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年間第25主日 勧めのことば

年間第25主日 福音朗読 マタイ20章1~16節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日はぶどう園の労働者のたとえです。ここでは、神さまの絶対平等性について語られています。今日の福音を読むと、朝早くから働いても、夕方5時から働いても同じ報酬を支払うぶどう園の主人の姿が描かれています。これこそ、イエスさまの救いの絶対平等性を現しているといえます。そのイエスさまの救いのあり様が、神の国であるといったらいいと思います。宗教は、この絶対平等性を説くのが本来の姿です。しかし、ことはそれほど単純ではありません。

なぜなら、宗教というものは、本質的に差別を生み出す危険を抱えているからです。というのは、どの宗教もそうですが、宗教は救いということを説いていきます。あなたは救われたんですよということで、その人に特別な意識をもたせ、その人を幸せにしようとしていきます。それ自体悪いことではありませんが、これは一歩間違うと麻薬になってしまいます。あなたは救われたといった瞬間に、救われたものと救われていないものの区別を作り出してしまうからです。わたしたちは、救われるということは特別なことで、救われたわたしは特別なものだと無意識に考えているからです。このことが、宗教についての根本的な間違い、錯覚を生み出していくのです。わたしたちは、イエスさまはすべての人の救い主であることは、頭で分かっています。しかし、そのことを正しく理解しているかどうかはわかりません。第1朗読の中でも「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたがたの道とは異なると主はいわれる。わたしの思いはあなたたちの思いを、高く超えている」といわれています。

わたしたちは、救いというものを、やはり善悪優劣の世界の延長でしか考えることができないからです。そもそも、わたしたちは何が善で悪であるかわかっていません。しかし、わたしたちは自分で善悪の線を引いて、自分は善人の方に入ってそれで安心して、それで救われると思っているのです。そして、自分の都合の悪いあの人、自分の憎たらしい敵であるあの人は悪であると決めつけ、救われることなど願っていないのです。わたしの考えている救いは、わたしの好きな人、都合のいい人だけを善として集まった世界を作り出し、それを天国と呼んでいるのにすぎないのです。宗教が救われる側と救われない側の線引きをした瞬間、宗教は根本的に自己矛盾を抱えてしまうのです。イエスさまを信じれば救われると教えられてきましたが、それでは、信じるものは救われるが、信じないものは救われないという差別を作り出しているのに過ぎません。

また、もうひとつの問題は、わたしが信じるという行為が、救いの結果ではあるかどうかということです。そもそも、信じるという人間の行為そのものが不安定なものです。わたしたちはなぜ信じようとするのかというと、それは疑っているからなのです。明らかに確実なものであれば、わたしたちはそれを信じる必要はありません。目の前にあるものを信じるとはいいません。イエスさまを信じるということは、わたしはイエスさまのことを疑っているということなのです。不確かだから信じようとするのです。いろいろな本を読んだり、いろいろの修行や瞑想をおこなったり、いろいろな話を聞いたりして、わたしの心を落ち着かせようとします。イエスさまがこういった、ああいったと解釈し、偉い学者の先生がこういっている、教会がこう教えているといって信じ込もうとします。それで、落ち着けば信じた気になりますが、その心はころころ変わっていきます。決して確実なものにはなりません。わたしの心が安定しているときはいいですが、不安定なときは信仰もぐらぐらになってしまいます。これはわたしが心を取り作っていることであり、実はわたしが信仰と呼んでいるものの正体です。このような信仰が、わたしを救うはずがありません。救いという境界線を人間が引くと、わたしが信じるか信じないかが必要になってしまうのです。信仰とは、果たしてそのようなものなのでしょうか。

今日の福音でイエスさまがいわれたことは、救いというものは、人間がどれだけやったかという数の問題でも、やったやらなったという人間の行為の結果でもありませんよということなのです。もっとはっきりいえば、信じた信じなかったということが救いの結果でさえありませんということです。そもそも、イエスさまには救う救わないという区別はなく、救うということしかありません。だから、人間が信じたか信じなかったかということも関係ないということなのです。イエスさまが救うと仰っているのに、宗教が救う救わないという区別をすること自体、根本的に間違っていますよということなのです。イエスさまが宣べ伝えられた神の国は、場所とか死後の世界のことではなく、わたしたちの救われた救われないという境界をなくす働きであるということなのです。そのような境界を作り出しているのはイエスさまではなく、人間なのです。ですから、救われた側と救われない側の区別を作り出している人間の迷いから、人間を解放することがイエスさまの救い、神の国の働きなのです。それがぶどう園の主人のすべての人に1デナリオンを払うという姿に、現されているのです。「後のものが先になり、先のものが後になる」といわれていることも、人間の目で見たときに後先に見えるかもしれないけれど、それは救われる救われないの区別ではないのです。

わたしたちは、信仰や救いをわたしの心の問題として捉えがちです。しかし、信仰も救いもわたしの心の問題ではないのです。わたしの心の中で信仰が深くなったり、わたしが救われたと心で感じることではないのです。わたしたちは信仰というと、“わたしたちがイエスさまを信じること”のように思ってしまいますが、わたしたちがイエスさまを信じるのではなく、イエスさまがわたしたちを信じておられることをいうのです。イエスさまは、わたしを救うということについて何も疑いがないのです。わたしの心がどのような状況であろうと、イエスさまはわたしを救うということに何の疑いももたれないのです。それが、朝早くから働いても、午後5時から働いても等しく1デナリオンを支払うということで述べられていることなのです。イエスさまは、「自分のものを自分のしたいようにしてはいけないのか」といわれます。わたしが誰を救おうとわたしの勝手だといわれるのです。

このイエスさまのわたしを救うという願いがすべての人に成就した出来事が、主の復活なのです。ですから、わたしたちが救われる証拠はわたしの心の中を探したところで見つかりません。わたしの心は疑いと迷いだらけです。救いの証拠は、わたしはあなたを救うといって復活して、わたしとともにおられる方以外にありません。救いは、わたしが自分の心で算段して、信じることではないのです。ただ、「わたしはあなたを救う」といわれたイエスさまに聞く以外にないのです。わたしたちが、どんなに自分で考えても、友達同士相談しても、信仰や救いが湧くはずがありません。「わたしはあなたを救う」というイエスさまに出会って、その声を聞く以外に方法はないのです。信仰というのは、「わたしはあなたを救う」といわれるイエスさまをお迎えすることなのです。お迎えするのはわたしの心かもしれませんが、来られるのはわたしを救うといって、わたしを信じておられるイエスさまです。そして、わたしたちが今というときに、イエスさまによって、わたしの身に信仰の出来事、救いの出来事が引き起こされていくのです。それが信仰であり、救いなのです。信仰と救いはわたしの身に起こりますが、わたしの業や働きによるものではありません。

年間第24主日 勧めのことば

年間第24主日 福音朗読 マタイ18章21~35節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の箇所はゆるしということがテーマになっています。王の家来と家来の仲間の借金の額を際立たせることで、神のゆるしと人間同士のゆるしを説明しようとするものです。主の祈りの「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします」の解説のようでもあり、神さまがわたしをゆるしてくださったのだから、わたしたちも兄弟をゆるしましょうとか、兄弟の罪をゆるしますから、わたしの罪をゆるしくださいといった教訓話として説明されてしまいます。しかし、今日の箇所の中心は別のところにあるように思います。それは本当にゆるされ、救われなければならないのは誰かという問いだと思います。

今日の聖書の箇所は、「兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回ゆるすべきでしょうか。7回までですか」という弟子の問いに対してイエスさまが語られたたとえ話となっています。ここで弟子たちの取り上げた問題は、わたしがどこまで兄弟をゆるすかということです。つまり、自分はゆるす側であって、ゆるされなければならない側であるとか考えていないということなのです。実は、このことがそもそも大きな問題だといわなければならないと思います。王の家来が負っていた借金は1万タラントンといわれています。1タラントンが6000万円位といわれていますから、それの1万倍ということになります。普通、一個人ができる借金の額ではありません。自分の持ち物、自分、妻、子で返せるような金額ではありません。しかし、この家来は厚かましく「どうか待ってください。きっと全部お返しします」というのです。これは、ただの一時しのぎの言い逃れか、あるいは、借金をしているという意識がなかったのではないか疑うような言葉です。それに対して、この家来が仲間に対して貸していたのは100デナリオンです。1日の日給が1デナリオンですから、まあ、100~200万円程度です。これならば、人間が返すことのできる金額です。問題なのは、王の家来がどのようにしても返すことができない借金をしているのに、そのような借金をしているという意識がほとんどなかったということではないでしょうか。そして、その借金を自分はゆるされたということに気づいていなかったということだと思います。

わたしたち人間はいろいろないのちによって生かされています。そもそもいのちの代価等あり得ないものなのですが、スーパーにいけばありとあらゆる食材が売られています。小さな鳥であれば少しの飲み水と少しの餌で生きていきます。獰猛な狼であっても、最低限必要ないのちを狩って生きていきます。しかし、食物連鎖の頂点に君臨する人間はありとあらゆるいのちを狩って生きています。人間は、その食物連鎖の頂点に君臨する王のような存在です。王とは、この地球の中で、すべてを自分の意のままにすることができる存在です。所有欲と名誉欲と支配欲を一手に納めているのが王なのです。そして、自分の思いを通すためであれば、すべての自然界を支配し、またすべての人間界をも支配しようとしますし、手段を選びません。わたしたちが生きていくということは、大なり小なり、ありとあらゆるいのちに負っており、それらのいのちなしにはわたしたちは生きられない存在なのです。それなのにわたしたち人間は、自分たちが万物の霊長であるとして、ありとあらゆるいのちを狩り、搾取し、強奪しているのです。そのためであれば、他の人間をも容赦なく搾取し、殺略してきたのです。わたしが生きるということは、他の多くのいのちの犠牲のうえになり立っているのです。しかし、普段はそのようなことを考えもせず、スーパーで楽しく買い物をしています。しかし、このいのちの糧がわたしのところに届くために、どれだけ多くの人の手をかりて、どれだけ多くのいのちが奪われ、どれだけ多くの犠牲、あるときにはいのちさえも奪われてきたかについて思いが至らないのです。

日本では食事のときに、おいのちをいただきますと感謝して「いただきます」といい、おいのちをごちそうさまでしたといって謝恩を表してきました。今日の福音に出てくる王の家来は、そのように自分がいのちによって生かされ、守られ、養われていることに気づかず生きている、わたしたち人類の代表のようです。ここに出てくる王さまとは、すべてのいのちの源であり永遠のいのちである神さまであるといえるでしょう。わたしたちは生かされている、恵まれている、そして養われていることが当たり前となっており、そのことに気づきません。そのことに気づかずに、ありとあらゆるいのちを当然のこととして奪って生きてきました。人間を万物の霊長であると教えてきたのはキリスト教です。そして、キリスト教は長い間、洗礼を受けている人間にしか人権を認めてきませんでした。根底にある問題は、生きとし生けるいのちへの感覚の欠如です。そして、いのちの感覚の欠如を助長してきたのです。その自覚のなさが、近代の世界におけるありとあらゆる差別、搾取、戦争を引き起こしてきたのです。

このように見ていくと、実はわたしたち人間こそが、この地球上でもっともあわれで、残虐で、救われ難いものに他ならないのです。まさに今日の福音の王の家来とは、わたしたちのことなのです。それなのに、自分は何度まで兄弟の罪をゆるさなければなりませんかと問うているのです。わたしが兄弟をゆるす前に、ゆるされなければならないのはわたしなのです。他の誰よりもゆるされ、救われなければならないのは、このわたしなのです。このわたしは、宇宙の初めから救われようがないものなのです。わたしは悪い人間ですというのは、単なる道徳的反省に過ぎません。また、聖人ぶって、わたしは罪人だというかもしれませんが、わたしが罪人だなんてことは決して自分ではわからないのです。罪人の自覚がないというのが罪人の本性なのです。わたしはどうせ罪人ですからとかいいますが、そんなこといわなくても、わたしはもとより罪人なのです。わたしたちは、イエスさまの光に照らされて、初めてわたしが罪人であることがわかってくるのです。どんなに一生懸命糾明しても、それは所詮道徳的な反省であって、反省する自分などたかが知れています。罪人であるということは、自分でわかることでもないし、自分でいうことでもないのです。家来は、口先では王さまにゆるしを乞い、感謝するかもしれませんが、兄弟のことは何も考えられない、つまり地獄行きの身には何も変わりがないのです。それがわたしの身だということなのです。そのわたしたちを救うというのがイエスさまの願いです。そのイエスさまの願いに会わない限り、兄弟をゆるしましょうというのも、単なるスローガンで終わってしまうのです。その人は、自分はゆるされる必要があると思っていないからです。わたしたちは、イエスさまのわたしを救うという願いに出会わせていただくときに、決して救われない自分の存在に目覚めさせていただくことができるのです。兄弟をゆるさなければなどと思っている間は、実はわたしたちは何もわかっていないのです。そのような愚かな身が知らされること、これが今日の福音のテーマではないでしょうか。

年間第23主日 勧めのことば

年間第23主日 福音朗読 マタイ18章15~20節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の福音は、マタイが教会をどのように考えたかということがテーマになっています。冒頭の15節だけが、ルカに並行箇所を見ることができますが、それ以外は共観福音書の中に並行箇所は一切ありません。そのことから、この箇所は、明らかにマタイの教会が置かれていた状況が前提になっていると思われます。マタイ福音書は、紀元70年のエルサレム滅亡後に書かれています。その後、ユダヤ教はファイリサイ派が中心になっていき、律法は厳格化され、多元主義を排除していきます。そこで、当然、ナザレのイエスをメシアと信奉するグループは排除されていきました。そもそも四福音書の中で、教会という言葉が使われているのはマタイだけです。イエスさまが、いのちをかけて宣べ伝えようとされたのは神の国であって、教会を創立するという意図があったとは考えられていません。イエスさまの死後、イエスさまをメシアとして信じるユダヤ教の一派が、ユダヤ教から独立して、自分たちのアイデンティティを“教会”という言葉で呼んだということなのです。そのような状況のなかで、神の国とまったく異なった概念である教会という言葉が使われるようになったということなのです。しかし、教会は神の国ではありません。神の国はわたしたちの救いの現実であるとすれば、教会は神の国を求めるわたしたち人間の集まり、グループです。ですから、教会の中に神の国の働きがあるとはいえますが、教会と神の国を同一視することはできません。

このグループはユダヤ教へのノスタルジーを感じながらも、異邦人世界へ宣教へと出ていこうとしている共同体です。グループの主要メンバーは国外居住のユダヤ人でしたが、ナザレのイエスをメシアとして信奉しながらも、自分たちの先祖から受け継いできたモーセの律法に対して不要論を説く人と律法遵守派とに分かれていました。マタイの教会ではグループ間の争いが前提にあったと思われます。そのようなことが問題となるのは、おそらくどの宗教においても避けて通ることができないものなのでしょう。しかし、そもそも、そのような問題がでてくる最大の原因は、イエスさまとの出会いの体験から離れてしまっている、また体験の不在ということがあるように思われます。今日はそのことをお話ししたいと思います。

イエスさまが宣べ伝えられた神の国の福音は、全人類のためのものでした。ですから、ユダヤ人が先祖から受け継いできたモーセの律法が相対化されていくのは、ある意味で必然的な流れとなります。特に異邦人への宣教へと開かれていくためには、どうしても通らなければならないプロセスでした。しかし、数百年間受け継いできた律法の伝統を変えていくということは、そう簡単なことではありません。このような状況におかれると、人間は2つの極端な動きをしがちです。ひとつは、わたしたちはすでにイエスさまによって救われているので何をしてもよい、特にイエスさまは罪人を救われるのだから、罪を犯せば犯すほど恵みが与えられるという考え方です。ですから、当然モーセの律法は不用となります。もう一方は、イエスさまはモーセの律法をなくすためではなくて、完成するために来られた、だからわたしたちは律法を遵守しなければならない、遵守すればするほど救われるという考え方です。これはまっとうな考え方に見えますし、マタイもこの考え方に従っているように思われます。イエスさまの言葉として「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである(5:17)」といわれています。この考え方はもっともだと思われますが、この箇所はマタイだけに見られる箇所であり、イエスさまに由来する言葉だとは考えられません。イエスさまの主旨からいえば異なっているといわざるを得ません。

最初の考え方が間違いであることは、すぐにわかります。しかし、2番目の考え方もまたイエスさまの思いとは異なったものなのです。なぜかといえば、これらは、方向こそ反対ですが、どちらも同じ考えだからです。つまり、どちらも人間が何かをすることで救われるとか、恵みを得られると説いているからです。イエスさまは、わたしたちが何かをすれば救われるとか、恵みを受けられるとはいわれませんでした。イエスさまは、わたしたちが何かをしたから救うとか、恵みを与えるのではなく、救うこと、恵みを与えること、またゆるすことはイエスさまの本質です。最初から、ただあなたを救いたい、それだけなのです。そのためにイエスさまは十字架にかかられたのです。そのままのわたしを救うためなのです。よくいわれるのは、イエスさまを信じれば救われますといわれますがこれも間違いです。イエスさまがわたしを救われるのは、わたしがイエスさまを信じたという結果ではありません。わたしたちはイエスさまが救ってくださることを信じるだけなのです。イエスさまはわたしの救いのために、わたしの信仰さえも必要とされないのです。だから、わたしたちが何かをすればするほど救われるという考え方は間違いなのです。しかし、わたしたちはそこまでイエスさまが思っておられることに、なかなか気づけません。その気づけないわたしであることを見越して、人間のことばとなって、わたしを救うと名乗り、「わたしはあなたを救う」と呼びかけておられるのです。その呼びかけが「イエス」という名乗りなのです。わたしたちがそのことに気づかされたなら、ありがたくて、悪いことなどしたいとは思わなくなるでしょう。でも、それなのに、善いことができなかったり、悪いことをしてしまうわたしたちなのです。わたしが自分でわたしを救うことができるのであれば、イエスさまはわたしを救おうとは思われません。そのようなわたしをどうすることもできないから、イエスさまはわたしを救おうとされるのです。そのイエスさまの働きがわたしたちに振り向けられたものが信仰なのです。そして、その救いの真実が神の国と呼ばれているのです。

ですから、そのイエスさまとの出会い、その真実、神の国が体験されているとき、それを証し、生きる場として教会共同体の存在があるのだといえます。教会そのものにゆるしたり、解いたり結んだりする力があるのではなく、教会はただイエスさまの救いのしるしとして奉仕し合うだけなのです。教会はあくまでも、イエスさまの救いの働きがあらわれる場であって、その教会にゆるす側とゆるされる側、解く側と解かれる側、救う側と救われれる側の区別があるのではないのです。それを、わたしたちはいつも勘違いしてしまいます。そもそも、教会がつまりわたしたちの生き方が、イエスさまの生き方に由来するゆるし合い、支え合い、助け合い、愛し合いでなければ意味がないということなのです。そのときにこそ、聖体の秘跡、ゆるしの秘跡が教会の中で本当の効力をもつ秘跡となります。教会の生き方はともにゆるし合うこと、ともに支え合うこと、ともに愛し合うことを生きるのであって、教会が人をゆるしたり、解いたりするという権威をもっているなどと勘違いしてはならないのです。それこそ、イエスさまが一番嫌ったファイリサイ主義、律法主義に他なりません。そのことを勘違いしているのが、今の教会かもしれません。教会の誰が人をゆるしたり、解いたりできるというのでしょうか。教皇さまや司祭ができるとでもいうのでしょうか。そのような教会で行われる秘跡であれば、それは単なる儀式に堕落し、何の力ももたないものになってしまいます。聖体の秘跡、ゆるしの秘跡などの秘跡は、そこで行われる儀式のことを指しているのではありません。教会であるわたしたちが、ゆるし、相互扶助、信頼関係、相互愛を生きていること、それがまことの秘跡であり、そのとき諸秘跡は真実の秘跡となり、教会共同体そのものが真実の秘跡となって、この世界に対して証しとなっていくことができるのです。今日、わたしたちは各々の思い違いを正し、小さなものとなって歩めるようその恵みを願いましょう。

年間第21主日 勧めのことば

年間第21主日 福音朗読 マタイ16章13~20節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の福音は、イエスさまがフィリポ・カイサリア地方にいらっしゃったときの出来事です。17節以下の部分は、他の共観福音書に並行箇所はなく、マタイによる加筆であると考えられています。カトリック教会はこれをもって教皇の首位権、ゆるしの秘跡の根拠としていますが、そのことについて今日は触れません。今日の福音は、イエスさまとは誰かという大きなテーマになっています。弟子たちは、もう何年間もイエスさまとともにいました。それなのに、イエスさまは誰かとあらためて問うということはどういうことでしょうか。ともにいたのであれば、イエスさまとすでに出会っており、誰であるかわかっていたはずです。確かに弟子たちはイエスさまと一緒にいましたが、しかし本当にイエスさまと出会っていたのかということが問われているように思います。マタイ福音書の大きなテーマは、「わたしたちとともにおられる神」インマヌエルであり、イエスさまがわたしたちとともにおられるということが一貫して示されていきます。それでは、イエスさまはわたしたちとともにおられるのかもしれませんが、果たして、わたしたちはイエスさまと出会っているのかということが問われているということになります。

今、イエスさまはすでにわたしたちとともにおられます。イエスさまがわたしとともにおられないということはありえません。どんなときにもともにおられます。「世の終わりまでいつもあなたがたとともにいる(マタイ28:20)」、これがイエスさまのお約束だからです。それでは、イエスさまが一緒におられるのであれば、わたしたちはイエスさまと出会っているかというと、一概にそうとはいえません。わたしたちがイエスさまと出会うということは、わたしたちがともにおられるイエスさまに気づかされるということなのです。イエスさまがわたしとともにおられるからといって、わたしがイエスさまと出会っているかどうかは別問題です。イエスさまと出会ことは、イエスさまと全人格的に出会うということ、真実のイエスさまの働きに気づくこと、本当の意味でわたしとともにおられるイエスさまに気づくということだといえます。そして、それがわたしたちの回心でもあるのです。

今日の福音の中で、イエスさまは弟子たちに「人々はわたしのことを何といっているか」と問われました。これは、イエスさまについての情報を聞かれたということでしょう。それで弟子たちは、洗礼者ヨハネだとか、エリヤだとか、他の預言者だとか答えます。そのような弟子たちに、「それでは、あなたがたはわたしを何者だというのか」と問われます。それは、イエスさまが誰であるかを問うておられますが、実は「あなたがたはこのわたしと、真実のわたしと出会っているか」と問われたのです。弟子たちは、イエスさまの一定期間一緒にいましたから、それなりにイエスさまのことをわかっていたはずです。それでは、わたしたちはある時間を、また同じ空間を共有していれば、その人のことがわかるかといえば、必ずしもそうではありません。どんなに長く一緒にいても、心が通い合わないことがあることを、わたしたちは人間関係の中で嫌というほど体験しています。いわゆる、出会っているように見えても、本当は出会っていない、わかっているようで、何もわかっていないことがあるということなのです。また、そもそも、一緒にいるということさえも気づいていないということもありえます。

法然上人の歌に「月影のいたらぬ里はなけれども ながむる人の心にぞすむ」というのがあります。わたしたちは、イエスさまを自分の外に外に探し求めようとします。確かにイエスさまは、聖体の秘跡の中に、教会の聖櫃のうちに、教会の集まりの中におられます。いわゆる、イエスさまはわたしの外におられるのだと思い、探し求めます。しかし、同時にというか、イエスさまはもっと本来的なあり方で、わたしたちの心のうちにおられるのですよということではないでしょうか。月を外に眺めると、その月の光がすべての人のうちに注がれていることは一般論としてはわかるのです。しかし、それが自分のこととなると意外に気がつかなかったり、わからなかったりするものなのです。わたしたちがどんなに自分のことをつまらない人間だと思っても、自分がどんなに罪深くどす黒い心を抱えていたとしても、実は、イエスさまはそのわたしを煌々(こうこう)と照らし、心の隅々まで照らす光として、わたしの心のうちにおられるということです。ですから、他所にイエスさまを探しに行く必要などないのです。ただ、愛と憎しみに翻弄されているわたしたちは、よもやわたしのことなどイエスさまは思っておられるはずがないという妄想が、わたしたちとイエスさまとの出会いを妨げてしまっているのではないでしょうか。ですから、どんなにイエスさまが近くにおられても、わたしたちの眼がさえぎられてしまっていて、イエスさまを見えなくさせてしまっているのではないでしょうか。

わたしたちは自分の心を浄め整えて、イエスさまを探し求め、見ようとし、近づこうと思っていますが、実は、イエスさまはわたしが求める遥かに先立って、わたしを探し、見いだし、わたしを救い取っておられ、そのわたしを決して捨てないと仰っているのです。イエスさまはわたしが探す先に、わたしを探しだして見つけ出し、わたしが見ようとしている先に、わたしを見つめて見守り、わたしが救いを求めようとする先に、わたしを救い取っておられることに、わたしたちは気づかされるのです。ですから、わたしたちはイエスさまがどこにおられるのか、どのようにすれば救われるのか、自分の至らなさを悲しむ必要などないのです。そのような要らぬ算段をするのではなくて、わたしたちはすでにイエスさまによって見いだされ、救われていることを喜ぶのです。このような真実のイエスさまに出会うことを回心というのです。こうして、真実のイエスさまがわたしに知らされてくるのです。但し、どんなにイエスさまのことを聞いてありがたいと思って感動しても、しばらくすればすっかり冷めてしまって、何の感動も起こらないわたしに逆戻りしてしまいます。しかし、わたしがイエスさまのことを忘れてしまったとしても、イエスさまは決してわたしのことをお忘れになることはありません。

それなら、わたしたちはイエスさまのことを忘れないようにしっかりと心を固めて、イエスさまに従おうとするのが、普通にわたしたちが考えることでしょう。しかし、そのようなわたしですが、イエスさまに出会いながらも、現実には、なおも愛と憎しみ、疑いと不信の業火に振り回され、相変わらずイエスさまから逃げ続けているわたしがいるのです。このように逃げ続けるわたしたちを、それでも探し求めて、「わたしはあなたとともにいる」と呼び続けてくださるイエスさまであるということなのです。このようなイエスさまから、わたしたちは見守られ、救い取られているのです。この真実のイエスさまと出会うことが、「あなたはメシア。生ける神の子です」とイエスさまに申し上げることなのです。イエスさまはわたしたちの意見を聞いておられるのではありません。イエスさまから逃げ続け、背き続け、自分に都合のいいイエスさまだけを探し求めようとしているわたしたちに、それでも「わたしはあなたとともにいる」と呼び続けてくださっていることに気づいてくれ、目覚めてくれと呼びかけておられるのです。ですからその信仰告白はペトロをしていわせたものではなく、どのようであっても救ってくださるイエスさまのお働きが言葉として生まれ出てきたものなのです。それを「このことをあなたに現わしたのは人間ではない」と述べられ、神さまの働きであることが示されていくのです。わたしたちはこのような真実のイエスさまと出会うように呼ばれているのです。

年間第20主日 勧めのことば

年間第20主日 福音朗読 マタイ15章21~28節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の箇所は、イエスさまがというより、初代教会が異邦人宣教をどのように捉えていたかということがわかる箇所です。この箇所は、すべての人の救いか、それとも一部の人の救いかという問いでもあります。ユダヤ教はユダヤ人だけの救いを説いてきました。それに対するアンチテーゼとして出てきたのがキリスト教です。しかし、キリスト教の中で、自分たちと意見が違う人々を異端として排除していくという動きが起こってしまいます。こうして、イエスさまによって始まった神の国の福音に垣根を作って、神の国を狭めていくことをやっていくようになります。それが、まさに今日の福音のなかで、イエスさまに「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」といわせてしまっていることなのです。この言葉は、イエスさまに由来するのではなく、マタイの教会の創作であるといわれています。初めに書かれたマルコ福音書にはこの言葉はありません。ここに、本来すべての人の救いを説く宗教が、特定の人のための宗教になっていくプロセスを見るような気がします。これが、キリスト教のユダヤ教への先祖返りという問題なのです。どの宗教においても、このような問題が起こってきます。そして、どの宗教においても源泉へ立ち帰る改革がおこなわれてきました。そのような動きは、ときとしては分裂を引き起こしてしまうこともありますが、これが人間としての宗教の限界なのでしょう。

わたしたちが救いというものを考えるとき、先ずはわたしが救われて楽になること、わたしの意が満たされて幸福になることとしてしか捉えることができません。今日の福音でいえば、カナンの女は、どのようにしても救われることがないわたしたち人類の代表です。そして、この女性はイエスさまとの出会いを通して救われていきます。しかし、同時に「この女を追っ払ってください」という弟子たちの姿も、自分たちは救われた側にいると思い込んで、そこに安住しているわたしたちの代表でもあるのです。つまり、救われたいと思っているわたしたちの救いが、果たして何を意味しているのかだれにもわからないということなのです。ここで、カナンの女も弟子たちにも何が問われていたのでしょうか。それは今、救いを必要としているのは、他の誰でもないわたしであるということに気づかされるということではないでしょうか。つまり、救われるのは今であって、わたしの状態に一切関係なく、今のわたしを救いへと招いておられ、救われるわたしは今のわたししかない、そしてどうしても自力では救われないわたしがいるということに気づかされるということだといえるでしょう。

このことは、わたしがわたしというものから解放されるということでもあるのです。わたしは救われたから、あなたも救ってあげましょうというようなものではないのです。そういうふうに考えているあなたこそ、救われなければならないんですよということなのです。自分の救いや自分の幸福を第一に考えていた人たちの中から、本当に苦しんでいる人たちの救いを望むような心が生まれてくるはずがありません。大体、多くの宗教が人を救うとか助けることを教えます。しかし、人を救う、助けるという発想は、自分は救われていて、自分が人を助ける立場になりたいという我欲からでています。人を助けるということは、結局は自分を満たしたいという我欲であって、これは一種の名誉欲でしかありません。人を助ける立場に立つということは、今日の弟子たちの立場と同じです。自分が救われた立場に、上に立って、そこに安住して、人を救おうとします。これはイエスさまの心ではなく、どこまでいっても救われた人と救われていない人の壁を立てていくことに他なりません。自分は信仰があるという顔をして、話をしたり、活動したりしている、そしてそこに上下関係をつくっていきます。本当の宣教は、自分を救われた立場に置くことではなく、自分を救われない立場に置くこと、他の人々の救いを優先すること、自分が最後のものになるということなのです。宣教するということは、自分は救われないものになるということなのです。

多くの宗教は同じ信念、教義を共有して満足して、そこに安住していきます。これはどこまでいっても閉じられた世界、自己満足の世界に過ぎません。これが本当の救いといえるでしょうか。人を助けることで、自分も救われていく、これは単なる自己満足です。わたしたちは、結局は自分が安心して満たされたいというところから自由ではありません。これが現実の世界か、来世かの違いだけで、自分を最優先していることに変わりはなく、これではどれだけ学んでも、どれだけ祈っても、単なる我欲に過ぎません。自分ひとりが救われて、そこに沈んでいく世界です。そんな救いはイエスさまの救いではありません。ですから、本当の救いは、わたしの救いからわたしが解放されることなのです。しかし、わたしの救いから解放されるということなど、わたしの力ではあり得ないことなのです。だから、救われるのは、今のわたしの問題なのだということに気づかされることが、これが大切なことであることがわかります。

今日の福音の箇所は、初代教会の回心の箇所であるともいわれています。イエスさまに「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」といわせていますが、実はそのように考えていたのはイエスさまではなく、初代教会だったのでしょう。イエスさまが活動しておられたときには、ユダヤ人異邦人、老若男女、身分貴賤の別なく、すべての人の救いのために働かれました。しかし、イエスさまが亡くなり、教会が福音宣教に出ていくときに、自分たちだけの救いに閉じこもる誘惑にさらされたのでしょう。自分たちだけイエスさまによって救われて、そこに安住するという傾きが頭をもたげてきたのではないでしょうか。救われたものと救われていないものを区別し、グループを作っていくことです。しかし、イエスさまはご自分を救われたものの立場に身を置かれたことはありませんでした。イエスさまの生涯、特に十字架はユダヤ人には決して課されることがない、もっとも不名誉な呪われたものの死でした。つまり、イエスさまはもっとも救われ難いものとしてその身を置き、異邦人として、呪われたもの、罪と悪に染まって、救いから除外されたものとして死んでいかれたのです。そのことに、初代教会は異邦人の宣教という局面において、わが身のあり方をイエスさまから問われ、ああ~イエスさまはそうではなかったのだ、ということに気づかされ回心していった出来事、それが今日の箇所なのです。イエスさまの道は、自分をもっとも救われ難い身に我が身を置き、人々とともに地獄に堕ちていくことによって、人類を救っていく道なのです。だから、自分は救われて、天国にいって幸せになりたいなんて思っているわたしが解放されていくことこそが、本当の意味でのわたしの救いなのです。今日、わたしたちもイエスさまのそのお心に触れさせていただく恵みを願いましょう。

年間第19主日 勧めのことば

年間第19主日 福音朗読 マタイ14章22~33節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の福音は、イエスさまの湖上歩行という奇跡物語が報告されています。しかし、実際にイエスさまが湖上を歩かれたかどうかということは問題ではありません。つまり、どうでもいいことだということです。今日のテーマは、信仰はだれのものかということです。

状況としては、舟で向こう岸にいこうとしていた弟子たちは、嵐に巻き込まれこぎ悩んでいます。そうすると明け方に、イエスさまが湖上を歩いて弟子たちに近づいて来られます。まあ、映画のようなシーンです。弟子たちに、「安心しなさい。わたした。恐れることはない」と声をかけられます。それでも、弟子たちはイエスさまだと信じることはできません。それで、ペトロが「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」といいます。イエスさまは「来なさい」といわれ、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスさまの方へ進みます。この状況をみると、ペトロが舟を降りて、水上を歩いて、イエスさまの方に進むという出来事は、イエスさまがおこしておられるということがわかります。ペトロの信仰が強いので、そうできたという話ではありません。「来なさい」といわれたイエスさまが、ペトロにさせておられる出来事です。ここではっきりとしなければならないのは、ペトロを舟から降りて水上を歩かせているのは、ペトロの信仰心の強さではないということです。ペトロは、ただイエスさまであれば、自分を水の上を歩かせることができるということを信じたのであって、実際にペトロを水の上を歩かせているのは、ペトロの信仰心ではなくてイエスさまなのだということです。ここで、多くの人は信仰について、間違った理解をしてしまいます。ペトロの強い信仰心が、水の上を歩かせたのだと考えてしまいます。しかし、これがペトロの信仰心でないことは直ぐに暴露されます。

「しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけた」と書いてあります。つまり、ここでペトロは、水の上を歩かせておられるイエスさまではなく、水の上を歩いている自分を見たのだということです。水の上を歩いている自分という現実などあるはずがありません。それで沈みかけて、「主よ、助けてください」と叫びます。そうすると、イエスさまは手を伸ばして捕まえ「信仰の薄いものよ、なぜ疑ったのか」といわれます。これは、ペトロの信仰の弱さを指摘されたのではありません。ペトロが信仰をあたかも自分のものであるかのように勘違いしていることを指摘されたのです。

ここでは、信仰とは何かということが問題にされているのです。わたしたちがイエスさまを信じていても、正確にいうと信じているつもりになっても、わたしたちの中で疑念が晴れないのはどうしてでしょうかという問題です。もし、信仰がわたしのものであれば、わたしはその信仰をコントロールして完全なものに出来るはずです。わたしたちはイエスさまを信じますというときに、あるときは心から信じられて疑念の心がなくなり、晴れわたったような堅固とした心になれたと思えるときもあります。しかし、そのような心は長続きしません。イエスさまを信じて救われたような気持ちになるときもありますが、何かことが起これば、信仰があるのかないのかわからないようになり、すべてが吹っ飛んでしまいます。そうすると、信仰があるのかないのかわからないような気がしてきます。わたしたちは何をもって信仰があるとか、ないとかいっているのでしょうか。それは、おそらく自分の心をみて、信仰があるとかないとかいっているのではないでしょうか。しかし、わたしたちがどれだけ自分の心を眺めても、そこには信仰のかけらさえない、それがわたしなのです。わたしたちは自分の心をみて、信仰があるとかないとかいっていますが、わたしの心は変わりどうしです。わたしたちは、わたしの心で疑いなく信じることも、疑いのない心になることも、疑いのない心を持続させることもできないのです。そもそも疑いのない心とは何でしょうか。それは、ただ自分の思い込みではないでしょうか。わたしたちは、わたしの心が自分の思い通りになると思っていますが、わたしの心は決してわたしの思い通りになりません。だから、苦しんでいるのです。わたしの心が思い通りにならないということは、わたしの心はわたしのものではないからです。わたしたちは、わたしの心の中に信仰の証拠、証をつかみたいと思っています。また、わたしは自分の心を整えること、自分の信仰を強くすることで救われると考えています。多くの宗教がそうですが、精神修養をして、自分の心を整えて、自分の心を浄めて、そこに救いの証拠をつかみ、救われていこうとします。しかし、そのようなことによってわたしたちが救われるということはないというのが今日の福音です。

考えてみてください。ペトロが自分の信仰で、自分の信念で湖の上を歩いたんでしょうか。そうではありません。大体、わたしたちは救われるということを、自分が楽になること、自分の思いが満たされること、自分の計画が実現することだと考えています。天国に行きたいということなど、まさしくそうでしょう。わたしが思っているような天国や永遠のいのち、救いが本当にあるかどうかだれもわからないのです。確かなことは、イエスさまの「来なさい」という声が聞こえたということです。イエスさまは、ペトロに心が整ってから来なさいといわれたでしょうか。嵐のような状況のなかで、ただ「来なさい」といわれたのです。こうしたら信仰は深くなるとか、準備しますからちょっと待ってくださいではないのです。そんなのに関係なく、「直ちに来たれ」というイエスさまのご命令、わたしの心とか、才能とか、信心に一切関係なしに「来なさい」といわれるのです。今のままのわたしでは、どうしても救われようがないものです。準備して、明日、明後日、1か月後ではなく、今、そのままで来なさい、そのイエスさまのことばが聞こえていること、聞こえてくること、これがまことの信仰です。ですから、信仰はイエスさまのお言葉、ご命令であって、わたしの心とか、わたしの何かではないのです。どうしても救われることのないわたしが救われる、ペトロの力なんかではどうにもならないことがイエスさまによってなっていく、イエスさまの方からすでに手が差し伸べられていたこと、これこそがまことの信仰の意味なのです。信仰とは、来なさいといわれるイエスさまのことばがわたしに届いていることに他なりません。信仰は、イエスさまからペトロに振り向けられたイエスさまの真実、イエスさまの信仰なのです。ペトロが疑っていた心、信仰薄い心を頑張って強くしましょう、というようなわたしたち人間の次元の話ではありません。

主の変容 勧めのことば

主の変容 福音朗読 マタイ17章1~9節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は主の変容のお祝い日です。3人の弟子の前に、栄光に輝くイエスさまが現れます。多くの聖書の注解では、受難予告をうけた弟子たちが、失望してしまわないように、弟子たちを勇気づけるための出来事であったとされています。全体的な構成は、主の受難予告の前にペトロの信仰告白があり、その後、主の変容の出来事、続いて弟子たちの不信仰の問題が取り上げられています。最初の受難予告の後には、弟子たちの不信仰、2回、3回目の受難予告の直後には、弟子たちの主導権争いが描かれています。つまり、ここではイエスさまとは誰か、弟子たち、人間とは一体何かということが問題になっているのです。

まず、弟子たちに対して「あなたがたはわたしを誰だというのか」という、イエスさまの問いがあります。これはわたしたちにも問われていることであるといえます。わたしたちはイエスさまに対して、それぞれ自分勝手な都合のいいイメージをもっています。それに対してイエスさまは、自分はエルサレムで人々の手に渡されて、殺されるという事実を示していかれます。しかし、弟子たちは自分勝手な、自分たちに都合のいいイメージをイエスさまに対してもっていますから、それを受け入れることができません。その自分中心な弟子たちに対して、イエスさまは、変容の山で栄光に輝くご自身と、エルサレムで自分のいのちを与え尽くしていく身とが同じであることを示されました。しかし、それに対して出てきた弟子たちの反応は、いずれも無理解と自分たちの都合の優先でした。これは弟子たちの問題だけでなく、わたしたち人間、もっといえばイエスさまが救いの目当てとされる人間、なぜわたしたちが救われなければならないかという問題にまで広がっていきます。

ペトロはイエスさまに「あなたは、神の子、メシアです」と立派に信仰告白しながらも、「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をするもの、神のことを思わず、人間のことを思っている」と厳しく叱られてしまいます。これもペトロのことだけではなく、わたしたちひとり一人のことなのだと考えなければならないと思います。わたしたちは、教会の教えとして、イエスさまが三位一体の第二の位格で、神の子であり、救い主であることを知り信じています。そして、日曜日ごとにも信仰告白しています。しかし、どうも神さまのことを知っていることと、人間が思っていることとは同じではないようです。イエスさまが「あなたは人間のことを思っている」といわれたことはどういうことでしょうか。わたしたちは、自己本位ではいけない、人の立場に立って考えましょうとか、共感が大切だというふうに聞かされます。ペトロもイエスさまの身の上を心配して、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と、いさめているのだと思います。一見すると、ペトロはイエスさまの立場に立っているようにも見えますが、しかしそうではないとイエスさまはいわれます。人間は、どこまでいっても自分本位にしか物事を考えられないのです。どういうことでしょう。

わたしという存在は、わたしでないもの、あなたや彼らでないものがわたしです。わたしはわたしで、わたしはあなたではないのです。そして、わたしのいるところは“ここ”ですが、あなたのいるところは“そこ”であって、相手のいるところは決して“ここ”にはなりません。わたしは、いつもわたしのいるところから離れることはできず、決して相手のいるところが“ここ”になることはありません。どこまでいっても、自分本位で、自分勝手なのがわたしなのです。これは善い悪いの問題ではなく、これが人間の本性なのだということです。イエスさまは、あなたがたは自分本位をやめて、他人本位になりなさいといわれたのではないのです。わたしたちはどうしても、他人本位になることはできません。あなたがたは、他人本位になっているつもりになっているが、どうやっても他人本位になることはできないということを、きちんと自覚しなさいといわれたのです。自分は他人本位にやっているとか、他者のためにやっているという無自覚や善意、奢りが、人々を傷つけているということを知りなさいといわれたのです。あなたは自分本位にしか生きられないことを、もっときちんと自覚しなさいといわれたのです。これがわたしたち人間の抱えている本性であり、問題なのです。それに対して、唯一わたしとあなたの区別をなくされた方がいます。それが、救い主といわれたイエスさまです。イエスさまが人間になられたということは、イエスさまがわたしになられたということなのです。もし、わたしが他人本位になるというならば、わたしが死ぬか、あるいはこの世からいなくなるという以外に方法がありません。

わたしたちは、神さまが先にあって、その後、神さまがお創りになった人類が堕落して救いが必要になったと考えます。教義上は、確かにそうかもしれません。神さまが先にあって、後から登場したわたしたち人類に救いが必要になったと考えます。しかし、現実はそうではないと思います。救われなければならない人類がいた、だから神さまは人類を救うという願いを起こされたのです。そして、人間を救うということが神さまの本質です。となると、人間を救わないではおれないという願いを、わたしたち人類が引き起こしたのだというふうにもいえるわけです。つまり、わたしたち人間の苦しみ、痛み、悲惨の中に、イエスさまの願いが含まれているということなのです。神さまの存在と救いを必要とするわたしたち人類をわけることはできない、絶対矛盾的相即関係にあるということだと思います。もし、神さまが人類を救われないのであれば、神さま自身が自己矛盾に陥ってしまいます。なぜなら、神さまは人類を救うことによって神さまであるからです。また、人類がいるということは、神さまが必ずいるということになります。なぜなら、神さまなしに人類というものはあり得ないからです。このように、神さまとわたしは決して、お互いに相手なしに存在することができない存在なのです。そのことがはっきりと示された出来事が、神がわたしとなるという、イエスさまの受肉の神秘です。決して救われないわたしに、神さまがわたしになられたという出来事が、イエスさまの受肉の神秘であり、そのイエスさまの真実の姿が現された出来事が主の変容であるわけです。

主の受肉と主の変容という出来事を通して、わたしはわたしであって、あなたではない、決して他人になることができない自分本位であるわたしたち人間に、神さまはわたしになられたということが示されました。さらに、その変容の出来事によって、実はわたしたちは神さま、この世界とひとつであって、一体なのだという真実の世界、本来の世界、真理が明らかにされたのだということができるでしょう。イエスさまのうちにおいて、わたしたちは神と、また全人類と、全宇宙はひとつであるということが示されたのです。それに対して、わたしたちは自分の都合、自分のレンズで再構成した世界が本物だと思い込んでいる、これこそが人間のことを思っているということであり、これが不信仰ということなのです。

8月の主日ミサの予定

■高野教会の今後の主日ミサの予定

8月 6日(日) ミサ担当の神父様の夏季休暇のため、ミサがありません。

8月13日(日)第2日曜日のため、ミサがありません。

8月20日(日)ミサ10:30

8月27日(日)ミサ10:30

■洛北ブロックの教会と河原町教会のミサの予定

河原町教会 (前土曜日)18:30 (日曜日)7:00、10:30

衣笠教会  (日曜日)9:00 第1日曜日なし

小山教会  (日曜日)9:00 第4日曜日なし

西陣教会  (日曜日)9:00 第3,5日曜日なし

北白川教会 (日曜日)10:30

京都教区のホームページで、ミサの時間を確認できます。

https://kyoto.catholic.jp/hp/addres/Address_Table.htm

年間第17主日 勧めのことば

年間第17主日 福音朗読 マタイ13章44~46節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日のたとえ話は、イエスさまのたとえ話というものを理解していくための大切な視点が描かれています。多くの聖書の釈義や説教では、畑に隠された宝、高価な真珠は神の国であり、わたしたちがすべてにおいてそれを捜し求めなければならないというふうに説明されます。確かに神の国がわたしたちの間に到来しており、すべてにおいてそれを探し求めなさいという主張からすると、そのように解釈されるのが普通でしょう。また、マタイの教会の置かれていた状況から考えると、すべてのものを売り払ってでもそれを手に入れたいと願う、それが神の国なのだと説明するのが当然かもしれません。そして、その喜びということが強調されるのでしょう。しかし、普通ならそんなに素晴らしいものであれば、どんなことをしてでも手に入れるということは、理屈にかなっており、そのことに誰も反対する人はいないでしょう。でもよく考えると、誰もが納得できる話をなぜわざわざ、イエスさまはたとえ話で話す必要があったのでしょうか。人々に神の国の素晴らしさを説明するために、わざわざ、このようなたとえが用いられたのでしょうか。そのままいえばわかるのではないでしょうか。

わたしたちは、このたとえ話の中で、畑を買う、また真珠を探し求めて買うというときの主語を、わたしたちだと思い込んでいるのでないでしょうか。神の国のたとえは、いつも神さまの働き、その神秘をわたしたちには解き明かすために用いられてきました。それであれば、その主語はわたしたちではなく、イエスさま、神さまではないでしょうか。あらためてイエスさまを主語にして、このたとえを読み直してみたいと思います。そうすると、宝を探す人、商人はイエスさま、そして、宝が隠されている畑、高価な真珠は、わたしたち人間のことになります。事実、イエスさまはわたしたちのために、自分の持っているものをすべて売り払って、わたしたちを買い取ってくださいました。これがイエスさまの十字架の意味です。パウロは、「あなたがたは、代価を払って買い取られた(Ⅰコリ6:20)」「神の畑(同3:9)」なのです、といっています。わたしたちは、イエスさまからみたら、高価な真珠、宝が隠されている畑なのです。先々週の種まきのたとえで、種がまかれている畑、その畑がどのような畑であっても、その土地には種がまかれているということがいわれました。その畑が荒れ地で、茨の地で、ごつごつした岩だらけの土地であれば、わざわざそれを買おうとする人はいません。しかし、イエスさまにとっては、わたしたちは皆、宝が隠されている畑なのです。どんなに酷い土地であろうと、また豊かな実りをもたらす畑であろうと、もたららさない畑であろうと、宝が隠されている、つまりイエスさまにとって愛おしい土地なのです。そのことをイザヤは「あなたを創造された主は、あなたを造られた主は、今こういわれる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ...わたしの目にあなたは値高く、尊く、わたしはあなたを愛する...恐れるな、わたしはあなたとともにいる(イザヤ43)」といいます。わたしたちは、かけがえのない価値のある、大切なものなのです。イエスさまは決して、わたしたちを上から目線で救ってやろうというのではなくて、すべてを投げうって畑を買って、自分が泥まみれになってでも、わたしを探しておられるのです。イエスさまにとっては、わたしは大切なものなのです。わたしが素晴らしい豊かな土地だからそうしておられるのではないのです。

わたしたちは競争と区別、結果と評価の世界に生きています。だから、競争に勝って選ばれ、より優れたものになり、結果をだして認められなければ価値がないというような価値観を生きさせられています。一般の社会でもそうなのに、宗教の世界にまでその価値観が持ち込まれてしまっています。洗礼を受けて、神さまに選ばれたものにならなければならないとか、たくさんお祈りして、施し善行をして、社会貢献しなければならないとか、もちろんそれらのことは素晴らしいことには違いありませんが、そのこととイエスさまがわたしたちを愛されておられることとは何の関係もありません。イエスさまは、わたしがしたこと、しなかったこと、わたしが罪人であったか、なかったかに関係なしに、わたしを愛し、大切にしておられます。イエスさまは、わたしをわたしであるということだけで、わたしを愛しておられるのです。そのために、自分のすべてを売り払って、血を流して、わたしを探し求め、わたしを買い戻してくださった、わたしたちを地獄の淵から引き出し、解放してくださったのです。それは、わたしたちが魂の深みにおいて、愛され、受け入れられ、認められ、大切にされることに飢えかわいているからなのです。なぜなら、わたしたちは拒否され、拒絶され、傷つけられ、心のうちに寂しさと孤独、絶望と闇をかかえていることを、イエスさまはだれよりもよく知っておられるからなのです。イエスさまは神さまなのです。わたしたちに何が本当に必要なのかを知っているのは、わたしではなく、イエスさまなのです。このイエスさまがご自身の愛を全人類に知らせるためには、たとえで話すしかないのです。体験したことも、考えたこともないものに、真実を話してもわかるわけがありません。だから方便として、イエスさまはたとえを用いられたのです。それが、宝が隠された畑、高価な真珠のたとえなのです。そして、イエスさまは、真実の愛を具体的に知らせるために、わたしと同じ人間となって、血を流して、十字架にかかられたのです。それは、そこまでしなければ、競争社会に生きさせられ、結果を出すことを求められ、駆け引きの世界で生き、拒否され、拒絶され、傷つけられて、傷ついて、自己の中に閉じこもって、“それがすべてだと思い込んでいる”わたしたち人類に、真実の愛を伝える方法が見つからなかったからなのです。

神の国が素晴らしいからそれを手に入れるために頑張りなさいというのであれば、小学生でもわかります。そして、教会でもそのように教えられてきたことで、イエスさまの話を聞いてわかっているつもりになっているだけで、結局はこの世の競争原理と何も変わらない価値観をわたしたちは生きているのです。わたしたちは、イエスさまのことをわかっていると思い込んでいる、しかし、実はイエスさまのことを何もわかっていない、その大きなずれに気づかないほど愚かなのです。ですから、わたしたちはイエスさまにあわれんでもらうしかできないあわれな、愚かな罪人なのです。イエスさまの本当の愛が知らされることで、わたしたちは自分の本当の罪、無明について知らされます。本当の罪とはこのイエスさまの真実を知らないで、駆け引きでイエスさまと何とかやり取りをしようとしていること、それを信仰生活だと錯覚していることなのです。イエスさまを知らされれば知らされるほど、わたしたちは自分の中にある愚かさ、闇が知らされ、イエスさまにあわれんでいただくことしかない罪人であることが見えてきます。イエスさまを知るということは、自分を知るということであり、自分を知るということは、イエスさまを知ること、イエスさまと出会うことなのです。このことを人間にそのままいってもわかりません。だからイエスさまはたとえで話されるのです。

年間第16主日 勧めのことば

年間第16主日 福音朗読 マタイ13章24~30節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日のたとえ話は、善悪という問題をどのように捉えるかということです。実は、今日の毒麦のたとえはマタイ福音書だけにみられるものであり、共観福音書のマルコ、ルカには見られないものです。ですから、今日の箇所はイエスさまに由来するたとえ話というより、マタイの教会の問題が背景にあって、マタイが独自に書いたものであるということができます。マタイの教会の抱えていた問題は、すでにエルサレムの都が滅亡して、自分たちこそ正統なイスラエルの民の後継者であると主張しつつも、ユダヤ教とは袂(たもと)をわけていかざるを得ない状況にあったということです。ですからマタイは、イエスに由来するマルコのたとえ話を受け入れながらも、自分たちの都合の悪いものは削除し、自分たちの主張を展開していくことになっていきます。それがまさにマルコ福音書にだけ出てくるテーマ、よい麦と毒麦、賢いおとめと愚かなおとめ、羊と山羊という区別をするということです。これは、ユダヤ教の中でファリサイ人が自分たちを「わけられたもの」として、自分たちのアイデンティティを作っていった同じ発想です。マタイの教会も、“わける”ということで自らのアイデンティティを形成しようとしていったということです。

そこで、元々マルコ福音書にあった「成長する種のたとえ(4:26~29)」を作り変えたものが、今日の毒麦のたとえであるといえるでしょう。マルコの「神の国は次のようなものである。人が土に種をまいて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそのようになるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂は豊かな実ができる」というたとえ話は、マタイの教会にとっては都合が悪かったのでしょう。ユダヤ教と対立し、自分たちのアイデンティティを確立していかなければならないときに、種は人の知らないところで元気に自ずと成長していくというたとえ話は適切ではないと考えたのでしょう。だから、よい麦と毒麦というたとえにすり替えがおこなわれます。からし種とパン種のたとえは残しますが、「成長する種のたとえ」は、マタイ福音書からも、ルカ福音書からも省かれてしまいます。おそらく、神の国はすべてのものに等しく及んで、働いているというイエスさまの主張は、初代教会においてはほぼ理解されなかったのでしょう。事実、その後のキリスト教は、他を排除していくということによって、アイデンティティを確立してきました。確かに自分たちに反対していくものに対峙していくことは、大変難しいことです。しかし、結局、キリスト教は自分たちと意見の異なるものと対話し調和していく道ではなく、彼らを異端として排除していく道を選んでいくのです。これがキリスト教の歴史です。

しかし、イエスさまの救いというものは、老若男女、善悪の差異を超えた平等の救いであったのではないでしょうか。キリストはすべての人のために死なれたのではないのでしょうか。それとも毒麦にたとえられる人や愚かなおとめ、山羊にたとえられる人のためには死なれなかったとでもいうのでしょうか。毒麦をまいたのは敵の仕業だといいますが、敵を作り出しているのは一体だれなのでしょう。それは他ならぬこのわたしなのではないでしょうか。わたしたちはいつも自分の都合を中心にして、愛するものと憎むもの、味方と敵、内と外、上と下といったあらゆる区別と差別、境界線を作り出していきます。「あの人も、この人も、あの悪い人も、このよい人と同じように救われるのですか」という質問がよく、教会の中でもなされます。わたしたちの考えている神の国は、わたしの好きな人だけが集まった世界、わたしの嫌いなあの人、わたしをいじめたあの人、わたしの敵を受け入れない世界なのです。そんな自分たちに都合のいい神の国がどこにあるのでしょうか。わたしたちは無意識のうちに善悪を判定する判定者になって、自分は善でも悪でもないところに立って考えている、このようなわたしは一体何者なのでしょうか。わたしがよい麦にも毒麦にもなる、何が善か悪かもわからないわたしが、一体どのようにして救われるというのでしょうか。

わたしたちは善人だから、よい結果をだしたよい麦だから、賢明な判断をしたよいおとめだから、もっとも小さいものに施したものだから救われるのではないのです。そんなことさえわからないわたしなのです。わたしたちは生きていくときに善だけで生きられるということはない、また悪だけという人もいないのではないでしょうか。善いことをおこなえる状況にあれば、よいことをいったり、したりすることもできるでしょう。しかし、悪を行わざるを得ない状況に置かれたら、どんな悪いことでもしてしまうのが人間なのです。わたしがよい心の人間だから悪いことをしないのではないのです。たまたま、そうなのです。イエスさまの話を聞いて、感動に打ちひしがれるときもあれば、何にも感じないときもある、たいそう立派な美しい心になったと思えるときもあれば、自分の心のどす黒い醜さに絶望してしまうときもあるのではないでしょうか。わたしの心が善くなり、清くなったから救われるのでしょうか。わたしの心が醜い、また罪人だったら救われないのでしょうか。そうではありません。イエスさまは「わたしはあなたを救う」というお名前です。イエスさまが、「わたしはあなたを救う」といわれるからわたしたちは救われるのです。救いはイエスさまの働きです。それなのに人間が善悪の区別を作り出したり、山羊や羊の区別を作り出したりして、イエスさまの救いを人間が決めるような小賢しいことをすること自体、愚かなことであり、イエスさまのお心に沿うことではないのです。救いは人間の善し悪しによって決まるのではなく、イエスさまのすべての人を救うというお約束によるのです。イエスさまご自身がすべてのものをもれなく救うと誓われたご自身への誠実が、わたしたちの救いの根拠なのです。 

イエスさまはわたしたちを救われるのは、わたしたちの中には何かよいものがあるからではありません。わたしたちはイエスさまによって救っていただかなければ、あわれんでもらうことしかできない存在なのです。わたしたちはイエスさまにあわれんでもらうしかない、何をしでかすかわからない、あわれな罪人なのです。別にあれやこれやの罪を犯したということではなくても、何でもしてしまう得体の知れない存在なのです。その罪悪深重の凡夫を救うといわれるイエスさまの誓い、そしてそのイエスさまのご自身への誠実によって、わたしたちは救われるのです。それなのに、わたしたちは我が身の善し悪しをはかり、小賢しい小手先のわざでイエスさまの救いを推し量ろうとするのです。唯々愚かとしかいいようがありません。わたしの善し悪しやわたしの小賢しい理屈など何の足しになるというのでしょうか。わたしはよい麦で、他の誰かが毒麦とでもいうのでしょうか。マタイの教会のときから、そんなことをやってきたのがわたしたちなのです。単に、わたしたちをいつくしんでくださいなどとはいえないのです。どうぞ、主よ、わたしをあわれんでくださいとしかいうことができないのが、わたしたちなのです。

年間第15主日 勧めのことば

年間第15主日 福音朗読 マタイ13章1~9節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は種まきのたとえです。今日のたとえ話は何をたとえているのでしょうか。多くの人は、わたしはどのような土地かと考えるのではないでしょうか。イエスさまがされたこのたとえ話は、おそらくすべての土地に種がまかれているということのたとえであったと思われます。しかし、後代の教会は「種がまかれている」という事実ではなく、「種がまかれた土地」に関心が移っていったと思われます。そもそも、イエスさまがたとえで話される目的は何なのでしょうか。それはたとえでしか話すことができない、人知を超えた真実だからでしょう。しかし、今日の聖書の中ではすでに「天の国の秘密を悟ることがゆるされているもの」と「ゆるされていないもの」という区別が現れてきます。人間が境界線を作り出したとき、もう真実は本質からずれてしまっています。真実は人々を分け隔て、区別、差別しませんし、境界線を引きません。本来の宗教のあり方もそのはずです。なぜならば、それがイエスさまの願い、イエスさまの救いであり、それが神の国であるからです。

イエスさまは一部の選ばれた人々のためにだけ、話されたのでしょうか。イエスさまは一部の選ばれた人々のためにだけ、十字架にかかられたのでしょうか。いいえ、イエスさまは全人類の救い主です。全人類の救い主であるということは、文字通り「救われたもの」と「救われないもの」がないということです。神の国はすべての人のものであって、そこには善い人悪い人、大きいもの小さいもの、善い人生と悪い人生、幸せと不幸、救われたものと救われないもの、天国と地獄という区別がない世界です。しかし、わたしたちはこの世界をすべて区別して、境界線を引くことで理解できるのだと考えているのです。ですから、すでに種がまかれているという現実ではなく、どのような土地であるか境界線を引いて捉えようとしていきます。今日の箇所では、土地をよい土地と悪い土地に区別し、悪い土地をさらに道端の土地、石だらけの土地、茨の生えた土地というふうに区別していこうとします。この境界線を引いた内側にいることを内といい、境界線の外側にいることを外といい、内側にいる人を味方、仲間、同朋、身内、友人といい、外側にいる人を敵、嫌いな人、都合が悪い人というのです。その境界線は何処に引かれているのかというと、わたしの都合というわたしの物差しの上に引かれているのです。

この境界線の中にいることは心地よい守られた世界ですが、閉じられた世界であり、どこまでもわたしの都合の世界です。このような境界線を引くことを迷い、罪といいます。人間社会は必ず境界線を作り出していきます。そして、どの宗教も境界線を引き、救われた世界と救われない世界を作り出していきます。カトリック教会もそうです。そして、自分たちは救われた世界にいると主張して、救われていない世界にいる人たちを自分たちの世界に呼び込むこと、救われた世界の仲間に入るように勧めることが宣教であると勘違いしています。これほど愚かなことはありません。カトリック教会は何百年間もそうやってきましたし、今でも上層部の指導者の方々は本音ではそう思っているのではないでしょうか。しかし、こんな宗教は偽っぱちだとイエスさまはいわれたのです。だから、ときのユダヤ教の宗教的指導者たちによって十字架に送られてしまったのです。イエスさまがいわれたことは、すべての人に種がまかれているということでした。

イエスさまのたとえはすべて神の国のたとえですが、神の国とはそのような境界線をもたない世界、人間の作り出す境界が破壊された世界です。神の国が完成するとき、もはや教会はありません。神の国は、あたかも球体のようなものであるといえるかもしれません。球体には上下、左右、東西南北はありません。自分のいる場所から見れば、それらの区別があるように見えますが、球体そのものにはその区別はありません。人間が自分たちの都合で、北極、南極、経緯緯度を決めているだけなのです。いのちとしての地球は、本来そのようなものではないといえるでしょう。それがみんな自分を中心にして、上下、左右、東西南北を決めているだけであって、このわたしという起点がすべてなくなった状態を神の国というのです。神の国は、わたしがすべて、すべてがわたしとなった状態です。これを教会は神秘体験と呼んできました。

神秘体験とは何か不思議なことを体験するとか、お告げがあるというようなことではありません。わたしと世界はひとつであることを体験することなのです。よく考えたらわかるのですが、わたしは決してわたしだけで存在することはできません。わたしが存在するためには、両親が、またその両親が、もっと遡っていくと、それはこの地球、この世界、宇宙と繋がっていきます。そして、わたしの周りにあるもの、人や社会、空気や水など環境といわれるものすべて、もし何かがひとつでも欠けていればわたしという存在はないのです。種がやがて大きな木になるためにも、水、土地、太陽、空気、蒔く人などいろんな要素が必要になります。そしてその水があるためには、水素と酸素が必要で、夫々のためには、夫々すべてのものが必要になります。種はやがて大きな木となるすべての本質をそのうちに含んでいますが、それだけで、芽が出て木となることはできないのです。すべてのものが総動員して、そのいのちを生かしているのです。それはわたしたちも同じです。わたしというひとりを生かすために、この世界がすべて総動員して働いているのです。そして、そのわたしも他のいのちを生かすための働きとなっています。このように考えると、わたしという存在はすべてのいのちによって生かされており、いのちそのものと繋がっていることがわかります。わたしたちを生かしている根本的な大きないのちを、わたしたちは永遠のいのちとか、真理とか、神の国とか呼んでいるのです。わたしがどんな土地であるのかといった、そんなみみっちい話ではないのです。まして、自分の周りに境界線を作り出して、その内側に引きこもるような話ではないのです。そのような自分の世界に閉じこもること、これが地獄であるといったらいいでしょう。わたしたちは救い、解放を求めていながら、境界線を引いて自分の内に閉じこもるのであれば、わたしの救いという淵に中に沈んでいってしまうのです。

年間第14主日 勧めのことば

年間第14主日 福音朗読 マタイ11章25~30節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

「これらのことを知恵あるものには隠して、幼子のようなものにお示しになりました。そうです。これはみ心にかなうことでした」とイエスさまはいわれます。ルカでは「そのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれていわれた」となっています。この場面で、いかにイエスさまがお喜びであったかがわかります。それではイエスさまの喜びとは何でしょうか。それは、神さまの本当のお姿が知られることです。聖書の中では、イエスさまは、父と子という関係性で、神さまのお姿、本質を説明しようとされました。おそらく、イエスさま自身もユダヤ教の人々にも、神さまのまことのお姿を伝えるのに親というイメージが一番わかりやすかったのでしょう。このイメージは、後代には、三位一体という教えになっていきますが、イエスさまの意図は三位一体の教義を教えることではなく、まことの神さまのお姿を皆に伝えることにありました。イエスさまのお苦しみは、本当の神さまが知られていないこと、まことのお姿が知られていないことです。イエスさまは、まことの神のことば、人となったまことの神、愛の神さまです。ですから、神さまのお苦しみは、イエスさまのお苦しみでもあるのです。イエスさまは愛の神さまですから、それなのに本当のお姿が知られていないということは、どれほどのお苦しみだったでしょう。

それまで、人々は本当の神さまのお姿を知りませんでした。当時のユダヤ教の人々が知っていた神さまというものは、自分が与えた律法を守るものには祝福を、律法を破るものには罰をもって報いる勧善懲悪の神さまでした。これを旧約の世界では契約と呼んでいます。契約についてはいろいろと解釈がされており、本当は愛に基づく関わりであり、イエスさまによって新しい契約が交わされたのだと説明しています。普通に神さまの愛を知らせたところで、人間には理解できないので、方便として律法を与えて、契約を結んだのだという解釈です。この考え方は、とても分かりやすく、人間にとって納得がいくものだったと思います。人間は頭で考えてすべてを分け隔てていく存在ですから、物事を単純明快な原則で理解したいという根本的な願望があります。これこれをすれば、こうなる。これこれをしなかったので、こうなるという考え方です。もちろん、原因があって結果があるということは真理なのですが、それはわたしたちが考えるほど単純なものではありません。しかし、わたしたちは、たくさんお祈りしたら、たくさんお恵みをいただけるとか、悪いことをしたので、罰を受けるといった非常に分かりやすい、1+1=2のような単純な考え方、教えを好みます。これなら誰でも納得させることができるのだと思うのでしょう。しかし、現実の世界は、必ずしもわたしたちが考える勧善懲悪では動いていません。どうしてあんなにいい人がこんなに苦しむのかとか、どうしてあんなに悪い奴がのさばっているのか等々です。それをわたしたちは不条理だとか、想定外だといっているのです。わたしたちは、そうした現実を受け入れることができないし、納得もできないのです。だから、神さまは必ず勧善懲悪の神さまだと信じたいのです。しかし、これはわたしたち人間の単なる願望の投影に過ぎません。

そうなると人間はどうなるかというと、神さまによって認めてもらうために、駆け引き、数で取引をするようになります。たくさん善をおこなえば、神さまによく思われる。たくさん祈れば、天国に迎え入れてもらえる。罪を犯しても悔い改めれば、償えばゆるしてもらえる、というよう考え方です。一見すると説得力もあって、よい教育方針だと思われるかもしれません。事実、ほとんどの宗教がこのような教えに変貌していきます。平安時代、鎌倉時代に貴族や武士がこぞって、お寺を保護し、寄進したのは、自分たちの罪滅ぼしのためだったのです。ユダヤ教も、まさにそのような神さまと駆け引きをする状況だったわけです。そこにイエスさまが登場して、今までにないまったく新しい、ほんとうの神さまの姿を知らせたのです。

そして、イエスさまがユダヤ教の人々に神さまのまことの姿を知らせようとしたとき、その姿を親としてたとえられました。当時のユダヤ教の世界で、人々にとって最もわかりやすく、そして自分のことを無条件で守ってくれ、認めて、大切にして愛してくれ、自分のためであれば自分のいのちを投げ出すこともいとわない存在に一番近いものは親だったのでしょう。考えてみると、親は子どもを理屈で育ててはいません。赤ちゃんは笑っても泣いてもよしよしといわれ、お腹がすいて泣いても、うんちをしてもよしよしといわれて育てられます。これが大人であればそうはいきません。失敗をすれば叱られ、ミスをしたら注意されます。結果を出せば褒められ、役に立てば認められます。わたしたちは大人になるにつれて、いつの間にか、努力をしろ、結果をだせといった勧善懲悪の価値観を生きさせられているわけです。社会ではこれを教育と呼んでいます。何をしてもゆるされるのは赤ちゃんのときだけです。イエスさまは、神さまのまことのお姿というのは、この赤ちゃんに対する親のようなものだといわれたのでしょう。だからといって、神さまはわたしたちが何をしてもいいといわれたのではなく、わたしたちはひとり残らず、この神さまの大きなみ手のうちにあってよしとされているということなのです。人間はみんな違っています。いろいろな人がいます。それと同じように神さまの子どもたちもいろんな子どもたちがいます。人間的に見たらよい子も悪い子もいます。しかし、神さまはその子どもたちをひとりとして嫌わず、区別することなく、同じように、その子ひとりしかいないかのように慈しまれているということなのです。そのまことの神さまの愛に触れたとき、わたしたち人間の中に変化が起こります。但し、その変化が起こることが目的ではありません。どの子どもたちも同じように慈しまれていること、そこに何の分け隔ても、優劣も、差別もないということ、これが神さまのお姿、真実なのです。

ですから、大切なことは、イエスさまがまことの親としてたとえられた、その神さまの愛にわたしたちが触れることがすべてであるといったらよいでしょう。その愛に触れることによって、神さまのまことの姿がわかります。すべては、そこからしか始まりません。子どもたちの中のいさかいを調整しても、うまくいきません。駆け引き、計算することで育てられてきた人間が、共生できるはずがありません。結局は、すべての人がまことの愛、慈悲、慈しみに目覚めることなのです。しかし、そのすべての人といっている人は誰かといえば、結局は他の誰でもないこの“わたし”がその愛に、慈悲に触れ、目覚めさせていただくことなのです。皆一緒にというのは美しい理念ですが、うまくいきません。単なる理想やスローガンで終わってしまいます。このわたしが目覚めさせていただくことなしに、皆が目覚めていくということなどあり得ないのです。その逆も然りで、皆が目覚めることをないがしろにして、わたしの目覚めもないのです。だから、わたしが他の人に教えようとする前に、わたしが目覚めさせていただくことしかないのです。これは、パウロが「イエスはわたしのために死なれた」といったことであり、親鸞が「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなり」といったことなのです。これはだれの問題でもなく、わたしの問題なのです。他の人に説教するようなことではないのです。ですから、わたしたちは説教で皆さんに話していますが、わたしは皆さんに話しているのではなく、実はわたしに話しているのです。今日も皆さんに説教しているのではなく、わたしに話しているのです。こうして、わたしは皆さんに話しならが、イエスさまに聞かせていただいているのです。

年間第13主日 勧めのことば

年間第13主日 福音朗読 マタイ10章37~42節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日はいのちというものをどのように捉えていくかという大きなテーマが取り上げられます。いのちというものは、どの宗教でも取り扱われる根本的な問題です。どの宗教でもいきつくところは、いのちとは何かということだと思います。人間は生きている限り、必ず死というものと直面しなければなりません。死には第三者の死と第二者の死、それに第一者の死があります。第三者の死というものは三人称の死で、わたしたちはそれをほぼ数字で知らされます。第二者の死というのは、二人称の死でわたしが名前を知っている家族や友人の死で、わたしたちは少なからず動揺させられます。しかし、第一者の死は、わたしの死ですから、わたしが体験することはありません。わたしが死んだとき、わたしの意識はないのですから、それが何であるかを説明することはできません。しかし、人間は説明できないこと、わからないことを非常に恐れます。そして、特に第二者の死からわたしたちは大きく影響を受けますから、死が大変なものであると想像してしまいます。しかし、それは想像の域を出ません。でも、どうも大変なことのようだという印象がありますから、それをなるべく遠ざけようとする、見ないようにする、それが迫ってきたときできるだけ先延ばしにしようとします。これは結局、いのちとは何かという問いに他なりません。現代の科学や社会を見ていると、いのちという根源的なものを問うことなく、現世の生命現象にばかりスポットを当て、出来るだけ死を回避することにエネルギーを裂いているように見えます。もちろんそれは大切なことなのですが、目に見える生命現象を解明して、コントロールするだけでは何も変わりません。古来、宗教は、わたしたちが生きるとはどういうことであり、どうしたら本当に生きることができるかを取り組んできました。

いのちについては、特にヨハネ福音書が取り上げています。イエスさまは「わたしは復活でありいのちである。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きているものでわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことがない(11:25)」といわれました。神さまとは、イエスさまと何か。神さまとは、イエスさまとは、本当のいのちである、いのちそのものであるということがそこではっきりといわれています。ですから、本当のいのちを生きるということは、イエスさまを信じること、その大きないのちに自分をまかせることであるといわれています。本当のいのちとは、死後のいのちではなく、わたしたちが今生でこのいのちを生きること、信じるとはそのいのちをいただくこと、そしてそのいのちを生きて、大きないのちそのものの根源に帰っていくことであるといえると思います。これを永遠のいのちといっています。

今日の箇所で、自分のいのちを得ようとするならば、自分のエゴを捨てて、イエスさまの本当の大きないのちに自分もまかせて生きることであるといわれます。わたしたちが、わたしのいのちと思っている小さな身体的生命に執着するならば、かえってそのいのちを失ってしまうといわれています。わたしたちがイエスさまの大きないのちにまかせて生きるならば、死んでも死なないのだといわれます。それを、ヨハネでは「わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きているものでわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことがない」といわれています。しかし、この地上の生命体である限り、わたしたちの身体的生命は必ず死を迎えます。この地上での生命尊重だけを説くのであれば、普通の現代人が考えている生命観に留まってしまいます。かといって過去の教会のように、この地上の人生は仮の宿と捉えて、天国にいくことを目的にしたような生命観も違います。この地上のいのちを説くにしても、天国でのいのちを説くにしても、いずれも自己中心としたいのちのあり方から一歩も出ていないからです。この地上で生きながらえたいのはどうしてでしょうか。わたしが死にたくない、わたしが生きたいからです。天国のいのちを望むのはどうしてでしょうか。わたしが救われたい、わたしが永遠のいのちを手に入れたいからです。この地上であるか来世であるかの違いだけで、いずれのいのちの捉え方も、自分のいのちをながらえたいという自己中心な願いから出たものであって、これでは本当のいのちを生きることはできません。生きたい生きたいと願っている個人のいのちを引き延ばすことは、信仰でも、宗教でもないのです。そうではなく、イエスさまこそがまことのいのちであり、いのちそのものであるということなのです。

そのまことのいのちは、イエスさまの生き様に現されています。そのいのちは、個体のうちにある生命現象を超えていくというところにあるのです。つまり、本当のいのちというものは、自己の中に留まらず、個体の外に溢れ出ていくところにその本質があるということです。いのちの本質は愛ですから、愛は自分のすべてを絶え間なく与えることにあります。ですから、まことのいのちそのものであるイエスさまは、自分のいのちを他者に与えるということにおいて、己を十字架に釘付けにするということにおいて、いのち本来の姿を生き抜かれます。ですから、イエスさまにおいては生きるとは、自分のいのちを失うこと、自分のいのちを捨てること、自分を超えていくことであるといえるでしょう。ですから、わたしの個体だけがいのちだと思っている限り、本当のいのちをわたしたちは知ることはできません。死んでしまったらお終いだという考え方も、死んで魂は天国にいくとい考え方も、いのちを物のように捉えています。いのちを自分の中だけに留まらないものにしていく、自分という枠を超越していくことによって初めて、本当のいのちに値するものになるのではないでしょうか。

実は、わたしたちはこのいのちというものを直接に知っているはずです。なぜなら、わたしたちはいのちを生きているからです。どこまでも生きたいと願うのはわたしですが、わたしは自分という小さな枠を出ていくことの大切さも知っています。もちろんイエスさまがそれをはっきりと教えてくださいましたが、そのことをわたしたちは生まれながらに知っています。とっさのとき、わたしたちは自分のいのちを守ろうとしますが、同時に自分のいのちを省みず他のいのちを守ろうともします。これが人間なのです。わたしたちのうちに、すでにいのちの根本的な願い、まことのいのちの働きが与えられているのです。そのいのちの働きに気づいていくこと、ここに信仰の本質があるのです。そして、この信仰はわたしたちが作り出したものではなく、このいのちの働きに中にすでに与えられているイエスさまの真実でもあるのです。

年間第12主日 勧めのことば

年間第12主日 福音朗読 マタイ10章26~33節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の福音の中で「覆われているもので現わされないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい」とイエスさまは使徒たちにいわれました。少し不思議な箇所です。あなたがたが暗闇でいわれたことを、耳打ちされたことを、明るみでいい広めなさいというのであれば、その耳打ちされたことの内容が話されても不思議ではありません。しかし、その耳打ちされた事柄については何も述べることなく、明るみでいい、屋根の上でいい広めなさいということだけがいわれます。それも、恐れることなく、確信をもってそうしなさいといわれます。やっぱり、不思議な箇所です。イエスさまが使徒たちに暗闇でいわれ、耳打ちされたこととは何なのかと考えてしまいます。しかし、その中身が何であるのかは一切語られていません。

実は、多くの宗教での聖典がこのような形態を取っています。つまり、真の真理、真実は明らかになっているが、人間の知性や理性で理解し把握できるものではないので、その真実の壮大さについて述べるか、その真実をたとえで話すという手法が用いられます。宗教は、今までなかった新しい真理を発見して教えたり、また人としての生き方である道徳や戒律を教えたりするものであると思われがちですが、そうではないのです。むしろ、宗教は、すでに明らかになっている真実をわたしたちに解き明かし、それに気づかせる働きであるといえるでしょう。そのことをマタイは次のように語っています。「イエスはこれらのことをみな、たとえを用いて群衆に語られ、たとえを用いないでは何も語られなかった。それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『わたしは口を開いてたとえを用い、天地創造の時から隠されていたことを告げる。』(マタイ13:34~35)」その箇所から見ると、イエスさまが伝えようとされたことは、天地創造のときから隠されていた真実であり、それをイエスさまはたとえを用いて語られたということになります。つまり、ここでいわれていることは、イエスさまはすべてをたとえで話されたということなのです。聖書に書かれていることをそのまま受け取り、そのまま信じることが大切だと思われているようですが、イエスさまがおっしゃったのは、聖書で書かれている言葉を文字通りに読むことではなく、その言葉の奥にある真実、真のことばを聞くようにといわれているのです。わたしたちが文字の字義に囚われてしまうと、ことばの本当の字義から離れてしまうのです。イエスさまはどのようにパンを増やされたとか、どのように湖の上を歩かれたとか、イエスさまがどのように病人を癒されたとか、たとえで話された教えをそのままに捉え、それらの言葉自体に拘ってしまうとイエスさまの真実から離れてしまうということなのです。

ゲーテのことばに「真理は見出されてすでに久しい。気高い精神たちはこれによって結びついた。古き真理が真理をつかんでいる」ということばがあります。つまり、宗教というものは、改めて何か新しい真理を発見して、新しい教義が語られるのではないということなのです。真実は、わたしたちが発見し、気づく前からすでにわたしたちに明らかにされており、わたしたちを生かし包み込んでいるということなのでしょう。そのことを述べた詩編があります。「天は神の栄光を語り、大空はみ手の業を告げる。日は日にことばを語り継ぎ、夜は夜に知識を伝える。ことばでもなく話でもなく、その声は聞こえないが、その響きは地を覆い、その知らせは世界に及ぶ。神は天に太陽の幕屋をすえられた。太陽は花婿のように住まいを出て、勇士のようにその道を走る。その果てから姿を現しその果てまで巡りゆき、夜の住まいへの道をたどる(詩編19)」そこでは神が何であるかは語られません。神の栄光はことばでもなく、話でもなく、その声も聞こえることはなく、この宇宙万物がすでに神の栄光を語っているというのです。ピラトがイエスさまを尋問したとき「真理とは何か」と聞かれても、イエスさまはお答えになられませんでした。イエスさまが真理について話されるとき、真理とはこういうものであるとはお話にならず、すべてたとえで話されました。なぜでしょうか。真理は人間の言葉でも、人間の知性でも、人間の感覚でも捉えることはできない、色も形もないものだからです。もっとはっきりいうと、イエスさまご自身が人となった真理、真実だからです。ですから、イエスさまは「わたしが真理である」といわれ、イエスさまご自身が真理について説明する必要などないということなのです。

聖書の中では、イエスさまが具体的に何を話されたか、何を教えられたかということよりも、聖書の言葉を通して語っておられる真理そのものである神のことば、イエスさまに聞くこと、そのイエスさまと出会うことが大切なのです。大切なことは、「わたしは救う」というお名前のイエスさまと出会うことなのです。「わたしを救う」というお名前のイエスさまこそが、真実であるということなのです。その真の真実であって、人となられたのがイエス・キリストだということです。日本では古来、真実となった人間のことを、命(いのち)と書いて“みこと”と呼んできました。命(みこと)とは、まさに人間となった真のいのちです。ですから、イエスさまは“みこと”そのものであるといったらよいでしょう。みことは、命(いのち)と書きますし、また本当に尊いものという意味で、尊とも書き、真実の偽らないことばという意味で「御言」とも書かれます。そのことを伝えるために聖書があったり、教義があったりするのですが、伝える言葉はやはり人間の言葉を用います。しかし、その言葉を聞くのではなく、その言葉を通って響いてくるいかなる人間の言葉でないまことのことばを聞くということなのです。このことばが聞こえてくる、それを聞くことを信仰というのです。「お前を救う」といわれる真実が、わたしに届いている、つまりわたしたちがイエスさまを信じるということは、お前を救うといわれている真実を聞くことが即信仰になるのです。どんなに難しい教義を知っていても、どんなに難解な聖書釈義をしたところで、それは信仰ではないのです。それだけでは人間のはからいが多くなるだけで、惑いが深くなるだけです。教義や釈義は必要ですが、それはひとえにわたしたちを真のことばであるイエスさまとの出会いに導くため、「わたしはお前を救う」といわれる単純な真実とわたしが出会わせていただくためのものなのです。わたしの方からイエスさまに出会っていくのではありません。そうれならば、どこまでいってもわたしの都合です。そうではなく、わたしの方に来てくださるイエスさまがわたしの中で明らかになってくださること、それを真のことばを聞くということなのです。その呼びかけは、わたしたちが右往左折している日々の生活の中に響いています。

今の季節、庭の虫の鳴き声が聞こえてきます。虫の鳴き声を「声」として聞くのは日本人だけだといわれます。外国人には虫の声もただの雑音に聞こえてくるようです。水の音、海の波の轟、蛙の鳴き声、鳥の声、すべてはわたしたちに響いてくるイエスさまの呼びかけなのです。それは、わたしが苦しんでいるときも、どうにもならないと嘆いているときも、相変わらずに響いてきているのです。わたしたちも、日々の生活のただ中で、イエスさまの声を聞かせていただきたいものです。

年間第11主日 勧めのことば

年間第11主日 福音朗読 マタイ9章36~10章8節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の福音はイエスさまが、12使徒を選ばれる箇所です。イエスさまは、人々が「飼い主のいない羊のように弱り果てて、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれ」、12人の弟子を呼び寄せて「汚れた霊に対する権能をお授けになった」とあります。「汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった」とその理由が書かれています。イエスさまのすべての業の動機は、苦しむ人々へのあわれみから始まります。12人は、自分から志願してイエスさまの使徒になったわけではありません。ただイエスさまの使命を果たすため、イエスさまが呼ばれたのです。そして、イエスさまの使命を果たすために力を授けられた人たちでした。しかし、わたしたちは、数ある弟子の中から、選ばれるべき素質を供えているから12人が選ばれたのだ、選抜されたのだと考えがちです。

聖書の中で「選んだ」ということばが使われていますが、このことばが曲者です。わたしたちは選んだと聞くと、大勢の中からある人たちが特別に選ばれたのだと考えてしまいます。わたしたちは、選ぶということを聞くと、反射的に選ばれたものと選ばれなかったものがいると考えます。この世界は、物事を分け隔て、より分けることで成り立っているとわたしたちは考えているからなのです。男と女に分けたり、国籍を分けたり、大人と子どもとか、優秀な人と劣っている人を分けるなど、わたしたちは普通のこととしてそのようにしています。多い少ないということでも、何かに比べて多い少ないということであり、そこに何かが基準になっています。そうしたあらゆる区分、多い少ないなどを判断しているのは誰かというと、“わたし”なのです。“わたし”がすべての基準になっているのです。では、そのわたしとはいったい誰なのでしょうか。

わたしというものは、誰かがいることで成り立っている存在です。わたしたちは、先に親がいて子どもがいる、先に先生がいて生徒がいると考えるかもしれません。しかし、子どもなくしては親になれませんし、生徒なしには先生になることはできません。そして、その反対も同様です。世界の中でのわたしという存在は、相手がいて初めて成り立つものであるということが見えてきます。そして、その相手との関係性の中で、わたしの呼び名が変わってくるということもわかります。親子、先生生徒、夫妻、上司部下など、わたしたちは、相手との関係性や状況のなかで起こってくる自分の役割の名前がわたしであると思っています。そして、そのような名前に拘っていきます。そこからさまざまな状況のなかで、苦しみがおこってくるのです。親であれば、子どもが思うようにならないとか、子どもであれば、親がわかってくれないということでしょうか。でも親であること、子どもであることはわたしのすべてではありません。わたしは親だというときに、わたしは子どもに対してだけ親であって、親でない自分というものも当然あるはずです。

もっとわかりやすい例は老人とか病人とか、死人でしょう。わたしは病人ですというときに、わたしは健康な人に対して病人といっているのですが、それでは病気はわたしであるかというとそうではありません。例えばわたしの中のある部分が癌になって、わたしは苦しんでいる。その癌はわたしなのかというと、そうであるともいえるし、そうでもないともいえるでしょう。癌があればわたしは病人ですが、手術で癌を取ってしまえば、それは摘出された悪腫という細胞になります。もっと簡単にいえば、爪を切る前まで、爪はわたしでしたが、切ってしまえばゴミになる。その最大の現象が排泄です。数秒前までわたしであったものが、数秒後には汚物になるのです。そうなると、わたしというものは一体、どこまでがわたしで、どこからがわたしでないのかが分からなくなります。わたしたちは死ねば土に返り、他の生きものを生かす栄養になります。それを昔の人は、草葉の陰から見守るといいました。

わたしたち人間はこのような不安定な状態でいることに耐えられませんから、そのときたまたま自分が置かれている状況のなかで付けられた名前にしがみつきます。社長とか大臣とか、親とか先生とか、司祭であるとかなど、それもその場の名前でしかありません。それはたまたまその人がそういう状態であったからであって、その立場がその人ではないのです。聖書の中に出てくるファリサイ派のファイリサイということばは、「分けられたもの」という意味だそうです。ファイリサイ派の始まりは、神さまとの関わりの中で純粋に神さまを求めていこうとすることが、彼らのあり方でした。それがいつの間にか、わたしは他の人とは違うんだ特別な存在なんだ、わたしはより神さまに近いのだと錯覚し、それ以外の人たちを見下すようになっていきました。12使徒が選ばれたと聞くと、わたしたちは多くの弟子たちから選りすぐられて使徒になったのだと考えがちです。だから使徒はわたしたちより偉くて、わたしたちを指導する立場なんだと本人も考え、周りもそう考えがちです。しかし、そうではないのです。ただ、彼らはイエスさまとの関わりの中で、イエスさまの使命を果たすためにだけ使徒なのです。ですから、イエスさまなしの使徒はあり得ません。わたしたちにイエスさまの関わりを体感させてくれるもの、それが本来の使徒のあり方でしょう。使徒として選ばれたということは、イエスさまから愛されているということ以外の何ものでもありません。

その意味からいえば、わたしたちはすべてイエスさまの使徒、イエスさまに愛されたものです。そのようなイエスさまとわたしの関わりについて、誰からどうこういわれることではありません。使徒というのは、イエスさまの使命を果たすためにだけ使徒であって、人間同士の関わりにおいて、上下や優劣などの区別を生じさせるものではありません。しかし、そのことを12使徒もわからず、自分たちの中で誰が偉いのかを議論していました。このようにわたしたちは自分を他人と比べることでしか、自分を認識でないのです。そのことをイエスさまはわかっておられましたから、12使徒の中にイエスさまを裏切ることになるユダが入っていたのでしょう。わたしたちは必ず、自分は他の人より特別に選ばれたのだと自惚れ、選ばれなかったダメな奴だと落ち込むからです。ですから、このユダは、イエスさまを裏切ったあのユダではなく、わたしの中にいるユダのことを意味しているのです。

わたしたちは、たまたまこの地上に生まれて、たまたまこの時代にいのちを与えられて、夫々のいのちを生きています。その中で夫々の場があって、たまたまその名前がある立場にいるだけなのです。わたしたちが親から付けられた名前であってもそうです。たまたまであるということは、わたしの望んだこと、わたしが選んだことではなく、すべて与えられたものであるということなのです。そのことを忘れ、その名前にしがみつこうとするとき、わたしたちはユダである、イエスさまを裏切るものであるということなのです。ですから、このような不安定なわたしですから、イエスさまを裏切ることはある意味では当然、自然に起こりうるということでもあるのです。そのことを知らしめるために、ユダが12使徒の中に入っていたのでしょう。しかし、たとえわたしたちがユダであったとしても、それでもわたしたちは使徒であり、わたしたちはイエスさまから呼ばれたもの、愛されたものなのです。その真実は永遠に変わることがありません。

この地上のものはすべて過ぎ去っていきます。しかし、イエスさまとの関わりは決して過ぎ去ることがありません。このイエスさまとの絶対的な本来のあり方を見失い、わたしというものに拘り続けているわたしを目覚めさせていこうとする働き、それが使徒の本来の使命であるといえるでしょう。ですから、使徒というのは役職ではなく、わたしたちのうちにおける神の働きであるといえばいいかも知れません。わたしたちは改めて、使徒の捉え方が見直すように望まれているのではないでしょうか。

キリストの聖体 勧めのことば

キリストの聖体 福音朗読 ヨハネ6章51~58節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

三位一体の主日の翌週である今日は、キリストの聖体をお祝いします。三位一体のお祝い日に、わたしたちを根底において生かしている大いなるいのちの働きについて黙想しました。わたしたちの信じている神さまというのは、遠いどこか、雲の上の天国におられる神さまではなく、わたしたち生きとし生けるものを根底において支え、わたしたちをそのいのちで生かしておられる方であることを味わいました。ですから、神さまといってもどこかに他所におられるということではなく、大きな神さまがわたしを包み込んでおられるというか、同時にわたしの内にも神さまがおられる。あたかも大海を泳いでいる魚のように、神さまの中にわたしがいる、そして神さまがわたしすべてを満たしているといえばいいのかもしれません。そして、絶え間なくわたしを支え、いのちを与えておられる。それも、ご自分のいのちを失うことによって、わたしたちを生かしておられるということを、イエスさまはご自分の生涯、特に受難、死、復活によって示してくださいました。

わたしたちのからだを構成する細胞は、一日に何億個もの細胞が死んで、新しい細胞に生まれかわります。わたしたち個体は古い細胞が死ななければ、わたしたちの生を保つことはできません。つまり、死があってはじめて生があるというのが、いのちの本来の姿なのです。ですから、わたしたちが生きるということは、いつも死と一緒に生きているのです。この地球自体も、過去からの無数の生きものたちの死体が積み重なって出来ており、わたしたちはお墓の上に生活しているようなものです。化石燃料にしてもそうで、わたしたちは死者によって生かされているのです。このように、わたしたちは他のいのちによって生かされているのです。ですから、わたしたちは決して自分ひとりで生きているのではありません。わたしたちはいのちを分け合っていくことによってしか、生きていくことはできないのです。はっきりいうと、この地上においては、すべての生きとし生けるものは自分以外の他のものからいのちをいただくことによってしか、そのいのちの営みを続けていくことはできないのです。

そのわたしたちが、いのちを保つための根本的な行為が食べるということです。食べなければ死んでしまいます。昔は、食べられなくなるとお迎えが近いといったものです。しかし、わたしたちが食べるということは、必ず他の生きものからいのちをわけてもらうことなのです。生き造りなんていいますが、結局は殺して食べています。この地球上でもっとも酷い殺生をしているのは人間です。人間はありとあらゆるものを食べています。牛や羊は草しか食べません。それなのに、わたしたちは牛肉をおいしいおいしいといって食べているわけです。多くの生きものの食べ物になっている植物は、人類が誕生する何十億年も前から、光合成というシステムを取り入れて進化し、現生命体の中ではもっともエコな持続可能な生態を造り出してきました。植物は、まさにSDGsそのものです。しかし、そのSDGsにもっとも反しているのが人間なのです。それに今頃になって気づいて、エコだとか、SDGsだなどというのは、他の生きものから見たら本当に恥ずかしいことなのではないでしょうか。

人間以外の生命体は、他の生命体から必要な分だけのいのちをわけてもらって生きています。弱肉強食という生態系を取っていますが、かといっていのちを無差別に無意味に狩るということはありません。しかし、知性をもった人類だけが、必要以上のいのちを狩り、搾取し、強奪し、乱獲するようになってしまいました。そして、その欲望はとどまるところを知りません。しばしば、その欲望は競争、暴力となり、それがわたしとわたしの親しい周りの人以外のすべてのいのちに向けられていくようになりました。それが人間に向けられていくとき、富の独占と搾取という形態を取り、貧困、飢餓問題になっていきます。また、自己の優位性を主張し、他者を隷属させるという形態を取っていくと、支配被支配の構造を作り上げ、権威権力を握り、パワハラから始まって、ありとあらゆる暴力、犯罪行為になっていきます。その究極が戦争という名を借りた殺人、植民地支配です。どうして知性をもっている人間だけが、このように酷いことができるのでしょうか。わたしはキリスト者ですから決してそういうことをしませんというかもしれません。しかし,大なり小なり、わたしたちはやっているわけです。むしろ、わたしの中にある自己中心性ということについて、わたしの思いが至らないということが、ありとあらゆる問題を引き起こしているのだということに気づく必要があると思います。わたしがよい人間だから、キリスト者だから殺さないのではないのです。それはたまたまであって、わたしという人間は、状況が変われば百人千人でも殺す身となるのです。親鸞が「わがこころのよくて、殺さぬにはあらず」といったのはそのことなのです。わたしは殺す身にもなり、また殺される身にもなるのです。わたしという人間のもつ不安定さ、何をしでかすかわからない不気味さに気がつかないでいること自体が、大きな問題なのではないでしょうか。支配被支配という上下関係を生きている限り、その問題がなくなることはありません。現代の社会はまさに、支配被支配の構造そのものであり、わたしたちはその中に組み込まれているのです。わたしは知らないとか、わたしは関係ないとは誰もいえないのです。

こうして、わたしたちは、イエスさまを2千年間食べ続けているのです。それなのに、わたしたちはまだ何もわからないのです。ここまで食べても、まだ食べ続けようとするのです。わたしは決して食べられる側にはまわろうとはしないで、食べつづける側にいつづけようとするのです。どうして、これをおかしいと思わないのでしょうか。イエスさまを食べ続けて、ミサに与って、それをお恵みだという、こんな愚かなことがあるでしょうか。わたしたちは、どうして、「イエスさま、どうぞわたしをお食べください」といえないのでしょうか。わたしたち人間の闇のなんと深いことでしょう。聖体の祝日とは一体何でしょうか。イエスさまがわたしたちのための食べ物、飲み物となってくださったことを記念して感謝します。もちろんそうでしょうし、ミサはお恵みでしょう。しかし、同時にわたしたちは平気でイエスさまを食べ続けている、この餓鬼のような、畜生のような愚かな己に思いを致すことを忘れてはならないのではないでしょうか。でなければ、ミサは感謝の祭儀でなくなってしまいます。ご聖体をいただいて当然、いただくことがお恵みであるという、自分勝手な思いから、わたしたちは永遠に出ることはできないのです。

今日、わたしたちは改めてわたしたちの愚かさ、闇の深さを思い起こしたいと思います。そして、それにもかかわらず、わたしたちのことを決して諦めることなく、わたしたちを養い続けようとされるイエスさまのこころをいただきたいと思います。そのイエスさまのこころは、わたしたちにいのちの本来の姿に生きてくれという願いそのものなのです。わたしたちはいのちを生きさせていただいているのですから、わたしが望みさえすれば、いのちの姿を何からでも聞き気づかせていただくことができるのです。「ほろほろと鳴く山鳥の声聞けば、父かとぞ思う、母かとぞ思う(行基)」

三位一体の主日 勧めのことば

三位一体の主日 福音朗読 ヨハネ3章16~18節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は三位一体のお祝い日です。聖霊降臨の翌週にわたしたちは、三位一体のお祝いをしますが、それは無関係にお祝いしているのではありません。聖霊降臨の主日においては、わたしたちはわたしたちのうちに注がれているというか、わたしたちを根底から生かしている神のいのちをお祝いしました。それに対して、今日はその神のいのちの働き方をお祝いします。ですから、結局は同じ事をお祝いしているのです。この大いなるいのちは、あまりにも大きくてわたしたちには理解も、把握することもできないのと同時に、わたしたちが生きているいのちですから、あまりにも当たり前で、わたしたちが意識しないほど日常的になっているいのちでもあります。海の中にいる魚は、海を離れては生きられないのですが、だからといって自分が生きている海というものを意識することはないのと同じようなものです。そのいのちのあり様が父と子と聖霊、三位一体といわれています。

わたしたちは、わたしたち生きとし生けるものを根底から支え生かしている大いなるいのち、この世界、この宇宙を成り立たせている根本的ないのちについて、わたしたちは見ることも、知ることも、把握することもできません。それは海の魚が、自分が泳いでいる海を意識することができないように、わたしたちを生かしている大いなるいのちを意識することはできません。「いまだかって、神を見たものはいない(ヨハネ1:18)」と聖書でも述べられているように、わたしたちは、神ご自身の実体を見ることも知ることも、理解することもできないのです。いのちそのものの実体は、色もなく、形もありません。しかし、そのいのちが限られた個体の中に宿るとき、そのいのちをわたしたちは生身のものとして認識することができます。この大いなるいのちそのものが、地上の限りある人間として宿られたのがイエスさまです。ですから、イエスさまは人間によって知られることとなられた神、いのちの主なのです。つまり、己がいのちであるのにもかかわれず、いのち本来の姿を捨てて、いのちの還流に逆らっている人間に、限りある人間となって、いのちの本来の姿、あり様を示してくださったのがイエス・キリストです。

そのイエスさまが第一にいわれたことは、大自然に聞くことでした。「野の花を、空の鳥を見なさい」ということが代表的ですが、それ以外にさまざまな自然界のたとえ話を話されました。成長する種のたとえ、種まきのたとえなどです。そして、次にはいのちを生きている人間の姿をさまざまなたとえ話で教えられました。よきサマリア人のたとえや放蕩息子のたとえなどです。そして最後には、ご自分の生き様で、いのちの姿を示されました。それが受難、死、復活です。それによって、いのちは、自分のいのちを他のいのちに与えることによってのみ、本来のいのちになることができるということを示されました。わたしたちは神仏に、家内安全や健康長寿、また大願成就などといって願いますが、それらはいずれも自分のいのちが安泰で、一日でも長く生きながらえること、そのためであれば他のいのちを利用してでもながらえることです。このように、最後まで自分のいのちを握りしめているのが人間なのです。しかし、それはいのちの本来の姿ではありません。聖霊降臨の説教でもお話ししましたが、わたしたちは、宮沢賢治の銀河鉄道の夜に出てくる、いたちに追いかけられて井戸に落ちるまで自分の身勝手さに気づかなかった蠍のようなものです。でも、蠍は井戸で溺れかけて「ああ、わたしはいままでいくつのもののいのちをとったかわからない、そしてそのわたしがこんどはいたちにとられようとしたときはあんなに一生けん命にげた。それでもとうとうこんなになってしまった。ああなんにもあてにならない。どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちにくれてやらなかったろう。そしたらいたちも一日生きのびたろうに。どうぞ神さま。わたしの心をごらんください。こんなにむなしくいのちをすてずどうかこの次はまことのみんなの幸いのためにわたしのからだをおつかいください」と祈ります。蠍をもってそのように祈らせたのは蠍ではなく、蠍を生かしていたいのちであって、そのいのちと同じいのちがわたしたちの中にも流れているのです。そのいのちの流れ、その働きをわたしたちは聖霊というのです。

聖霊はすべての生きとし生けるものを生かしているいのちであり、蠍をそのように祈らせたいのちなのです。自分さえよかったらいいと思いで生きてきた蠍が、死の間際に井戸の中で自分のいのちに目覚めさせたそのいのちの働きを聖霊というのです。誰かに教えてもらったわけでもなく、本を読んでわかったのでもありません。自分の内なるいのちに目覚めたのです。三位一体とは、この大いなるいのちの流れであり、色もなく、形もなく、認識することもできないいのちを、イエスさまを通して人間が認識することができるようになったいのちです。そして、その大いなるいのちの働きを知らしめる働きとなって、他に働きかける働き、このいのちの大いなる還流こそが、三位一体であるといえばいいと思います。

ですから、三位一体というのはわたしたちと別のところにあるとか、わたしたちとは関係ないものではなく、わたしたちは三位一体のいのちの還流のただ中におり、そのいのちを生きており、そのいのちに気づくよう呼びかけられているのです。ですから、わたしたちの周りにある生きとし生けるものはすべて、わたしをいのちの目覚めさせようとしているいのちであることがわかります。そして、そのいのちに気づかされたわたしたちは他のいのちに働きかけ、ともにこの大いなるいのちを生きていくように呼ばれていることもわかります。そうなるとわたしの個人のこだわりや個人の死は大きないのちの中に飲み包まれてしまいます。それと同時に他のいのちを限りなく大切にしていくことの意味もはっきりしてきます。キリスト教は自分が救われて天国にいく宗教ではないのです。この生きとし生ける衆生、全世界とともに救われることなくして己の救いはない、これがキリスト教なのです。

聖霊降臨の主日 勧めのことば

聖霊降臨の主日 福音朗読 ヨハネ20章19~23節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

わたしたちは50日間にわたって、イエスさまの復活を記念してきました。そして、今日、イエスさまの復活の頂点でもある聖霊降臨を祝います。イエスさまの復活は、わたしたち生きとし生けるものを根底から生かしている大きないのちの本来の姿を、わたしたち人類に、イエス・キリストという出来事を通して示されることであったといえるでしょう。そして、そのいのちの本来の姿をわたしたちに気づかせ、そのいのちに生きるようにと願っておられるイエスさまの呼びかけであるともいえるでしょう。その大きないのちの本来の姿というものは、自らのいのちを他に与え、自らのいのちを失うことによって、そのいのちの本質を生きていくことです。それをイエスさまは、大自然のいのちの営みを通して教えられました。それが「野の花、空の鳥を見なさい」といわれたことです。野の花も、空の鳥も、この世界からいのちを受けて生かされ、またこの世界に自らのいのちを与えて生きています。つまり、死と再生という大きな生命の還流を生きていくことで、この大いなるいのちを生きています。空の鳥は、この地上の花や木の実、虫たちからいのちをもらい、そのいのちを次の世代に繋ぎ、あるいは天敵にいのちを奪われることで他のいのちとなっていきます。野の花も同じことでしょう。

宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」の中に、“蠍の火”という話が出てきます。ある日、蠍はいたちに追いかけられて井戸に落ちてしまいます。そして溺れそうになったとき、神さまに祈ります。「ああ、わたしはいままでいくつのもののいのちをとったかわからない、そしてそのわたしがこんどはいたちにとられようとしたときはあんなに一生けん命にげた。それでもとうとうこんなになってしまった。ああなんにもあてにならない。どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちにくれてやらなかったろう。そしたらいたちも一日生きのびたろうに。どうぞ神さま。わたしの心をごらんください。こんなにむなしくいのちをすてずどうかこの次はまことのみんなの幸いのためにわたしのからだをおつかいください」すると、蠍は自分の体が真っ赤な美しい火になって、夜空を照らしているのを見たという話です。何もこれ以上説明する必要がないほど明らかないのちの姿を描いています。これがいのちの本来の姿でしょう。このいのちの本来の姿をイエスさまは、ご自分の生涯、特に受肉、受難、死によってわたしたちに示されたのです。そして、蠍の火は夜空を照らす星となったように、そのようなイエスさまの生き様が復活としてあらわされているといえるでしょう。そして、今日祝う聖霊降臨は、このいのちの働きが、わたしたち生きとし生けるものを生かし、その働きがわたしたちのうちにすでに与えられていることを記念するのです。

わたしたちが生きているということは、わたしたちのうちにこのいのちの本来の働きが備わっているということを意味しています。今日の第2朗読の中で、聖霊はわたしたちを生かす働きであると述べられているのはそのことなのです。聖霊は、洗礼を受けた人にだけ働いているのではありません。聖霊はすべての生きとし生けるものを生かし、わたしたちを夫々の場における働きとして生かしています。そして、聖霊は、わたしをその場における他の人、他のものの必要のための賜物として生かしている働きであるということなのです。これこそが聖霊の賜物なのです。この賜物は、わたしたちが生かされている夫々の場において、家族、地域、国に留まらず、この世界の中で、この大自然の中の一員として、宇宙の中におけるわたしとしての場を与えられているのです。そこで、わたしたちは同じいのちを生きるものとして生かされているのです。夫々の役割や場は違っているというか、わたしたちはひとつとして同じものはありません。皆夫々違っていて、ユニークな存在であって、夫々の場があります。どの動物も植物も分類することはできるとしても、ひとつとして同じものはありません。それがいのちの豊かさなのです。そして、わたしたちは、そのいのちをお互いに分かち合いながら生きているのです。それなのに、人間だけがこの豊かないのちを独占しようとしてきました。人や国を支配し、人間以外のいのちにも名前をつけ、それを支配し搾取してきたのです。このいのちは人間だけのものではありません。そして、わたしが“わたしのいのち”といっているいのちも決してわたしのものではないのです。そのことがわからなくなっている、これが人間の罪ということなのです。

イエスさまの復活は、そのようなわたしたち人類にいのちの本来の姿を示すことでした。そして、聖霊降臨は、わたしたちがみな同じいのちによって生かされており、しかもそれぞれの文化、言語、背景、個性をもちながら、それでも同じいのちによって繋がっていることをあきらかにした出来事です。今日の聖霊降臨は、そのいのちの多様性と、わたしたちが同じいのちによって生かされていることを祝います。わたしだけ、特別ないのちをいただいたのではありません。わたしはわたしであって、他と入れ替えることはできません。しかし、そのわたしとわたし以外のものも生かしているいのちは同じいのちなのです。そのいのちに優劣、差別、区別はありません。人間だけが自分を特別視し、他と優劣をつけ区別して優位に立とうとします。愚かなことです。しかしながら、今生で、そのいのちの真実の姿を認識することができるのは人間だけなのです。ですから、わたしたちが心の目を開き、耳を傾ければ、わたしたちは生きとし生けるすべてのものから、いのちの真実を聞かせてもらうことができるのです。わたしたちはすべてのいのちあるものとともに、このいのちの真実に目覚め、このいのちを生きていくようにと呼びかけられているのです。だから、わたしだけが救われていくような教えは、イエスさまの教えではありません。わたしが善い人になって、ミサに参加して、自分の安寧、自分の救いだけを求めていくのであれば、わたしはイエスさまを信じているとはいえません。わたしひとりが救われていくということなど、あり得ないのです。そうではなくて、わたしひとりが救われることと、すべての生きとし生けるものが救われていくことがひとつとなるような教え、それがイエスさまの真実であり、そのイエスさまの真実に出会わせていただくことが、わたしが信仰を頂くということに他ならないのです。このことは、大抵は自分の考えや計画、予定が思い通りにならないという出来事を通して、その真実が示されます。自分のやりたいことや思いを通して、それを神さまが助けてくださった、お恵みだといって神に感謝というのであれば、それは単なる自己実現をしただけで終わってしまっており、イエスさまの業は何も実現されていないのです。わたしたちは、自己実現のためにイエスさまを利用しただけなのです。

日本では我流はいけないといわれますが、宗教も我流となりがちです。キリスト教とかカトリックという名はついていても、自分の考え思い、自分の信じたい教え、自分の解釈、自分の得た知識、自分のやりたいこと、自分の慈善活動やボランティア、自分のはからいを中心とした“我教”、自分教になりがちです。いずれも善意かもしれませんが、これはキリスト教ではありません。なぜなら、始まりはよかったとしても、結局は自分に向かっているからです。井戸に落ちるまで、我が身の身勝手さに気づかなかった蠍と同じです。わたしというものが絶えて、イエスさまが中心にならないのであれば、それはただの人間の業で終わってしまうのです。聖霊はそのようなわたしたちに、イエスさまの真実を教え、わたしたちを自己中心性から解放し、浄め、わたしたちをイエスさまの真実へと向かわせてくださるのです。今日、聖霊降臨の主日にあたって聖霊の照らしと導きを祈りましょう。

主の昇天 勧めのことば

主の昇天 マタイ28章16~20節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は主の昇天のお祝い日ですが、主の昇天が何であったかを解説すること自体あまり意味がありません。主の昇天とは、主の復活という出来事を体験した弟子たちが、自分たちの復活体験を表現したひとつであるといえるでしょう。むしろ、今日の箇所で「弟子たちは…そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑うものもいた」と書かれています。そこで、信じることと疑うこと、これがいったいどういうことかということが問題提起されています。今日はそのことを深めていきたいと思います。

わたしたちは、福音書にそのように書かれているのを読むと、イエスさまの弟子たちの中にも不信仰ものがいたのかと思い、弟子たちはそうだったのかと不思議に思ったり、別の意味で安堵したりします。なぜなら、わたしたちも同じ問題を抱えているからです。わたしたちも信じきれないとか、信仰が薄いとか、信仰が篤くならないといって、どうしてどうしてと嘆くのです。それは、わたしたちは信じることというのは、わたしの心の問題で、疑うこともぶれることもない、確固とした信念の中に留まることができるようにならなければならないと考えているからではないでしょうか。そして、イエスさまの直弟子たちは、きっと素晴らしい確固とした信仰をもっていたに違いないと勝手に想像しているのです。

キリスト教では、信仰というと人間の意志の行為を強調しますが、そもそもわたしたち人間が疑いなく信じるということができるのでしょうか。たとえ疑いというものがあっても、疑いが消滅して、疑いなく一心に信じることができるようになるのでしょうか。また、そのように信じることができたとしても、そのような状態を持続することができるのでしょうか。なぜそのような問いが出てくるのかというと、わたしたちは信仰をわたしの心の状態だと捉えているからでしょう。昔の公教会祈祷文の中に信徳唱というのがあって、「真理の源なる天主、主は誤りなき御者にましますがゆえに、我は主が公教会に垂れて、我らを諭し給える教えを、ことごとく信じ奉る」と唱えていました。ガリレオの時代ならそれでも通用したかもしれませんが、現代で、教会が教えていますからわたしは信じますなどというのは、単なる危ない集団ではないでしょうか。また、たとえ信じることができたとしても、その信じていることが本当であると誰が証明してくれるのでしょうか。過去の教会は、教会が教えていることを疑うこと自体が罪であると教え、力で信徒に信仰を強要してきました。疑いなどもたないで、そのまま信じることがよい信者だと教えてきました。どうして、そのようになってしまったのでしょうか。

そのようなことが起こってくるのは、信仰宣言の中でも「わたしは…信じます」と唱えているように、信仰の主体をわたしたち人間であると捉えることから起こってきた問題なのです。信仰を人間のもの、つまりわたしの信仰であると考えると、信仰はわたしの所有物ですから、わたしの力でどうにかなるということになります。だから人間の意志で、つまりわたしの力で、信仰を強めることができるということになります。しかし、実際のところ、信仰はわたしの力ではどうにもなりません。それなのにわたしたちは自分の力で何とか信仰を強くしようと頑張るのです。しかし、人間の力でどうにもならないので、今度は権力とか権威で強要するようになってしまいました。少し正直に自分の心を見ればわかることなのですが、わたしたちは信じようとすればするほど、疑いが起こってきますし、無理強いすればするほど、反発する心が起こってきます。頑張って聞いていけば信仰が深まるどころか、聞けば聞くほど疑いが深くなるというのが偽らざる人間の心の姿ではないでしょうか。わたしたちは自分の心の中に信仰の確証や救われた証拠を求めるのですが、わたしの心自体が自分の力でどうにもならないのに、わたしの心が信仰において確固としたものとなるなどあり得ないのです。わたしたちは、わたしの心が満たされることや、自分が楽になること、平和な気持ちになることを求めているだけであって、それならわたしの心のあり様の問題にとどまっているだけです。しかし、信仰はわたしの心の問題ではないのです。信仰をそのように捉えている限り、わたしたちは真実に触れることはできません。

大切なことは、そのような不信仰な、心の定まらないわたしたちにイエスさまが近づいて来られたということです。「イエスは、近寄ってきていわれた…わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいる」。このイエスさまのことばだけが真実なのだといえるのではないでしょうか。わたしが信仰深かろうが、不信仰であろうが関係ないのです。イエスさまが近寄ってきて、わたしとともにおられるのです。このイエスさまの真実が信仰なのです。信じるという漢字の「信」という言葉は、もとは真理の「真」と同じ意味であるといわれています。信号機という交通標識がありますが、信号機は嘘をつきません。もし信号機が信用できないのであれば、誰も安心して道路を渡れません。そのときの信号機の信は、“真(まこと)”という意味なのです。この信号機は信じられるだろうか、信じられないだろうかと考える人はいません。わたしがどう思うかというわたしの考えや心に関係なく、信号機はいつも真実です。ですから、いつも安心して道路を渡ることができます。いくらわたしがどうしたら救われるだろうか、この方を信じていいのだろかとわたしの心で算段しても、信仰は決して確固たるものにはなりません。それが、信仰をわたしの心の問題だと考えているということなのです。救いはわたしの問題ではなく、「わたしを救う」という名のイエスさまのなさることです。イエスさまの真実、イエスさまの信の問題なのです。だから、わたしたちが何であってもなくても関係ないのです。

そのことがわからないので、わたしは救われるだろうか救われないだろうか、わたしの心で考え続けます。また、わたしはゆるされるだろうかゆるされないだろかとか、ゆるしの秘跡に行かないとゆるされないのではないかとか、わたしが自分の心で考えているだけなのです。イエスさまが救う、イエスさまがゆるすと仰っているのに、それをわたしが真実か真実でないかをわたしの心で算段しているのです。これはイエスさまを信じているといいません。イエスさまと駆け引きしているだけか、イエスさまを試しているだけであって、これほどイエスさまに失礼なことはありません。教会は、人間の努力や功徳、はからいによって、救われるか救われないか、ゆるされるかゆるされないかが決まるかのように教えてしまいました。そのような教え方をしてきたこと自体が大きな問題でした。救い、ゆるされるのはイエスさまです。イエスさまが世の終わりまでいつもあなたがたとともにいるといわれたのですから、わたしたちが救われ、ゆるされるのは永遠の昔から決まっています。そのことを、わたしが今このとき、今生で、そのイエスさまのみことばを信じること、それが真の信仰を生きるということなのです。ですから、イエスさまを信じるということは、わたしのはからい、算段を捨てること、わたしを捨てるということなのです。今というこの刹那のときにおいて、わたしが無我となることなのです。わたしたちはいつまで、旧約の世界でうろついているのでしょうか。