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年間第11主日 勧めのことば

年間第11主日 福音朗読 マタイ9章36~10章8節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の福音はイエスさまが、12使徒を選び、福音宣教に派遣される箇所です。イエスさまが、12人を選び、福音宣教へと派遣されるのは、人々が「飼い主のいない羊のように弱り果てて、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれ」たからです。そのために「汚れた霊に対する権能をお授けになった」とあります。12使徒の選びと派遣の目的は、イエスさまの深い憐れみです。12人は、自分から志願して使徒になったわけではありません。ただイエスさまの使命を果たすために、イエスさまが呼ばれたのです。

イエスさまはすでに町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやしておられました。イエスさまをそのような行動に駆り立てたのは、人々への深い憐れみでした。聖書の中で「深く憐れんで」ということばは、スプランクニゾマイという有名な言葉で、その大半はイエスさまの人間への憐れみのこころの動きを表すために使われています。日本語にも「断腸の思い」という表現がありますが、その言葉は「子どもを失い、悲しみのあまり死んでしまった母親の腸がズタズタにちぎれていた」という故事成語に由来しているといわれています。単に気の毒に思うとか、同情するという感傷的なこころの動きよりももっと強い言葉です。よく知られたところでは、放蕩息子を迎え入れるお父さんのこころをあらわすために,また善きサマリア人のたとえにも出てきます。憐れむということば自体が、少し上から目線な印象をもってしまうかもしれませが、聖書をよく読み込んでいくとそうではないことがわかります。

放蕩息子を憐れに思う父親も、半殺しの旅人を思うサマリア人も、子どもを憐れむのはあるべき父親の姿だからだとか、困っている人を助けるのは隣人愛の掟だからそうしたのではありません。そこには、いずれも「憐れに思い、近寄って」と書かれています。ですから「憐れに思い」と「近寄る」のは同時なのです。憐れに思って、これはすべきことだからと頭で考えて近づいたのではないのです。相手の現実を見て、思わず駆け寄ったというか、体が動いてしまったということだと思います。この感覚はわたしたちもわかるのではないでしょうか。例えば道で誰かが倒れている人がいたら、この人を助けることは、教会が教えているからとか、キリスト者は隣人愛を実行しなければならないからとか、そんなこと誰も考えません。その前に、体が動き、手が出てしまいます。隣人愛の掟も理屈もありません。わたしたちはなぜそのように頭より先に、体が動いてしまうのでしょうか。それは、わたしたちが深いところでつながっているからではないでしょうか。そして、同じ神のいのちによって生かされているからなのです。だから、そのいのちが発動するのだといってもいいかもしれません。宗教とか道徳の問題ではありません。いのちには、人種も国境も、宗教もありません。誰からいわれたわけでもない、誰から教わったわけでもありません。わたしたちの中に同じ神のいのちが流れているのです。

仏教で利他行というのがありますが、利他というと何か他者のためによいことをすることのように思われていますが、利他行というのは自他を越えた感覚で、もはや自他の区別がないことといわれています。イエスさまの中に自他の区別はありません。ですから、人類の苦しみ、世界の苦しみはご自分の苦しみなのです。ここにイエスさまの憐れみの源があります。これはいのちの感覚であるということができると思います。そして、わたしたちはこのいのちによって生かされているのです。イエスさまが弟子たちにお望みになったのは、単に教えを伝えることだけではなく、その根底にある神の憐れみ、このいのちの感覚を人々に呼び覚ますことだったのではないでしょうか。

実際的には、病や患いで苦しんでいる人たちへの神の憐れみは、汚れた霊を追い出し、病が癒されることによって現れます。現実に苦しんでいる人を目の前にして、神の憐れみを説いても何にもならないでしょう。しかし、聖書の中には、悪霊からの解放、病からの癒しを通して、神の憐れみに出会っていく人々の姿が描かれています。わたしたちは自分が苦しいとき、どうすることもできないとき、その状況からの解放を先ず求めます。人間として当たり前のことだと思います。しかし、使徒の使命は病人を癒し、悪霊追い出すことに尽きるのではないのです。その業を通して、人々がイエスさまの憐れみと出会うことに他ならないのです。

今日の第2朗読でパウロは、「しかし、わたしがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」といいます。神さまの憐れみはすべてにおいて先行している、そのしるしとして病の癒し、悪霊からの解放があるのです。わたしたちのすべての状況に先立って、神さまがわたしたちをこころにかけ、わたしたちのために苦しみ、悩み、痛んでおられる、その神の憐れみがよい知らせ、福音であり、それが神の国なのです。確かに、すべての人が癒され、すべての人が悪から解放され、この世から死がなくなるわけではありません。しかし、すべての人間の現実に先立って、神の慈しみ、憐れみがあり、今すでにその神のいのちが与えられている、わたしたちは神のいのちをともに生きているのだという真実、それが福音であり、神の国なのです。12人の派遣は過去の出来事ではありません。わたしたちにも、その同じ神のいのち、その神の憐れみが注がれています。その憐れみに触れたわたしたちは、その神の憐れみの証人、使徒となるように呼ばれているのです。

キリストの聖体 勧めのことば

キリストの聖体 福音朗読 ヨハネ6章51~58節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

三位一体の主日の翌週である今日は、キリストの聖体をお祝いします。三位一体のお祝い日は、わたしたちを生かしている大いなるいのちの働きについて黙想しました。わたしたちの信じている神さまというのは、遠いどこか、雲の上の天国におられる神さまではなく、わたしたち生きとし生けるものを根底において支え、わたしたちをそのいのちで生かしておられる方であることを味わいました。ですから、神さまといってもどこかに他所におられる方ではなく、神さまがわたしを包み込んでおられる、と同時にわたしの内にも神さまがおられる。あたかも海の魚を大海が包み込んでいるかのような、またその魚を海が満たしているように、大きな神さまの中にわたしがいて、そしてわたしを神さまが満たしておられるといえばいいのかもしれません。そして、絶え間なくわたしを支え、いのちを与えておられる。それも、ご自分のいのちを与え、失うことによってわたしたちを生かしておられることを、イエスさまの生涯、特に受難、死、復活によって示してくださいました。そのことを聖体の祝日として祝います。

わたしたちのからだを構成する細胞は、一日に何億個もの細胞が死んで新しい細胞に生まれかわります。わたしたち個体は古い細胞が死ななければ、わたしたちのいのちを保つことはできません。つまり、死があってはじめて生があるというのが、いのちの本来の姿なのです。ですから、わたしたちが生きるということは、いつも死と一緒に生きているのです。この地球自体も、過去からの無数の生きものたちの死体が積み重なって出来ており、わたしたちはお墓の上に生活しているようなものです。化石燃料にしてもそうで、わたしたちは死者によって生かされているのです。このように、わたしたちは他のいのちによって生かされているのです。ですから、わたしたちは決して自分ひとりで生きているのではありません。わたしたちはいのちを分け合っていくことによってしか、生きていくことはできないのです。この地上において、すべての生きとし生けるものは自分以外の他のものからいのちをいただくことによってしか、そのいのちの営みを続けていくことはできないのです。

そのわたしたちが、そのいのちを保つための根本的な行為が食べるということです。食べなければ死んでしまいます。昔は、食べられなくなるとお迎えがくるといったものです。そして、わたしたちが食べるということは、必ず他の生きものからいのちをわけてもらうことなのです。しかし、知性をもった人類だけが、必要以上のいのちを狩り、搾取し、強奪し、乱獲するようになってしまいました。そして、その欲望はとどまるところを知りません。その欲望は、わたしとわたしの親しい周りの人以外のすべてのいのちに向けられていきます。それが人間に向けられていくとき、富の独占と搾取という形態を取り、貧困、飢餓、戦争にまで発展します。わたしは決してそういうことをしませんとは誰もいえなのです。わたしの中にある自己中心性というものが、ありとあらゆる問題を引き起こしているのだということに気づく必要があると思います。わたしがよい人間だから、キリスト者だから殺さないのではないのです。それはたまたまであって、わたしという人間は、状況が変われば百人千人でも殺す身となるのです。わたしたちは状況や立場が変われば、殺す身にもなり、また殺される身にもなるのです。

こうして、わたしたちは、イエスさまを2千年間食べ続けているのです。それなのに、わたしたちはまだ何もわかっていないのではないでしょうか。ここまで食べても、まだ食べ続けようとするのです。わたしは決して食べられる側にはまわろうとはしないで、食べつづける側に居続けようとするのです。どうして、これをおかしいと思わないのでしょうか。イエスさまを食べ続けて、ミサに与って、それをお恵みだという、こんな身勝手なことがあるでしょうか。わたしたちはどうして、「イエスさま、どうぞわたしをお食べください」といえないのでしょうか。わたしは何と惨めな人間なのでしょうか。

しかし、この惨めなわたしたちをイエスさまが解放してくださったのです。イエスさまはわたしたちを責めるのではなく、そのわたしたちにご自分のからだを裂いて、血を流して食べ物として与え、わたしにご自身を食べさせることによって、わたしたちのいのちとなり、わたしたちのうちにご自分のいのちを注いでくださいました。その真実に触れた人々が、おこなうようになったのがミサ、感謝の祭儀です。

聖体の祝日とは一体何でしょうか。イエスさまがわたしたちのための食べ物、飲み物となってくださったことを記念して感謝します。もちろんそうでしょうし、ミサはお恵みでしょう。しかし、同時にわたしたちは平気でイエスさまを食べ続けている、どこまでいっても自己中心な愚かな己に、思いを致すことを忘れていないでしょうか。でなければ、ミサは感謝の祭儀でなくなってしまいます。ご聖体をいただいて当然、いただくことがお恵み、説教がわからなくてもご聖体をいただけたらラッキーという、自分勝手な思いから、わたしたちは出ることはできないのです。今日、わたしたちは改めてわたしたちの愚かさ、闇の深さを思い起こしたいと思います。そして、それにもかかわらず、わたしたちのことを決して諦めることなく、わたしたちに自分を与え続け、養い続けようとされるイエスさまの思いを受け取りたいと思います。そのイエスさまの願いは、わたしたちにいのちの本来の姿を生きてくれよという願いそのものなのです。わたしたちを生かしているのはイエスさまのいのちで、わたしたちの中にそのいのちが流れています。だから、わたしたちはそのいのちに目覚めることができるのです。そして、そのいのちの目覚めを体験したマザーテレサは、「イエスさま、今日一日、どうぞわたしをお使いください」といったのです。

三位一体の主日 勧めのことば

三位一体の主日 福音朗読 ヨハネ3章16~18節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

わたしたちは、主の復活、主の昇天、聖霊降臨を通して、わたしたちを生かし、動かしている大きないのちの働きを黙想してきました。そして、今日、わたしたちは三位一体の主日を迎えます。今日の集会祈願では「聖なる父よ、あなたは、みことばと聖霊を世に遣わし、神のいのちの神秘を示してくださいました」と祈ります。わたしたちを生かし、動かしている大きな働きは、実は三位一体のいのちであったというのが、今日のお祝い日の意味です。それで、今日は「神のいのちの神秘」を祝うのだということが分かります。そのことをご一緒に見ていきましょう。

三位一体のお祝い日は、御父による神のみことばと聖霊の派遣によって、神のいのちの神秘を示してくださったということがいわれています。そのいのちの本質は、自分自身を出ていく、自分自身を与えていく、溢れ出ていく、自分自身を超えていくところにあるといえます。つまり、このいのちは、わたしという個体のいのちが個体以上のものになっていく、個体の外へあふれ出ていくところに特徴があるといえるでしょう。そのもっともわかりやすい例は、すべて生命体は自分のいのちというものを超えて、次の世代にいのちを受け渡していくということです。いのちは、自分という枠組みを壊して、自己という輪郭の外へと溢れ出ていこうとするのです。それを多くの生命体は、わが子を生み養い育てていくこと、そして自分のいのちを子に与えていくこと、また自分の死として生きています。

と同時に、このいのちは自分が生きているいのちですから、あまりにも当たり前で、自分では意識することがないほどあたりまえとなっている現実でもあるということです。海の中にいる魚は、自分が泳いでいる海というものを意識することがないのと同じようなものです。このようにわたしたちを生かし、わたしたちを超えて、またわたしたちを包み込んで働いているこの大きないのちのありさまを、父と子と聖霊、三位一体とわたしたちは呼んでいます。このいのちは単なる宇宙エネルギーとかではなく、わたしたちを愛し、呼びかけ、わたしたちに関わってこられる神ご自身なのだということです。

そして、そのいのちが限られた個体の中に宿るとき、わたしたちはそのいのちを生身のものとして認識することができるのです。この神ご自身である大いなるいのちが、地上の限りある人間として宿られたのがイエス・キリストです。ですから、イエスさまは人間によって知られることとなられた神、わたしたちに人格的にかかわってくるいのちの主なのです。ご自身がいのちそのものであるのにもかかわれず、限りある人間となって、その生きざま、死にざまによって、わたしたちにいのちの神秘を具体的に示してくださいました。

そのイエスさまが第一にいわれたことは、いのちを生きている大自然に聞くことでした。「野の花を、空の鳥を見なさい」ということが代表的ですが、さまざまな自然界のたとえ話を話されました。成長する種のたとえ、種まきのたとえなどです。そして、次にはいのちを生きている人間の姿をさまざまなたとえ話で教えられました。よきサマリア人のたとえや放蕩息子のたとえなどです。そして最後には、ご自分の生きざま、死にざまを通していのち本来の姿を示されました。それがイエスさまの受難、死、復活です。それによって、いのちは自分のいのちを他に与えることによって、本来のいのちになるのだということをはっきりと示されました。イエスさまが「友のためにいのちを捨てることこれ以上に大きな愛はない」といわれたことです。イエスさまの十字架はまさにその言葉を生きることでした。イエスさまは十字架の死を通して、いのちをこの世界に与え、いのちそのものとなれらました。これがイエスさまの復活です。

わたしたちはそのことが大切であるということを知りながらも、先ずはわたしのいのちの安泰を考えてしまいます。それは人間である限りそうなのです。そして、わたしが一日でも長く生きながらえるためであれば、他のいのちを利用してもかまわないという考えが、今、世界を支配しています。最後の最後まで自分のいのちを握りしめているのが人間なのです。しかし、それはいのちの本来の姿ではないのです。

宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」の中に「蠍の火」という話がでてきます。普段は他の虫を取って食べている蠍が、いたちに追いかけられて井戸に落ちてしまいます。そして、そのときになって、蠍は自分の身勝手さに気づきます。そして、蝎は井戸で溺れかけて次のように祈ります。「ああ、わたしはいままでいくつのもののいのちをとったかわからない、そしてそのわたしがこんどはいたちにとられようとしたときはあんなに一生けん命にげた。それでもとうとうこんなになってしまった。ああなんにもあてにならない。どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちにくれてやらなかったろう。そしたらいたちも一日生きのびたろうに。どうぞ神さま。わたしの心をごらんください。こんなにむなしくいのちをすてずどうかこの次はまことのみんなの幸いのためにわたしのからだをおつかいください」と祈ります。そしたら、蠍は自分のからだがまっ赤なうつくしい火になって燃えて夜のやみを照らしているのを見ます。いのちの危機に瀕したとき、蠍に自分のありのままの姿に気づかせ、そして蝎をもってそのように祈らせたのは一体何なんでしょうか。それは蝎ではなく、蝎を生かしているいのちだったということができるのではないでしょう。そのいのちは、すべてのものを生かし、すべてのものの中に等しく流れている大いなるいのちなのです。そして、そのいのちが蠍の中にも流れ、わたしたちの中にも流れているのです。

自分さえよかったらいいと思いで生きてきた蝎が、死の間際に井戸の中で自分のいのちに目覚めさせたその働きを聖霊というのです。誰かに教えてもらったわけでもなく、本を読んでわかったのでもありません。蠍は、自分の内に流れているいのち、神のいのちに目覚めたのです。

三位一体とは、わたしたちと関係のない教えではありません。父として、わたしたちを生かし、子として、わたしたちのただ中に来られ、聖霊として、今もわたしたちの内に働いておられる、そして、そのいのちを他に与えるように呼びかけ働いている、それが三位一体のいのちなのです。わたしたちはこの三位一体のいのちの還流のただ中にいるのです。わたしたちは、そのいのちに生かされています。そして、そのいのちを生きています。さらに、その深みに目覚めよと呼びかけられているのです。わたしたちは、今すでに三位一体のいのちの中に生かされているのです。

聖霊降臨の主日 勧めのことば

聖霊降臨の主日 福音朗読 ヨハネ20章19~23節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

わたしたちは50日間にわたって、イエスさまの復活を記念してきました。そして、今日、イエスさまの復活の頂点でもある聖霊降臨を祝います。イエスさまの復活は、わたしたちを存在の根底から生かしている大きないのちの姿を、わたしたち人類にイエス・キリストという出来事を通して示されたことであったといえるでしょう。そして、そのいのちの本来の姿をわたしたちに気づかせ、わたしたちがそのいのちを生きるようにとの呼びかけであるともいえるでしょう。その大きないのちの姿は、自らのいのちを他のものに与え、己のいのちを失うことによって、そのいのちの本質を生きるというものです。そのことをイエスさまは、先ず大自然のいのちの営みを通して教えられました。「野の花、空の鳥を見なさい」と。野の花も、空の鳥も、この世界からいのちを受けて生かされ、またこの世界に自らのいのちを与えながらいのちを全うしていきます。つまり、死と再生という大きな生命の循環を生きることで、この大いなるいのちを生きているのです。空の鳥は、この地上の花や木の実、虫たちからいのちをもらい、そのいのちを次の世代に繋いでそのいのちを全うし、あるいは天敵にそのいのちを奪われることで他のいのちとなっていきます。野の花も同じことでしょう。

仏教のお釈迦様の前世譚に月のウサギという物語があります。手塚治虫のブッダでは、昔、森にウサギ、クマ、キツネが住んでいたということになっています。ある日、帝釈天がみすぼらしい旅人の老人の姿で現れます。今にも倒れそうなおじいさんを見て、皆は食べ物を探そうということになります。動物たちはそれぞれ、クマは魚を、キツネは木の実などを老人にもってきました。しかし、ウサギは何も探すことができません。そこでウサギはおじいさんに「火を起こしてください」といいます。そして、「わたしには差し出せる食べ物がありません。どうかわたし自身を食べてください」といって、自ら火の中へ飛び込みました。帝釈天はその尊い慈悲と自己献身に心を打たれ、ウサギを永遠に伝えるためにその姿を月に映したという話です。本当に尊いものは、力や所有することではなく、自分を分かち合うことである、というのがブッダのテーマになっています。何もこれ以上説明する必要がないほど明らかな、いのちの本質の姿を描いています。これがいのちの本来の姿なのでしょう。このいのちの本来の姿をイエスさまは、ご自分の生涯、特に受肉、受難、死によってわたしたちに見せてくださいました。ウサギは夜空を照らす月となったように、イエスさまのあのような生きざま、死にざまが、復活としてあらわされたということではないでしょうか。そして、今日祝う聖霊降臨は、このいのちの働きが、わたしたちを生かし、その働きがわたしたちのうちにすでに働いていることを記念するのです。

わたしたちが生きているということは、わたしたちのうちにこのいのちが与えられ、その働きが及んでいることを意味しています。今日の第2朗読の中で、聖霊はわたしたちを生かす働きであると述べられています。聖霊は、洗礼を受けた人にだけ働いているのではありません。聖霊はすべての生きとし生けるものを生かし、わたしたちを夫々の場において生かしています。そして、聖霊は、わたしたちを夫々の場において、他のものを生かすための賜物として働いているのです。これこそが聖霊の賜物なのです。聖霊はわたしたちが生かされている夫々の場において、家族、地域、国、制度に留まらず、この世界中でこの大自然の一員として、宇宙の中におけるわたしとしての場へと遣わしているのです。夫々の役割や場は違っていますが、わたしたちは同じいのちを生きるものとして生かされています。皆夫々違っていて、ユニークな存在であって、夫々の場があります。どの動物も植物も分類することはできるとしても、ひとつとして同じものはありません。それがいのちの豊かさなのです。そして、わたしたちは夫々のおかれた場で、そのいのちをお互いに分かち合いながら生きているのです。それなのに、いつのまにか人間だけがこの豊かないのちを独占するようになっていきました。人や国を支配し、人間以外のいのちにも名前をつけ、それを支配し搾取してきたのです。このいのちは人間だけのものではありません。そして、わたしが“わたしのいのち”といっているいのちも決してわたしのものではないのです。そのことがわからなくなっている、これが人間の罪ということなのです。

イエスさまは、本来のいのちのありさまを語っただけではなく、ご自分を完全に与え尽くすことで、神のいのちそのものを現された出来事が、イエスさまの復活です。そして、聖霊降臨はわたしたちがみな同じいのちによって生かされており、しかもそれぞれの文化、言語、背景、個性をもちながら、それでも同じいのちによって繋がっていることをあきらかにした出来事です。今日の聖霊降臨は、そのいのちの多様性と、わたしたちが同じいのちによって生かされていることを祝います。わたしだけ、特別ないのちをいただいたのではありません。わたしはわたしであって、他と入れ替えることはできません。しかし、そのわたしとわたし以外のものも生かしているいのちは同じいのちなのです。そのいのちに優劣、差別、区別はありません。人間だけが自分を特別視し、他と優劣をつけ区別して優位に立とうとします。動植物はお互いを比べることはしません。

しかしながら、今生で、そのいのちの真実の姿を認識することができるのは人間だけなのです。ですから、わたしたちが心の目を開き、耳を傾ければ、わたしたちは生きとし生けるすべてのものから、いのちの真実を聞かせてもらうことができるのです。わたしたちはこのいのちの真実に目覚め、このいのちを生きていくようにと呼びかけられているのです。だから、わたしだけが救われていくような教えは、イエスさまの教えではありません。わたしひとりだけが救われていくということなど、あり得ないからです。そうではなくて、わたしひとりが救われることと、すべての生きとし生けるものが救われていくことがひとつとなるような出来事、これが聖霊降臨です。それがイエスさまの真実であり、そのイエスさまの真実に出会わせていただくことが、わたしが信仰をいただくということに他ならないです。

聖霊を生きるとは、特別な能力を持つことではありません。今日、自分の前にいる人を、自分と同じいのちを生きる存在として見ることです。自分の利益だけではなく、お互いに生かし合うことに開かれていくことです。そして、自分の思いに閉じこもるのではなく、イエスさまのいのちの真実へ開いていくことです。わたしたちは、自分だけのために生きるとき、かえっていのちを失っていきます。しかし、自分を超えて他を生かそうとするとき、不思議なことに、わたしたちはもっとも深く生かされていくのです。

主の昇天 勧めのことば

主の昇天 福音朗読 マタイ28章16~20節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は主の昇天のお祝い日ですが、主の昇天が何であったかを解説すること自体あまり意味がありません。現代、イエスさまが天に昇っていかれたというのは、明らかに寓意的な表現であるということをわたしたちは知っているからです。主の昇天は、主の復活という出来事を体験した弟子たちが、自分たちの復活体験を表現したひとつの類型であるといえるでしょう。聖書に書かれている出来事は物語であって、現代科学の報告書のように読むものではなく、救いの真実を証しするものです。ですから、物語の背後にあるメッセージ、真実が何であるかを捉えるようにしていかなければなりません。今日の箇所では「弟子たちは…そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑うものもいた」と書かれています。そこで、信じることと疑うこと、これがいったいどういうことかという問題提起がなされています。今日はそのことを深めていきたいと思います。

わたしたちは、福音書にそのように書かれているのを読むと、イエスさまの弟子たちの中にも不信仰なものがいたのかと思い、そうだったのかと不思議に思ったり、別の意味で安心したりします。なぜなら、わたしたちも同じ問題を抱えているからです。わたしたちも信じきれないとか、信仰が薄いとか、信仰が強くならないといって、どうしてどうしてと嘆くのです。また、何か不幸なことがあると、それはわたしの信仰が弱いからだと自分を責めたりします。それは信じるということをわたしのこころの問題として捉え、疑うこともぶれることもない、確固とした信仰に留まるようにならなければならないと思い込んでいるからではないでしょうか。そして、イエスさまの弟子たちは、きっと素晴らしい確固とした信仰をもっていたに違いないと勝手に想像しているのです。

キリスト教では、信仰というと人間の意志の行為を強調しますが、そもそもわたしたち人間が疑いなく信じるということができるのでしょうか。疑いというものがあっても、わたしたちの努力で、疑いのこころが消えて、一心に信じることができるようになるのでしょうか。また、そのようになったとしても、そのような状態を持続することができるのでしょうか。そのような問いが出てくるのは、信仰をわたしのこころの状態だと考えているからです。過去の教会では、教会が教えていることを疑うことは罪で、疑いなどもたないで、そのまま信じるのがよい信者だと教えられてきました。中世ならそれでよかったかもしれませんが、現代では通用しません。なにも考えず、とにかく信じろというのはカルトと同じです。

そのようなことが起こってくるのは、信仰宣言の中でも「わたしは…信じます」というように、信仰の主体をわたしたち人間であると捉えるところからくる問題のようです。信仰を人間のもの、つまりわたしの信仰であると考えると、信仰はわたしの所有物ですから、わたしの力でどうにかできるということになります。だから人間の意志で、つまりわたしの力で、頑張って信仰を強めることができるということになります。しかし実際のところ、わたしの力ではどうにもなりません。それなのにわたしたちは自分の力で何とか信仰を強くしようと頑張るのです。人間の力でどうにもならないと、今度は権力とか権威で強要するようになってしまします。

少し冷静になって自分のこころを見ればわかることなのですが、わたしたちは信じようとすればするほど、疑いが起こってきますし、無理強いすればするほど、反発するこころが起こってきます。頑張って聞いていれば信仰が深まどころか、聞けば聞くほど疑いが深くなるというのが偽らざるところではないでしょうか。わたしたちは自分のこころの中に信仰の確証や救われた証拠を求めようとするのですが、わたしのこころを自分の力でどうこうできないのに、わたしのこころの中にそんなものがあるはずありません。信仰はわたしのこころの問題ではないのです。信仰をそのように捉えている限り、わたしたちは真実に触れることはできません。

大切なことは、そのような不信仰な、こころの定まらないわたしたちにイエスさまが近づいて来られるということです。「イエスは、近寄ってきていわれた…わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいる」といわれました。このイエスさまのことばが真実なのだといえるのではないでしょうか。わたしが信仰深かろうが、不信仰であろうが関係ないのです。わたしがイエスさまに頑張って近づくのではなく、イエスさまが近寄ってきて、わたしとともにいるといわれるのです。このイエスさまの姿、イエスさまの真実が信仰なのです。

信じるという漢字の「信」という言葉は、もとは真理の「真」と同じ意味であるといわれています。信号機という交通標識がありますが、信号機は嘘をつきません。もし信号機が信用できないのであれば、誰も安心して道路を渡れません。そのときの信号機の信は、“真(まこと)”という意味なのです。この信号機は信じられるだろうか、信じられないだろうかと考える人はいません。わたしがどう感じるかに関係なく、信号機はいつも真実だからです。ですから、いつも安心して道路を渡ることができます。わたしがどうしたら救われるだろうか、この方を信じていいのだろかとわたしのこころの中で算段しても、信仰は確固たるものにはなりません。救いはわたしの問題ではなく、イエスさまの専権事項です。「わたしを救う」という名のイエスさまが救うといわれたら、その言葉に二言はないのです。これがイエスさまの真実、イエスさまの信ということです。だから、わたしたちが何であってもなくても関係ないのです。

そのことがわからないので、わたしは救われるだろうか救われないだろうか、わたしのこころで考え続けます。また、わたしはゆるされるだろうかゆるされないだろかと、自分のこころであれこれと考えてしまいます。イエスさまが救う、イエスさまがゆるすといわれたら、それをわたしが本当か本当でないかなどとわたしが算段しても仕方ありません。これではイエスさまを信じているといえません。それならイエスさまを試しているだけであって、これほどイエスさまに失礼なことはありません。

教会は、人間の努力や功徳によって、救われるか救われないか、ゆるされるかゆるされないかが決まるかのように教えてしまいました。そのようにしてきたこと自体が大きな問題です。イエスさまが世の終わりまでいつもあなたがたとともにいるといわれたのですから、それが真実なのです。そのことを疑ってもどうにもなりません。イエスさまはわたしと一緒にいないということはできないからです。それがイエスさまの真実だからです。わたしがイエスさまを信じる、それはわたしの疑いをなくすことでも、わたしのこころを強くすることでもありません。自分の計算や不安や思いを手放して、「わたしは、世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」といわれるイエスさまに信頼をおくことなのです。弟子たちは、疑いながらも、イエスの前に立っていました。わたしたちも同じです。疑いがあってもよいのです。大切なのは、わたしの状態ではなく、イエスが共にいてくださるという事実です。こそが、私たちの信仰の出発点であり、真実なのです。この真実の中に、安心して生きていきましょう。

復活節第6主日 勧めのことば

復活節第6主日 福音朗読 ヨハネ14章15~21節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は、イエスさまが“わたしの掟”についてお話になります。わたしの掟とは何でしょうか。イエスさまの掟とはイエスさまの願いです。それは、イエスさまが愛しておられるように、わたしたちが愛し合うことです。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である(15:12)」といわれました。イエスさまがわたしの掟、新しい掟といわれるのは、実はこの相互愛の掟です。

聖書の中には、神への愛と隣人愛の掟も教えられています。これがあたかもイエスさまの教え、キリスト教の教えのようにいわれていますが、イエスさまはこれをわたしの掟といわれたことはありません。旧約の律法の掟の中でどの掟がもっとも大切ですかと尋ねたファリサイ人に対して、イエスさまは「こころを尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」という神への愛と、「隣人を自分のように愛しなさい」という隣人愛が、旧約の律法の中で一番大切な掟だと答えられました。

しかし、イエスさまは人生の最後、自分の死を前にして、最後の晩餐の席で弟子たちの足を洗い、「主であり、師であるわたしがあなた方の足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合いなさい(13:14)」と教え、さらに「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい(13:34) …友のために自分のいのちを捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である…互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である(15:13~14、17)」といわれました。イエスさまがわたしの掟、新しい掟といわれたのは神への愛、隣人愛ではなくて、相互愛の掟なのです。旧約の律法の掟とイエスさまが教えられた新しい掟は一見似ているように見えますが、根本的に異なっているものなのです。

旧約の律法の掟の出発点は、いつもわたしです。わたしが神を一生懸命に愛する、自分のことのようにわたしが隣人を愛する。出発点はいつもわたしたち人間です。ですから、この掟は人間の倫理道徳の域を出ません。しかし、イエスさまの掟の出発点はイエスさまです。「わたしがあなたがたを愛したように」といわれ、「わたしが自分のことを愛するように」というのとは違います。出発点がわたしたち人間であるのか、イエスさまであるかは根本的な違いなのです。

ですから、イエスさまの掟の主語は“イエスさま”です。イエスさまがされることが、わたしたちのすべてにおいて先行しています。実は旧約も初めはそうでした。しかし、時代が経るに従って人間の思惑で、神中心から人間中心の信仰へと歪められていきました。イエスさまの登場によって、原初のあり方が回復されていくのです。そのイエスさまの第一の願いは、先ずイエスさまがわたしたちを愛することです。なぜなら、イエスさまの本質は愛であり、その愛は神の愛そのものだからです。だから、イエスさまは愛さないでいることはできません。愛と訳されている日本語が適当かどうかはわかりませんが、イエスさまの本質、つまり神さまの本質は愛ですから、愛さないでいるということはできないのです。しかし、愛の本質は、愛することだけでは終わりません。愛することは、愛されることでもあります。愛するだけの愛はありません。それならそれはただの一方通行の、自己本位の愛になる可能性を含んでいます。愛は、愛し愛されることによって初めて成り立つのです。しかし、それだけで愛は完成されることはありません。愛の本質は、自らを与え、それを受けるとるものが受け取り、また受けたものがそれを返すという終わることがない循環だからです。終わることのないキャッチボールだともいえるでしょう。しかし、イエスさまの願いは、先ずこの愛を受け取ってほしいということなのです。

愛を受け取るということは、イエスさまにわたしが愛されること、イエスさまに愛されることをわたしが受け取ること、イエスさまに愛されることをわたしがわたしにゆるすことなのです。わたしたちが何かをしたから、何かができたから愛されるのではありません。愛は無条件です。頑張って愛されるに値するものになったから、愛されるのではありません。イエスさまの中で愛するということは、水が高いところから低いところに流れるように自然なことなのです。わたしたちが考えるような、また教会で勘違いして教えてしまうような、わたしが頑張って神さまを愛するとか、頑張って隣人を愛するというような恣意的なものではなく、もっと自然なものなのです。神さまの本質が愛そのものだからです。本当の愛には力みがありません。愛は恣意的ではなく、水が流れるように自然なことなのです。それは、友人の中で交わされる友情に似ています。ですから、イエスさまの中ではあなたがたを愛してやるんだとか、救ってやるんだというような力みは何もないのです。確かにあるときは、友のためにいのちを捨てるようなことがあるかもしれません。しかし、愛はわたしたちが考えるよりもっと自然なものなのです。そもそも、わたしが愛するんだとかいうのは、恣意的で力が入っていて、愛される側はうっとうしく感じるのではないでしょうか。一歩間違えればストーカーになってしまいます。

イエスさまはお前を救ってやるんだとか、恵みを与えてやるんだとか、そういう上から目線のことをいっておられるのではないのです。今までは、わたしとお前たちは、主人と僕の関係だったけれど、もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人の顔色だけを窺っているだけで、主人の本当の願いを知らない。しかし、わたしはわたしのすべてをあなたに知らせた。わたしの思い、わたしの願いをすべて話した。そして、そのようにあなたがたを愛してきた。だから、あなたがたはもう僕ではない。友である。わたしとあなたはひとつ、一体である。だから、あなたがたはわたしの願いを自分の願いとし、わたしと同じ働きを生きてほしい。そして、その願いに目覚めてほしい。そして、そのものの名前がキリスト者であるということなのです。

そのイエスさまの願いが実現するとき、愛する側と愛される側、救う側と救われる側、助ける側と助けられる側、こちら側とあちら側という区別がない世界が出現するのでしょう。それは、おたがいさまの世界です。もはやいかなる区別もありません。というか、元々の宇宙、世界にはそのような区別などなかったのです。ただ、人間がその区別を作り出してしまいました。これが原罪だともいえるでしょう。

そのような区別が絶えた世界、これを神の国というのです。そこには誰が与える側だとか、奉仕する側だとかという区別がありません。お互いに与え合い、奉仕し合います。そもそも与えるだけでは、“与える”という行為は成立しません。それを受け取る人があって、はじめて与えるという行為は成立するのです。奉仕もそうなのです。どちらが上で下でというようなことはありません。キリスト教は慈善団体やNPO法人ではありません。イエスさまの世界はお互いさまの世界なのです。与えるものになったり与えてもらうものになったり、愛するものになったり愛されるものになったりする、これがいのちのありさまなのです。そのいのちの姿に目覚めさせていただくこと、これがイエスさまの新しい掟なのです。ですから、この掟は新しい掟ではなく、もっとも古い掟、原初からあったお互いさまのいのちのあり方そのものなのです。

復活節第5主日 勧めのことば

復活節第5主日 福音朗読 ヨハネ14章1~12節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の福音は、最後の晩餐の席で、イエスさまが弟子たちのもとを去っていくことをお話になります。それに動揺する弟子たちに、イエスさまは「わたしは道であり、真理であり、いのちである」といわれました。今日はその意味を味わっていきたいと思います。

先ずイエスさまは「いのち」について、ヨハネ福音書の中で次のようにはっきりといわれました。「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたをお遣わしになったイエス・キリストを知ることです(ヨハネ17:3)」と。永遠のいのちとは、わたしたちがイエスさまを知り、信じていることそのものが永遠のいのちであるといわれました。永遠のいのちというと、死後のいのちであるとか、今のいのちとは別に、恵みとして与えられる神のいのちであるとか考えられがちです。また、わたしが努力をして、信仰を深めて、徳を修め、来世でご褒美として与えられるものと思われてきました。しかし、イエスさまははっきりと永遠のいのちとは、「唯一のまことの神であられるあなたと、あなたをお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」といわれました。永遠のいのちとは死後のいのちであるとか、わたしたちが生きているいのちと別のいのちではなくて、今、わたしたちがイエスさまと出会い、生きているその関わりそのものが永遠のいのちであるといわれたのです。

今日の福音でフィリポはイエスさまに、「主よ、あなたがどこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません」といい、「わたしたちに御父を、つまり神をお示しください」といっています。おそらくフィリッポは、永遠のいのちとか神さまというのは、自分たちが生きているところとは別のところにあるものと思っていたのでしょう。しかし、イエスさまはそのフィリッポに「あなたはこんなに長い間、わたしと一緒にいるのにわたしがわかっていないのか」といわれます。つまり、「あなたはわたしとすでに出会っているではないか、わたしと一緒にいるではないか」といわれます。さらに「わたしを見たものは、父を見たのだ」といわれます。イエスさまと出会い、関わり、一緒にいるということは、神さまと出会い、関わったのと同じだといわれるのです。そしてその関わりこそが永遠のいのちであり、それが真理であるといわれたのです。

そして、わたしたちはイエスさまの生きざまを通して、いのちの真実を見させていただいたのです。イエスさまは、「友のためにいのちを捨てること、これ以上大きに大きな愛はない(15:13)」といわれました。いのちの真実のありさまは本質的に自分自身を他に与えていくこと、自分を脱出していくこと、自己忘却にあるというのです。イエスさまはその真実を、ご自分の生き方、特にその十字架の死を通してわたしたちに完全に啓示されたのです。

これはすべてのいのちあるものの法則であり、いのちは自分の個体の中に留まっている限り本来のいのちの姿になりえず、自分の個体を出て個体以上のものになっていくところにいのちの本質があるのです。ですからこのいのちの自己超越こそが、いのちの特徴であるのです。わたしの個体だけがいのちだと思っている限り、本当のいのちを知らないということになります。つまり、自分のいのちのありさまに拘っている、自己中心性にとどまっている限り、本当のいのちを知らないのだといえるでしょう。いのちの本質は、個体を超えて、自分を出て他になっていくところにあるからです。ですから、いのちは自分という自己中心性の殻を破っていくこと、究極的には死を通して、他を生かすいのちとなっていのちをつないでいくところにその本質があるのだといえるでしょう。そして、そのいのちのダイナミズムは永遠であるということなのです。ですから死は自己の消滅ではなく、与えることによる変容であり、大きないのちのうちにおける完成であるといえるでしょう。これがイエスさまの復活です。このいのちの真実を、イエスさまを通して啓示していただきました。

このいのちの根源的な感覚は死にたくないということです。でも、死にたくないというのは、いのちの本質は永遠であるということの裏返しでもあるのです。イエスさまは「野の花、空の鳥を見なさい」といって、自然にいのちを生きている大自然に学びなさいといわれました。しかし、いのちの真実に対して目が閉ざされているわたしたちに対して、いのちの本質を見せるために、イエスさまはあのように死んでみせたのです。いのちの真実を見なさいと。

そして、この本当のいのちを発見していくための入り口は自己譲渡であるといわれました。「一粒の麦は地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ(12:24)。」 これがいのちのありさまであり、いのちの真実なのです。野の花も空の鳥も次の世代にいのちを渡し、いのちをバトンタッチしていきます。その個体のいのちは滅びるように見えますが、そのいのちは確実に受け継がれていきます。ですから、いのちそのものは永遠なのです。このあたりまえのいのちのありさまを妨げているのが、人間の罪、エゴイズムなのです。

旧約までは、人間は個体のいのちが永らえることが神さまからの恵み、祝福だと考えられてきました。あるいは、今でもそう思われているかもしれません。「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた(ヨハネ1:17)」といわれています。つまり、モーセの律法を守って義とされる時代は終わり、イエスさまを通して、全人類に恵み、つまり永遠のいのちがすでに無償で与えられている、その真理がわたしたちに完全に示されたといわれるのです。イエスさまは人間という個体の中に実現したいのちを、自分のいのちとして握りしめるのではなく、そのいのちを他者に解放されました。いのちそのものが、わたしが握りしめているいのちをもっと大きないのちの中に解放しなさいと教えているのです。信仰というのはこの個体を突破していく力、働きなのです。わたしたちが信仰をいただくということは、自分のエゴの外に出るということなのです。これがいのちの本来の姿なのです。だからそのようないのちのありさまは真理なのです。

イエスさまは、この真実の道をわたしたちは知らせてくださいました。わたしたちは今生かされている日々の生活の中で、このイエスさまの道を歩むように招かれています。そして、その真実をわたしたちは自分の中にもっており、いのちの真実を知っているのです。それは、わたしたちが日々の生活の中で、家庭、職場、共同体の中で、お互いに分かち合い、ゆるし合い、仕え合っていくこと、自分を他者にほんのわずかであっても明け渡していくことです。このいのちのお互いさまという生き方が、わたしたちをわたしのエゴから解放してくれます。これがイエスさまのいのちの道なのです。わたしたちはこのいのちの真実を知らせていただき、今わたしたちはそのいのちの中にあり、そのいのちを生きているのです。日々、その道を歩ませていただけるように祈りましょう。

復活節第4主日 勧めのことば

復活節第4主日 福音朗読 ヨハネ10章1~10節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日はよき牧者の主日といわれ、羊飼いと羊のたとえを通して、知るということの意味が語られます。今日はこの知るということがどういうことかを考えてみたいと思います。

今日の社会の動きを見ていると、知るということは、単に情報を手に入れることだと捉えているように思われます。今、AI(人工知能)を使ってできることが飛躍的に広がっています。今日の福音のたとえにあてはめるのであれば、羊飼いが羊についてのあらゆる情報を把握し、それをもとに飼育するということになります。確かにAIは、羊のそれぞれの状況や健康状態など、あらゆる情報を把握することはできるでしょう。そして、羊飼いとして羊に対する最適な対応をプログラムし、羊を管理していくことも可能でしょう。実際、人間の食品となる動植物の分野では、そのような人工栽培、飼育がすでにおこなわれています。そうなると、人間の羊飼いなどいずれ必要なくなるのかもしれません。

今日の箇所で問題になっているのは、この“知る”ということの意味です。羊飼いは羊を知り、羊も羊飼いを知っているといわれるときの知るとは、一体どういうことなのかということです。この箇所を、司祭と信徒の関係にたとえる人がいますが、それは本質的に違うように思います。そもそも、自分は羊飼いで、信徒は羊だという発想自体、どこか上から目線を感じます。イエスさまがいわれたのは、そのように管理するものと管理されるものの関わりではなく、イエスさまとわたしたちの真実の関わりです。イエスさまがあなたがたを知っているといわれたとき、それは、わたしたち一人ひとりの情報を知っているという意味ではありません。もちろん、イエスさまはわたしのすべてをご存じです。しかし、わたしたちは情報ではありません。教会は毎年、教勢調査といって、教区内の教会の信徒の数、洗礼、初聖体、結婚、死亡数等をまとめローマに報告します。しかし、旧約聖書には、ダビデが人口調査をおこなったことで神さまの怒りを招いたという出来事が描かれています(歴代誌上21章)。カトリック教会はそのことを忘れてしまっているのでしょうか。イエスさまはわたしたちを100名の中のひとり、統計上のひとりとして知っておられるのではありません。イエスさまはわたしを、“いのち”として知っておられるのです。いのちには温かみがあります。イエスさまの知り方は、このいのちの温かみがある知り方なのです。

親が子どもを知っているというときそれは理屈や情報による知ではなく、肌と肌が触れ合うような、温かみのある知り方なのです。それは、子どもについての情報を知っているということではなく、同じいのちをともに生きているところから生まれてくる知り方です。イエスさまがわたしを知っておられるということ、またわたしがイエスさまを知っているというのも、このような知り方であるといえるでしょう。それは、聖書をたくさん知っているとか、カトリック教会の教えを詳しく知っているとかということではありません。イエスさまとわたしの知るという関係は、同じいのちが触れ合うような関係です。それをわたしたちは祈り、イエスさまとの交わり、イエスさまとの親しさというふうに呼んでいます。単にミサに参加することや、聖書を読むこと、決まった祈りを唱えることだけではありません。もちろん、それらが大切で助けになることは確かです。しかし、イエスさまとの関わりは生き生きとした、いのちの交わりです。同じいのちを生きているからこそ、相手が苦しんでいれば自分も苦しくなるし、相手が痛んでいれば自分も痛くなる。相手がうれしければ自分もうれしくなる。隣人を愛することが掟であるから、教会の教えであるから、相手を愛するのではないのです。イエスさまがそう教えられたから、という理由でさえありません。いのちが触れ合うとき、こころが自然に動き出すということなのです。今の教会を見ていると、弱い立場の人、貧しい人々と連帯しなければいけないからとスローガンを掲げていろいろやっていますが、どこか形だけのポーズように見えてしまうことがあります。

はちみつをまったく知らない人に、はちみつについてその成分や構成、色や形状を説明することはできるでしょう。しかし、はちみつは実際になめてみなければ、本当の意味ではわかりません。はちみつをなめたことのない人がはちみつについて説明するのと、はちみつをなめたことのある人が説明するのでは、何かが違ってきます。難しい成分や構成を詳しく知らなくても、はちみつを実際なめたことがある人が、一度もなめたことがなくていろいろな情報を知っている人が説明するのとで違ってくるのです。科学的な情報はないかもしれませんが、はちみつを知っていますから、その説明、証しには当然力があります。イエスさまについてたくさんの情報や神学的知識をもっていても、イエスさまを体験したことがなければ、イエスさまは人には伝わっていきません。イエスさまの情報を知りたいのであれば、現代ならAIに聞いたほうがよっぽど正確でしょう。イエスさまを体験するということは、わたしたち自身がはちみつをなめるということなのです。キリスト教がそのように広まってきました。

では、どうしたらはちみつをなめられるのかといわれると難しいのですが、それはあたかも海の中にいながら、海を体験するようなものだいえるかもしれません。海にいる小さな魚が歳をとった魚に、どうしたら海を見つけことができるのかと尋ねることと似ています。歳をとった魚は「海とは、今お前が泳いでいる水なんだよ」というと、小さい魚は「これが海?ただの水じゃないか」といって、小さい魚は海を探し続けるのです。イエスさまを体験するということは、今、自分が生きていることそのものが、すでにイエスさまの現実なのだということに気づくことであるといえるでしょう。わたしたちが探し求めているイエスさまは、今、ここで生きている「わたしのいのち」そのものなのです。ですから、わたしが頑張って海の中に入っていく必要はありません。たとえわたしが飛び込んでいく勇気もなく、入っていく気力さえないほど弱っているとしても、わたしたちはすでにイエスさまという大きな海に飲み込まれているのです。イエスさまという大きな海の中に、わたしたちはすでに受け入れられているのだということなのです。これは、わたしが何もしなくてもいいということではありません。出発点は常にわたしではなく、イエスさまなのです。できる人は頑張ってもいいでしょう。しかし、それが宗教そのものではありません。人間ができることですべてを推し量ろうとするのであれば、宗教もイエスさまも必要なくなってしまうでしょう。

真の宗教は、それこそわたしが入っていくのではなくて、イエスさまが入って来られること、あるいは、わたしはすでにイエスさまの中にある、大きないのちの中に受け入れられているということに気づくことに他なりません。この視点の転換を回心(心を回す)というのです。人間がやろうとすることはこころを改める改心であり、わたしたち側からの反省や内省にもとづいて軌道修正をします。しかし、イエスさまがしてくださるのはこころを回す回心であり、わたしがこころを改めるのではなく、イエスさまがわたしのあり方をひっくり返してくださるのです。その出来事がどのように起こるのか、わたしたちにはわかりません。イエスさまはいろいろな方法でわたしたちに働きかけて、そのことに気づかせようとしてくださいます。人の温かさや優しさを通して、またわたしの人生の困難を通して、いろいろな出来事を通してその真実に気づかせようとしてくださっています。わたしが自分で知ることができるようなものは、すべて過ぎ去っていきます。たとえすべてが過ぎ去っても、決して過ぎ去らないイエスさまがわたしを知っていてくださる、そのことに信頼することきりしか、わたしたちにはできないのではないでしょうか。その信頼を信仰というのです。

復活節第3主日 勧めのことば

復活節第3主日 福音朗読 ルカ24章13~35節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日はエマオへ向かう弟子たちに復活したイエスさまが現れたという物語です。これは、当時の初代教会の中で、復活されたイエスさまと出会う場は何処であるかということが問題にされています。当時の人々は、聖書のみことば、感謝の祭儀、分かち合いの中で、復活されたイエスさまと出会うことができると考えました。それが今日の聖書の物語の中で、イエスさまによる聖書の解き明かし、エマオでの会食、3人の分かち合いとして描かれています。これは、現代においても通用することで、わたしたちが聖書を読み、その解き明かしを聞くとき、感謝の祭儀を祝うとき、わたしたちが分かち合うとき、その中にイエスさまがおられます。この3つの場は、復活されたイエスさまと出会うことができる場として教会が大切にしてきたものです。しかし、この場があれば、自動的に復活されたイエスさまと出会えるのかというとそうではありません。イエスさまとの出会いは自動的ではないからです。ですから、聖書を一生懸命勉強して聖書の知識を身につけるとか神学をやるとか、欠かさずにミサをおこなうとかミサに与るとか、分かち合いすることで、自動的にイエスさまと出会い、こころが燃え上がり、信仰が深まるかというとそれは少し短絡的すぎます。それにこころが燃え上がるというのはあくまでも、わたしのこころの状態の問題であって、こころが燃え上がるということがイエスさまと出会っているという証拠にはなりません。

わたしたちは、とかくすると信仰をわたしのこころの問題として捉えがちです。しかし、わたしのこころはひとときもじっとしていません。あるときは燃え上がり、あるときは意気消沈し、あるときは何ともないというのがわたしたちのこころです。わたしのこころは絶えず疑いと信仰の間で揺れ動き、それが定まるということはなく、またその思いが持続することもありません。そのようなわたしのこころの中に、イエスさまとの出会いの証拠や確証などあるはずありません。それなのに、わたしたちはこのようなわたしのこころのどこかに、イエスさまとの出会いや救いの証拠、確証を見出そうと躍起になります。また、ある人たちは自分のこころを整えていくことで、イエスさまとの出会いが叶うと主張します。教会が大切にしてきた3つの場を実践し、自分がイエスさまとの出会いに相応しいものになることが大切で、そのようなわたしにイエスさまは当然会いに来てくださるのだと考えます。そのように考えるのは、もっともなことだと思います。しかし、そうではないのです。イエスさまとの出会いは、わたしのこころの問題ではありません。信仰もわたしのこころのもち方でもありません。会いに来てくださるのは、イエスさまなのです。わたしたちが何かができるわけではないのです。その訪れはいつも前触れなく突然で、わたしのこころの状況など関係ないのです。

今日の物語で、2人の弟子はイエスさまと出会うために相応しいこころの準備をしていたでしょうか。むしろ2人は、イエスさまの十字架に絶望してエルサレムから逃げていく途上だったのではないでしょうか。彼らは自分たちに追手が及ぶのを恐れて、イエスさまのことなどそっちのけで逃げ出してきたのではないでしょうか。彼らのこころはイエスさまを受け入れるような殊勝なものは、ひとかけらもなかったのです。さっさとエルサレムをあとにして、イエスさまを見限って、自分たちの新しい生活を探していたのです。結局は自分のことしか考えていない弟子たちであり、わたしたちもそうでしょう。その弟子たちに「イエスご自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた」とあります。しかし二人の目は遮られていて、イエスさまだとはわかりません。イエスさまが一緒に歩いてくださっていても、彼らはそのことがわからなかったのです。彼らの目は遮られていました。イエスさまは彼らを咎めるのではなく、弟子たちに近づき、旅の道連れとなって歩いておられたということなのです。

彼らの目が開かれて、イエスさまであることに気づいたとき、イエスさまは見えなくなってしまいました。その気づきのきっかけになったのが、上で述べられた3つの場でした。しかし、それはきっかけであって、イエスさまを指し示すものであるとしても、イエスさまそのものではありません。多くの人は、イエスさまと出会ったきっかけにしがみつきます。そして、そのきっかけがイエスさまであるかのように錯覚するのです。そして、イエスさまと出会ったという自分の体験をこころ中に握りしめようとします。確かに何かのきっかけでわたしのこころが動かされた、“こころが燃えた”かもしれません。しかし、わたしのこころの記憶はイエスさまではないのです。また、その体験がイエスさまでもありません。わたしたちはいつも勘違いしてしまいます。ちっぽけなわたしの体験やわたしのこころの中にイエスさまを繋ぎとめておくことなどできないのです。イエスさまだと気づいた瞬間、風のように通り過ぎてしまわれます。

わたしたちは、イエスさまであると気づかせていただくと、そのことをわたしのこころで握りしめ、またその気づきを絶対化していこうとしまいます。しかし、わたしのこころでイエスさまを握りしめようとしても、その体験は長続きしません。やがて、その体験は薄れていき、わたしたちは疑いの淵へと沈んでいきます。いっとき雲が晴れたように思いますが、しばらくすると今までと何も変わらないわたしを発見するのです。わたしがイエスさまのことを感じられたとか、わかったとか、納得したとかではないのです。それならどこまでいってもわたしのこころのもち方の問題で終わってしまいます。そうではなく、大切なことは、自分に拘り続け、自分のこころの中に信仰の確証を探し求めて、信仰と疑いの間をいったり来たりし、迷いの淵に沈んでいる、そのわたしとともにイエスさまは歩み続けておられたということなのです。主語はいつもイエスさまなのです。わたしではありません。イエスさまがしておられるのです。このような愚かなわたしとともに“イエスさまが”歩んでおられたのだ、そのことへの驚き、その感動、そのイエスさまの働きが真実、まことの信仰なのです。そして、その感動が、驚きがわたしを動かし、生かすのです。

イエスさまは、教会が大切にしてきた3つの出会いの場を通して、またそのようなもの関係なく、わたしたちの人生のすべての出来事を通して、また生きとし生けるすべてのものを通して、わたしが考えられるうることをはるかに超えた方法で、過去そうであったように、今、イエスさまはわたしに絶え間なく働きかけてくださっているのです。わたしがイエスさまを求める前に、イエスさまはすでにわたしとともにおられた、歩んでくださっているというその驚き、その感動がわたしたちを前進させるのです。今日はそのことを味わってみましょう。

復活節第2主日 勧めのことば

復活節第2主日 福音朗読 ヨハネ20節19~31節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の福音では、イエスさまが十字架の上で亡くなられた後の日曜日の夕方の出来事が描かれます。弟子たちはすべてが終わってしまった、自分たちの先生は十字架につけられてしまい、今度は自分たちに追手が及ぶかもしれないと恐れて、家の戸に鍵をかけて閉じこもっています。その弟子たちは、保身に走りイエスさまを見捨てて逃げてしまった弟子たちです。その弟子たちと復活されたイエスさまとの出会いが描かれていきます。家の戸に鍵をかけて閉じこもっている弟子たち、これはまさしくわたしたち人間の姿でもあります。弟子たちはイエスさまを裏切ってしまったという自責の念に苛まれ、次は自分たちに追手が及ぶかもしれないという二重三重の恐れと後悔という闇の淵に沈んでいます。イエスさまが十字架の上で死んでしまった以上、もはやイエスさまにゆるしを乞うとか、和解するという、自分たちからの手立てをすべてなくしてしまった状態です。

わたしたちはいろいろな困難に直面するとき、それなりにやり過ごしていく業を身に着けています。しかしわたしたちは、人間の力だけではどうしてもやり過ごすことができない状況を、人生の中で何度となく体験します。聖書ではそれを闇とか、罪とか、死と表現し、わたしたちのことばでいえば四苦といわれる生老病死がそれにあたります。どのようにしても、わたしたちの力が及ばず、わたしたちからそれを突破する手立てがない状況をあらわしています。このような中で、わたしたちはどうするでしょうか。わたしたちはとにかくもがき苦しみますが、やがて自分たちの方からは何の手立てもないという現実を受け入れざるを得なくなります。そのとき、“イエスが来て真ん中に立たれる”のです。もはや、あちら側から手が差し伸べられてくること以外にはないのです。それが、イエスさまの方がわたしに出会いに来られる、関わって来られるということなのです。イエスさまを知らない人であれば、真理が明らかにされるといってもいいでしょう。

今日、描かれる弟子たちとイエスさまとの出会いは、決してわたしたちが普通に誰かと出会うような次元の話ではありません。わたしが望んだから、わたしが頑張ったからできるようなものではないのです。ただ、一方的に与えられてくるものなのです。これを恵みというのです。ただ今日の聖書朗読にあるような出会いが、聖書の中で描かれている具体的なことがあったかどうかはわたしたちにはわかりません。多くの場合、聖書の記述をあたかもそのまま起こった物語のように解説されてしまいます。最初のときトマスはいなくて、一週間後にトマスがいて、トマスがイエスさまの手とわき腹の傷跡に指を入れるとかいう生々しい話です。それをまた、そのままあったかのようにリアルに説明する。しかし、そのようなことがあったかどうかは、わたしたちにとって大切なことではありません。それなのに、そのような特殊な体験ができることをお恵みだとか、特別なことだとか考えてしまう、愚かなことです。そんなことがあったとしても、それがイエスさまであると誰も証明できません。単に自分がそうであると思い込んでいるだけかもしれません。それは信仰とは関係ないのです。

わたしたちは誰も生前のイエスさまと直接に出会った人はいません。わたしが出会うのは復活されたイエスさまです。復活されたイエスさまであるということは、いつでもどこでも、どの時代に生きていても、すべての人が出会うことができる方であるということです。より正確にいうならば、わたしたちの方からイエスさまと出会えるための手立てというものは何もありません。しかしイエスさまが復活されたということは、イエスさまは二千年前のユダヤの一部の限られた人としか出会うことができなかったイエスさまではなく、時間と空間を超えてすべての人のイエスとなられたということなのです。つまり、すべての人はイエスさまによって関わられている、イエスさまの働きがすべて人に及んでいるということなのです。わたしたちの方からイエスさまと出会うことを望んでも望んでいなくても、またイエスさまのことを知っていても知らなくても、イエスさまはすべてのところのすべての時代の人々に関わっておられるということなのです。イエスさまによって関わられていない人は誰もいない、善人悪人の関係もない、洗礼の有無も関係ない、罪の有無にも関係ない、イエスさまによって愛され救われていない人は誰もいないということなのです。このことがわたしの何かによって変わるということはありません。わたしの努力とか精進によってどうこうなることでもありません。イエスさまがわたしのことを知っておられ、愛しゆるし、関わっておられる、イエスさまは愛の働きとして、その働きがすべての生きとし生けるものに及んでいるのです。そのイエスさまと出会うこと、それはわたしが出会いにいくのではなく、イエスさまがわたしに出会いに来られるのです。教会は長い間、救われる人は特定されており、救われるためにわたしは何かをしなければならないという予定説に苦しめられてきました。しかし、それはイエスさまではないのです。

このような体験は特別ではなく、すべての人のうちにイエスさまと出会う力が賦与されているのです。ただそれはわたしの力ではなく、イエスさまがわたしと出会いたいという願い、わたしとの出会いに飢え渇いておられる、その渇きがわたしたちに振り向けられているのだということなのです。わたしの方から、イエスさまと出会うための手立ては何もありませんが、イエスさまの願いがわたしの中に振り向けられており、それがわたしの中で起動させられるとき、信仰という形をとるということなのです。だから、わたしが信じるのではないのです。わたしの信仰などありません。イエスという名は、「わたしはあなたを救う」という願いであり、働きであり、イエスさまがわたしたちを救い取って捨てない、人類最後のひとりが救われるまで働き続けるというイエスさまのお約束がわたしたちに届いていること、それが救いであり、信仰なのです。ですから、わたしたちを信じさせるよう働いておられるのはイエスさまに他ならないのです。

わたしたちはイエスさまのことを知って、考えて、信じて助かるのではないのです。わたしはあなたを救うといわれている方の名を聞くことによって救われるのです。キリスト教は、イエスさまという救い主を知って、勉強して、洗礼を受けて救われると思っているのであれば、その人はイエスさまのことを何もわかっていません。わたしたちはイエスさまを思うとか、信じるといいながらも、悲しいかな、結局はイエスさまを信じている自分を信じているのに過ぎません。わたしたちの罪、わたしたちの闇の根っこにあるのは、その自我、エゴなのです。家に鍵をかけて閉じこもっているのはわたしで、そこには自分しかいないのです。そして自分にかがみこんでいるわけですから、そこには自分の陰でできた闇しかありません。だからそのようなわたしがイエスさまを信じるとか、イエスさまのことを思うなどということは不可能なのです。ただ、わたしが頭の中でイエスさまのことをぐるぐる考えているだけです。これを黙想だという人がいますが、それは違うように思います。わたしの方からイエスさまに向かう道はありません。イエスさまの方からわたしの方に来てくださる道だけしかないのです。この真理の前に、わたしの方から何かできると思うのは、すべて錯覚です。犠牲とか、祈りとか、隣人愛を実践することで、わたしがイエスさまに向かっていこうとすることは大切であるとしても、わたしの力でできるものではないのです。怖いのは、そのようなことを行うことで自分はイエスさまに向かっているのだ、それが信仰だと勘違いしていることです。本質的にキリスト教はすべて、真理であるイエスさまがわたしたち人間の方に来られるという、ただひとつの大道しかないのです。そのことを今日の福音は語っているのです。わたしたちがエゴを離れるという必要性や方法論があるのはそうでしょう。しかし、キリスト教では、いずれにしてもイエスさまの方から来ていただく道しかありません。今日改めてそのことを抑えておきたいと思います。

復活の主日 勧めのことば

復活の主日 福音朗読 ヨハネ20章1~9節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日、わたしたちはイエスさまの復活をお祝いします。しかし、今日読まれた福音の中に、イエスさまの復活が何であるかは何も書かれていません。イエスさまが十字架の上で亡くなり、その後、遺体を納めた墓が空であったということだけが書かれているだけです。多くの人は、イエスさまの復活をそのことば通り、「死んで生きかえる神」であるかのように考えています。よく、墓から包帯を解きながら出てくるイエスさまのご絵があり、そんなイメージをもっているのではないでしょうか。そんな話なら、世界中のいろんな神話のなかに死と再生というテーマで出てきます。また、わたしたちが日曜日毎に唱える、「ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられて死に、葬られ、陰府に下り、三日目の死者のうちから復活し、天に昇って、全能の父である神の右の座に着き…」という信条は、前半は歴史的史実をいっていますが、後半は教会の教義であり、イエスさまの復活自体が何であるかについて何も語ってはいません。これでは、イエスさまの復活が何であるかは分かりません。イエスさまの復活は、単に死者が生きかえったという話ではありません。イエスさまの歩まれた道、その生涯、そして、その最期の受難・死・復活という出来事を通して、それに関わった弟子たちの人生の中にイエスさまが入ってこられ、そして、今も関わり続けておられるということだといったらいいかもしれません。これが弟子たちの復活体験です。

わたしたちの人生は生老病死であり、生きることの中に大きな苦しみを抱えています。特に老病死は大きな苦しみです。イエスさまはそのようなわたしたちの中に、何があるのかをよく知っておらます。イエスさまは、わたしのこころの動きをすべてご存じなのです。わたしのこころの痛み、悲しみ、苦しみ、試練、失敗、そしてわたしの罪もすべて知っておられます。なぜなら、イエスさまご自身が人間となって、人間であることをすべて生き切られたからです。そのイエスさまは生きておられたとき「空の鳥、野の花をみなさい」と教えられました。つむぎもしないし、労苦もしない、でも神さまはその鳥を養っておられ、野の花を装わせておられる。それなのにあなたがたは何を思い煩うのかといわれました。イエスさまはわたしたちが、何かであるからとか、何かでないからではなく、そのままのわたしを愛しておられるのです。もう一度、いいましょう。イエスさまはわたしがわたしであるから、イエスさまはわたしを愛しておられるのです。人類はそのことを忘れ、分別とエゴイズム、罪でその魂の記憶と美しさを曇らせてしまいました。そしてこころを閉ざし、自分の中に閉じこもってしまったのです。

そのわたしが願っていることは、自分のことを認めてほしい、愛してほしい、わかってほしい、大事にしてほしい、自分を呼んでほしい、それがわたしたちが根本的に願っていることではないでしょうか。誰からも認められず、愛されず、大切にされず、理解されず、呼ばれることもない、これほどわたしたちにとって苦しいこがあるでしょうか。どれだけのお金があって、地位があって、名声があっても、決してわたしたちは満たされることはありません。それなのにわたしたちは、イエスさま以外のものでどれほど自分を満たそうとしたことでしょう。他の人と自分を比べ優れていると優越感に浸り、自分はダメだといって劣等感に沈み、過ぎゆくもので自分を満たし、自分の内にある空虚を満たそうと躍起になってきたことでしょう。わたしは自分のことを認めてほしい、愛してほしい、わかってほしい、大事にしてほしい、自分を呼んでほしい、わたしは自分が認められ大事にされることに飢え渇いているのです。イエスさまは、そのわたしたちの渇きを癒すために、わたしたちの願いに応えるために、わたしと同じ人間のひとりとなられ、わたしとひとつになって十字架に架かり、死ぬほどまで、わたしを愛し尽くしてくださったのです。こうして、わたしの願いとイエスさまの願いがひとつになるまでにいのちを与え尽くしてくださったのです。そして、それが今もわたしのなかで続いているのです。イエスさまは、わたしの人生とひとつになられたのです。これがイエスさまの復活の意味でしょう。

「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書のことばを、二人はまだ理解していなかったのである」といわれます。イエスさまは復活し、すでにわたしたちとひとつとなって、わたしを大いなる光で包んでくださっています。わたしの生も死もすべて呑み込まれています。だからもはやわたしの生も死もないのと同じです。わたしたちはただ生命体としては生と死を迎えます。しかしそれはわたしのいのちの一部で起こっていることに過ぎません。「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であられたあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです(ヨハネ17:17)」といわれる通り、わたしたちが復活されたイエスさまと出会うことが永遠のいのちなのです。永遠のいのちとは死後のいのちであるとか、どこかよそにあるいのちではありません。イエスさまを知らせていただいたこと、イエスさまが復活し、世の終わりまでわたしたちとともおられることを知らせていただいたこと、そのことが永遠のいのちなのです。まさに、今、わたしたちが生かされていることそのものが永遠のいのちなのです。

わたしたちがそのことに気づけないのは、わたしたちのエゴイズムやわたしたちの頑なさの結果であり、それこそわたしたちの罪であるといったらいいでしょう。しかしイエスさまは復活し、わたしたちの罪の闇を打ち破り、わたしを光で包んでくださいました。ある意味で、わたしたち人間の闇がそれほど深いともいえますし、イエスさまの光があまりにも強くてその光の中にあることにさえ気づけないのかもしれません。大切なことは、わたしが何であって、何でなくても、イエスさまはわたしを探し求め、わたしとともにおられ、わたしの愛に渇いておられるということです。十字架上で「渇く」といわれたように、イエスさまはわたしたちがイエスさまの愛に応えることに渇いておられるのです。イエスさまの愛に応えるということは、イエスさまに愛されたままになることに他なりません。わたしたちがどれだけイエスさまから離れようとも、遠く彷徨うとも、イエスさまの愛は永遠に変わることなく、わたしについてきて離れることはありません。これが永遠のいのちなのです。そして、このイエスさまの愛を受け入れることがわたしの復活体験であり、復活されたイエスさまと出会うことなのです。

主の晩さんの夕べのミサ 勧めのことば

主の晩さんの夕べのミサ 福音朗読 ヨハネ13章1~15節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

小学生のとき、お寺の日曜学校で聞いた話です。ある国に慈悲深い王子がいて、ある日、森で飢えて動けない母虎と子虎に会いました。王子は母虎に自分の体を食べさせて、母虎が子虎たちにお乳をやれるようにと決心します。しかし、王子が目の前に体を差し出しても食べる元気もありません。そこで王子は自分の血を母虎になめさせようとして、崖の上から飛び降ります。やっとその血をなめた母虎は気力を取り戻して、王子の体を食べて子虎にお乳をやることができました。そして、この王子は生まれ変わって釈迦となって悟りをひらくという話です。それが法隆寺の宝物の玉虫厨子の側面に描かれている「捨身飼虎(しゃしんしこ)」というお釈迦さまの前世譚の物語です。小学生のわたしは、そのまことの真実を語るその話に心動かされないではいられませんでした。現代であれば、そんなことをすれば、血の味を覚えた虎がまた人を襲うのではないかとか、いろいろな反論があると思いますが、これこそがまことの真実を明らかにするための話であったのです。

今日、わたしたちが祝うイエスさまの最後の晩さんの聖体の制定は、この話そのものです。これ以上、何かを説明する必要があるでしょうか。虎を養うために崖から身を投げるという行為は、イエスさまの十字架そのものであるといえるでしょう。宇宙開微以来、すべての生物は食物連鎖によっていのちを繋いできました。その食物連鎖は「弱肉強食」という姿をとっているように捉え、その食物連鎖の頂点にいるのが人間であるかのように考えられていました。弱肉強食は強者が弱者を食べるということです。それでは、誰がそのように考えてきたかというと、それがユダヤ教であり、キリスト教なのです。今のほとんどの世界の価値観は何によって形作られたかというと、それはキリスト教なのです。キリスト教徒が世界中の多くの民族を植民地化し、キリスト教を広めてきました。ですから当然、キリスト教が根底にもっている世界観、食物連鎖=弱肉強食という価値観を広めてしまい、人間の世界も当然「弱肉強食」の競争社会となり、食うか食われるかの世界になってしまっているのです。自分が他の誰かの何かを奪って生きていかない限り、生きていけないと錯覚しているのが現代社会なのです。しかし、これらは人間の思い込みで、その仮想現実に支配されているのがわたしたち現代人なのです。強くならないと相手から攻撃される、だから強くならないといけない、これが現代の国家なのです。ですからこれらが競争、貧困、飢餓、戦争等という姿をとって現れてくるのは、ある意味では当たり前なのです。

仏教では王子のいのちも、虎のいのちも、草木のいのちに区別をつけません。だからいのちに、上等も下等もありません。王子はそのことがわかっていて、常日頃、自分はほかのいのちによって養ってもらっている、だから飢えで死にそうな虎の親子と出会って、この度は自分の身を捨てて、虎を養おうとされるということなのです。この価値観は日本人には当たり前で、わたしたちは食事のとき「いただきます」といっていただくいのちへの感謝をあらわし、食後には「ごちそうさまでした」といっていただいたいのちに感謝をあらわします。わたしたちは皆、他のいのちによってわたしが養われていること、生かされていることを知っているのです。そのことがわからないで、いのちを奪って食べて当たり前だと思っていたユダヤ人たちに対して、イエスさまはいのち本来の姿を示されたのです。ですから主の晩餐とはいのちへの感謝を知らないユダヤ人やキリスト教徒のための儀式なのです。しかしこれほど「弱肉強食」の価値観がキリスト教の伝播とともに広がり、人間が食物連鎖の頂点にいるのが当たり前だと錯覚している愚かな現代人にとって、感謝の祭儀はいのちの尊さを指し示す秘跡となっているのです。

最後の晩餐は、この弱肉強食の世界を出離したところにいのちの真理があることを描いています。しかしながら人間である限り、もはやこの弱肉強食の世界から出離することはできなくなっており、わたしたち現代人はこの間違った価値観、錯覚、幻想に支配されているのです。ですからイエスさまは人間となり人間の食糧となって、わたしたちに食べられる弱いものとなって、人間の愚かさに気づかせ、わたしたちはひとり残らずほかのいのちによって生かされているという真実に目覚めてくれよとのお呼びかけなのです。それが、今日祝う主の晩さんの意味です。そこまでしなければ、ユダヤ人にはわからなかったということでしょう。これが聖金曜日の主の受難です。そして生きとし生けるものを生かすために、つまりわたしたち人間を最後のひとりまで残らず救い取るために、イエスさまはその業を永遠に続けられる愛の働きとなって、わたしたちのために永遠に働き続けておられること、これが主の復活の意味なのです。この愛の働きは決して終わることがありません。イエスさまの「捨身飼虎」の行が決して終わることがない、永遠の修行なのです。

イエスさまご自身が迷いの衆生の身となって、つまりイエスさまはわたしとなってともに迷い、わたしたち衆生にその身を分かち合いながら、ひとり残らず衆生が皆救われるときまで、その行を続けられておられる、これこそが聖なる過越しの3日間の意味なのです。ですから、聖なる過越しの3日間は夫々別のことを祝っているのではなく、イエスさまの愛の働きを3つの側面から記念しているなのです。それがイエスさまの受難、死、復活です。ひとつ目はわたしたちとなってわたしたちの身をご自身の身で養うということ、ふたつ目はそのためにご自身の身を投げ出すということ、3つ目はそのイエスさまの業は永遠に続くということです。イエスさまはこの3つの出来事を通して、わたしたちにいのちの真実を明らかにしてくださったのです。

こうしてイエスさまはいのちの本来の姿を示されました。わたしは通常はほかのいのちによって生かされていることを忘れてしまいます。そして自分のいのちを保つことばかりに躍起となっています。しかし、わたしたちが他のいのちによって生かされていることに気づいたら、そこに感謝が生まれ、今度はわたしたちのいのちを他のいのちを養うものに使うということになっていきます。これをわたしたち使命といいます。文字通り、いのちを使うと書くのです。植物、動物は非常に短い生命のスパンでそれを生きて、いのちを与え分ち合っています。親は子孫にいのちを受け渡したら死ぬのです。そして親は子の中にいのちとなって生き続けます。人間だけが寿命が延びて、その機会を失い、生きることに執着していきます。しかし、イエスさまが示されたいのちの真実は、生きるということは死ぬことだ、そして死ぬということは他を生かすことだということ、このいのちの本来の姿に立ち返れといわれるのです。そのことを忘れている人間は餓鬼畜生にも劣るということなのです。イエスさまの教えは、難しい教えではないのです。いのちの教えというか、いのちの本来の姿に立ち戻ることです。これが最後の晩餐、ミサなのです。

受難の主日 勧めのことば

受難の主日 福音朗読 マタイ21章1~11節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日はイエスさまのエルサレム入城が記念されます。イエスさまがどうして、エルサレムへ行こうとされたのかを考えてみたいと思います。イエスさまはガリラヤでの宣教活動に終止符を打って、エルサレムに向かわれました。エルサレムへの入城はイエスさまの凱旋のように描かれていますが、事実はそうではありません。イエスさまの旅は、挫折の連続でした。ガリラヤでの宣教活動がうまくいっていると思われた時期もありましたが、それは最初の頃だけです。人々は貧しさに喘ぎ、日々の生活は困窮を極めていました。その人々の苦しみを見て、イエスさまは人々に寄り添い、飢えた民衆にはパンを与え、病に苦しむ人々を癒していかれました。しかし、イエスさまの神の国の福音は、人々に伝わるということはなかったのです。人々がイエスさまに求めたのは、その日一日の食べ物と病からの癒し、苦しみからの解放でした。苦しむ人々にどんなに崇高な神の愛を説いても、神の国の福音を告げ知らせても、そんなものは単なる理想、綺麗ごとでしかなかったのです。では、どのようにすればこの人々が救われ安寧がもたらされるのでしょうか。イエスさまは人々に寄り添いながら、必死に祈り考えられたのだと思います。それこそ、宇宙開闢以来の神さまの悲願であったと思います。この人類の苦しみの歴史にイエスさまはずっと向き合ってこられたのです。

ユダヤ教の厳格な律法を守ることで救われる人は、それでいいかも知れません。難しい律法の解釈や研究のできる人はそれでいいでしょう。しかし民衆のほとんどは、難しくて厳格な律法など守ることができない人たちでした。それでは、律法や掟を守ることができない人たちは、どのようにしたらいいのでしょうか。救いを求めて群がる人々に、イエスさまは自分の出来るすべてのことをしていかれたのだと思います。しかしイエスさまが感じられたことは、やってもやっても決して終わることがない無力感であったのではないでしょうか。どこまでやっても、全人類の最後の一人まで残らず救われるには終わりがない、何もできないことをおそらく痛感されたのではないでしょうか。イエスさまご自身、自分が救い主として、人々を救う側にいて、人々を救っていくというご自身のあり方そのものがわからなくなられたのではないでしょうか。これこそ、イエスさまの最大の試練、挫折だったのではないでしょうか。そこで、イエスさまが選ばれた道は、エルサレムへ向かうということであったように思います。イエスさまは救い主として、自分が救う側ではなく、救い主としての身分を捨てて、救われなければならない人間の身にご自身を置かれたということではないかと思います。イエスさまは救う側ではなく、救われない側に、救われ難きわたしたちと同じものとして、ご自身の身を置くという大きな決断、転換がなされた出来事、それがエルサレムに向かうこと、エルサレムの入城ということだったように思われます。

今日の詠唱にあるように「キリストは人間の姿であらわれ、死にいたるまで、しかも十字架の死にいたるまで、自分を低くして、従うものとなった」、つまり、イエスさまはわたしたち人間と同じものとなられた、イエスさまはわたしになられたのです。人間として病み、老い、苦しむ、死ぬものとなられたのです。しかも人間としてもっとも惨めで酷い、呪われた最低の十字架という死に方をされたのです。わたしの人生の綺麗な部分だけではなく、わたしのどす黒い闇、罪、すべてと一致されたのです。イエスさまは決して偉大な救い主としてわたしたちを救ってくださる方ではなく、わたしとなって生き、悩み、苦しみ、老い、病み、死ぬものとなられ、この世界の最後の一人が救われるときまで、わたしとなって歩み続けられる、これこそがわたしたちのイエスさまなのです。

イエスさまの中で救いというものの意味が根底からひっくり返ったといってもいいかもしれません。栄光のキリストではなくて、十字架へと歩むキリストとなられたのです。こうして、イエスさまはわたしたちとともに歩み、苦しみ続け、決して休むことなく働き続ける愛の働きとなろうとされたのです。これが、エルサレムに向かおうとされたこと、エルサレム入城の意味であり、十字架に向かっていこうとされたイエスさまの思いではないでしょうか。このイエスさまの願いが成就され永遠のものとなった、これがイエスさまの復活であるといえばいいのではないかと思います。そして、このイエスさまの願いがわたしたちに届けられること、それが救いといわれるのではないでしょうか。

四旬節第5主日 勧めのことば

四旬節第5主日 福音朗読 ヨハネ11章3~45節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日はラザロの復活といわれる箇所です。ここでは、人間、誰もが避けることができない生死の問題を取り上げています。この世界の生物の中で、人間だけが宗教をもち、古今東西の宗教が等しく取り上げてきた根本的な問題は生死です。カトリック教会では永遠のいのちということで、それは死後始まる終わることのないいのちとし、地上のいのちと別のものと考えられています。それで永遠のいのちというと、死ななくなるような不老不死のいのちを想像しているのかもしれません。しかし、イエスさまが取り上げられたのは、死ななくなるいのちのことではなくて、人間の生死そのものを取り上げられたのです。ラザロは病気で亡くなり、イエスさまによって復活させらせられました。しかし、これはいわゆる蘇生のことです。その後、ラザロを死なない体、不老不死にされたのでもありません。その後、ラザロもいつか死ぬわけです。ですから、永遠のいのちは生命体として歳を取ることも、病むことも、死ぬこともないいのちのことでもなく、またマルタがいうような「終わりの日の復活のときに復活する」いのちを指しているのでもないのです。永遠のいのちを死後のいのちであると考えたり、もはや死ぬことも終わることもないいのちであると考えたりすることは、あまりにも人間的な発想ではないでしょうか。それは天国のために宝を積みなさい的な神さまと駆け引きをする人間的な捉え方であって、永遠のいのち、救いをそのように考えること自体イエスさまの思いから離れています。イエスさまを信じ永遠のいのちを得るということは、自分が死ななくなることでも、死んで天国で永遠のいのちがご褒美のように与えられることでもありません。宗教は人が死ななくなる、病気をしなくなる、歳をとらなくなるものではありません。もし、そのようなことを説く宗教があれば、それは似非宗教だといえるでしょう。イエスさまはわたしたちを、生命体として死ななくされるわけではないのです。また、死後のいのちについて何かを教えられたわけでもありません。

2019年から始まったコロナ禍のとき、15世紀の蓮如上人の疫癘(えきれい)の御文というのがよく取り上げられました。「当時このごろ、ことのほかに疫癘とてひと死去す。これはさらに疫癘によりて初めて死すにはあらず。生まれはじめしよりして定まれる定業なり。さのみふかくおどろくまじきことなり。しかれども、いまの時分にあたりて死去するときは、さもありぬべきようにみなひとおもえり。これまことに道理ぞかし云々」とあります。最近、疫病がはやって、疫病で人が死ぬといっているが、人が死ぬのは疫病で死ぬのではない。死ぬのは人が生まれたからであって、改めて驚くようなことではないといっています。それなのに、近頃は人が死ぬということを疫病のせいだと取沙汰しているのはおかしなことだといっているのです。わたしたちも、自分が元気なときは、自分は決して死なないように思って生活しています。しかし、ひとたび癌であると宣告されたら、死んだらどうしようといって騒ぎ始めます。人間、生まれたということは必ず死ぬということなのです。人は癌で死ぬのではあません。もし死にたくないのであれば生まれなければいいのです。生まれることと死ぬことを反対のこととして捉えていますが、生まれるということと死ぬことは別のことではないのです。ひとつの現実の表と裏のようなものなのです。わたしたちは、この生死から一歩も出ることができないというのが人間の定められた業なのです。

わたしたちは生と死というものの本来の姿を、さまざまな出来事に出会うときに強烈に見せつかられます。わたしたちは、平生は自分のいのちを自分で管理できるように思っています。けれども、それは人間の願望であり幻想にすぎません。実際は容赦ない過酷な現実が起こってくるわけですが、それは何の祟りでも罰でもありません。死とか病気とかいうのは、人が生きるにあたって当たり前のことが起こっているだけなのです。それがわたしたちのいのちのあるがままの姿なのです。生まれてくることも死ぬことも、わたしの力を超えており自然にそうなのです。生死だけではなく、わたしの人生の一瞬一瞬も自然のまま、ありのままであって、わたしの力でないものによって営まれているのではないでしょうか。わたしがわたしのいのちをつかんでいるように見えますが、それはわたしの手のうちにあるのではないのです。その当たり前のことが分からず、生死の中で右往左往しているのがこのわたしなのです。わたしのいのちはもっと大きないのちのはからいの中にあって、人生の万事はわたしの自由にはならないのです。しかもその大きないのちのはからいの中でしか物事は何ひとつ起こらないわけですから、そこには本来大きな安心と自由があるはずです。わたしがどのような生き方をしようと、どれほど酷いみじめな死に方をしようとも、すべて大きないのちのはからいの中にあるのです。イエスさまは畳の上で死ねないような死に方をしてくださいました。日本的にいえばよっぽど業が深いということになります。わたしの生も死も、イエスさまのみ手の中にあるのです。そのことをイエスさまは「わたしは復活であり、いのちである。わたしを信じるものは、死んでも生きる。生きていてわたしを信じるものはだれも、決して死ぬことがない」といわれたのです。

わたしはすべて大きないのちのみ手の中にあるのですから、自分でくよくよすることなど何もないのです。自分の責任だといって自分を責める必要もない。そうかといって自分の手柄だといってうぬぼれることもない。大きないのちにまかせると、虚栄心も卑下するこころもなくなります。反省したり、うぬぼれたりする必要がないわけです。反省したり、うぬぼれたりしても構いませんが、そのようなことによってこの世界はなにもよくならないのです。世界の根底には、人間の力を超えた力が働いています。その力、働きによってわたしはわたしなのです。その大いなるいのちの働きなしには、わたしは生きることも死ぬこともできない、その大きないのちに自分をまかせることしかできないのを知る、それが真の信仰なのです。死んで天国に行くとか、死後に清めがあるとか、死後の問題を引き合いに出して、それをこの地上の自分の力で何とかしようと思っているならただの愚かものでしかありません。

京都女子大の創立者の九条武子の歌に「いだかれてありとも知らずおろかにもわれ反抗す大いなるみ手に」というのがあります。永遠のいのちとは、この大いなるいのちのわたしへのはからいと働きを知ること、そのものなのです。「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです(ヨハネ17:17)」といわれているとおりです。永遠のいのちは死後のいのちであるとか、わたしの生き方でどうこうなるものではありません。イエスさまの神の国とは、この大いなるいのちの働きのことなのです。それなのに、わたしたちはこの地上の人間の些末な考え方に囚われているのです。そのわたしたちにイエスさまはいわれるのです。「ほどいってやって、いかせなさい」と。つまり、わたしたち人間を生死の囚われから解放しなさい、そして、大いなるいのちにまかせなさいといわれているのです。この真実を知ること、これこそが真の信仰なのです。

四旬節第4主日 勧めのことば

四旬節第4主日 福音朗読 ヨハネ9章1~38節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は、生まれつき目の見えない人の癒しの物語です。ここでは、目の見えない人の癒しというより、人間にとって闇とは何かということが取り上げられています。

わたしたちは闇というと、光がない状態、暗くて見えないことだと思っています。今日の福音の中のファリサイ人の反応は、わたしたちにとって闇とは何かを知ることの手掛かりになります。彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」といい、省かれた朗読の箇所の中では「それでは、我々も見えないということか」とイエスさまに敵意をぶつけてきます。ファリサイ人の主張することは、自分たちは見えている、わかっている、自分のことは自分たちの努力で何とかできると思っているということです。わたしたちも、自分で頑張って努力して、キャリアを積んで、立派な人間になっていくことができると教えられてきました。特に日本人は真面目ですから、真面目がいいと思っています。ですから、洗礼を受けて、真面目に教会のミサに通って、教会でお話を聞いて奉仕活動して、それで救われるのだと思っています。わたしたちは自分の生活の中でもいろんなことが起こってきます。そのことをわたしが頑張って信仰することで、何とかしようとしているわけです。わたしたちは自分で懸命に生きており、自分の信心や自分の努力、真面目さで、苦しみや悩みを解決していける、そしてそのような自分を神さまは助けてくださると思っているのです。しかし、わたしたちは、このような考え方がどれほど危ういものであるかは考えたこともないのです。

自分が病気にかかっていることに気がつけば、治療を受け、薬を求めるということもできるでしょう。しかし、病にかかっていながら自分は病でないといい張るなら、治療を受けることはしません。わたしたちの愚かさというものは、自分は真面目にやっている、信仰しているつもりになっている、しかし自分のそのあり方がずれている、その自分の愚かを知らないことからくる愚かさなのです。一応謙遜しますが、自分が愚かであるとは少しも思っていません。だから自分が迷っていることさえ気づかない愚かさなのです。むしろ、自分は信仰深くて、自分こそが教えることができる、人を指導することができると思っているのです。この自我こそが、治療不可能な重病だということに気がつくこともありません。わたしたちはこのような深い深い闇を抱えているのです。特に宗教をやっている人たちは、気をつけないと気づかないうちにこの病にかかっています。そのような人たちは、真面目に信仰して、努力していれば何とかなる、神さまは自分を守ってくださると思っているのです。そして、人生をそのようにやっていくわけです。祈れば何とかなる、真面目に一生懸命していたら何とかなる、神さまが助けてくださる、そして自分こそ天国にいける人間だと思っているわけです。これこそが愚痴、無明というわたしたちの真の愚かさ、真の闇なのです。それは、わたしが闇の中にいることさえわからないほどの暗さ、愚かさなのです。

それでは、わたしたちはどのようにこの己の闇に気づいていくことができるのでしょうか。それはイエスさまからの呼びかけを聞くことを通してであるといえます。闇ということばは、門に音と書きます。闇は、すべてに対して門戸を閉ざしていること、自分の思い、自分のはからいの中に閉じこもっていることであるといえます。わたしたちのあり様というものは、光に包まれているのにも関わらず目を瞑っている状況なのです。光がないとか、イエスさまがおられないのではなく、光であるイエスさまに対して門を閉ざしていることを闇というのです。目を閉ざしているので光は入ってきません。しかし、音は入ってきます。そこに「シロアムの池に行って洗いなさい」というイエスさまの声が聞こえてきます。それで、その人が行って洗うと、目が見えるようになりました。イエスさまの声を聞いて、声に従って目を洗うと、わたしがこの光に満ちた世界にいることに気づかされます。自分は光の世界にいたのに、目を瞑って光を拒絶していたことに気づかされるのです。イエスさまは何も区別しておられないのに、わたしが自分で努力して頑張って、信仰して上に行こう救われるものになろうとしていた、しかし、何のことはないイエスさまはわたしとともにおられたのだという気づきが感動となり、救いとなるということなのです。わたしたちは光の世界にいながら眠っている人のようなものであるといえるかもしれません。眠っている人をどのようにして呼び起こすのかというと、その人の名前を呼ぶことではないでしょうか。人間は意識不明に陥っても耳は聞こえているといいます。人の魂の耳は開いているのです。イエスさまは、死んだも同然のわたしの名を呼び続けておられるのです。

ヨハネ福音書の中で、マリア・マグダレナがお墓の中に死んだイエスさまを探していたのに、復活されたイエスさまはマリアの後ろに立っておられたという箇所があります。イエスさまがおられないのではなく、マリアがイエスさまに背を向けていたのです。暗いのはわたしが目を瞑っているからであって、世間のせいでも、誰かのせいでもなく、わたしのあり方の問題なのです。そのわたしのあり様に気がつかないことを愚か、闇というのです。そのマリアにイエスさまは「マリア」と呼びかけられ、はっと気がつく。わたしたちの愚かさというのは、自分の闇を自分でつくりだして、光の世界に背を向けていることなのです。しかしながら、イエスさまはそのわたしを愛おしんで、目を瞑り続けている、光の世界から逃げ続けているわたしを呼び続けてくださっているのです。そして、はっと気づく、闇が破られ光が射す、それがイエスさまの声が届いたということなのです。回心といってもいいでしょう。

しかし、それによってわたしの愚かさがなくなるということではありません。闇も愚かさもなくなりません。夜が明けたわけではなく夜明けが来ることがわかる、空がどれだけ雲に覆われていても太陽があることがわかるということだといえばいいかも知れません。わたしのこころがきれいになったり、問題が解決したり、悩みがなくなることではないのです。自分のこころを何とかしようとすることで、救われるのではないのです。救われたいと思う前にすでに救いはあったのだということ、どんなに状況が過酷であったとしても、わたしを呼びかけておられる方がいる、わたしを救い取って捨てないといわれる方がいることが我が身に知らされること、これを真の信仰というのです。わたしがわたしのこころをどうこうする、わたしのこころがどうこうなることではないのです。わたしのこころを見ればそこには自分の都合と欲、自我のはからいしかありません。わたしのこころがどうこうなること、こころが平和になったり、ありがたい気持ちになったりすることと救いは何の関係もありません。わたしたちのうちにいかにも信者ぶったところがあるなら、それは自分がこしらえた信仰に過ぎません。そのようなこころ、信心は長続きしません。そうではなく、わたしを抱き取って決して離さないといわれるイエスさまのこころを知らせていただくこと、そのイエスさまの願い、働きがわたしに届くことを真の信仰というのです。その信仰は神さまから与えられたものであって、わたしたちが作り出せるものではありません。

四旬節第3主日 勧めのことば

四旬節第3主日 福音朗読 ヨハネ4章5~42節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日はイエスさまとサマリアの女の出会いの物語です。聖書朗読は5節からですが、3~4節に「(イエスは)ユダヤを去り、再びガリラヤに行かれた。しかし、サマリアを通らねばならなかった」ということばがあります。普通、ユダヤ人がガリラヤに行く場合、エルサレムからサマリアを通ってガリラヤに行けば直線距離で近いのですが、わざわざヨルダン川を渡って北上するという遠回りのコースを使っていました。その理由は今日の箇所の中に、「ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである」と書かれています。サマリア人とユダヤ人の間には数百年に及ぶ怨恨があって、お互いに憎しみ合う関係でした。ですから、ユダヤ人のイエスさまがガリラヤに行くとき、サマリアを通るということはあり得なかったわけです。それなのに、イエスさまは「サマリアを通らねばならなかった」と書かれています。どうしてでしょうか。それは、イエスさまが渇いておられたからです。今日の話を表面的に読むと、旅の途中のイエスさまは喉が渇いて、サマリア人の女に水を所望されたぐらいにしか読めません。そこで、たまたまサマリア人の女性と出会って、この女性を信仰に導かれたというのが話の筋書きです。しかし、そのように読むと、イエスさまの渇きというものはある種のきっかけで、偶然出会った女性を信仰に導かれたというような表面的な話になってしまいます。

しかし、このイエスさまの渇きというのは、単なる身体的な渇きではなく、このサマリアの女への唯一無比ともいえるイエスさまの魂の渇きなのです。このサマリアの女が特別という意味ではなく、このサマリアの女は人類の代表で、イエスさまは人類であるこのわたしに飢え渇いておられるのだといえるでしょう。イエスさまの魂の渇きは確かに普遍的であり、すべての人に対するものなのですが、このサマリアの女と出会わなければならなかったということは、イエスさまの渇きはわたしひとりのためなのだということを意味しています。イエスさまは全人類の救い主ですから救いはすべての人に等しく及びますが、その愛は決して抽象的な教義のようなものではなく、わたしたち一人ひとりへの愛の渇きであるということなのです。教会では、イエスさまはわたしたち全人類を愛しておられるといういい方をしていますが、イエスさまは全人類の中のひとりであるわたしを愛しておられるのではないのです。それだけなら、どこまでいっても、イエスさまの愛は他人事で、わたしとイエスさまの関わりは漠然としたままです。

イエスさまが全人類を愛しておられるということは、このわたしひとりを愛しておられ、わたしとの出会い、わたしの愛に飢え渇いておられるということなのです。イエスさまは、わたしたち一人ひとりの名を呼んで、「あなたに渇いている」といわれているのです。100人の中のひとりではないのです。教会の祈りはすべて「わたしたち」になっていて、わたしたちは教会共同体として救いに呼ばれているというのは確かにそうなのですが、イエスさまの愛は本質的にはわたしひとりのためであるということなのです。歎異抄の中に「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」ということばがありますが、これは決して、神仏の救いをわたしひとりが独占しようという独善的なものではなくて、この「わたし」というものの実体は、結局は自分のことしか考えられない、自分のことで精一杯で、人のこと、まして共同体のことなど考えることもできないような、自分だけが救われればいいと思っているような「わたし」であるという意味なのです。わたしが元気なときは、いくらでもそういう綺麗事をいうこともできるでしょう。しかし、いざ自分のいのちが取るか取られるかというとき、わたしたちはさあどうぞとはいえないのが正直なところでしょう。結局はわたしが一番なのです。そのようなどうしようもない、度し難い、絶対に救われないわたしをどのようにすれば、真の救いへと導き、目覚めさせることができるのかというイエスさまの願い、それがイエスさまの魂の渇きなのです。だから、このわたしが愛されているというなら、それは人類の最後のひとりであるわたしが愛されていることなのです。ですから全人類が愛されているとは、そのようなイエスさまのこのわたしへの渇きなのだということなのです。

わたしひとりというのは、全人類のひとり、社会の中に生きているひとり、共同体の中のひとりという意味ではないのです。その他大勢の中のひとりではないのです。まさに、イエスさまの前に立っている、宇宙の中で絶対のひとりであるわたしのことなのです。わたしは、この広い宇宙の中で一人ぼっちなのです。それが、あのサマリア人の女だったのです。だからイエスさまは、その女性と会わなければならないといわれるのです。このサマリア人は、この世界のすべてから見捨てられたものでした。わたしたちも徹底的に自分を見つめていくと、わたしたちは一人ぼっちです。そのわたしにイエスさまは出会わなければならないといわれ、わたしとの出会いに飢え渇いておられた、わたしを愛することに渇き、わたしの愛に渇いておられるのです。こんなイエスさまの渇きに気づかされたなら、わたしたちはもう他のものは何もいらなくなります。なぜなら、その人は、自分の中にある内なる泉を見つけ、その泉はこんこんと永遠のいのちに至る水を湧き出でさせるからです。その泉がイエスさまなのです。その泉が、今わたしの中で湧き出でているのです。わたしが何かをしてもしなくても、その泉はわたしの中でただ湧き出でて、その水は周りにひとりでに広がっていくのです。わたしたちは、この内なる泉はどこかに探しにいかなくてもいいのです。わたしの中にこの泉は湧き出でて、おのずから周りに広がっていくのです。

わたしが神学校に入ったとき、自分の救いだけを考えていてはいけないといわれました。わたしは正直何のことをいっているのかわかりませんでした。わたしは自分だけの救いなど考えもしませんでした。ただイエスさまと出会ったことを分かち合いたいと思っただけでした。そんなことをいわなければならない当時の教会がおかしかったのであり、祈りもイエスさまとの個人的は関わりもいらないといわれました。教会ではその後遺症が今でも続いており、教会の中で間違った共同体、仲間意識を作り出してしまっています。共同体をつくるということは、共同体に入る人と入らない人をつくることであり、仲間をつくるということは仲間外れをつくることです。イエスさまはそうした内と外という境界線を破壊されたのではなかったでしょうか。今日、改めてイエスさまへ、内なる源泉へと目を向けてみたいと思います。

四旬節第2主日 勧めのことば

四旬節第2主日 福音朗読 マタイ17章1~19節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の聖書の箇所は、イエスさまがガリラヤでの宣教活動に終止符を打って、ユダヤ教の本山のエルサレムに向かう旅の途上での出来事、主の変容といわれる箇所です。そこでイエスさまの栄光が現されると同時に、弟子たちの不信仰ということもあらわにされていく箇所です。山の上で、弟子たちは「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という呼びかけを耳にします。これはイエスさまが洗礼を受けられたときに、イエスさまが内的に聞かれたことばでもあります。

長い教会の歴史の中で、イエスさまはいつから神の子であるかということが議論されてきました。ある人たちは、洗礼のときからだとか、変容のときからだとか、死と復活を通して神の子になられたのだとかいうような議論がなされてきました。もちろんわたしたちは、イエスさまが生まれながらにして、神の子であることを知っています。このことはよく考えればあたりまえで、人間の場合でも同じです。人間は生まれたときにはじめて、誰かの子となるのではありません。子であるということは、難しいいい方でいうと関係概念であって、親があってはじめて子ということばが生まれてきます。その反対も然りです。わたしたち人間で親にならない人たちというのはありますが、わたしたちは必ず誰かの子です。子であるということは必ず親がいるということになります。子になるのは生まれたときでも、はじめてお父さん、お母さんの名前を呼んだときでもありません。まして、わたしが子であると意識したときでもありません。わたしたちは皆、生まれながらにして子として生まれてくるのです。ということは、わたしたちは誰もが子である、つまり生まれたもの、生かされているものであるということなのです。その事実に、あるときにはっと気づく、お母さんに自分の名前を呼ばれたときに、子どもがお母さんの名前を呼んだとき、また根源的ないのちに呼ばれていることを意識したときに、自分が子であったことに気づくのです。

それでは、その気づきはどのように与えられてくるのでしょうか。わたしたちは自分の力で、子であることに気づくことはできません。先ず、お母さんが絶えずわたしを呼び続けているという事実が先にあって、わたしはその呼びかけを聞き応えようとすることによって、その気づきが起こるのです。わたしたちの親子という関係は、イエスさまを通してわたしたちが根源的ないのちに呼ばれていることに気づくための予行練習のようなものです。この地上の親子関係がすべてではないのです。つまり、わたしたちが子であるということは、単に人間としての両親がいるということだけではなく、あなたがたにはあなたがたを生み出し、いのちを与えて支え続けている真の親がいる、その真の親に気づいて自分をまかせなさいといわれているのです。人間の両親は、たまたまその子を預かっただけにすぎないのです。それなのに、子を自分の所有物のように勘違いしている親が何と多いことか、それが現代社会の問題であるのです。

ですから、わたしたち人類は皆、生まれながらにしてイエス・キリストにおいて神の子なのです。洗礼によって神の子になるのではありません。絶えまなく大いなるいのちによって生み出され生かされ、はからわれていることが、わたしたちが神の子であるということに他なりません。わたしが努力して、頑張って子の身分を獲得したのではないのです。子であるということは、すでに永遠において与えられていることなのだということです。イエスさまが神の子であるということの意味は、神さまである方が人間となることで、人間の本質を人間に教えてくださった、人間の真実、人間のいのちの根源、人間の歩むべき道をしめしてくださったということなのです。ですから、イエスさまは「道、真理、いのち」と呼ばれています。イエスさまは人間になって、生まれるものとなって、人間の苦しみ、悩み、迷い、罪となって、わたしの人生となってくださったのだということなのです。

ですから、今日の変容の箇所で「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」といわれるのは、イエスさまを通して、わたしたちに神さまが呼びかけている、その呼びかけがわたしに届いているということなのです。わたしたちは、その呼びかけが届いていることを確認したから、そのことを信じたから、わたしたちは神の子になるのではありません。神さまの呼びかけが届いていること自体が真実、信仰なのです。その真実にふれたものはイエスさまの真実とひとつになります。だから、もはやわたしが信じるのではなく、キリストがわたしのなかで信じるのだといえるでしょう。どうしたら信じられるか、どうしたら呼びかけに応えられるかではなく、何処までもイエスさまから逃げようとする、この逃げるわたしを追いかけてきて決して離さないというイエスさまの真実だけがあり、わたしたちはそのことを知らされる、神の子であることに気づかされるということなのです。わたしがどこへ行こうとも、どこに隠れようとも、イエスさまはついて来られます。

パウロはそのことを「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです(ガラ2:20)」といいました。この気づきがないなら、洗礼を受けようと、ミサに何回参加しようと、何度聖体を頂こうとも、わたしたちはイエスさまがわからないままです。何と無駄な時間を過ごしていることでしょうか。わたしたちは、頑張って努力して神の子になるのではありません。まして、洗礼を受けた人だけが神の子になるのでもありません。わたしたちは神の子であることに気づかされたから、洗礼を受けたのです。そこを勘違いしてはならないのです。

実に、今日の第2朗読でいわれているとおりです。「神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく、御自身の計画と恵みによるのです。この恵みは、永遠の昔にキリスト・イエスにおいてわたしたちのために与えられ、今や、わたしたちの救い主キリスト・イエスの出現によって明らかにされたものです(Ⅱテモテ1:9,10)」。イエスさまによって明らかにされた真実、生かされているという真実がわたしたちの先にあるのです。わたしたちはそのことに気づかせていただくことが信仰なのです。そして、その真実のことばは、今わたしたちに届いているのです。その真実のことばを、わたしたちが聞くことを信仰というのです。そしてその輪が広がっていくことを教会、福音宣教というのです。

四旬節第1主日 勧めのことば

四旬節第1主日 福音朗読 マタイ4章1~11節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

四旬節に入りました。今日読まれる箇所は、ヨルダン川で洗礼を受けられたイエスさまが、霊に導かれて、荒野に滞在される出来事が語られていきます。荒野というと、わたしたちはいろいろなイメージをもつと思いますが、日本で荒野というと荒れ果てた土地のことや休耕田を考えるかもしれません。しかし、イスラエルでの荒野は、まったくいのちを寄せ付けない、人が一度迷い込んでしまうといのちが危機に晒され、死と向き合わなければならなくなるような不毛の土地をさしています。そのような荒野は、わたし自身のいのちが脅かされ、わたしがわたしであると思っているような些末なこと、こだわり、大切にしていること、社会的な地位、役割、家族的な役割、宗教などもすべて役に立たなくなる世界です。

わたしたちは通常、社会の中で生きているとき、わたしが何者かであるということを他者との関わりの中で確かめて生きています。親であるとか、子であるとか、夫婦、兄弟姉妹といった血縁関係、会社では上司・部下、同僚、地域ではお隣さん、学校では教師・生徒、教会では信徒、司祭、司教、役員など、また性別、出身地とか等などです。つまり、わたしたちは自分の戸籍や住民票に書いてあったり、免許書やパスポートに書いてあったり、名刺に書いてある役職や名前が自分であると思い込んで生きています。しかし、荒野というところは、そのような自分、つまり自分が自分だと思っていることが一切通用しなくなるところなのです。通常、わたしたちは立場だとか、役割だとか、身分だとか、名前とかが自分であると思って生きています。しかし、それが通用しないところが荒野です。イエスさまが霊によって導かれていかれたところは、そのような場所なのです。そこではイエスさまも神の子であるということが通用しません。そこで悪魔は「あなたが神の子ならば…」といって誘惑してくるのです。悪魔というと悪いものというイメージがあるかもしれませんが、その意味は「誘惑するもの」です。つまり、わたしたちが自分のことを何ものかのように思っている、しかし本当にそうなのかというところを突いてくるのだといえるでしょう。荒野での滞在を、悪魔の試練のように思われていますが、そうではなく、わたしは一体何ものかが問われる場であるといったらいいでしょう。それが荒野なのです。あなたは自分のことを、○○だと思っているかもしれないけれど、それは本当にそうなのかということが問われるのです。この○○には、わたしたちのありとあらゆる立場、役職、身分、性別、名前などが当てはまります。わたしはキリスト者だとか、社長だとか、役員だとか、司祭だとか、司教だとか、先生だとか、シスターだとか、自分の名前だとか、そんなものがすべて吹っ飛んでしまうのが荒野なのです。

今日の第1朗読では、創世記の人間の創造が描かれています。そこで、神さまは人間を土の塵で形作って、その鼻にいのちの息を吹き込まれたと書かれています。まったく寓意的な話であると思われるかもしれませんが、あながち作り話でもないのです。この地球のありとあらゆるものを構成する要素は、酸素、ケイ素、鉄、アルミニウム、リン、カルシウム、マグネシウム、カリウム、ナトリウム、水素などであり、それはさらに細かい素粒子、クオークによって作られています。その最小の構成要素のその時々の集合体のひとつが人間であり、わたしなのです。ですから、わたしがわたしだと思っているようなもの、意識というようなものは、わたしが誕生してから出来てきたものに過ぎません。わたしが誕生する前に世界はすでにあったのです。考えてみると、わたしが生まれたときに、わたしなどという意識はありません。わたし自身の始まりなどわたしにはわかりません。わたしは何も知らないのです。だれも「俺は、今生まれるんだ」などと意識して生まれてくるということはありえないのです。すでに、わたしより先なるものがあったということなのです。そして、わたしより先にあったものに、わたしという自意識がくっついてきたのです。わたしが意識したときにわたしが始まったのではなくて、わたしの意識より先にあるものがあるのです。しかしながら、人間は意識が生じた瞬間に、わたしの意識より先にあったものをわたしの意識の支配下にあるものとして捉えようとします。つまり、自分がそれを支配しているかのように思うのです。そして、それを錯覚して、わたしの意識の世界がすべてだと思い、それを自分の統制下におこうとするのです。これが、自分本位の世界、自己中心性、原罪の正体です。

それに対して創世記は、わたしを形作っているものは、わたしの中にあり、またわたしの外にもある土の泥であって、それをわたしはわたしであるといっているのにすぎないのだといいます。わたしの自意識の前には、わたしを超えたものがあるのです。いのちの息が、その土の塵の集合体に吹き込まれて、わたしがわかってもわからなくてもそのいのちがわたしを支えているのです。わたしたちがするべきことは、そのような泥にすぎないわたしを推し広げていくことではなく、その内なるいのちに己をまかせることなのです。しかし、そのいのちがなかなかわからなくて、そのいのちの中で迷い、善悪を決めて、区別したり、幸不幸を作り出したりしているのがわたしたちです。わたしたちはいのちに抱かれているのにも関わらず、そのいのちに抗い、暴れまわっているのです。

四旬節は、霊がわたしたちを荒野へといざなう恵みのときです。荒野では、わたしがわたしであると思い込んでいるものが解体されていきます。そうすると、今までわたしだと思い込んでいたわたし、わたしたちのありとあらゆる立場、役職、身分、性別、名前が解体されていきます。そして、そこにある根源的いのちと出会うこと、これが宗教です。わたしがわたしのことをわかって、イエスさまと出会うのではありません。自分が解体されることで、わたしたちはイエスさまと出会うのであり、またイエスさまと出会うことで自分が解体されるのだともいえるでしょう。そのときわたしは最も根源的なわたし自身に出会うことになるのです。この四旬節、わたしたちは意識的に荒野を作り出して、荒野を生き、わたしたちが霊の導きに従って歩めるように祈りましょう。

年間第6主日 勧めのことば

年間第6主日 福音朗読 マタイ5章17~37節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の箇所は、他の共観福音書にないマタイ固有の箇所になります。そこから、マタイの教会の抱えていた問題がわかります。彼らの多くはユダヤ教からキリスト教になった人たちで、ユダヤ教側から決別されて、自分たちの今までのユダヤ教に由来する信仰を見直し、新しいイエスさま中心の生き方に向かっていかなければなりませんでした。自分たちは、一体何者なのかを問わざるをえなくなっていきました。

マタイ福音の中でのイエスさまの話し方は、「あなたがたも聞いているとおり」で始まり、「しかし、わたしは言っておく」というスタイルになっています。それは、旧約の律法ではこのように教えられていたけれど、わたしは新たにいうといういい方です。さらに、イエスさまは「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファイリサイ派の人々の義にまさっていなければ、決して天の国に入れない」といわれます。それでは、律法学者やファイリサイ派の人々の義とは一体どのようなものだったのでしょうか。今日の箇所を見ると「殺してはならない」「姦淫してはならない」「偽証してはならない」などという十戒の教えがまず述べられます。十戒の教えは、「目には目を、歯には歯を」でよく知られた同害報復法のハムラビ法典とともに古代社会の法規として知られています。ハムラビ法典は、社会秩序と人間のいのちを守るために、犯された行為に対して同等の償いを要求する古代の人間社会の法規です。ハムラビ法典は、お互いが必要以上の復讐に発展しないようにする人間の知恵でもあったわけです。これは現代にいたるまでの一般的な人間社会の正義であり、ユダヤの律法や十戒はその人間の正義を宗教化し、神法化したものです。

ここでいわれている人間の正義は、どこまでいっても報復的正義、配分的正義であり、わたしたちの今の社会もその正義で成り立っています。罪を犯したら罰を受ける、また反省させる、罪に釣り合った償いを受けさせるという考え方です。それは勧善懲悪、因果応報という考え方であり、多くの宗教がその倫理観にもとづいて教えを説いてきました。ですから、頑張れば報われる、努力すれば認められるが怠ければ報われない、罪を犯せば罰せられるという極めて単純な考え方が特徴となっていきます。これはどこまでいっても、人間の理性で考えた正義であって、律法学者、ファリサイ派の人々の正義はこれであるということです。人間にはわかりやすいし、誰もが受け入れやすい考え方であり、説得力のある教えです。

しかし、イエスさまは「あなたがたの義がファイリサイ派の人々の義にまさっていなければ」といわれました。それではイエスさまは、わたしたちに律法学者やファイリサイ派の人々より立派な人になれといわれたのでしょうか。「右の頬を打たれたら、左の頬をも向けなさい」的なことでしょうか。しかし、イエスさまがいわれるのは、律法学者やファリサイ人よりさらに上の正義を目指しなさいといわれたのではないと思います。わたしたち人間の考える正義とは、所詮は人間の頭で考えられる理屈で納得できる正義なのですが、神の国の正義、イエスさまがいわれる正義は、人間の側からのすべての理由や説明がまったく通用しないということなのです。どういうことでしょうか。

パウロはローマの教会の手紙のなかで次のように書いています。「律法が入り込んできたのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました(ロマ5:20)」。パウロの考えでは、律法が与えられたことで罪ということがより一層意識されるようになった。だから罪が増し加われば、それなりに罰も償いも重くなる。しかし恵みの世界では、罪が増し加われば加わるほど、神の恵みはなおいっそう満ちあふれるのだというのです。罪が多くなり重くなれば、それだけそのゆるしは大きくなり、恵みは満ち溢れるということです。これが、神の国の正義なのです。わたしたちは何度となく、このパウロのことばを聞いています。しかし、いくら聞いていても、どうしても人間の正義、理屈と合いません。わたしたちは、頑張ればそれなりに認められたいし、悪いことをした人は罰を受けて当然だと思っています。自分の嫌いな、また自分を害する人がゆるされて救われるなどということを、わたしたちは到底受け入れられないのです。イエスさまがゆるしても、わたしは認めないしゆるさないということになります。しかし、イエスさまの考え方、神の国の正義は、わたしたちの考えとまったく違っているのです。神の国の正義は永遠の絶対平等であり、わたしたちはそれを愛と呼んでいます。それは、頑張ったものは報われて、罪を犯し悪いことをした人は罰せられるというようなこととまったく関係がない世界なのです。わたしたちは、やはり頑張った人は評価されて、悪い人は自業自得だと思いたい、しかしその考え方がまったく通用しないのがイエスさまの正義なのです。だからわたしたちの頭で神の国の正義を理解できるはずがありません。

ですから律法学者やファリサイ派の人々にまさった義というのは、彼らの正義の捉え方の延長線上にあるより立派な正義、例えば敵への愛とかではなくて、人間の正義という物差しをまったく超えた正義、まったく人間の理由や理屈が通用しない神さまの正義、神さまのあわれみのことなのです。わたしは、なぜイエスさまから愛されているのかを考えてみてください。それは、わたしがイエスさまの愛にふさわしいからでしょうか。そうではありません。わたしがふさわしいから、愛してもらうなどと考えるのは人間の正義の捉え方です。イエスさまが愛するとき、与えるとき、ゆるすとき、理由などないのです。それはあたかも水が高いところから低いところに流れるように、自然でただそのままで、愛とはそういうものだということなのです。わたしが生まれてきた理由も、死んでいく理由もありません。ただ生まれて、生きて死んでいく、そこに理由などありません。わたしたちは自分が生きていると考えがちですが、生きるということはわたしの努力などによるものではありません。あるがままなのです。これが神さまの正義、愛のありさまなのです。

大きないのちの世界は、わたしたちが考える自分と他人の区別がなくなった世界、生と死がなくなった世界です。いのちに上等も下等もありません。神の国は、そのようないろいろな区別、隔てがなくなった透明な世界のことを指しているのです。イエスさまはそのことを、まことの義といわれました。自他、生死のある世界は、やはり暗い苦しみの世界でしかありません。自分さえよかったらいいとか、他人のことは知らないとか、いつまでも生きたいとか、そうすると自分が病気になったり、老いたり、死ぬことは悪になります。これは苦しみの世界です。これが人間の考える正義、理屈なのです。しかし、わたしたちはもっと大きないのちそのものに生かされているのです。にもかかわらず、わたしたちは人間の正義という小さな枠組みの中に閉じこもっていることに気づかないのです。人間の正義が全く通用しない大きな正義、愛といってもいい、そのような大きないのちが、この小さなわたしを生かしているのです。それが神さまの正義、天の国、神の国なのです。ですから神の国(天の国)は場所ではなく、時間の中にあるのでもなく、わたしたちを生かしている働きそのものなのです。

年間第5主日 勧めのことば

年間第5主日 福音朗読 マタイ5章13~16節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の福音では、「あなたがたは地の塩、世の光である」といわれています。今日の箇所で大切なことは、イエスさまは「あなたがたは地の塩、世の光である」といわれたのであって、「あなたがたは地の塩、世の光になりなさい」といわれたのではないということです。多くの場合、わたしたちは聖書のいろいろな箇所を読むとき、それをイエスさまからの命令、掟、「○○しなさい」、あるいは「○○になりなさい」というように読んでしまいます。確かに、聖書の中で「○○しなさい」という箇所もあるのですが、そうするとイエスさまの教えというものは、道徳的な規範や掟を指示したということになってしまいます。道徳を教えるだけであれば、いろいろな時代の偉人たちの教えもあり、旧約聖書の律法だけでも充分なはずです。イエスさまが教えたことは、道徳や人の道ではないのです。今日の箇所も間違って読むと、あなたがたは頑張って地の塩、世の光になりなさい。そうしてあなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。そうすれば、人々はあなたがたの立派な行いを見て、神さまをあがめて、人々が教会に来るでしょう、といった間違った自己中心的な宣教観をもってしまうことになります。その時点で、教会は慈善団体かNPO法人になってしまいます。確かにその方が多くの人にわかりやすく、教会でもそのような謳い文句でことがなされることが多いように思いますが、それでは宗教ではなくなってしまいます。

イエスさまがいわれたのは、あなたがたは自分の力で頑張って世の光になれ、地の塩になれ、人々の模範になれ、奉仕者するものになれ、社会貢献しなさいといわれたのではないということです。実はイエスさまとの関わりを深めていけば、わたしが世の光、地の塩になるなんてことは間違ってもあり得ないことが知らされてきます。なぜなら、イエスさまと出会えばわたし自身が知らされ、わたしたちが自分のこころをどうにかして、イエスさまの方に近づこうとすること自体が迷いであるということが知らされてくるからです。いろいろな努力や修行をして自分のこころを何とかしていこうというのは迷い、罪の中で最たるものは傲慢に他なりません。方向がまるで違うのです。わたしが世の光、地の塩になるのではなく、世の光、地の塩であるイエスさまご自身が、わたしを通して現れてくることを宣教というのです。イエスさまがわたしの中で働かれることが宣教であって、わたしが自分のこころをどうにかしようと思っていることが間違いなのです。その間違いに気づくときに、ふっとわたしの中でイエスさまが働いて、光を輝かせてくださる、塩味をきかせてくださるということなのです。宣教といいながら、わたしというものが前面に出ているのであれば、それは自我の匂いがプンプンして、イエスさまは働けませんし伝わりません。

「伝わるはよし、伝えんとするは悪し」ということばがありますが、光は自ずから自然と周りを照らしていきます。「『山の上にある町は、隠れることができない』『ともしびは、燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものをすべて照らすのである』」というときの「そうすれば」は恣意的な結果を意味することばではなく、「自ずから」という意味です。光は、頑張って周りを照らしてやろうとかいうような自我はありません。ですから自我の匂いも、己のはからいもありません。「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」と訳されている言葉は不正確な訳であって、「あなたがたの光が人々の前で輝くようにせよ」という意味であって、わたし個人の恣意的な働きを命じるものではなく、わたしに与えられている光そのもののもつ自ずからの働きを発揮させなさいという意味なのです。わたしたちはその働きを妨げないようにということなのです。

イエスさまは「あなたがたは、頑張って、努力して、地の塩、世の光になりなさい。そして、頑張って神の国をいい広めなさい」といわれたのではありません。そうではなく、「あなたがたは気づいていないかもしれないけれど、あなたがたは地の塩、世の光になっている。あなたがいるというそのことだけで、あなたの存在は他の人を生かし、光となっている。あなたは他の人、この世界、この宇宙のためになっている。同じように他の人々も、他のいのちもそうだ。そして、あなたも他の人から生かされ、光を受けているのだ」という意味なのです。このようなわたしたちとこの世界の、この宇宙とのあり方をイエスさまは明らかにしようとされたのです。塩を塩足らしめているのは、塩味を感じるものです。塩味を感じるものがあってはじめて、塩は世の塩となるのです。光を光足らしめているものは、光を受けるもの、光によって照らされるものです。光を感じるものがあってはじめて、光は世の光となるのです。この世界で何も自分ひとりだけで存在しているものはありません。すべては、お互いの繋がりの中に生きているということなのです。

わたしたち人間も、自分ひとりだけで生きていくことはできません。わたしの体内にいる何十兆個の細菌やウイルス、空気、水、光、ありとあらゆる物質を構成する素粒子等を排除し、「わたしが」と意識している存在だけでは生きていくことができないのです。わたしとこの世界はすべて繋がっており、わたしたち人間が勝手に環境と呼んでいる周りすべてのものがわたしを形作っており、環境なしにわたしは存在し得ず、わたし自体が環境、生態系のひとつなのです。そしてこの全宇宙とわたしとは繋がっており、このわたしひとりを生かせるために全力で働いてくれているのです。そのことがはっきりわかると、わたしの中で働いている光も塩味もわたしのものでないことがわかります。そのことに先ずあなたが気づき、わたしたちは生かされている、そしてお互いに生かし合っている、そのことを皆に明らかにしなさいということなのです。その気づきを失わせるものが、「わたしが」という意識であり、その「わたし」という意識が、わたしと「わたしでない」世界とを分け隔ててきているのです。この「わたし」を破る働きが、神の国の福音に他ならないのです。

神の国の福音は難しいことではありません。難しくさせているのはわたしが何とかしようとするわたしの思い、わたしのはからいです。わたしたちが地の塩、世の光にならなければならないと思わなくても、わたしたちはすでにイエスさまの光によって照らされ、塩味をつけられているのです。それはあたかも太陽の光を受けて輝く月のようなものだともいえるでしょう。月が輝いて見えるのは太陽の光を受けているからであって、月自体が輝いているわけではありません。たとえわたしたちが、照らされている、塩味をつけられていると感じないとしても、確かにわたしたちはイエスさまによって照らされ、塩味をつけられているのです。それがイエスさまの働きであって、わたしたちの思い、感覚とは関係がないからです。そのことを、先ずわたしが気づかなければ、わたしは闇の中に沈んだままです。しかし、そのことに気づき、そのことを味わうときに、光はわたしを通して自ずから広がっていくのです。わたしたちにとって大切なことは、光であるイエスさまによって照らされたままであること、真理であるイエスさまによって塩味をつけられるままになることなのです。