復活節第4主日 福音朗読 ヨハネ10章27~30節
<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗
今日のヨハネ福音書の中で、イエスさまは良き牧者として、わたしたちに永遠のいのちを与えるといわれています。そもそも、永遠のいのちとは何なのでしょうか。キリスト教ではどうも永遠のいのちを、来世のいのち、よいことをした人が死んだ後に報いとして受けるいのち、罪を犯した人は受けることができないものというような単純な考え方をしているように思えます。確かに聖書を読むと、永遠のいのちをそのように説明する箇所もあります。しかし、その箇所はあくまでも神の国のたとえとして語られているだけであって、そのまま真実として読む必要はありません。ヨハネ福音書に中には、永遠のいのちについての定義と思われる箇所があります。そこには「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです(17:3)」といわれています。永遠のいのちとは、唯一のまことの神である方とその遣わされたイエスさまを知ることですといわれています。永遠のいのちは、来世のいのちでもなく、わたしたち人間の業、行いへの報いとして与えられるものでもないのです。
唯一のまことの神である方とイエスさまは、わたしたちが生まれる前から、わたしたちがその方を認め信じる前から存在しておられます。ですから、永遠のいのちは、ご褒美のようにわたしたちに与えられ、わたしがあるときから手に入れるようなものではなく、わたしたちが信じたことで与えられるようなものでもないことがわかります。わたしがその方を知っているか知っていないか、また信じるか信じないかというような人間の精神活動やわたしたちの信仰心とは関係なく、唯一のまことの神、イエスさまは存在しておられるからです。つまり、唯一のまことの神とイエスさまご自身が永遠のいのちであるといわれているのです。これを、一般的にわたしたちは、創造的恵み、内在的恵みと呼んでいます。わたしたちに意識されませんが、恵みとしてわたしたちの中に働いています。これは、いわゆるわたしたちを助けるために与えられる恵みではなく、世界を創り生かし、わたしたちの意思に関係なくわたしたちをこの世界に存在させ、わたしたちを存在の根底から生かし、わたしたちに自分自身を与え続けている存在のことをいうのです。その働きを神のいのち、永遠のいのちといい、恵みの中の恵みであり、その神の恵みは神ご自身に他ならないのです。ですから、わたしたちはすでに神のいのち、永遠のいのちの中にあり、その中に生きているのです。しかし、わたしたちはその永遠のいのちによって生かされていることを知りません。ですから、永遠のいのちとしておられるまことの神とイエスさまを知ることが、わたしたちの永遠のいのちなのです。もう少し説明してみましょう。
当たり前のことですが、わたしたちはいのちというものを意識する前に、いのちを受けて生まれてきました。そのいのちはわたしたちに与えられたものであり、両親や家族、環境、国などもすべて与えられて、わたしたちはそれを引き受けてこの世に生まれてきました。ところが与えられたものをすべて引き受けていたわたしが、知恵がつき、言葉を覚えはじめていくと、「わたし」ということをいいだします。与えられたものをすべて引き受けていたはずなのに、「わたし」ということをいいだすと、「わたしがする」、「わたしのものだ」といい始めます。与えられたいのちの上に「わたし」ができたにもかかわらず、「わたしのいのちだ」といっていのちに執着するようになります。わたしの両親、わたしの家族、わたしの国など、すべてわたしを中心にして与えられたものが逆転していきます。そして、わたしの都合に合わないものは受け入れられなくなってきます。すべてのものがわたしでないところから与えられたものであったのにもかかわらず、「わたしのものだ」と主張し、わたしの基準で考えた人生設計をしようとします。しかし、何ひとつわたしの思う通りにならないわけです。それで怒ったり、嘆いたり、苦しんだり、悩んだりするわけです。
わたしたちの人生の中でいちばん思い通りにならないものは、わたしのこころとわたしのいのちです。腹を立ててはいけないと思っていても腹が立ちますし、信じなければならないと思っても疑いのこころが湧いてきます。1日でも自分のいのちを延ばしたいと思っても、自分の力で短くすることも長くすることもできません。ですから、もしわたしのこころやいのちが自分の思い通りになるなら、それを手に入るためにわたしたちは何でもすることでしょう。わたしたちは、わたしの思い通りになるものを「わたしのもの」であるといいます。そして、「わたしのこころ」、「わたしのいのち」といってわたしの所有物であると勘違いしていきます。しかし、わたしのこころもわたしのいのちも何ひとつとして、わたしの思うようにはならないのです。それと同じように、永遠のいのちも、わたしが何とかすれば手に入るものだと勘違いしています。それで祈ったり、修行をしたり、人助けをしたり、いい人になろうとする。そしてそれが手に入ると思う。しかし、すべてわたしを出発点にしてものごとを考えている限り、永遠のいのちが何であるかわからないし、永遠のいのちはすでに与えられているのに、それを探し続け、永遠のいのちを手に入れようとします。
永遠のいのちは、わたしたちが手に入れることなどできないし、またその必要もないのです。永遠のいのちは、すでにわたしたちに先立ってあり、わたしたちに先立って与えられているのです。つまり、永遠のいのちは、わたしたちに先立ってある唯一のまことの神であり、イエスさまであり、そのいのちを「わたしのいのち」であると勘違いしているのであって、すでに与えられているいのちのことなのです。それをわたしのいのちだと主張しても、そのいのちは一切わたしたちの思うようにはならないのは当たり前なのです。それは永遠のいのち、神のいのちであって、わたしのいのちではないからです。わたしたちが気づかなければならないのは、わたしのいのちと思っているいのちが、永遠のいのちであって、わたしたちに先立って与えられた唯一のまことの神とイエスさまであることを知ることです。その真実を知って、そのいのちの動き、流れにわたしたちを委ねていくことなのです。
永遠のいのちとはわたしたちのいのちを離れて別のところにあるのではなく、わたしたちのいのちも永遠のいのちと別のいのちではありません。わたしたちは、わたしがわたしのいのちを生きるのだと錯覚していますが、このいのちは大きな永遠のいのちであって、そのいのちの流れに乗ることが、わたしが生きることなのです。このいのちは生きもの、いのちですから、いのちそのものの中に動きをもっています。そしてその大きないのちの流れの中に生きることも死ぬこともあるのです。ですから生きることと死ぬことは別のことではありません。この大きないのちを知ることが永遠のいのちであって、わたしが何かを信じ込むことによって永遠のいのちを手に入れるのでも、新たに別のいのちとして与えられるのでもないのです。そのいのちはイエスさまの生きざま、死にざまとなって現れました。ですから、イエスさまの生き方にわたしたちが合流していくことが永遠のいのちです。わたしの小さな頭で考えて信じ込むのではなくて、イエスさまの大きないのちの中に入ることを信仰というのです。わたしたちが頭で考えている思い込みやわたしの信仰は壊れていきますが、イエスさまの大きな思いは壊れません。
道元禅師が「仏道をならうということは、自己をならうなり。自己をならうとは、自己を忘れるなり」といいました。そのことをパウロは、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしのうちで生きておられるのです(ガラ2:20)」といったのです。自己を知り、自己を忘れること、自分の思いを手放していくこと、すべてに自分を入れない生き方をしていくこと、そこにまことのいのちがあるのです。華道で花を活けるとき、わたしがどう活けるかではなく、花がどうしてほしいかを聞く、そのことに通じるものではないでしょうか。