちは罪人とみなされていました。生きていくためにどうしてもそのような仕事をしなければならない理由や貧しさを抱えているか、エルサレムなどの都市で犯罪に手を染め、堕ちるところまで堕ちた人たちがつく仕事が羊飼いであったわけです。彼らは生きていくために罪を犯さざるを得なかった人たちだったのです。そのような人たちとは、誰も交際しません。教会は正義と平和については取り上げます。そして、不正義や被害者のことについては考えますが、加害者となった人たちや生きるために罪を犯さざるを得ない人たちのことまで考えようとはしません。それは、自分は加害者にはならない、いわゆる罪人にならないと思っているからでしょう。しかし、イエスさまの誕生を最初に知らされた人たちというのは、社会からも宗教の世界からも堕落していると思われている人たちであったということなのです。わたしたちは、自分の境遇を選んで生まれてきたわけではありません。わたしたちが、今、キリスト者で教会に来ているとしたらそれは偶然であり、たまたまのことなのです。わたしの手柄でも努力の結果などでもありません。イエスさまは、そうしたすべての人の救い主なのです。

 浄土真宗の創始者の親鸞が、阿弥陀如来の本願は「りょうし(猟師、漁師)、商人、さまざまのもの(農民、武士など)は、みな、石、かわら、つぶてのごとくなるわれらなり」といわれました。当時、「りょうし(猟師、漁師)、商人、農民」は、仏教の殺生戒を守れない罪人とみなされていました。しかし、「りょうし(猟師、漁師)、商人、農民」の働きなくして、わたしたちは生きていくことはできません。わたしたち人間は皆、お互いさまで繋がっています。全人類はわたしなのです。ですから、そこでいわれる「われら」は他の誰かのことではなくて、この“わたし”のことなのです。神の子であるイエスさまは、まさに堕落し罪人であるこのわたしのために、不義の子、罪の子、怒りの子(エペソ2:3)としてこの世界に来られたのです。それはわたしたちをその暗闇から解放するためでした。それが、クリスマスの本当の意味なのです。自分だけ清くなってイエスさまを迎えようと思っている人のところにイエスさまは来ることはできません。わたしたちはいくら金箔をはっても、所詮は糞でしかないのです。イエスさまは、そのすべての人間の救いのために、この罪人であるわたしひとりのために、わたしのなかにお生まれになるのです。それが、真のクリスマスの意味であり、イエスさまの復活の意味でもあるのです。

待降節第4主日 勧めのことば

待降節第4主日 福音朗読 ルカ1章39~45節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は、マリアのエリザベットの訪問として祝われる箇所です。天使のお告げを受けたマリアは、従姉のエリザベットも妊娠していることも知らされます。そして、ナザレからはるばるユダヤの山地まで出かけていきます。この場面は、イエスさまを中心にしたマリア、エリザベット、ヨハネの絵画的な出会いとして描かれます。わたしたちは、この出来事をマリアさまの愛に溢れた物語として読んでしまいますが、現実はそんな簡単なものではありません。エリザベットは高齢で、もう子どもなど産めるような年齢ではありませんでした。マリアは、自分の予期せぬ妊娠を告げられて戸惑うばかりです。これは、問題を抱えた人たちが出会うという物語なのです。マリアとエリザベットは、問題を抱えた当事者同士であったということなのです。実はこれが、教会の本来の姿を現しているのだといえばよいと思います。

第2バチカン公会議を境に、教会は位階制度中心の教会から、交わりの教会へと自己理解が変わっていきました。それまでは、教皇を頂点とした制度としての教会、神秘体としての教会が強調されてきました。しかし、現実の教会は、位階制度を中心とした完全な美しい教会などではなく、かえってその制度ゆえに歪んだ、コンプライアンスを欠いた集まりとなってしまっていました。教会の現実は、生きたいのちの集まりであり、お互いに関わり合い、あるときはぶつかり合っていくのが当然のことであるといえるでしょう。教会はイエスさまを中心に集まっているとはいえ、人間の集まりである以上、選ばれた聖なる人たちの集まりではなく、罪人の集まりであり、お互いの弱さや限界を抱えた人間同士の集まりであることに変わりはありません。それを、変に理想化し幻想を抱かさえるような教会のイメージを教えることに問題があるのです。教会は、救いを求めている人たちの集まり、つまり問題を抱えた人間の集まりであるのです。そのことが、今日の福音で描かれているのです。それは、当事者の集まりであるといえるのではないかと思います。

多くの人たちは、キリスト教や教会に人生の救いや問題の解決を求めます。また、この宗教を信じれば問題がなくなり、人生に安らぎが得られるというふうに考え、またそのように期待している人が少なくありません。もちろん入り口としてそのようなこともあるとは思いますが、それが表面的なところだけに留まってしまえば、健全な宗教のあり方であるとはいえないと思います。宗ということばは、ものごとの中心、要となるものの意味であり、つまり真実、真理を意味しているといわれます。ですから、宗教本来の役割は、人々を楽にしていくのではなく、人々に真実を突き付けていくこと、真実を明らかにしていくことだといえます。マリアは3か月ほどエリザベットのところに滞在して帰っていったと書かれています。マリアとエリザベットは、当事者同士として、自分たちの抱えている状況や問題を毎日語り合ったでしょう。それで問題は解決したのでしょうか。答えは「いいえ」です。望まない妊娠をしたマリアの立場は何も改善されることもなく、エリザベットの状況も何も変わったわけではありません。解決は何もなかったのです。ここからいえることは、キリスト教や教会に問題解決や人間的な救いを求めてもダメなことがわかります。そういうと、もともこもないといわれるかもしれませんが、宗教自体にそのような解決を求めているのであれば、現世利益を求めているのと変わりません。

それでは、2人は3か月間、毎日生活をともにして語り合って、やっぱり自分たちはどうしようもないといって肩を落として帰っていったのかというとそうではないと思います。2人は、お互いの課題について腹を割って話していくことで、自分たちに突き付けられた現実を受け入れていったのではないでしょうか。マリアは望まない妊娠をしたという事実を受け入れ、エリザベットも超高齢妊娠という事実を受け入れて、明日に向かって歩き始めたのだと思います。宗教とはその人を救って楽にするのではなく、その人の身に起こっている現実とその人を直面させ、そこから立ち上がらせていくということではないでしょうか。わたしたちは苦しいとき、自分でどうすることもできないとき、その解決を求めて、またその答えを探して宗教に助けを求めます。しかし、宗教は必ずしもわたしたちの望むような答えを与えてくれることはありません。むしろ、わたしたちの望む答えを出してくれるとしたら、その宗教には注意しなければなりません。宗教は、わたしたちに真実を明らかにするものです。わたしたちの苦しみの多くは、病でもわたしが抱えている問題でもありません。その多くは、わたしが自分の身に起こっている現実を受け入れられないことからくる苦しみです。病人が、自分が病気であることを受け入れようとしないのであれば、病気の治療を始めることすらできないのと同じです。勿論解決できる問題であれば、できる限り解決していかなければなりません。そして、その状況は当事者同士で話し合い、語り合っていくことで大きく動いていくということがあります。

その一方で、当事者でない人間は、当事者のことを分かっているつもりになって同情するということが起こります。しかし、当事者でないわたしたちはどこまでいっても相手の身にはなれない、相手のことを理解することなど不可能なのだということを知っておく必要もあると思います。むしろ、相手のことを自分は理解できるとか、相手の身になれると安易に思うことが、相手を傷つけてしまいます。心理学者の河合隼雄は「人の心がいかにわからないかということを、確信している」ことが人間理解のための前提であるといっています。

ですから当事者同士が苦しみや問題を話し合うこと、そして、教えるとか援助するという立場ではなく、そこにただ同伴する人の存在が大切になってくるのだと思います。マリアとエリザベットの間には、神の子であるイエスさまがおられました。イエスさまは、わたしたちの人生の光です。イエスさまという光のもので、わたしたちは真実に直面し、置かれている現実と相対していくことができるのです。イエスさまなしの話し合い、分かち合いは、ただの愚痴のいい合い、傷のなめ合いに終わってしまうことがあります。現代の教会にもしできることがあるとしたら、このイエスさまを中心とした当事者の分かち合いの場になるということではないでしょうか。いろんな人がいろんな意見をもっていていいのです。正しい教えや正しい答えがあるのではありません。それぞれが自分の持論を戦い合わせるような議論では、所詮わたしの正義のぶつけ合いとなり、傷つけあうだけとなり、それは教会の姿ではないように思います。

宗教を信じるということで、わたしの苦しみが取り去られるというよりも、イエスさまの光を通してわたしの身に起こっている現実をわたしが受け入れていけるようになるということではないでしょうか。そして、そのことを通して、状況が動いていくのだといえるでしょう。わたしたちはイエスさまという光のもとに、自分というものを明らかに見させてくださるように祈りましょう。宗教というものは信じて聞けば、問題の解決が見つかるというものではありません。むしろ、聞けば聞くほど闇が濃くなる、しかし闇が濃くなれば濃くなるほど、そこに輝く真理の光は輝きを増し、わたしたちは真実に照らされるということだと思います。そして、その真実を通してわたしというものが、日々問い直されていきます。それが、わたしたちが生きていくということであり、日々歩みを進めていくことになるのです。わたしたちはいのちですから、歩みを止めるということは死を意味します。転んでも、つまずいてもいい、それが問題ではなくて、何があってもなくても歩みを一歩前に進めていくこと、そのことが大切なことなのです。その力と助けをイエスさまとの関わりを通していただきたいと思います。

待降節第3主日  勧めのことば

待降節第3主日 福音朗読 ルカ3章10~18節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は洗礼者ヨハネの活動の様子が朗読されます。ルカは、洗礼者ヨハネを旧約最後の預言者として描きます。ヨハネは「蝮の子らよ」といって群衆に改心を迫りますが、その教えたことはマルコやマタイと比べると随分穏やかな姿が描かれます。ヨハネが人々に教えたことは、厳しい修行や改心ではなく、日常生活に根ざした誠実な生き方です。「下着を二枚持っているものは、一枚も持っていないものに分けてやれ。食べ物を同じようにせよ」、「規定以上のものを取り立てるな…自分の給与で満足せよ。だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな」。これは、旧約聖書で教えられてきた2つの掟、神への愛と隣人への愛を実践するようにと説くものでした。神を愛すること、そして「自分を愛するように、隣人を愛すること」、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である(マタイ7:12)」といわれていることであり、分かりやすい人間レベルの教えです。日本人であれば、「己の欲せざる所は人に施すこと勿かれ」と孔子の論語として慣れ親しんだ教えであって、わざわざキリスト教として教えてもらうまでもなく、多くの人たちが大切にして実践してきた教えです。自分のことだけではなくて、相手のことも自分のことと同じように考えましょうとか、相手の立場になって考えましょうというような当たり前の教えです。

これ自体、旧約の律法の隣人愛の掟であり、隣人愛と神への愛はひとつで、隣人を愛することが神さまを愛することですよ、というような話です。もちろんその通りなのですが、それだけをもってキリスト教の教えですよというのはいささかお粗末ではないでしょうか。イエスさまがわざわざ人間となって来られたのは、その程度の道徳を教えるためだったのでしょうか。そのようなことであれば、多くの宗教や倫理が教えていることであり、わざわざイエスさまがいのちをかけて伝えなくても、良心ある人なら誰でも分かるようなことでと思います。もしこのような倫理的な教えがキリスト教の本質的なメッセージであるというのであれば、はたして現代人であるわたしたちのこころの深い闇に、またわたしたちのこころの深い渇きに応え得るでしょうか。ただ生まれ育った家の宗教がキリスト教であるということでもなければ、現代人がそのような道徳的な教えに関心をもち、キリスト教を求めるでしょうか。

洗礼者ヨハネは「その方は、聖霊と火であなたがたに洗礼をお授けになる」と宣言します。つまり、洗礼者ヨハネの到来によって旧約の時代は終わり、「その方」つまりイエス・キリストによってまったく新しいことがもたらされるのだということがいわれているのです。「聖霊と火」とは、イエスさまによってもたらされる新しさを意味しています。それでは、その方のもつ新しさ、今までとの違いは何なのでしょうか。そのことは具体的には述べられていませんが、わたしたちに告げられるイエス・キリストという出来事が新しさそのものであるといったらいいのかもしれません。その新しさは、イエスさまの生涯を通して、わたしたちに少しずつ明らかにされていくことになります。そして、このイエスさまという方と出会った人たちは、イエスという方自身に魅せられて、もはやイエスさまなしの人生など考えられなくなっていくのです。この生きたイエスさまとの出会い、これこそが新約の新しさそのものであるといえるかもしれません。

旧約での神さまのメッセージというものは、人間の理性で理解でき、人間の力で実行できるものであったということができるでしょう。神さまから与えられた掟と律法を理解して、それを守ってきちんと生活すれば神さまから恵みと祝福がありますよというような教えです。これならだれもが理解し納得できますが、わたしたちが通常現世利益とよんでいる信仰形態の域を出ないものでしかありません。しかし、新約のメッセージ、イエスさまご自身が人間の知性や判断を超えたものであるということは、人間には必ずしも分かるものではないということを意味しています。人間は、自分の理解できないもの、自分の分かりえないものを怖れますが、同時に自分の知性で理解できないもの、神秘に憧れを抱きます。旧約と新約との関係は、歴史的に見れば連続しているようにみえますが、別の視点から見るとまったくの不連続であるといえるでしょう。その違いは、表面的な量的な違いではなく、絶対的な質的な違いであるといえるでしょう。今までは何もかもが人間中心であったものが、神中心となるという視点の大転換があるということだともいえます。それが、イエス・キリストという出来事なのです。

今まで、わたしは神さまについて多くのことを知っていると思っていました。しかし、イエスさまの登場によって、神さまはわたしたちにとってまったくの見知らぬ方、わたしたちが知っていると思っていた神さまとはまったく違っていたということを知ることになります。わたしたちが知っていると思っていた神さまは、わたしたちが今までの人類の歴史の中で体験し、そこから演繹されたもの、わたしたちが自分の人生のなかで出会った人の親切や愛の延長線のなかで、神さまのイメージを投影して作り出したものに過ぎなかったということなのです。本当の神さまは、わたしたちが人間のレベルで考え得る方とは似ても似つかない方であるということなのです。よく神が愛である、慈しみであるといいますが、それは人間が考え、想像できるような愛とか慈しみとはまったく異なったものであるということです。それがイエスさまなのです。

これは、キリスト者であるわたしたちの信仰生活にもすべて当てはまります。わたしたちは洗礼を受けてイエスさまを信じているといっても、それはわたしたちが理解して、考え得るイエスさまを信じているだけであって、そのイエスさまはどこまでもわたしたちの必要を満たし、わたしたちを幸せにしてくれる方でしかないということではないでしょうか。しかし、それはあくまでもわたしたち人間の側から見た捉え方であって、人間の延長線上でのイエスさまに過ぎません。たとえ、わたしはイエスさまを知っていると主張しても、それはわたしの小さな頭の中でのことであって、イエスさまを本当の意味で知っているとはいえないのです。そうすると、わたしたちはイエスさまを自分の中に閉じ込めてしまい、イエスさまご自身がわたしのなかで自由に働かれるのを妨げてしまうのだといわざるを得ないのではないでしょうか。わたしたちは、信仰生活においても旧約時代を生きていることがほとんどです。つまり、わたしという人間の視点からしか見ていない、考えていない、祈っていない、信じていないというところに留まっているのです。新約の時代に入るということは、イエスさまがすべてにおいて中心となられるということです。そのためには、わたしたちの自己中心というあり方が転換されていくことによって、イエスさまはわたしたちのなかでご自身を現され、またお働きにもなっていくということです。わたしたちの自己中心が転換されるということは、わたしたち人間が何も思い通りにはできないのだという現実をしっかりと受け止め、そのことを自覚させていただくことに他なりません。事実、わたしたちは自分のことを含めて、何も自分の思うようにはなりません。

わたしたちの道は、イエスさまの歩まれた道を辿ることであり、イエスさまの道は愛の道ですから、この愛は常に自分自身を失い、愛する方のために自分から脱出していくことに他なりません。その歩みを進めるためには、わたしたちが存分にイエスさまご自身に、その愛に触れる必要があります。そのことなしに前進することは不可能だからです。そのようにして初めて、わたしたちは旧約から新約へと脱出していくことができるのです。これを、「あの方は、聖霊と火であなたがたに洗礼をお授けになる」といい、手に箕をもって、古い旧約の殻を焼き払われ、本来のわたしたちが生まれていくのです。わたしたちの古い旧約のもみ殻、つまり古い人間の基準に従って生きてきたわたしたちは焼き払われてなければならないのです。

12月のお知らせ

2024年12月9日現在の予定です。変更される可能性もございます。

■2025年は「通常聖年」です。
「希望は欺かない―2025年の通常聖年公布の大勅書」が中央協議会のサイトに公開されています。https://www.cbcj.catholic.jp/2024/07/24/30297

■大塚司教の聖年についての文書
2025年聖年「希望の巡礼者」を迎えるにあたって
https://kyoto.catholic.jp/shikyo/20241124.pdf

クリスマスメッセージ
https://kyoto.catholic.jp/shikyo/2024christmas.pdf

司教年頭書簡
https://kyoto.catholic.jp/shikyo/letter202501.pdf

が、教区のホームページに掲載されています。
各国語版もありますので、お知り合いで必要な方がおられましたらお伝えください。

■今年度分の教会維持費の納入がまだの方は、どうぞよろしくお願いいたします。

■高野教会ミサ予定
1日(日)待降節第1主日 ミサ10:30
3日(火)ミサ10:30
8日(日)待降節第2主日 第2日曜日につきミサはありません
10日(火)ミサ10:30
15日(日)待降節第3主日 ミサ 10:30
17日(火) ミサ10:30
22日(日)待降節第4主日 ミサ10:30
24日(火)主の降誕夜半のミサ ミサ17:00
29日(日)聖家族 集会祭儀 10:30
31日(火) ミサはありません。


■主の降誕 近隣教会のミサ
西陣  主の降誕日中 ミサ25日(水)9:00
北白川 主の降誕夜半ミサ 24日(火)19:15 主の降誕日中ミサ 25日(水)10:30
河原町 主の降誕夜半ミサ24日(火)18:30、21:00
主の降誕日中ミサ 25日(水)7:00、10:30、13:00(英語ミサ)

■任意団体の活動
3日(火) ミサ後 コミュニティ広場 
4日(水) 10:00 シスターレベッカの英会話
7日(土) 10:00 高野教会混声合唱会
10日(火) ミサ後 コミュニティ広場
14日(土) 10:00 キリスト教のエッセンスを学ぶ会(ペトロ)
17日(火) ミ サ後 コミュニティ広場
17日(火) 13:30 アフタヌーンティー(教会に興味のある方、初めて来られる方、どなたでも
18日(水) 10:00 シスターレベッカの英会話
21日(土) 10:00 高野教会混声合唱会
22日(日) ミサ後 コミュニティ広場
28日(土) 10:00 キリスト教のエッセンスを学ぶ会(パウロ)
29日(火) ミサ後 コミュニティ広場

■ その他
12月22日のミサの後、ホールにて、教会学校の子どもたちが発表を行います。(プログラム未定)

■オンライン版『教会の祈り』について 
従来「聖務日課」と呼ばれてきた「教会の祈り」が、カトリック中央協議会のサイトにて公開されましたのでご利用ください。
https://www.cbcj.catholic.jp/2024/11/25/30970

待降節第2主日 勧めのことば

待降節第2主日 福音朗読 ルカ3章1~6節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は、イエスさまの宣教活動に先立つ洗礼者ヨハネの活動を述べます。ルカは、その際に“とき”ということを強調します。「皇帝ティベリウス治世の第15年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督であったとき…」と述べています。それは、おそらくイエス・キリストという出来事が、いわゆる伝説や架空上のおとぎ話ではなく、人類の歴史のなかで実際に起こった出来事であることを強調しようとしたのだと思います。

普通、わたしたちは現在・過去・未来というときの流れのなかに生きているというふうに考えています。また、時間というものがあると考えています。だから、よきにつけわるきにつけ、わたしたちは過去の行いによって今の自分があり、その自分が過去を背負って生きていくのだというふうに考えます。勧善懲悪的なものの考え方というものは、過去によいことをすれば将来よい報いがあり、悪いことをすれば将来罰がくだるという時間の流れの中で因果関係を捉えていくという発想になります。そして、実際の人間社会も宗教もそのように時間というものをとらえています。しかし、現代の物理学の発達によって、時間を初めがあって終わりがあるような現在・過去・未来というようなときの幅をもった連続として捉えるのではなく、時間というものはあくまでも、人間が天体などの運動法則等によって作り出された変化をはかるための物差しにすぎないと考えるのが主流となっています。ですから、人間が考えている現在・過去・未来というのは人間の作り出した物差し、決め事であって、宇宙そのものはそのような時間や空間の規定の枠のなかにはないというように捉えられています。ということは、わたしたち自身も宇宙の一部ですから、わたしは時空のなかにいるわけで、実は時間というものは人間の決めた約束事であり、必ずしも真実、リアリティあるものであるという確証はないということになります。つまり、今わたしが生きていると思っている時空の世界は、人間が理性で過去と未来として認識しているのにすぎず、今という現実を人間は認識することはできないということなのです。それでは、一体何が真実、リアリティなのでしょうか。

そのような観点から、改めて今日の箇所を読み直してみると、まったく別の読み方をしていくことができると思います。皇帝ティベリウス治世の第15年のとき、洗礼者ヨハネが悔い改めの洗礼を宣べ伝えた、預言者イザヤを通して「人は皆、神の救いを仰ぎ見る」といわれたそのときは、世界史的には紀元27年か28年にあたると特定されています。それによって、イエス・キリストという出来事を人間の歴史的事実として位置づけることができます。しかし、まったく別の観点から読み直していくと、その“とき”というのは、紀元27年か28年にあたる過去の時間のある一点をいうのではなく、人が皆、神の救いを仰ぎ見つつあるそのとき、イエス・キリストによって救いが実現しつつあるとき、わたしたちが“今、救われつつあるとき”、つまり永遠における今であるところの、わたしたちが決して捕まえることができないその“とき”であるということではないでしょうか。それが、神さまは永遠であるということです。

聖書の中では、イエスさまといついつに出会ったといういい方がなされており、わたしたちもイエスさまとの出会いというとそのように時間とか自分の人生の中でのこととして考えてしまいます。確かに、ヨハネ福音書では最初の弟子がイエスさまと出会ったのが「午後4時ごろ(ヨハネ1:39)」であったとか、パウロのようにダマスコへ行く途中で復活されたイエスさまと出会った(使徒9:2)というような体験が描かれています。確かにそうなのでしょう。しかし、大切なことは、今生きているわたしたちがイエスさまと出会うことができるのは、過去のあるときでもなく、まだ来ていない未来のあるときでもなく、わたしが生きている今この“とき”でしかないということです。聖書に描かれているような、過去の人の救いの体験というものは参考になるでしょうし、それを黙想して追体験するということもできるでしょう。しかし、救いそのものを、救われたという過去の出来事や思い出であるとか、その過去に起こった出来事にもとづいて未来に起こるであろうことであると捉えてしまうと、救いとは人間のこころの問題になってしまいます。そのようになると、わたしたちは過去の救いの体験にしがみつくか、未来の救いの希望にしがみつくことになります。こうして、救いはいずれも人間のこころの問題になってしまうのです。そうすると、わたしがどのように生きたかとか、どのように生きるかとか、わたしがどれだけ強く信じたかとか信じなかったかによって、救いが決まってくるということになっていきます。救いは、過去の出来事でも、未来の約束事でもありません。救いや永遠のいのちを、将来受けるであろう何かと捉えることになってしまいます。これらは人間の作り出したものであって、それらが真実であるという保証はどこにもありません。なぜなら、わたしたちが信じるというとき、その対象は不確かだということだからです。ですから、わたしが信じれば信じるほど真実が深まり、救いが確実になるということはあり得ず、信じれば信じるほど不信の闇は深くなるのが現実です。それは、救いを人間の信じるという行為によると捉えているからです。そうすると疑いのこころが起こるのは信仰が弱いからだといい、追い打ちをかけるような教えになってしまいます。

しかし、救いは神さまの行為であり、神さまの業です。人間の行為とか、人間の信仰の影響を受けません。しかし、人間は自分が救われたという証拠が欲しいので、救われたという体験を記憶につなぎ留めたり、教会に保証を求めたり、またそれを自分の信仰の深さに求めてきました。しかし、自分のこころを拠り所としている限り、そのような状態が長続きすることはあり得ません。それは、最初の弟子たちもパウロも同じだったでしょう。あの出来事は一体何だったんだろうと疑いのこころを起こしつつ、自問自答していたのではないでしょうか。ですから教会では、繰り返して感謝の祭儀をおこなって、イエスさまのことを忘れないようにしてきたのだと思います。そして、わたしたちは過去に犯した過ちや罪に対して恐れおののきつつ、将来訪れるであろう苦しみや罰に怯えながら人生を過ごすのです。教会がそのような教え方をしてきたということも否めません。しかし、もしわたしたちの人生がそれだけであれば、人間は人間が作り出した時間の奴隷にすぎません。そうではなく、神さまが永遠で、生きておられるということは、わたしたちがイエスさまと出会い救われるのは、わたしの業とか何かによるのではなく、わたしが生きている今、救われつつあるのは永遠の今であるこのときにおいては他にあり得ないということなのです。やれ救われた救われないという不確実な人間の思惑が入り込まない、しかしわたしたちが現実に生きている今というこの“とき”こそが、神さまとわたしとの出会いのために与えられた“とき”であるということなのです。そして、このときはイエスさまが人類のために一回きり、ご自分のいのちを捧げてくださったその救いのときでもあるのです。

主の降誕に向かってわたしたちは黙想会に参加したり、12月25日にイエスさまが来られると信じて馬小屋を整えたり、こころを浄めてイエスさまを迎えようと準備します。それ自体はよいことなのですが、考えてみると、確実なものなど何もないわたしたちは何と愚かなことをしているのでしょうか。イエスさまがわたしたちを訪れ、わたしたちのうちにイエスさまがお生まれになるのは、二千年前の過去のベトレヘムの馬小屋ではないのです。まして、まだ来ていない今年の12月25日でもないのです。イエスさまは、今生きているわたしのうちに、今お生まれになるのです。イエスさまがお生まれになるのは、“今というとき”をおいて他にはないのです。

待降節第1主日 勧めのことば

待降節第1主日 福音朗読 ルカ21章25~28節、34~36節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今年も待降節に入りました。待降節はイエスさまの降誕を待つ季節として理解されていますが、アドベントということばは「来る」という意味です。ですから、待降節は大きく2つの部分に分かれています。12月17日からは降誕前の8日間として、主にイエスさまの降誕に向けた準備の時期として位置づけられています。それに対して、待降節第1主日から16日までは、イエスさまの再臨ということがテーマとなっています。ですから、今日読まれる福音箇所は、イエスさまの再臨ということがテーマです。

このテキストは福音書のなかでも解釈の難しい箇所のひとつです。ルカはこの箇所の直前で、ローマ帝国によるエルサレムの都の包囲と滅亡を予告していますが、ルカが書かれたときすでにエルサレムの都は陥落していました。なぜこのように書かれたのかというと、エルサレムの陥落は聖書で預言されており、イエスさまを拒んだユダヤ人への神の怒り、裁きとして描きたかったのでしょう。ルカ福音書は、ユダヤ教からキリスト教になった人、またユダヤ人でないキリスト者に宛てて書かれています。エルサレムの都の陥落と多くのユダヤ人が虐殺され捕虜となったことは、彼らにとっても大きなショック、信仰の試練となったようです。というのは、当時のキリスト者たちにとって、エルサレムはイエスさまが最期を遂げられた聖地であり、救いはエルサレムから始まると考えていたからです。ルカ福音書の後編でもある使徒言行録では、「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父から約束されたものを待ちなさい(1:4)」と述べられ、聖霊降臨、そしてそこから福音宣教が始まることになっています。

当時の初代教会は、ユダヤ教から受け継いだ終末思想を生きていました。ユダヤ教の終末思想というのは、試練によって浄められたイスラエルの民にメシアが遣わされて救いがもたらされ,審判が行われて人類の歴史が完成するというものでした。この思想は初代教会にも受け継がれ、旧約聖書で預言されていたメシアであるイエスの生涯、死、復活によって終末と救いが始まり、メシア(キリスト)が再臨することで人類の歴史は完成され、神の国が到来するという期待が広がっていました。そして、その舞台がエルサレムでした。そうした期待が、苦しい状況を生きるキリスト者のこころの拠り所となっていたのです。

しかし、そこでキリスト者たちが体験したことは、神の沈黙とキリストの再臨の遅延という現実です。神さまは、エルサレムの都が滅ぼされ、民が殺されるままにしておられる。彼らはすぐにでもキリストが再臨して、ローマ帝国の支配を裁かれると考えていましたから、何が何だかわからないということだったと思います。ですから、この神の沈黙とキリストの再臨の遅延という事実について、キリスト者たちは再解釈をしなければならなくなったわけです。再臨の遅延を、さらに時間的に延長したり、精神化して捉えようとしたりしました。その後この終末思想は、キリスト教の教義となり、現在も死、審判、地獄、天国を四終として教え、私審判と公審判とか、天国・地獄・煉獄の教えと絡み合って、怖れでもって信仰教育をする時代が非常に長く続いていくわけです。21世紀になっても、このような前世紀的なことが教えられていることに驚かされます。

この終末思想は、特定の民族に偏った現世利益的な救済観、歴史観です。そもそも、イエスさまの十字架の死によって、ユダヤ人の救いは果たされませんでしたし、安定した日常も訪れませんでした。つまり、イエスさまはこの世から人類の苦しみをなくされなかったということです。わたしたち人間が生きていく限り、誰もが体験する老病死という現実はなくならなったのです。イエスさまはわたしたちの幸せを実現するような、またわたしたちが生きる上での苦しみ、老病死からの救い主ではなかったということなのです。初代教会の体験したことは、イエスさまの十字架、復活という出来事を信じても、自分たちの苦しい人生は何も変わらないということです。むしろ、それに追い打ちをかけるように、エルサレムの都の陥落、ローマ帝国によるユダヤ人の虐殺、その後はキリスト教徒に向けられる迫害と試練が続きました。その中で脱落者も出てきます。もとのユダヤ教に戻ろうとするもの、キリスト教信仰から離れるものも少なくありませんでした。彼らは、神の沈黙、イエスさまの不再臨に待ち疲れてしまいました。ユダヤ教から受け継いだ終末思想は、もはや彼らの信仰の拠り所にはなり得なかったということです。

それでも尚且つ、彼らがイエスさまへの信仰を持ち続けたのはどうしてでしょうか。当時の人々があれほどの試練のなかでも、イエスさまへの信仰から離れなかったのは、彼らが頑張ってイエスさまを信じ続けた意志の強さゆえでしょうか。そうではないと思います。もはや、人間の力でどうこうできる種類の状況ではなかったはずです。それはキリスト者が頑張って信じたからではなくて、イエスさまからの働きかけ、彼らがイエスさまから離れられない何かがあったのではないでしょうか。イエスさまは、当時の人々の望みに何も答えませんでした。ローマ帝国によってエルサレムの都が破壊され、ユダヤ人たちが殺害されあるいは捕虜にされ、今度は自分たちに迫害の矛先が向けられてくる。神は介入せず、イエスさまが再臨して自分たちを危険から守ることもされません。終末論的な希望はすべて打ち砕かれたのです。

それでも、彼らが信じ続けたのは、彼らの意志や信念、こころの強さではなく、復活されたイエスさまが彼らのなかに生きておられ、彼らを捕らえて離そうとされなかったということではないでしょうか。これを復活体験というのです。彼らはもはやイエスさまなしの人生など考えることが出来ないほど、イエスさまから深く関わられてしまったのです。パウロはそのことの体験を「キリストの愛がわたしたちを駆り立てているのです(Ⅱコリ5:14)」といいました。パウロ自身がではなく、イエスさまがパウロ自身を捕まえてしまったと告白するのです。だから「誰が、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができるでしょうか。艱難か。苦しみか、迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か(ロマ8:35)」というのです。わたしがイエスさまのことを忘れようとも、どれだけ離れようとも、呪おうとも、イエスさまは決してわたしを見放そうとはされない、そのことを体験した人は、自分のなかで復活されたイエスさまが今生きておられ、もはやイエスさまの再臨を待つ必要がなくなったのです。ただ、わたしがイエスさまとその人生をたどるために、待降節があり、降誕祭があるのにすぎないのです。わたしたちは、いつもガリラヤから始めて、わたしとともに歩んでくださるイエスさまとともに人生を歩んでいけるのです。

今生きているわたしたちは、その当時の終末思想の焼き直しのような終末論を教えられています。最後の審判で、正しい人は報われ天国に行き、悪人は罰せられる地獄に落とされると。イエスさまは、正しい人にも正しくない人の上にも注がれるいつくしみ深い神さまの真実を説かれたのではなかったでしょうか。それなのに、どうして教会は救われる人と救われない人を区別しようとするのでしょう。また、今もっても教会の内と外とを区別しようとするのでしょうか。イエスさまとともに生きている人にとって、もはやそれらの区別は存在しないのです。なぜなら、わたしたちは、わたしのうちに生きておられるイエスさまと出会っているからです。ですからわたしたちが気づきさえすれば、イエスさまはわたしたちのうちにおられ、わたしたちはイエスさまのうちにいるのです。その気づきを、イエスさまの降誕、イエスさまの再臨というのです。この待降節を迎えるにあたって、改めてわたしたちが置かれている身というものを省みてみましょう。

王であるキリスト 勧めのことば

王であるキリスト 福音朗読 ヨハネ18章33~37節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は王であるキリストのお祝い日です。キリストが王であるといいますが、そもそも、王という存在はいかなるものでしょうか。ピラトは「お前がユダヤ人の王なのか」と質問しています。ピラトは総督で王、皇帝の下にいました。王、皇帝はこの世で権力と富を一身に掌握し、人身の頂点に立ち、自分の思いや願いをすべて通していける存在です。ですから、ピラトはイエスさまに、お前は権力と富を一身に掌握し、自分の思いや望みを実現していくものなのかと問うているのです。王は自分の思いや望みを実現していくために、国を建てることも必要になります。国土をもたない王というものはありません。ですから「お前がユダヤ人の王なのか」と聞くのです。

では国というものは何でしょうか。わたしたちが国というものを考えると、それは特定の領土と特定の国民、ある種の統治形態を備えたものであると考えます。ですから、国は地球上の北緯何度、東経何度にあって、そこには国民がいて、国境があってということになります。つまり、国という概念を持ち出してくると、それは地球上のどこかにあって、領土と国境があって、その国の国籍をもった人と国籍をもっていない人がいて、その国に入ることができる人と入ることができない人がいるということになります。つまり、国という概念は人を分断していく考え方であるということになります。しかし、ここでイエスさまが「わたしの国」といわれたことばは、共観福音書では「神の国」と訳されている“国”にあたることばで、その意味は「支配する」「統治する」ことであって、国土という意味はありません。つまり、イエスさまが「わたしの国はこの世には属していない」といわれたのは、わたしの国というのは、あなたがたが考えているような国土を伴うような国ではないし、わたしはあなたがたの考えているような王ではないといわれたのです。ですから、このお祝い日は誤解を招くお祝い日であるということなのです。

わたしたち人間は、夫々がグループや家庭、地域、職場、宗教、国家などにおいて、いろいろなことを自分の思いを通していきたい、そのような存在です。つまり、テリトリーや国土をもち、王、トップ、上になりたがる存在であるということです。わたしたちは、すべてを自分の思い通りにして、自分の望みを叶えて自己実現していこうとするのです。これは人間として、どうすることもできない現実なのです。しかしそれで、果たして人間は幸福になれるのかということです。

イエスさまがいのちをかけて伝えようとされた神の国は、わたしたちが考えるような国ではないし、イエスさまはそのような国の王でもないといわれたのです。しかし、それがマタイでは天の国になり、天の国が天国となっていきます。そして、神の国は場所とか、人間のこころの問題、あり方として理解されるようになっていきました。よいことをした人は入れて、そうでない人は入れない、そこには審判する王がいて、すぐに入れない人たちが待機する場所がある(煉獄、化国)いう発想が出てくるのです。しかし、イエスさまはそのような国のあり方、王のあり方を否定されたのです。

それではイエスさまが王であるというのはどのような意味なのでしょうか。それを、イエスさまは「わたしは真理を証しするために生まれ、そのためにこの世にきた」といわれました。イエスさまの役割は真理を証しすることです。今日の続きの箇所で、ピラトは「真理とは何か」とイエスさまに聞きますがイエスさまは答えられませんでした。自分で考えろということでしょう。わたしたちは、よくこれは本当だとか、この宗教、教えは真実だといういい方をしますが、真理とはそのようなものの性質や種類や現象をいうのではなく、真理を真理たらしめるものは何かということなのです。

イエスさまは別の箇所で「わたしは道、真理、いのちである」といわれました。真理とは、いかなる時代でも、どのような場所で変わることがない真実のことです。イエスさまは、“俺が真理で正義だ、だから俺を信じろ”と自己主張されたという意味ではないのです。イエスさまは、ご自分のあり方、生き様で真理の本質、内実を示されたということではないでしょうか。そのイエスさまのあり方の本質は、「友のためにいのちをすてること、これ以上に大きな愛はない(ヨハネ15:13)」といわれた利他性にあるということができると思います。ユダヤ教のもっていた限界は、わたしが神を愛する、自分を愛するように隣人を愛する、またわたしが敵を愛するというふうにいわれてきた自己中心性にあります。英語ではエゴセントリズム、またはセルフセンタードネスといわれるものです。エゴイズムは単なる自分勝手、自己中で、非常に幼稚な自己のあり方を指しますが、エゴセントリズム、またはセルフセンタードネスというのは、人間は自己というあり方を離れて、客観的に事実を認識し、判断することができないことをいいます。ですから、エゴイズムはある程度は人間の注意で矯正できるものですが、わたしたちの自己中心性は人間をやめない限りなくならないということなのです。

そもそも、キリスト教信仰自体が、この自己中心性の上に成り立っています。わたしたちが信仰といっても、信仰を自分のこころのあり方として捉えている限り自己中心性が最後まで残ってしまいます。これが、現代のキリスト教が行き詰っているところです。しかし、イエスさまがメスを入れられた、切り込んでいかれたのがこの自己中心性なのです。それは、「友のためにいのちをすてる」ということなのですが、それは単に他人のために自分のいのちを捨てる、自分が救い主として上から目線でこの世を救うということでは終わりません。すべての人、この世界を救い取らない限り、自分も救い主にならない、安息に入らないというのがイエスさまのあり方だということなのです。これこそがイエスさまが王であるゆえんです。パウロはそのことを「キリストは、神の身分でありながら、神と等しいものであることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じものとなられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした (フィリピ2:6~8)」といい、ヨハネ福音書では「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ(ヨハネ5:17)」といわれていることです。

そして、これは単に自分のあり方を捨てるという利他性だけにとどまりません。どういうことかというと、イエスさまは世界を救う自分をこの世界の中心に置くということはされないのです。わたしたちは普通、自分が先にあって他人があると考えます。これが自己中心性といわれるものです。ですからイエスさまについても、救い主としてのイエスさまが先にあって、イエスさまがこの人類を憐れんで救われるのだというように捉えます。しかし、イエスさまはそうではないです。救い主としての自分があって人類があるのではなく、救われなければならない人類、宇宙があるから自分があり、また救われるべき人類、宇宙によって自分は救い主になるのだといわれるのです。そして、そのような相互関係こそがこの世界本来のあり方であり、これがイエスさまは神の国、神の支配といわれたことの内実なのです。ですから、この世界はすべてお互いさまであり、この世界すべてが神の国の当事者なのです。これが真理なのです。

ですから真理とは、わたしを離れてどこかにあって、それをわたしが手に入れるということではなく、自分というものは、実は他人によって自分であるということに気づかされるということだといえます。このことをキリスト教は回心と呼んでいます。ですから、回心は軌道修正とか反省ではなく、パラダイム変換なのです。自分が先にあって他人があるとかでなくて、他人があって自分がある、自分があって他人があるという、この世界の本来的なありさまをイエスさまが神の国の宣教によってあきらかにし、自分の生きざま、死にざまをもって、真理をあきらかにしてくださったのだということなのです。現代人はみな個人としての自分が中心になっています。そのようなわたしたちに、真理とは何かが問われているということなのです。

年間第33主日 勧めのことば

年間第33主日 福音朗読 マルコ13章24~32節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

マルコ福音書は紀元66年から始まった第1次ユダヤ戦争の頃、ローマで書かれたといわれています。第1次ユダヤ戦争は、当時のユダヤ州の総督がインフラ整備の資金のために、エルサレムの神殿から宝物を持ち出したことが発端となって始まります。ローマ帝国への支配に対して不満をもっていたユダヤ教の過激派グループが反乱を起こし、73年まで争いが続きました。エルサレムのキリスト者共同体は戦乱を避けて、ギリシャのべレアに非難します。マルコ福音書の読み手は、ユダヤ戦争を逃れてきたキリスト教共同体であったと考えられます。

当時のキリスト教は、まだユダヤ教の一派として留まっていました。しかし、ユダヤ人以外の信者も増えて、ユダヤ教の狭い枠組みから脱皮し、世界宗教へと変容を遂げようとしているところでした。彼らは、ユダヤ教の伝統を尊重しながらも、ナザレのイエスをメシアと信じ生活していました。エルサレムは、彼らにとってもイエスさまが十字架の死を遂げられた聖都であり、信仰の拠り所でした。当時の彼らの信仰は、イエスさまがメシアとして再臨し、新しいエルサレムを再興してくださるということでした。ですから、ユダヤ戦争の成り行きを祈るような気持ちで見守っていたのでしょう。そして、自分たちに聞こえてくるユダヤ戦争の惨事を、終末のしるしとして捉えるというのが当時の終末思想でした。

終末思想というのは、当時のユダヤ教のなかに広まっていた考え方で、試練によって浄められたイスラエルの民にメシアが遣わされ、救いがもたらされ,審判が行われて人類の歴史が完成するというものでした。この思想は、キリスト教にも引き継がれました。初代教会では、旧約聖書で預言されていたメシアであるイエスの生涯、死、復活によって終末と救いが始まり、メシア(キリスト)が再臨することで人類の歴史は完成され、神の国が到来すると信じられていました。ですから、当時の人々はイエスさまの再臨がすぐにでも起こると考えていました。復活されたイエスさまに出会った弟子たちは、「主よ、イスラエルのために国を立て直してくださるのはこの時ですか(使徒1:6)」と尋ねています。マルコ福音書の読者たちも、ユダヤ戦争、エルサレムの都の惨状などを耳にし、すぐにでもイエスさまが再臨して、裁きが行われ神の国が到来すると考えていたと思われます。ですから、マルコ福音書の中には、イエスさまの再臨を期待させる記述が出てきます。しかし、歴史的には、イエスさまが再臨されることはありませんでした。エルサレムの都の陥落以降、またローマ帝国による支配とキリスト教の迫害のなか、キリスト教徒は一連の終末思想を再解釈していかなければなりませんでした。

そもそも再臨とか、終末、審判という思想そのものが、ユダヤ教の枠組みのなかの民俗的希望が色濃く反映されたひとつの歴史観であり、それをもって全人類の歴史を理解しようとすること自体限界があるといえます。日本でも末法思想が広まった時代がありました。末法とは、釈迦が説いた教えが正しく実践されている時代が過ぎると、次に教えが形骸化し、やがて人も世も最悪となるという歴史観です。日本では、平安時代末期から末法の時代に入ったと考えられてきました。キリスト教は、今でもこの終末思想に基づいた歴史観を説いており、それを教義として人類の歴史やこの世界の始まりと終わりを説明しようとしています。そもそも、この宇宙の成り立ちをキリスト教の教義ですべて説明できるわけがありません。アインシュタインは相対性理論によって、わたしたちの時間・空間の概念は人間が作り出したものであり、相対的なものでしかないといいました。わたしたちは、今日の福音を読むとき、新しく読み直していくことが必要になるのです。この箇所から学ぶべき点は、人間の理解、教会の教えの限界と真理を表す神のことばの永遠性ということだと思います。「天地は滅びるが、わたしのことばは決して滅びない」といわれていることです。それでは、なぜことばなのでしょうか。今日は、ことばということに注目してみたいと思います。

そもそも、ことばというものは、人間が音声や文字を用いて自分の考えや感情等を伝達するために用いる記号体系です。ことばは、人類が獲得したひとつのコミュニケーションの手段です。それでは、ことばをもたない人間以外の動物や植物がお互いに、また他の生命体とコミュニケーションを取っていないかというとそうではなく、夫々彼らの感性を使ってコミュニケーションを取っています。そして、絶えず変化していく自然界のなかで、その変化を感じ対応しています。それが、生きるということでしょう。それに対して、人類はことばというものを獲得したがゆえに、わたしたちが生きるという現実を非常に狭く限定してしまっているのではないでしょうか。どういうことかというと、わたしは自分というものを中心に据えて、自他の境界を設けて、物事を理解していこうとします。そしてことばでもって、自分以外のものを認識し、自分以外のものの善悪、正邪、優劣などを判断していくのです。しかし、自然の世界には自我の区別はありませんから、よい悪いも上下もありません。しかし、人間はことばでもって区別、差別をしますから、それゆえに競争と争いを作り出してしまいました。人間が、自分の都合判断で、これはよいこれは悪い、これは優良でこちらは劣悪だと決めているだけであって、自然のなかには優劣などありません。自然はお互いに調和しており、そこに善悪、優劣はなく、従って争いや憎しみ、競争もありません。それがあると決めつけているのは人間であり、すべて人間目線から見た人間の都合なのです。人類はことばを獲得することで、飛躍的に文明を進化させてきました。しかし、自然そのものがもっている主客を分離しない一体性、いのちの調和、言語化できないいのちの平衡、言語化できない現象を切り捨ててきました。その結果、人類の進歩、社会の発展を手に入れましたが、その引き換えに苦悩を引き寄せてしまいました。そして、そのような視点から、人間目線の歴史観や宗教、そして終末思想が生まれたのです。

しかし、近年、ことばでもって現実を非常に狭く限定してきた歪みがあらわになり、地球温暖化から始まり、人間の活動の限界、ことばの空洞化、世界といのちの分断化などがいわれるようになりました。ですから、ことばを主体とする人間活動のひとつであるすべての宗教にも、限界があるのは当然のことなのです。特に、ユダヤ・キリスト教は、ことば(ロゴス)中心の宗教ですから、パウロが「文字は殺しますが、霊は生かします(Ⅱコリ3:6)」と指摘したように、ことばは人を生かしも殺しもするということを、こころしなければならないと思います。生きたイエスさまの福音を、ギリシャ哲学の概念で説明してきた教会の試みは、福音を生き生きとさせるものではなく、窒息させてしまったともいえるでしょう。

神さまは、このような人類の歩みを予見して、自らがことばとなってわたしたちのうちに宿られ、わたしとなられた、それがイエスさまなのです。ことばで自分たちを苦しめている人類に対して、自分がことばとなって、人間のうちに宿り、人間を照らし、解放しようとされたのがイエスさまです。神さまがことばとなることで、ことばにいのちを宿らせ、イエスさまの死と復活という出来事を通して、そのいのちのことばをこの宇宙、全世界に満たしてくださったのです。そして、そのことばをもってわたしたち人間に働きかけ、人間ひとり一人に呼びかけられたという出来事がイエス・キリストだったのだといえます。これが、ヨハネ福音書の冒頭で「ことばのうちにはいのちがあった。いのちは人間を照らす光であった。光は暗闇のなかで輝いている。暗闇は光を理解しなかった…ことばは肉となって、わたしたちの間に宿られた」といわれていることなのです。このことばは永遠のいのちのことばであり、「イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名によって命を受けるためである(ヨハネ20:31)」といわれたように、イエスさまの名によって、イエスさまの働きによって、わたしたちは人間のことばの限界を超えた真のいのちの世界に触れさせていただけるようになったのです。そして、この真理であるいのちのことばは、決して滅びることがなく、わたしたちを今も絶えず照らし続けており、すべてを超えて働くいのち、光なのです。そしてわたしたちは、今その光に覆われているということが福音なのです。これが「天地は滅びるが、わたしのことばは決して滅びない」といわれたことの真実なのです。