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主の洗礼 勧めのことば

主の洗礼 福音朗読 ルカ3章15~16,21~22節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

ルカ福音書における主の洗礼の特徴は、洗礼者ヨハネはすでに投獄されているので(3:20)、イエスさまの洗礼は過去の出来事の思い出として描かれている点です。その記述は非常にシンプルです。そしてイエスさまの洗礼の記述のあとに、イエスの系図が描かれていきます(3:23~38)。マタイ福音書では冒頭に系図が置かれているのに対し、ルカではイエスさまの誕生物語のあとに系図が置かれています。ルカの系図とマタイの系図の違いを見てみると、その意図が見えてきます。マタイの系図は、ヨゼフの系図でアブラハムを起源としています。ですからイエスさまはユダヤ人という一民族の枠組みのなかに誕生し、ユダヤ人を通して人類に救いが広がっていくという視点で描かれています。しかし、ルカの系図は人類の系図で、アダムを通して神にまで遡ります。それによってイエスさまはユダヤ人という枠組みからではなく、初めから人類の救い主であることが強調されます。実は、ルカの誕生物語では、イエスさまはユダヤ人という境遇のなかに誕生しますが、ヨゼフともマリアとも血の繋がりがない、つまりユダヤ人としてではなく「人類」として誕生されたのだということをいおうとしているのだということなのです。ですからイエスさまはユダヤ人の環境の中に生まれますが、アダムの血統まで溯ることによって、ユダヤ人としてではなく、「人類の代表」として誕生したのだといおうとしているということです。その点からイエスさまの洗礼の箇所を読み直していきたいと思います。

 「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると」という記述から始まります。ここで、「イエス『も』」と書くことで民衆とイエスさまが並列に描かれています。ここからもイエスさまは、人類の代表として洗礼を受けられたのだということがわかります。そこからわかることは、「イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降ってきた。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」という出来事は、民衆に、つまり全人類に起こっている出来事であるということなのです。それでは、その中身を詳しくみていきましょう。

ここで「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」ということばを聞くと、わたしたちはイエスさまの神の子としての適性がいわれているんだという意味に捉えてしまいます。しかし、原文はメシア詩編と呼ばれている詩編2の7節の「あなたはわたしの子、わたしは今日、あなたを生んだ(詩編2:7)」の箇所を意識しており、「あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜びとする」とも訳せる箇所です。イエスさまは、神の子として相応しいとか、適性があるとか、資格があるというような意味ではなく、イエスさまは何であっても何でなくても神さまの喜びであるということなのです。それはまさに親が我が子を自分の喜びとするその感覚です。ヨハネ福音書では、全人類、つまりわたしたちについて「この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである(1:13)」とのべ、全人類が、つまりわたしたちは神によって生まれたものであるということをあきらかにします。神から生まれたのですから、わたしたちは神の子といわれます。人間の考え得るなかでは、生むものと生まれるものとの関係は親と子ですから、神が生むなら、生む神は親で、生まれたものは神の子となるわけです。イエスさまの洗礼の記述のなかで、イエスさまは「あなたはわたしの愛する子」といわれているわけですから、神から生まれたわたしたちも神の子であり、神の喜びであるということになります。ですからこのことばはイエスさまだけにではなく、わたしたち全人類、そしてわたし自身に宛てられているということです。

これはエフェソ書でいわれていることと同じです。「わたしたちの主イエス・キリストの父である神はほめたたえられますように…天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、ご自分の前で聖なる者、汚れのないものにしょうと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子としようと、御心のままに前もってお定めになったのです(1:3~5)」。ここでは、わたしたち全人類は天地創造の前に、イエスさまにおいて神の子として定められていたということがはっきりとのべられています。洗礼のときではなく、天地創造の前、つまり永遠においてわたしたちは「すでに神の子(Ⅰヨハネ3:2)」とされているのです。聖書のなかで度々出てくる「選ぶ」ということばは、今日のイエスさまの洗礼の箇所でも訳されている「適う者」というような意味として理解されてしまい、多くのものがいてそのなかから相応しいもの、適性があるものが選抜されたというように捉えてしまいます。しかし、聖書の中の「選ぶ」ということは、何かを排除し何かを区別して、それ以外のものを取捨選択するという意味ではなく、「生む」ということばのもっているような無条件でおこなわれる行為自体を現します。つまり「選ぶ」ということばは、「愛する」ということばと同義語であるということなのです。ですから、わたしたち全人類は人類であるということにおいて神から生まれ、神から選ばれ愛されているということです。そこに適正とか、条件は求められません。幼児洗礼というのはそのような観点からおこなわれてきました。赤ちゃんには何の資格も、適正も求められません。まさに、そのままでということなのです。

ですから、わたしたちが洗礼を受けるということによって、何か特別に選び取られるという意味ではなく、救われるものの集いに入るという意味でもありません。確かにそのように教え方、そのようなことが強調されてもきました。しかし、洗礼とは、ただイエスさまが洗礼のときに聞かれた声、「あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを生んだ。わたしはあなたを喜びとする」という声を、わたしたちが聞くことに他なりません。これは、洗礼によってわたしたちは神の子になるのではなく、洗礼のときにわたしたちは天地創造の前にイエスさまにおいて愛されて、神の子とされているという永遠の真実があきらかにされるということなのです。これが人類の本来の姿なのだということなのです。そのあきらかなしるし、イエスさまの「あなたはわたしの愛する子である」という名乗り、これがわたしたちが洗礼を受けたということなのです。今日、イエスさまの洗礼の祝日にあたり、改めてわたしたち人類の、そしてわたしの本来の姿がわたしのなかであきらかにされていく恵みを願いましょう。このようなわたしたちの本来の姿があきらかにされていくこと、それを福音宣教といい、この本来の姿に目覚めることを、わたしたちは召命と呼ぶのです。

主の公現 勧めのことば

主の公現 福音朗読 マタイ2章1~12節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

主の公現は1月6日に祝われてきました。その起源は、冬至の太陽神の祭りをキリスト教化した降誕祭より古く、イエスさまの人類への現れ(エピファニア)を記念するものとして、4世紀にエジプトで祝われてきました。古代教会で主の降誕を祝うという習慣はなく、占星術の学者の訪問、主の洗礼、カナの婚礼での最初の奇跡を、イエスさまの人類への公(おおやけ)の現れとして祝ってきました。主の降誕もそうなのですが、イエスさまの誕生を祝うというよりも、人類を照らす光としてのイエスさまの訪れ、到来を祝うところに中心があります。主の降誕夜半のミサのイザヤ書でも「闇に住む民は、大いなる光を見、死の影の地に住む者の上に、光が輝いた」と述べられ、イエスさまは闇を照らす光であると説明していきます。そのように、光が光として意識されるのは、闇のなかにおいてなのです。イエスさまは全人類の救い主ですから、その光はいつの時代も、どの時間、どの場所にいる人にも等しく注がれているはずです。しかし、昼間に光というものは意識されません。イエスさまをわたしの救い主として意識できるのは、わたしが闇を体験しているとき、わたしが闇のなかにいるときです。光に気づかされるのは暗闇においてなのです。

それでは、今日の福音のなかでイエスさまはどのように光として意識されたのでしょうか。主の降誕では、イエスさまの誕生はまず羊飼いたちに告げ知らされますが、今日は占星術の学者が登場します。羊飼いたちというのは、当時は賤しい人々、堕落した罪人の代表でした。ある意味で闇を生きている人たちだったわけです。それでは、東からやってきたといわれる占星術の学者というのはどういう人たちでしょうか。日本では東の方角は日が昇るというよいイメージがありますが、ユダヤの世界では東によいイメージはありません。地形的にもエルサレムの東は、ヨルダン川が注ぐ死海があり、死海の東岸には砂漠が広がっていて、不毛、死の土地のイメージです。旧約聖書のなかでも、東風が吹くと植物が枯れるとか、東風に乗っていなごが押し寄せるという記述があり、東にいいイメージはありません。占星術の学者とありますが、原文は「マゴイ」であり、学者でも王でもなくて、星占いをする祈祷師です。祈祷師は、人の悩みを聞き、その人たちの心身のケアに携わる人たちでした。人生に疲れ悩み苦しむ人、その多くの人たちは病人や悪霊に憑かれた人たちで、マゴイはその彼らと関わったわけです。

当時、病人や悪霊に憑かれた人たちは、律法を守らず罪を犯して病気になったもの、汚れたもの、罪人と考えられていました。マゴイは、その彼らの病や苦しみに関わっていく、それを仕事としているわけですから、自分も汚れに触れることになります。善きサマリア人のたとえで、祭司やレビ人が半殺しになった血だらけの旅人に触れようとしなかったのは、彼らが無慈悲で血も涙もない冷血漢であったからではありません。その旅人は同胞でしたが、彼に触れることは血や傷に触れることになり、それによって自分が汚れて宗教上の務めを果たすのができなくなるのを恐れてのことでした。ユダヤ人にとって律法は神の掟であり、明らかな神のみ旨、神の意志ですから、これを守らないということはあり得ませんでした。律法というものは絶対であって、彼らは神の掟を守るために、同胞を見捨てざるを得なかったのです。このような宗教が果たしてまことの宗教か、イエスさまはそこを問題視していかれたのです。ここに出てくる占星術の学者も、東から来たいかがわしい祈祷師でしかなかったのです。ですから、ユダヤ人から見たら異邦人であり、罪深い仕事を生業としている人たちであったわけです。その事実に目を閉じて、東方から来た3人の王(カスパー、メルキオール、バルタザール)などといった美しい伝承を作り上げて、主の公現を神聖化してしまいます。ここに、真実を見ようとしない人間の愚かさがでてきます。

元々マタイ福音書は、ユダヤ人でキリスト教になった人たちのために書かれました。ですから、彼らがこの物語を読んだとき、占星術の学者がどのような人たちであるか、すぐにわかったわけです。そして、イエスさまはユダヤ人の救い主であるのだけでなく、全人類の救い主であり、それもユダヤ人が考える救いからもっとも遠いとされてきた人々、異邦人、堕落した罪人であるとされた人たちの救い主であることを理解できたのです。しかし、そもそもわたしたちが光を意識できるのは闇においてです。昼間にお日さまの光を、強烈な形で意識することはありません。わたしたち日本人は、日の光は暖かい穏やかな明るい日向、生きとし生けるものを育みいつくしむ光として捉えます。しかし、ユダヤの世界では、お日様は必ずしも良いイメージではなく、干ばつ、日照り、厳しい日差しなどを連想させる負のイメージもあるのです。しかし、日の光がない暗闇においてはすべてが闇に包まれ、何も見えないわけです。そこには希望も救いも何もないわけです。それこそ、どのように助けを求めればいいのかさえわからないほどの暗さであるということなのです。そのような、わたしたちの極度の惨めさ、弱さ、貧しさ、辛さの中では、光はわたしたちを優しくいつくしむ光というより、わたしたちの闇も罪も汚れもすべてを貫き通す光、何ものをも区別差別しない光、わたしたちのすべてを焼き尽くし、浄める激しい火のような光として体験されるのではないでしょうか。暖かい日向の光しか知らない人にとっては、その光は思いもおよばぬものかもしれません。闇のなかでその光を体験した人が、イエスさまがまことの光であることを証しすることができるのではないのではないでしょうか。ですから、イエスさまの誕生、この世界への現れは、誰からも期待されない、相手にもされない、見捨てられた羊飼いや異邦人の占星術者に告げ知らされたのです。わたしたちが、祝っているクリスマスの風景とはなんと異なっていることでしょうか。

わたしたち人間は自分より弱い、小さい、貧しい人々を作り出すことで、また相手をそのように見なすことで自己肯定しようとします。「自分よりもっと大変な人がいる」とか、「あなたよりもっと苦しんでいる人がいる」というようないい方は、一見するともっともらしく聞こえます。しかし、わたしの苦しみはわたしの苦しみであって、他の誰よりはましだとか、誰より大変だとかいえるようなものではないのです。ユダヤの社会だけではなく、現代社会も同じように、掟や道徳を守れる人と守れない人、弱い人と強い人、勝ち組と負け組というような上下優劣を作り出して、そこに自分を位置づけて自分を肯定しようとします。その価値観、その考え方こそが、まさにわたしたち人間の抱えているわたしの闇であり、わたしが堕落しているのだというところに思いが至りません。だから、人間はとかくすると援助することで、無意識に上位に立ちたがります。援助すること自体は大切なのですが、そこには大きな危険が潜んでいます。わたしたちがその危険から自由であるためには、わたし自身がイエスさまの助けをもっとも必要としている稀代の罪人であり、堕落しているものそのものであるという健全な自己認識が必要なのです。そして、そのような健全な自己認識は、イエスさまのあわれみの光に触れることによってしか得られません。イエスさまと出会えば、わたしはイエスさまにあわれんでいただくことしかない罪人であることがわかるのです。“ああ、ベトレヘムの羊飼いは、東方の星占いはわたしのことであったのだ”、ということに気づかされるのです。そのような気づきは、わたしたちを決して卑屈にはしません。むしろ、イエスさまが全人類の救い主、わたしの救い主であることを認め、人々と共生していけるようになるということだと思います。これが、本当の意味で、わたしたちが“ともに生きる”という意味なのです。

主の降誕(日中のミサ) 勧めのことば

主の降誕(日中のミサ)  福音朗読 ヨハネ1章1~18節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の福音は「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」と始まります。そもそも、ことばというものは何でしょうか。ことばの「こと」というのは音のことであり、音が意味をもったものがことばになるようです。ですから、ことばとは意味であるといってもいいと思います。わたしたちは普通にことばを使います。話すだけでなく、読んだり書いたりします。このことはよく考えてみると、非常に不思議なことです。わたしたちはいつどこで、ことばを使い始めたのでしょうか。自分のことを振り返ると、ことばを話す前の子どもであったとき、周りの大人や親から教わったといえるでしょう。しかし、その大人は誰から教わったのでしょうか。「オギャーオギャー」という音だけではことばになりません。音がことばになって意味がわかるようになるのですが、そもそもそのことばが何を意味するか皆がわかっていなければことばにはなりません。例えば神さまといったとき、神さまがいてもいなくても、皆はそれが何を意味しているかわかります。では、皆がわかっているそのことばの意味をだれが決めたのでしょうか。このようなことばの意味の不思議さに気づいた人が、「初めにことばがあった」といい、ことばはわたしが生まれる前より、人間がこの世界に誕生する前に、この世界や宇宙が誕生する前からあったといったのです。ですからその「ことばは神であった」といったのでしょう。

科学が発展したこの世界において、人間はすべてがわかると思っています。しかし、このわかるということは、わたしたちがそのことの意味をわかっているということであり、そのことをわたしたちはことばでわかっているのです。そして頭の中で、ことばで考えて理解しているのであり、ことばにならないものはわからないのであって、わたしたちがことばにすることで、わたしたちの世界が作られていきます。子どもがことばを覚えることで、自分の世界が広がっていく、その世界が作られていくのと同じです。現代人は見えるもの、理解できるものしか信じないといわれていますが、考えてみるとわたしたちは見えなくて、わからないものをずいぶん信じているわけです。愛情とか友情とかは目に見えませんが、それをことばにすることであたかもそれが実在するかのように信じているわけです。ですから、わたしたちはことばによって信じているともいえるのです。確かに友情も愛情も存在していますし、その意味でわたしたちはことばで信じており、ことばがわたしを生かしており、ことばはわたしそのものを作っているといっていいのかも知れません。人がことばを使っているようですが、実はことばが人を作っているのだといってもいいのはないでしょうか。

主の降誕はイエスさまの誕生を祝います。マタイ福音書では、「その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからです」といわれ、「その名はインマヌエル」といわれてもいます。イエスという名前は「わたしはあなたを救う」という意味であり、インマヌエルというのは「神は我らとともにおられる」という意味です。ヨハネがいおうとしていることは、先ずことばそのものというものがあって、わたしたちはそのことばによって創られて、そのことばによって生かされているのだということをいおうとしたのだと思います。そのことばそのものである方は、「わたしはあなたを救う」という方であり、「神は我らとともにおられる」といわれる方であるということをいおうとしているのでしょう。そして、そのことばは神であって、光であって、いのちであって、真理であって、恵みであるということをいおうとしているのです。

ことばが光であるということは、その光はすべての暗闇を照らす光であって、太陽のように影を作り出す光ではなく、影を作り出すことがなく、すべてのものを貫く光そのものであり、照らされないということがない、時間と空間を超えた光であるということを意味しています。わたしたちが理解できる光はすべて限界をもった光ですが、この光はこの世界、宇宙をあまねく照らし満たすような光であるということを意味しています。これが、ことばが光であるということの意味です。ですからこのような光はいのちそのものでもあるわけです。わたしたちが理解できるようないのちは、空間と時間の中にある限界をもったいのちですが、この世界にあまねく満ちる光であるいのちは、空間や時間に制約されるようないのちではありません。このいのちには限りがありませんから、永遠のいのちと呼ばれます。この世界は、このような永遠の光、永遠のいのちに満たされているのです。わたしたちはことばそのものが人間となること、つまりわたしたちのことばとなることで、その意味を知らせていただきました。ですから、この永遠の光、永遠のいのちはことばそのものであり、そのことばはこの世界、宇宙を満たしており、それをわたしたちは神と申し上げるのです。

このことばを通してわたしたちに知らせていただいたことが真実であり、真理なわけです。この真理はわたしたちが発見する前から、わたしたちがこの世界に誕生する前からあり、あきらかになっていることであって、わたしが信じる信じないに関係なく、わたしがわかるわからないに関係なく、この世界にあきらかにされており、この世界そのものであるところのものなのです。それがことば-イエスという方によってあきらかにされていくのです。このイエスという方は、「わたしはあなたを必ず救う」という方そのものであり、「わたしは世の終わりまであなたとともにいる」といわれる方なのです。わたしが、信じても信じなくても、わたしがキリスト者であろうとなかろうと、そんなことに一切関係なく、この世界の真実としてわたしたちとなって、この世にこられました。アウグスティヌスはこの真理のことを「おお、古くてまた新しい美、真理よ、わたしはあなたを知り愛することにあまりにも遅すぎました」と嘆いています。この真理に触れた人は、この真理に魅せられて、もはや自分の狭い了見や救いも罪も何もかも吹っ飛んでしまうのです。ことばの力が、わたしたちに日々働きかけ、今わたしのこころを動かすのです。ことばが世界を、宇宙を動かすのです。

イエスという名は、「わたしはあなたを必ず救う」という名、「わたしはあなたとともにいる」という名であり、そのことばがわたしたちのところにこられた、そのことばがわたしに届けられていることがあきらかにされたこと、それが主の降誕です。そして、わたしに届けられているその働きに気づくことが主の降誕を祝うこと、神の恵みというのです。「こうしたら救われる」「ああしたら救われる」というわたしのはからいの世界ではなく、ことばの受肉において、永遠においてすでに実現している真理と恵みに気づかせていただくとき、時間と空間を貫いてわたしの中に永遠が入ってくるというか、今わたしが永遠の中にいることに気づくこと、そのことが救いなのです。これは2千年前の話でも、死んでからのことではありません。今、わたしに起こっていることなのです。ただそこのことを知らせるためにだけ、ことばは人間となられ、わたしたちの中にすべてがあることを教えてくださいました。救いは遠きにあるのではなく、わたしの中にあるのです。

(勧めのことばは主の公現から再開します。)

主の降誕(夜半のミサ) 勧めのことば

主の降誕(夜半のミサ) 福音朗読 ルカ2章1~14節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今は復活祭と並んで大きく祝われる降誕祭ですが、その起源は、ローマ帝国で行われていた冬至の祭りをキリスト教化したのが由来です。元来、古代教父たちはイエスの誕生ということに重きを置いていませんでした。むしろ降誕祭は、キリスト教が広まっていくなかで、人々の慣れ親しんだ冬至の太陽神の祭りをキリスト教化することで、民衆の支持を得るという政治的な意図で始まったものです。それが今では、キリスト教の2大祭日となっています。しかし主の降誕は、主の復活の視点から見なければ意味のないものになってしまいます。そもそも、初代教会はイエスさまの誕生について関心をもっていませんでした。マルコ福音書には、マリアの息子という記述以外、イエスさまの誕生についての一切の記述はありません。初代教会ではイエスさまの出自について、関心がなかったことが分かります。しかし、復活されたイエスさまとの出会いのなかで、人間イエスへの関心がその誕生、出自へと向かわせたというのはわかる気がします。しかし、教会が祝ってきたのは、イエスさまの誕生というより、人間の救いのために神が人類に関わってきた、受肉の神秘であるということです。ですから、降誕祭はイエスさまの誕生日ではなく、神さまの人類への関わりを祝うことが中心です。神が人間となることにより、人間が神の子とされる不可思議な“聖なる交換”を記念します。それでは、その中身がどのようなものであるかを見ていきましょう。

わたしたちは毎年祝うクリスマスのなかで、マリアとヨゼフに見守られた幼子イエス、ベトレヘムの貧しい馬小屋、羊飼いたち、天使たちの歌声など、その温かい心安らぐイメージに親しんでいます。しかし、主の降誕に登場するヨゼフとマリア、ベトレヘムの馬小屋、羊飼いたちは、当時のユダヤの社会のなかでもっとも弱い立場におかれ、貧しく堕落しているものの象徴でした。そもそも、イエスさまがベトレヘムで生まれたということ自体、後代の教会の伝承です。ヨゼフとマリアは人口調査のために本家の村に帰ったわけですが、マリアは出産間際であったのにかかわらず「泊まる場所がなかった」と書かれています。実家の村ですから、親戚や知り合いの家はいくらでもあったはずです。それにもかかわらず、宿屋さえみつけることができませんでした。これはどういうことでしょうか。これは、マリアの妊娠がヨゼフと関係のないものであるということを皆が知っていたということです。ユダヤの伝統では、家族や一族をとっても大切にします。ですから、妻が妊娠しておめでたで、実家に帰るといるというのであれば、一族上げて歓迎するわけです。しかし、ヨゼフたちを受け入れてくれる親族は誰もおらず、宿屋からも断られてしまいます。わたしたちは、マリアの妊娠は天使のお告げであることを知っていますが、当時の人々はマリアの子はヨゼフの子でない不義の子、罪の子であることを知っていたのでしょう。だから、律法に背いた堕落した罪人を受け入れれば、自分たちも汚れるとして、人々はヨゼフたちを受け入れようとしなかったのでしょう。そして、どこにも身を寄せるところがなく、イエスさまは家畜小屋で、“罪の子”として生まれてくるのです。このことを、先ずきちんと押さえておきましょう。

そして、わたしたちが慣れ親しんだ馬小屋も、決して暖かなものではありません。藁だらけの、糞だらけの家畜小屋です。そこでイエスさまは生まれるのです。生まれたばかりのイエスさまを寝かせるための暖かなベッドも布団もありません。家畜が餌を食べる、飼い葉桶に寝かされたと書かれています。家畜の餌皿に寝かされたということです。イエスさまの誕生は、誰からも祝福されない、望まれない、喜ばれない誕生であったということなのです。ヨゼフとマリアにしても、血の繋がりがない子どもの誕生を心から喜べたかどうかわかりません。聖書は淡々と描いていきますから、わたしたちはあまりにも綺麗なベトレヘムの馬小屋の風景に慣れてしまっています。しかしベトレヘムは、いくら金箔をはっても、所詮糞まみれなのです。それなのに、ベトレヘムを美化し、神話化し、崇高な物語のような話を作り上げてきました。糞に金箔をはっても、所詮糞なのです。でも、その糞まみれの現実のなかに来られたのがイエスさまだということなのです。だからこそ、イエスさまはすべての人の救い主であるのです。

 そして、イエスさまの誕生をはじめに知らされた羊飼いも、堕落した人間の代表でした。アブラハムの時代、羊飼いは、ユダヤ民族にとっては誇り高い仕事でした。しかし、カナンに定住していくと農耕牧畜生活に移行していき、そのなかで羊飼いをしている人たちは、本当に貧しい人々か、罪人と呼ばれる人たちでした。そもそも、羊飼いたちは移動して仕事をしていきますから、律法を守るということができません。羊飼いたちは、安息日を守れないのです。ですから、常習的に律法を破らざるを得ません。当時、そのような仕事をする人たちは罪人とみなされていました。生きていくためにどうしてもそのような仕事をしなければならない理由や貧しさを抱えているか、エルサレムなどの都市で犯罪に手を染め、堕ちるところまで堕ちた人たちがつく仕事が羊飼いであったわけです。彼らは生きていくために罪を犯さざるを得なかった人たちだったのです。そのような人たちとは、誰も交際しません。教会は正義と平和については取り上げます。そして、不正義や被害者のことについては考えますが、加害者となった人たちや生きるために罪を犯さざるを得ない人たちのことまで考えようとはしません。それは、自分は加害者にはならない、いわゆる罪人にならないと思っているからでしょう。しかし、イエスさまの誕生を最初に知らされた人たちというのは、社会からも宗教の世界からも堕落していると思われている人たちであったということなのです。わたしたちは、自分の境遇を選んで生まれてきたわけではありません。わたしたちが、今、キリスト者で教会に来ているとしたらそれは偶然であり、たまたまのことなのです。わたしの手柄でも努力の結果などでもありません。イエスさまは、そうしたすべての人の救い主なのです。

 浄土真宗の創始者の親鸞が、阿弥陀如来の本願は「りょうし(猟師、漁師)、商人、さまざまのもの(農民、武士など)は、みな、石、かわら、つぶてのごとくなるわれらなり」といわれました。当時、「りょうし(猟師、漁師)、商人、農民」は、仏教の殺生戒を守れない罪人とみなされていました。しかし、「りょうし(猟師、漁師)、商人、農民」の働きなくして、わたしたちは生きていくことはできません。わたしたち人間は皆、お互いさまで繋がっています。全人類はわたしなのです。ですから、そこでいわれる「われら」は他の誰かのことではなくて、この“わたし”のことなのです。神の子であるイエスさまは、まさに堕落し罪人であるこのわたしのために、不義の子、罪の子、怒りの子(エペソ2:3)としてこの世界に来られたのです。それはわたしたちをその暗闇から解放するためでした。それが、クリスマスの本当の意味なのです。自分だけ清くなってイエスさまを迎えようと思っている人のところにイエスさまは来ることはできません。わたしたちはいくら金箔をはっても、所詮は糞でしかないのです。イエスさまは、そのすべての人間の救いのために、この罪人であるわたしひとりのために、わたしのなかにお生まれになるのです。それが、真のクリスマスの意味であり、イエスさまの復活の意味でもあるのです。

待降節第4主日 勧めのことば

待降節第4主日 福音朗読 ルカ1章39~45節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は、マリアのエリザベットの訪問として祝われる箇所です。天使のお告げを受けたマリアは、従姉のエリザベットも妊娠していることも知らされます。そして、ナザレからはるばるユダヤの山地まで出かけていきます。この場面は、イエスさまを中心にしたマリア、エリザベット、ヨハネの絵画的な出会いとして描かれます。わたしたちは、この出来事をマリアさまの愛に溢れた物語として読んでしまいますが、現実はそんな簡単なものではありません。エリザベットは高齢で、もう子どもなど産めるような年齢ではありませんでした。マリアは、自分の予期せぬ妊娠を告げられて戸惑うばかりです。これは、問題を抱えた人たちが出会うという物語なのです。マリアとエリザベットは、問題を抱えた当事者同士であったということなのです。実はこれが、教会の本来の姿を現しているのだといえばよいと思います。

第2バチカン公会議を境に、教会は位階制度中心の教会から、交わりの教会へと自己理解が変わっていきました。それまでは、教皇を頂点とした制度としての教会、神秘体としての教会が強調されてきました。しかし、現実の教会は、位階制度を中心とした完全な美しい教会などではなく、かえってその制度ゆえに歪んだ、コンプライアンスを欠いた集まりとなってしまっていました。教会の現実は、生きたいのちの集まりであり、お互いに関わり合い、あるときはぶつかり合っていくのが当然のことであるといえるでしょう。教会はイエスさまを中心に集まっているとはいえ、人間の集まりである以上、選ばれた聖なる人たちの集まりではなく、罪人の集まりであり、お互いの弱さや限界を抱えた人間同士の集まりであることに変わりはありません。それを、変に理想化し幻想を抱かさえるような教会のイメージを教えることに問題があるのです。教会は、救いを求めている人たちの集まり、つまり問題を抱えた人間の集まりであるのです。そのことが、今日の福音で描かれているのです。それは、当事者の集まりであるといえるのではないかと思います。

多くの人たちは、キリスト教や教会に人生の救いや問題の解決を求めます。また、この宗教を信じれば問題がなくなり、人生に安らぎが得られるというふうに考え、またそのように期待している人が少なくありません。もちろん入り口としてそのようなこともあるとは思いますが、それが表面的なところだけに留まってしまえば、健全な宗教のあり方であるとはいえないと思います。宗ということばは、ものごとの中心、要となるものの意味であり、つまり真実、真理を意味しているといわれます。ですから、宗教本来の役割は、人々を楽にしていくのではなく、人々に真実を突き付けていくこと、真実を明らかにしていくことだといえます。マリアは3か月ほどエリザベットのところに滞在して帰っていったと書かれています。マリアとエリザベットは、当事者同士として、自分たちの抱えている状況や問題を毎日語り合ったでしょう。それで問題は解決したのでしょうか。答えは「いいえ」です。望まない妊娠をしたマリアの立場は何も改善されることもなく、エリザベットの状況も何も変わったわけではありません。解決は何もなかったのです。ここからいえることは、キリスト教や教会に問題解決や人間的な救いを求めてもダメなことがわかります。そういうと、もともこもないといわれるかもしれませんが、宗教自体にそのような解決を求めているのであれば、現世利益を求めているのと変わりません。

それでは、2人は3か月間、毎日生活をともにして語り合って、やっぱり自分たちはどうしようもないといって肩を落として帰っていったのかというとそうではないと思います。2人は、お互いの課題について腹を割って話していくことで、自分たちに突き付けられた現実を受け入れていったのではないでしょうか。マリアは望まない妊娠をしたという事実を受け入れ、エリザベットも超高齢妊娠という事実を受け入れて、明日に向かって歩き始めたのだと思います。宗教とはその人を救って楽にするのではなく、その人の身に起こっている現実とその人を直面させ、そこから立ち上がらせていくということではないでしょうか。わたしたちは苦しいとき、自分でどうすることもできないとき、その解決を求めて、またその答えを探して宗教に助けを求めます。しかし、宗教は必ずしもわたしたちの望むような答えを与えてくれることはありません。むしろ、わたしたちの望む答えを出してくれるとしたら、その宗教には注意しなければなりません。宗教は、わたしたちに真実を明らかにするものです。わたしたちの苦しみの多くは、病でもわたしが抱えている問題でもありません。その多くは、わたしが自分の身に起こっている現実を受け入れられないことからくる苦しみです。病人が、自分が病気であることを受け入れようとしないのであれば、病気の治療を始めることすらできないのと同じです。勿論解決できる問題であれば、できる限り解決していかなければなりません。そして、その状況は当事者同士で話し合い、語り合っていくことで大きく動いていくということがあります。

その一方で、当事者でない人間は、当事者のことを分かっているつもりになって同情するということが起こります。しかし、当事者でないわたしたちはどこまでいっても相手の身にはなれない、相手のことを理解することなど不可能なのだということを知っておく必要もあると思います。むしろ、相手のことを自分は理解できるとか、相手の身になれると安易に思うことが、相手を傷つけてしまいます。心理学者の河合隼雄は「人の心がいかにわからないかということを、確信している」ことが人間理解のための前提であるといっています。

ですから当事者同士が苦しみや問題を話し合うこと、そして、教えるとか援助するという立場ではなく、そこにただ同伴する人の存在が大切になってくるのだと思います。マリアとエリザベットの間には、神の子であるイエスさまがおられました。イエスさまは、わたしたちの人生の光です。イエスさまという光のもので、わたしたちは真実に直面し、置かれている現実と相対していくことができるのです。イエスさまなしの話し合い、分かち合いは、ただの愚痴のいい合い、傷のなめ合いに終わってしまうことがあります。現代の教会にもしできることがあるとしたら、このイエスさまを中心とした当事者の分かち合いの場になるということではないでしょうか。いろんな人がいろんな意見をもっていていいのです。正しい教えや正しい答えがあるのではありません。それぞれが自分の持論を戦い合わせるような議論では、所詮わたしの正義のぶつけ合いとなり、傷つけあうだけとなり、それは教会の姿ではないように思います。

宗教を信じるということで、わたしの苦しみが取り去られるというよりも、イエスさまの光を通してわたしの身に起こっている現実をわたしが受け入れていけるようになるということではないでしょうか。そして、そのことを通して、状況が動いていくのだといえるでしょう。わたしたちはイエスさまという光のもとに、自分というものを明らかに見させてくださるように祈りましょう。宗教というものは信じて聞けば、問題の解決が見つかるというものではありません。むしろ、聞けば聞くほど闇が濃くなる、しかし闇が濃くなれば濃くなるほど、そこに輝く真理の光は輝きを増し、わたしたちは真実に照らされるということだと思います。そして、その真実を通してわたしというものが、日々問い直されていきます。それが、わたしたちが生きていくということであり、日々歩みを進めていくことになるのです。わたしたちはいのちですから、歩みを止めるということは死を意味します。転んでも、つまずいてもいい、それが問題ではなくて、何があってもなくても歩みを一歩前に進めていくこと、そのことが大切なことなのです。その力と助けをイエスさまとの関わりを通していただきたいと思います。

待降節第3主日  勧めのことば

待降節第3主日 福音朗読 ルカ3章10~18節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は洗礼者ヨハネの活動の様子が朗読されます。ルカは、洗礼者ヨハネを旧約最後の預言者として描きます。ヨハネは「蝮の子らよ」といって群衆に改心を迫りますが、その教えたことはマルコやマタイと比べると随分穏やかな姿が描かれます。ヨハネが人々に教えたことは、厳しい修行や改心ではなく、日常生活に根ざした誠実な生き方です。「下着を二枚持っているものは、一枚も持っていないものに分けてやれ。食べ物を同じようにせよ」、「規定以上のものを取り立てるな…自分の給与で満足せよ。だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな」。これは、旧約聖書で教えられてきた2つの掟、神への愛と隣人への愛を実践するようにと説くものでした。神を愛すること、そして「自分を愛するように、隣人を愛すること」、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である(マタイ7:12)」といわれていることであり、分かりやすい人間レベルの教えです。日本人であれば、「己の欲せざる所は人に施すこと勿かれ」と孔子の論語として慣れ親しんだ教えであって、わざわざキリスト教として教えてもらうまでもなく、多くの人たちが大切にして実践してきた教えです。自分のことだけではなくて、相手のことも自分のことと同じように考えましょうとか、相手の立場になって考えましょうというような当たり前の教えです。

これ自体、旧約の律法の隣人愛の掟であり、隣人愛と神への愛はひとつで、隣人を愛することが神さまを愛することですよ、というような話です。もちろんその通りなのですが、それだけをもってキリスト教の教えですよというのはいささかお粗末ではないでしょうか。イエスさまがわざわざ人間となって来られたのは、その程度の道徳を教えるためだったのでしょうか。そのようなことであれば、多くの宗教や倫理が教えていることであり、わざわざイエスさまがいのちをかけて伝えなくても、良心ある人なら誰でも分かるようなことでと思います。もしこのような倫理的な教えがキリスト教の本質的なメッセージであるというのであれば、はたして現代人であるわたしたちのこころの深い闇に、またわたしたちのこころの深い渇きに応え得るでしょうか。ただ生まれ育った家の宗教がキリスト教であるということでもなければ、現代人がそのような道徳的な教えに関心をもち、キリスト教を求めるでしょうか。

洗礼者ヨハネは「その方は、聖霊と火であなたがたに洗礼をお授けになる」と宣言します。つまり、洗礼者ヨハネの到来によって旧約の時代は終わり、「その方」つまりイエス・キリストによってまったく新しいことがもたらされるのだということがいわれているのです。「聖霊と火」とは、イエスさまによってもたらされる新しさを意味しています。それでは、その方のもつ新しさ、今までとの違いは何なのでしょうか。そのことは具体的には述べられていませんが、わたしたちに告げられるイエス・キリストという出来事が新しさそのものであるといったらいいのかもしれません。その新しさは、イエスさまの生涯を通して、わたしたちに少しずつ明らかにされていくことになります。そして、このイエスさまという方と出会った人たちは、イエスという方自身に魅せられて、もはやイエスさまなしの人生など考えられなくなっていくのです。この生きたイエスさまとの出会い、これこそが新約の新しさそのものであるといえるかもしれません。

旧約での神さまのメッセージというものは、人間の理性で理解でき、人間の力で実行できるものであったということができるでしょう。神さまから与えられた掟と律法を理解して、それを守ってきちんと生活すれば神さまから恵みと祝福がありますよというような教えです。これならだれもが理解し納得できますが、わたしたちが通常現世利益とよんでいる信仰形態の域を出ないものでしかありません。しかし、新約のメッセージ、イエスさまご自身が人間の知性や判断を超えたものであるということは、人間には必ずしも分かるものではないということを意味しています。人間は、自分の理解できないもの、自分の分かりえないものを怖れますが、同時に自分の知性で理解できないもの、神秘に憧れを抱きます。旧約と新約との関係は、歴史的に見れば連続しているようにみえますが、別の視点から見るとまったくの不連続であるといえるでしょう。その違いは、表面的な量的な違いではなく、絶対的な質的な違いであるといえるでしょう。今までは何もかもが人間中心であったものが、神中心となるという視点の大転換があるということだともいえます。それが、イエス・キリストという出来事なのです。

今まで、わたしは神さまについて多くのことを知っていると思っていました。しかし、イエスさまの登場によって、神さまはわたしたちにとってまったくの見知らぬ方、わたしたちが知っていると思っていた神さまとはまったく違っていたということを知ることになります。わたしたちが知っていると思っていた神さまは、わたしたちが今までの人類の歴史の中で体験し、そこから演繹されたもの、わたしたちが自分の人生のなかで出会った人の親切や愛の延長線のなかで、神さまのイメージを投影して作り出したものに過ぎなかったということなのです。本当の神さまは、わたしたちが人間のレベルで考え得る方とは似ても似つかない方であるということなのです。よく神が愛である、慈しみであるといいますが、それは人間が考え、想像できるような愛とか慈しみとはまったく異なったものであるということです。それがイエスさまなのです。

これは、キリスト者であるわたしたちの信仰生活にもすべて当てはまります。わたしたちは洗礼を受けてイエスさまを信じているといっても、それはわたしたちが理解して、考え得るイエスさまを信じているだけであって、そのイエスさまはどこまでもわたしたちの必要を満たし、わたしたちを幸せにしてくれる方でしかないということではないでしょうか。しかし、それはあくまでもわたしたち人間の側から見た捉え方であって、人間の延長線上でのイエスさまに過ぎません。たとえ、わたしはイエスさまを知っていると主張しても、それはわたしの小さな頭の中でのことであって、イエスさまを本当の意味で知っているとはいえないのです。そうすると、わたしたちはイエスさまを自分の中に閉じ込めてしまい、イエスさまご自身がわたしのなかで自由に働かれるのを妨げてしまうのだといわざるを得ないのではないでしょうか。わたしたちは、信仰生活においても旧約時代を生きていることがほとんどです。つまり、わたしという人間の視点からしか見ていない、考えていない、祈っていない、信じていないというところに留まっているのです。新約の時代に入るということは、イエスさまがすべてにおいて中心となられるということです。そのためには、わたしたちの自己中心というあり方が転換されていくことによって、イエスさまはわたしたちのなかでご自身を現され、またお働きにもなっていくということです。わたしたちの自己中心が転換されるということは、わたしたち人間が何も思い通りにはできないのだという現実をしっかりと受け止め、そのことを自覚させていただくことに他なりません。事実、わたしたちは自分のことを含めて、何も自分の思うようにはなりません。

わたしたちの道は、イエスさまの歩まれた道を辿ることであり、イエスさまの道は愛の道ですから、この愛は常に自分自身を失い、愛する方のために自分から脱出していくことに他なりません。その歩みを進めるためには、わたしたちが存分にイエスさまご自身に、その愛に触れる必要があります。そのことなしに前進することは不可能だからです。そのようにして初めて、わたしたちは旧約から新約へと脱出していくことができるのです。これを、「あの方は、聖霊と火であなたがたに洗礼をお授けになる」といい、手に箕をもって、古い旧約の殻を焼き払われ、本来のわたしたちが生まれていくのです。わたしたちの古い旧約のもみ殻、つまり古い人間の基準に従って生きてきたわたしたちは焼き払われてなければならないのです。

12月のお知らせ

2024年12月9日現在の予定です。変更される可能性もございます。

■2025年は「通常聖年」です。
「希望は欺かない―2025年の通常聖年公布の大勅書」が中央協議会のサイトに公開されています。https://www.cbcj.catholic.jp/2024/07/24/30297

■大塚司教の聖年についての文書
2025年聖年「希望の巡礼者」を迎えるにあたって
https://kyoto.catholic.jp/shikyo/20241124.pdf

クリスマスメッセージ
https://kyoto.catholic.jp/shikyo/2024christmas.pdf

司教年頭書簡
https://kyoto.catholic.jp/shikyo/letter202501.pdf

が、教区のホームページに掲載されています。
各国語版もありますので、お知り合いで必要な方がおられましたらお伝えください。

■今年度分の教会維持費の納入がまだの方は、どうぞよろしくお願いいたします。

■高野教会ミサ予定
1日(日)待降節第1主日 ミサ10:30
3日(火)ミサ10:30
8日(日)待降節第2主日 第2日曜日につきミサはありません
10日(火)ミサ10:30
15日(日)待降節第3主日 ミサ 10:30
17日(火) ミサ10:30
22日(日)待降節第4主日 ミサ10:30
24日(火)主の降誕夜半のミサ ミサ17:00
29日(日)聖家族 集会祭儀 10:30
31日(火) ミサはありません。


■主の降誕 近隣教会のミサ
西陣  主の降誕日中 ミサ25日(水)9:00
北白川 主の降誕夜半ミサ 24日(火)19:15 主の降誕日中ミサ 25日(水)10:30
河原町 主の降誕夜半ミサ24日(火)18:30、21:00
主の降誕日中ミサ 25日(水)7:00、10:30、13:00(英語ミサ)

■任意団体の活動
3日(火) ミサ後 コミュニティ広場 
4日(水) 10:00 シスターレベッカの英会話
7日(土) 10:00 高野教会混声合唱会
10日(火) ミサ後 コミュニティ広場
14日(土) 10:00 キリスト教のエッセンスを学ぶ会(ペトロ)
17日(火) ミ サ後 コミュニティ広場
17日(火) 13:30 アフタヌーンティー(教会に興味のある方、初めて来られる方、どなたでも
18日(水) 10:00 シスターレベッカの英会話
21日(土) 10:00 高野教会混声合唱会
22日(日) ミサ後 コミュニティ広場
28日(土) 10:00 キリスト教のエッセンスを学ぶ会(パウロ)
29日(火) ミサ後 コミュニティ広場

■ その他
12月22日のミサの後、ホールにて、教会学校の子どもたちが発表を行います。(プログラム未定)

■オンライン版『教会の祈り』について 
従来「聖務日課」と呼ばれてきた「教会の祈り」が、カトリック中央協議会のサイトにて公開されましたのでご利用ください。
https://www.cbcj.catholic.jp/2024/11/25/30970

待降節第2主日 勧めのことば

待降節第2主日 福音朗読 ルカ3章1~6節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は、イエスさまの宣教活動に先立つ洗礼者ヨハネの活動を述べます。ルカは、その際に“とき”ということを強調します。「皇帝ティベリウス治世の第15年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督であったとき…」と述べています。それは、おそらくイエス・キリストという出来事が、いわゆる伝説や架空上のおとぎ話ではなく、人類の歴史のなかで実際に起こった出来事であることを強調しようとしたのだと思います。

普通、わたしたちは現在・過去・未来というときの流れのなかに生きているというふうに考えています。また、時間というものがあると考えています。だから、よきにつけわるきにつけ、わたしたちは過去の行いによって今の自分があり、その自分が過去を背負って生きていくのだというふうに考えます。勧善懲悪的なものの考え方というものは、過去によいことをすれば将来よい報いがあり、悪いことをすれば将来罰がくだるという時間の流れの中で因果関係を捉えていくという発想になります。そして、実際の人間社会も宗教もそのように時間というものをとらえています。しかし、現代の物理学の発達によって、時間を初めがあって終わりがあるような現在・過去・未来というようなときの幅をもった連続として捉えるのではなく、時間というものはあくまでも、人間が天体などの運動法則等によって作り出された変化をはかるための物差しにすぎないと考えるのが主流となっています。ですから、人間が考えている現在・過去・未来というのは人間の作り出した物差し、決め事であって、宇宙そのものはそのような時間や空間の規定の枠のなかにはないというように捉えられています。ということは、わたしたち自身も宇宙の一部ですから、わたしは時空のなかにいるわけで、実は時間というものは人間の決めた約束事であり、必ずしも真実、リアリティあるものであるという確証はないということになります。つまり、今わたしが生きていると思っている時空の世界は、人間が理性で過去と未来として認識しているのにすぎず、今という現実を人間は認識することはできないということなのです。それでは、一体何が真実、リアリティなのでしょうか。

そのような観点から、改めて今日の箇所を読み直してみると、まったく別の読み方をしていくことができると思います。皇帝ティベリウス治世の第15年のとき、洗礼者ヨハネが悔い改めの洗礼を宣べ伝えた、預言者イザヤを通して「人は皆、神の救いを仰ぎ見る」といわれたそのときは、世界史的には紀元27年か28年にあたると特定されています。それによって、イエス・キリストという出来事を人間の歴史的事実として位置づけることができます。しかし、まったく別の観点から読み直していくと、その“とき”というのは、紀元27年か28年にあたる過去の時間のある一点をいうのではなく、人が皆、神の救いを仰ぎ見つつあるそのとき、イエス・キリストによって救いが実現しつつあるとき、わたしたちが“今、救われつつあるとき”、つまり永遠における今であるところの、わたしたちが決して捕まえることができないその“とき”であるということではないでしょうか。それが、神さまは永遠であるということです。

聖書の中では、イエスさまといついつに出会ったといういい方がなされており、わたしたちもイエスさまとの出会いというとそのように時間とか自分の人生の中でのこととして考えてしまいます。確かに、ヨハネ福音書では最初の弟子がイエスさまと出会ったのが「午後4時ごろ(ヨハネ1:39)」であったとか、パウロのようにダマスコへ行く途中で復活されたイエスさまと出会った(使徒9:2)というような体験が描かれています。確かにそうなのでしょう。しかし、大切なことは、今生きているわたしたちがイエスさまと出会うことができるのは、過去のあるときでもなく、まだ来ていない未来のあるときでもなく、わたしが生きている今この“とき”でしかないということです。聖書に描かれているような、過去の人の救いの体験というものは参考になるでしょうし、それを黙想して追体験するということもできるでしょう。しかし、救いそのものを、救われたという過去の出来事や思い出であるとか、その過去に起こった出来事にもとづいて未来に起こるであろうことであると捉えてしまうと、救いとは人間のこころの問題になってしまいます。そのようになると、わたしたちは過去の救いの体験にしがみつくか、未来の救いの希望にしがみつくことになります。こうして、救いはいずれも人間のこころの問題になってしまうのです。そうすると、わたしがどのように生きたかとか、どのように生きるかとか、わたしがどれだけ強く信じたかとか信じなかったかによって、救いが決まってくるということになっていきます。救いは、過去の出来事でも、未来の約束事でもありません。救いや永遠のいのちを、将来受けるであろう何かと捉えることになってしまいます。これらは人間の作り出したものであって、それらが真実であるという保証はどこにもありません。なぜなら、わたしたちが信じるというとき、その対象は不確かだということだからです。ですから、わたしが信じれば信じるほど真実が深まり、救いが確実になるということはあり得ず、信じれば信じるほど不信の闇は深くなるのが現実です。それは、救いを人間の信じるという行為によると捉えているからです。そうすると疑いのこころが起こるのは信仰が弱いからだといい、追い打ちをかけるような教えになってしまいます。

しかし、救いは神さまの行為であり、神さまの業です。人間の行為とか、人間の信仰の影響を受けません。しかし、人間は自分が救われたという証拠が欲しいので、救われたという体験を記憶につなぎ留めたり、教会に保証を求めたり、またそれを自分の信仰の深さに求めてきました。しかし、自分のこころを拠り所としている限り、そのような状態が長続きすることはあり得ません。それは、最初の弟子たちもパウロも同じだったでしょう。あの出来事は一体何だったんだろうと疑いのこころを起こしつつ、自問自答していたのではないでしょうか。ですから教会では、繰り返して感謝の祭儀をおこなって、イエスさまのことを忘れないようにしてきたのだと思います。そして、わたしたちは過去に犯した過ちや罪に対して恐れおののきつつ、将来訪れるであろう苦しみや罰に怯えながら人生を過ごすのです。教会がそのような教え方をしてきたということも否めません。しかし、もしわたしたちの人生がそれだけであれば、人間は人間が作り出した時間の奴隷にすぎません。そうではなく、神さまが永遠で、生きておられるということは、わたしたちがイエスさまと出会い救われるのは、わたしの業とか何かによるのではなく、わたしが生きている今、救われつつあるのは永遠の今であるこのときにおいては他にあり得ないということなのです。やれ救われた救われないという不確実な人間の思惑が入り込まない、しかしわたしたちが現実に生きている今というこの“とき”こそが、神さまとわたしとの出会いのために与えられた“とき”であるということなのです。そして、このときはイエスさまが人類のために一回きり、ご自分のいのちを捧げてくださったその救いのときでもあるのです。

主の降誕に向かってわたしたちは黙想会に参加したり、12月25日にイエスさまが来られると信じて馬小屋を整えたり、こころを浄めてイエスさまを迎えようと準備します。それ自体はよいことなのですが、考えてみると、確実なものなど何もないわたしたちは何と愚かなことをしているのでしょうか。イエスさまがわたしたちを訪れ、わたしたちのうちにイエスさまがお生まれになるのは、二千年前の過去のベトレヘムの馬小屋ではないのです。まして、まだ来ていない今年の12月25日でもないのです。イエスさまは、今生きているわたしのうちに、今お生まれになるのです。イエスさまがお生まれになるのは、“今というとき”をおいて他にはないのです。

待降節第1主日 勧めのことば

待降節第1主日 福音朗読 ルカ21章25~28節、34~36節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今年も待降節に入りました。待降節はイエスさまの降誕を待つ季節として理解されていますが、アドベントということばは「来る」という意味です。ですから、待降節は大きく2つの部分に分かれています。12月17日からは降誕前の8日間として、主にイエスさまの降誕に向けた準備の時期として位置づけられています。それに対して、待降節第1主日から16日までは、イエスさまの再臨ということがテーマとなっています。ですから、今日読まれる福音箇所は、イエスさまの再臨ということがテーマです。

このテキストは福音書のなかでも解釈の難しい箇所のひとつです。ルカはこの箇所の直前で、ローマ帝国によるエルサレムの都の包囲と滅亡を予告していますが、ルカが書かれたときすでにエルサレムの都は陥落していました。なぜこのように書かれたのかというと、エルサレムの陥落は聖書で預言されており、イエスさまを拒んだユダヤ人への神の怒り、裁きとして描きたかったのでしょう。ルカ福音書は、ユダヤ教からキリスト教になった人、またユダヤ人でないキリスト者に宛てて書かれています。エルサレムの都の陥落と多くのユダヤ人が虐殺され捕虜となったことは、彼らにとっても大きなショック、信仰の試練となったようです。というのは、当時のキリスト者たちにとって、エルサレムはイエスさまが最期を遂げられた聖地であり、救いはエルサレムから始まると考えていたからです。ルカ福音書の後編でもある使徒言行録では、「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父から約束されたものを待ちなさい(1:4)」と述べられ、聖霊降臨、そしてそこから福音宣教が始まることになっています。

当時の初代教会は、ユダヤ教から受け継いだ終末思想を生きていました。ユダヤ教の終末思想というのは、試練によって浄められたイスラエルの民にメシアが遣わされて救いがもたらされ,審判が行われて人類の歴史が完成するというものでした。この思想は初代教会にも受け継がれ、旧約聖書で預言されていたメシアであるイエスの生涯、死、復活によって終末と救いが始まり、メシア(キリスト)が再臨することで人類の歴史は完成され、神の国が到来するという期待が広がっていました。そして、その舞台がエルサレムでした。そうした期待が、苦しい状況を生きるキリスト者のこころの拠り所となっていたのです。

しかし、そこでキリスト者たちが体験したことは、神の沈黙とキリストの再臨の遅延という現実です。神さまは、エルサレムの都が滅ぼされ、民が殺されるままにしておられる。彼らはすぐにでもキリストが再臨して、ローマ帝国の支配を裁かれると考えていましたから、何が何だかわからないということだったと思います。ですから、この神の沈黙とキリストの再臨の遅延という事実について、キリスト者たちは再解釈をしなければならなくなったわけです。再臨の遅延を、さらに時間的に延長したり、精神化して捉えようとしたりしました。その後この終末思想は、キリスト教の教義となり、現在も死、審判、地獄、天国を四終として教え、私審判と公審判とか、天国・地獄・煉獄の教えと絡み合って、怖れでもって信仰教育をする時代が非常に長く続いていくわけです。21世紀になっても、このような前世紀的なことが教えられていることに驚かされます。

この終末思想は、特定の民族に偏った現世利益的な救済観、歴史観です。そもそも、イエスさまの十字架の死によって、ユダヤ人の救いは果たされませんでしたし、安定した日常も訪れませんでした。つまり、イエスさまはこの世から人類の苦しみをなくされなかったということです。わたしたち人間が生きていく限り、誰もが体験する老病死という現実はなくならなったのです。イエスさまはわたしたちの幸せを実現するような、またわたしたちが生きる上での苦しみ、老病死からの救い主ではなかったということなのです。初代教会の体験したことは、イエスさまの十字架、復活という出来事を信じても、自分たちの苦しい人生は何も変わらないということです。むしろ、それに追い打ちをかけるように、エルサレムの都の陥落、ローマ帝国によるユダヤ人の虐殺、その後はキリスト教徒に向けられる迫害と試練が続きました。その中で脱落者も出てきます。もとのユダヤ教に戻ろうとするもの、キリスト教信仰から離れるものも少なくありませんでした。彼らは、神の沈黙、イエスさまの不再臨に待ち疲れてしまいました。ユダヤ教から受け継いだ終末思想は、もはや彼らの信仰の拠り所にはなり得なかったということです。

それでも尚且つ、彼らがイエスさまへの信仰を持ち続けたのはどうしてでしょうか。当時の人々があれほどの試練のなかでも、イエスさまへの信仰から離れなかったのは、彼らが頑張ってイエスさまを信じ続けた意志の強さゆえでしょうか。そうではないと思います。もはや、人間の力でどうこうできる種類の状況ではなかったはずです。それはキリスト者が頑張って信じたからではなくて、イエスさまからの働きかけ、彼らがイエスさまから離れられない何かがあったのではないでしょうか。イエスさまは、当時の人々の望みに何も答えませんでした。ローマ帝国によってエルサレムの都が破壊され、ユダヤ人たちが殺害されあるいは捕虜にされ、今度は自分たちに迫害の矛先が向けられてくる。神は介入せず、イエスさまが再臨して自分たちを危険から守ることもされません。終末論的な希望はすべて打ち砕かれたのです。

それでも、彼らが信じ続けたのは、彼らの意志や信念、こころの強さではなく、復活されたイエスさまが彼らのなかに生きておられ、彼らを捕らえて離そうとされなかったということではないでしょうか。これを復活体験というのです。彼らはもはやイエスさまなしの人生など考えることが出来ないほど、イエスさまから深く関わられてしまったのです。パウロはそのことの体験を「キリストの愛がわたしたちを駆り立てているのです(Ⅱコリ5:14)」といいました。パウロ自身がではなく、イエスさまがパウロ自身を捕まえてしまったと告白するのです。だから「誰が、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができるでしょうか。艱難か。苦しみか、迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か(ロマ8:35)」というのです。わたしがイエスさまのことを忘れようとも、どれだけ離れようとも、呪おうとも、イエスさまは決してわたしを見放そうとはされない、そのことを体験した人は、自分のなかで復活されたイエスさまが今生きておられ、もはやイエスさまの再臨を待つ必要がなくなったのです。ただ、わたしがイエスさまとその人生をたどるために、待降節があり、降誕祭があるのにすぎないのです。わたしたちは、いつもガリラヤから始めて、わたしとともに歩んでくださるイエスさまとともに人生を歩んでいけるのです。

今生きているわたしたちは、その当時の終末思想の焼き直しのような終末論を教えられています。最後の審判で、正しい人は報われ天国に行き、悪人は罰せられる地獄に落とされると。イエスさまは、正しい人にも正しくない人の上にも注がれるいつくしみ深い神さまの真実を説かれたのではなかったでしょうか。それなのに、どうして教会は救われる人と救われない人を区別しようとするのでしょう。また、今もっても教会の内と外とを区別しようとするのでしょうか。イエスさまとともに生きている人にとって、もはやそれらの区別は存在しないのです。なぜなら、わたしたちは、わたしのうちに生きておられるイエスさまと出会っているからです。ですからわたしたちが気づきさえすれば、イエスさまはわたしたちのうちにおられ、わたしたちはイエスさまのうちにいるのです。その気づきを、イエスさまの降誕、イエスさまの再臨というのです。この待降節を迎えるにあたって、改めてわたしたちが置かれている身というものを省みてみましょう。

王であるキリスト 勧めのことば

王であるキリスト 福音朗読 ヨハネ18章33~37節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は王であるキリストのお祝い日です。キリストが王であるといいますが、そもそも、王という存在はいかなるものでしょうか。ピラトは「お前がユダヤ人の王なのか」と質問しています。ピラトは総督で王、皇帝の下にいました。王、皇帝はこの世で権力と富を一身に掌握し、人身の頂点に立ち、自分の思いや願いをすべて通していける存在です。ですから、ピラトはイエスさまに、お前は権力と富を一身に掌握し、自分の思いや望みを実現していくものなのかと問うているのです。王は自分の思いや望みを実現していくために、国を建てることも必要になります。国土をもたない王というものはありません。ですから「お前がユダヤ人の王なのか」と聞くのです。

では国というものは何でしょうか。わたしたちが国というものを考えると、それは特定の領土と特定の国民、ある種の統治形態を備えたものであると考えます。ですから、国は地球上の北緯何度、東経何度にあって、そこには国民がいて、国境があってということになります。つまり、国という概念を持ち出してくると、それは地球上のどこかにあって、領土と国境があって、その国の国籍をもった人と国籍をもっていない人がいて、その国に入ることができる人と入ることができない人がいるということになります。つまり、国という概念は人を分断していく考え方であるということになります。しかし、ここでイエスさまが「わたしの国」といわれたことばは、共観福音書では「神の国」と訳されている“国”にあたることばで、その意味は「支配する」「統治する」ことであって、国土という意味はありません。つまり、イエスさまが「わたしの国はこの世には属していない」といわれたのは、わたしの国というのは、あなたがたが考えているような国土を伴うような国ではないし、わたしはあなたがたの考えているような王ではないといわれたのです。ですから、このお祝い日は誤解を招くお祝い日であるということなのです。

わたしたち人間は、夫々がグループや家庭、地域、職場、宗教、国家などにおいて、いろいろなことを自分の思いを通していきたい、そのような存在です。つまり、テリトリーや国土をもち、王、トップ、上になりたがる存在であるということです。わたしたちは、すべてを自分の思い通りにして、自分の望みを叶えて自己実現していこうとするのです。これは人間として、どうすることもできない現実なのです。しかしそれで、果たして人間は幸福になれるのかということです。

イエスさまがいのちをかけて伝えようとされた神の国は、わたしたちが考えるような国ではないし、イエスさまはそのような国の王でもないといわれたのです。しかし、それがマタイでは天の国になり、天の国が天国となっていきます。そして、神の国は場所とか、人間のこころの問題、あり方として理解されるようになっていきました。よいことをした人は入れて、そうでない人は入れない、そこには審判する王がいて、すぐに入れない人たちが待機する場所がある(煉獄、化国)いう発想が出てくるのです。しかし、イエスさまはそのような国のあり方、王のあり方を否定されたのです。

それではイエスさまが王であるというのはどのような意味なのでしょうか。それを、イエスさまは「わたしは真理を証しするために生まれ、そのためにこの世にきた」といわれました。イエスさまの役割は真理を証しすることです。今日の続きの箇所で、ピラトは「真理とは何か」とイエスさまに聞きますがイエスさまは答えられませんでした。自分で考えろということでしょう。わたしたちは、よくこれは本当だとか、この宗教、教えは真実だといういい方をしますが、真理とはそのようなものの性質や種類や現象をいうのではなく、真理を真理たらしめるものは何かということなのです。

イエスさまは別の箇所で「わたしは道、真理、いのちである」といわれました。真理とは、いかなる時代でも、どのような場所で変わることがない真実のことです。イエスさまは、“俺が真理で正義だ、だから俺を信じろ”と自己主張されたという意味ではないのです。イエスさまは、ご自分のあり方、生き様で真理の本質、内実を示されたということではないでしょうか。そのイエスさまのあり方の本質は、「友のためにいのちをすてること、これ以上に大きな愛はない(ヨハネ15:13)」といわれた利他性にあるということができると思います。ユダヤ教のもっていた限界は、わたしが神を愛する、自分を愛するように隣人を愛する、またわたしが敵を愛するというふうにいわれてきた自己中心性にあります。英語ではエゴセントリズム、またはセルフセンタードネスといわれるものです。エゴイズムは単なる自分勝手、自己中で、非常に幼稚な自己のあり方を指しますが、エゴセントリズム、またはセルフセンタードネスというのは、人間は自己というあり方を離れて、客観的に事実を認識し、判断することができないことをいいます。ですから、エゴイズムはある程度は人間の注意で矯正できるものですが、わたしたちの自己中心性は人間をやめない限りなくならないということなのです。

そもそも、キリスト教信仰自体が、この自己中心性の上に成り立っています。わたしたちが信仰といっても、信仰を自分のこころのあり方として捉えている限り自己中心性が最後まで残ってしまいます。これが、現代のキリスト教が行き詰っているところです。しかし、イエスさまがメスを入れられた、切り込んでいかれたのがこの自己中心性なのです。それは、「友のためにいのちをすてる」ということなのですが、それは単に他人のために自分のいのちを捨てる、自分が救い主として上から目線でこの世を救うということでは終わりません。すべての人、この世界を救い取らない限り、自分も救い主にならない、安息に入らないというのがイエスさまのあり方だということなのです。これこそがイエスさまが王であるゆえんです。パウロはそのことを「キリストは、神の身分でありながら、神と等しいものであることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じものとなられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした (フィリピ2:6~8)」といい、ヨハネ福音書では「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ(ヨハネ5:17)」といわれていることです。

そして、これは単に自分のあり方を捨てるという利他性だけにとどまりません。どういうことかというと、イエスさまは世界を救う自分をこの世界の中心に置くということはされないのです。わたしたちは普通、自分が先にあって他人があると考えます。これが自己中心性といわれるものです。ですからイエスさまについても、救い主としてのイエスさまが先にあって、イエスさまがこの人類を憐れんで救われるのだというように捉えます。しかし、イエスさまはそうではないです。救い主としての自分があって人類があるのではなく、救われなければならない人類、宇宙があるから自分があり、また救われるべき人類、宇宙によって自分は救い主になるのだといわれるのです。そして、そのような相互関係こそがこの世界本来のあり方であり、これがイエスさまは神の国、神の支配といわれたことの内実なのです。ですから、この世界はすべてお互いさまであり、この世界すべてが神の国の当事者なのです。これが真理なのです。

ですから真理とは、わたしを離れてどこかにあって、それをわたしが手に入れるということではなく、自分というものは、実は他人によって自分であるということに気づかされるということだといえます。このことをキリスト教は回心と呼んでいます。ですから、回心は軌道修正とか反省ではなく、パラダイム変換なのです。自分が先にあって他人があるとかでなくて、他人があって自分がある、自分があって他人があるという、この世界の本来的なありさまをイエスさまが神の国の宣教によってあきらかにし、自分の生きざま、死にざまをもって、真理をあきらかにしてくださったのだということなのです。現代人はみな個人としての自分が中心になっています。そのようなわたしたちに、真理とは何かが問われているということなのです。

年間第33主日 勧めのことば

年間第33主日 福音朗読 マルコ13章24~32節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

マルコ福音書は紀元66年から始まった第1次ユダヤ戦争の頃、ローマで書かれたといわれています。第1次ユダヤ戦争は、当時のユダヤ州の総督がインフラ整備の資金のために、エルサレムの神殿から宝物を持ち出したことが発端となって始まります。ローマ帝国への支配に対して不満をもっていたユダヤ教の過激派グループが反乱を起こし、73年まで争いが続きました。エルサレムのキリスト者共同体は戦乱を避けて、ギリシャのべレアに非難します。マルコ福音書の読み手は、ユダヤ戦争を逃れてきたキリスト教共同体であったと考えられます。

当時のキリスト教は、まだユダヤ教の一派として留まっていました。しかし、ユダヤ人以外の信者も増えて、ユダヤ教の狭い枠組みから脱皮し、世界宗教へと変容を遂げようとしているところでした。彼らは、ユダヤ教の伝統を尊重しながらも、ナザレのイエスをメシアと信じ生活していました。エルサレムは、彼らにとってもイエスさまが十字架の死を遂げられた聖都であり、信仰の拠り所でした。当時の彼らの信仰は、イエスさまがメシアとして再臨し、新しいエルサレムを再興してくださるということでした。ですから、ユダヤ戦争の成り行きを祈るような気持ちで見守っていたのでしょう。そして、自分たちに聞こえてくるユダヤ戦争の惨事を、終末のしるしとして捉えるというのが当時の終末思想でした。

終末思想というのは、当時のユダヤ教のなかに広まっていた考え方で、試練によって浄められたイスラエルの民にメシアが遣わされ、救いがもたらされ,審判が行われて人類の歴史が完成するというものでした。この思想は、キリスト教にも引き継がれました。初代教会では、旧約聖書で預言されていたメシアであるイエスの生涯、死、復活によって終末と救いが始まり、メシア(キリスト)が再臨することで人類の歴史は完成され、神の国が到来すると信じられていました。ですから、当時の人々はイエスさまの再臨がすぐにでも起こると考えていました。復活されたイエスさまに出会った弟子たちは、「主よ、イスラエルのために国を立て直してくださるのはこの時ですか(使徒1:6)」と尋ねています。マルコ福音書の読者たちも、ユダヤ戦争、エルサレムの都の惨状などを耳にし、すぐにでもイエスさまが再臨して、裁きが行われ神の国が到来すると考えていたと思われます。ですから、マルコ福音書の中には、イエスさまの再臨を期待させる記述が出てきます。しかし、歴史的には、イエスさまが再臨されることはありませんでした。エルサレムの都の陥落以降、またローマ帝国による支配とキリスト教の迫害のなか、キリスト教徒は一連の終末思想を再解釈していかなければなりませんでした。

そもそも再臨とか、終末、審判という思想そのものが、ユダヤ教の枠組みのなかの民俗的希望が色濃く反映されたひとつの歴史観であり、それをもって全人類の歴史を理解しようとすること自体限界があるといえます。日本でも末法思想が広まった時代がありました。末法とは、釈迦が説いた教えが正しく実践されている時代が過ぎると、次に教えが形骸化し、やがて人も世も最悪となるという歴史観です。日本では、平安時代末期から末法の時代に入ったと考えられてきました。キリスト教は、今でもこの終末思想に基づいた歴史観を説いており、それを教義として人類の歴史やこの世界の始まりと終わりを説明しようとしています。そもそも、この宇宙の成り立ちをキリスト教の教義ですべて説明できるわけがありません。アインシュタインは相対性理論によって、わたしたちの時間・空間の概念は人間が作り出したものであり、相対的なものでしかないといいました。わたしたちは、今日の福音を読むとき、新しく読み直していくことが必要になるのです。この箇所から学ぶべき点は、人間の理解、教会の教えの限界と真理を表す神のことばの永遠性ということだと思います。「天地は滅びるが、わたしのことばは決して滅びない」といわれていることです。それでは、なぜことばなのでしょうか。今日は、ことばということに注目してみたいと思います。

そもそも、ことばというものは、人間が音声や文字を用いて自分の考えや感情等を伝達するために用いる記号体系です。ことばは、人類が獲得したひとつのコミュニケーションの手段です。それでは、ことばをもたない人間以外の動物や植物がお互いに、また他の生命体とコミュニケーションを取っていないかというとそうではなく、夫々彼らの感性を使ってコミュニケーションを取っています。そして、絶えず変化していく自然界のなかで、その変化を感じ対応しています。それが、生きるということでしょう。それに対して、人類はことばというものを獲得したがゆえに、わたしたちが生きるという現実を非常に狭く限定してしまっているのではないでしょうか。どういうことかというと、わたしは自分というものを中心に据えて、自他の境界を設けて、物事を理解していこうとします。そしてことばでもって、自分以外のものを認識し、自分以外のものの善悪、正邪、優劣などを判断していくのです。しかし、自然の世界には自我の区別はありませんから、よい悪いも上下もありません。しかし、人間はことばでもって区別、差別をしますから、それゆえに競争と争いを作り出してしまいました。人間が、自分の都合判断で、これはよいこれは悪い、これは優良でこちらは劣悪だと決めているだけであって、自然のなかには優劣などありません。自然はお互いに調和しており、そこに善悪、優劣はなく、従って争いや憎しみ、競争もありません。それがあると決めつけているのは人間であり、すべて人間目線から見た人間の都合なのです。人類はことばを獲得することで、飛躍的に文明を進化させてきました。しかし、自然そのものがもっている主客を分離しない一体性、いのちの調和、言語化できないいのちの平衡、言語化できない現象を切り捨ててきました。その結果、人類の進歩、社会の発展を手に入れましたが、その引き換えに苦悩を引き寄せてしまいました。そして、そのような視点から、人間目線の歴史観や宗教、そして終末思想が生まれたのです。

しかし、近年、ことばでもって現実を非常に狭く限定してきた歪みがあらわになり、地球温暖化から始まり、人間の活動の限界、ことばの空洞化、世界といのちの分断化などがいわれるようになりました。ですから、ことばを主体とする人間活動のひとつであるすべての宗教にも、限界があるのは当然のことなのです。特に、ユダヤ・キリスト教は、ことば(ロゴス)中心の宗教ですから、パウロが「文字は殺しますが、霊は生かします(Ⅱコリ3:6)」と指摘したように、ことばは人を生かしも殺しもするということを、こころしなければならないと思います。生きたイエスさまの福音を、ギリシャ哲学の概念で説明してきた教会の試みは、福音を生き生きとさせるものではなく、窒息させてしまったともいえるでしょう。

神さまは、このような人類の歩みを予見して、自らがことばとなってわたしたちのうちに宿られ、わたしとなられた、それがイエスさまなのです。ことばで自分たちを苦しめている人類に対して、自分がことばとなって、人間のうちに宿り、人間を照らし、解放しようとされたのがイエスさまです。神さまがことばとなることで、ことばにいのちを宿らせ、イエスさまの死と復活という出来事を通して、そのいのちのことばをこの宇宙、全世界に満たしてくださったのです。そして、そのことばをもってわたしたち人間に働きかけ、人間ひとり一人に呼びかけられたという出来事がイエス・キリストだったのだといえます。これが、ヨハネ福音書の冒頭で「ことばのうちにはいのちがあった。いのちは人間を照らす光であった。光は暗闇のなかで輝いている。暗闇は光を理解しなかった…ことばは肉となって、わたしたちの間に宿られた」といわれていることなのです。このことばは永遠のいのちのことばであり、「イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名によって命を受けるためである(ヨハネ20:31)」といわれたように、イエスさまの名によって、イエスさまの働きによって、わたしたちは人間のことばの限界を超えた真のいのちの世界に触れさせていただけるようになったのです。そして、この真理であるいのちのことばは、決して滅びることがなく、わたしたちを今も絶えず照らし続けており、すべてを超えて働くいのち、光なのです。そしてわたしたちは、今その光に覆われているということが福音なのです。これが「天地は滅びるが、わたしのことばは決して滅びない」といわれたことの真実なのです。

年間第32主日 勧めのことば

年間第32主日 福音朗読 マルコ12章38~44節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の福音の箇所は、エルサレムの神殿での出来事です。わたしたちも、たくさん献金しましようとかそういう話ではありません。先週、律法で最も大切な掟についてで、神への愛と隣人愛についての話が出てきました。今日の箇所はそれに続く箇所で、そこでは愛の特徴について話すことに意図があったのだと思われます。

エルサレムの神殿にはファリサイ派の人々や律法学者が集まっていました。彼らは律法の定めに従って、十分の一の献金をしていたと思われます。そこに貧しいやもめがやってきて、1クァドランス、自分の生活費のすべてを献金してしまいます。やもめの持ち金は1クァドランス100円ぐらいですから、律法に従えば10円献金すればよかったわけです。おそらく、1クァドランスは彼女のその日の生活費のすべてだったのでしょう。彼女はそれを献金します。そうすると、わたしたちは、それでは彼女はその日の生活はどうなるのだろうと心配しますが、そのようなことを考える必要はありません。これは、ある意味のたとえ話です。わたしたちが同じように、すべてを献金しましょうとか、すべてを捨ててイエスさまに従いましょうと理解する必要はありません。

先週の箇所で、神への愛と隣人愛ということが話されました。そこで、わたしたちはどこまでいっても、わたしというものを抜きにして愛することはできない、だから敵味方に関係なく等しく注がれる真実の神の愛について理解することがわたしたちには大変難しいのだということをお話ししました。それゆえ、まことの神の愛そのものに触れることが必要であることを申し上げました。この神の愛はすべてのものに平等に注がれる愛ですが、もうひとつの特徴は、自分のすべてを与え尽くす無償の愛であるということです。このことが、やもめが生活費のすべてを献金したことと繋がっています。確かに自分のすべてを与え尽くすのが神の愛なのですが、キリスト教のなかでひとつの極端な考え方があります。それは、キリスト教の愛を間違って捉えたもので、相手のために自分をまったく犠牲にする愛がキリスト教の愛であるという考え方です。純粋な愛は、自分のことは何も考えず、一切見返りを求めず、すべてを他人のために犠牲にしていくことであるといいます。もっともなわかりやすい解釈のようですが、それは一方通行の愛となり、極めて不健全な愛になってしまう可能性があります。わたしたちは、イエスさまの愛を自己犠牲として説明し、このやもめは自分のすべてを捧げた、だからわたしたちもすべてをイエスさまにお捧げしましょうと教えられがちです。わたしたちは自分のすべてを捧げるなどということはできもしないのに、もっともらしい綺麗ごとが平気でいわれてしまいます。

このやもめは、律法に従って自分の生活費の十分の一を献金すればそれでよかったはずです。それなのに、彼女はどうして自分の生活費のすべてを献金してしまったのでしょうか。それは、彼女がそうしたかったからでしょう。ファリサイ人のように、普通に律法や掟を守っていればそれでよかったのです。でも、彼女は生活費のすべてを献金したくなったということなのです。どうしてでしょうか。それは、彼女が一瞬であったとしても、神さまの真実の愛に触れたからではないでしょうか。何があったのかはわかりません。普通は、誰も生活費のすべてを献金したいなどと思いません。しかし、彼女がすべてを献金してしまいたくなるほど、彼女を内側から突き動かすものがあったということなのです。そのことを神の国というのです。それはまさしく「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して(Ⅰヨハネ4:10)」くださったことを体験したということでしょう。“愛は愛を呼ぶ”ということばがあるように、神さまの愛を体験した人は、たとえ何もできなくても何かしたくなります。もちろん、神さまはわたしたちに何も要求されるようなことはなさいません。しかし、愛の本質は一方通行ではなく、相互的なもの、愛するものと愛されるものがあってはじめて成立するものです。ですからこのような愛の体験は、神さまが人間を一方的に無償に愛してそれだけで終わるものではないのです。愛は、自分が愛した同じ愛で愛されることを要求します。神さまの限りない愛を受け取れば、わたしたちは少しなりともその愛に応えたくなるのは当然なことなのです。それが愛の本質なのです。わたしたちが神さまの愛をすべてそのまま受け取ることによって、それを別のことばでいえばその愛に応え、行動することによって、愛は完成し、愛の神さまは満たされるのです。それが神さまに喜びを与えるのです。愛は本質的に相互的なものであって、一方通行の愛だけでは、それがどんなに美しく崇高に見えても、ストーカー的な病んだ愛に他なりません。

キリスト教のなかには、ストーカー的な病んだ愛の理解が結構広まっており、一方的に自己犠牲的に愛し献身すること、そのような善行をすることが神を愛すること、また隣人を愛することだとし、ボランティアや慈善事業を美化して教えます。しかし、愛は、愛するものとその愛を受け取るものがあってはじめて成立するものであって、愛するだけの愛は一方通行で、上から目線の自分勝手な愛、歪んだ病的な愛となり、それは結局エゴイズムになってしまいます。また、その一方でそのような人間の活動を否定し、神の愛を受けることだけを強調するなら、静寂主義となる可能性もあります。これもエゴイズムです。

イエスさまのまことの愛に触れると、自分というものが破れ、突き抜けて、相互愛になっていくのだろうと思います。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分のいのちを捨てること、これ以上に大きな愛はない(ヨハネ15:12~13)」。友のためにいのちを捨てるというのは、一方的な自己犠牲の愛ではなく、友情というお互いの関わりのなかでの相互愛なのです。しかし、そこには、「わたしがあなたがたを愛したように」といわれるイエスさまの愛が先にあります。「友のために自分のいのちを捨てる」は、まさにイエスさまの愛し方であり、「わたしがあなたがたを愛したように」といわれることの内実です。そのようなすべてを与える神の愛に触れたものは、自分も何かしたくなるのです。それは、友人として当たり前のことなのです。

このような相互愛自体は、お互いに大切にし合うこと、支え合うこと、尊敬し合うことであり、実はわたしたちが教えられなくても、聖書を読まなくても、普段の生活ですでに生きている平凡なことなのです。しかし、それは平凡なことですが、同時にまったくの非凡さを要求するところまで深められていく可能性をもっています。相互愛は、「わたしがあなたがたを愛したように」、また「友のために自分のいのちを捨てる」といわれるところまでに深められていく可能性を秘めています。自分のために神を愛するとか、自分と同じように隣人を愛するというような律法の神への愛や隣人愛ではなく、相互愛は神さまのダイナミックな愛の動き、愛の交わりにまで深められていくことができるのです。

この貧しいやもめは、このイエスさまの愛、神さまの愛の本質を体験したのでしょう。だから、たとえ貧しくてもどんなに些細なものであったとしても、自分のすべてをもって神さまの愛に応えたいと思ったのでしょう。問題は量ではなく質です。一滴の水は、たとえ一滴であっても、大海の水と同じ水であることに変わりはありません。実は、わたしたちの魂のうちに、その一滴の水、神の愛、聖霊をすでにいただいているのです。わたしたちのうちにイエスさまと同じ愛が注がれ、同じ愛の川が流れているのです。しかし、わたしたち人間の側の愛の体験である限り、その体験は絶対的なものではなく、過ぎ去ってゆくものであり、あえなく崩れ去ってしまうものであることも確かです。ただイエスさまの愛が真実であり、そこにのみ信仰の確実さがあるのだということを知らなければなりません。わたしが愛したのではなく、イエスさまが愛されたのです。地金のわたしのなかには、イエスさまを、人々を愛することが出来るものは何もないのです。あるとしたら、恵みとして与えられたイエスさまの愛に他なりません。そして、その愛は愛し愛されるという愛の動きそのものなのです。

年間第31主日 勧めのことば

年間第31主日 福音朗読 マルコ12章28~34節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の箇所は、エルサレムの神殿で、当時の宗教的指導者である律法学者との対話の場面で、モーセの律法のなかで何が一番大切かということが問題になります。というのは、当時、モーセの律法は細かく細分された613の項目に分かれていました。それで、律法学者の間では、どれが一番大切な掟かという論争がなされていたようです。そこで、律法学者が真摯にイエスさまに尋ねます。それに対して、イエスさまは、ユダヤ教の日常の祈りの信仰告白である「シェマ(聞け、イスラエルよ)」の最初の部分(申6:4~5)とレビ記(19:18)から、神への愛と隣人愛の掟をお答えになります。それに対して、律法学者は適切な受け答えをしたので、「あなたは、神の国から遠くない」といわれたのです。

キリスト教のなかでも、神への愛と隣人愛は、キリスト教の教えであるかのようにいわれ、またそれを実践するように教えられてきました。しかし、今日の箇所を読む限り、イエスさまは神への愛と隣人愛はモーセの律法の要約であって、これがわたしの掟であるといわれたわけではありません。そして、イエスさまご自身、この2つが律法の要約であると認めた律法学者に対して、「あなたは、神の国から遠くない」といわれました。遠くないということは近くもない、まして神の国に入れるといわれたわけではありません。しかし、キリスト教のなかで、この2つの掟が、イエスさまの愛の掟であるとか、キリスト教の掟、黄金律であるといったことが平気で教えられています。

一方でイエスさまは、律法で「隣人を愛し、敵を憎め」と教えられてきたイスラエルの人たちに、「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しいものにも正しくないものにも雨を降らせる」天の父の完全性を示し、敵への愛を説かれました。ここに律法に見られない新しさがあります(マタイ5:43~48)。そもそも人間は、自分を中心にして、自分の隣人(味方)と敵、悪人と善人、正しい人と正しくない人、ユダヤ人と異邦人などという区別、差別を作って生きてきました。それに対してイエスさまは、隣人と敵、善人と悪人、正しい人と正しくない人、ユダヤ人と異邦人といった区別、差別をしない天の父の完全性にもとづく一切平等を説かれたのです。しかし、わたしたち人間は、この神さまの本質である愛の完全性を受け入れることは非常に難しいのです。

イエスさまが誰も区別、差別されないということは、簡単にいうと、わたしが嫌いなあの人、わたしが憎んでいるかの人も、わたしを愛しておられるのと同じように愛しておられるということです。わたしたちは、自分が努力をして、一生懸命働いて、熱心に教会活動をして、真面目にミサに行っている。だから、イエスさまに当然受け入れられ愛されると思っている。しかし、イエスさまは、努力もせず、頑張りもせず、だらしなく、堕落しているとわたしが軽蔑しているあの人も、わたしを愛されるのと同じように愛しておられるということなのです。わたしたちは、救われ天国に行きたいと思っているかもしれません。しかし、わたしが考えている天国は、わたしの敵や罪人、堕落しただらしない人がいないところが天国だと考えているのです。つまり、わたしが救われたいと思うとき、わたしが嫌いなあの人、わたしが憎んでいるかの人は救ってほしいと思っていないということなのです。そのような人たちが天国に入るのは、わたしはゆるせないし、嫌なのです。それが、どこまでもいっても自分本位である、わたしという人間の惨めな本性です。しかし、イエスさまは、「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しいものにも正しくないものにも雨を降らせる」といわれるのです。それが、神さまの完全性です。その完全とは、失敗しないとか完璧な人みたいになるという意味ではないのです。わたしたちは、そのようなイエスさまのいつくしみ、愛の完全性を理解できずに、背を向けて生きることしかできないというのが現実なのです。

わたしたちが、たとえ隣人を愛するといっても、「敵を愛しなさい」といわれたイエスさまのことばを聞いて、わたしがその隣人の境界、枠を少しばかり広げることでもやっとなのです。わたしたちのいう隣人愛は、わたしの考えている境界を広げていくだけであって、それはどこまでいっても神さまの愛の完全性とは質的に異なったものでしかありません。神さまは、そのことを分かっておられましたから「自分を愛するように隣人を愛しなさい」としか教えられなかったわけです。わたしたち人間が愛するとき、自分を抜きにして愛することは不可能だからです。仏教の世界では、仏の愛を大慈悲といいますが、人間の愛は小慈悲といわれます。人間はどこまでいっても、自分というものを抜きにして愛することはできない存在であるということなのです。そのことを知らずして、隣人愛を実践しましょうと平気でいうことがいかに愚かかということなのです。自分が隣人愛を実践していると思っていることが、実は自分を愛していることに他ならないのです。ですから、神への愛と隣人愛を律法の中心であると答えた律法学者に対して、イエスさまは「あなたは神の国から遠くない」、でも「近くもない」といわれたのです。つまり、隣人と敵、悪人と善人、正しい人と正しくない人、ユダヤ人と異邦人というような区別、差別を作っているわたし自身の殻が破られない限り、神の国には入れないといわれたのです。では、どうしたらよいのでしょうか。

そのためには、わたしたちが、イエスさまの何ものをも区別しないその愛にまず触れること、イエスさまに聞くことであるといわざるを得ないと思います。どこまでいっても愛せない人間の弱さというか、人間の性に涙し、救いの計画を起こし、人間となってこの世界にこられたイエスさまが、先ずわたしたちを愛してくださいました。しかしその愛は、単に一方的で、無償でわたしたち人類をあわれみ、愛するだけでは終わらず、愛することができない人間が“愛するもの”となるまで変容するところまで及びます。これこそ、愛は愛されることによってしか完成しない神の愛の本質であり、人間を神の愛の本質に与らせようとされたということなのです。その上での神さまの壮大な救いのご計画であるといえるでしょう。それは、わたしたちがイエスさまを愛することによってではなく、先ずイエスさまがわたしたちを愛するという働きによってなされたものなのです。わたしたちは、わたしがイエスさまを信じることによって救われると思っているかもしれません。しかし、それだけなら、わたしがイエスさまを信じるというわたしのこころを確固たるものとしようとしただけであり、そのようなわたしのこころはいろいろな状況のなかで、いつどのように変わってしまうかわかりません。わたしの信念を強くするとか、わたしの疑いがなくなることが信仰ではないのです。信仰がただそれだけなら、結局わたしのこころの問題で終わってしまいます。そうではなく、イエスさまがわたしを愛されることで、わたしのなかに今度はわたしがイエスさまを愛したいという願いを呼び起こし、わたしのうちでイエスさまが愛してくださることによって、愛は愛されて完成されるのです。ただ不思議としかいいようがありません。

ですから、わたしを愛されるのはイエスさまであり、わたしのなかでイエスさまを愛するようにしてくださるのもイエスさまなのです。それが可能になるのが、最後の晩餐の席で弟子たちを極みまで愛し、十字架の上で自分のいのちを与え尽くすイエスさまの愛、聖霊がわたしたちのうちの恵みとして注がれていることに気づかされることによって実現していくのです。信仰は、この愛の働きを信じることに他なりません。ですから信仰はわたしのこころの持ち方ではなく、信仰自体がイエスさまの恵みなのです。わたしたち人間ができることは何もないのです。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい(ヨハネ13:34)」といって、わたしにご自分の愛を与えてくださった、そのイエスさまの愛がわたしに届いていることをわたしは信じさせて頂くことしかできないのです。そして信じさせて頂けるのも、それもイエスさまの愛の働きに他ならず、神さまの愛のダイナミズムにわたしたちが入れられていることに他ならないのです。

年間第30主日 勧めのことば

年間第30主日 福音朗読 マルコ10章46~52節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日はバルティマイという目の見えない人を見えるようにされたという箇所が朗読されます。目が見えないということはどういうことでしょう。目が見えないということは、単にものが見えないということだけではなく、この世界が光に満ちているのに、その光を見ることができないということです。考えてみると、わたしたちは太陽の光があるので、いろんなものを見ることができるのですが、その太陽の光を意識するということはありません。太陽の光線は、透明なガラスを通り過ぎるとき、窓から入って来て、知らないうちに反対側へと出て行きます。しかし、ガラスが汚れていたり、曇っていたりすれば、光によってガラスが汚れていることに気づかされます。イエスさま自身が「わたしは世の光」であるといっておられますが、イエスさまの存在はこの世界のありとあらゆるものに平等に注がれ、すべてのものを刺し通す光のようなものではないでしょうか。その光は永遠の彼方からやって来て、常にわたしたちを照らし続け、わたしたちを包み込んでいます。 

わたしたちが、光を意識するのは、光を遮る強烈な何かがあるときです。光がさして影ができることで光を意識する、また教会の壮麗なステンドガラスが美しく見えるのも、太陽の光を遮るものがあるからです。とすれば、光であるイエスさま自身が意識されるのは、そこにイエスさまを遮るもの、つまり照らされ、癒され、浄められ、贖われなければならない、種々の病や、誰も癒すことのできない傷、わたしたちが抱えている罪や闇があるときだといえるのではないでしょうか。しかし過去の教会では、そのような罪、傷や弱さ、貧しさや惨めさは、イエスさまと出会うための妨げ、障がいであると教えてきました。そうではないということなのです。つまり、イエスさまの光は絶え間なくわたしたちに届いており、その光がわたしたちに働きかけていることにわたしたちが気づかされたときに、わたしたちは病をいやされたとか、罪をゆるされたとか、傷が癒されたと感じ、イエスさまがおられることを感じるのだということなのです。イエスさまを感じるのは、光を妨げているものがあるからです。そして、その働きを感じ、その妨げが取り除かれたことをわたしたちはお恵みであるといっているのです。しかし、まことの恵みとは、わたしたちのうちにある光を妨げるものが取り除かれることではないのです。わたしたちの病気がよくなったとか、傷が癒されるとか、罪がゆるされて平和になったことをお恵みであるといいますが、そうではないのです。イエスさまの光が、わたしが何であっても何でなくても、わたしに絶え間なく注がれていること自体が恵みなのです。わたしたちは、神の働きの結果を感じるだけであって、それ自体が恵みでも救いではないのです。イエスさまが働いておられること、光が注がれていること自体が恵みなのです。

今日の福音に出てくるバルティマイは、目が見えませんでした。ですから、イエスさまを見ることができません。しかし、幸い耳は聞こえましたから、ナザレのイエスのお通りだという声が耳に入ってきます。目が見えず、暗闇のうちにいても耳は聞こえていたのです。それは、遥か彼方から聞こえてくる、バルティマイを呼ぶ声だったのではないでしょうか。バルティマイは、ナザレのイエスのお通りであると聞くと、人々の制止もものともせず「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫び続けます。長い間闇の中にいたバルティマイにとっては、イエスさま、どうぞこのわたしを憐れんでくださいとしかいえなかったのでしょう。最近のミサ曲で、「イエスさま、わたしを慈しんでください」と歌っていますが、そのような中途半端なものではない、「わたしを憐れんでください」というのはバルティマイのこころの底からの叫びなのです。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」といわれ、彼は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスさまのところへやって来ます。イエスさまは、「何をしてほしいのか」とお尋ねになります。彼は、改めて自分の目が見えないことを意識します。「先生、目が見えるようになりたいのです」。これは、彼のこころからの願いであり、これはわたしたちの魂の叫びではないでしょうか。この人の目が見えるようになったときに、一番先に見えてくるのはイエスさまです。

わたしたちが探し求めているものは何でしょうか。それは、イエスさまではないでしょうか。それでは、そのイエスさまはどこにおられたのでしょうか。イエスさまは、天地創造の前から、わたしとともにおられました。そのことに気づかず、イエスさまに背を向け続けてきたのは、実はこのわたしだったということなのです。イエスさまがおられなかったのではなく、わたしがイエスさまに背を向け続けていたのです。イエスさまは永遠の光として、絶えずわたしたちを照らし、包み込んで、わたしとともにおられました。目が見えないということは、わたしが、わたしたちともにおられるイエスさまの現存に気づいていなかったということに他なりません。このバルティマイは、わたしたち自身の姿です。

ずっとイエスさまはわたしたちともにおられるのに、わたしたちが目を閉じていたのだといえばいいかもしれません。わたしたちが目を閉ざしていれば、光は入ってきません。光がないのではなく、わたしが目を瞑って光を拒絶していたのです。しかし、わたしたちが目を瞑っていても、光はわたしたちを絶え間なく照らし続けています。生まれつき目が見えないのであれば、自分が光によって照らされていても、それが闇であることさえ分からないのです。つまり、自分が闇のなかにいることさえ気がつかないほどの深い無明の闇に沈んでいる、これがわたしたち人間の姿なのです。そのようなわたしたちですが、耳は開いています。目の見えないバルティマイでしたが、ナザレのイエスさまが近づいて来られるのが聞こえます。わたしたちがどんなに拒もうとも、イエスさまのわたしへの呼びかけの声は聞こえているのです。「天は神の栄光を語り、大空はみ手の業を告げる。日は日にことばを語り継ぎ、夜は夜に知識を伝える。ことばでもなく話でもなく、その声は聞こえないが、その響きは地をおおい、その知らせは世界におよぶ(典147、詩編19)」と詩編でも歌われています。イエスさまの声は世界に鳴り響いている、それにもかかわらず、その呼びかけの声に心の耳を閉ざしてきたこと、これがもっと深い闇であるといえるでしょう。“闇”という漢字が現している通り、まことの闇は、その呼びかけの声、“音”にも門を閉ざすことなのです。

バルティマイは目が見えないという現実を通して、イエスさまと出会いました。イエスさまと出会うということは、病を治してもらうということではありません。イエスさまに聞き従うことに他なりません。イエスさまの弟子たちは、長年、イエスさまと一緒にいましたが、イエスさまに耳を傾けていませんでした。イエスさまを見ていたかもしれませんが、イエスさまを見ていません。ここに本当に見えるということは何かということが問われます。イエスさまがともにおられるということなら、弟子たちもバルティマイも同じです。違うのは、イエスさまの呼びかけが聞こえたかどうかということです。信仰は、弟子たちのように、目に見える形でわたしたちが何かをするということではありません。わたしたちは、闇のなかにいて何もできないのですから、イエスさまの呼びかけが聞こえるという事実しかないわけです。このイエスさまの声を聞かせていただくということが信仰に他なりません。信仰はわたしの努力や善意で作り出せるものではないのです。イエスさまに従っているつもりの自作の信仰は、イエスさまの受難の前にしてあえなく崩れ去ってしまいます。それは、自分のこころのあり方を頼りにしているからです。大切なことは、わたしのこころがどうかではなく、わたしに呼び掛けられるイエスさまに聞くこと、信頼することなのです。これをもって信仰というのです。信じることで、わたしの心が平和になったとか、安らかになったということではありません。信仰は聞くこと(ロマ10:17)に尽きるといえます。わたしがどう聞いたとか、どう従ったとか、安心が得られたとかいうことでさえありません。そうなると、わたしの心の問題になりってしまい、そのような信仰は絶えず不安定なものとなってしまいます。イエスさまの呼びかけが聞こえるということだけが、真実であり、そこにまことの信仰の本質があるのです。

年間第29主日 勧めのことば

年間第29主日 福音朗読 マルコ10章35~45節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の聖書の箇所は、イエスさまが3度目のエルサレムでの受難予告をされた直後のお話です。イエスさまは、「今、わたしたちはエルサレムに上って行く」といい、先頭に立ってエルサレムに向かって進んでいかれました。その姿に弟子たちは驚き、従う者たちは恐れたとあります(10:32)。さすがに鈍感な弟子たちも、周りの雰囲気やイエスさまの様子から、エルサレムに上ることは唯ならぬことであることに気づいたのでしょう。そのような状況のなかでのヤコブとヨハネの願いが描かれます。マルコ福音書は、イエスさまの3回の受難予告の直後に、無理解な弟子たちの姿があからさまに描かれています。その度に、根気強く、イエスさまは弟子としてのあり方を教えていかれます。今日のことばは、主導権争いに終始する弟子たちに対して、イエスさまの姿勢を要約したものといえるでしょう。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分のいのちを捧げるために来たのである」。これがイエスさまの自己理解であり、イエスさまが考えておられた神の国の宣教ということでした。

ヨハネ福音書の中の最後の晩餐の席で、自らが跪いて弟子たちの足を洗われるイエスさまの姿が描かれます。イエスさまは、福音宣教を人々への奉仕として理解されていました。わたしたちは、福音宣教というと、イエスさまを知らない人たちにキリスト教を教え、洗礼に導くことだと考えがちです。特に、戦後の日本の教会は、貧しく教育の行き届かない人たちに、教会の教えを伝え、教育し、洗礼に導くことを中心にやってきました。確かに、それも福音宣教の一部でしょうが、そのような捉え方は、福音宣教の真の姿を弱め、歪んだものとする危険があるといわざるを得ません。その一番大きな問題は、上から目線の教えてあげる的な布教で、イエスさまの福音宣教の姿勢とは根本的に異なっていたといわざるを得ません。

教会では、ながらく布教ということばが使われてきました。布教は大航海時代から使われた言葉であり、文字通りイエスさまを知らない人々に教え、教育をし、洗礼によって救いに導くことと定義されていました。その布教ということばは、プロパガンダ=宣伝が語源で、「特定の思想・世論・意識・行動へ誘導する意図を持った行為」であるといわれています。バチカンの福音宣教省は、かつては布教聖省といわれ、まさにそのような上から目線の発想でやってきました。大航海時代に始まる海外征服にキリスト教の宣教師が同行し、キリスト教の伝達という名のもとに霊的植民地化を推し進め、列強の植民地政策に協力してきたという経緯があります。第二バチカン公会議は、そのような教会の姿勢を改め、福音宣教(福音化)ということばをもちい、布教聖省も福音宣教省という名前に変更されました。第二バチカン公会議は、イエスさまの福音宣教の精神を再興しょうとしたのだといえるでしょう。

イエスさまの神の国の宣教の心構えは、「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分のいのちを捧げるために来たのである」ということばに要約されています。イエスさまは、福音宣教を奉仕として理解されていました。しかし、この奉仕ということばも気をつけて使わないといけないと思います。「仕える」というのですから、そこには上下関係が前提となってきます。実際、イエスさまも「あなたがたのなかで偉くなりたいものは、皆に仕えるものになりなさい。いちばん上になりたいものは、すべての人の僕となりなさい」といっておられます。少し意地悪な読み方をすると、あなたがたは偉くなりたいんでしょう、いちばん上になりたいんでしょう、それなら皆に仕えるものになりなさいという、弟子たちのレベルに合わせた方便の教えであるともいえなくもありません。主導権争いをしている弟子たちに、イエスさまはこのようにいうことが精一杯だったのでしょう。

仕えるとか奉仕するというと、どうしても奉仕する人のことばかりが取り上げられます。マザーテレサの活動は取り上げられますが、その奉仕を受けた貧しい人たちのことは取り上げられません。ノーベル平和賞を受けたのはマザーです。しかし、仕えるとか奉仕ということが成り立つためには、仕えるためには仕えさせてくれる人、奉仕するには奉仕させてくれる人が必要です。いくら仕えたいとか、奉仕したいと思っても、相手がいなければ成り立たないのです。ですから、仕えさせてくれる人は仕えてもらうということで、仕えたのであり、奉仕させてくれる人は奉仕してもらうということで、奉仕しているのです。ですから、どちらが上とか、どちらが偉いということなどないのです。わたしたちがレストランに食事にいったとき、給仕をしてくれる人がいなければ食事はできません。しかし、お客さんが来なければ給仕することもできないのです。皆がお客さんであったら、誰が給仕するのでしょうか。皆が給仕するのであれば、誰が食べるのでしょうか。日本では「お客さまは神さまです」といった時代がありましたが、神さまも給仕する人がいて、はじめて神さまになれるのです。このことがミサについてもいえるでしょう。皆がミサを司式すれば、誰が参加するのでしょう。皆が参加者であれば、誰がミサの司会をするのでしょう。ですから、そのような関係はお互いさまであり、相手があって初めて成り立つものであって、もちつもたれつであり、どちらが偉いとか、どちらが上下とかいうようなことは本来的にあり得ないのです。

それなのに、教える方が偉いとか、奉仕する方が上だとか、偉くなりたいんだったら仕えるものになりなさいなどということを教えること自体がおかしなことなのです。ですから、イエスさまは、最後の晩餐の席で弟子たちの足を洗われた後、「ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合いなさい(ヨハネ13:14)」とお命じになったのです。そして、さらに「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である(同15:12)」といって、相互愛の新しい掟、お互いに足を洗い合いなさい、お互いに愛し合いなさいとおっしゃいました。もはや、敵を愛しなさいとか、相手を一方的に愛しなさいとはいわれなかったのです。お互いにといわれました。但し、ここでイエスさまが「わたしが愛したように」といわれる愛は、十字架上で自分のいのちを与え尽くすまで愛する、そのような愛し方(同13:1)です。これは神さまの愛し方であり、わたしたち人間が通常できるものではありませんが、わたしたちが生来的に知っており、体験している愛でもあるのです。わたしたちがこの地上にいのちを受けたということは、無条件に愛されたということそのことなのです。しかしわたしたちはその愛を忘れてしまっています。わたしたちが覚えているのは、駆け引きの愛しか覚えていません。そこでイエスさまは、わたしたちのために自分のいのちを与え尽くすことによって、わたしたちにいのちの本来の姿を示してくださったのです。そのいのちの本質は、無条件にすべてを与えつくしていく愛であり、愛し愛されるダイナミックな愛、イエスさまの霊である聖霊です。「わたしの父はその人を愛され、父とわたしはその人のところへ行き、一緒に住む(同14:23)」といい、わたしたちの魂の内奥に現存する愛のいのちの働きをあきらかにしてくださいました。わたしたちはこのいのちの働きによって生かされているのです。これが、わたしたちのうちにイエスさまがおられ、わたしたちがイエスさまのうちにいるということです。

ですから、わたしが愛するときに、わたしが愛するというよりもイエスさまがわたしたちのうちにおいて愛しておられるのです。つまり、イエスさまがわたしにおいて他者を愛する、また愛されるものとなられているのです。このような愛の働きはわたしではなく、イエスさまの働きでしかないのです。この愛には、誰が誰に仕えるとか、どっちが上で下でとか、どっちが仕えるとか仕えられるというような人間の価値基準における区別、差異はないのです。愛することも愛されることも愛なのです。このような愛が、イエスさまによってすべての人に差別なく等しく注がれており、わたしたちはその愛に生かされているのです。このような愛はただ恵みであって、わたしたちが自力で獲得できるものではありません。わたしたちはこのいのちを受け、このいのちを生きるように呼ばれているのです。

年間第28主日 勧めのことば

年間第28主日 福音朗読 マルコ10章17~27節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

イエスさまはエルサレムへと向かう旅、すなわち十字架に向かう旅の途上で、ひとりの人と出会います。その人は真面目にモーセの律法を守り、誠実に生きてきた人のようです。「善い先生、永遠のいのちを受け継ぐには、何をしたらいいでしょうか」と真剣にイエスさまに問いかけます。彼は一生懸命にモーセの律法を守ってきましたが、それでも心の平和が得られなかったのかもしれません。それで、必死の思いで、イエスさまに問いかけます。子どものときから、律法は守ってきました。まだ何か足りないものがあるでしょうかと。イエスさまは、彼に「あなたに欠けているものがひとつある。行ってもっているものを売り払い、貧しい人に施しなさい。それから、わたしに従いなさい」といわれます。おそらく、彼はたくさんの財産をもっていたのでしょう。

当時のユダヤ教の理解では、財産は神さまからの祝福のしるしで、財産をもつことは悪い事ではなく、むしろ、律法を忠実に守ってきたことへの報い、祝福と考えられていました。それなのに、イエスさまは、永遠のいのちを得るためには、財産をすべて売り払わなければならないといわれます。この人は、気を落とし、悲しみながら去っていきます。それからイエスさまは、弟子たちに財産のあるものが神の国に入ることの難しさについて話されます。それでは、誰が救われるのだろうと弟子たちは驚きます。それに対して、イエスさまは、「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」といわれます。しかし、人間にはできないことだといわれているのに、ペトロは相変わらず、ずれた発言をします。「わたしたちは何もかも捨ててあなたに従ってまいりました」と。

今日の箇所は、ペトロのようにイエスさまのために進んで何もかも捨てて従いましょう、というような説教がされがちです。それでは、もしその人がもっているものをすべて売り払って、イエスさまに従えば、永遠のいのちを受け継ぐことができたのでしょうか。答えは、いいえです。もっているものをすべて売り払って、イエスさまに従ったとしても、永遠のいのちを得ることはできません。なぜでしょうか。そもそも、彼が永遠のいのちを得たかったのはどうしてでしょうか。それは、自分の救いのためなのです。自分の救いが目的なのです。問題は、財産をたくさん蓄えていたことでも、財産を売り払うことができなかったことでも、またペトロが豪語するように、何もかも捨ててイエスさまに従うことでもないのです。ペトロも含めて、彼らは人間の物差しで神の国を捉え、自分が永遠のいのちを得、救いを得ようとしていることに問題があるのです。つまり、自分の何かが目的になっており、しかもそれを自分の力で得ようとしているところに問題があります。ですから、自分の力で何もかも捨ててイエスさまに従って来たと主張するペトロも同じです。ペトロは、捨てたという行為だけを取り上げて、自分たちは永遠のいのちを受ける資格がある、救われる資格があるように主張しますが、救いは神の恵みであるとイエスさまはいわれます。イエスさまが、捨てたものは来世では永遠のいのちを受けるというようなことをいわれますから、余計にわかりにくくなります。

わたしたちがイエスさまに従うというとき、始めは自分の救いや永遠のいのちが目的であっても構わないでしょう。しかし、自分の救いとは何でしょうか。それは大抵の場合、物事が自分の思い通りになることではないでしょうか。そこには、思い通りにならない自分と思い通りになった自分があり、今すでに得ている自分では満足できないので、思い通りになる自分を探し求めます。しかし、その思い通りになることを求めている自分のこころ、それを救いと勘違いしている、それが執心(執着心)といわれるものなのです。執心は一般的な世界では、社会の中での成功体験であったり、地位や名誉であったり、愛情、健康や長寿を願うこころとなって現れます。これが宗教の世界になると、名声や名誉、人助け、霊性や聖性、自分の救い、永遠のいのちとなり、その執心のとどまるところはありません。宗教で永遠のいのちや自分の救いを願うことはよいことだと思われるかもしれませんが、名前こそ永遠のいのちや救いといっていますが、これこそ執着のもっとも深いもので法執といわれ、ファリサイ人や弟子たちが陥ったもっとも深い執着心なのです。別のいい方をすれば、宗教、信仰という名のもとに、自分の幸福や安寧、自分の生きがい、自己実現、来世のいのちを求めているのであって、どこまでいっても自分の幸せを求めてやまない執着の塊であり、我執そのもののわたしであるということなのです。利他業である人助けであってさえもそうなのです。人間では自利が入らない利他などないのです。先ずは、そこに光が当たらなければならないのです。わたしたち人間は、根底に自分の思い通りにしたいという性根が息づいています。そして、思い通りにならなければ、腹も立ち、妬む心が湧いてきますし、がっかりしたりします。しかし、どこまでいっても思い通りになる自分など、どこにもないのです。

今日の福音に登場する人は、一生懸命に律法を守ってやってきた、財産という神さまからの祝福もいただいた、でも何か足らないものを感じていたのでしょう。それは、そうだと思います。なぜなら、彼が求めていたものは、自分の思い描く永遠のいのちであって、イエスさまがいわれる永遠のいのちとは根本的に異なっています。わたしたちが、本当に魂の深みで求めているものは、我執から出たようなものでは満たされるものではないからです。先ずもってわたし自身がずれており、イエスさまはそのことに気づかせるために、彼のこころが囚われているところに切り込んでいき「もっているものを、すべて売り払いなさい」とチャレンジされました。大切なことは、財産をもっているかどうかではなくて、また財産を捨てられるかどうかでもありません。わたしたちのこころが囚われていることに気づくことなのです。実際、ザアカイはイエスさまを家に迎え入れましたが、財産を売り払うことは要求されませんでした(ルカ19:8)。

イエスさまに従うとき、イエスさまと出会っていくとき、自分の救いや永遠のいのちなど、もはや目的にはなり得ないのです。始めはいいかもしれませんが、イエスさまに従っていくプロセスのなかで、イエスさまとの関わりが深まっていけば、自分の救いというような自己中心的な目的は浄められていき、問題ではなくなっていきます。そして、イエスさまに従うために、全財産を放棄することや人助けをすることが目的や条件でないこともわかってきます。むしろ大切なことは、イエスさまとの関わりを通して、ありのままの自分に出会っていくことだといえます。そうすると、わたしたちは、自分がどれほど自己中心で、我執の塊であるかということが見えてきます。わたしたちがありのままの自分と出会うことは、イエスさまとの出会いを通してのみ可能なのです。いろいろな自己分析や識別によってではなく、イエスさまとの出会い、イエスさまの光のもとでしか真実の自分を知ることはできません。イエスさまなしに自分を見つめれば、そこには暗闇と絶望しかありません。あるいは、ありのままの自分を見つめることから、どこまでも逃げ続けるかです。でも、逃げても逃げても、自分はどこまでも追いかけてきます。

誰がそのようなわたしを解放し、救ってくれるのでしょうか。それは、「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」といわれるイエスさまのいつくしみの眼差しに出会うことしかないのです。パウロも、「わたしはなんと惨めな人間なのでしょうか。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」とうめき声をあげます。しかし、直ちに「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします(ロマ7:24~25)」と感嘆の叫びをあげます。イエスさまのいつくしみの光を通してのみ、わたしたちは真実の己というものを知らされ、わたしたちの救いであるイエスさまの姿がはっきりと見えてきます。イエスさまの姿がはっきりすれば、わたしたちがどうしなければならないか自然に知らされてきます。わたしの救いやわたしが永遠のいのちを得ることなど、どうでもよくなるのです。真理であるイエスさまと出会うとき、わたしたちはわたしの救いから解放されるのです。

年間第27主日 勧めのことば

年間第27主日 福音朗読 マルコ10章2~16節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の聖書の箇所は、しばしばカトリック教会における結婚の不解消性の根拠として述べられているところです。しかし、イエスさまがここで話された意図は、結婚の不解消性について述べるためではなく、当時の女性の権利を擁護するための発言であるといえます。この話は、その直後に来る、子どもを祝福するという箇所と密接に結ばれています。というのは、その当時、女性と子どもという存在は、社会的に権利が認められていないものの代表であったからです。その点から、今日の箇所をもう一度読み直してみたいと思います。

今日の箇所は、イエスさまがガリラヤからエルサレムへ向かう途上での出来事です。そこには、イエスさまの教えを聞こうとして多くの人が集まってきますが、イエスさまに対して明らかに敵意を抱いているファリサイ派の人々も混じっていました。ファリサイ派の人々にとって、イエスさまは律法の違反者として映ったようです。というのは、夫が妻を離縁することは、モーセの律法において男性側の権利として認められており(申命記24:1)、イエスさまの時代において通常のことになっていました。それにもかかわらず、ファリサイ派の人々が、「夫が妻を離縁することは、律法にかなっているでしょうか」と質問したのは、おそらくイエスさまが離婚について、通常のモーセの律法解釈とは異なる考えをもっていることを彼らは知っていたのでしょう。共同訳聖書では「夫が妻を離縁することは、律法にかなっているでしょうか」と訳されていますが、原文では「夫が妻を追い出すことはゆるされていますか」と書かれており、「律法にかなう」という言葉はありません。誰か親切な人が書き加えたのでしょう。ですからイエスさまは、「モーゼはあなたがたに何を命じたか」と質問しておられるのです。このファリサイ派の人たちの質問は、真心からのものではなく、イエスを試み、陥れようとする悪意から出たものでしかありません。結婚を擁護するような意図はまったくなく、男性の立場から、ただイエスさまを律法の反対者として告発するためのものでした。まして、離婚を認めないという教会の教えの根拠ではありません。

イエスさまは、離婚をゆるしている律法を神さまの本来の意図によるのではなく、「あなたがたの心が頑固なので」与えられた次善の策であると理解されていたということです。このようなユダヤ人にとって教えの本質である律法を再解釈し、なおかつ相対化し、律法を超えるものを目指していく発想は、エルサレムの陥落後にユダヤ教から独立していった後代の教会のものではなく、イエスさま自身に由来するものであると思われます。なぜなら、マルコ福音書は紀元70年のエルサレムの陥落以前に書かれたものであり、イエスさま自身の教えに由来するものが書き記されているといえるからです。70年以降に書かれた他の3つの福音書は、ユダヤ教の一派であったナザレ派から、キリスト教になっていく過程で書かれたものであり、その時々の教会の状況が色濃く反映されています。そのように見ても、このような律法に対する捉え方は、イエスさまに由来するものであり、当時のファリサイ派の人々にとっては受け入れがたいことだったと思われます。それゆえ、ファリサイ派の人々はイエスさまと激しく対立し、ファリサイ派の人々は、イエスさまを律法の違反者としてゆるすことはできないと考えたのでしょう。しかし、イエスさまは、男性にだけ離婚する権利を認め、女性にはその他種々の権利を一切認めない、当時の律法という名のもとに行われている男性中心主義的な恣意的な暴力を批判されたのだということができるでしょう。ここで問題とされていることは、権利や既得権をもった男性によって、しかも、宗教という名のもとにおこなわれている弱者への抑圧、暴力ということが問題になっているのです。ですから、この箇所をもって結婚の不解消性を主張するのはまったく論点がずれていることになります。

この後に続く、子どもたちとのやり取りも同じ問題であるということを理解すれば、なぜこの箇所の直後に、子どもの祝福の箇所が置かれているのかもよく理解することができます。マルコ福音書では、すでに「わたしの名のためにこのような子どものひとりを受け入れるものは…(10:37)」とあり、イエスさまが弟子としての心構えについて話しておられます。聖書のなかで、“子ども”ということばは、幼児から12歳までの子どもを指しています。この年齢の子どもたちは、律法を理解できず、また律法を守ることもできません。それゆえに神さまの前に何の価値もないものとして扱われていました。しかも、ユダヤ教、特にファイリサイ派では、人は律法の遵守によってのみ、神さまによって義とされると考えられていました。律法を完全に守れない女性や子どもたちは、人としての価値を認められていなかったという当時の状況があるわけです。そのような当時のユダヤ教の価値観に対して、イエスさまは憤って「神の国はこのようなものたちのものである」といわれました。当時の人々の考えていた神の国は、律法によって示されている神の意志への従順によってもたらされると考えられていました。つまり、人間の力で神の国を建設できると考えられていました。また、神の国は、世の終わりの到来によって、世界が神を認めるようになることによってもたらされるとも考えらえられていました。第1のものは人間の力、努力による報いとして、第2のものは将来的、来世的な希望として神の国を理解しようとするものでした。

その点からすれば、「神の国はこのようなものたちのものである」というイエスさまの主張は、神の国はいつどのようにくるのかという発想と異なっていることがわかります。イエスさま自身「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』といえるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ(ルカ17:20)」といわれています。ここで「見える形では」といわれていることばは、「オブザーバーとしては」という意味です。つまり、神の国というのは、わたしたちが外に立って眺めることができるようなものではなく、わたしたちが部外者としてその外に立つことができるようなものではない、あなたがたそのままが神の国ですといっているのです。つまり、神の国はいつか、どこかにきて、そこへわたしたちがどのようにかして入るとか、入れないとかいうようなものではなくて、あなたがたが神の国の当事だという意味なのです。わたしたちが決して出ることができない、わたしたちが生かされている神のいのち、永遠のいのち、三位一体の交わりが神の国だといっているのです。わたしたちは、神のいのち、永遠のいのち、三位一体の交わりから出ることはできませんし、出ることはありえません。すべての生きとし生けるものをすべて包み込んで流れていく根本的な大生命のようなものなのです。魚が水を離れて、魚でいることができないように、鳥が空を離れて、鳥でいることができないように、東洋でいわれているところの無、空といわれているような何かであり、それなくしては、わたしはわたしでありえないところの何かであるといえばいいかもしれません。キリスト教では、それを神の国、永遠のいのち、聖霊、神の働きといってきたのだと思います。

神の国に入るために必要なことは、といっても神の国に入るとか入らないということなどないのですが、あえていうならば、わたしたちが神の国に気づくということが「子どものように神の国を受け入れる」ことであるといわれているのです。子どもたちは、律法を守ったり、功徳を積むことも、犠牲を捧げることもできません。ですから、子どもたちは神の国に入るためには何もできません。しかし、そのようなことなど何も問われていない、あなたがたが生きていることが神の国なのだということに気づくこと、人間が作り出した垣根を取り払うこと、それがイエスさまの時代では律法を守れるとかどうかという区別を取り払うこと、律法を相対化することだったのです。さて、わたしはどの垣根を取り払うのでしょうか。

年間第26主日 勧めのことば

年間第26主日 福音朗読 マルコ9章38~48節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の箇所はマルコの福音書の中でも、非常に解釈が難しい箇所です。多くの人は、この箇所を読むときに大きな勘違いをしてしまいます。いのちに与るために、神の国に入るために、地獄に落ちないために、罪を犯すぐらいなら、自分の手を切り取り、足を切り取り、目をえぐり出すという英雄的な行為をしなさいといわれているように読んでしまいます。そのぐらい、神の国に入るのは大変だという話になってしまっています。実際にそのようなこと、キリスト教の教えを守るために殉教したり、誘惑に打ち勝つために特別の修業をしたりする人たちがいて、その人たちが殉教者、聖人としてほめたたえられてきました。それはそれでいいかもしれませんが、なぜそのような聖書の読み方をしてしまうのかというと、みな自分を主人公として読んでしまうからです。ひとことでいえば、みな自己中だからです。イエスさまが問題にしておられたのは「これらの小さなものひとりをつまずかせる」ことです。しかし、いつのまにか、わたしが地獄に落ちたくない、わたしがいのちに与りたい、わたしが神の国に入りたいというふうに、無意識に読み替えがおこなわれているのです。そう思っているのは誰かというと “わたし”なのです。ただ、わたしが地獄に落ちたくない、いのちに与りたい、神の国に入りたいというところに視点がずれてしまっているのです。それは全部自分のため、自分のために功徳の積立をしているだけであって、イエスさまの中にそのような考え方は一切ありません。そんなことを考えている時点で、すでに神の国とは全く違ったものになってしまっているのです。

ここでイエスさまがいわれたのは「これらの小さなもののひとりをつまずかせる」ことの問題であって、わたしの救いなど問題にされていないのです。それを、いつのまにか焦点が、「小さなもののひとり」から、「わたしの救い」に転化してしまっています。イエスさまが目を向けられたのは、「この小さなものひとり」を大切にすることです。ここで、イエスさまが問題としておられるのは、弟子たちの特権意識、教化者意識です。弟子たちの特権意識というものは、自分たちこそがイエスさまの弟子で、自分たちこそがイエスさまに従っており、自分たちこそイエスさまの正統な後継者であるという意識です。また、教化者意識というのは、自分たちが正統であり、自分たちこそ正しい教えをもっており、自分たちが人々を教えていかなければならないという意識です。そのような自分たちこそが正しいもの、正統なもの、力あるもの、教えるもの、指示するものであるという意識が、「これらの小さなもののひとりをつまずかせる」とイエスさまはいわれたのです。

過去の教会の中では、罪を犯すぐらいなら、また誘惑を避けるために、自分の手を切り、足を切り、目をえぐり出すという人たちがいました。でも、彼らが守ろうとしたのは、キリスト教の教えを信じている他の人とは違う“特別なわたし”であって、「これらの小さなもののひとり」ではなかったのです。このような信仰理解は、自分の意志を信仰と置き換え、どれだけ自分の意志を強くもてるかということが信仰深いことであると勘違いしてしまったのです。このような信仰理解は、信仰という恵みを自分のものとして握りしめてしまい、イエスさまを信じている特別なわたしに執着しているだけで終わってしまいます。

イエスさまがいつも最優先されたのは、「これらの小さなもののひとり」です。「これらの小さなもののひとり」とは、いわゆるかわいそうな、貧しい人たちのことではありません。先週の福音であれば、子どもであり、赤ちゃんであり、ユダヤ教の中では律法を守ることすらできない価値がないとされていたものたちです。これは、わたしであり、わたしでない人たちのことなのです。わたしたちは価値があるから神の国に入るのでもないし、価値がないから神の国に入れないのでもないのです。神の国は、人間の価値基準と関係ないのです。

これがイエスさまが宣べ伝えられた神の国の価値観であり、「わたしたちに従わないのでやめさようとする」ような自分たちを正統とし、そうでないものを異端とする特権意識とも真っ向から反対するものです。地獄というのを教義的な地獄として教えようとする教化者意識とも違います。そもそも、ここで使われているゲヘンナとはエルサレムの都の南側にあったゴミ焼き場のことであって、教義で教えられるような地獄ではありません。それを、あたかもイエスさまが地獄について教えられたかのように教え、注釈でも永遠の罰を受ける場の意味になったと書かれていますが、これはイエスさまの意図ではありません。イエスさまは、誰かが永遠の罰を受けることや滅びることなど望んでおられません。

イエスさまがおっしゃりたかったのは、わたしたちの中に潜む特権意識や教化者意識のもつ危険であって、誘惑を受けないように手足を切り、目をえぐり出せとか、そして神の国の入るためにがんばれとか、地獄にいかないようにしろといわれたのではないのです。このもっとも小さなもののひとりを大切にしていくこと、つまり、誰が正しいか正しくないかとか、誰が仲間であって仲間でないかとか、誰が大きくて小さいとか、誰が天国に入って地獄にいくとかいう考え方をやめなさいといわれたのです。なぜなら、このもっとも小さなものは、正しいことを何もできない、律法を守ることもできない、人のために何も良いことをすることもできない、彼らは天国にいくために何もできないのです。しかし、神の国は彼らのものだとイエスさまはいわれたのです。イエスさまがいわれるのは、何かができるからとか、何かをやったからとか、よいことをしたから、神の国に入るのではないといわれたのです。神の国はそのような人間のよしあしを超えたものだということをいわれたのです。この小さなもののひとりを受け入れるものが、わたしを受け入れるのだ、それが神の国ですといわれたのです。

年間第25主日 勧めのことば

年間第25主日 福音朗読 マルコ9章30~37節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の福音はイエスさまが2度目のエルサレムでの受難予告をされた後の物語です。イエスさまのエルサレムへの旅は、フィリポ・カイザリアからガリラヤへ、ガリラヤからエルサレムへと舞台が変わっていきます。イエスさまは、エルサレムへ出発される最後のときを、ガリラヤでの宣教拠点とされたカファルナウムで過ごされました。

フィリポ・カイザリアからカファルナウムへと向かう旅の途中で、弟子たちの関心事は、イエスさまがエルサレムで政権交代を果たされたあかつきには、誰がどの役職に就くかということでした。自分がどの省庁の大臣になるかということです。一方で、イエスさまは弟子たちに、自分がエルサレムでどのような最期を迎えるかを話されます。「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と。弟子たちは、イエスさまが何をいわれているか分かりません。というか、弟子たちの世界には、失敗、成功という価値観しかなく、自分たちのリーダーであるイエスさまがエルサレムで失敗されることは考えられなかったのでしょう。イエスさまと弟子たちの乖離ということが描かれています。イエスさまは、全部で3回の受難予告をされますが、いずれもその直後に弟子たちの無理解ということが描かれています。第1回目の後には、ペトロへの諫言と叱責、第2回目は、弟子たちの覇権争い、第3回目は、ヤコブとヨハネの願い-これも弟子たちの覇権争いですが-となっています。イエスさまの働きへの弟子たちの無理解ということが、一貫して描かれるのがマルコ福音書の特徴です。先週の福音で、イエスさまは弟子たちに、「あなたがたはわたしを何者だというのか」と問いかけておられますが、イエスとは誰かということを問い続けること、それはつまりわたしというものは何かを問うことでもあるのです。     

通常、わたしたちが様々な計画を立てるのは、人生を自分の思った通りに進めたいという欲があるからです。そして、その欲を何が何でも推し進めようとします。ですから、弟子たちにとって、失敗すると分かっているエルサレムへの旅というものは、理解できないというか、分からないのは当たり前です。人間の考える幅というものは、それほど大きくありません。自分の想定できる範囲内で、すべてを収めようとします。失敗を恐れますから、リスクを侵さないようにし、その想定内に収まらないときには想定外ということになります。弟子たちは、怖くてイエスさまに尋ねられなかったと書かれていますが、それはそうだと思います。弟子たちの計画、想定にはないことを、イエスさまはしようとされているわけですから、当然理解することはできないし、聞くに聞けないのです。12使徒といわれた弟子たちは、そのようにまったく世俗的で凡庸な人々だったのです。彼らの関心事は、自分たちの中で誰がリーダーシップを取って、権力を握るかということしかありませんでした。彼らが教会のリーダーだったわけです。情けないといえばそうですが、これはわたしたち人間世界の現実でないないでしょうか。

そのような弟子たちに対して、イエスさまはひとりの子どもの手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて、「このような子どもを…」と話し始められます。抱き上げるわけですから、子どもといっても大きな子どもではなかったと思います。また、もう少しあとの箇所では、「子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることができない(10:15)」といっておられます。当時のユダヤ教の世界では、人としての地位を認められていたのは13歳以上の男子だけで、女性、子ども、病人や障がい者、罪人とみなされる職業についている人たちは人扱いされませんでした。その中で、子どもは無力で弱い立場におかれた人々の代表として捉えられています。子どもであるということは、自分では何もできない存在で、両親やそれに類する人たちに保護してもらい、誰かに頼るしかできない無力な存在です。ユダヤ教の律法を守ることができない存在ですから、子どもたちというのは、神さまから嘉せられる存在ではなかったのです。しかし、イエスさまは、「このような子どものひとりを受け入れるものは、わたしを受け入れるのである」といわれ、「子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることができない」といわれたのです。

弟子たちの価値観は、何かができる人が偉く、そしてその人が力を握る。失敗や挫折することは悪で、ダメなことという価値観です。ですから、子どものように無力で、何もできないということは、価値がなく、無意味ということになります。わたしたちの通常の価値観もそうではないでしょうか。人間として強いこと、力があること、誰かに何かをしてあげられること、何かを与えられるものであること、他者を助けることができるものであることがよいことだと思っています。わたしが非常に気になることは、カトリック教会がいつもそちら側に立っていることです。確かに、わたしたちが誰かに何かを与えること、施すこと、面倒をみること、何かわたしがすることはそれなりに尊いことだと思います。しかし、もしわたしたちが、誰かに何かを与え、施し、面倒をみ、わたしが何かをできるとしたら、それはわたしが与えるものを受け取ってくれる人がいて、施しを受け取る人がいて、面倒をみられる人がいて、わたしに何かをさせてくれる人がいてはじめでできることなのです。全員が与える人、施す人、面倒をみる人であれば、そのこと自体が成り立ちません。わたしたちが何かをできるとしたら、それはたまたまわたしたちが何かをもっていたり、何かをすることができたり、そのような力をもっているだけなのです。それはたまたまなのです。状況が変われば、与える側にも与えられる側にもなります。お互いさまなわけです。どちらが偉いとか、偉くないということではありません。怖いことに、教会は自分たちがもっている側、与える側、してあげる側であると思い込んでいることです。それなら、弟子たちの価値観と何ら変わりません。

わたしたちは誰もが、何もできない赤ちゃんとして生まれてきますが、だんだんできることが多くなり、何でも自分でできるようになります。しかし、最後に何もできないものになります。人間は必ず老い、病気になるのです。どんなに健康で、どんなに美しくて、活動的な人であっても、最後には必ず、誰かから何かをしてもらう側になる、施しを受ける側になる、介護を受ける側になるのです。与える存在ではなくて、与えられる存在になるということです。そのようにして、わたしたちは自分が与えられた存在であることを学ぶのではないでしょうか。この世界は、何かができるようになること、強くなることは教えてくれますが、何かができなくなることを教えてくれません。強くなること、できるようになることは評価され肯定されますが、できないこと、弱いことは否定されがちです。しかし、イエスさまは「このような子どものひとりを受け入れるものは、わたしを受け入れるのである」といわれました。これは弱い人を受け入れて助けなさいとか、子どものように謙遜になりなさいといわれたのではないのです。

イエスさまが、わたしたちの世界に来られたときに、小さなか弱い幼子として来られました。幼子は、誰かが受け止めて、守って養い育てなければ生きていくことができない、無力な存在です。わたしたちもそのようにしてこの世界にいのちを受けたのです。それは、わたしが何かができるようになって、強くなって、権力を振るって、人々を支配するためではないのです。自分が与えられるものであることを学ぶため、面倒をみられ、何もできないものとなることで、自分が与えられたものであることに気づき、自分は与えるものでもあるけれど、与えられたものであることを学ぶためではないでしょうか。わたしたちは、自分を手放すことによって、本当の自分、与えられた存在に還っていくのだと思います。そのことをイエスさまは「子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることができない」といわれたのです。わたしたちは人生において、弱さを学ぶことができる、これこそが希望です。

年間第24主日 勧めのことば

年間第24主日 福音朗読 マルコ8章27~35節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の箇所は、マルコ福音書における大きな分岐点にあたる箇所が朗読されます。イエスさまは、故郷のガリラヤで病人をいやし、罪人にゆるしをもたらし、貧しい人々に神の国の福音を積極的に述べ伝えてきました。しかし、イエスさまが直面されたのは、ファリサイ派の人々の反発と批判、身内や故郷の人々の無理解、そして、弟子たちの無理解でした。イエスさまの孤独感は高まり、宣教活動にも陰りが見えてきます。そのような状況の中で、ヨルダン川の源流の北限の地であるフィリポ・カイザリアに行かれます。どのような思いで、フィリポ・カイザリアに行かれたのでしょうか。

イエスさまがガリラヤでの宣教で直面したのは、人々の反対と熱狂、そして熱狂している人々のうちに見られる勘違いと無理解でした。人間は皆自己中心なので、自分の思いや願いをかなえられることを最優先にします。そして、多くの宗教は人間の思いをかなえるという形で人を誘導し、むしろ人間を迷いの方向に導き、宗教の本来の姿を見えなくさせてしまっています。宗教に入信して一生懸命精進しても、自分の願いや思いがかなわないとき、指導者に相談すると必ずといっていいほど、祈りが足らないとか、信心が足らないとか、精進が足らない、献金が足らないといわれます。いわれた方もそうかなと思い、ますます熱心になり、精進するということが繰り返されます。しかし、そもそもその根底にある勘違いは、宗教をすることや信仰をすること、祈ることや修行をすることで、自分の思いや願いが成就されると考えているということなのです。また、宗教の方も自分たちは特別なもので、救われるのは特別なものであると考えているということです。それらは、いずれも根本的に間違いなのです。それだけなら、ただの自己実現、自己充足にひたっているだけに過ぎません。

そもそも人間は、一般的にいって、苦しみからの救いを宗教に求めてきたのでしょう。ガリラヤの人々が求めたものも、例えば病気の回復、貧困や飢えからの解放、いろいろな人生における困難の解決を救いと考えていたと思います。または、旧約聖書のイザヤ書にある「苦しむしもべ」のような、苦しみの意味を求めたり、また生死の意味を求めたりします。また、実際的に死後の行方を求めるということもあります。そして、そこから反転して、宗教をこの世の道徳の基礎として説明するという構図もあります。つまり、死後に天国に行くために、この世でよいことをしようという、この現世での道徳の基礎として宗教を求める理由になっていきます。このように、人間はどの時代においても宗教を求める心理というものをもっているように思います。しかし、このような人間の素朴な宗教心は、イエスさまが感じられたこと、つまり自分が教えれば教えるほど、奇跡をおこなえばおこなうほど、むしろ人々を迷わせてしまっているのではないかという疑念、自己嫌悪になっていったのではないでしょうか。イエスさまは、自分が伝えようとされた神の国の真実と人々の思いの間に、あまりにも大きな乖離があることを痛感せざるを得なかったのだということです。そこで、イエスさまは、ガリラヤでの宣教活動に終止符を打って、ユダヤ教の中心であるエルサレムへいくことを考え始められるというのが、今日の箇所であると思います。

そこでイエスさまが弟子たちに、「人々は、わたしのこと何者だといっているか」と尋ねるという話がつづきます。このことは教会では大切なペトロの信仰告白として捉えられていますが、これは後の教会でのイエス・キリストへの信仰告白を土台とした教話の挿入です。ペトロの「あなたは、メシアです」という答えは、「あなたはイスラエルの新しいまことの指導者になられます」ぐらいの意味しかありませんでした。事実、ペトロの勘違いは、イエスさまが十字架上で亡くなられた後も続きます。ペトロがイエスさまの神の国の真実に気づかされたのは、復活されたイエスさまとの出会いの体験後なのです。ここで、むしろ大切なのは、ペトロの告白後に語られるイエスさまの生き方とその教えにあるといえるでしょう。

非常に簡単にいうと、イエスさまは自分が殺されること、それが自分の人生、生きることだといわれたのです。そのことをイエスさまは「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥され殺され、三日の後に復活することになる」といわれ、「自分のいのちを救いたいと思うものは、それを失うが、わたしのため、また福音のためにいのちを失うものは、それを救う」といわれたのです。人は皆、生きていれば死ぬ、しかし、死ぬことによって人は生きるのだといわれたのです。そして、それがイエスさまの後に従うこと、人間として生きることだといわれたのです。ある意味で、当たり前のことをいわれたのです。

大体の人間は、自分が生きていて、自分は自分で生きていると思っています。ですから、このようなイエスさまのことばが衝撃的に聞こえるわけです。しかし、少なくとも、わたしたちは自分の意志で生まれてくる人は誰もいません。そして、死ぬことも自分の意志ではコントロールできません。わたしたちが、自分が生まれることは決められないとしても、死ぬとき死ぬのはわたしであるのに、その死ぬことをわたしの意志では決められないということなのです。つまり、生まれてきたことも死ぬことも、わたしの意志ではないのです。生まれてきたので死ぬまで生きていく、これがわたしの人生だということなのです。それが、わたしたちはこの世に生まれて、だんだん大きくなっていくと、このからだ、このいのちは自分のからだ、自分のいのちであるように思いこみ、この人生は自分の人生であると思いこんでしまうのです。そして、自分の意志で生きていると思ってしまっている、だから自分の思い通りにならない自分の人生や死を、宗教を持ち込んで解決し、意味付けをしようとする、そこら辺から宗教が始まったのではないかと思います。そのように、わたしの思いをどこまでもすえ通らせようとするわたしたちに、「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」とイエスさまはいわれたのです。特に現代社会は、自分が自分の力や意志、科学の力で生きていると思い込んでしまっているのです。現代の個人主義はその最たるものです。しかし、わたしのいのちだと思っているいのちはわたしが作ったわけではないのです。では今生きているわたしは、一体だれが望んだのだということになります。それを神さまが望んだのだというのが宗教なのでしょう。しかし、その神さまはわたしだけの都合に合わせて、わたしを作っておられませんし、誰かの都合や思惑に合わせておられわけでもありません。ただ今こうして自分が生きてあるということ、そのこと自体が奇跡のようなものです。そのことが、あますところなく満ち溢れていることに気づくこと、それがまことの宗教のように思います。

そのことをイエスさまは、生きて死ぬといわれたのです。ですから、死ぬことによって生きること、生きるとは死ぬことだといわれたのです。だからわたしたちの思っているような救いなどもともとないのです。救われたよう思うことで、真実に気づかされるということではないでしょうか。わたしたちの人生の中での苦しみや困難が歴然として存在することには変わりません。しかし、苦しんでいるのは自分で、苦しみを苦しみとしているのはわたしであって、それがわたしの人生の中で起こっていることなのだと気づくこと、それにもかかわらず、わたしは生きている、今、生かされているということに気づくとき、それが救いであり、安寧であり、今まで苦しんでいた世界とは別の世界-同じ世界なのですが-がみえてくるということなのです。それをイエスさまは、「自分のいのちを救いたいと思うものは、それを失うが、わたしのため、また福音のためにいのちを失うものは、それを救う」といわれたのだと思います。