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四旬節第2主日 勧めのことば

四旬節第2主日 福音朗読 マルコ9章2~10節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日はイエスさまのご変容の箇所が朗読されました。その中に出てくるのは、栄光に輝くイエスさまの姿と弟子たちの無理解、不信仰という問題です。その背景を理解するために、少し前からお話ししたいと思います。変容の箇所の前、フィリッポ・カイザリアで、イエスさまが弟子たちに「あなたがたはわたしを何者だというのか」と問う場面があります。それに対して、ペトロは「あなたは、メシアです」と華々しく信仰告白をしました。その直後から、イエスさまは自分のエルサレムでの最期について教え始められたとあります。イエスさまは、自分がエルサレムで、長老、祭司長、律法学者から排斥され、殺され、3日目に復活すると、はっきりとお教えになったと書かれています。弟子たちはイエスさまが何をいっておられるのかわかりませんでした。

当時のユダヤ教の世界でメシアといえば、ローマ帝国の支配からイスラエルの民を解放し、ダビドのような王国を再興してくれる、政治的にも宗教的にリーダーシップのある人物を指していました。それなのにエルサレムで排斥され、殺されるということは、失敗、挫折であり、リーダーシップの無力さを露呈する以外の何ものでもありませんでした。そのことを、イエスさまは弟子たちに堂々とお教えになったわけですから、弟子たちの驚きというか、混乱は計り知れないものがあったのでしょう。それで、これはいけないと思った弟子たちのリーダー格のペトロは、イエスさまをわきにお連れしていさめ始めたとあります。それに対して、イエスさまは「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と、ペトロを厳しく叱られます。そして、「自分のいのちを救いたいと思うものは、それを失うが、わたしのため、また福音のためにいのちを失うものは、それを救うのである」と教えられました。

わたしたちが一番大切にしているものは何かというと、結局は自分のいのちです。わたしたちは、自分のいのちが一番大切ですから、自分のいのちを何としてでも救おうとします。これは当たり前のことです。わたしたちの日々の心配は、いかに自分のいのちを保つか、一日でも長く、健康で長生きするかということで明け暮れているわけです。それに対して、イエスさまは、わたしたちが本当の意味で自分のいのちを救うこと、また本当の意味でイエスさまのために働くこと、福音のために奉仕するということは、自分のいのちを失うことであると教えられたのです。弟子たちには、まったく理解を超えた教えであったでしょう。それは、わたしたちであっても、本音ではないでしょうか。そして、その直後にイエスさまの変容の話が続くわけです。そこでは、栄光に輝く王であるメシアの姿が顕現されます。弟子たちからみたら、これこそイエスさまが勝利を得られた姿であり、本物の成功したメシアの姿であったわけです。それも旧約の太祖であるモーセと、預言者の代表であるエリヤを従えています。これは右大臣と左大臣を従えた、典型的な栄光の王、メシアの姿です。弟子たちは再び舞い上がってしまいます。「ここにいることは素晴らしいことです…」と感極まっていうわけです。その感動冷めやらぬなか、山を下りていくとき、イエスさまは「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことを話してはいけない」と弟子たちを戒められます。そこで、弟子たちは再びわからなくなってしまい、死者の中から復活するとはどういうことかを議論し始めます。あとの部分は省かれていますが、弟子たちはイエスさまに「死者の中から復活するとはどういうことですか」と直接に聞くことができないので、話をずらして「なぜ、律法学者は先ずエリヤが来るはずだといっているのですか」と遠慮気味に尋ねています。イエスさまと弟子たちはどこまでも平行線が続きます。

弟子たちは人間というものを、その人が華々しく成功し、勝利をおさめ、栄光に輝いている姿こそが素晴らしく、いのちが輝いていると考えているわけです。ですからいのちの輝きというものは、イエスさまとそれに連なる自分たちが、エルサレムでローマ帝国の支配を駆逐し覇権を掌握して、イエスさまがメシアとして頂点に君臨して、イスラエルの民を再興することでした。いわゆる革命です。しかし、それはローマ帝国から見たらテロ活動でしかありません。実際、エルサレムに向かう弟子たちは武装していたようです。弟子たちは力で勝ち取ったいのちが、本当のいのちであると考えていたということになります。つまり、自分たちのいのちを最大限に拡大したものがいのちの本来の姿、いのちの輝き、栄光の姿であると思っていたということになります。そのような弟子たちにイエスさまは、「自分のいのちを救いたいと思うものは、それを失うが、わたしのため、また福音のためにいのちを失うものは、それを救うのである」と教えられたということなのです。弟子たちとは真逆のことを教えられたのです。弟子たちはわかるはずがありませんし、受け入れることも出来ません。

イエスさまはご自分のいのちについて、別の箇所で自分は「多くの人の身代金として自分のいのちをささげるために来た」とお教えになりました。ここでいわれる自分のいのちとは、イエスさま個人のいのちのことではなく、小さなエゴを捨てて大きないのちにまかせて生きているイエスさまのいのちのことを指しています。自分がすべてのいのちだと思ってそれにしがみついているわたしたちに、自分の小さな身体的ないのちに執着するのをやめれば、死んでも死なないいのちに生きることになるといわれたのです。多くの人はこれをイエスさまの自己犠牲の教えであるとか、キリスト教の特徴的な愛であるといいますが、実はこれこそがいのちのもっている本来の姿なのです。すべてのいのちは生きようとしますが、生きるために、自分のいのちを出て行こうとするということなのです。人間以外のいのちは、そのようにいのちを生きています。確かに、自分のためのいのちを保とうとして、いのちを自分の中に取り込もうとしますが、同時に、自分のいのちを他のいのちに与えていこうとします。これを、わたしたちは自然界の食物連鎖と呼んでいます。いのちを自分のものだといって握りしめているのは人間だけなのです。他の動植物は、自分のいのちを守るために他のいのちを捕食しますが、また他のいのちの食料、餌食になることによって、自分のいのちを与えていきます。動物でも植物でも、自分の死を通して、他のいのちを養っているのです。いのちの本来の姿は、生きようとすることですが、すべてのいのちはいったんわたしという個体の輪郭をとりますが、その個体の輪郭、わたしという枠を脱出していくことによって、いのちを生きているということなのです。そのもっとも典型的な現象が死ぬということです。いのちは死ぬことによって、真のいのちとなっていくのです。これが、イエスさまが、「自分のいのちを救いたいと思うものは、それを失うが、わたしのため、また福音のためにいのちを失うものは、それを救うのである」と教えられたことです。イエスさまはいのちの本来の姿を示されたのです。

真のいのちといいますが、いのちに本当のいのちと偽物のいのちがあるという意味ではありません。生きられているのはすべて同じいのちです。しかし、いのちがいのちであるためには、わたしという身を通らなければならないということなのです。ですから、この身を通して、わたしたちはいのちの実相について知らせていただくのですが、同時にわたしのこの身がいのちの生きる場であり、救いの場であるということをも知らせていただいているということです。死んでしまえば、それがいのちであることに気づくことさえできません。ですから、生かされている今こそ、救いのとき、恵みのとき(Ⅱコリ6:2)なのです。わたしたちは、今、愛する子に聞くように呼びかけられています。わたしたちは、今、聞かないならいつ聞くというのでしょうか。

四旬節第1主日 勧めのことば

四旬節第1主日 福音朗読 マルコ1章12~15節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

四旬節第1主日では、イエスさまの荒野の誘惑の箇所が朗読されます。マルコ福音書では、マタイ、ルカに見られる3つの誘惑について触れられていません。イエスさまは、ヨハネからの洗礼を受けた後、聖霊によって荒野に送り出され、そこに40日間滞在されてサタンから誘惑を受けられますが、野獣がイエスさまとともにいて、天使たちが仕えていたと書かれています。聖霊によって荒野へ導かれたこと、サタンからの誘惑を受けられたことは3つの共観福音書に共通することなのですが、野獣が一緒にいたこと、天使たちが仕えていたことはマルコ福音書にだけ見られるものです。イエスさまの荒野での滞在は、40日間昼も夜も断食されたということから、断食や苦行の修業の場、またサタンの誘惑などの試練の場と一般的には考えられているのではないでしょうか。教会は、それを復活祭の前の40日間、四旬節として、回心と償いの季節としてきました。しかし、もともとは洗礼志願者のための準備の期間からはじまったもののようです。

イエスさまの荒野での40日間の滞在について、わたしたちは決して積極的なイメージをもっているわけではありません。わたしたちは主の祈りの中で、「わたしたちを誘惑におちいらせず、悪よりお救いください」と祈っています。つまり、わたしたちは、誘惑やわたしたちを害するものから解放された状態を救いとして捉えているからだと思います。そしてそのためには、厳しい修行や試練、つまり荒野が必要だと考えているのはないでしょうか。つまり、荒野というのはわたしたちの人生における必要悪のようなもので、そのような状態から救われることをわたしたちは願っているということだと思います。わたしたちが人生において、誘惑を受けること、その誘惑に負けて罪を犯すこと、また失敗すること、また厳しい試練にあうことはよくないことで、不幸なことだと考えているということなのです。そしてそのようなものから、わたしを遠ざけてくださいと願っているのです。確かにそうでしょう。しかし、マルコが描くイエスさまの荒野での滞在は、そのようなわたしたちの考え方とちょっと違っているように思います。今日は、そのことをお話ししたいと思います。

先ずは、イエスさまの荒野の滞在中、イエスさまは野獣とともにおられたと書かれています。野獣というのはわたしたち人間を害するものと考えがちですが、イザヤ書11章では人と野獣がともにある世界が描かれています。「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる。彼は主を畏れ敬う霊に満たされる…弱い人のために正当な裁きを行い、この地の貧しい人を公平に弁護する。正義をその腰の帯とし、真実をその身に帯びる。狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ、幼子は蝮の巣に手を入れる。わたしの聖なる山においては、何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように、大地は主を知る知識で満たされる(1~9)」。ここでは、今まで相反するもの、相敵対してきたものがともに憩い安らぐ新しい世界が描かれています。これがイエスさまの宣べ伝えようとされた神の国であるといったらよいでしょう。荒野でイエスさまが野獣とともにおられたということは、イエスさまの出現によって、神の国が到来しているということを意味しているのでしょう。

しかし、マルコのメッセージはそのことにとどまらないと思います。荒野では、誘惑があり、試練がありますが、獣たちがイエスさまとともに憩い、また天使がイエスさまに仕えています。これらを新しい世界の始まりと捉えることも出来るでしょうが、むしろそれだけではないように思います。荒野というと、どこか普段の落ち着いた日常が損なわれた世界で、出来れば誰も受け入れたくないような状態だとわたしたちは考えます。しかしよく考えてみると、荒野というのは、わたしたちの人生や生活の外に起こることではなく、むしろわたしたちの人生の中に、毎日の生活そのもの中にあるということができるのではないかと思います。わたしたちの人生には喜びもありますが、誘惑があり、罪や失敗、苦しみ、悲しみもある。いろんな生き物がいて、野獣もいるけれど、それでも一緒にやっていかなければならない。しかし、そこには天使もいる。わたしたちの人生というか、日々の生活というものは、わたしたちは通常それらが相反するもの、相敵対すると思っているものが共存しているところそのものではないでしょうか。つまり、荒野とはわたしたちが生きなければならない人生、生活そのものを表していると思います。そのことはすなわち、わたしたちの救いや信仰というものは、わたしが救われたいと思っている現実の生活を離れたところにあるのではなく、今の生活のただ中にあることを意味しているのではないでしょうか。信仰や救いは、わたしが生きている今の場を離れたところにはないのです。

多くの人は救いや信仰というものを、欣求浄土厭離穢土ということばに現わされているように、汚れた罪深いこの世を去って、清らかな浄土を求めるところにあると考えています。つまり、汚れたこの世界を去って天国にいくこと、または汚れや罪を避けて、我が身が清くなっていくこと、またそのような清いものにさせていただくことが救いだと考えているということです。ですから、できるだけ汚れがなく、苦しみもない、悲しみもない状態、世界にわたしたちが迎え入れられることが救いで、またそのためには、わたしたちが罪を避け清くなる努力をすることが信仰であると思い込んでいるのです。しかし、マルコはそうではないというのです。わたしたちが生きているその泥だらけの罪深い日々の生活、苦しみの多い人生こそが、わたしたちの生きる場、荒野であって、同時にそこが救いの場であるといおうとしているのではないでしょうか。だから、四旬節だからきれいになって、復活祭を迎えましょうなんて、そんな都合のいい自分勝手な根性は捨てなさいということだと思います。もちろん誘惑があって、苦しくて、しんどくて、汚いこと、罪がいいとはいいませんし、それを肯定するということではありません。しかし、わたしたちはそれきりしか生きられないというのが現実ではないでしょうか。罪を避け清くなる努力して聖性に達した人が聖人で、そうでないものが凡人、罪人であるという教えは、イエスさまのものではありません。

うちの玄関に“常在久遠今処浄土”という書がかけられています。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ(ルカ17:20~21)」。神の国は、わたしたちが今生きている現実のただ中にある、わたしが神の国を求めていくのではなく、神の国がわたしを求めているのだということだと思います。なぜならば、イエスさまが人となってこの世界に来られたということはそういうことなのです。罪は罪のまま、闇は闇のまま、救いの契機となるということなのです。わたしが求めるのではなく、イエスさまがわたしを求めておられる、わたしがいのちの水を飲もうとするのではなく、すべてをそのまま受け入れていく大きな慈悲の大海がわたしを飲み込んでいく、実はそれがわたしたちの生きている人生であり、荒野なのだということをいおうとしているのではないでしょうか。わたしたちが生きている日々の生活、人生そのものが救いの場であるということなのです。四旬節を新しい気持ちで過ごしてみたいと思います。

年間第6主日 勧めのことば

年間第6主日 福音朗読 マルコ1章40~45節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は重い皮膚病を患っている人の癒しの箇所です。重い皮膚病という言葉は、1987年に新共同訳聖書が訳されたとき「らい病」と訳されました。その後1996年に「重い皮膚病」と改められました。2018年に改訳された聖書協会共同訳では「規定の病」と訳されました。この「規定の病」という意味は、レビ記13章に述べられている「ヘブライ語聖書に規定されている病」という意味です。ですからレビ記を読むと、旧約聖書が書かれた時代の世界観、人間観というものを知ることができます。当時の考え方は、世界を聖なる世界と汚れた世界にわけ、人間はその2つの世界の狭間にいて、できる限り「汚れ」から遠ざかり、清い状態に近づくことで、聖である神さまに近づくことができると考えられていました。日本の神道にも同じような考え方がありますが、聖書の世界にこのような差別、区別意識があったということを押さえておく必要があると思います。ですから、イエスさまが生きた時代のユダヤ教の根底に、このような差別、区別という考え方があり、それが当時の人々の生活や衛生感覚を支配していたということです。

 当時、規定の病に罹ったものは、レビ記13章によると「この病を発症したものは衣服を裂き、髪を垂らし…『汚れている。汚れている』と叫ばなければならない。その患部があるかぎり、その人は汚れている。宿営の外で、一人離れて住まなければならない(45~46)」とあります。このような病に罹ったものは共同体から追い出され、人々が自分に近づかないように大声で叫ばなければならず、通常人のいるところに近づくことはできず、家族から地域の共同体から、もちろんユダヤ教の礼拝の場からも排除されました。その苦しみは、病からくる肉体的な苦しみだけではなく、家族や共同体、もっとも助けが必要な宗教からも、救いからも除外されているという精神的な苦しみの方が大きかったのではないでしょうか。そのような状況におかれていた人に、イエスさまは「深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ」られます。ユダヤ教としての最大の禁忌を犯すわけです。この人は病気に罹ってから、人に触れられるのはおそらく初めてだったでしょう。いくら親子、家族ですらその人に触れることは、自分も汚れるとして律法から厳しく禁じられていました。しかし、イエスさまはその人に触れられるのです。それはイエスさまのその人への「深い憐れみ」からであったと描かれています。他の聖書の写本では「怒って」となっているものもあります。イエスさまの憐れみと怒りというと一見矛盾するようなことばですが、人間が、それも宗教という名において「聖」と「汚れ」というものでものごとを分け隔てている社会の現実への悲しみ、怒りが感じられる箇所ではないでしょうか。

創世記では、この世界は神さまによって創られ、「よし」とされました。これが本来の聖書の価値観であったはずです。それが、人間の健康を守るという観点から、衛生概念を清浄規定として宗教に組み込んでしまった人間のどうすることも出来ない闇へというものがあったのではないでしょうか。わたしたちとて例外ではありません。わたしたちはすべてのものごとを分け隔てて理解し、認識しようとします。善悪、生死、自他、大小、老若、男女、上下、内外、真偽、優劣、賢愚、敵味方等、わたしたちの世界は反対語で成り立っているといっていいほど、この差別、区別の世界になってしまっています。教会でも信者「未信者」、内陣会衆席、聖職者信徒等々、上げればきりがありません。つまり、わたしたちの世界は、ものごとを分け隔てることによって成り立っているのです。というかわたしたちは、ものごとを理解し認識していくときに、ものごとを分け隔てて、夫々に名前を付けて規定し、それを“よし”と“あし”として捉えることしかできなくなっているのです。これが人間の内的構造の本質にあることでもあるのです。すべてのものに垣根を作ってしまうということです。誰も病気になってよかったという人はいません。病気に罹ったら残念だといい、病気がよくなったらよかったといいます。このように、人間は、病気は悪、健康は善、病気になることは不幸で、健康なことは幸せとしか捉えることができないのです。

日本人が初詣やいろいろな神社仏閣を参拝したときには、誰しもが家内安全、健康長寿、大願成就を祈ります。キリスト教ではそのような現世利益はいけないといいながら、病気に罹れば治りますようにと祈りますし、少しでも病気をしないで長生きできように、仕事や使徒職がうまくいくように祈っているわけです。いうなれば同じことをしているわけです。それで、わたしたちは、現世利益の宗教ではありませんといっているのです。どこが違うのでしょうか。イエスさまが問題とされたことは、宗教という名のもとに差別、区別を作り出している社会構造への怒り、その被害者となっているものへの深い憐れみ、翻っていえば、差別、区別という垣根を作り出すことによってしか生きられない人間存在そのものに対する深い痛み悲しみがあったのではないかと思われます。このものごとを分け隔てていく、垣根を作り出していくという人間の根源的なあり方が人間の闘い、争いを生み出しているものに他なりません。それなのに、それをよしとしている、しかも宗教という名においてそれを肯定している、そのことへのイエスさまの怒りと悲しみが今日の福音の中に見られるのではないでしょうか。これはどの宗教も変わりません。カトリック教会であっても同じことです。洗礼を受けた人と受けていない人、聖人と罪人、聖職者と信徒等、その制度自体の中に垣根を作り出していることには変わりはないのです。その制度がなければ教会自体が成り立たない、しかし、そのことが当然になっていて、痛み悲しみ、問題意識がない。それが、「深く憐れんで」というイエスさまの言葉の中に込められた思いなのではないでしょうか。

イエスさまがこの世に現れたのは、神の国を告げ知らせるためでした。神の国は、この人間の差別、分別が絶えた世界、すべての垣根がなくなった世界です。人間は生まれたときには、この差別、分別を知りません。ベトレヘムの幼子は、その垣根がなくなった姿なのです。イエスさまの方から、わたしたちを隔てている垣根は初めからありません。垣根を作っているのはわたしたち人間の方で、イエスさまは少しも垣根を作っておられない。イエスさまの中には、病気の人、病気でない人、汚れた人、聖なる人といった垣根がないのです。イエスさまはありのままのわたしを初めから知り尽くして、わたしに向かって来られるのです。信仰というと、何かわたしが向こう側におられる聖なるイエスさまを信じることで、イエスさまに繋がることだと考えている人たちがいます。それだけなら、わたしはイエスさまとの間に垣根を作っているだけで、イエスさまをまだ疑っているのです。そうではなく、イエスさまはわたしが作っている垣根をもろともせずに、向こうから垣根を超えてやって来られるのです。イエスさまからしたら、垣根などもともとないのです。わたしのところに来られるのはイエスさまです。わたしが行くのではありません。わたしのところに来られるイエスさまに来ていただく、それがまことの信仰です。今日はそのことを知らせていただいたのです。そして、そのことをイエスさまは貧しい人は幸いといわれたのです。人間の貧困や飢え、病がよいことだといわれたのではなく、主にのみより頼む人は幸いであるといわれたのです。

年間第5主日 勧めのことば

年間第5主日 福音朗読 マルコ1章29~39節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の箇所は、イエスさまの一日の生活がどのようなものであったかを知ることができる貴重な箇所です。「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。シモンとその仲間はイエスの後を追い、見つけると、『みんなが捜しています』と言った。イエスは言われた。『近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。』そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された」。これは、イエスさまの日々の生活のリズムが描かれているといってもいいわけです。つまり、朝早く起きて祈り、祈りから活動へ、そして活動から祈りへと向かわれるイエスさまの姿です。この祈りから活動へ、活動から祈りへというイエスさまの動きをみると、イエスさまの活動、つまりその教えや人々との関わりは、イエスさまの祈りから出ているということがわかります。それではイエスさまの祈りとは何かということは、イエスさまを知るための大きな鍵であるといってよいと思います。そこで、今日はイエスさまの祈りということをご一緒に考えてみたいと思います。

わたしたち人間が祈るということを考えると、特定の宗教をもっているか否かに関わらず、非常に自然なものであることに気づきます。自分の愛する人のために祈る、また苦しんでいる人々のために祈る、自分のためにも祈る、たとえそれがどれほど自分勝手なものであったとしても、わたしたちは悲しいときにも、苦しいときにも、嬉しいときにも、なんともないときも、自然と手を合わせたり、頭をさげたりという行動をしています。アウグスチヌスという方は、「祈りは魂の呼吸である」といったそうです。実は、祈りというものは、わたしたち人間にとって、とても自然なものであるということができるのではないでしょうか。それがあたかも呼吸のようであるという言葉で表現され、しかも呼吸であればそれは人間にとって不可欠なものであるということが出来ます。呼吸が止まれば死んでしまいます。そうすると祈りというものは、それをわたしたちが認めるか否かに関わらず、人間にとって非常に自然なものですが、同時に不可欠なものであるというふうにいうことができると思います。それでは、イエスさまにとって非常に自然であって、また不可欠なものといえばなんでしょうか。つまりイエスさまになくてはならないもの、本質は何かという問いになると思います。そうすると、イエスさまの本質は“愛すること”であるといえると思います。正確にいうと“愛”なのですが、愛をもっと正確にいうと”愛し愛されるという働き”であるといえると思います。

イエスさまは神さまですから、愛そのものでおられます。一瞬たりとも愛することなしにいることがおできにならない、それがイエスさまです。神さまの本質は愛ですから、愛でないということはあり得ないということなのです。愛であるということは、絶え間なく自分をすべて与えるということです。聖書の中でイエスさまのそのあり方は、「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分のいのちを捧げるために来たのである(10:45)」と説明されています。つまり、自分のいのちを与えること、これがイエスさまの本質であるということなのです。また「友のために自分のいのちを捨てること、これ以上に大きな愛はない(ヨハネ15:13)」ともいわれています。そして、この愛の特徴は、相手の幸福を願うこと、常に他者に向かっていくということです。愛というものは常に自分を与えることしか知らない、常に自分を出て行くことしか知らないのが愛なのです。イエスさまは、その愛の本質を人間に明らかにするために「自分のいのちを救いたいと思うものは、それを失うが、わたしのため、また福音のためにいのちを失うものはそれを救う(8:35)」と教えられました。普通わたしたち人間は、自分のいのちが一番で、そのいのちを救おうとします。しかし、まことのいのちは、自分のいのちを失うことによってしか得ることができない、自分を救いたいのであれば、人の救いを願うこと、自分の救いを後回しにして、自分のいのちを放棄することによってしか自分を救えないのであると教えられました。これが愛の本質のあり方です。

そして、その愛は無償の愛であるといわれていますが、正確に理解されていないところがあります。無償の愛といわれると一方通行の自己犠牲的な献身的な愛のことであると思われてしまいますが、愛というものは決して一方通行ではありません。まことの愛というものは愛するものと、愛されるものがいて初めて成立するものです。一方的な、上からの恵みのような愛ではなく、愛し愛されるものが愛なのです。愛はその愛を受け取る人がいて初めて成り立ちます。しかし、その愛は、愛してその愛を受け取って終わりではなく、今度は愛を受け取ったものが、同じように愛そうとするのです。そして、その愛は愛し愛されるものの間で絶え間のない循環となっていきます。その循環は往相(おうそう)と還相(げんそう)という形を取ります。つまり与えるという動きは一方から見れば与えると見えますが、他方から見ると受けとるというふうに見えます。同様に受けるという動きは一方から見ると受けると見えますが、他方から見ると与えるというふうに見えるのです。この愛の循環、ダイナミズムこそが、イエスさまが生きておられたものなのです。そこには、もはや他者のためにという利他も、自分のためにという自利もなくなっていきます。自他という区別もありません。自分が救われて幸せになるという自利も、人の救いのために働くという利他の区別がなくなるのが愛の世界です。ですから、イエスさまにおいては、生きることは愛すること、愛さないでは生きることができない、これが本来のいのちのあり方であり、祈りはそのいのちを生きることに他ならないといえるのではないでしょうか。

イエスさまが朝早く起きて、教会の祈りを唱えていたとか、念祷をしていたということではありません。もちろん詩編の祈りや沈黙の祈りに親しんでおられたでしょうが、イエスさまが朝早く起きて祈っておられたというのは、イエスさまはご自分がご自分であることを生きておられたということなのです。愛が愛であることを生きておられた。だから、そのことを人々との関わりの中で、ただ生き、実行されたということになります。この当たり前といえることが、わたしたち人間はいかに困難であるかをわたしたちは知っています。イエスさまと同じいのちを生きているわたしたちですが、イエスさまはわたしたちがそのいのちの本質を生きることがいかに困難であるかをご存じでした。だから、わたしたち人間のために模範を残されたのだということができると思います。それがイエスさまの祈りであるということなのです。ですから、わたしたちは今日もイエスさまのその祈りに、絶え間なく自己を出るという祈りに、わたしの小さな祈りを合わせる、イエスさまのお望みに、ご意志に乗せていただく祈りが大切なのです。わたしたちが祈るとき、わたしたちはこの小さな自分から出る練習をしているのです。つまり小さな自分を手放すのです。だから祈りというものは人間として絶対的に必要不可欠ですが、人間の本性には難しいのです。しかし、わたしたちが祈ろうとするとき、難しいことを考えるのではなく、わたしたちはイエスさまの愛の動きに乗せていただき、ただイエスさまの愛の動きに、いのちの還流に身を委ねさえすればよいのです。そのことを今日は味わってみたいと思います。

年間第4主日 勧めのことば

年間第4主日 福音朗読 マルコ1章21~28節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は、イエスさまの権威ある新しい教えが述べられる箇所です。しかし、朗読個所の中にはイエスさまのどのような教えが、新しい権威ある教えとして教えられたのか述べられていません。ただ、イエスさまの権威を証明するかのように、悪霊追放の出来事が述べられています。当時のユダヤ教の宗教生活は、年に数回あるエルサレムの神殿詣でと、安息日である毎土曜日の地域の会堂で行われる礼拝に参加することでした。年数回の神殿詣ではわたしたちの感覚でいうと、本山詣でのようなもので、そこで生け贄を捧げることが普通でした。毎土曜日の安息日の礼拝では、律法の書や預言書が朗読され、詩編の歌があり、説教や律法の解釈を聞くことが通例でした。そこで活躍したのが律法学者たちでした。

当時の宗教観は、今もそうかもしれませんが、神さまを熱心に信仰すればするほど、神さまに嘉せられると考えられていました。神さまを熱心に信仰することは、律法、掟を守って生活することで、律法をよく守る人には恵みが与えられ、守らない人は罰せられると考えられていました。若死や病気、天災や飢饉などの災いは神さまからの罰で、それは律法を守らなかったことへの報いであると単純に教えられてきました。今ではキリスト教ではそのように教えられてはいませんが、それでも勧善懲悪の神さまというのは普通の人間にとってわかりやすい説明であったといえるでしょう。つい最近までキリスト教の教会の教えもそのようなものではなかったでしょうか。教えを守り、礼拝に参加し、教会活動に熱心に参加し、慈善の業や社会活動に参加することが信仰深い信徒の姿とされてきました。ユダヤ教においては、神さまの教えを守るために、掟、律法がどのようなもので、毎日の生活の中でどのようなことをしなければならないか、もしくはしてはならないのかが細かく決められていました。律法そのものは何百年も前に神さまが民にお与えになったものですから、社会や文化の変遷と共に「再解釈」される必要がでてきました。その解釈をし、人々に教えていたのが律法学者たちであったということです。

このように、人々は恵みと罰という考え方が前提で、そのように教えられていましたから、その延長線上で神さまの教えを生きようとしていたということなのです。しかし、実はそのような教えが人を救うということはないのです。なぜなら、神さまに嘉せられ、自分が救われるため、よい信者として生きることを目的にした時点で、そのような宗教は出発点がすでにずれているからです。イエスさまの教えに人々は非常に驚いたと書かれています。それは律法学者のようにではなく、権威あるものとして教えられたからだとあります。イエスさまの教えは、あれやこれやの難しい教義や律法の細かい解釈ではありませんでした。イエスさまの口から出てきたのは生きたことばであって、人々を生かし、そのことばが人々を動かすような、あたかもことばが真実となるような内側から湧き出る力強いことばであっということでしょう。その証拠に、イエスさまのことばは悪霊を追い出すほどの力がある、真実のことばでした。「出て行け」といわれると、悪霊は出て行ったのです。わたしたちもことばを使いますが、わたしたちのことばは真実味がなく、真実との間に乖離があります。わたしたちが「出て行け」といっても、悪霊は出て行きません。イエスさまのことばは、イエスさまご自身の実在とことばの間に乖離がないものであったということです。

日本では、このように生きたことばをもっている人をまことの人という意味で、命と書いて「みこと」と読ませてきました。日本の神話に出てくる神さまたちです。ですから、イエスさまは“イエスの命(みこと)”であるといえばイメージできるかもしれません。イエスさまのことばはそのまま、事実、出来事になるのです。そのようなことばは、日本では言霊といわれてきました。ことばと世界の間に齟齬がない有様、それが真実であるといえるのではないでしょうか。それこそが生きた内なる権威の源であるといえるでしょう。イエスさまご自身が生きたことば、真実そのものでいらっしゃいましたので、そこには何ものにも奪われることのない尊厳、威厳がありました。なぜならばイエスさまご自身が真実であり、本当に尊いものであるからです。尊と書いて「みこと」とも読ませています。ですから、そのイエスさまの権威というものは、何ものによっても奪われることがありません。わたしたちの借り物の偽りの権威などは、あっけなく崩れてしまいます。

律法学者やファリサイ人といった借り物、偽り物の権威が跋扈(ばっこ)するユダヤ教のなかに、イエスさまが登場されたのです。そして、イエスさまは当時当たり前となっていた当時のユダヤ人たちの信仰観、宗教的な権威、ユダヤ教のあり方に対して根本的な意義申し立てをしていかれたのです。神さまに嘉せられ、神さまから恵みを受けることを目的としている宗教であれば、それは宗教ではない、「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか(5:46)」ということです。これはキリスト教でも同じことがいえると思います。わたしたちは、カトリック教会という教えや制度を信じているのではないのです。イエス・キリストといわれる方とわたしが出会うというその一点から始まったのがキリスト教なのです。なんとなく神さまを信じて、よい人間になって、よい活動をして、貧しい人に寄り添っていくのが信仰者のあり方で、教会は地域に開かれ、ボランティアや社会活動をしている、確かにそれでもいいのかもしれません。しかし、そこに生きたイエスさまとの交わりがあるでしょうか。そこではキリストは2千年前にパレスティナ地方に現れた偉大な人物で、彼はいつも貧しい人や弱い立場の人と連帯して、その教えを述べ伝えた。そして、そのような素晴らしい教えが2千年間受け継がれ、その教えを実践しようとする人たちが教会であるということでもよいのかもしれません。しかしそこには、今わたしたちとともに生き、働き続けておられるイエスさまとの生き生きとした人格的な交わりがあるといえるのでしょうか。そして、わたしたちの素晴らしい生き方を助けてくださるのが聖霊で、聖霊は当然教会を助けてくださると考えているとしたら、それは果たしてどうなんでしょうか。

人々が出会って感動したのは、イエスさまの素晴らしい説教や困った人を助けるという教えではないのです。人々が出会ったのは、このわたしを探し求め、わたしと出会うことを切に望まれているイエスさまであったということなのです。その教えが素晴らしいとか、活動が素晴らしいということではないのです。もちろん教えが素晴らしく、活動も素晴らしいものだったでしょう。しかし、人々が出会ったのは、教えとか活動ではなくて、わたしに関わってくださるイエスさまだったのです。それは2千年経っても同じことではないでしょうか。確かに、そのイエスさまを表現するといろいろな教えや倫理が出てくるでしょう。でも教えや倫理を説く前に、わたしを探し求め、わたしと出会いたいと切に願っておられるイエスさまがおられるということなのです。教えや倫理があって、活動があって、それが素晴らしいから創始者であるイエスさまにひかれたでかまいません。自分もそうしたいというのでもいいでしょうが、素晴らしいとか、ひかれてそうしたいと思っているのは、結局はわたしがそうしたいのであって、それはイエスさまではないのです。出発点がずれています。そこを間違えないようにしたいものです。

年間第3主日 勧めのことば

年間第3主日 福音朗読 マルコ1章14~20節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日はマルコ福音書における最初の弟子のお召しの箇所です。今日の福音ではヨハネの箇所と違い、イエスさまが直接に声を掛けておられます。その特徴は、その人を見て声を掛けるということです。イエスさまは弟子たちに声を掛ける前に、すでにその人を見ておられるということなのです。これはイエスさまが、その人が自分の弟子にふさわしいかどうかをじっくり見定めて、その上で声を掛けられたという意味ではありません。イエスさまとの出会いはすべて縁であり、いわばタイミングがあるということなのです。すべてにタイミングがあるように、イエスさまとの出会いも縁なのです。イエスさまの願いはわたしを呼び、わたしと出会うことです。そのために、イエスさまはわたしを見ておられたのだといえるでしょう。しかし、この宇宙の歴史のなかで、わたしたちがどのようにイエスさまと出会うかは、イエスさまだけがご存じです。イエスさまは永遠のうちにそのタイミングを計っておられるのだといえばいいでしょう。

138億年の宇宙の歴史のなかで、わたしがイエスさまと出会うことができるというのはほぼ奇跡に等しいことなのです。なぜなら、この宇宙の歴史のなかの芥子粒ひとつともいえる一点一ヶ所に生まれたわたしが、イエスさまと出会うことができるかどうかは、わたしの力ではまったく不可能なことだからです。この宇宙の歴史の何かで、ひとつでもかけていたり、違っていたりすればわたしというものは存在していません。それにわたしたちは今生きているこのとき、その場でしかイエスさまと出会うことはできません。イエスさまは大宇宙そのものでいらっしゃいますから、その意味でわたしと出会うためにタイミングを計っておられる、その意味でわたしを見ておられるといえるでしょう。そのイエスさまの眼差しは永遠の眼差しであって、パウロが「天地創造の前に、わたしを愛して、ご自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになった(エフェソ1:4)」という、その眼差しであるということがわかります。

わたしたちは召命というと、すぐに司祭・修道者になることだとか、結婚生活、独身生活だなどと考えますが、わたしの召命は先ずわたしをいのちとして、人間としてこの世界に呼び出すことなのです。そして、わたしたちが本当のいのちとなる、人間となるということです。これを第1召命、根本召命といいましょう。そして、そのことをわたしたちに気づかせるためにイエスさまと出会わせる、すなわちわたしをキリスト者と呼ばれるということ、これを第2の召命といえるでしょう。そして、キリスト者としてどのようにいのちの証し人となるかということ、それが夫々の生き方にあたるのですが、これを第3の召命といえるでしょう。ですから、わたしたちにとってもっとも根本的なのは、第1召命であるいのちとなる、人間となるということだといってもいいと思います。カトリック信者としてどうするとか、教会としてどうするというのは、すべて根本召命を生きるため、その使命を果たすためのものなのです。司祭・修道者また信徒として生きるということは、根本召命を生きるためであって、その身分自体が目的とはなりません。ときどきそれを目的にしている人がいますが、それは勘違いであるといったらいいでしょう。第3召命は手段、方便といってもいいもので、その身分にしがみつくものではありません。そのためには、いのちの召命が何であるかを知ること、それがすべてであるといったらいいと思います。それに気づかせ、示されたのがイエスさまということになります。イエスさまを見るときに、そこにいのちが何であるかを知ることができます。イエスさまを見るときに、そこに人間が何であるかを知ることができます。

真如であるイエスさまが、ことばとなって、人間となって、わたしたちの世界に来られたのは、先般のパウロのことばを使うと、わたしたちを愛して、聖なる者、汚れのない者とするためでした。聖なる者、汚れのない者とするということは、わたしたちを特別なもの、救われたものとするという意味ではありません。また、わたしたちの罪をゆるして天国に迎え入れるというような、わたしたちが普通に考えている自分勝手な救いのためではありません。聖なる者、汚れのない者というのは、本来のいのちに目覚めたものを意味しています。本来のいのちに目覚めるといっても、頭で理解することではありません。むしろ、イエスさまの生涯によって示されたいのちの本来の流れに、己をまかせることであるといえばいいかもしれません。まかせるというと、わたしに手を差し出されているイエスさまの手を握るというイメージをもつかもしれませんが、むしろイエスさまがわたしをつかんでくださることだといえばいいかもしれません。イエスさまが手を出してこられて、それをこちらから手を握るということだと、イエスさまは決して手を離されることはありませんが、わたしたちが手を離してしまうことがあります。猿の赤ちゃんはお母さん猿のお腹にしがみついて運ばれていきますが、猫の赤ちゃんは親猫が子猫の首根っこをくわえて運ばれていきます。子猫は何もしなくても、お母さん猫がしっかりくわえていますから、落ちる心配はありません。しかし、子猿はしがみつく力が弱かったりすると落ちてしまうかもしれません。この子猫の姿こそ、イエスさまに己をまかせるものの姿です。聖なるもの、汚れのないものというのは、自力で聖なるものになろう、汚れないものになろうとするのではなく、大いなるいのちに自分を完全にまかせたもののことなのです。

わたしたちは新幹線に乗ったら、この新幹線は無事に東京駅に着くだろうかなどと心配しません。この新幹線はかならず東京駅に着くと知っていますし、信じています。だから新幹線に乗った人は、平気で居眠りをしたり、おしゃべりを楽しんだりしています。運転手の心配をしている人は誰もいません。しかし、わたしたちの信仰心というものは、新幹線に乗りながらも、東京に着くかどうか不安なので新幹線の中で歩いたり、走ったりしているようなものではないでしょうか。わたしたちが祈るということは、イエスさまに必死にお願いすることだと思っている人が多いかもしれません。そうではなく、祈るとは、運転している人の“意”に“乗る”ことだといったらいいでしょう。つまり、イエスさまの意志、イエスさまの思い、イエスさまの願いに乗ることだといえばいいでしょう。イエスさまこそ、救いの大船です。イエスさまはわたしを救うと誓われた方、神さまなのです。そのことばが違えることは決してありません。だから、イエスさまにくどくどと祈る必要などないのです。イエスさまの意に乗ればいいのですから、本当の祈りというものを知ると、祈りは義務だとか決まった言葉や決まった時間にしなければならないものではなくなっていきます。このことを頭で分かるとか、意識するのではなく、自然とそうなるということだといえばよいと思います。もちろん、そのためにわたしたちの側からの協力は必要ですが、イエスさまの意に乗る、もっと正確にいえば、祈りはイエスさまの意に乗せていただくことなのだといえるでしょう。わたしたちをイエスさまの意に乗せてくださるのも、実はわたしではなくイエスさまです。イエスさまとの関わりも、このようになるところまでわたしたちは呼ばれているのです。今日のみことばを通して、祈りについて改めて深めてみてはどうでしょうか。

年間第2主日 勧めのことば

年間第2主日 福音朗読 ヨハネ1章35~42節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日はヨハネ福音書に見る最初の弟子たちのお召しの箇所です。洗礼者ヨハネが2人の弟子にイエスさまを紹介します。そして、またそのうちのひとりアンデレが、兄弟のペトロをイエスさまに紹介します。そのようにして弟子の輪が広がっていきます。イエスさまの弟子たちというのはこのように広がっていったのかもしれません。マタイ、マルコでは、イエスさまがこれと思う人をお呼びになるというふうにイエスさまのイニシャティブを強調しますが、それに対してヨハネでは、人を通して働かれるイエスさまということが強調されているように思います。どちらが本当なのでしょうか。

教会の中には、幼児洗礼と成人洗礼というものがあります。幼児洗礼は本人の意志とは関係なく、両親や周りの人々の望みによって洗礼を授けられます。自分の意志に関係なく、イエスさまに繋がったというようにいわれます。それに対して、成人洗礼は自分から望んで、今日の福音に出てくる弟子たちのように、誰かの手引きでイエスさまに出会ったとか、「どこに泊まっておられるのですか」と自分からイエスさまを求めていったというようにいわれます。自分の意志で決断して、イエスさまを選んだのだといういい方がなされます。教会の中ではわりと幼児洗礼と成人洗礼を区別して、幼児洗礼の人たちは成人洗礼の人たちに、「あなたがたは教会や神さまのことをよくわかっていない」といったり、成人洗礼の人たちは幼児洗礼の人たちを「あなたたちは漠然と神さまを信じているだけで、イエスさまのことを知らない」といったりします。いずれも愚かなことだと思います。これは、時間の中に生きている人間のレベルでの話になっています。

今日の福音の中では、イエスさまは人と人との関わりを通してその人を呼んでおられます。洗礼者ヨハネの紹介であったり、自分の兄弟や友達に誘われたりしてイエスさまと出会っていきます。しかし、それは幼児洗礼であっても同じではないでしょうか。両親や周りの人を介してイエスさまに出会わせていただいたからです。結局、わたしたちは誰か人やものを介してしか、イエスさまと出会うことはできないのです。それを恵みというのではないでしょうか。別のいい方をすれば、イエスさまはこの世界のありとあらゆるもの、両親であったり、友人であったり、ものであったり、この大自然であったり、すべてのものを通してわたしをご自分と出会わせようとしておられるということなのです。なぜなら、わたしの中には、まことであるイエスさまと出会わせていただくようなものは何もないからです。ただ、イエスさまご自身がわたしと出会いたいと切に願っておられるということだけなのです。わたしが出会いたい出会いたくないかとか、またわたしがそれに相応しいか相応しくないかに一切関係なく、イエスさまはわたしに出会いたいと願っておられるということなのです。それでは、わたしが自分の力でイエスさまと出会えるかというと、たとえ自分が求めたとしても、いろいろな状況が揃わなければ何光年かかっても永遠に出会うことはできないのです。もし、わたしが自分の意志でイエスさまに「どこに泊まっておられるのですか」と問うのなら、それはわたしをしてイエスさまにそのように問わしめているのは、わたしではなくイエスさまご自身なのです。この全宇宙を総動員して、イエスさまはわたしと巡り合い、出会うようにしておられるからです。だから、成人洗礼であれ幼児洗礼であれ、関係ないのです。あなたは「何を求めているのか」という「求める」という心を起こさせるのは、わたしの中に何かがあるからでなく、求める何かがわたしをして求めさせているということに他ならないのです。そのことを、はっきりと押さえておきたいと思います。

最近教会の中で会議があって、以前のように参加者が個々の意見を発表し議論する形式ではなくて、同じテーブルに参加者がついて、お互いの話を聞き合う形式が取られたそうです。それで、他の人の話を聞くうちに自分の意見が変わっていくのを体験したということでした。そしてそのことを、これは聖霊の働きであると感想が書かれていました。人の話を聞いて、自分の考えや思いが変わっていくというのは、人間として当たり前のことではないでしょうか。聖霊の働きでも何でもありません。確かに他の人やいろいろなことから影響をうけて、自分が変えられていくというのは大きな意味では聖霊の働きといってもいいかもしれません。しかし、変わっていくというのがいのちの本来の姿です。変わることを拒否しているというなら、それは機械かロボットです。人もいのちです。人と出会って、話を聞いて変わらないというなら、それがおかしいのです。いのちは自ら変わっていくものなのです。

イエスさまはこの世界の、この宇宙のすべてのものを総動員して、わたしに呼び掛けておられるのです。それは、自分と出会ってほしい、本当の真実を知ってほしい、真実のいのちを生きてほしいというイエスさまが願っておられるからです。そのようなイエスさまと出会わせていただければ、当然というか自然に変わっていくものなのです。先ず自分がすべてだと思っていた己の頑なさ、愚かさが知らされるでしょう。そして、そのような愚かなわたしと出会い、わたしを必ず真実に目覚めさせようとしておられる方があることも知らされていきます。これが変わるということなのです。イエスさまに出会わせていただくということは、わたしが変えられていくということなのです。もちろん、わたしが変わったから、イエスさまと出会えるわけではありません。また、イエスさまと出会うことで、わたしの性格とか根性がよくなるとか、今より立派な人間になるとか、眼に見えて今までの自分の問題や課題がなくなってハッピーになるということではありません。イエスさまと出会うということは、わたしが今までこれがわたしの救いであると思って願っていたことが、根底からひっくり返されるということなのです。わたしが破られるということなのです。ですから、イエスさまと出会うことはハッピーになるということではありません。そうなると、その意味では福音とはいえないかもしれません。必ずしも、わたしにとって都合のいい話ではないからです。イエスさまと出会うということは、真実が知らされることであって、真実はわたしにとって都合のいいことではありません。ただ、その真実があまりにも大きく、わたしたちの言葉や思いをはるかに超えたものであることが知らされるので、わたしの小さな幸せや思いなどどうでもよくなるということなのです。これがイエスさまと出会わせていただくということなのです。しかし、この出会いは第一歩であり、あくまでも入り口に立ったのに過ぎません。わたしたちは生涯、このイエスさまに聞き続けなければならないのです。実は、それが一番難しいことなのです。

主の公現 勧めのことば

主の公現 福音朗読 マタイ2章1~12節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は主の公現のお祝い日です。古代教会においては1月6日の新年に主の顕現(エピファニー)、つまりイエスさまのこの地上における現れを、主の降誕、主の公現、主の洗礼、カナでの婚礼での最初のしるしとして祝ってきました。これらの東方起源のエピファニーはキリストの誕生というより、キリストの到来、闇を照らす光の訪れとして祝われてきました。それが西方教会では、主の降誕、主の公現、主の洗礼の3つの祝日として祝われるようになりました。しかし、その中心にあるテーマは主の到来ということです。待降節(アドベント)のテーマも主を待つことではなくて、主の到来であることは先般指摘してきた通りです。つまり主が来る、主の到来という神さま側からの出来事を、人類として体験した出来事として待つこと、生まれること、現れることとして理解したということなのです。主の降誕も、主の公現も、主の洗礼もイエスさまの人類への到来という一点に集中しているのですが、それを人間に説明するときに、また人間が理解していく方便としていろいろの祝い日となっていったといえるでしょう。そういってしまうと、身もふたもないので、教会はそれをいろいろな祝日として祝ってきたということなのでしょう。

わたしたちにとって根本の祝日である主の復活も、主がわたしのところに来られ、いのちの諸相を示されたということ、いのちの実相を祝っているといえます。本当のいのち、永遠のいのちとはイエスさまご自身であって、わたしたち人間の個々のいのちは、その本当のいのちがあってはじめて可能であることが知らされます。そして、イエスさまという方を通していのちの実相が示されていくのです。そのいのちは元来無限無量のいのち、永遠のいのちそのものであって、わたしたちがいのちだと思っている有限のいのちは、本当のいのちを個人の小さい枠の中に閉じ込めたものに過ぎません。しかしながら、同じいのちの実相をもっています。但し、わたしたちは有限の形でしか、いのちというものを体験することができないのです。ですから、わたしのいのちが一番大切であると思いこんで、わたしのいのちに執着します。宗教というものは、わたしが一番大切で、生きたいと思っているわたしのいのちを健やかに保ち、永らえさせ、引き伸ばすものではありません。これは個々のいのちを軽視しているのではなく、わたしたちがいのちというものを体験できるのは、確かにこのわたしの個々のいのちを通してですが、わたしのいのちですべてが尽きるものではないということです。

わたしのいのちはあらゆるいのちとつながっており、そしてそのいのちは、大きな家族、大宇宙、大生命を構成しています。パウロがいうキリストのからだのようなイメージでしょうか。他者、他物なくしてわたしはあり得ませんが、わたしなくしても他もあり得ないという一見すると矛盾のようなことなのですが、そのような繋がりをお互いに生きているということなのです。そして、そのいのちは絶え間ない動きであり、ダイナミックな流れであり、絶え間ない自己脱出なのです。このいのちは自分を壊して、自分を出て行くことによって、自分となっていく、いのちとなってくという固有の特性をもっているのです。別の言葉でいえば、新陳代謝ともいえますし、死と再生、復活ともいえますし、動的平衡ともいえます。これはひとつの流れ、還流であって、見る方向によって生まれると見え、他の方向から見ると死ぬと見えます。生まれることと死ぬことは正反対で真逆のことと思われがちですが、そうではなく大きないのちの還流の中の流れの方向であるといえるでしょう。このいのちのダイナミズムを損ない、止めようとする動きが罪であったり、欲、執着であったりするのです。いのちは本来溢れ出ていくものなのです。そのいのちがわたしたちに現れた出来事がイエス・キリストです。しかし、この本来のいのちを知ることは、わたしたちにとって必ずしも快いことではないかもしれません。

そのイエス・キリストがわたしたちへ来るという動きが、主の降誕、主の公現、主の洗礼です。そのイエス・キリストがいのちとして本来の姿に戻る動きが、受難・死・復活なわけです。わたしたちの老病死ともいえます。これはいのちの本来の姿なのです。それをイエスさまは、ことばとしてわたしたちに現すために、ことばとなってこの世に来られました。そのことを、わたしたちは記念しているのです。イエスさまの受肉、生涯、受難、死、復活は、いのちの実相をわたしたちに見せているのです。イエスさまはひとりの人間として生きることで、いのちとしてもっともいのちらしい姿を示しました。イエスさまは、わたしたちにいのちであることを気づかせるために、人間の言葉となって、わたしたち人間となって、わたしたちの仲間になって、わたしとなって、わたしが理解できるものになられました。これはわたしたちがいのちの本当の願いに気づき、目覚めるためなのです。わたしたちはいのちですから、すでにいのちを生き、体験しているはずですが、このいのちが何であるかを説明することができません。いのちとは有機体のうちにみられるある一定期間の現象であるとか、DNAがどうのといっても、いのちはそういうことではないのです。むしろ、わたしたち人間にとっていのちは「死にたくない」という感覚において、端的に体験されているのではないでしょうか。いのちは生きたいという根本的な願いをもっているからです。しかし、生きたいといういのちの根本的な願いが何であるかをわたしたちは理解することができないのです。せいぜい、健康で長生きしたいとか、他のものを押しのけてでも生き残りたいとか、いのちを永らえさせることぐらいしか思いつきません。他のものを押しのけてでも生きたいという願いは自分勝手な願いですが、実は、その願いは永遠に生きたいといういのちの本来の願いを発見していく入り口にもなるのです。人間の罪というか煩悩の中に、いのちの願いがすでに内包されているのです。

イエスさまは御自らが人間となって、つまり罪と煩悩に迷うわたしとなって、このいのちを生きようとされているのです。このイエスさまのこの世界への現れを祝うことが主の公現、主の顕現、エピファニーです。降誕節は光のお祝いでもあります。この光はイエスさまであって、この迷いの闇に輝く光です。闇が闇を破ることはできません。闇を破るのは光です。この光が闇に届けられて、闇の中でこの光が輝いている(ヨハネ1:5)こと、これがわたしたちへの福音、神の国の始まりなのです。ですからわたしのなかで生きられているのはわたしのいのちではなく、イエスさまのいのちなのです。そのことをパウロは、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです(ガラテア2:20)」といったのです。わたしが我が物顔をして生きているいのちは、“ああ、わたしのいのちではなく、イエスさまのいのちを生きさせて頂いていたのか”と気づくこと、これが回心であり、神の国なのです。そして、その証し人となるように、わたしたちは洗礼を受け、教会として呼ばれたのです。自分だけ助かってなんて、さもしい根性ではないのです。また、人助けをして、自分も助かろうというよこしまな根性でもないし、まして洗礼者を増やそうということでもないのです。このいのちの世界は、そのようにしか考えることができないわたしが破られるのですから、わたしの本性にとって必ずしも心地よいものではありません。しかし、どこまでいっても愚かな愚かなわたしが皆とともに救われていく世界が、確かにわたしたちに届けられていること、そのことへの気づきがこの降誕節の祝いなのです。

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災害被災者のための祈り

父である神よ、
すべての人に限りないいつくしみを注いでくださるあなたに、
希望と信頼をこめて祈ります。
災害によって、苦しい生活を送り、
不安な日々を過ごす人々の心を照らし、
希望を失うことがないよう支えてください。
また、亡くなられた人々には、永遠の安らぎをお与えください。
すべての人の苦しみを担われたキリストが
いつもともにいてくださることを、
祈りと行動によってあかしできますように。
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

(2021年2月16日 日本カトリック司教協議会認可)

https://www.cbcj.catholic.jp/wp-content/uploads/2021/02/inori_saigai20210216.pdf

主の降誕(日中のミサ) 勧めのことば

主の降誕(日中のミサ)福音朗読 ヨハネ1章1~18節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

主の降誕の日中のミサにおいては、ヨハネ福音書の冒頭の箇所が朗読されます。聖書学的にはいろいろ議論がある箇所です。伝統的にこの箇所は、三位一体の第二の位格であるイエス・キリストの受肉以前のロゴスの先在を説明するものとして捉えられてきました。そして、その神的存在であるロゴスといわれることばが受肉するという出来事を、主の降誕の神秘として祝うというものでした。しかし、「はじめにことばがあった」というところを、救いの歴史におけるナザレのイエスとの出会いを中心にして捉えて、日本語では「はじめにことばがいた」と訳したらどうかという意見があります。日本語では「ある」は非人称的存在に使われ、「いる」は人格的存在に用いられます。ヨーロッパ言語では「ある」と「いる」の区別はありません。しかし、日本語で「ある」と「いる」は、単にものとひとの区別に使われているかというと、それほど簡単ではありません。ひと、動物以外のものであっても魂がこもっているものとか、動くものには「いる」を使っているようです。そう考えると「ことばがあった」というのは、神さまを全知全能の創造主、不動の動者として捉える意味ではいいかもしれませんが、わたしたちが神さまと呼んでいる方は決して不動の動者ではなく、もっといきいきとした、ダイナミックでいのちの根源でおられる御者です。その意味では、「ことばがいた」といっていいのではないかと思います。日本での最古の聖書であるギュツラフ訳では、「はじめにかしこいものござる」と訳されていることはよく知られているのではないでしょうか。そのことから今日は、ことばのもつ意味を、人間の言語という観点からお話ししてみたいと思います。

人間は言葉を話します。話すだけではなくて、書いたり読んだりもします。他の動物も彼らの独自の方法でお互いにコミュニケーションをとっています。最近の研究では、植物もお互いにコミュニケーションをとっているということがいわれています。多くの人々は、ことばは人間がお互いのコミュニケーションをとるために、人間が発明した道具だと思っているようです。確かにことばを使って、自分の思いや考えを他人に伝えるのという意味では、道具だといって間違いではありません。しかし、よく考えてみると自分の思いや考えをそのことばで表すことを誰が決めたのでしょうか。そもそも、わたしたちはいつ、どこでことばを覚えたのでしょうか。わたしたちは、まだ言葉を話す以前の子どものとき、言葉を話すことを両親や周りの人から教わりました。しかし、その言葉は親たちが自分で作って子どもに教えたわけではありません。彼らもまたその親たちから、またその親はその親たちから教わったはずです。それでは、その言葉というものはいつ、どこで、誰によって作られたのでしょうか。創世記によると、人祖が“もの”に名前を付けたということになっています。それでは、人祖が名前を付けるために、“もの”と名前が同じ意味であることを誰が決めたのかということになっていきます。それを神さまが決めたというのは簡単ですが、では神さまというものを“神さま”という言葉で呼ぶことは誰が決めたのかということになります。つまり、言葉には必ず意味があって、そのような言葉を誰が決めたのかは、実は誰もわからないということなのです。そのわからないものを神さまとか、創造主といったのでしょう。ですから、「はじめにことばがいた。ことばは神とともにいた。ことばは神であった」ということになったのではないでしょうか。

だから、言葉が万物を創造する力をもっているといっていいのだと思います。こうして、人間が言葉を話す前に、言葉-意味があったということだということがわかってきます。人間が言葉を話しているのではなく、言葉が人間を通して話しているといってもいいのではないでしょうか。それを神的言語といってもいいかもしれません。日本で昔、このことを理解した人たちは、言葉を大切にして「言霊」と表現しました。言葉がそのまま出来事になるという意味で、真(まこと)といわれ、その真を生きた人を命と書いて「みこと」と読ませました。ですから、イエスさまのことを「みこと」と呼んでもいいのかもしれません。言葉には、それが現実となっていく力があると考えたのです。ヘブライ語で言葉はダバールといわれ、出来事という意味があります。神の口から出ることばは、必ず出来事となるということに由来しているといわれています。しかし、これは神の言葉であるから、出来事になるのではなく、言葉そのものが出来事になる力をもっているということだと思います。その意味では、言葉というものが神であるとか、いのちそのものであるといっていいのだと思います。これはキリスト教の発明ではないのです。

実際、わたしたち人間は言葉を使うことなしには生きていくことはできません。すべてを言葉で考え、言葉で意味を理解し、言葉でコミュニケーションをとっています。そして、言葉には人のこころを動かす力があるのです。人を救うことができるのは言葉であって、その意味では言葉こそがいのちであるといっていいと思います。その代わりに言葉は人を傷つけもします。このように人間に意味を与え、人生を歩ませ、生きさせるのは言葉であるといっていいと思います。わたしたちは言葉なしには生きられませんが、同時に言葉によって惑わされ、苦しめられているのも事実です。人は嘘をつくとか、信じないとか、傷つけるとか人間の根本的なあり方にもとるようなことを、わたしたちは言葉によってやっているのです。そして、わたしたちは言葉の世界から、つまりこの迷いの世界から自分の力で出ることはできないのです。

その言葉によって迷い、傷つき、苦しんでいるわたしたち人間に、真実のことばが言葉となって語りかけるという出来事、それがイエス・キリストということなのです。ですから、この御者はことば、真理、いのち、光と呼ばれているのです。すべてのものを創り出す力であり、すべてにいのちを与えるいのちそのもの、すべてのものに遍く届く光、真実、まこと、みこと、真如、法などといろいろな名前で呼ばれています。この御者が人間となって迷いの世界に来られたこと、これが主の降誕の意味なのです。主の降誕は2000年前のベトレヘムでの出来事ではなく、イエスさまが、ことばがわたしとなった出来事なのです。イエスさまはこの世界で迷い続けているわたしとなって、この人生をともに彷徨ってくださるのです。この方の光によって、わたしたちが主の降誕の神秘の深みにいれていただけるように祈りましょう。

待降節第3主日 勧めのことば

待降節第3主日 福音朗読 ヨハネ1章6~28節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は洗礼者ヨハネの証しの箇所が読まれます。ヨハネは「証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た」といわれています。そしてヨハネが証しする光は、「まことの光で、世に来てすべての人を照らす(1:9)」光です。このまことの光はイエスさまご自身をさしています。イエスさまがまことの光であるということは、どのような意味でまことの光なのでしょうか。今日は、それを見てみたいと思います。

 わたしたちは自分の目があるから光が見えると思っています。しかし、光がなかったら何ひとつ見ることはできません。それこそ、わたしたちは闇そのものになってしまいます。わたしたちは光に照らされているからものが見えるのです。どんなに強い視力があったとしても、光がなければものを見ることはできないのです。その光というのは太陽のような目に見える光ではなくて、光そのものであって、決して肉眼で見ることはできない光です。このような光は、眼がものを見ることを可能にする基礎、前提のようなものであるといったらいいでしょう。この光は、わたしたちが世界を認識するために不可欠なものなのです。ですから、わたしたちが光を見るのだと思っているかもしれませんが、そうではなく、わたしが見えることを可能にしているのが光なのだということなのです。まさに、創世記で「光あれ」といわれた光のことであって、それは太陽の光をさしているのではなく、すべてのことを可能にする根源的な光、いのちそのものともいえるような光なのです。そして、聖書の中で、イエスさまご自身はこのような光であるということが述べられているのです。

わたしたちは、わたし自身が聖書を読んで、信仰をもって、わたしが何かをしてイエスさまを探し求めていくのだというふうに考えていますが、そうではないのです。わたしがイエスさまを信じることによって、イエスさまがわたしを受け入れてくださるとか、愛してくださるとか、救ってくださるということではないのです。イエスさまは、わたしがイエスさまを探し求める前に、信じる前に、イエスさまはイエスさまであって、そのお名前の通り「あなたを救う」でいらっしゃって、「あなたは愛されて、ゆるされて、救われて、生かされているのだ、どうかそのことに気づいてくれ」といっておられるということなのです。わたしがイエスさまを信じるとか認めるとかに関わらず、イエスさまという光の中にわたしたちは今すでにいるのだという意味なのです。しかし、わたしたちはイエスさまの光の中に自分がいるのだということがなかなかわかりません。ある意味で当たり前となっているからです。わたしたちは、常に光の中にあるので、光によって照らされているということがわかりません。

わたしたちは闇というものに出会って、はじめて光のありがたさに気づかされます。わたしたちがイエスさまという光の中にいる、わたしたちはイエスさまに愛され、ゆるされ、救われている、イエスさまのいのちによって生かされているということを何度聞かされてもわからないのです。わたしは光の中にいながら、光であるイエスさまを探して、見つけ、信じようとしているのだともいえるでしょう。あるいは、光の中にいながら、わたしが光に対して背を向けているというか、わたしが眼を閉ざして、光を拒絶しているのだともいえるでしょう。このことを闇とか、無明、罪というふうにいっているのです。光そのものについて、わたしが自分の頭で考えてもわかるはずがありません。光の中にいるものが、光について考えることなどできないからです。しかし、一部の天才たちがそのあたり前にことに気づき、それを探求してきました。それが宗教であったり、科学であったりするのです。宗教も科学も、何か人間の研究や探求によって新しい事実を発見することのように思われていますが、そうではなく、すでにある古い真理を発見しているのに過ぎないのです。誰かが、光の中にいながらも闇となっているわたしたちに、光について証しをしていく必要があるのです。今日の洗礼者ヨハネはまさに、闇の中にいながらも、光について知って証しをするものなのだということができるでしょう。

この光であるイエスさまは、聖書の中では太陽のようなものとしてもたとえられています。「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しいものにも正しくないものにも雨を降らせてくださる(マタイ5:45)」 太陽はイスラエルの上にも、パレスチナの上にも同じように等しく昇ります。一方の人には昇って、他方の人には昇らないとか、いい人だけの上に昇って、悪い人の上には昇らないというようなことはありません。しかし、このような太陽の光であってさせも不完全なたとえに過ぎません。なぜなら、太陽の光は影を作り出す光だからです。イエスさまが光であるというとき、それはいかなる影をも作り出さない、明るさそのものの光をさしています。太陽の光は有限な光で、障がい物に当たれば光が吸収されてしまいます。しかし、イエスさまの光は太陽のような物質が発する有限な光ではなく、数量に限りがなく、始まることも終わることもなく、あらゆるものを通り抜け、自由自在で、透き通った、並びない無限の光です。自分が光を発しながらも、すべてのものを光に同化してしまうような、すべて光で覆い尽くし、影というようなものを一切作り出さず、一面光の海のような、あらゆる区別と境界を破壊する、無限無碍の光なのです。

イエスさまは、「わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来られ(12:46)」ました。イエスさまという光が、わたしたちを照らし続けていますが、その光にわたしたちは気がつきもせず、認めることも出来ません。ヨハネがいうように、イエスさまはわたしたちのうちにあって「知らないかた」としてとどまっておられるのです。わたしたちが認められないので、わたしたちにとって闇として体験されてしまいますが、それはイエスさまがおられない闇ではなく、イエスさまがおられることによって引き起こされる闇であるといえるかもしれません。しかしながら、わたしたちがいくら闇であるというふうに感じたとしても、イエスさまはまことの光としてわたしたちを絶え間なく、倦むことなく、照らし続けておられます。イエスさまという光が、「わたしはあなたを決して見捨てることがない」「わたしはあなたを必ず救う」という、わたしたちへの呼びかけとなって、倦むことなく絶えることない永遠の光としてわたしたちに届けられているのです。このことをわたしたちは主の降誕としてお祝いするのです。

*待降節第4主日の勧めのことばはありません。次回は主の降誕(日中のミサ)の勧めのことばとなります。
*また、聖家族の勧めのことばはお休みです。

待降節第2主日 勧めのことば

待降節第2主日 福音朗読 マルコ1章1~8節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

典礼暦年のB年が始まり、これからはマルコ福音書が読まれていきます。マルコ福音書は4つの福音書の中で、イエスさまの死後30年頃に最初に書かれたものであり、「神の子イエス・キリストの福音の初め」ということばで始まります。マタイやルカ福音書と違って、イエスさまの誕生や幼年物語について一切触れていません。福音書は、時系列でイエスさまの生涯が描かれ、伝記風に描かれていきます。読み手であるわたしたちは、福音書を通して、イエスさまの生涯について追っていくのだとわたしたちは思って読みます。しかし、福音書というものはひとつの文学様式であって、時系列の物語という形式をもちいながら、読者に必要なメッセージを伝えようとしているものなのです。文学にはいろいろなスタイルがあり、そこには著者の意図というものがあって、そのメッセージを伝えるために様々な文学様式が用いられます。詩、歌、物語、神話、伝記、歴史書、エッセイ、フィクション、ルポルタージュ等々もそうです。福音書というものも、ある時系列による物語、神話などのスタイルをもちいた文学なのだということを先ず押さえておく必要があります。大切なことは、わたしたちは著者の意図を、神のことばとしてきちんと受け取るということなのです。神のことばということは、著者は聖霊ということなのですが、その聖霊の意図というものがあるということです。

それでは、聖霊の意図は何かというと、マルコは「神の子イエス・キリストの福音」というふうに簡潔にその意図を要約しました。ここに書かれていることは、神の子であり救い主であるイエスという方が告げられた“よい知らせ”であるということになります。よく、聖書の中に書かれている様々な物語、例えばイエスさまの奇跡譚やたとえ話をそのまま実話として捉えて、そのまま信じることが大切なんだというようないい方がされることがあります。しかし、福音書はイエスさまの行動や語録の報告書ではありません。それを勘違いすると、福音書の字面を追うことになってしまい、イエスさまの意図とずれたものを受け取ってしまいかねません。マルコはそのようなことをできるだけ避けるために、イエスさまの出自や幼年物語、人となり等という、皆の興味があるようなことはほぼ省き、できるだけイエス・キリストによってもたらされたよい知らせを浮き彫りにするように努めました。ですから、おそらく当時皆が知っていたようなイエスさまの誕生物語や幼年物語にはあえて触れず、洗礼者ヨハネによって始まるイエスさまの宣教活動に直接入っていくのです。しかし、それであっても当時のマルコの生きていた時代の教会の状況、人々の関心事、時代の雰囲気や人々のものの考え方が反映されています。これが人間の言語活動の限界です。イエスさまによってもたらされたよい知らせを福音、その働きを神の国というのですが、それを人間のことばで言い表すこと自体不可能なのです。ですから、イエスさまはそれを主にたとえ話として語られました。つまり、神のことばを人間の言葉に翻訳して話されたということなのです。

洗礼者ヨハネの描き方も単純です。マタイはヨハネを、人々を救い主に備えるための、厳しく厳格な旧約の最後の預言者として描きます。ヨハネは民衆に「蝮の子等よ」と呼び掛けます。ルカに出てくるヨハネは、マリアの従姉エリザベットの息子として描きます。マルコはヨハネの出自についても、何も触れません。このように描き方は夫々です。マルコにとっては、イエスさまやヨハネの出自について関心がありませんでした。おそらくそれが真実でしょう。マルコ福音書では、マリアについても、偶然にイエスのことを「マリアの子」というイエスさまの出自を辱めるために使うために出てくるだけで、福音書において、また救いの歴史におけるマリアの役割に何も注目していません。このように、マルコ福音書の特徴は、イエスさまによってもたらされた福音、よい知らせ、救いが何であるかを明らかにすることでした。

それは、つまりイエスさまこそが福音であり、よい知らせであり、救いであり、いのちであるということに尽きるといえばいいと思います。それが、「神の子イエス・キリストの福音の初め」といわれていることであるいえるでしょう。マルコが関心のあったのは、イエスさまだけです。イエスさまがすべてであって、イエスさまがわたしのところへ来られることが即救いであるということなのです。イエスさまがわたしたちの救いのためにわたしのところに来られること、そしてそのイエスさまの働きである神の国以外のものは何も必要ではないのです。わたしたちはただ、そのイエスさまをお受けすることだけで十分なのです。わたしたちの業も、心構えも徳も必要ではないのです。もちろん何もしないでいいといっているのではありません。本質を見極めるということです。そのことを、わたしたちはB年のマルコ福音書を読むことによって深めていきたいと思います。

待降節第1主日 勧めのことば

待降節第1主日 福音朗読 マルコ13章33~37節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

待降節になりました。今日の福音のテーマは、主の到来に向かって「目を覚ましている」といることがテーマになっています。待降節のテーマも、わたしたちが主を待つことのように思われています。今日の福音を読む限り、主がいつ来られるのかわからないので、わたしたちが細心の注意を払って、ふさわしく用意して、目を覚ましているというわたしたち人間の側の心構えが語られているように思います。そして、わたしが主の到来に対して、いつこられてもよいように目を覚まして、ふさわしい準備をすることで救われる、またわたしが一心に信じることで救われるかのように思ってしまっています。しかし果たして、わたしはイエスさまにふさわしい身になれるのか、またわたしが一心に信じるということができるのかということが問題になってきます。なぜならば、わたしが信じているその信仰が真実なものであると誰も証明してくれませんし、自分の力でイエスさまにふさわしい身になったかどうか確認することもできないからです。この問いの背景には、そもそもイエスさまの救いというものを、わたしたち人間が人間の視点で解釈しているのではないかということがあります。今日は、そのことを考えてみましょう。

わたしたちに“待つ”ということが成立するためには、未だ到着していないという過去の事実と、いつか将来に起こるであろう未来への予想というものがあります。それがどのようになっているかというと、過去に誰かが来たというわたしの経験があって、そのときたまたま準備ができていなくて怒られたとか、うまくいかなかったという記憶があって、その記憶に基づいて、今度はきちんとしようと未来の予想を立てる、あるいは、そのときうまく準備ができて、きちんとお迎えすることができたという経験があって、この次もきちんとお迎えしようと、“わたしが”考えているのではないかということです。つまり、わたしたちの意識が捉えることができる過去の記憶のデーターとそれに基づいた未来の予想で、この世界のすべてを、神さまのことさえ把握しようとしているのではないかということです。わたしのこころに思いが生じるというのは、過去の出来事に照らし合わせて、未来を判断しているのにすぎません。

わたしたちはこの世界に時間というものがあって、過去があって、現在があって、未来へと時間が流れていて、わたしはその時間の中で生きていると考えています。しかし、現代の物理学でわかってきていることは、人間は時間というものがあると思っているけれど、時間というものは存在しないということがいわれています。この世界には時間というものはなくて、時間は人間が世界を理解するために尺度、人間の申し合わせであって、この世界には永遠の今ということしかないということがいわれています。世界を時間の流れとして認識しているけれど、この世界には今ということが満ちているのだということなのです。ちょっと想像することは難しいかもしれませんが、よく考えれば、わたしが生きている今というとき、瞬間、その刹那は、わたしが生きたといったとき、もう過去になってしまい、その過去にわたしは生きてはいません。そして、わたしが生きようとする未来は絶えず未来であって、その未来にわたしが追いつくこともありません。しかし、わたしが生きているのは過ぎ去った過去でもなく、また来ていない未来でもなく、今、永遠の今であって、昨日でも、明日でもありません。わたしには今しかなくて、過去も未来もないし、それを生きることはできないのです。過去や未来は、ただ記憶と意識の世界が作り出している幻のようなものだのだといっていいかもしれません。イエスさまが永遠であるということは、イエスさまにはわたしたち人間のような時間はなく、常に今ということなのです。

わたしたちは、よく生きれば、将来よい人になっていき、よく信じれば、将来信仰は深まっていくというふうに考えています。だから、わたしたちがよい人間になって、ふさわしい準備ができれば、イエスさまが将来来てくださるというふうに、わたしが勝手に間違って捉えていくようになってしまいます。しかし、イエスさまは、わたしたちが目を覚ましていて、ふさわしい準備をした結果として来られるのではありません。それだけなら、わたしの都合で、イエスさまを来させようとしていることになってしまいます。また、今日のお話はいいお話だった、自分の生きる参考になったといいます。それは自分に都合よく聞いた、自分のこころに合わせて聞いたということにすぎないのです。また、わかりやすい話やわかりやすい言葉にするということもよくおこなわれています。わかりやすいということは、わたしの都合に合わせたものということなのです。イエスさまのことばをわたしの都合にあわせて聞いたところで、それは自分の都合を満たしたいだけ、自分の疑いを晴らし、欲を満たしたいだけなのです。だから、わたしたちは、聞けば聞くほど、信仰は深まっていくと思っているかもしれませんが、それは間違いです。聞けば聞くほど、わたしたちの疑いは深くなっていくのです。わたしがわかりたい、わたしの疑いを払拭したいという思いだけでイエスさまのことばを聞いているので、それは泥に金箔をはっているだけなのだということに気づかされるからです。

イエスさまが来られるのは、そのようなわたしの都合やわたしのまやかしのこころの及ばぬところです。イエスさまが来られたことを過去のこととして判断し、未来を予想するなら、それはわたしのこころの中で、わたしの意識が作り出したものになってしまいます。しかし、イエスさまが来られるというとき、わたしの意識が及ばぬところにイエスさまは来ておられるのです。そのことをわたしたちは、本質的には意識することはできないのです。「そのときがいつなのか、あなたがたにはわからないからである」といわれている通りです。イエスさまが来られるのは過ぎ去った過去のことでもなく、まだ来ていない未来のことでもないのです。その意味で、わたしたちが待つ必要はないのです。今、イエスさまは来られ、わたしたちは今救われつつあるのです。どんなに準備しようが、ふさわしく生きようが、準備ができず、ふさわしくなくても、それはわたしの都合でしかなく、そのようにしか生きられないわたしのところにイエスさまが、今来られるということなのです。わたしが待つことによって、準備することによってイエスさまの到来を引き起こすのではなく、すでにイエスさまは来ておられたのだという驚き、それがアドベント、「主が来られる」といわれる真の待降節の意味なのではないでしょうか。いつ来られるかわからないから絶えずわたしが準備をしますとか、クリスマス前にふさわしい準備をしましょうじゃないんです。それはいずれも自分の都合であって、わたしがよい人間になれば救われ、一生懸命信じれば信仰が深くなるなんていうのは、すべてわたしの計算であり、インチキです。しかし、イエスさまは、そのような自分の都合しか考えられないわたしのところに来られるのです。イエスさまが来られる、そのことだけが真実なのです。イエスさまは今来られ、わたしたちは今救われつつあるのです。

王であるキリスト 勧めのことば

王であるキリスト 福音朗読 マタイ25章31~46節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は教会の中で、最後の審判の箇所として説明される場面が朗読されます。これは神の国のたとえ話であって、最後の審判の記述ではありません。先ずそのことを押さえておきましょう。そもそもこの箇所はマタイにしかありませんし、イエスさまが最後の審判について教えたと考えることはできません。これは終末思想の中にあったマタイの共同体で、主の再臨を前提に書かれた箇所だといったらいいでしょう。それを、後の教会が最後の審判に関する記述だと主張したのです。また、これが神の国についてのたとえ話であるとしても、神の国の何についてのたとえであるのかを慎重に見極める必要があると思います。

多くの場合、このたとえ話の「この最も小さなもののひとりにしてくれたのは…してくれなかったのは…」というフレーズが、多くのキリスト者にとって大きなプレッシャーになっていると感じるのはわたしだけでしょうか。自分は小さい人たちのために何もしていない、できないとか、ボランティア活動もしていない、だからせめてその後ろめたさから献金するとか何とか、様々な活動がこのような後ろめたさからおこなわれていること自体大きな問題だと思います。また、小さい人々に何かをするという発想自体、自分が上に立って何かをするという教会の上から目線であり、この箇所の解釈が与えている大きな影響というものを感じさせられます。なぜこのような発想になっていったのでしょうか。それは人間が、救いというものを求めていくからではないでしょうか。それでは、救いとは何なのでしょうか。そもそも、わたしたちが求めている救いなどというものが果たしてあるのかどうか、今一度、考えなおしてみる必要があるように思います。

今日の箇所では、人間の歴史の最後には、正しいものと正しくないものがわけられ、正しいものは永遠のいのちを受け、正しくないものは永遠の罰を受けることになっています。だから、あなたがたは永遠のいのちを受けることができるように、すなわち救いにあずかれるように、この小さな人のためによいおこないをしなさいというのが一般的な教えです。果たしてイエスさまがこんなに陳腐な教え、せこい救いというものを説かれたのでしょうか。確かに、イエスさまはその生涯のなかで、社会の底辺で見捨てられた人々、病人、女性、いわゆる“小さな人々”を最優先していかれました。それは旧約の律法が小さい人々を助けるように教えていたからではなく、ただイエスさまのこころが動き、体がそのように動いて、そうされたという以外の何ものでもありません。愛の掟でいわれているからとか、その人たちが可哀そうだからとか、自分が救われて永遠のいのちを受けるためだとか、救われるため、選ばれたものとなるためではないのです。ただ、イエスさまのこころがそう動いたのです。そのことが大切なのです。ある人たちは、イエスさまがあのような生き方、死に方ができたのは、自分は神で、復活することがわかっていたからだという愚かな人たちがいます。それこそ、最後の審判の教えに影響をうけた勧善懲悪の発想そのものです。イエスさまのなかには、1ミリも自分というものが目的になるようなものはありません。それに対して、わたしたちはどんなに素晴らしいことをしても、どれだけ貧しい人と連帯したとしても、そこには自分の救いを勘定に入れているわたしというものがいるのです。最後の審判の教えが、かえってそのような発想をわたしたちに刷り込ませてしまっているのです。

今日のたとえ話では、相手がイエスさまだとわかってやった人は、イエスさまからあなたは知らないといわれています。あくまでもイエスさまであることを知らないでやりなさいといわれます。しかし、「この最も小さなもののひとりにしなかったのは、わたしにしなかった」のだとか、「…ひとりにしたのは、わたしにしてくれたのだ」といわれてしまうと、わたしたちはかえって意識してしまいます。相手がイエスさまであることを知らないでするということが、果たして意識的に意図的にできるのかということになってしまいます。そもそも、わたしたちはイエスさまを意識する“わたし”というものを除いて、何かをするということなど出来ないのです。わたしたちは必ず、“わたし”がやっていると意識します。だから、わたしという存在は、自分の救いを勘定に入れないで何かをすることなど出来ないのです。その明らかな現実、つまりわたしを勘定に入れないでは何もできないという現実を受け入れない限り、わたしたちは何もできないということなのです。でなければ、所詮すべて綺麗ごとになってしまいます。自分というものを勘定に入れないで、何かをできた方というのはイエスさまだけです。それがイエスさまの生涯、そして十字架です。わたしたちがどんなに熱心にキリスト教を求めたとしても、自分の救いしか考えられないのです。しかし、イエスさまの姿から知らされてきた本当の救いとは、わたしが救われないものになることに他なりません。それなのにわたしたちは、自分が必ず救われた側に立って、自分が救われたものとして他の人を救っていこうとします。人の上に立って、話して、教えて、何かをして、救っていくという発想しかないのです。宗教者に多いお悩み相談です。自分が上に立って人を救っていきたい、導きたいというのがわたしたちの本性なのです。こうして、わたしたちは、結局は自分の救いという闇の中に沈んでいくしかない存在なのです。つまり、救いを望んでいながら、救いからもっとも遠くなっていくのです。

しかし、イエスさまは何と違っていたことでしょうか。イエスさまはもっとも下に行き、もっとも愚かなもの、呪われたもの、自らが地獄に落ちていって、人々を救おうとされます。それがイエスさまの受肉、その生涯、特に十字架であり、死なのです。信仰宣言で「十字架につけられて死に、葬られ、陰府に降り…」といわれることは、そのことなのです。しかし、わたしは右側に、選ばれたものになりたい、天国にいきたい、救われたいと思っているのです。イエスさまとは似ても似つかぬものであり、自分の救いしか考えられないものなのです。わたしの救いは、わたしの救いを放棄したところにしかないのにそのことに気づきもしないで、己の救いを求め、善行をし、慈悲の行をし、教えようとしている、これがキリスト教の限界なのです。イエスさまがわたしたちに教えてくださったことは、その正反対です。イエスさまは自分を放棄することによって、人間であるわたしとなってこの世界に来られました。自分の救いを捨てて、後回しにして、この人間の迷いの世界に来られたといったらいいでしょう。そして、イエスさまはご自分の生き様を通して、わたしはわたしの力ではどういうふうにしても救われることのない身であることを示されました。でも同時に、イエスさまによって必ず救われる身であることを示されました。これがイエスさまの復活です。わたしは今、決して救われることのない身であることに変わりはありません。もしわたしが何かよいことができるとしたら、それはわたしのなかのイエスさまがしておられるのに過ぎません。    

イエスさまが説かれた神の国、救いとは、人助けをして自分が救われていくことではなく、もろもろの救われがたいものとともに、自分も救われがたいものとなって、この生死の世界に留まり続けことなのです。そもそも救う側も救われる側も、助ける側も助けられる側もその区別がない世界、それをイエスさまは神の国として示されたのです。その神の国の証しとして、この世に救われがたいものとなってとどまり続ける使命を受けたのが教会、つまりわたしたちなのです。ですから、教会に信仰があるのでもない、聖なるものでもないのです。わたしのうちには救われがたいものしかないのです。その視座に立たない限り、教会はその本来の使命から逸脱し、己らは救われたものの集団だ、エリート集団だという幻想のうちに沈んでいきます。わたしたちは、今このとき、いかに多くのことをこの身に知らせていかなければならないことでしょうか。改めて気づきをいただけるように願いましょう。

年間第33主日 勧めのことば

年間第33主日 福音朗読 マタイ25章14~30節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗 

今日はよく知られたタラントンのたとえです。タラントンとはギリシャの貨幣の単位で、1タラントンは6000日分の日当にあたり、約20年分の賃金に相当します。このタラントンはタレントの語源にもなり、才能や技量を表す言葉になっていきます。つまり、その人が天からもらった力量を表す言葉にもなっていきます。今日のたとえは天の国、つまり神の国のたとえとなっていますが、何のたとえなのかを正確に理解する必要があると思います。

普通このたとえを読むと、神さまからいただいた力や能力を使うことを奨励しているとしか読めません。それが神の国の何のたとえなのかがわかりません。あたかも、神の国がわたしたちに正しい生き方を要求しているようにしか感じられません。たくさん資産をあずかって、それをうまく資産運用した人が評価され、それをしなかった人が責められているように思われます。頑張れば評価される、頑張ったものが報われる世界を目指している現代社会のように、才能を活かして頑張れといわれているようにしか読めないからです。政治家はいとも簡単に、人類は皆平等であると綺麗ごとをいいますが、人はみな同じように生まれついているわけではありません。人は人であることを除いて、生まれながらにして不平等なのです。頑張れる人はいいかも知れませんが、頑張れない人はどうしたらいいのでしょう。

今までの教会の教育の中でも、自分が自分でないものになることで救われるというような教え方がされてきました。よい子になって、立派なクリスチャンになって、聖人になることを目的としてきたような、そして、それがあたかも信仰生活、聖性のように言われてきました。だから、今のままの自分では駄目なんだ、罪を避けてもっといい子にならないといけないのだといわれてきたように思います。しかし、わたしたちは自分以外のものにはなれませんから、自分自身じゃないもののふりをするようになります。あるいは、ゆるしの秘跡と日常生活の間を行ったり来たりになり、絶えず罪に怯える生活が繰り返されます。こうして、わたしたちはわたしに対して嘘をつき、嘘に嘘を重ねることになります。でも、自分自身ではないもののふりをし続けること、これはストレスですから、わたしたちは心の中では自分を責め、自分を虐め、自分を否定するようになります。つまり自分で自分をおとしめ、卑下するようになるのです。そのように自分を虐めていると、その虐めは必ず他者に転化していきます。これが、外的、内的暴力となって現れてきます。自力で頑張って、聖人になることを目指す人はそれでいいかも知れませんが、そうできない人はどうしたらいいのでしょう。また、自分で頑張れる人は、そうでない人を責めがちです。これがあらゆるハラスメントと温床ともなっていきます。

ここでいうタラントンというのは、現在は才能とか技量を現わす言葉になっていますが、むしろそうではなく、唯一無二であるわたしという存在を意味していると捉えることができるのではないでしょうか。それで、ひとつの提案として、5タラントン、2タラントン、1タラントンというのを、五郎、二郎、一郎として読むということを勧めたいと思います。そうすると、五郎は五郎であることを生きた、二郎は二郎であることを生きた、一郎は一郎であるのに、五郎や二郎になろうとした、あるいは一郎であることを生きなかったというふうに読んでいくことができます。そうするとこのたとえ話の読み方も変わってきます。お互いに比べる必要がなくなるわけです。

仏教のことばで「人身受け難く、今すでに受く」というのがあります。わたしがわたしとして生まれてくるということは、この宇宙の歴史から見ればほぼ不可能なこと、奇跡に近いものがあります。わたしは、他の誰になるのでもなく、このわたしとして生まれさせていただきました。このわたしがこの世界に生まれてくるためには、様々な要素、縁がなければなりません。自分の両親はもとより、その祖先、またこの地域、この国、この自然界、空気も水も、空も太陽も、この地球も宇宙もその何かひとつでも欠けたとしたら、わたしが生まれてくることも、今あることはあり得ないのです。わたしは自分ひとりで生まれてきて、ひとりで大きくなって、この自分がいろんな状況をコントロールしてきたと思うかもしれません。しかし、わたしという存在は、わたしだけでは何もできない、この世に生まれることも、生きることも、また死ぬこともできないものなのです。その証拠に、わたしはわたしの力で、自分で息をすることも、心臓を動かすことも、血を全身に送ることも何もできないのです。

それなのに、わたしはわたし以外の世界を作り、わたしという殻を作ってわたし以外のものを拒否して、そのわたしの中に閉じこもっている、ひとりぼっちの世界に座り込んでいる、それが現実のわたしではないでしょうか。ひとりぼっちの世界に座り込んでいる、それがわたしであると思い込んでいる。わたしとわたし以外の世界を別に作り出し、その世界がわたしにとってどうであるかということしか関心がない、わたし以外は皆わたしにとって利用価値があるかどうかで世界を見ている、そのひとりぼっちのわたしがいる。このようにひとりぼっちの世界に座り込んでいること、これがわたしの迷いであり、そのようなわたしが救われたい、生きたいと願っているのではないでしょうか。そのようなわたしのところへ来て、わたしに働きかけて、わたしとともに歩み、わたしとともに救われていくことを願っておられる方がいる、それがイエスさまということなのではないでしょうか。その方が、わたしに真実のわたしであることを生きてほしいと願っておられる。そして、わたしの本当の願いは、何かが欲しいとか、○○さんのようになりたいということではなく、わたしは真実のわたしになりたいという願いなのです。それが今日の福音のテーマであると思います。

イエスさまが天地創造のまえから、このわたしを呼びだしてくださった、そしてわたしに働きかけ、わたしとともに歩んでおられる、そのことを改めてこころに留めたいと思います。

年間第32主日 勧めのことば 

年間第32主日 福音朗読 マタイ25章1~13節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の賢いおとめと愚かなおとめのたとえ話は、マタイ特有のものです。神の国のたとえ話ですが、どういう意味で、神の国のたとえなのかわかりにくいところがあります。むしろ、このたとえは、マタイ共同体が直面していた主の来臨の遅延という問題に答えるためのものです。正直、このたとえ話からイエスさまの福音的メッセージを聞きわけることは難しいと思います。それで、マタイ共同体ではどういう問題に直面していたのかをお話ししてみたいと思います。

当時のユダヤ世界に広がっていた考え方に、終末思想というものがありました。社会が政治的、経済的に不安定で人々が困窮に苦しむような時代に、その困窮から人々を救うために、神が歴史に介入して困難を取り除かれ、正しい人々は救われ、正しくない人は裁かれるという勧善懲悪の歴史観です。当時イスラエルはローマ帝国の支配下にあり、人々はこのローマ帝国の支配下から自分たちを解放し、苦しい生活を終わらせ、ダビド王のときのような豊かな国土に回復させることのできるリーダーシップのある王を、救い主、メシアの到来を待ち望むようになっていました。そのような状況の中で登場したのが、ナザレのイエスでした。人々はこのイエスという方に、力強いリーダーシップと指導力を期待していましたが、それは見事に裏切られました。イエスさま自身、ユダヤ人の期待するようなメシアではありませんでした。また、人々の期待するような力強い教えを説かれたわけでもありませんでした。

イエスさまのなさっていたことといえば、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の中のデクノボーのようなものだったのだと思います。「野原の松の林の陰の小さな萱ぶきの家にいて、東に病気の子どもがあれば、行って看病してやり、西に疲れた母あれば、行ってその稲の束を負い、南に死にそうな人があれば、行ってこわがらなくてもいいといい、北に喧嘩や訴訟があれば、つまらないからやめろといい、日照りのときは涙を流し、寒さの夏はおろおろ歩き、皆にデクノボーとよばれ、ほめられもせず、苦にもされず…」そして、そのようなイエスさまは、民衆から見捨てられて、十字架に掛けられてしまいました。後の教会が主張する贖罪論や身代わりの死などということを、イエスさま自身意識しておられなかったと思います。ただイエスさまは、何があってもどのようなものであっても、それでもわたしたちは今生かされているということを神の国として語られてのではないかと思います。「神の国は見える形では来ない。ここにある、あそこにあるといえるものでもない。実に、神の国はあなたがたに間にあるのだ(ルカ17:20)」と。人々はそのように生き、死んだイエスさまを、ユダヤ教でいうメシア、救い主として理想化するようになったのではないでしょうか。イエスさまが死んで復活された後も、弟子たちは「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか(使徒1:6)」と尋ねています。しかし、イエスさまが十字架にかかろうとも、イエスさまが死者の中から復活されようとも、人々の生活は何も変わりませんでした。何も解決されなかったのです。いつもと同じように日が昇り、人々の苦しみは続いていく。そのような状況の中で、イエスさまが国を建て直し、正しくないものを裁くために再臨されるという期待が広まっていったのでしょう。しかし、それらは、すべてユダヤ教の終末思想の影響を受けた初代教会の勘違いから起こってきたものでした。イエスさまはそのようなことを生前考えておられませんでしたし、実際にイエスさまの再臨はありませんでした。

しかも後代になると、イエスさまの再臨、最後の審判というのは教会の教えとなっていきました。その再臨、最後の審判への備えとして、賢いおとめと愚かなおとめの寓話を説明するようになりました。そして、その裁きをわけるものが油をもっていたかどうかということになり、その油を聖霊と解釈する説が一般的となっていきます。聖霊はキリスト者のみに与えられたものとし、そのようにして救われるものと救われないものをわけ隔てていきました。キリスト者にしても、罪によって聖霊を失わないように、細心の努力をするようになり、非常に内向きな生き方になっていきました。

賢治は日蓮宗に帰依していきますが、その中で常不軽菩薩の姿に注目していきます。常不軽菩薩というのは、自分の救いを一切省みることなく、ただ他者の真の幸福と救いを誓い、他者の救いのためであれば、最後のひとりが救われるまで自分の救いを後回しにする、そのような菩薩として描かれています。また、いかなる誤解や批判を受けたとしても、仏を敬い続ける菩薩だそうです。日本の仏教の中にすでにそのような伝統があるのです。自分たちは聖霊を与えられたものとして、どこまでも自分を救われたものとして捉えていくユダヤの終末思想と何と異なっていることでしょうか。イエスさまがそのような陳腐な終末思想を説かれたはずがありません。人々の救いのために、自分の救いを最後に後回しにし、自分の救いを放棄された姿、人々が救われるまでは自分も救いに入らない、それがイエスさまの十字架だからです。  

パウロはガラテアの教会の人々に次のようにいいます。「ああ、物分かりの悪いガラテアの人たち、だれがあなたがたを惑わせたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきりと示されたではないか(3:1)」それほどのイエスさまの愛を見せていただいたのにもかかわらず、わたしたちは、まだ自分の業、おきての実行、自分の信仰の強さの程度に頼ろうとし、自分が油を準備しているかしていないかに拘り続けているのです。わたしたちは、今日の聖書の箇所から何を問われているのでしょうか。賢いおとめに倣って、将来、いつ主が来られてもよいように準備しておくことの大切さを強調することでしょうか。それだけなら、わざわざこんなたとえ話をする必要もなかったでしょう。また、わたしたちが自力でふさわしい準備をすることなど出来ませし、その心の状態を常に保てる保証もありません。

わたしたちが生きているのは、今というこのときをおいてありません。わたしが救われるのも、イエスさまが来られるのも、今というこのときをおいて他にはありません。イエスさまが来られること、救いを、将来、未来のことと考えるので、わたしたちは救いを将来のこととして捉え、救われるであろうわたしになろうという浅ましい根性が出てくるのです。このたとえでいおうとしていることは、イエスさまの到来、救いの現在性であるといえばよいでしょう。イエスさまはこのままのわたしを救うといわれるのです。救われるにふさわしい理想的なわたし、油を準備しているわたしを救われるのはありません。油があろうとなかろうと関係なく、今のわたしを救われます。今のわたしを訪れてくださるのです。イエスさまが救われるは、今のままのわたし、闇の中に沈み、泥にまみれた、罪に沈んでいるわたしなのです。わたしは、ただイエスさまにあわれんでいただくことしかない罪人なのです。慈しまれるだけでは足りません。あわれんでもらうことしかできない、そういう存在のわたしなのです。

年間第31主日 勧めのことば

年間第31主日 福音朗読 マタイ23章1~12節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は、イエスさまが律法学者とファリサイ人を痛烈に批判される箇所になります。もともとマルコ福音書にある短い律法学者への批判を、マタイは律法学者とファリサイ人批判として大幅に編集しました。ここまで徹底的に、律法学者とファリサイ人を批判しなければならなかったのは、当時のマタイ共同体の置かれていた状況が関係していました。マタイ福音書は、紀元70年のエルサレムの滅亡後、80年頃に書かれたといわれています。イエスさまが亡くなって、もう半世紀50年がたっています。それまでのキリスト者たちは、ナザレ派として緩やかに神殿や律法を大切にしながら、ナザレのイエスを救い主として信じるユダヤ教の中の一グループとして存続してこられました。しかし、エルサレムの神殿崩壊後、ユダヤ教は神殿宗教からモーセの律法を忠実に守るというファリサイ主義の姿勢を固めていった時代でもあったのです。その厳格さは、ユダヤ教の中にあったいろいろの宗教的なグループを許さず、律法を中心としたファリサイ主義のみとなっていきました。キリスト者たちは、もはやユダヤ教の中には留まることは許されず、ユダヤ教から独立して異邦人宣教へと向かっていかなければならなかった時代でもあったわけです。そのような状況の中で、マタイ共同体は自らのアイデンティティを再構築していかなければならなくなります。改めてキリスト者とは何かが問われていったのです。

初代教会において、イエスさまの福音の本質を純粋に体験したのは、おそらくパウロだったと思います。パウロは手紙の中で、「律法の実行によっては、だれ一人として義とされない(ガラテア2:16)」といって律法を無効化し、イエス・キリストの信仰によって、信じる者すべてに神の義が与えられると宣言しました(ロマ3:22)。続いて「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みによって無償で義とされる(同3:23~24)」とイエスによる無償の全人類の救いを宣べ、「わたしたちが義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです(同3:38)」と説明します。パウロは、ユダヤ教の律法というものを相対化し、イエス・キリストの贖いの業によって全人類が義とされる、つまり救われるということを宣言したのです。信仰というのも、イエス・キリストの贖いの業によって義とされることを信じることであって、わたしたちが義とされるためにイエス・キリストの贖いを信じることではないのです。信仰というのは、イエス・キリストによって義とされたことがわたしたちにさし向けられた結果であって、義とされるための原因ではないのです。しかし、そのパウロが60年頃にローマで、その後ペトロも殉教して、初代教会の2人の主要な指導者を失います。ペトロも律法を守ることに拘っていませんでした。70年にエルサレムが陥落して、その後80年頃にマタイ福音書が書かれていきます。マタイ福音書が書かれていったとき、パウロが体験したイエスさまの福音、神の国について宣べ伝えるよりも、ユダヤ教から独立していった教会としての制度や教義、倫理に関心事が移っていきます。こうして、イエスさまの福音、神の国を、新しい律法として再解釈がなされていくのです。

イエスさまがいのちをかけて宣べ伝えようとされたのは、神の国の福音です。今日の第2朗読の中で、パウロが自分のいのちさえ喜んで与えたいと願ったのは、イエスさまの福音を宣べ伝えることでした。神の国は、すべての人のうちに働いている神の力、神の愛であって、何かわたしたちが信ずるべき教義や信条、教会のような制度でもなく、また将来や死後に到来する理想的な国土でもありません。神の国は、人間が従うべき新しい律法ではなく、また神さまの好意を得るのに相応しくなるために行わなければならない道徳でもなかったのです。むしろその反対で、神の国は、今現にわたしたち人間を生かし、わたしたちの中に働いている神の場であり、働きを指しているのです。しかし、わたしたちの中で神の国が働いている、イエスさまがともにいて、わたしたちを生かしてくださっているということをわたしたちが体験することは、非常に難しいことだといわざるを得ません。というか、わたしたちが生かされていること、そのいのちを体験することは、わたしたちが普段意識せずに吸っている空気を体験しろといわれているのと同じで、わたしたちに普通にはできないことでもあります。わたしたちがイエスさまによって救われていることを、何かによって確かめたり、証明したり、体験したりすることはできないからです。むしろそれより、新しい律法を守りなさいとか、こういうふうに生きなさいという方がわかりやすいのです。

しかしながら、わたしたちが生かされていること、救われていることを真に体験したならば、わたしたちはどのように生きなければならないか、誰かから教えられなくても自然にそのままわかってくるはずです。しかし、世代が変わり、パウロのようにイエスさまとの生き生きとした出会い、神の国、福音というものを体験することが難しくなっていったとき、イエスさまの福音をキリスト者の生き方とか、おきてとして話すことしかできなくなっていったのでしょう。わたしたちが信仰の継承を難しいと感じることと同じです。ですから、神の国の本来のあり方を、すべてのものは兄弟姉妹であって、わたしたちの間に上下、優劣等の差異がないのだと、旧約の律法を再解釈して話していったということだと思います。

なぜなら、わたしたちの中に、先生とか、父とか、教師といわれるような、上下関係、優劣を作り出さざるを得ないものがわたしの存在の根底に歴然としてあるからです。わたしたちは兄弟姉妹であって、そこに差異がないということをいわないと神の国の本来のあり方がわからないのです。もし、そのように生きていたら、兄弟姉妹だという必要もないし、兄弟姉妹なのだと意識することもありません。そのように意識されるということは、そうでない状況があるからなのです。わたしたちの世界は、教会も含めて、これほど上下、優劣の区別がひどいのはどうしてでしょうか。「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」というのが教会の常套句ですが、このようにいわないではいられないほど、わたしたちは愚かなのだということなのです。

現在少子高齢化ということが盛んにいわれます。日本のGDPが4位になるとニュースになっています。なぜ、子どもが少なくて、高齢者が多いことがいけないのでしょうか。GDPが4位になってはいけないのでしょうか。それは、子どもが多いことはよいことで、高齢者が多くなることは悪いと考えている、つまり歳を取ること、老いることを悪と考えているからでしょう。そして、やっぱり下より上がいいと思っている。キリスト者といえども、本音では上がいい、偉くなりたいと思っている、だから仕えるものになり、へりくだるものになりなさいというその程度なのです。根底にある問題は、あらゆる物事を二極にわけて、たとえば生まれることはよいこと、おめでたいこと、死ぬことは悪いこと、縁起が悪いというふうに考えていることにあります。そして、そのことに気づきもしないほど、わたしたちは愚かなのです。死ぬのも生きるのもわたしの中で起こっていることなのです。

しかし、このような愚かなわたしたちが、イエスさまによって生かされ救われているのだ、このことが神の国、神の国の福音なのです。愚かなのは他の誰でもない、このわたしです。イエスさまがいのちをかけて伝えようとされた神の国の真実に、わたしたちの心の目が開かれるよう祈りましょう。

年間第30主日 勧めのことば

年間第30主日 福音朗読 マタイ22章34~40節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日はキリスト教の中で2つの愛のおきてといわれる、神への愛と隣人愛についての箇所が朗読されます。その他にも黄金律という教えがあり、「人からしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい(マタイ7:12)」というものです。これらは、イエスさまが教えたことのようにいわれていますが、いずれも旧約聖書の教えです。神への愛は申命記6章にあり、隣人愛はレビ記19章18節にあります。また黄金律はイエスさま自身も「これこそ律法と預言者である(同7:12)」といわれ、当時のユダヤ教でも律法を要約したものとして考えられていました。日本でも「人にされたくないことは、人にしてはいけない」と教えられています。今日の箇所で2つの愛のおきてを、イエスさまは「律法と預言者は、この2つのおきてに基づいている」といわれています。マルコ福音書にも同様の箇所がありますが、この2つのおきてについてそれを重要視することは、「神の国から遠くない」といわれました。遠くないということは、近くもないということで、神の国の教えであるとはいわれませんでした。それがどうして、イエスさまの教えであるかのようにして教えられてきたのでしょうか。

おそらくマタイ福音書が書かれる時点―イエスさまが亡くなってから半世紀も経っているのですが―、イエスさまの伝えようとした福音を新しい律法として解釈し、福音内容をその律法遵守である置き換えがおこなわれてしまったといってもよいかと思います。事実マタイは、イエスさまを律法の完成者として描いていきます。マタイの共同体には、ユダヤ人が多くいたことも関係していると思われます。イエスさまの宣べ伝える神の国の福音を、先祖から慣れ親しんできたモーセの律法を大切にしながら、イエスさまを救い主として信じることのほうがわかりやすかったのでしょう。宗教として、これこれのおきてを守りなさいと教えるほうが、今まで聞いたこともないようなまったく新しい神の国の教えや神の愛を説くよりも、はるかにわかりやすく簡単だったのだと思います。つまり、イエスさまの説く理解しがたい壮大な神の愛よりも、わたしたち人間が神を愛する、隣人を愛することを説くほうが簡単だということです。簡単だというのは、実践しやすいという意味ではなくて、人間の頭にはわかりやすいという意味です。なぜなら、人間が主語ですから、人間の頭で、人間の範疇で考えられるということです。しかし、神の愛となると主語は神さまですから、雲をつかむようで、わたしたち人間にはどのようなものかわかりません。神さまというのは人間の理解を超えておられます。ですから、イエスさまはその神さまの愛を人間に説くときに、それを神の国、神の支配といい、すべてたとえで話されました。

たとえで話すということは、人間のことばでは説明できないので、たとえで話すということです。それを、現代では宗教学的には神話といいます。神話というと、科学的に証明できない作り話、夢物語だというふうにとらえられるかもしれません。しかし、そのように考えるようになったのは、科学が発達して、実証できるものがすべてであると考え、特に科学的、歴史的に証明できないものはすべて真実ではないと考える近代主義の風潮が広まった19世紀頃からです。しかし、20世紀になって、神話とは人間の理性的な言語で表現し得ない、根源的な真理を語る言語であるという発見がされていきます。それで、知性で表現できない真理をお伽話ふうにいうのです。お伽話ふうにいうのは、そのようにいわないといえない深い真理があるという意味であって、そのことは作り話だとか、嘘だとか、事実でないとか、科学的根拠がないとかそういうことを問題にしているのではないのです。人間の世界のことなら、理屈でいえばわかります。聖書はそのような種類の話ではないのです。わたしたちの根源的な真理について解き明かそうとする書物なのです。たとえ、いのちの真実についていくら理屈で説明されても、科学的にDNAがどうのといわれても、そこに本当の救いも喜びも感じられません。しかし、人間のことばを超えたことばで話されるとき、わたしたちはやっと心動かされ、人間の闇という迷いから目覚めることができるのです。

それは、わたしが主語にならない世界、わたしが絶えた世界であるといえばいいかも知れません。わたしが神を愛する、わたしが隣人を愛するではなくて、神さまがわたしを無条件で愛しておられる、イエスさまが伝えたかったことはそれだけではないでしょうか。わたしたちはよいことをすればするほど、よいことを考えれば考えるほど、わたしは正しいとおもってしまいます。しかし、わたしは正しいとおもったとたんに、それは邪見となってしまいます。人間の考えるものはすべて正見とはいえません。わたしたちのものの見方は、どんなに学問がある人の見方でも、どんなに誠実な正しい人のものの見方でも、どんなに心優しい人のものの見方でも、皆自分を中心にしてものを見ている限り、それは正しいものの見方であるとはいえません。ですから、どれだけ頑張って神さまを愛そうと、どれだけ誠実に隣人を愛そうとも、それは神さまの愛に及ぶことなどあり得ないのです。イエスさまの説かれたのは、人知の及ぶことのない神さまの愛でした。その愛は、「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分のいのちをささげるために来た」といわれる愛です。その愛を、イエスさまはご自身の生き様で示されました。わたしがどのように神さまを愛するとか、わたしがどのように隣人を愛するとか、自分にしてほしいと思うことを人にするといった、自分を中心にした愛とイエスさまの生きられた愛は同じものではないのです。人間中心の現代人には、そのことを理解するのが難しくなってしまっています。

確かに旧約聖書の中にも神さまの愛の啓示があるのでしょうが、人間が理解したことは律法と預言者を中心とした人間側が律法を守ることで神さまと隣人への愛を実行することでした。いずれにしても、人間の次元のことが問題にされ続けてきました。それが、神さまへの愛か隣人愛のどちらが大切かというような議論になったり、祈りか活動かという議論にもなったりしてきました。これが、長年教会が陥ってしまった、すべてを人間の業に還元するという人間中心主義です。神への愛も隣人への愛も、所詮は人間が主語になっており、その是非を議論すること自体意味がないとはいいませんが、それは宗教ではなく道徳の問題です。そこで根本的に欠如しているのは、神さまのわたしへの愛です。神の愛は、わたしを無条件で平等に救う、わたしをゆるす、わたしを守る、わたしを助ける神さま、イエスさまのわたしへの働きすべてを指しています。その働きが神の国であり、神の働きであり、聖霊の働き、イエスさまの働きなのです。その神さまの働きなしにして、人間の何かがあるはずがありません。前提そのものが異なっているのです。そのことをパウロは「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました(ロマ5:8)」とか、ヨハネは「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛してくださった(Ⅰヨハネ4:10)」というふうに表現しました。わたしたち人間が出発点にはなることではないのです。神の愛なしにはわたしたちは存在しえないのです。それがエフェソ書になると「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して…(1:4)」と深められていきます。愛は永遠ですから、愛する神も永遠、愛されるわたしたちも永遠であるということが暗にほのめかされていきます。愛は、愛するものと愛されるものがありますが、その本質は“いつ”です。愛の本質においては、愛し愛されるという区別さえもないということなのです。イエスさまは、このような大きないのちの世界、愛の世界をわたしたちに、神の国として示されたのです。そのようなものがわたしたちの頭でわかるはずがありません。だから、たとえで話され、神話という手法が使われていったのです。わたしが頭でわかり、納得してわたしが信じることが宗教ではないのです。わたしたちが触れることのできない神秘への感覚、それが宗教なのです。

年間第29主日 勧めのことば

年間第29主日 福音朗読 マタイ22章15~21節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の箇所は共観福音書のマタイ、マルコ、ルカに並行箇所のある朗読です。ファリサイ人とヘロデ派という2つのグループが出てきますが、この2つのグループは通常は行き来をしない人たちです。しかし、イエスさまを罠に陥れるという自分たちの利害のためであれば仲良くなるという、人間の醜い姿が描かれていきます。

ファリサイ人たちは、律法に徹底的に従う生き方を追求した人たちであり、ローマ皇帝を神として信奉するローマ帝国の支配は律法の遵守を妨げていると考えていました。ですから、皇帝に税金を納めることをよしとしませんでした。それに対するヘロデ派というのは、ローマ帝国による傀儡政権であるヘロデ王家を支持する人たちですから、当然皇帝に税金を納めることをよしとしていました。そのような主義主張が異なる2つのグループは、決して行動を共にすることはなかったのです。しかし、自分たちにとって都合の悪いイエスという人物を陥れるためであれば、協力し合ったという事実が描かれています。このようなことは、人間の世界にはいくらでも起こることなのです。初代教会でステファノの殉教の直後に起こった迫害においても、12使徒のグループだけは迫害を免れており、ディアスポラと呼ばれた国外居住のユダヤ人の弟子たちが迫害されています。日本26聖人の殉教のときも、フランシスコ会士は逮捕されていますが、イエズス会は迫害を免れています。

今日の物語で、イエスさまを罠にはめようとした人たちの挑発に対して、イエスさまは彼らの土俵には乗られませんでした。彼らは人間の欲と思惑の中に生きていましたが、イエスさまはその質問を逆手にとって、そのように生きている彼らの土俵自体を問われたのです。それが「これはだれの肖像と銘か」という問いです。通常貨幣には、その国の銘と肖像や国家権力を象徴するものが刻印されています。つまり、その貨幣はその国でだけ通用する価値観であったり、文化や思想をも表しているのです。それによって、その貨幣がその国のものであることを主張するわけです。その貨幣がその国のものであれば、当然その貨幣はその国に所属するものです。デナリオン銀貨には神である皇帝の銘が刻まれています。皇帝の銘が刻まれているのであれば、そのデナリオン銀貨は皇帝のものです。それでは、あなたがたは一体だれのものか、何者かということが問われているのです。ですから、今日のテーマはわたしたち人間、そしてこの世界、すべてのものは一体なんであるかという問いなのです。それが皇帝から来ているのであれば皇帝に返しなさい。もし、これが神から来ているのであれば神に返しなさいということです。わたしたちは、このわたしを、この世界を、この宇宙をどのように理解しているのかということが問われているのです。

一般的な聖書の世界観では、創造主が天地万物を創造していのちを与え、被造物の頂点として人間を創造し、他の被造物を人間の支配に委ねたと考えられてきました。モーセ5書はいくつかの伝承で構成されていますが、創世記の天地創造の記述は、紀元前4世紀に成立した比較的新しい祭司伝承と、もっとも古いといわれているヤーウェ伝承によって構成されています。特に人間を万物の頂点として考えるものは、祭司伝承によっています。しかし、創世記の中心的なメッセージは、神がすべてのいのちあるものの源であり、いのちそのものであるということを述べようとするものです。人間とこの世界、他の被造物との間に優劣をつけるという考え方は、聖書の中でも後代のものであるといえます。しかしながら、人類が万物の霊長であって、神に代わって他の被造物を支配し利用するという考え方は、ユダヤ教、キリスト教の中で主要な教えとして広まっていきました。この土地はわたしたちの先祖が神からもらった土地だというユダヤ教のシオニズムは、まさにそのような世界観に基づいているのです。そして、その発想がヨーロッパ世界に広がっていき、国家が築かれ、キリスト教的世界観に基づいた社会が作られていきます。その発想が大航海時代、植民地政策、産業革命を引き起こし、その世界観が現代世界の主要な価値観になっていきました。日本も明治以降、そのような世界観に飲まれていきます。現在のSDGsという発想も、よい点もありますが、所詮ヨーロッパ由来のものであり、この自然界を人間に都合よくコントロールしようとする人間中心主義の世界観から出てきたものです。

しかし、イエスさまの思いは、このものの銘はだれのものか、これは誰のものかという人間中心主義の発想ではありません。そもそも、あなたがた生きとし生けるもののいのちの根源は何かということを、イエスさまは問われたのではないでしょうか。あなたがたは、このコインの銘をたずねている、つまり誰の所有物であるかをたずねているが、この宇宙にユダヤ人のもの、ローマ皇帝のもの、人間のもの、わたしのものといえるものがあるのかということを聞いておられるのです。そして、わたしのものだと主張しているあなたは一体何者かを問うておられるのです。

わたしたちは、自分の思い通りになるものをわたしのものであると思い込んで生きています。そして、わたしのものと思うものの範囲を広げていくことを人類の進歩、成長と教育されてきました。そこまでいかなくても、わたしたちはこういうことができる、こういうものをもっている、こういう資格をもっているということがわたしの価値を決めるかのように考えています。ですから、小さいときから、何かができたということを褒められ、優劣、競争の中で、人よりできること、より優れていることを求められ続けてきました。しかし、わたしたちが呼吸をしたり、心臓が動いたり、血液が流れたりというもっとも基本的なこと、生きているということを、わたしは自分の力では何もできないのです。そして、わたしは空気、水、光、食べ物、飲み物等それらなくしては、生きられない存在なのです。わたしは、わたしだけではわたしになれない、わたしになることさえできない存在なのです。それなのに、わたしをわたしでないものと区別して、区別したものをわたしのものであると勘違いして、その範囲を広げようとしているのがわたしなのです。わたしは、元々わたしだけでは生きられない、この世界、宇宙そのものの中に根を張って存在しているのがわたしです。この世界、この宇宙なしにはわたしは存在することができないのです。その世界を、その宇宙をわたしのものであると主張し続けているわたしがいるのです。もともと、わたしとわたしが区別しているものとは別のものではありません。わたしが区別しているだけであって、わけることができないひとつのいのちである、それが「神のものは、神に返しなさい」といわれたことなのです。

そのことをわたしたち日本人は、わたしたちが生きているのではなくて、「いかされている」とか「いかしていただいてる」といっていました。わたしが自分で生きていると主張する現代の世界観ではなく、イエスさまは、わたしたちは生かされているのだと仰っているのです。日本では、わたしが働きますとはいわないで、「働かせていただきます」とか「働かさせていただきます」といいます。それは、俺が自分の力で働いて稼いで、その金で食べているんだというのではなく、わたしが働けるのも、食べられるのも、すべて大自然の力や人々の助けのおかげさまと感じているということなのではないでしょうか。だから、わたしが食べるとはいわないで、「食べさせていただきます」、すなわち「いただきます」といっていのちをいただく、食事をするのです。食べさせていただけるのも、太陽、雨、空気、大地、それを育てる人、運ぶ人、商う人などいろいろなものや人の手を借りて、わたしのもとにいのちが届けられているということを知っているので、俺が自分の力で稼いで、その金で食っているとはいわないのです。そこには、これは誰のものだ、わたしのものだ、俺のものだという発想がありません。すべていただいたものなのです。これは、古来日本人が生きてきたことなのです。イエスさまは「皇帝は皇帝に、神のものは神に」ということで、創世記に描かれている本来のいのちの世界を示されたということができるのではないでしょうか。

年間第28主日 勧めのことば

年間第28主日 福音朗読 マタイ22章1~14節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の福音では、神の国が遍くすべての人に及ぶ救い、善人悪人を超えた救いであることが語られています。新約の時代になって、婚礼に招かれているのは、あらかじめ用意ができているふさわしい人たちだけではなくなりました。そのことが、町の大通りにいって見かけたものは、善人も悪人も皆、婚宴の食事に招くこととして示されています。イエスさまの説く救いは、善人悪人という区別を超えたものであることがはっきりといわれているのです。しかし、ここで問題にされていることは、婚礼の礼服を着ていないものがいたということです。この婚礼の礼服についてはいくつかの解釈があり、一般的には神の国に入るためにふさわしい行いのことであると聖書学者たちは説明しています。善人悪人を問わないといっていながら、神の国に入るためのふさわしい行いが改めて問われるのはどうしてでしょうか。善人悪人を問わないといいつつ、また行いのふさわしさを問うというのであれば、自己矛盾に陥ってしまわないでしょうか。今日はこの問題を考えていきましょう。

今日の福音書の結びのことばは「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」となっています。これをみると、誰もが無条件に救われるわけではないと主張しているとしか読めません。これでは、すべての人の救いを説くという福音の教えにすでに矛盾があるわけです。実は、無条件の救いを理解することは非常に難しく、教会の中では、救いのために必要な条件として2つの考え方がいわれるようになっていきました。ひとつはパウロに代表される「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みによって無償で義とされるのです…人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰による(ロマ3:24~)」と述べて、救いに必要なのは行いではなく、(わたしの)信仰だと主張しました。その一方で、ヤコブは「行いの伴わない信仰は役に立たない(ヤコブ2:20)」として信仰に基づいた行いの重要性を説きました。この信仰か行いかという論争がなぜ起こったのかというと、信仰のみといえば、行いはどうでもよく、信仰者としてふさわしくない行動を取る人が現れるかもしれない。また、行いも必要だといえば信仰の必要性よりも、もっぱら行いに目を向けるファリサイ主義に陥る危険性がある。このことは教会の中で、行いか信仰かというカトリックとプロテスタントの長年の議論ともなっていったわけです。しかし、ここで指摘しなければならないのは、信仰か行いかという議論自体が、人間の次元での議論になっているということです。善人も悪人も救われる、つまり救いは人間の信じるという行為や人間の行いに関係ないといっておきながら、今日の福音では、婚礼のための礼服は神の国に入るためにふさわしい行いであると解釈されていることです。これは、人間の善悪を問わないといっておきながら、結局は人間の行いをふさわしいふさわしくないと区別して、招かれた人の中に、ふさわしいふさわしくないという善悪の基準を作り出していること、神の招きと選びの線引きをするという根本的な矛盾を作り出しているということです。

結局は、人間の救いを、善人悪人を問わない一切平等の救いであるといいながら、ふさわしいふさわしくないという区別を作り出し、人間としてよいものとなって救われていくのだという振り出しに戻っているということです。人間は何が善で悪であるかわからないのにも関わらず、自分はよい人でありたい、どこかでよい人になって救われていく、悪いことをすれば救われないというふうに、わたしの善悪に捉われている姿が繰り返し現れてきています。わたしたちは宗教を聞けば、善悪がはっきりすると考えていますが、むしろ宗教を求めれば求めるほど、善人でいきたいとおもっていても、自分の身を自分で決められない我が身が知らされるのではないでしょうか。もし、今、わたしが善人の顔ができているとしても、それはたまたまであって、状況が変われば何をしでかすかわからないのがわたしの身です。わたしたちは、他の人たちが救われなくても自分は救われると思っています。しかし、これは本当の自分の姿を知らないだけであって、わたしたちがイエスさまとの関わりを深めていけばいくほど、世界中の人が救われても、わたしは救われないということが見えてくるのです。もし、その自覚がないのであれば、わたしの信仰生活はほとんど進んでいないということになります。わたしたちは、わたしはまともだと思っている、わたしは婚宴に招かれて、ふさわしい礼服を身に着けていると思っている、これこそがわたしたちの迷いなのです。

わたしたちがどれだけ熱心に信じても、わたしたちがどれだけ善行を重ねたとしても、それは人間の業でしかないのです。わたしの信仰も、わたしの行いもそれは所詮人間が作り出したものであって、それは人間の私利私欲にまみれたものでしかありません。それを信仰か行いかといって議論していることこそが、愚かな人間の迷いに他ならないのです。人間の迷いとはわたしの心の問題に留まっていることです。  

わたしたちは、わたしの信仰によって、わたしの行いによって救われるのではありません。教会は、「律法の実行によってではなく、キリストへの信仰によって義とされる(ガラテア2:16)」と教えてきました。つまりイエスさまを信じるというわたしの行為が、救いの条件であると教えてきたのです。しかし、「キリストへの信仰によって義とされる」という訳は、信じる主体としてのわたしを主語として訳すのではなく、救う主体であるキリストを主語として「キリストの信仰によって義とされる」と訳されるべきであるということが、近年の聖書学でいわれています。わたしたちは、「キリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みによって無償で義とされる」のであって、わたしがイエスさまを信じるというわたしの行いによって義とされるのではないのです。「キリストの信仰による」救いというのは、イエスさまがわたしを必ず救うと誓われたその願い、その誠実によって、わたしたちは救われるという意味なのです。わたしが救われるのは、救われるためのふさわしい行いや、救われるためのふさわしく信じるというわたしの行いによるのではないのです。救われるためのふさわしい行いも、救われるためのふさわしいわたしの信仰も、わたしが基準になっているだけで、イエスさまの救いの根拠にはならないのです。

パウロが「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みによって無償で義とされる」といったことを、初代教会でさえも理解することが難しかったというのが現実だと思います。結局、パウロの手紙のほぼ30年後に書かれたマタイ福音書においては、人間が救われるための条件として、救われるためにふさわしい行いという概念を導入してくるのです。そして信仰も、神さまがわたしを救うと仰っている、神さまのわたしへの信仰ではなく、わたしの神さまへの信仰と読み替えられていくようになっていきます。それほど、イエスさまの語られた神の国の福音、遍くすべてのものが救われるということは人々には理解しがたく、受け入れることが困難であったということです。ですから、ファイリサイ人で律法の遵守や信仰生活に人一倍熱心であったパウロが、もはや律法を守るという人間の行いによって、自分の信仰心によって義とされるのではなく、イエスさまの信仰、イエスさまがすべての人を救うと誓われたイエスさまの誠実によって義とされるのだと宣言するときの力強さは有無をいわせない力があります。パウロの「キリストへの信仰」と訳されてきたピステスという言葉は、「キリストの誠実」、「キリストの真実」と訳すべき言葉です。それを教会は2千年の間、「キリストへの信仰」と訳し続け、救いのために必要な人間の信じる行為、また人間の行いを強調し続け、イエスさまの救いの真実を覆い隠してきたということは謙虚に認めなければならないと思います。救いを、人間の手から、教会の手から、イエスさまにお返ししなければならないのです。イエスさまの真実-善人悪人を超えた遍く救い-に、今日、わたしたちを真に気づかせてくださるよう恵みを願いましょう。