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年間第23主日 勧めのことば

年間第23主日 福音朗読 マルコ7章31~37節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の聖書の箇所は、イエスさまが、耳が聞こえず舌の回らない人を癒された箇所です。そこでは「エッファタ」という印象的なことばが使われます。「エッファタ」というのは、当時のユダヤ人が使っていたアラマイ語で「開け」という意味です。おそらくイエスさまが直接に使われたことばで、人々にとって非常に印象的であったので、ギリシャ語で聖書が書かれたとき訳されることなく、そのままアラマイ語が残されたのだと思います。そのようなものとして「タリタ、クム」、「アッバ」、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」などがあります。これらはイエスさまに由来することばであるといわれています。

さて、耳が聞こえず、ことばが話せないということですから、それは生まれつきの障がいであったという可能性が高いことがわかります。生まれつき耳が聞こえないということは、音として情報が一切入ってこないということですから、目で入ってくるものが何であるかがわからないという状況になります。つまり、人間は発達段階の中で、音として入ってくるものでことばが生まれ、ことばでその人の世界が作られていきます。「ママ」という音が、母親を指すものだということで、ママということばが何を意味しているのかがわかるということです。音がないとことばができませんし、ことばがないと意味というものがわかりません。生まれつき聞こえないということであれば、音からことばを習得することができないということになります。だからことばも話せないということになります。人間はことばをもつことで、自分の世界が作られていくのです。ですから、わたしたちがその人の状況を想像することは、大変難しいということがわかります。わたしたちは考えるとき、頭の中ではことばで考えているわけですが、ことばがないということは考えるということができません。それは本人にとっては非常に深刻なことなのですが、その深刻さを本人がわからないし、周りの人もそのことを想像することができないのです。文字でことばを学べばいいというかもしれませんが、当時の民衆は読み書きができませんでしたから、文字をことばとして認識することは容易なことではありませんでした。

ですから、その苦しみは本人が自覚することさえできないほど、精神的な、心理的な、社会的な苦しみとなっています。その苦しみの本質は、その人から他者やこの世界とのコミュニケーションを、すべて奪っているということなのです。ことばをもたないので「苦しみ」という意味も理解できず、当然他者とのコミュニケーションはできません。ですから、その種のコミュニケーションの阻害は、根本的、本質的なものであるといえます。中途で耳が聞こえなくなった場合、すでにことばや文字を習得していれば、手話とか、筆談で人とコミュニケーションをとることができます。しかし、生まれつき耳が聞こえない場合は、生きとし生けるものとのつながりという感覚をもち難く、自分の内に閉じこもるということになります。その苦しみは非常に内的であって、わたしたちが想像できないような苦しみだということです。

 イエスさまの時代、耳が聞こえないようなことも含めて、そのようなことは悪霊の仕業であると考えられていました。悪霊の働き方はいろいろありますが、主なことはひとつであるといえるでしょう。それは、その人が、神さまへ、あるいは他者へと向かっていくこと、関わっていくことを妨げるということです。外へ向かっていくことを妨げられた人は、自分に向かっていかざるを得なくなります。いわゆる自己関心へと、その人を閉じ込めてしまいます。人間は基本的には、自己関心の塊です。そのような人間であるわたしたちは、イエスさまや他者と関わることによって、自己関心という人間の最大の闇から解き放たれていくことができるのです。わたしたちは、イエスさまや他者と関わることがあったとしても、それでも自己関心という呪縛から完全に自由ではありません。しかし、この世界と関わることによって、せめて、自己関心という闇のなかに閉じこもることから守られているのです。

人間は、神の似姿として創られているといわれます。神の似姿であるということは、愛し愛されるものとして創られているということです。愛するということは、神さまの本質であり、人間の本質であり、すべてのいのちの本質でもあります。つまり、愛するということは、自分を出ることであり、自己脱出、自己忘却、自己超越であり、自分をおいて、他に向かっていこうとすることです。イエスさまは愛そのものですから、愛することしかできません。イエスさまにとって愛するとは、自分を出ること、自分を与えることであり、愛の神さまですから、一瞬たりとも愛さないでいることはできません。その際に、一切条件を付けられません。たくさん犠牲をして祈りをすれば愛してあげようとか、ミサに行ったら愛してあげようとか、告白に行けばゆるしてあげようとかいわれません。わたしがわたしであるというだけで、今のわたしを愛し、ゆるしておられるのです。わたしが何かをしたから、何かをしなかったから、愛されゆるされるのではありません。イエスさまに愛されるため、ゆるされるために、わたしが何かをすること、わたしが変わる必要がないのです。イエスさまからただ愛されゆるされていることに気づくこと、それがわたしが愛されるということなのです。これによって、はじめて愛が完成されます。わたしたちがイエスさまに愛されたままになること、これが、わたしがわたしを出ていこうとすること、自己脱出なのです。わたしたちは、そのことがわからず、自力で一生懸命自分を変えようとしているのです。何と愚かなことでしょうか。まさに、イエスさまに向かうことをせず、小さい自分の考えや思いのなかに閉じこもっている、自己関心という闇のなかで、もがいているのだといえばいいでしょう。

今日の福音に出てくる耳が聞こえず舌の回らない人というのは、神の似姿として創られたわたしたち本来の姿を生きられないようにされているのです。自分が望んだのでないのにも関わらず、その人を自己という闇の中に閉じ込めてしまっているのです。そして、その自己という闇から、自力では決して出ることができません。イエスさまは、その人を自己の闇から解き放ちたいと思われたのです。そして、「エッファタ(開かれよ)」といって、その人の耳を開き、音を届け、ことばを与え、意味をわからせようとされたのです。その人が生まれてこの方、決して自分では出ることができなかった闇の世界から、イエスさまが光の世界へと導き出してくださったのです。ことばというものを知らなかったであろうその人が、すぐに話し始めたように書かれていますが、イエスさまは人と人とが関わるために必要なことばも授けてくださいました。そのことを「唾をつけて、その舌に触れられた」と書かれています。

今日の福音はわたしたちにいろいろなことを教えてくれています。わたしたちが当たり前のようにしている聴くこと、見ること、話すことは何か、ことばとは何か、わかるというのはどういうことかということを改めて考えさせられます。これらが整って、人はコミュニケーションを取ることができるのです。そしてコミュニケーションとは、単なる人間活動である以上に、人間が神の似姿として作られたことを現実化していくこと、人間の本質である自己脱出そのものであるということなのです。わたしたちにとって一番難しいのは、自分という中に閉じこもってしまうことです。わたしたちは、日々の生活の中で、たやすく自己関心という闇に飲み込まれてしまいます。そのようなわたしたちをみて、深く憐れみ「天を仰いで深く息をつき」、「エッファタ」といって、わたしを無明の闇から光へと解き放ってくださるのがイエスさまなのです。わたしたちは、イエスさまに憐れんでいただくしかない存在です。ですから、わたしたちは、イエスさまに向って、「主よ、わたしをあわれんでください」と祈るのです。

年間第22主日 勧めのことば

年間第22主日 福音朗読 マルコ7章1~23節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日から、またマルコ福音書を読んでいきます。今日は、ユダヤ教の清浄規定というものが取り上げられていきますが、根底にあるのは人間の苦しみはどこから来るのかという問いであるといえるでしょう。ユダヤ教では、聖と汚れを区別することが非常に大切にされてきました。それは、衛生という概念がなかった時代、人々の健康をいかに守るかということを律法という宗教的な概念を用いて説明しようとしたのだと思われます。それで、聖なるものと汚れているものをはっきりと区別し、汚れを避けることで、神さまに受け入れられると考えられるようになっていきました。結果的に、そのような律法がユダヤ人の健康や民族を守ってきたことは確かです。しかし、その考え方は、人間社会のなかに分断を生み出し、差別、区別を宗教的に正当化するものになってしまいました。すべての宗教は、すべての人の救いを目指すといいながらも、宗教上の差別、区別という課題を抱えてしまっているのです。しかし、このことは宗教の問題であるだけではなく、同時にわたしの内なる問題でもあるのです。わたしが自分というものをどのようにとらえているかということが問われるからなのです。

わたしたちが生きていくとき、老病死は避けることが出来ません。わたしたちが望むと望まざるに関わらず、老病死はわたしたちに訪れます。イエスさまの生きていた時代は現代と違って、ちょっとした病も死と直結しました。ユダヤ人たちは、病を誘発するものを細心の注意を払って避けました。そのために、手を洗うとか、沐浴するとか、食器を洗うこと、寝床を清潔に保つことを、宗教的な規則としておこなうようになりました。手洗いにしても、日本では通常の習慣としておこなわれていますが、欧州においてさえも必ずしも通常のことではないのです。日本人は衛生的で、当然のようにそのような対策を講じることが出来ます。しかし、全世界では、今でも清潔な水で手洗い、うがい、歯磨き、洗濯、入浴し、またバランスの良い食事を取り、家を清潔に保つために掃除をし、充分な睡眠がとれる環境を整えることができない人たちがたくさんいるということです。そのような、基本的な生活を整えられないということは即、病、死と直結していきます。世界的に見ても、わたしたちは、非常に高い生活の質が保たれているのです。ユダヤ教は衛生ということを、宗教として教えていたということになります。

しかし、そのような決まりが人々を助けるのではなく、分断、差別を生み出していったというのが今日の聖書箇所の問題です。民を壮健に保つための決まりでしたが、その規則を守ることができる人たちというのは、ある程度、生活の質が保障されている人たちでした。多くの民衆は、守れなかったというより、貧困という問題を抱えていたので、その規則を守ることが出来ませんでした。そして、その規則を守ろうとした人たちは、自分たちができない仕事や様々な作業を、貧しい人たちに担わせていたというのが当時の状況でした。例えば、安息日の労働は禁じられています。しかし、今日は安息日だから羊の世話をしないということはできません。そうすると、羊の世話のために、貧しい人たちを雇うわけです。そして、彼らに羊の世話をさせました。にもかかわらず、羊飼いは安息日を守ることが出来ない人たちだと見下し、差別しました。そして、彼らを汚れたもの、罪人とみなし、ファイリサイ人は彼らと接触することを避けるようになります。

そのような、聖と俗を分けて考える二元論的な発想は、人々の間に分断をもたらします。根底にある問題は、聖と俗という区別を持ち込み、そこに境界線を引き、境界線の中に入っている人たちは清い、つまり救われるものとし、境界線の外にいる人たちは汚れている、つまり救われないと決めつけたのです。これは宗教の問題である以前に、わたしの中にある忌避意識の問題です。このわたしの中にある忌避意識が、すべての宗教の中にみられ、救われたものと救われないものという境界を作り出し、救われた側に入ったものだけが救われて、ますます自分の世界に閉じこもり、自分のこころとからだを清浄に保つことだけに関心を払うようになっていくという問題がみられます。それは、すべての宗教が抱えている問題ですが、根底にある問題はわたしの忌避意識なのです。イエスさまは、わたしたちに分断、差別、区別を作り出しているものが一体何かということを正面から取り組まれたのです。

一般的にわたしたちは、悪いものや自分に都合のよくないものは自分の外からくるというふうに考えます。あの人のせいで、あの病気のせいで、あの人さえいなければ、あの出来事さえなければというふうに考えます。もちろん、わたしたちの外側からくるいろいろな難しい状況があることは確かです。確かに、病気はわたしに都合を聞いてくれませんし、事故にあうとき、事故にあってもいいかどうかわたしに相談してくれません。老病死は、わたしが年をとってもいいか、病気になってもいいか、死んでもいいか、相談してくれません。わたしが望むと望まないに関わらず、突然というか当たり前のように、自然にわたしのところにやってきて、そのことからわたしは大きな影響を受けてしまいます。ということは、わたしたちが生命体として生きていくうえで、そのようなことを避けることはできないというか、自然なことであるということなのです。そう考えていくと、自分の外に汚れがあって、それがわたしを汚しているとか、苦しめているという単純な考え方は成り立たなくなります。つまり境界線を引いて、清いとか汚れているというふうに区別、差別しているのはだれでもなく、当事者である“わたしのこころ“、わたしの都合に他ならないということなのです。それをイエスさまは「外から人のからだに入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出てくるものが、人を汚すのである」といわれました。清いもの、汚れたものの区別があるのではなく、それを作り出しているのは“わたしのこころ”なのだということです。

人間はものごとを区別していくことでしか、この世界を理解していくことができません。だから区別し、分析することで、この世界が、宇宙が、いのちがわかると思い込んでいます。このような善人と悪人、聖人と罪人、救われるものと救われないものという区別は人間にはわかりやすいのですが、それが、宗教や社会の中で取り上げられていくとき、それは容易に人々の間に分断、差別、暴力を生み出してしまいます。人間の世界には、完全な善もないし、完全な悪もありません。これは、犯罪を肯定しているわけではありません。イエスさまにとっては、清い人汚れた人、善人悪人の区別はないのです。しかし、わたしたち人間が生きていくということは、悲しいことに、自分が望むと望まないのにも関わらず、夫々の置かれた状況の中で、善人にもなるし悪人にもなる、聖人にもなるし罪人にもなる、被害者にもなるし加害者になるということなのです。キリスト教では、人間の自由意志を強調しますから、善と悪をきっちりとわけて、わたしが悪いか、悪くないかで判断し、常に善をおこなうことを勧めます。そのように教えるのはいいのですが、人間は時間を生きているわけですから、それほど単純ではありません。そのような単純な発想は、人は自分の中の忌避意識を強化し、簡単に区別、差別を生み出し、それが他の人への関わり方に及んでいくとき、人を判断し、人を裁くという暴力となっていきます。それでは、そのようなことをしている“わたし”という存在は、いったい何かということをイエスさまは問うておられるのです。

わたしたちが生きていくということは、わたしたちの計画や予定通りにいかないことばかりです。それを通して、自分の弱さや限界、無力さ、己の罪深さを思い知らされることの連続です。そのとき、わたしたちはわたしたちの力や思いをはるかに超えて、わたしに大きな力が働きかけ、それがわたしたちを生かし、守り、救われていることに気づかされます。それが神、イエスさまとの出会いの場となっていくのです。

年間第21主日 勧めのことば

年間第21主日 福音朗読 ヨハネ6章60~69節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日はイエスさまのもとから多くの弟子たちが去り、12人だけが残り、彼らに「あなたがたも離れて行きたいか」とイエスさまが尋ねられる箇所です。イエスさまのガリラヤでの宣教に陰りが出た、その出来事が取り上げられていきます。

共観福音書の中で、イエスさまがフィリポ・カイザリアにいかれたとき、弟子たちに人々はわたしのことを何と呼んでいると質問された直後、自分のエルサレムでの受難を予告される場面と対応しています。いずれにしても、イエスさまのガリラヤでの宣教活動は早い段階で行き詰まり、挫折を迎えたということなのです。それは、人々がイエスさまの神の国の福音を受け入れなかったというか、人々が理解できないことが離れていった原因だと思います。12使徒たちもイエスさまの神の国の福音を理解していたわけではなく、自分たちもイエスさまを見限って離れていきたいというのが本音だったのかもしれません。実際のところ、イエスさまがエルサレムに行って、ユダヤ教の指導者たちと対決していこうと決意されるのをみて、イエスさまの真意を理解していない弟子たちは、これは危ないと思って自ら武装をし始めています。

多くの弟子たちがイエスさまを離れていった理由を、イエスさまが自ら説明されています。「いのちを与えるのは霊である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話したことばは霊であり、いのちである」と。霊とは人のうちに働く神の力を指しています。共観福音書では神の国といわれています。その霊に反するものをヨハネは肉と呼び、共観福音書では神の国に対して律法をあげています。霊や神の国が何であるかを説明するのは、とても難しいのです。霊というのは、超常現象やオカルト的な現象ではなく、神の国も理想的な国家とか、死後にいくような天国や楽園でもありません。ですから、肉、律法を説明した方がわかりやすいのでそこから話してみたいと思います。

肉、律法というものは、人間が通常生きていて、それにわれわれが従っている秩序や道理、価値観、思考体系全体を指しています。例えば人間が息を吸う、吐くというような生命活動から始まって、正しいことをすればそれは善として評価され、悪いことをすれば罰を受けるというような人間の社会倫理や様々な活動など、ことばで説明できる人間のすべての事象を指しています。また、人間の具体的な活動、例えば介護をする人がいて、介護を受ける人がいて介護というシステムが成り立っていること、育てたり教えたりする人とそれを受け取る人がいることで家族や教育、社会が成り立っていること、また、支配するものがいて、支配されるものがいて国家や政治が成り立っていることなど等です。こうしたものは人間の生活、社会を作っていくために不可欠なもので、それなくしては成り立たないものであるわけです。ですから、肉、律法が悪いという意味ではありません。人間の生命活動、介護、教育、政治といった人間のあらゆる社会活動など、それらは人間の生活が成り立っていくために必要なものです。そのような秩序やシステムが正常に機能していることで、人間は安心安全な生活をすることができます。しかし、そのようなシステムが動いていくときに、どうしてもそこにひずみというか、歪みが生じてくるということなのです。それが、人間のもっている限界でもあるわけです。

介護を受ける人がいるから、介護をする人がいるのであって、皆が介護を受ける人であれば困ってしまいます。反対に皆が介護する人なら介護は成り立たないわけです。介護を受ける人と介護する人がいて、初めて介護が成り立つわけです。しかし、どういうわけか介護をする人は介護をされる人より上に立ち、教育をする人は教育を受ける人より偉くなり、支配される人より政治家の方が権力や財力をもつようになっていきます。そして、そこに支配・被支配、上下関係、従属関係という力関係、権力構造が生み出されていきます。そこには、お互いがあって初めて成り立つ自分たちの関係であるにも関わらず、いつのまにか両者の間に力関係や上下関係が生まれてしまいます。そのゆがんだ関係性、またその関係を調整するものが、聖書の中で律法とか肉というふうにいわれているのです。

イエスさまが説かれた神の国は、そのお互いの関係性がそれぞれ相対するままで、より高い段階で止揚された状態、そのお互いがともに尊敬しあう関係性を指しているのです。つまり、教えるものと教えられるもの、助けるものと助けられるもの、救うものと救われるものの間に上下、優劣などというものがない世界が神の国、本来のいのちのあり方ですよと、イエスさまはいわれたのです。ですから、そこでは、立場の違いはありますが、善人悪人、上下、優劣が問われないということなのです。そこには善人も悪人も、義人も罪人もいないのだといえるでしょう。わたしたちは神の国に入ることを救いだと考えていますが、イエスさまは、天の父は悪人の上にも善人の上にも同じように太陽を昇らせ、雨を降らせられるといわれました。また、敵を愛せよといって、敵味方の区別をやめるようにいわれました。それは単なる道徳的な要求として教えを説かれたのではなく、神の国というものは、善人悪人、敵味方、優劣その他のいかなる区別も差別もないことであるといわれたのです。わたしたちが神の国に入るということを考えるとき、人間の善悪優劣の世界の延長線上での救いを考えてしまいます。つまり、救われない側ではなくて、救われた側、善人の側に自分が入ることで安心しようとします。しかし、そのようなものは神の国ではないといわれたのです。イエスさまは、今までの旧来の宗教的あり方さえも相対化されたのです。

イエスさまは神の国、霊ということばをもって、わたしたちが表面的にみている世界のもっと奥にある“こと”について話されたのです。すべてのものを区別せず、すべてのものを生かしているもの、その“こと”、それをイエスさまは霊とか神の国といわれたのです。そのようなすべてのものを生かしているのは、人間の力とか活動ではなくて、大いなるいのち、その働き、大生命、大宇宙といわれるような何かであり、それによってわたしたちは生かされているのだ、そのことに気づきなさいといわれたのです。そのような大きないのちは、わたしたちが目に見えることで人間を判断したり、区別したり、差別しません。もちろん、人間の社会活動が成立するためには、律法や肉、決まり、ことばが必要です。でも、そのことばにならない以前の大いなるいのちによってわたしたちが生かされていることに、わたし一人が目覚めていくとき、イエスさまのことばが、わたしを生かしているいのちのことばであることがみえてくるということでしょう。実は、それを永遠のいのちと呼んでいるのです。ですから永遠のいのちとは、来世のいのちとか天国のいのちではなく、イエスさまのわたしたちを生かす働き、願いのことをいうのです。

イエスさまの働きは、時間空間を超えて、すべてのものに働き、その働きが及ばないというところはなにもなく、わたしがどこにいてもいなくても、わたしを必ず捕らえて離さないという願い、働きなのです。その大いなる働きに気づかず目を閉ざしているのが、わたしのありさまなのです。このイエスさまに背を向けて離れていこうとするわたしたちに「あなたも離れていきたいのか」と声をかけ続けておられるのが、イエスさまなのです。そのイエスさまは「あなたは必ずわたしに捉えられるのだ」といわれ、イエスさまのお名前である「わたしはあなたを必ず救う」とわたしを呼び続けておられるのです。わたしたちが「イエスさま」と祈ることこそ、イエスさまの願いがわたしに届いている証拠なのです。ですから、わたしが信じて、「主よ、あなたは神の子キリスト、永遠のいのちの糧…」といっているのではないのです。そのようにいわせておられるのは、わたしではなく、わたしの中で働く神の働き、わたしに届けられたイエスさまの願い、イエスさまの信仰なのです。ですから、わたしが信仰告白するのではなく、わたしの中のキリストがしておられるのです。そのことを、パウロは「もはやわたしが生きるのではなく、キリストがわたしの内に生きておられるのです(ガラ:20)」といいました。そのイエスさまの呼びかけがわたしに届いていること、その内なる働きこそが神の国なのです。それに気づくようにとの呼びかけなのです。

年間第20主日 勧めのことば

年間第20主日 福音朗読 ヨハネ6章51~58節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

イエスさまは、わたしは天から降ってきた生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことであるといわれました。今日の箇所は、わたしたちが生かされるということはどういうことであるかを取り上げています。それは、わたしたち生きとし生けるものが生きるということは何であるかということを問うことでもあります。今日の福音によると、生きるということは食べるということであるといわれています。わたしたちすべての生命体は、生きるためには他の生命体からいのちを分けてもらわなければならないのです。生きるということは食べるということであり、食べられなくなったら死が訪れるというのが一般的な理解だと思います。一昔前まで、食べられなくなったらお迎えが来るといっていました。それが最近の医療や介護では、生きたい生きたいといっている個人のいのちを引き延ばすことだけに視点が向けられています。これは、個人の中に閉じ込められているいのちがすべてであるとする近代科学の考え方でもあります。

「汝とは、汝の食べた物そのものである」という西洋のことわざがあります。これは、食べ物の食環境によって、わたしたち生命体のありようが影響を受けるという意味のようです。肉食とか、草食とかいわれていますが、よくよく考えてみるとわたしという存在は食物連鎖の中にあって、わたしだけで存在することはできないばかりか、わたしという存在そのものが、すべての事象の夫々の関係性の中にあるということをいっているように思われます。普通、わたしはわたしでないものとわたしを区別したものをわたしと呼んでいますが、わたしとわたしでないものの境界はどこにあるのでしょうか。わたしたちの体の表面には、約40兆個という細菌やばい菌が生息しています。さらに、わたしたちの腸内には100兆個以上の細菌が生息しているといわれます。それをわたしたちは排除することなく、わたしたちはたくさんのばい菌と共生しているのです。実はわたしという境界は非常にあいまいで、本来的に区別することなどできないのだということではないかと思います。わたしたちを構成しているものは、元をたどるとこの世界を構成している元素と同じです。わたしがわたしであると呼んでいる意識というか、魂というものも、この世界、この宇宙と同一だということになっていきます。ですから、わたしとは、わたしの食べた物そのものである、実はわたしは、この世界、環境、自然であるといえるのではないかと思います。

このような視点は、キリスト教の中ではいわれてこなかったことで、むしろ汎神論、理神論的として異端的な考え方だと思われてきました。しかし、皮肉なことにキリスト教のアンチテーゼとして発展してきた科学が近年発見してきたことは、この宇宙、この世界は決してそのもの単独で成立しているものは何もなく、お互いがジグソーパズルのような精密さをもって、お互いが共生しあっているという事実です。人類は万物の霊長として、独り勝ちをしたようなキリスト教神学に基づく人間論が展開されてきましたが、皮肉なことにそのような偏った価値観に対抗するために生み出された科学が、人類に未曾有の発展と恩恵をもたらしました。しかし、同時にこの世界を破滅へと導いているのも事実です。今わたしたちは、そのような世界の中にあって、改めていのちの諸相を捉えなおしていくことを余儀なくされているのではないでしょうか。それが、今日の福音で語られていることのように思います。

いのちの諸相としてあることは、あらゆる生命体は絶え間のない自己破壊と自己組織化によって成り立っているということです。多くの場合は、いのちをできるだけ永らえさせ、いのちの自己組織化を維持していくということがいのちの本質であるようにいわれてきたと思います。DNAは利己的で、自分の個体や個種を維持していくようにプログラミングされているといわれてきました。しかし、最近の生命科学の発展によって、多くの生命体は自己を破壊することでいのちを繋いでいること、また夫々のいのちはお互いに共生しあうということでいのちを繋いでいるということもわかってきました。わたしたちはこの地上の生命体は弱肉強食で、強いものが生き残り、弱い個体は淘汰されていくのだというふうに教えられてきたと思います。しかし、生命体は必ずしも利己的だけではなく、お互いが助けあったり、共生しあったり、また弱いものを守ろうとする利他の働きをするということもわかってきました。もちろん、それを意識的にしているわけではないでしょう。しかし今まで、わたしたちがいのちというとき、ある一定期間、蝉であれば2週間、犬であれば15、6年、人間であれば80、90年といった有限な個々のいのちしかみてこなかったのではないでしょうか。しかし、いのちの動き、働きをじっくりとみていくと、そのような短いいのちの中でも、夫々の細胞組織の中にで、また大きな生命体においても、自己破壊と自己組織化が絶え間なく繰り返されていることが明らかになっています。これはまさに、わたしたちが死と復活といってきたいのちの本質ではないでしょうか。キリスト教や聖書が教える前に、すでに世界は、この宇宙はそのいのちの実相を生きているのです、

今日の福音でイエスさまが、わたしの肉を食べ、わたしの血を飲まなければ、あなたたちの中にいのちはないといわれたことは、まさにそのいのちの実相そのものなのではないでしょうか。いのちというものは、生きたい生きたいと願っているものです。しかし、同時にそのいのちは自分自身を超えていくという性質をもっています。個体の中に閉じ込められたいのちが、その個体以上になっていくために、その個体を自らが壊してあふれ出ていくという性質があるということです。実際に、多くの植物や動物は、自分のいのちを壊して、いのちを次世代へ繋いでいきます。このいのちの自己脱出というか、自己超越こそがいのちの独特の現象なのではないでしょうか。イエスさまはわたしたちに新しいことを伝えられたのではないのです。すでに自然に生き続けられてきたこのいのちの本質を、ご自分の十字架の自己犠牲という出来事を通して、自らの肉を裂き、血を流すという行為によって、いのち本来の実相を示してくださったのです。そのことをどのように神学的に説明するかそれはそれで結構ですが、わたしたちがこの自分の個体だけがいのちであると思っているあいだは、本当のいのちはわからないのだと思います。どんなにいのちが大切だといっても、いのちを個としてしか捉えないのであれば、自分が永遠のいのちを手に入れるという程度のところで終わってしまい、わたしを超えた大きないのちが何であるかがわからないままではないでしょうか。イエスさまは自分のいのちを壊すことによって、大きないのちの中にご自身を解放されました。イエスさまの復活は自分のためではありません。イエスさまが個の中にあったいのちを失うことによって、自分を取り壊すことによって、大きないのちそのものとなられました。

わたしたち人間は、自分の個体性を失うことが一番怖いことなのです。だから、人は死を恐れるのです。人間以外の動植物、細菌、ばい菌は、この自己解体ということによって、新しいいのちを繋いでいっています。だから、自分が死んでもいのちは受け渡されていきますので、自分は死なないのです。この当たり前のことができないのが人間です。そうすると人間はどうするのかというと、この世のいのちにしがみつくか、来世のいのちにしがみつきます。前者はこの世の身体的生命だけをいのちだと考える現代科学であり、後者は自己意識をいのちだと考える思想、宗教となっています。いずれにしても、わたしがわたしだと思っているものを、大きないのちに中に解放しなさいということがイエスさまのメッセージです。 「自分のいのちを愛するものは、それを失うが、この世で自分のいのちを憎むものは、それを保って永遠のいのちに至る(ヨハネ12:25)。」といわれました。わたしがわたしの救いなどと考えているあいだは、ダメということ、そのことを今日の福音はわたしたちに告げているのです。

年間第19主日 勧めのことば

年間第19主日 福音朗読 ヨハネ6章41~51節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日、イエスさまは、自分が天から降ってきたいのちのパンであり、このパンを食べる人は死なない。永遠に生きるといわれました。そして、わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉であるといわれました。ここで、イエスさまは永遠のいのちについて語っておられます。今日は永遠のいのちということについて考えてみましょう。

わたしたちは今日の箇所を単純に読むと、ミサに与かって、聖体をいただくと、永遠のいのちがいただけるのだと勘違いしてしまいます。そもそも永遠のいのちというと、先ず有限ないのちがあって、わたしたちが自分の人生という有限のいのちを生きて、その有限のいのちが終わるとき、その一生の所業に応じて、永遠のいのちに入るか、滅びるかが決められるのだと考えてきたと思います。あまりにも幼稚な生命観ですが、これがキリスト教の従来の捉え方になっています。しかし、今日の福音を注意深く読むと、永遠のいのちというものの本質がみえてきます。

先ずイエスさまは、「父が引き寄せてくださらなければ、誰もわたしのもとに来ることはできない」といわれました。確かに、イエスさまのもとに来なければ何も始まりません。しかし、引き寄せてくださるのは、父である神の働き、イエスさまの働きであるといわれています。ですから、イエスさまを信じて、イエスさまの方に行くのはわたしたちですが、そのような信じるこころを引き起こすのは神さまご自身であることがいわれているのです。それでは、わたしたちが信じることとは一体何なのでしょうか。それは、先々週からみてきた通り、イエスさまがいのちのパンであり、「ともにおられる神」としてわたしたちとともにおられるという事実です。ですから、永遠のいのちとは、永遠のいのちでない別のいのちがあって、そのいのちに永遠のいのちが与えられるのではなく、イエスさまがわたしたちとともにおられるということが永遠のいのちであることがわかります。わたしたちはそのことを信じさせていただくわけですから、わたしたちは、すでに永遠のいのちを生きている、救われてあるということを信じるのです。

なぜなら、イエスさまは十字架の死と復活によって、神さまはわたしたちとともに永遠におられる神であることを啓示してくださったからです。イエスさまのときまで、永遠のいのちはなかったのではなく、わたしたちはすでに永遠のいのちのうちにあったことをあきらかにしてくださったのです。わたしたちの問題は、光の中にあって光を捜すような、大海の中にあって海を捜すようなことをしているということなのです。イエスさまが死んで復活されたということは、イエスさまの十字架の死と復活によって、全人類が永遠において救われており、イエスさまのみ手の中にあるということなのです。そのことが、わたしたちがすでに光にうちにある、大海のうちにあるといったらいいでしょう。

太陽は善人の上にも、罪人の上にも、貧しい人の上にも、豊かな人の上にも等しく昇ります。日の光は、何も一切区別しません。区別を作り出しているのは、人間の知性、分別であり、人間が貧富の差、支配・被支配、格差、差別、競争、貧困などのありとあらゆる区別を作り出しているのです。イエスさまは、善人悪人の別なく一切平等ですべての人を救う神さまの姿を示すことで、人類にそのあり方を問うておられるのです。確かに、イエスさまは弱い立場にある人たちの側に立たれました。それは、その人たちが、声をあげることすらできないほど、貧しくされているからに他なりません。そして、そのような状況を作り出している人間自身の闇に、人間が気づくことを望まれたのでした。その気づきを回心といっていいでしょう。その上で、イエスさまは、差別される側の人も、差別する側の人もともに救われていく世界、神の国の到来を宣言されました。豊かな人だけが救われて、貧しい人や罪人は救われないような不正義な世界ではなく、かといって、貧しい人や罪人が救われて、豊かな人や支配者は罰を受けるというような勧善懲悪の世界でもなく、そのような差別、区別、分別を作り出している人間の業、闇をあわれんで、その浅ましく愚かな人間すべてが等しく救われていく世界をイエスさまは望まれたのです。それが神の国といわれます。そして、そのイエスさま側からの神の国のありさまが永遠のいのちといわれるのです。

神の国は、イエスさまの生涯とその死と復活によって啓示され、すべての人類はその救いの光のうちに置かれています。しかしながら、それが分からず、相変わらず区別、差別、分別、搾取等を作り出し続けているのが人間の業、罪に他なりません。ですからイエスさまが、引き寄せてくださらなければ、誰も自分のところに来ることはできないといわれたのです。人間は真理に触れることなしに、自分の愚かさ、闇、罪ということを知ることはできません。わたしたちは真理であるイエスさまに出会うときに、初めて自分が救われなければならない罪人であることが知らされ、同時に、イエスさまによってすでに救われていることにも気づかされます。感謝の祭儀は、すでに救われていることに気づかないわたしたちに、あなたがたはもうすでに救われているのだということを思い起こさせてくださる場であり、また、わたしたちが救われていることを感謝する場であり、神の国のために派遣される場でもあるのです。

イエスさまは、わたしたちが救われているということを、「信じる者は永遠のいのちを得ている」といわれました。ですから、わたしたちは、すでに救われてイエスさまのうちにあることに気づかされ、その真実を知らされたことを「永遠のいのちをすでに得ている」といわれたのです。わたしたちは、今、イエスさまのうちに生きているのです。だから、信じることによって永遠のいのちを獲得するのではなく、すでに永遠のいのちのうちにわたしたちがあることに気づかされ、そのことを信じるのです。大海を泳いでいる魚が、実は自分が泳いでいるところが海であったことに気づくのと同じです。ですから、永遠のいのちは、死後のいのちではなく、また生前の善行への報いでもなく、わたしたちが、今、生きているこのいのちに他なりません。しかし、教会は―イエスさまが決して教えなかったこと―つまり、この世は辛くても、来世には永遠のいのちが約束されているというようなことを教えてしまいました。永遠のいのちを、死後のいのち、「あの世」のものにしてしまったのです。「この世」が思い通りにならないので、「あの世」のことを持ち出すことによって、「この世」のどうしようもないことを慰め、我慢させるために、永遠のいのちを利用してしまったのです。イエスさまのいう永遠のいのちは、「あの世の」ことではありません。

イエスさまによって、わたしたちのすべて、わたしたちの生も死もすべてが包みこまれているのです。そして、そのイエスさまご自身が永遠のいのちそのものですから、わたしたちは、今すでに、永遠のいのちを生きているということなのです。思い通りにならない、苦しみの連続である「この世」において、イエスさまがわたしたちとともに歩んでくださっていることに目覚めさせていただくことが、救いに他なりません。悲しいから、苦しいから、イエスさまを信じて、死後に永遠のいのちを求めるのではないのです。今、ここで、わたしたちとともにいてくださるイエスさまに出会わせていただくことが、永遠のいのちそのものなのです。だから、たとえ肉体の死がわたしたちに訪れたとしても、わたしたちにとって死はないのです。感謝の祭儀で聖体を拝領するものに永遠のいのちを約束されるのではなく、全人類、全世界は、イエスさまによって計らわれ、生死を超えたところで、生かされているのだということを宣言する、その真実を宣言する場が感謝の祭儀なのです。

年間第18主日 勧めのことば

年間第18主日 福音朗読 ヨハネ6章24~35節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の福音は、イエスさまがパンの増やしの奇跡をおこなわれた翌日の出来事です。パンの増やしの奇跡をみて熱狂し、イエスさまを王としようとする人々を避けて、イエスさまはまた山へひとり退かれます。人々は、“また”イエスさまに奇跡を行ってもらおうとして、次の日もパンを食べたところに集まりました。毎日パンを増やしてくださるなら、こんな便利なことはありません。人々はイエスさまを探し回って、湖の対岸のカファルナウムでイエスさまと弟子たちをみつけます。

そこで、イエスさまは「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」といわれます。あなたがたが求めているのは、自分たちが満腹するパンであって、わたし自身を求めているのではないと指摘されます。これは、イエスさまの最大限の嫌味です。しかし、人々は気づく様子はありません。これは、わたしたちが感謝の祭儀をどのように捉えているかが問われているということです。往々にして、わたしたちは感謝の祭儀を自分のこころの平和、安心、自分の救いのための場という間違った理解をしていまいがちです。

カトリック教会は、ミサを義務として教え、プロテスタント諸教派においては、主日の礼拝を守るといういい方がなされています。ことばの問題だといえばそうかもしれませんが、ミサや礼拝は義務とか守るものではなく、感謝の祭儀ではなかったのでしょうか。それでは、わたしたちは「感謝しなさい」と誰かからいわれて、感謝することができるでしょうか。感謝というと、パウロの手紙の「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい(Ⅰテサロニケ5:16)」という箇所が有名ですが、これは例外であって、パウロの手紙の中では、感謝するというときは、いつもパウロ自身が神さまに感謝することであって、それを他の人に要求することはありません。「あなたが感謝するのは結構ですが、そのことで他の人が造り上げられるわけではありません(Ⅰコリント14:17)」という言葉が残されています。感謝するのは、教会の教えだから感謝しましょうというほど愚かなことはありません。このことが、わたしたちが感謝の祭儀を自己中心的に理解することに拍車をかけているように思います。感謝はわたしたちのこころから、自ずから溢れてくるものでしょう。

そもそも、今日の聖書の箇所に登場する群衆は、自分たちの満足にしか関心が向いていません。「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」と指摘されます。そのような人びと、これはわたしのことなのです。イエスさまは、わたしたちに己の身の愚かさに気づくように話していかれます。しかし、話は平行線のままずれていきます。「神の業を行うためには何をしたらよいでしょうか」、「そのパンをいつもわたしたちにください」。結局は、いつも「わたし」が主語になっています。わたしは何をしたらいいのか、わたしのために何をしてくれるのか、わたしに何をくださいますか。どこまでいってもわたしという自己関心の闇から出ることができない愚かなわたしたちの姿が描かれています。イエスさまは「いのちのパンをください」というわたしたちに、「わたしがいのちのパンである」といわれます。あなたがたが求めているパンはわたし自身である、今わたしはあなたがたとともにいるではないか。それなのにあなたがたはこれ以上、わたしに何を求めるのかといわれます。それでも人々は、気づこうとしません。というか、それほどわたしたちの闇は深いのです。

人間は基本的に自分という立場からしか、ものごとを考えることは出来ません。教会でよく相手の立場に立って考えましょうといいます。しかし、わたしたちは、誰も相手の立場に立つこと自体出来ないのです。親が、病の自分の子どもに代わってあげたいと思っても、代わることは出来ないのです。誰もわたしの代わりにはなれないし、わたしも誰かに代わることは出来ません。先ず、その事実を謙虚に受け止めることから出発しなければならないのではないでしょうか。わたしたちが、相手に対して何かができるという発想自体、こちら側からの一方通行になりがちで、上から目線の教会のあり方を助長するだけになってしまいます。カトリック教会は、人々に対して教える任務、治める任務、聖化する任務があるといいます。教会は常に上で、キリスト教を知らない人々にカトリックの教えを広め、天国に行けない可哀そうな人たちに洗礼を授けてあげるという発想で、何世紀もの間、布教という名の霊的植民地化が推し進められてきました。それが今の北米、南米、アジア、アフリカの現実です。イエスさまが、そんなふうに人々と関わられたことが一度でもあったでしょうか。どうして、相手の立場に立って考えるとか、人々を自分の隣人愛の実践の対象などと平気でいうことができるのでしょうか。

イエスさまは、人間がどこまでいっても自己中心で、自己関心の塊であることを見抜いておらました。ですから「自分を愛するように隣人を愛しなさい」と、先ず旧約の隣人愛をお教えになったのです。しかし、イエスさまは人生の終わりには、もはや「自分を愛するように、隣人を愛しなさい」とは教えられませんでした。イエスさまは「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛しあいなさい」といわれ、新しい相互愛の掟をお与えになりました。イエスさまは自分が人間として生き切ること、人間としてもっとも貧しくなること、つまり十字架の死を通して真実の神の愛をみせてくださいました。神の愛とは、決して上から与えるような愛ではなく、また人間としてその人の身代わりになることでもありません。イエスさまは相手の身になることはできないという限界を知った上で、人間の痛み、苦しみ、辛さをご自分のこととして生き死なれたということなのです。それはある意味で、イエスさまが“わたし”となられたといっていいのかもしれません。イエスさまは神さまでおられますから、絶対慈悲です。それに対して、わたしたち人間は小悲小慈でしかありません。人間としてのイエスさまは、その人の痛み、辛さ、苦しみを知っても、その人と代わることができないという限界を知った上で、自分の生き方、そして死に方を通して、その一人ひとりを大切にして、一緒にいようとされました。よく「ともに喜び、ともに苦しみ、ともに泣く」といういい方がされますが、わたしたち人間は、どこまでいっても、その人の喜び、その人の苦しみ、その人の悲しみを理解することなど出来ないのだという地平に立つ謙虚さが必要です。表面的な同情やあわれみは、かえって相手を傷つけます。わたしの喜び、わたしの苦しみ、わたしの悲しみはわたしのものであって、それを誰かに理解してもらえるものではないし、まして代わってもらえるものでもないのです。夫々、自分が引き受けていくしかないのです。その現実を受け入れて、ひとり一人を大切にしていく、それがイエスさまのなさったことだと思います。

今日の箇所でイエスさまがわたしたちに問いかけられるのは、あなたの感謝の祭儀はどこに向かっていますかということだと思います。わたしたちが感謝の祭儀をおこなうとき、その方向が常に自分の方に向いてしまっていることに気づいていますかということだと思います。わたしたちは、結局のところ、自分の安心、満足、自己関心でしかありません。ミサが、自分たちキリスト者のため、自分の安心安寧のため、自分の救いのためである思っているとしたら、それは感謝の祭儀ではありません。それなら、神社でおこなわれているご祈祷と変わりません。当時のヨハネの共同体は、まさにこのような問題に直面していたのです。感謝の祭儀は、イエスさまがわたしたちすべての人類のために、ご自分のいのちを一度切り、十字架の上で捧げ尽くし、いのちの真実を示してくださったイエス・キリストという救いの出来事への感謝に他なりません。それなのに、わたしたちは未だイエスさまに何を要求するというのでしょうか。

年間第17主日 勧めのことば

年間第17主日 福音朗読 ヨハネ6章1~15節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日から数週間にわたってヨハネ福音書のパンの増やしの場面が朗読されていきます。このパンの増やしの奇跡が実際の出来事であるとか、歴史的な史実であるかどうかは問題ではありません。わたしたちが聖書を読むときに注意しなければならないことは、聖書は2千年前の、ある意図をもって書かれたものであるということです。それで、今日は聖書を読むときの読み方についてお話ししたいと思います。

わたしたちが普通の文章を読むときに、その文章がどのような背景で書かれているかを無意識に判断して読んでいます。例えば朝、新聞を読むとき、無意識のうちに今読んでいる記事がどういう種類であるかを判断しながら読んでいます。新聞の中にはニュースもあれば、社説もある、広告もあり、論文や解説、俳句や和歌もあります。ですから、わたしたちは新聞を読むとき、広告であればそれをニュースや時事記事としては読まないわけです。しかし、どういうわけか聖書を読むとき、特に新約聖書である場合、多くの人が福音書をイエスさまの伝記のように、また具体的な出来事の報告として読んでしまうように思います。ですから、今日の聖書の箇所などでは、イエスさまが具体的にパンの増やしをおこなわれたと素朴に読んでしまいます。そして、イエスさまがパンの増やしをおこなわれたのを信じるといいます。しかし、信じているということは疑っているということの裏表であって、本音のところでは事実であるかどうかを疑っているということに他なりません。もし、イエスさまがパンの増やしを歴史的事実としておこなわれたのであれば、わたしたちはパンの増やしの奇跡をおこなわれたと信じますとはいわず、奇跡がおこなわれたというはずです。わたしたちは、聖書を読むとき寓話やたとえ話をそのまま事実であるかのように読んでしまっているわけです。

ですから、今日の聖書の箇所を何とか説明するために、実は皆がパンをもっていたのだけれど、大人はずるいので隠していた。小さい少年が正直に自分のもっている大麦パン5つと魚2匹をイエスさまに差し出したのを見て、大人たちは恥ずかしくなって、自分たちが隠していた食べ物を出したので、皆が分かち合って満腹したのだという説明をする人もいます。それであれば、今日の聖書の箇所は、「お互いに助け合いましょう」という単なる教訓話になってしまいます。福音書はいわゆる伝記ではないし、出来事の報告書でもなく、まして単なる教訓話でもありません。聖書は何よりも、当時の人々の信仰告白の書であるということです。その意味で、パンの増やしの物語は事実の報告でも、教訓話でもなく、おそらく初代教会で行われていた感謝の祭儀、ミサを下敷きにした物語であるといえばよいでしょう。

つまり、わたしたちが日曜日ごとに祝うミサと呼ばれている感謝の祭儀の意味を深めるための物語であるということです。ですから、イエスさまがどのようにパンを増やされたのかとか考える必要はなく、パンの増やしというのはひとつの寓話であるといえるでしょう。聖書の中で、イエスさまが湖の上を歩かれたとか、昇天されたというような類の話もそうです。視覚的、象徴的表現で何かを伝えようとしたということです。また、イエスさまが病人を癒されたという物語もありますが、それはわたしたちが病人や怪我人に手あてをするというように、イエスさまが病人に手をあてられたということなのでしょう。それが、教会の中では病者の秘跡として伝えられています。手をあてれば病気が治るとかいうことではなく、病気になると病気がすべてとなってしまっているその人に、手をあてて安心させられたのだといえるでしょう。わたしたちは病気になると、自分の病気のことしか考えられなくなってしまいます。そのようなわたしたちに手をあてて、大丈夫だとおっしゃってくださったのです。ですから、病気が治るかどうかが問題ではなく、イエスさまが声をかけてくださったことで、こころの不安が取り除かれて、本来の自分を取り戻すことができたということだと思います。そのように考えていくと、パンの増やしの物語のテーマは何でしょうか。

 イエスさまの話を聞くために集まってきた人々が、イエスさまのことば、イエスさまの現存を通して、イエスさまがともにおられるということを、個人として、共同体として体験したということだといえばよいでしょう。ですから、イエスさまがパンを増やしたとか、それを配って食べたとかいうことはひとつのシンボルです。しかし、人々が満たされるためには材料が必要であったということです。それが例えば、ひとりの少年が差し出した、5つの大麦パンと2匹の魚です。大麦パンはつつましい庶民の食べ物です。そのつつましいものをイエスさまに差し出し、それをイエスさまが手に取られたとき、それは多くの人を満たすものとなったということです。大切なことは、イエスさまに差し出すということ、それをイエスさまが取られるということです。そして、それが何であるかは問われないということです。イエスさまが働かれるためには、わたしたちの何かを使って働かれます。イエスさまが働かれるということを、一般的には恵みを受けるとか、救われるといわれています。木が揺れていることで、風が吹いていることがわかります。風があることがわかるには、風を遮るものが必要です。同じように、わたしたちの何かを使って、イエスさまがおられ、働かれていることがわかるのです。

そのもっともわかりやすいものが、わたしたちの罪です。わたしたちは罪がゆるされたとき、イエスさまが働いておられることがわかります。わたしたちは、罪とか弱さとか、小ささ、つつましさは、イエスさまと相いれないと考えます。しかし、そうではなく、罪というイエスさまを遮るものがなかったなら、わたしたちはゆるされたということを体験することはできないのです。ですから、イエスさまは何でもお使いになって働かれる、それが今日の物語です。わたしたちがゆるしを体験したり、癒されたり、救われたと感じるのは、ゆるされなければならない罪、癒されなければならない傷や病、救われなければならない闇がわたしの中に存在しているからなのです。ですから、感謝の祭儀であるミサは、わたしたちのゆるしの場、癒しの場、救いの場でもあるのです。それを個人としてだけでなく、共同体として体験するということなのです。より正確にいうならば、わたしたちが何であっても何でなくてもゆるされていること、わたしたちが癒されつつあること、わたしたちが救われている、また救われつつあることを体感する場なのです。ですから感謝の祭儀といわれるのです。わたしたちがどのような心構えで、感謝の祭儀を祝っているのかで、感謝の祭儀が感謝の祭儀になるかならないかが決まってきます。ミサが義務だと思っている人にとっては、果たさなければならない義務を果たすためだけの場であり、自分の望みが満たされる場だと思っている人にとっては、望みが満たされるか、あるいは失望の場、不満の場になります。聖体だけをもらうことを期待してくる人にとっては、精神安定剤をもらいに来ることと変わりません。それなら、感謝の祭儀はわたしがイエスさまを利用するだけの場になってしまいます。

 イエスさまは群衆がそのようなものであったことに気づかれたので、「またひとりで山に退かれた」とあります。“また”、といわれるのですから、イエスさまがパンの増やしをされるたびに、いつもそうだったということなのです。つまり、すでに当時の教会の中で、何度ミサに参加しても人々の態度は何も変わらないという問題があったのです。自分のために参加していたからです。さて、わたしたちにとって、感謝の祭儀は感謝の祭儀になっているでしょうか。今日はそれを問うてみたいと思います。

年間第16主日 勧めのことば

年間第16主日 福音朗読 マルコ6章30~34節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

イエスさまとともにある生活、それが今日のテーマです。今日の福音を読むとき、最後の「イエスは船から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた」というイエスさまの言葉を取り上げ、活動の大切さを強調しがちです。しかし、イエスさまが群衆にいろいろ教え始められるというときに、イエスさまのこころを動かしたのは、イエスさまのうちにある「深い憐れみ」です。今日の福音では、イエスさまのそのように「深い憐れみ」がどこから来たのか、一体何があったのかを知ることができると思います。

今日の福音は、先週読まれた12使徒の派遣に続く、弟子たちの帰還の物語です。使徒たちは、イエスさまから派遣され、その働きを終えて、イエスさまのもとに帰ってきました。先週、派遣というものが成り立つためには、イエスさまに呼ばれること、イエスさまのもとに来て、イエスさまのもとに留まること、そして、イエスさまから派遣されることであることをお話ししました。派遣されたもののもうひとつの動きは、派遣されたもののもとに戻るという動きです。派遣されるという行路、それに対して帰るという復路という一連の動きです。この動きは、見る方向によって異なった方向性としてみることができますが、それはひとつの大きな還流であるということができます。わたしたちはとかくすると、ひとつの方向からしかものを見ない傾向があります。呼ばれること、留まること、派遣される、そして帰還することを夫々切り離してしまいます。キリスト教では、呼ばれることを召命と呼び、留まることを祈りとか観想と呼び、派遣されることを使命とか福音宣教というふうにいいます。そして、派遣されれば、必ず派遣されたもののところへ戻ってくるはずなのですが、キリスト教ではどちらかというと派遣したままで、帰還するということがあまりいわれていません。人として、人生を終えて神さまのもとに帰るとはいいますが、わたしたち生きているものの生活の中で、帰還することの重要性についてほとんど触れられていないように思います。

いずれにしても、ある部分だけを強調して、そこに拘ろうとします。現代の教会は福音宣教を大切だとはいいますが、福音宣教の前提となる祈りの生活について、それほど話されていないように思います。そして、福音宣教それだけが目的のようになってしまっており、福音宣教はイエスさまのもとに帰還することであることについて、ほとんどいわれていないように思います。しかし、この召命、養成、派遣、帰還ということは、いずれも単独によって成り立つものではなく、これはイエスさまの大きないのちの中にあるいのちの還流であるということを、改めて見直す必要があるように思います。最近といっても第2バチカン公会議後、信徒、修道者、司祭の生涯養成というようなことがいわれていますが、これは帰還することの重要性を教会も意識してきたからであると思います。しかしながら、そのことが先ず発想としてないので理解されていませんし、意識されることもないという現実があります。

 

イエスさまは派遣先から帰還した弟子たちに、「さあ、あなたがただけで人里離れたところへ行って、しばらく休みなさい」といわれました。教会の普遍的使命は福音宣教ですが、その使命を果たすためには、イエスさまのもとに留まること、祈りの生活が不可欠であり、それは絶え間のないものでなければならないことを先週お話ししました。一時、祈りに専念するとか、ある期間養成を受けるとかいうことだけではどうにもなりません。キリスト教自体がそのようになってしまっているので、非常に難しいと思いますが、例えばカトリック教会において洗礼をうけること、また堅信を受けること、ミサに参加すること、秘跡それ自体が目的になってしまって、そこから広がりがありません。成人洗礼の場合、洗礼を受けることが目標のように教えられ、洗礼を受けた多くの人が、洗礼を受けた後、教会にこなくなるということが起こっています。幼児洗礼であっても、初聖体が終わり、堅信を小学6年か中1で受けると、そのあとぱたりとこなくなります。学校が忙しいとか、クラブがあるということのようですがそれだけでしょうか。

おそらくこれらの問題の根底にあることは、イエスさまとの親しさを体験していない、イエスさまと向き合っていない、イエスさまと出会っていないということがあるように思います。幼児洗礼であれば、洗礼は受けていますが、その後の教会学校でキリスト教の知識だけは習っても、イエスさまに出会うという体験をしないままで終わってしまい、成人していきます。成人洗礼の場合では、知識としてカトリック教会の教義だけ、理屈だけを習ったとしても、生きたイエスさまとの出会いをいわれることなく、ただ洗礼を目標にしてしまうと、洗礼後どうしたらいいのかわからないというのが実態ではないでしょうか。たとえ、教会で友達ができて教会に来ているとしても、教会で何か活動しているとしても、まことの友であるイエスさまと出会うことがなければ、イエスさまとの関わり、信仰生活が深まらないのは当たり前です。

キリスト教信仰の中心にあることは、例外なくイエスさまとの親しい交わりです。その交わりを祈りと呼んでいますが、カトリック教会での難しさは、祈りというと、ミサ、教会の祈り、共同祈願、祈祷書の朝晩の祈り、ロザリオや十字架の道行だという人がほとんどだと思います。これらは祈りの文句が決まっている祈りで、声祷、口祷と呼ばれ、祈りの中のほんの一部分でしかありません。それなのに教会で祈りといえば、これらの声祷を唱え、中央協議会から配布される祈りのカードを唱えることだと思っている人が大半でしょう。祈りは、イエスさまとの親しい交わり、最後の晩餐の席でわたしを友と呼ばれたイエスさまとの親しい友情の交換、絆そのものであるとするならば、わたしたちが親友と決まった挨拶しかしない、朝晩しか話さない、綺麗ごとしかいわないとしたら、それは随分変なことではないでしょうか。イエスさまは最後の晩餐の席で、「わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである(ヨハネ15:15)」といわれ、わたしたちは文字通り、イエスさまの親しい友となっています。そのことについて、教会でほとんど話されていません。カトリック教会の教義中心に教えられ、それに基づく慈善活動が奨励され、組織や制度の話がされ、その一方で古色然としたミサや儀式、信心業が好まれるという傾向があります。それだけでは、イエスさまとの友情が深まるはずがありません。イエスさまとの友情が深められていないのに、わたしたちは一体何を証しするというのでしょうか。

今日の福音で、イエスさまと弟子たちは、休もうと思って出かけたけれども、「大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始めた」とあるのは、イエスさまとの友情のなかで、次に何をしなければならないかが知らされてきたということなのです。つまり、イエスさまとの友情がどれだけ深まっているかによって、その人の生き方、活動の質が決まってくるということです。わたしたちは、すべて夫々の生活の場において、イエスさまとの親しい友情を生きるように呼ばれています。わたしたちのすべきことは、すべて人類がイエスさまとの親しい交わりに入れられていること、大きないのちの還流の中にあることを証しすることにあるのです。この大きないのちの還流は誰ひとりとして取りこぼされることがない、またあらゆる罪汚れ、苦しみ、煩悩、闇さえも飲み込んでいくような大きないのちの流れです。この大きないのちは、大海がすべてを包み込んで、すべてを自らのところへと運んでくるような、そのようないのちの還流です。その神のいのちの還流に中にわたしたちがしばし浸ること、それがわたしたちの本来の祈りです。それは特別なことではないのです。わたしたちの人生そのものでもあるのです。1日5分でもいいので、イエスさまのうちに、何もせず、ただ無になって、その流れに浸る時間をとってみてはどうでしょうか。これは心の祈り、黙想、念祷といいわれ、わたしたち人間の本来の在り方を実行することなのです。

年間第15主日 勧めのことば

年間第15主日 福音朗読 マルコ6章7~13節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の福音は、弟子たちの派遣の箇所が朗読されます。弟子たちの宣教への派遣は、イエスさまの弟子たちの招きの箇所(3:13~19)とわけて考えることはできません。先ずイエスさまが弟子たちを呼ばれ、その目的が3章にはっきりと書かれています。「彼らを自分のそばに置くため、また派遣して宣教させて、悪霊を追い出す権能をもたせるため(3:14)」と。彼らを福音宣教のために呼ばれますが、イエスさまが第一にされたことは、「彼らを自分のそばに置くため」、別の訳では「彼らがイエスとともにいる」ことです。福音宣教へと弟子たちを遣わすための前提は、イエスさまが弟子たちを自分のもとに呼んで、彼らがイエスさまとともにいることです。派遣ということを考えても、先ずはその人が今いるところから呼ばれます。そして、派遣しようとする人のところに来て、そこから派遣されるわけです。派遣する目的は、派遣する人の望みを果たす、使命を果たすためです。派遣する人の望みを果たすためには、その望みが何であるかをよく知らなければなりません。そのためには、その人のところでじっくりと留まる必要があります。弟子たち、またわたしたちが留まるところは、イエスさまご自身です。

現代の教会を見ていると、派遣先で必要な役割を果たすためのノウハウやテクニックを、一生懸命教えているように思えます。カトリック教会の制度や教義を教え込み、儀式や典礼を習って、それを現場で適正に実行することなどです。そして、それが福音宣教であると勘違いしているように思います。福音宣教はイエスさまご自身を伝えることであって、カトリック教会という組織や制度、教勢を拡大することではありません。そのことが本質的に理解されていないと、イエスさま抜きの福音宣教がおこなわれてしまいます。ですから、福音宣教に遣わすことが可能になる前提は、何にもおいて、イエスさまが弟子たちを自分のもとに呼ばれて、自分のそばに置くという事実です。そのことなしには、派遣ということはあり得ない、というより不可能です。イエスさまのそばに置かれる、またイエスさまとともにいることは、イエスさまを体験することです。イエスさまを体験するというということは、わたし自身が何者であるかを知るということでもあるといえます。

イエスさまが弟子を派遣するとき一人ではなく、二人というところにも意味があります。そこに、イエスさまの徹底した人間に対する見方が現れています。人間は、わたし一人で存在するということはできません。人間の実存からしても、人間そのものは関係存在です。つまり、わたしたちは、誰かとの関わりの中でしか自分を発見することはできないからです。わたしたちは自分の顔を自分で見ることはできず、わたしの顔は必ず他者に向けられています。平たくいえば、わたしという存在は、誰かという存在なしには存在しえないし、誰かという存在によってはじめてわたしを発見するということなのです。親は、子というものがなくては親になることはできず、先生も、弟子なくしてはあり得ない、その反対も然りです。同様に、人間は神なしにはあり得ず、さらにいえば神も人間なしにはあり得ないということなのです。そのことが、今日の第2朗読で書かれています。「神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる祝福で満たしてくださいました。天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、ご自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストにおいて神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです(エフェソ1:3~5)」。ここに、わたしたち人間の根本的な姿、あり方が描かれています。つまり、神の前にある存在、神に関わられた存在としての人間の姿です。それこそが、人間としての事実であり、人間は究極的に神の前に、神に関わられ、神へと向かうものとして、愛され愛されるものとして造られているということなのです。このことを神の子といいます。

ですから、イエスさまの弟子となるということは、根本的にそのこと、つまり、わたしはイエスさまの前にある存在であるということを体験することなのです。これが、イエスさまがわたしたちを呼ばれた、といわれたことなのです。ですから、イエスさまの弟子足るもの、そのことを理解しないならば、イエスさまの弟子足り得ないということになります。なぜならば、イエスさまの弟子であるということは、すべての人に、人間としての根本的なそのあり方をあきらかにすることに他ならないからです。これは、カトリック教会の教義や制度を教えることではありません。わたしたちが、たとえどのような宗教や生活様式を選ぼうとも、最終的にはすべてそのことに向かっているのです。わたしは、ひとりぼっちであって、誰も自分の身を代わってくれる人はいません。しかし、わたしたちは究極的にイエスさまに関われらえたものとして存在し、わたしはイエスさまのうちにあり、誰一人として取りこぼすことなく、わたしを抱き取って離さないという真実があるのです。イエスさまの弟子となるということは、イエスさまのこのわたしたち人類への願いに目覚めることなのです。これに気づくことなしに、如何なる人間的な慰めも、神学的な理屈も、教え、制度も、組織も、意味がありません。そのためには、徹底的にイエスさまと向き合うことが必要なのです。そのことに気づかされ、受け止めていくことが、イエスさまを証しすることになるのです。しかし、生前の弟子たちはそのことを何も理解しませんでした。 

わたしたちはイエスさまのそばにいて、イエスさまのうちに生きて、初めてイエスさまの願いに触れることができます。教会の掟だ、教会の教えで決まっているからではなく、イエスさまの願いを知ること、それが「汚れた霊に対する権能を授ける」ということばの中でいわれていることなのです。汚れた霊とは、わたしたちがイエスさまへと向かっていくことを妨げるすべての迷い、働きのことです。けがれた霊は、あらゆる機会、あらゆる出来事、あらゆる事象を使って、わたしを、“わたし自身”へと関心を向けさせようとします。わたしたちは、その意味で様々な汚れた霊に憑りつかれているといえるでしょう。イエスさまの生きた時代には、多くの病や悪魔憑き、憎しみや怒り、貧困や差別などが、人々を神へと向かうのを妨げていました。イエスさまは、全力でその外的な妨げを取り除き、その妨げが実は自分自身の中にあることに気づかせようとされました。そして、その妨げが取り除かれて、人々はイエスさまと向き合うという人間本来のあり方へと立ち返っていくことができました。ですから、様々な教えや奇跡は、その時代におけるイエスさまのひとつ方便だといえるでしょう。現代、実に様々なものが、わたしたちがイエスさまと向き合うことを妨げています。イエスさまへ向かうということは、真実の自分と向き合うということにもなりますが、現代人は自分自身と向き合いたくありません。ですからそれを避けて、自分の外に一時的な楽しみを求めることから始まって、崇高な社会活動に至るまで、それを名目にして自分の外に出ていこうとします。現代、教会を含んだ社会そのものが自己中心という病をかかえていますから、皆がその価値観で動いていますし、その流れにわたしたちも飲み込まれてしまっているのです。わたしたちが自分に向かっていれば、イエスさまに向かうことがありませんから、それこそ汚れた霊の思うつぼでしょう。

わたしたちがイエスさまと向き合うということは、何か新しい教えや知識を身に着けるということではなく、また新しいことをすることでもなく、本来のわたしを発見することに他なりません。今日、イエスさまは、弟子たちが宣教に出るにあたって、最低限の貧しい状態で出かけることを望まれました。それは、わたしたちが己の貧しさに気づくことを通して、自分自身と向き合うことを望まれからではないでしょうか。それによって、わたしたちが本来の自分自身の貧しさに目覚め、イエスさまを発見し、この世界と人々へと開かれたもののとなっていくことと、それが弟子たちを遣わすということなのです。

年間第14主日 勧めのことば

年間第14主日 福音朗読 マルコ6章1~16節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の福音はイエスさまが故郷にお帰りになったときのことを描いています。イエスさまは故郷では、人々の不信仰のゆえに、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡をおこなうことがおできにならなかったと書かれています。それは、故郷の人々がイエスさまにつまずいたからであると書かれています。イエスさまがお育ちになったナザレには、兄弟姉妹や親せき、そして母親もいました。小さな村でしたから、みんなイエスさまのことを知っています。実は、この“わたしは知っている”ということが、イエスさまの働きを妨げたということなのです。

わたしたちが知るという能力は、「ものごとを、えらびわける」こと、はっきり決めることだといえます。それではえらびわけるというのは、何から何を選び分け、どう決めていくのでしょうか。わたしたちが何かをわかるとか、知るということは、わたしとわたしでないものを選び分け、はっきりと区別していることに他なりません。ですから、これはわたしである、これはわたしでないと決めていくことに他なりません。ですから人間の知るという能力、認識という働きは、わたしはわたしであると意識することであり、正確には他人、他の物に対して自分を意識することになります。根底にあることは、わたしという自意識なのです。わたしであるという自意識そのものは善でも悪でもありませんが、自意識というものは絶えず自己主張と自我を増殖させ、自我と他がお互いに分裂していく世界を作り出してしまうことになります。キリスト教自体、わたしという意識を前提とした宗教ですから、この自我をどのようにコントロールしていくかを律法で定め、神への愛と隣人愛の掟を教えてきました。そのもっともわかりやすいのが、「自分を愛するように隣人を愛しなさい」という掟でしょう。これは、自己愛を前提とした教えであるということです。

ですからキリスト教では共同体の一致とか、信仰の一致、意志の一致が強調され、謙遜とか、また自己主張を従順という徳によって信仰的にコントロールしようとしたのです。しかし、それはすべてわたしがわかる、わたしが知る、わたしがするという自我の世界を前提として、神の恵みあるいは人間の力で押さえつけ、コントロールしようとすることであり、あくまでも“わたし”を前提とした世界です。イエスさまの故郷の人たちも、わたしたちはイエスについて知っている、「この人は大工で、マリアの息子、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここでわたしたちと一緒に住んでいるではないか」というわたしの知識、わたしの理解、わたしの判断、わたしの見方が前提になっているのです。このわたし、わたし、わたしです。わたしたちは、このわたしが何者であるのかもわからないのに、このわたしに拘り、わたしに執着し続けているのです。わたしの善行、わたしの功徳、わたしの信仰、わたしの欠点、わたしの罪などなど、切りがありません。そのように、わたしに拘り、わたしに迷っているわたしたち人間に、イエスさまは「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。野の花がどのように育つのか、注意してみなさい。働きもせず、紡ぎもしない。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる(マタイ6:26~30)」と教えられました。鳥も野の花も、“わたし”という自意識をもたず、自我の拘りから解放されています。イエスさまは、わたしということに拘っているわたしたちに、もっと広いいのちの世界があることを教えておられます。

朝日歌壇に投稿されていた歌に「戦艦の沈みゆくとき己の身を助けんとて戦友をつき落とすと聞く」というのが載っていました。戦後何十年もたっているときに歌われたものです。なんと恐ろしい歌かと思いながらも、その場にいたら、自分も友をつき落としているかもしれないという恐れ、そのことを否定しきれない複雑なわたしというものを感じさせられるのではないでしょうか。またこれとは対照的に、他人をボートに載せて、自分は船とともに沈んでいく人、死刑囚の身代わりになったコルベ神父のこともわたしたちは知っています。自分が生きるか死ぬかというときに、わたしが果たしてどのような行動をとるのかは誰も想像できないし、誰もその行動を責められないでしょう。カトリック教会が死刑囚の身代わりになった司祭を聖人に列聖するのは、それはそれでもいいとしても、人間というものは、わたしが助かりたいとの思いで友人をつき落とすこともするし、友を助けるためにはわたしが身代わりになるかもしれない、そのように不安定な、何をしでかすかわからないのがわたしという人間なのだということを自分のこととして、もっときちんとその現実を見つめることの方が大切だと思います。わたしたちは自分の心の深みをのぞき込んでみると、わたしというものに拘り、そのために自分の視野を狭めているわたしがいることに気づかされるのではないでしょうか。

NHKの超進化論という番組で、植物や菌がお互いに助け合っているということを取り上げているシリーズがありました。見られた方もあると思いますが、光合成をできる植物がその栄養分を土の中の細菌などを媒介して、光合成できない木に栄養を分けてあげるという話です。だから深い森の中でも、光があたらなくても苗木が育っていくのです。その植物には、「この木は光合成ができないかわいそうな木だから、僕の養分を分けてあげる」といったような、何か人間のような上から目線の利他心はありませんし、自分の養分を与えているという意識もありません。ただ、いのちが漏れ出ていくような、そのような仕方でお互いに生きあっている、そのいのちの豊かさというものが描かれていました。人間だと、「あの人たちはもっていないからかわいそうだから、わたしたちが分けてあげる」というような上から目線の利他の考えになりがちです。キリスト教もそういう発想ではないでしょうか。イエスさまは、野の花や鳥たちは、わたしが何かをしているとか、与えているとか、受けているとかそのようなことを意識することなく生きていて、それが他のいのちをも生かして、また自分も生かされている、そのような大きな豊かないのちの世界があることを説かれたのではないでしょうか。イエスさまは、そのようないのちの在り方をご自身の十字架の完全な自己犠牲、自己忘却の愛として示されていきますが、あれは異なった文化や価値観の中で、強烈な自己主張と自己実現をする人たちのための教えであるといえると思います。わたしたちには、そのような露骨な形で、“わたしを与える”とか、“わたしを差し出す”とか、“わたしを殺す”とかいわなくても、植物たちにみられるような豊かないのちの世界を、容易に理解していけるものがあると思います。

堤中納言物語に出てくる虫愛ずる姫君がどうして毛虫が好きなのかと問われたときに、「苦しからず。よろづのこと、もとをたづねて、末をみればこそ、事はゆえあれ」と答えています。誰でもが見た目の美しいさや見栄えを好むが、ことの本質をみるとそこにいのちの姿が見えてくるといっています。見た目、外づらを好むというのは、これはまさに現代の価値観そのものです。毛むくじゃらの毛虫の中にいのちの本質をみていく、いのちを愛でるという感性が、古来わたしたちの文化の中にあるように思います。対象の相手やそれが、何ができるとか、何を知っているとか、役に立つとか、役に立たないとかではなく、相手の本質を見て愛おしいと思う気持ち、これがいのちの感覚なのではないでしょうか。それをわざわざ「自分を愛するように隣人を愛しなさい」とか、「わたしと父なる神はひとつである」とか、「わたしは世の終わりまであなたとともにいる」というようなことをいわれなくても、わたしたちはそのようないのちの感覚をもっているように思います。“わたしは知っている”というわたしをちょっと横において、「空の鳥を、野の花を見なさい」といわれたイエスさまのみことばに、耳を傾けてみたいと思います。

年間第13主日 勧めのことば

年間第13主日 マルコ5章21~43節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の福音はヤイロの娘と出血病の女の癒しの物語です。今回、ここで取り上げられていることは、信仰とは何かということです。それで、おもに出血病の女の癒しの箇所から見ていきたいと思います。ユダヤ教の規定では、レビ記に出血病についての詳細な記述があります(15:25~)。この女性は、12年間出血病にかかっており、多くの医者にかかっても治ることがなく、かえってひどく苦しめられ、全財産を使い果たしてしまったと書かれています。当時の医学では、ほとんどなすすべがなく、出血が止まらない限り、この女性は汚れたものと扱い続けられることとなります。当時のユダヤ教の中では、その女性が触れたもの、そして、触れたものに触れることも汚れとされていました。ですから、この女性が共同体の中で宗教的、社会的差別されて心身ともに大変な苦しみを抱えていたことがわかります。

そのような、状況の中で彼女が耳にしたのは、イエスという方がいろいろなところで病人を癒しておられるという噂です。彼女は、もはや頼るべきものが何もないところまで追いつめられていました。彼女が最後に希望を託したのは、いろいろな病気を癒しているといわれていたイエスの存在です。彼女は藁をもつかむ思いで、イエスさまが自分の住むところに来ておられることを聞きつけ、群衆に紛れてイエスさまに近づきます。そして、後ろからイエスさまの服に触れます。「この方の服にでも触れれば癒していただける」という、彼女の願いが癒しを引き起こします。イエスさまは群衆に囲まれて、押しつぶされそうになっていました。しかし、自分の内から力が出ていったことに、自分のいのちの根源に誰かが触れたことに気づき、「わたしの服に触れたのは誰か」といわれます。多くの群衆にもみくちゃにされているのに、イエスさまは「自分に触れたのは誰か」といわれました。群衆に取り囲まれていて、どんなに距離的に近くにいようとも、いのちの主であるイエスさまの本質に触れ、癒しの力を引き出したのはこの出血病の女でした。この物語を読むと、イエスさまと関わるということ、真の意味でイエスさまと出会うことは、信仰によってイエスさまの本質に触れることであるということがわかります。ここから、わたしたちは、改めて信仰とは何かということを考えていくことが出来ると思います。

先ず、この女性は何も頼るものがありませんでした。わたしたちは元気なときには、自分の力で何でもできると思っています。しかし、様々な困難、特に老病死などの前には、自分の努力や頑張りだけではどうにもならない自分の限界を嫌というほど思い知らされます。わたしたちは、自分で何でもできると思っている限り、誰かに助けを求めようとはしません。自分が神さまのように全能であると思い込んでいるのです。しかしこの女性には、もうイエスさましか頼るものがありませんでした。これが、徹底的な貧しさの体験です。イエスさまが福音の中で、「貧しい人は幸せ」といわれるのは、その貧しさ自体を肯定するのではなく、すべてにおける徹底した貧しさ、つまり、自分の弱さ、限界を真に知ることが、自分の力を超えたもの、真実を求める機となるということなのです。人間はここまでしなければ、真実を求めようとはしないということかもしれません。

わたしたちは、多くの場合、イエスさまを一般的に信じて、まじめにやっていれば、それでよいキリスト者、よい信者であると思っています。今までそのように教育され、信心深くやってきたのではないでしょうか。しかしそれだけなら、イエスさまの話を聞いて、押し寄せてきた群衆と何ら変わりないということなのです。今日の福音で、イエスさまの周りに押し寄せた群衆の中で、唯一、イエスさまとの真の出会いを体験したのはこの出血病の女性でした。その違いは何でしょうか。確かに、わたしたちはイエスさまについていろいろなことを教わり、信じているかもしれません。ミサに行くし、お祈りもする、いわゆるよい信者です。しかし、それだけでは十分ではないということなのです。それだけでは、信仰生活は先へ進まないということです。イエスさまとの真の出会いは、わたしたち側の努力や精進、またイエスさまについての知識などとは関係ないということです。ペトロたちの方が、この女性よりもずっとイエスさまと長く一緒にいました。しかしこの女性は一瞬にして、イエスさまのいのちの本質に触れて、イエスさまと深い出会いを体験します。この物語を表面的に読むと、彼女からイエスさまに触れて、イエスさまの癒しの力を引き出したかのように描かれています。また、イエスさまも「あなたの信仰があなたを救った」といわれますから、やっぱりわたしたちが熱心になって、わたしが一生懸命に求めて信じなければならないんだと考えてしまいます。しかし、それは大きな勘違いです。彼女は「この方の服にでも触れれば癒していただける」というイエスさまへの信仰をもって、イエスさまの服に触れます。その信仰は、彼女の心の中に生じましたが、そのような信仰を引き起こしたのは、彼女ではなくイエスさまご自身なのです。

彼女は「この方の服にでも触れれば癒していただける」という信仰を、どのようにして生じさせたのでしょうか。彼女にイエスという見ず知らずの男が自分を癒してくれるというかもしれないという淡い希望を抱かせたのは、彼女の徹底した貧しさの体験がその機となったかもしれませんが、実はイエスさまご自身が彼女と出会いたいと熱く願っておられたからなのです。それがイエスさまの願いなのです。ですから、彼女の信仰は彼女の中に生じますが、その信仰を彼女に中に生じさせたのは、彼女と出会いたいと願っておられたイエスさまご自身、イエスさまの真実なのです。この真実を信仰というのです。真実も信仰もギリシャ語では同じ言葉です。ですからその信仰は、イエスさまからの恵みとして与えられたものでしかありません。

おそらく、わたしたちのほとんどが、イエスさまの周りに群がる群衆のようなもので、イエスさまとの真の出会いをしていないのではないかと思います。だから、お祈りしたら、ミサに真面目に行っていれば何とかなると思っている、そのような表面的な信仰に留まっています。別のいい方をすれば、あなたは自分の信仰や努力で、自分の祈りで自分を何とかできると思っているのですかということなのです。彼女は自分の徹底した貧しさの体験を通して、自分は本当にイエスさまに出会って、救われなければならない存在であることに気づかされました。この気づきをキリスト教では回心というのです。

今日の物語は、癒しということが前面に出ていますが、癒しはきっかけに過ぎません。癒しということを通して、イエスさまとの真の出会い、この女性の真の信仰生活の始まりが描かれています。イエスさまは、「安心していきなさい。あなたの信仰があなたを救った」といわれます。今までは、病気を治してほしい一心でイエスさまにすがってきました。しかし、癒された今、イエスさまと出会った今、その信仰は、今までの自分勝手なものではなく、まったく異なったものになっていきます。聖書には、この後、彼女がどのように生きたのかは描かれていません。聖書がいつも描くのは、イエスさまの人類を救いたいという願いと、そのイエスさまと人類の出会いです。そこには、あなたはイエスさまと出会って、救われなければならない人間なんですよということがはっきりと、わたしへの呼びかけとして知らされてきます。それがなければ何も始まらないのです。そして、そこから彼女の真の信仰生活が始まり、イエスさまの友としての歩みが始まっていくのです。

年間第12主日 勧めのことば

年間第12主日 福音朗読 マルコ4章35~41節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

「向こう岸に渡ろう」これはイエスさまからの呼びかけです。聖書に出てくる海や湖は、人間の力ではコントロールできないものの象徴です。わたしたちは、自分の力でどうすることもできないたくさんのものを抱えています。というか元気な時は、わたしたちは自分の人生の中で自分の思い通りにならないものがあるということをなかなか認めようとしません。仏教では生老病死といって、わたしたちの人生自体が苦しみであり、決して人間の思う通りにはならないと教えています。人間は思い通りにならないものを自分の思い通りにしようとし、そうすることができないことから苦しみが生じ、にもかかわらず思い通りにしようとし続けることを人間の迷いであると教えています。宗教は、そのような思い通りにならないものを、信仰の力によって人間の思いをすえ通らせることだと勘違いしている人たちがいます。ですから、今日の福音も気をつけて読まないと、嵐になって困っている弟子たちが、イエスさまに頼むと嵐を鎮めてくださったというふうに捉えてしまいます。宗教はわたしたちの問題解決をするものでもないし、わたしの都合をかなえてくれるものでもないのです。

そもそも、わたしたちが思い通りにならないとか、苦しんだりするのはなぜかというと、わたしたちは自分を含めて、他の事象が自分の思い通りになると思っているからなのです。わたしたちは生きるということについて、わたしたちは自分の力で息をしているわけではないし、自分の意志で心臓を動かしているわけでもありません。わたしたちが生きるということについて、わたしが自分の力でしていることはほとんどないのです。もし、わたしたちが生きるということを自分の力でできるのであれば、だれも病気にならないはずですし、年も取らない、死ぬこともないはずです。しかし、どれだけ科学や医療が進歩しても、病気にならなくなることはありませんし、年を取らなくなることもありません。死ななくなるということもないのです。人間が生きるということは、年を取り、病気になり、必ず死ぬということなのです。これこそは、だれも否定することのできない真実です。わたしたちは神さまを信じますといいますが、わたしたちは誰も、人間は病気になって、年を取って、死ぬことを信じますといいません。それは、だれかに証明してもらう必要も、教会の教えとして規定する必要もないほど真実だからです。でも、わたしたちは、人間は病気になって、年を取って、死ぬことを受け入れられないのです。なぜならば、自分の体、自分のこころ、自分の何かを自分の所有物だと錯覚しているからなのです。

わたしたちは自分の体といいますが、わたしたちの体はわたしの意志とは全く関係なしに動いています。わたしのこころもわたしの意志と関係なく反応してしまいます。怒ってはいけないと思っても、腹が立ちますし、笑ってはいけないと思っても笑ってしまいます。わたしの体もわたしのこころも、何ひとつわたしの思い通りにはなりません。それなのに、わたしの体、わたしのこころ、わたしの家族、わたしの教会、わたしの教区などというのです。それらはすべて錯覚なのです。そしてそれこそが、人間の迷いであり、罪の根源にあることなのです。そのような人生に迷い続けているわたしたちに、イエスさまは「向こう岸に渡ろう」といわれたのです。

今日、「向こう岸に渡ろう」といわれたのはイエスさまです。このわたしの人生、苦海ともいえる旅で、舟をこぎだそうといわれたのはイエスさまなのです。わたしの人生の主人公はわたしではないのです。イエスさまがわたしの人生の主人公、わたしの人生そのものなのです。しかし、人間は大脳が発達することで情報処理能力と分析能力を手に入れました。そして、人類はあらゆるものを分析して、人類があらゆるものの所有者であるかのようにふるまってきました。弟子たちは湖が凪で、穏やかなときは、船を自分たちの思うように操れます。しかし、ひとたび嵐となれば、船を操ることなどできなくなるのです。いくら人間が船を操れるとしても、それはほんの一部分のことでしかありません。そんなこと当たり前のことなのです。しかし、弟子たちは自分たちは自在に船を操れるといって、自分の全能感を味わい、自分たちがこの人生の主人公であるかのように感じているのです。ほとんどの人間がそのように一生を終えていくのではないでしょうか。その船の艫-舟の後方の部分-に、イエスさまがおられるということなど、わたしたちは考えたこともないというのが現実でしょう。教会にきて、ミサに参加して、信者であるといっているかもしれませんが、それでは、わたしたちは自分教の信者でしかないのです。ありがたいことに、そのようなわたしたちに思い通りにならない現実が襲い掛かってくるのです。

多くの人は、そのような災難に会うのは、悪いことをしたから罰が当たっているのだとか、信仰が薄いからだとか、神さまからの試練だとかいいます。このような考え方はすべて間違いです。信仰のよしあし、強弱、善人悪人に関係ありません。このようなことをわたしたちが体験するのは、わたしが生きているからなのです。つまり、当たり前のことだということなのです。そのことがわからずに、信仰が弱いからだとか、じゃうちの宗教を信じたらよくなるとかいうようなことは、すべて嘘っぱちです。そんなこと関係ないのです。これは生きているということなのです。日本では、悪い生き方をしていると、畳の上で死ねないといいましたが、そんなことをいえば、イエスさまの最期は日本でいうなら磔獄門、極刑です。あれほど酷い死に方が他にあるでしょうか。たとえどのような人生であっても、わたしの人生の主人公は、わたしの旅の船頭さんはイエスさまであるということなのです。ただ、イエスさまは艫の方でいつも眠っておられますから、わたしたちは自分の人生、旅の主人公がイエスさまであることに気づかないのです。

しかし、イエスさまという救いの舟に乗っている限り、舟は必ず向こう岸に着きます。わたしたちは、東京行の新幹線に乗ったら、安心して荷物を降ろして席に座ります。それは、この新幹線が、必ず東京に着くことを知っているから、新幹線に自分を任せて座っていられるのです。しかし、わたしたちの現実は、東京行の新幹線に乗りながら、ちゃんと着くかどうか分からないので、新幹線の中で荷物を抱えて、一生懸命走っているようなものではないでしょう。そのようなわたしたちに、イエスさまは、「あなたの荷物を降ろして、わたしを信じて任せなさい」といわれているのです。生きようが、死のうが、あなたはわたしのうちにいるといわれているのです。それが「なぜ怖がるのか。まだ、信じないのか」というイエスさまのことばは、任せ切ることができないわたしたち人間への呼びかけとなっているのです。

宗教は、わたしの人生の主人公はわたしではなく、イエスさまだ、大いなるいのちなのだという真実を告げ知らせることなのです。何かを信じたらよくなるとか、うまくいくとか、天国にいくではないのです。そんなことを教える宗教は偽物です。わたしが信じることで何とかなると思っているような信仰は、人生の老病死や困難の前ではいとも簡単に崩れ去ってしまいます。人間の作り出せるものは信念であって、信仰ではありません。わたしたちが、安心して新幹線に乗っていられるのは、わたしの信念のおかげではなく、新幹線の性能と安全性のおかげです。わたしたちが信じられるとしたら、その信仰を引き起こしているのは、間違いなくイエスさまご自身に他ならないのです。わたしの心が強いからでも、わたしの努力の結果でもないのです。わたしの信仰など何物でもありません。わたしたちの人生は、イエスさまという大いなるみ手の中にあるのにもかかわらず、わたしたちは反抗し、自己主張をし続ける。わたしは、その愚かささえも分からないほどの愚かさの闇を抱えています。しかし、そのわたしをも抱き取って離さないイエスさまのみ手の中に、救いの願舟に乗せられているということなのです。ですから、信仰とはわたしの中に引き起こされますが、わたしが自力で作り出せるものではないのです。

年間第11主日 勧めのことば

年間第11主日 マルコ4章26~34

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は神の国についての2つのたとえが話されます。イエスさまが、ご自分の人生と死をかけて宣べ伝えようとされたのは神の国でした。ここでは、神の国は成長する種とからし種にたとえられています。からし種のたとえは、マタイ、ルカに並行箇所がありますが、成長する種のたとえは省かれています。マルコ福音書は最初に書かれた福音書であり、イエスさまご自身に遡るものであると捉えられています。にも拘わらず、成長する種のたとえ話は省かれてしまっています。省かれているということは、おそらくマタイ、ルカはこのたとえの意味を理解できなかったからであると思われます。

聖書の中で、特にマルコ福音書においては、弟子たちの無理解ということが大きなテーマになっていますが、マルコに出てくる弟子たちは、イエスさまの生き方とメッセージを理解することができませんでした。それでは、イエスさまの復活の後には理解できたのかというと、必ずしもそうではありません。マルコ福音書はその全体を通して、絶えずイエスという方は誰かということを問い続けていきます。マルコ福音書はイエスさまの復活については触れず、イエスさまの空の墓で天使がガリラヤに行きなさいと告げるところで終わっています。つまり、マルコ福音書は、イエスさまが育ち、生活されたガリラヤ、弟子たちがイエスさまと出会ったガリラヤへ、つまり、読み手を夫々の生活の場としてのガリラヤへ絶え間なく誘うという構造になっているのです。ですから、マルコ福音書においては、イエスさまは誰かということが絶えず問われ続けているのです。マルコ福音書は、キリスト教の教義としてのイエス・キリストを紹介するものではないということです。

そのイエスさまが、生涯をかけて人々に伝えようとされたのが神の国ということになります。ですから神の国を問うということは、イエス・キリストとは誰かを問うことに他なりません。そこで先ず、押さえておきたいことは、イエスさまが宣べ伝えられた神の国は、当時の弟子たちが考えていた新しい社会形態、政治形態ではないということです。弟子たちの多くがイエスさまに期待していたことは、イスラエル王国の再建でした。当時のイスラエルは、ローマ帝国の支配によって、自由に神さまに礼拝を捧げることができず、重税を課され、苦役を強いられていました。ですから、弟子たちがイエスさまに期待したことは、そのような植民地支配を終わらせ、新しく国家を再建する力強いリーダーシップのある政治的な指導者でした。当時、そのような指導者がメシアと呼ばれ、そのメシアによって建設されるのが神の国であると理解されていました。しかし、イエスさまが十字架上で処刑されて、周りのユダヤ人たちの目論見が崩壊したあと、イエスをメシアとして信奉するようになった人々の中で、メシアが再臨するという終末思想が広がりました。それは、イエスさまが王として近い将来再臨され、ローマ帝国は駆逐されて、神の国が完成するというものでした。結局、イエスさまが再臨されるということはありませんでしたが、初代教会はこの終末思想をそのまま受け継いでいきます。そして、その後終末思想は修正されて、教会の教えとして、死んだ人々がいく天国、キリストの再臨、最後の審判、楽園という終末論が形成されていきます。しかし、イエスさまが生涯をかけて宣べ伝えようとされた神の国は、新しい社会形態、政治形態でも、人々が死後に行くといわれている天国のことでも、この世が完成されたときに訪れる楽園でもありません。中世では、神の国は教会と同一視して語られ、それが近代まで続きます。

このような誤解がどこから生じたのかと考えると、イエスさまが宣べ伝えようとされた神の国が、人間の通常の論理ではいい表しえないことであったからだと思います。ですから、イエスさまは「神の国は○○である」とは決していわれず、必ず「神の国は○○のようにたとえられる」といわれました。また、イエスさまは神さまについても語られましたが、「神さまは○○である」とはいわれずに、例えば、いつくしみ深い父親のようだとか、善人にも悪人にも太陽を昇らせ、雨を降らせられるような方であるといわれました。イエスさまは、神さまを“天の父、アッバ”と教え、また”アッバ父よ“祈られましたが、いわゆる文字通りに神さまが父であるという意味ではないのです。これもたとえなのです。そのような状況の中で、神の国を成長する種としてたとえられたのです。そして、そのたとえが直ぐにマタイ、ルカから省かれたということは、マタイとルカはこのたとえを重要だとは考えなかったということなのですが、それは裏を返せば、マタイとルカはこのたとえの重要性を理解できなかったということです。ですから、この成長する種のたとえの中で語られていることの中に、神の国を理解していくための大切なポイントがあるといえるでしょう。

神の支配といわれる神の国は、土にまかれた種のようであるといわれています。そこでは、土に種を蒔くという人間の関与がなされていますが、中心は土にまかれた“種”であり、その種は夜昼、人が寝起きしているうちに、芽を出して成長していく、しかし、どうしてそうなるのか人はわからないといわれています。この人間の側からはわからないという、人為の及ばないところで何かがひとりでに動いていくところに神の国の働きがあるというふうにいわれています。わたしたちは、とかくすると種を蒔く人間の行為、また水をあげ、世話をする行為があるから種は成長するのだというふうに考えがちです。例えば、「心の貧しい人は幸いである」といわれると、“わたしたちが”心の貧しい人にならなければならないと考えてしまいます。しかし、イエスさまは「心の貧しい人は幸い」といわれただけであって、心の貧しい人になりなさい、そのように努力しないと神の国に入れませんよといわれたのではありません。神の国の真実に目覚めた人は、そのようになるといわれたのです。それが心の貧しい人は幸いという意味なのです。つまり、わたしたちが何かをしたからとか、何かをやったからそうなるのではなくて、わたしたちの行いや働き以前に、わたしたちを動かしている大きな働きがあり、それがすべてのものごとの背後にあって、わたしたちを生かし動かしている、その働きを神の国といい表そうとされたのではないでしょうか。

確かに、種の芽が出て、成長していくためにはいろいろな条件が必要です。人の手、空気、土、水などなど。しかし、それではそれらの条件が整えば芽が出るかというと、そうではなく種そのものがなければならないし、またいろいろな条件も必要です。それらすべてのものの背後にあって、そのものを動かし、またそれらをすべて生かしている大きな働き、それを神の働き、神の支配、神の国というのではないでしょうか。それは人間の力、思惑が及ばぬ、もっと奥にある現実、真実のことではないかと思います。それは、善人にも悪人にも太陽を昇らせ、雨を降らせるといわれているように、人間の考え方や思惑に左右されないものなのです。これがイエスさまの教えでは、敵への愛となって表れてきます。

イエスさまが説かれた神の国は、命令とか、倫理ではなくて、「おのずからそうなる」といわれたものなのだといったらいいでしょう。強盗に殴られた人を助けたサマリア人のたとえ話は、とかくするとわたしたちもよいサマリア人になりましょうという倫理、人助けの話として受け取られがちです。「その人を見て憐れに思い、近寄って」といわれているように、思わず駆け寄った、“おのずからそうなった”という動きの中に神の国の働きを見ているということだと思います。サマリア人が思わず駆け寄ったのは、それが律法の命令だから、隣人愛の実行だから、天国に行くためだからではありません。そのような人間の己の思惑を超えたところで、何かが働いてサマリア人を突き動かしているのです。このことが神の国なのです。ですから、神の国は義務でも、命令でもなく、教会の教えでもありません。すべてを超えてわたしたちを生かし、支え、働いているその大きな何かであるといったらいいでしょう。そのことに目覚めた人が心の貧しい人、つまり自分という思惑から解放された人であり、幸いな人といわれているのです。ですから神の国は、いつか来るとか、どこかにあるというものではなく、今ここに、わたしたちの内に実現している何か、わたしたちを突き動かしている真実であり、ある意味で自然にあるということではないでしょうか。

年間第10主日 勧めのことば

年間第10主日 福音朗読 マルコ3章20~35節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の福音では、人々の無理解ということがテーマになっています。先ず「イエスのことを聞いて取り押さえに」来た「身内の人たち」が登場します。続いて「エルサレムから下ってきた」権威をもっている「律法学者」たちが出てきます。イエスさまの身内の人たちは、イエスさまを小さい時からよく知っていたはずです。母と書かれていますからマリアさまのことでしょうし、兄弟というのは、イエスさまのいとこや親族のことを指しています。彼らは、イエスさまが病人をいやしたり、悪霊を追い出したりしている噂を聞いて、あれは気が変になっているといってイエスさまを取り押さえに来たと書かれています。取り押さえに来るというのですから、尋常のことではありません。またエルサレムから下ってきた律法学者たちも、あれは悪霊の頭の力で悪霊を追い出していると決めつけます。どうして、無理解ということが起きるのでしょうか。

人間は自分の経験と自分の範疇の中でものごとを頭で理解しようとし、自分の理解を超えたことについては、基本的に不安や恐怖を感じます。なぜなら、人間は自分の頭で理解できないことを受け入れられないからです。ですから、わたしたちは自分の知らないもの、また自分の理解できないものを、異物として警戒し、不安を抱き、排除しようとします。エイリアンということでしょう。ですから、わからないものには、必ず名前を付けようとします。そうすることで、理解しようとするのです。

牧野富太郎は「雑草という名の草はない」といい、すべての植物には名前があるといいました。しかし、植物は自分が何々草であると名乗っているわけではありません。人間がその植物に勝手に名前を付けただけにすぎません。また、例えば水の流れに対して、鴨川という名前をつけて理解したつもりになるのです。方丈記のなかで、「ゆく川の流れは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と栖と、またかくのごとし」といっています。川の流れというものは、絶え間なく移り変わっていく現象であって、それに実体はないといっています。にもかかわらず人間は、自分たちの都合で、鴨川という名前を付けるのだということなのです。人間はわからないということに、本能的に恐怖を感じます。わたしたちはそのものに名前を付けることで、理解して安心したいのです。というか、人間が世界を理解していくためには、ものごとに名前を付けて概念化していくことでしか理解することができないのです。名無しの権平というわけにいかないのです。

ですから、イエスさまの身内の人たちは、あれは気が変になっているといい、律法学者は、あれは悪霊の頭に取りつかれているというふうに決めつけることで自分たちがイエスさまをわかったつもりになり、安心しようとするのです。この人間の行為を、ラベリングといいます。最近のインターネットではタグをつけるともいわれていることです。このラベリングやタグをつけるというのは、現代社会において、当たり前のこととなっていますが、根底にあるのは、人やものに名前やイメージを植え付けることで評価を固定し、対象となる相手やものを自分自身の影響下に置いて支配するという、人間の心理現象をさしています。そのことが創世記の中では、人間が神さまに代わって生き物に名前を付けるという行為として記されています(2:19)。このことをわたしたちは当たり前のこととしてやっているのですが、この名前を付けるという行為やラベリングは、実はものごとをそのままありのままで受け入れるのではなく、わたしという身に引き寄せて、わたしに都合よく理解していくという危険性を孕んでいる行為でもあるのです。ですから、ラベリングという行為は、しばしば先入観や固定概念で相手を決めつけ、偏見やレッテルを貼ることになっていきます。これは人間の根本的な世界理解の方法なのですが、このことが人間社会に大きな問題を引き起こす原因ともなっているのです。そして、このラベリングをする際に大きな役割を果たしているのが人間の言葉なのです。

わたしたちはすべてのものに言葉で名前をつけることで、わたしたちは相手やものをわかったつもりになるということをしているわけです。わたしたちは生まれてきたときに名前がありません。しかし、親がこの子はこういう子になってほしいと願って名前を付けます。そして、その名前を呼び続けることで、その子はその名前そのものと不可分となっていきます。さらに成長するに従って、男女、子ども、生徒、学生、社会人らしさという肩書等がわたしにくっ付いてきます。そして、その名前や肩書、役割、偏見、レッテルがわたしらしさというものを構成する一部、あるいはすべてとなってしまうのです。その役割を果たしているのが言葉です。しかし、わたしたちには名前というものが付けられる以前のいのちそのものとしてのわたし、また“わたし”という言葉以前の何某がいるのです。わたしたちは、いのちの上に言葉が乗っかかるようになり、いのちにつけられた言葉がわたしたちを構成し、その言葉がわたしたちを束縛し、またわたしがその言葉に執着するようになっていきます。わたしたちは、このような言葉の世界に生きていますから、その言葉によって生き、また言葉によって傷つき、言葉によって捕らわれ、言葉によって惑わされているのです。わたしは人間であり、キリスト者であり、司祭であり、男性ですが、その逆がそのままわたしではありません。なにものによっても規定されないわたしというものがあるのです。しかし、わたしたちは人の言葉によって力づけられたりしますが、また傷つけられたり、立ち上がれないほど深く傷つけられること、ある意味で殺されることもあるのです。

キリスト教は言葉の宗教であるといわれるほど、言葉が大切にされています。そして、言葉ですべてを説明しようとします。そもそも、“神”という言葉も、これはキリスト教の神さまのことを指すかのように思っていますが、そうではなくすべてのいのちの源であるものを、わたしたちの言葉で“神”というふうに呼ぶことにしただけなのです。日本語では「カミ」と呼び、ラテン語ではデウスとなり、英語ではゴッドになる。これは人間が、自分たちの言葉では言い表しえないなにかを、そのような名前、仮名(けみょう)として呼ぶということに決めただけに過ぎないのです。しかし、人間は名前を付けることでなんとなくわかったような気になり、そのものを理解したような気になるのです。そして、多くの宗教は神の名前を使って、いろんなことを自分たちに都合よく説明し、利用するようとなっていくのです。これが十戒で「神の名をみだりに呼んではならない」と戒められていることの意味なのです。

そもそも人間が言葉を使うということ自体が、根本的な問題、錯覚や誤解、愚かしさ、迷いというものを抱えているということを意識しておかなければならないと思います。人間はすべてのもの、すべての現象に名前をつけて、それを実体化しようとしていきます。そして、それをすべて人間の所有物としてわかったつもりになり、自分に都合よく利用してきたというのが人類の歴史であり、人類の社会・文化活動であり、また同時に人類の罪を構成してきたのです。

 このように、わたしたちは、世界を言葉によって理解しますが、言葉によって迷っているのだということができると思います。言葉によって救われますが、言葉によって傷つき、迷い続けているのです。わたしたちの苦しみの多くは、わたしがわたしであると思っているわたしがわたしのようでないことからくる苦しみ、また相手がわたしの思っているような相手でないことからくる苦しみです。わたしたちが言葉で考え、言葉で決めつけて、言葉に迷い、言葉で苦しんでいるのです。そのような言葉に迷い続けているわたしたちに、イエスさまが真実の言葉となって訪れ、わたしたちに言葉で語りかけてくださったのです。ですから、イエスさまは“真実のいのちのみことば”と申し上げるのです。ですから、今日もわたしたちはいのちのみことばであるイエスさまに聞き続けていくのです。

キリストの聖体 勧めのことば

キリストの聖体 福音朗読 マルコ14章12~16、22~26節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は、イエスさまが弟子たちと過ぎ越しの食事をされる箇所が読まれていきます。イエスさまが人生の最後に、自分の人生を象徴的にあらわすものとして、“食べるということ”を、わたしたちに感謝の祭儀を残してくださったことを記念するのがキリストの聖体の祝日です。それで先ず、イエスさまが自分の人生をあらわすものとして食事、ある意味人間にとって、またすべての生命体にとってもっとも基本的な食べるという行為に着目してみたいと思います。

食べるという行為は、すべての生命体にとってもっとも根本的な行為です。すべての生命体は、他からいのちをもらって、自分のいのちを繋いでいます。わたしたちは普段はほとんど意識していないかもしれませんが、“食べる”ということは、ほとんどが「生きる」ということと同義語であるといってもいいわけです。スーパーで売られているものはすべて処理をされパックされていますが、実際にはわれわれは何かを殺して食べているわけです。もちろん、ヴェジタリアンの人がいて、動物は食べないといっても、食べている植物もまた生物であることには変わりがありません。食べるという行為は、このいのちの「殺戮」ということそのものでもあるわけです。何をどういおうと、われわれは生き物を食べ、そのかぎりでそれを殺しているといえるでしょう。戦争をするのも、争いをするのも、究極的には食料を確保することに繋がっているのです。

宮沢賢治はこの食物連鎖という問題を「よだかの星」という小説で取り上げています。わたしは小学生のとき、国語の副読本として「よだかの星」を読み、強烈な印象を受けたのを思い出します。よだかは醜い鳥で、皆から嫌われています。そして、自分はいろいろな虫を食べて殺生をする、誰からも顧みられず、どのようにしても救われがたい我が身というものに気づいたとき、よだかはどこか遠いところへいってしまおう、つまり自分が死ねばよいのだという思いつめ、泣きながら空の彼方へと昇っていきます。そして、昇って昇って、最期に静かに燃える青い星となったという物語です。その後、イエス・キリストという小学生向けに書かれた伝記を読んだのですが、そのときに受けた印象が、「よだかの星」を読んだときに受けた印象と重なったのを思い出します。その小学生向けの伝記は、イエスさまの十字架で終わっていて、復活の話はありませんでした。しかし、どのように表現すればよいのかわかりませんでしたが、そのときに受けた複雑ながらも安らかな印象というものが、救いというものであったのだと思います。もし、あのときイエスさまの復活という話が続いていれば、わたしは幻滅しただろうと思います。何にも報われず、ただ大変な思いをして、十字架の上でなくなっていったというところに救いをみたのであって、十字架の後に復活があったというなら、勧善懲悪を説く日本昔話と同じだという印象をわたしはもってしまったと思います。

よだかの星にもありますが、よだかが昇っていった世界は、もう「のぼっているのか、逆さになっているのか」もわからない現実を超越した世界だったのではないかと思います。それは、単に苦しみから解放されて楽になるという世界ではありません。わたしたちの人間の世界は、善悪、美醜、貧富等あらゆるものを二分し、差別区別することで成り立っている世界です。それがわたしたちの生きている世界であって、イエスさまの時代もまさにその通りでした。そのような世界の中で、様々ないのちを殺して食べているのは他の誰かではなくて、実は“わたし自身”なのだという現実に目覚めたときに、イエスさまはご自分のいのちを差し出そうとされたのではないかとわたしは思うのです。イエスさまはご自分が人々のための食べ物、飲み物になりたかった、というか、ならないではおれなかったということだと思います。そのイエスさまの悲哀というか、あらゆるいのちを愛おしむ思いが、聖体となったと思えるのです。それほど、イエスさまのすべてのいのちと連帯するという思いが深かったのでしょう。イエスさまはいのちそのものでおられたから、それが聖体の制定となり、イエスさまの十字架となったのだと思います。

もちろん、このイエスさまの復活や聖体の制定も神学的に説明することはできるでしょうが、わたしたちにとって大切なことは、それが現代社会の中で様々な困難や苦しみを生きるわたしたちにとって、それらがどのような意味なのかということを問うことであると思います。難しい形式だけの教義を繰り返すこと、今までの慣習にしがみつくことではなく、わたしたちにとって、この世界にとって、イエスさまが何なのかを問うこと、いのちとは何かを問うことが大切なのではないでしょうか。

イエスさまは、ご自身をわたしたちにそのまま差し出しておられるのです。「皆、これをとって食べなさい」と。イエスさまは、「わたしがあなたのいのちとなる」といわれたのです。パンとぶどう酒はまさにわたしたちを養ういのちの糧です。その形をとって、イエスさまは世の終わりまで、わたしたちのいのちの糧として、いのちの源として、ご自分を与え続けたいといわれるのです。しかし、そのイエスさまは、そのような生き方をしたわたしを信じなさいとか、ミサは義務ですから必ずあずかりなさいとかいわれませんでした。イエスさまには何も押しつけがましいところがないのです。どうぞ召し上がれといって、自分を差し出しておられるだけなのです。イエスさまの福音は義務ではないのです。ただ、そのようなイエスさまに触れたとき、今度はわたしたちのこころと体が動き出すのではないでしょうか。

わたしたちがそのようなイエスさまと出会うことなく、わたしの飢えを満たし、わたしの願いを満たし、わたしの救い、わたしの癒し、わたしの安寧を求めているだけであれば、ああ、今日はご聖体をいただけてこころが落ち着いた、平和になったで終わってしまうことでしょう。キリスト教を教えとしてだけ学んだだけであれば、そこからは何も生まれてきません。ただ規則を守り、義務を果たし、よい人間となって、その報いを受けるということで人生が終わってしまいます。今日、キリストの聖体の祝日にあたって、先ずはイエスさまのそのようなイエスさまのあたたかさを感じ取ってみたいと思います。

三位一体の主日 勧めのことば

三位一体の主日 福音朗読 マタイ28章16~20節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は三位一体の主日です。今日の箇所は復活されたイエスさまと弟子たちが、ガリラヤで出会う様子が描かれています。そこでは、「イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑うものもいた」と書かれています。原文では「彼らはイエスに会い、ひれ伏した。しかし、彼らは疑った」となっています。おそらく誰かが忖度して「疑うものもいた」と訳したのだと思います。教会としては、11人の弟子がイエスさまと出会い、礼拝しながらも疑ったというのは具合が悪かったのでしょう。でも、どうみても、彼らはイエスに会い、ひれ伏した、しかし、疑ったとしか読めません。おそらく、礼拝する、信じるという行為が、疑いと相いれないものであるという考え方があったのだと思います。それに、イエスの直弟子ともあろう使徒たちに信仰がなかったなどというのは考えられないという発想が教会の中にあったのだろうと思います。

西欧のキリスト教ではすべてにおいて信仰が前提であり、その前提である信仰を疑ってみるということが教会の歴史の中でなかったように思います。キリスト教がローマ帝国内に広がっていくときに、キリスト教徒は迫害を受けます。そして、その過酷な迫害を受けて、殉教までして信仰を貫いた人たちを殉教者としてたたえ、キリスト教が公認の宗教になった後は、徹底して信仰に生きた人を証聖者として崇め、列福列聖の制度が整えられました。そこでの信仰者のイメージは、キリスト教信仰を死にいたるまで貫いた人、またその信仰を徹底して生きた人であって、疑うということは棄教者であり、背教者としてのレッテルを貼られるということでした。信仰を神からの恵みとしては捉えていましたが、その信仰を守り、生き抜くのは人間であって、人間の意志が非常に重要視されていたように思います。ですから、疑うということは悪であり、信仰そのものが人間にどのように賦与されて、信仰の本体が何であるかを考えたことがなかったのだと思います。カテキズムによると、信仰は対神徳であるといわれ、神を起源、動機、目的とするとありますが、それは成聖の恩恵によって人に注がれる神の働きであるといわれています。信仰は人間に与えられた恵みであるというのですが、それがどのような意味で恵みであるかの考察がありません。ですから、疑うということは信仰の対極に置かれ、悪、罪なのです。

そもそもわたしたちが信じるということは、どういうことなのかということを考えてみる必要があると思います。教会ではよくあの人は信仰深い人だとか、信仰が強い人だといういい方がなされますが、それは何を意味しているでしょうか。概して、先祖代々信者であるとか、教会活動に熱心であるとか、よく祈りをするとか、そういうことを指しているのではないでしょうか。しかし、果たしてそのようなことが信仰の強弱、あるなしの証しになるでしょうか。ならないということは直ぐにわかります。誰もその人のこころの中をのぞいたわけではありませんし、本当のところはどうなのか誰もわからないからです。わたしたちが信者をやっているのはたまたまであって、状況というか縁が揃っているだけであって、信徒だったり、司祭だったり、修道者だったりするわけです。もちろん本人の努力とかもあるかもしれませんが、縁がなければ信仰などしていないわけです。ですから、信仰はわたしの力や努力などでどうこうできるものではないのです。その意味では、恵みというのはその通りなのですが、自分というものを真面目に掘り下げていくと、自分の中に信仰など湧くはずがないことがわかります。

わたしたちは何を信じているかというと、イエスさまの真実、イエスさまの信仰を信じているわけです。イエスさまの真実、信仰は、生きとし生けるものの救いです。それは、生きとし生けるものが救われない限り、自分は安息に入らないといわれたのがイエスさまの願いです。そう考えると、イエスさまの願いというものは永遠に実現されることがない願いであることがわかります。人類、そして生きとし生けるものは無限にいるわけですし、そのものを救いたいというイエスさまの願い、そしてその働き、つまり生きとし生けるもが苦しむとき、ともに苦しまれるわけであり、十字架の苦しみも無限なわけです。ところが、わたしたちの考えている救い等は、所詮たかが知れています。世界に紛争がなくなるとか、貧しい人がいなくなるとか、自分の近しい人の幸せを願うとか、もちろんそれは祈らなければならないのですが、わたしたちは自分の幸福の延長線上にあるようなものを救いとしてしか考えることができないのです。わたしたちはイエスさまが思っていらっしゃるような救いを、そもそも考えることなどできないのです。わたしたちが救いということを考えるとき、必ず救われたものと救われていないものが前提になってしまいます。洗礼というとき、洗礼を受けたものと受けていないもの、病気というとき、病気が治った人と治らない人とか、教会というと、教会に来ている人と来ていない人、恵みを受けた人と受けていない人とかいうふうに垣根をこしらえてしか考えていくことができません。わたしたちは救いというものを、イエスさまという囲いの中に入ることだとしか考えられないのです。だから、「イエスさまの囲いに入っていない可哀そうな羊がいる」という発想になるのです。これはどの宗教も同じです。

しかし、イエスさまはそのような救いの垣根というものを破壊されたのです。それが神の国といわれました。ですから、弟子たちやわたしたちがイエスさまのことを理解できない、信じられないのは当たり前なのです。イエスさまが、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいる」といわれたということは、イエスさまが世の終わりまで、“あなたがたとともにいないという人がいない”ということを意味しています。だから、ロシアもウクライナも、ハマスもイスラエルも、その敵味方に関係なくともにおられるということなのです。イエスさまのいわれるそんな救いが何であるか、わたしたちがわかるはずがありません。わたしたちは、ロシアが悪いとか、誰それが悪いといいます。自分は正しいと思っているからです。イエスさまにはそういうものがないということなのです。それがイエスさまの信仰です。このような信仰がわたしの中から湧くはずがありません。わたしは、あいつは好きで、あいつは嫌いだといっている、わたしが死んだ後にいくと思っている天国には、わたしが好きで大切な人たちだけがいて、わたしの敵やあの嫌いな奴、ゴキブリかカメムシはいないのです。イエスさまの神の国とは、そのようなことが問題にならない無碍の救いのことなのです。わたしが信じているといっている信仰など、自分が都合よく思い込んだだけであって、それをいくら教会が教えているからとか、聖霊が働いているからといっても、わたしたちは自分中心に、自分勝手にしか信じることができないのです。そのような信仰が果たしてわたしを救うことなどできるでしょうか。 

真の信仰はイエスさまの真実、信仰であって、それがわたしの中で信じるこころを生じさせているだけなのだということがわかります。ですから、これはわたしの信仰だとか、わたしが信じているのだといった瞬間に、それは借り物、偽物になってしまうのです。わたしたちが今日祝う三位一体の神秘は、神さまのこの無碍の救いの働き、愛の働きを祝います。よく三位一体は神秘であるといいます。その通り、人間の救いの概念、範疇をはるかに超えた神の救いの働きを祝うのです。ですから、どこまでいってもわたしたちには神秘です。神さまの救いには、如何なる罪も、如何なる区別も、国境も、性別も、宗派も宗教も妨げにならないのです。勿論カトリックの枠などありません。だから、わたしたちは本能的にそのようなイエスさまの救いを疑ってしまうのです。わたしたちが経験したことも、考えたこともないからです。そして、その信じることができない、不信仰のわたしたちにイエスさまは“近寄って来ら”れるのです。このことがイエスさまの真実、信仰なのです。わたしはその信仰にあずからせていただくのです。

聖霊降臨の主日 勧めのことば

聖霊降臨 福音朗読 ヨハネ15章26~27,16章12~15節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は聖霊降臨の祝日です。弟子たちの上に注がれた聖霊は真理の霊であり、わたしたちを導き、ことごとく真理を悟らす霊であると福音でいわれています。イエスさまご自身が真理そのものですから、イエスさまのことをわたしたちに悟らせるということになります。少し難しいいい方ですが、この霊はイエスさまのわたしたちにおける働きであるといったらいいでしょう。そもそも働きというものは、ものの本質とわけることはできません。つまり、愛そのものであるイエスさまご自身とイエスさまの愛の働きをわけることができないということなのです。ですから、聖霊が注がれるといっても、それは何か突拍子もない出来事なのではなくて、イエスさまのわたしたちへの働きが何であるかを知ることであって、イエスさまの真実を明らかにすることだといってもいいわけです。イエスさまの真実、これを福音というのですが、生前の弟子たちは、イエスさまの真実を何も理解していませんでした。それは、イエスさまが復活された後も変わりませんでした。弟子たちとイエスさまの間に親和性、同じ土俵がないからなのです。復活されたイエスさまと出会った弟子たちは、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、このときですか(使徒1:6)」ととんちんかんな質問をしています。そこで、その無理解な弟子たちの上に聖霊が降るという筋書きになっています。このことは、基本わたしたちも同じで、わたしたちもイエスさまのことがわかっているようで、実は何もわかっていないのではないでしょうか。

イエスさまがその生涯と死をもって人々に告げ知らせようとされた真理、イエスさまの真実、福音を、イエスさまは「神の支配」、「神の国」をという言葉を用いて伝えようとされました。この神の国という言葉は、当時のユダヤ教の中で一般的に使われていた言葉ではなく、イエスさまが独自にお使いになったともいえる言葉です。一般的に神が支配するというと、何か理想的な国家や社会形態を想像しがちですが、そうではありません。また、この地上では見出だしえなかった来世での幸福や天国でもありません。イエスさまが亡くなられた後、ある時代、イエスさまが説かれた神の国を、天国や教会と同一視することが起こりました。しかし、近代の聖書学の発展は神の国の真実を少しずつ明らかにしていきました。

イエスさまが神の国という言葉をお使いになった前提として、目の前にある人々の苦しみ、悲しみ、悲惨があったと思われます。イエスさまは小さいときから、人々の苦しみ、痛めつけられる姿をみてこられました。いつの時代でもそうかもしれませんが、人間にとって生きること、老いること、病気になること、そして死ぬことは永遠の苦しみでした。そして、そこから逃れるために、人々は個人的な自己保身のため、また自分勝手な自己実現のために、政治や社会、宗教のシステムを作り続けてきました(例)。わたしたちも今生どのような立場にあったとしても、その生まれた境涯において、自己保身と自己実現のために構築されたシステムの中に、つまり人間の迷いの世界に投げ込まれているのです。わたしたちの生きている世界では、自分自身を押し広げていくために他者を引きずりおろすということが常習化し蔓延しています。イエスさまは、そのような現実社会の中において、安直に社会変革をしようとか、社会貢献しようとか、弱者救済をしようとされたのではないのです。もちろん神が支配しておられることのしるし、方便として、飢える民にパンを与え、病める民に癒しを与えられました。しかし、イエスさまが語られたことは、人々が泣かなくてもよくなるとか、もはや飢えなくなるとか、皆が幸せで楽になるというような自分たちだけが救われる世界を告げられたのではないのです。弟子たちは、イエスさまの神の国の宣教を単純にそのようなものと勘違いしました。そうではなく、イエスさまはもっと本質的なこと、人間存在の根本的な問題に取り組もうとされたのです。それはいつの時代においても同じように、イエスさまはこの世界に、いのちの真実、真理を明らかにしようとされたのです。しかし、そのイエスさまの真理を人間は理解することはできません。その真理の前には、わたしたちは居心地悪く感じてしまうのです。なぜなら、人間という存在の中にはそのような概念がないからです。

イエスさまは、そのことを「野の花をみなさい。空の鳥をみなさい」といって、大自然の働き、いのちの営みの中において実現しているいのちの真実に気づかせようとされました。ですから、神の国は、人間が何かを支配するという行為や行動をあらわすものではなく、神がわたしたちのうちにおいてすでに実現しておられること、わたしたちのうちに神が働いておられることにわたしたちの目を開かせようとするものでした。このことを、生前ともにいた弟子たちは何も理解することができませんでした。なぜなら、イエスさまの告げる真実は、弟子たちの望んでいるものではなかったからです。弟子たちが望んでいたものは、自分たちを自己実現させ、自分たちを満足させ心地よくさせ、幸福にするものだったからです。弟子たちも、わたしたちも、それが救いであると勘違いしているのです。わたしたちはなぜ教会に来るのでしょう。なぜ、ミサに参加するのでしょう。結局は自分が救われて、楽になって、慰められて、人生に納得して気持ちよくなるためではないでしょうか。イエスさまは、「真理はあなたがたを自由にする」といわれました。確かにイエスさまの真理はわたしたちを自由にしますが、真理はわたしたちをハッピーにするものではありません。

イエスさまがわたしたちに明らかにされた真理、それは、わたしたちは生まれて、老いて、病気になって、死んでいく身であるということです。それがいのちの実相、真実の姿であるということなのです。わたしたちはどのようにしても、そこから逃れられることができない、救われることのない身であることを明らかにされたのです。イエスさまの生涯、特に十字架は、端的にそのことをわたしたちに教えています。「野の花をみなさい。空の鳥をみなさい」というのは、まさにそのことなのです。野の花や鳥や獣は、当然のように、他のいのちから自分のいのちの糧をもらって生きていますが、また我が身を他のいのちとしても与えていきます。“ダーウィンが来た”をみる方が分かりやすいでしょう。そのことを、あるがまま自ら、自然のこととしてやっているわけです。それが、わたしたち人間にはできないのです。イエスさまの復活は、死んだあと、よく頑張ったといって別の世界が待っているということを教えるのではなく、そのように生き死んでいくことがいのちの本質であること、わたしたちは生死を超えたもっと大きないのちの流れ、働きの中に生かされていることを、わたしたちに示されたのです。わたしたちがこの真理の知恵の光に照らされるとき、救われるとか救われないというようなことではなく、ただそのことさせ知らぬ愚かな愚かなわたしがおり、その愚かささえも知らぬ我が身が知らされ、そのわたしが尚も大きな慈悲の光で照らされ、包まれていることに気づかされます。たとえ気づいたとしても闇でしかない、しかし、もはや救われる救われないとか、信じることで楽になるとか助かりたいと思っている愚かなわたし、そのことしか願っていないわたしの自我、自己中心性が破られていく、それが真の救いであることに気づかされるということなのです。ですから、キリスト教の救いは、苦しみから救われたいともがいている、救われれば楽になると思っている救いから解放されること、救いからの救いであるといったらよいと思います。楽になって救われるための宗教だなどと思っているなら、それはインチキです。イエスさまが告げ知らせた回心とは、そうしたわたしたちの自分勝手な救いから、真理において回心することを意味しているのです。聖霊とは、まさにその大きないのちの働き、愛の働きであって、わたしたちにそのいのちの真実、真理をあきらかにし、真理の知恵の光でわたしたちの闇を照らすのです。

これが、イエスさまがいのちをかけ、十字架の死と復活を通してわたしたちに告げ知らせようとされた神の国、神の支配、神のいのちの愛の働きなのです。わたしたちは、その神のいのちの中に生かされています。聖霊は何か特別なものとしてわたしたちに与えられるのではなく、わたしたちは聖霊の働き、愛の働きの中に飲み込まれ、生かされていることを悟らせるのが、今日の聖霊降臨の祝いです。

復活節第6主日 勧めのことば

復活節第6主日 福音朗読 ヨハネ15章9~17節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の箇所は、イエスさまが弟子たちとの別れの食事の席で、弟子たちの足を洗い、新しい掟として相互愛の掟をお与えになった箇所です。それまでは、旧約聖書の律法を要約するものとして、神への愛と隣人愛の掟が教えられてきました。共観福音書の中では、この神への愛と隣人愛の掟が、もっとも大切な掟として描かれています。イエスさまは、「律法全体と預言者は、この2つの掟に基づいている(マタイ22:40)」といわれ、神への愛と隣人愛は旧約聖書の教えのまとめであるといっておられます。旧約の教えはこの2つの掟にまとめられますが、イエスさまはこの2つが「新しい掟」であるとか、「わたしの掟」であるといわれたことはありません。それにもかかわらず、キリスト教全般において、この2つの掟がキリスト教の教えであるかにようにいわれてしまっています。この2つの掟は旧約の掟であり、古来どの宗教においてもみられるような万人共通の教えであって、キリスト教の専売特許ではありません。「自分にしてもらいたいことを、他人にもしなさい」とか、「自分にしてもらいたくないことは、他人にもするな」などという教えです。どうして、このような初歩的な間違いがなされているのでしょうか。

先ず、「自分自身のように」隣人を愛するのと、「わたしがあなたがたを愛したように」互いに愛し合うというのでは、出発点に決定的な違いがあることを指摘したいと思います。隣人愛の出発点は“わたし”です。しかし、相互愛の出発点は“キリストの愛”です。旧約が隣人愛と説くならば、新約の特徴は相互愛です。イエスさまはその根本的な相違を乗り越えていくために、先ず敵への愛を説かれました。善人にも悪人にも雨を降らせ、太陽を昇らせる父親のような慈悲深い神の愛を説き、それを敵にまで及ぶ愛として説かれていきます。「敵を愛し、自分を迫害するもののために祈りなさい…父は悪人も善人にも太陽を昇らせ…だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全なものとなりなさい(マタイ5:44~48)」。そして、そのような敵への愛や無償の愛を実行した殉教者や証聖者を聖人と崇め、模範と教えてきたのが伝統的なカトリック教会です。確かに、隣人愛を敵への愛にまで昇華させたということは立派かもしれませんが、これはすべての人のための道ではありません。霊的エリート、聖人君主のための教えです。それにわたしが愛するというのであれば、愛の一方向しかいわれていません。イエスさまが説かれたのはキリストの愛に基づく相互愛であって、愛の一方性を徹底化した隣人愛ではありません。それを気をつけないと独善的となり、上から目線、傲慢、新しいファリサイ主義になりかねません。現在のカトリック教会の一般的な教えは、このようなところから出ているのではないでしょうか。

愛というものはその本質からして、一方向の愛だけでは完成されません。愛は、愛するものと愛されるものがいて、はじめて完成するものです。神は愛することしか知らないというのは事実ですが、神がわたしたちを愛してくださったのは、わたしたちが神を愛するようになるためなのです。救いというのは愛の完成ですから、救いは救うものと救われるもの、愛するものと愛されるものがあって、その相互性、一致によってしか成立しないのです。ですから、イエスさまがどれだけわたしたち人類を救いたい、愛したいと思われていても、わたしたちがその救いを、愛を受け入れないのであれば成立しないのです。今までのキリスト教は、神の無償の愛、敵のために祈りゆるす愛、相手への一方的な愛しか説いてこなかったように思います。マタイ福音書を用いて、キリスト者の聖性を、わたしたちが完全なものとなること、イエスさまの無償の愛にわたしたちがひたすら倣うこと、敵への一方的な愛を実践することであると教えてきたのではないでしょうか。それはわたしたちがイキガミさまか、生き仏にならなければできない至極難しい、特別な人だけが歩むことのできる至難な道であり、一般信徒はイキガミさまのおこぼれにあずかる的な信仰形態を作ってしまったように思えます。そうした後ろめたさから、祈りをする、献金をする、ボランティアをする、犠牲をするというキリスト教的な業の実践に結びついてきたように思えます。今の教会で教えられ、説教されていることはほとんどこのことではないでしょうか。しかし、幼いイエスのテレーズは、このようなあり方を、皆が結局神さまと駆け引きしているだけだといっています。

神への愛と隣人愛が、律法を完成する最大の掟であることについては否定しません。イエスさまは「正しい答えだ。それを実行しなさい(ルカ10:28)」といわれました。そして、「あなたは神の国から遠くない(マルコ12:34)」といわれましたが、遠くないということは「近くもない」ということなのです。話されていることの出発点、次元が根本的に異なっているということなのです。善きサマリア人のたとえでは、「(隣人愛を実行すれば)、命が得られる(ルカ11:28)」といわれましたが、イエスさまは永遠のいのちが得られるとはいわれませんでした。そもそも永遠のいのちを得るために神への愛、隣人愛を実行するのであれば、それは自分のためであり、命を得られても、それは永遠のいのちではないといわれたのです。イエスさまはわたしたちに、盗賊に襲われたそのかわいそうな人を助けるよい人になりなさいとか、その人に隣人愛を実行しなさいといわれたのではありません。その盗賊に襲われた人は、わたしが隣人愛を実践するための対象ではないのです。イエスさまがいわれたのは、その人の隣人、友となりなさいといわれたのです。これがイエスさまの相互愛でいわれていることとの違いです。その人はあなたの友であり、そのことに目覚めなさいといわれたのです。

愛はその本質からいって、愛するものと愛されるものがあってはじめて成立し、愛されるものは愛するものと等しくされ、同じ愛を共有することによって、その愛の交わりは無限に深められていきます。しかし、愛するということは、わたしの方が出向いていってできることではなく、先ずイエスさまがわたしの方に来られる働きがあってのことだといわれるのです。それが、「わたしがあなたがたを愛したように」といわれていることです。わたしたちは普通自分というものから世界を考えます。自分から世界へ出ていこうとするわけです。しかし、イエスさまがいわれたことは、反対に自分という一点に向かって世界が向かってきている、「わたし(神)があなたを愛する」という世界が、本来の世界の構造であるといわれたのです。このわたしが隣人愛を実行するなどというのは、大きな思い違いです。わたしが愛され、生かされていることが根本であって、自分が愛している、生きているなどというのは思い上がりです。この世界にわたしが生まれてきたのであって、わたしの後から世界ができたわけではありません。わたしは神さまの愛の中に生まれてきたのです。ですから、わたしが愛するという努力によって何かができるというのではないのです。そのことに気づかされることが相互愛の出発点なのです。

ですから、イエスさまのお望みは、十字架のヨハネの言葉をかりていうならば、「神の唯一のお望みは、わたしたちの霊魂を高めることである」といわれています。イエスさまが望まれていることは、わたしたちをご自分と等しいものとされること、それだけを望まれているのです。わたしたちをご自分と等しいものとするということ、それはわたしたちから愛されること、わたしたちを愛された同じ愛をもってイエスさまを愛することなのです。なぜなら愛の特徴は、愛するものをその愛の対象と等しくすることだからです。ただ、それがおできになるのは、イエスさまだけです。「あなたがたのうちには、神への愛がないことをわたしは知っている(ヨハネ5:42)」。しかし、「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたから(ヨハネ15:15)」といわれます。ですからキリスト教の本質は、わたしが神を愛するとか、隣人愛を実践するとかいうわたしの自己中心性が破られて、神がわたしたち人類、世界に働きかけてくださったという神中心性こそがこの世界のあり方であり、愛の本質であることを知らせていただくことなのです。それが相互愛の掟、イエスさまの新しい掟のあり方であり、わたしたちはこのキリストの愛から出発することしかできません。そして、そのキリストの愛は、すべての人をひとり残らず救い取らずにはいられない愛の広がりそのものなのです。

お知らせ:主の昇天の勧めのことばはお休みです。

復活節第5主日 勧めのことば

復活節第5主日 福音朗読 ヨハネ15章1~8節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日はぶどうの木のたとえ話です。これは何のたとえ話であるかをよく見極めなければなりません。ここで非常に大切なことは、イエスさまは、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」といわれたということです。わたしたちは、この箇所を聞くと、無意識にイエスさまが幹で、わたしたちは枝のように考えてしまいます。枝が幹につながっていることで、多くの実を結ぶことが出来るのだから、わたしたちもイエスさまにしっかりとつながっていましょうといって、「教会と繋がるとか、秘跡と繋がることを大切に」的な説教がなされます。

しかし、イエスさまは、“わたしはぶどうの木である”といわれ、“わたしはぶどうの幹である”とはいわれませんでした。ぶどうの木というのであれば、幹も枝も葉も根も、すべてを含んでいる木全体を指しています。わたしたちはその枝だといいわれたのですから、枝もぶどうの木です。ここで、イエスさまは、実はすごいことをいわれているのです。あなたがたは、わたしキリストであるといわれたのです。どういうことでしょうか。枝とぶどうの木は別個の生命体ではなく、同じいのちを生きるひとつの生命体です。もしイエスさまが、わたしはぶどうの幹で、あなたがたはその枝といわれたのであれば、意味が変わってきます。幹と枝であれば、それはぶどうの木の部分の分類、役割、機能です。そのような見方で考えると、枝は幹につながる限りにおいて、その役割を果たし、ぶどうの実を実らせることが出来る。しかし、イエスさまがぶどうの木全体で、枝もぶどうの木ですから、わたしたちもぶどうの木そのものであるということになります。わたしたちは気をつけないと、このぶどうの木のたとえを読むときに、イエスさまと自分の関わりを機能的に捉えてしまう危険性があるということです。ちょっとした違いですが、これはイエスさまとわたしたちの関わりを捉えるうえで、信仰上の根本的な誤解の元となります。

イエスさまが、幹でわたしたちが枝だという機能的な捉え方は、一見すると分かりやすいものです。しかし、その捉え方は、二言論的な「役に立つか立たないか」、「損か得か」という分別を前提にした見方になってしまいます。ですから、実を結ぶことが目的になり、実を結ばない枝は切ってしまえということになります。実を結ぶことは結果であって、わたしたちはそのために道具ではありません。そのことをわたしたちに当てはめると、よく祈って、教会に頑張って行って、よい信者になることが目的になってしまいます。実は、今までそういう信仰教育がなされてきたのではないでしょうか。キリスト教を信じることは「よい信者になって、人々の模範になって、そのご褒美として天国にいく」的な教育です。まさに、いい子になる教育です。そのようにしてきた教会のあり方が問題ですが、そのような信仰観、価値観こそ、まさに頑張ったものは報われて、頑張れないのは自分の責任だと決めつける現代の風潮そのものでもあるのです。社会貢献できないようなものは、報われるに値しないという考え方です。これは、イエスさまの考えとはまったく違っています。

しかし、ぶどうの木と枝との関わりを、いのちの関わりとして捉えると、実が結ぶかどうかということは、それはぶどうの木としてのあくまでも結果であって、ぶどうの木自体は同じ樹液で生かされていて、枝と幹というような木の機能的な違いではなく、ただひとつのいのちで生かされているという現実が浮き彫りにされてきます。だから、枝が切られたら、ぶどうの木全体が痛むのです。それを機能的な関わりとして捉えてしまうと、パウロがコリントへの手紙で警告しているように、「お前は要らない」とか、「お前は役立たずだ」という発想になっていきます。そのような、発想に陥りがちなわたしたちに、パウロは、「あなたがたはキリストの体であり、また、ひとり一人はその部分です(Ⅰコリ12:27)」といい、わたしたちは、ひとり残らず同じ大きないのちを生きる共同体、同朋であることに意識を向けさせようとします。

わたしたちは一人ひとりが、同じいのちを生きるものとして扱われなければならないのに、いつの間にか人間を人間と見ないで、役に立つか立たないかという人材として見てしまってはいないでしょうか。わたしたちは皆、人間として生まれているにもかかわらず、いつの間にか周りからも「人材」として見られてしまっているということです。人材は言葉の通り、人間としての材料で、はっきりいうと“商品“です。商品はお金に換算したとき、どれだけの値打ちがあるかで、その価値が決まってしまいます。わたしたちは、どこかそのように商品として育てられてしまっているのではないでしょうか。社会貢献が出来て、周りの役に立つとか、使えるかというような雰囲気が社会に満ちているわけです。教会の中もその例外ではありません。そうすると、実を結ぶ枝か、結ばない枝かで選別されます。それが会社であれば、会社に役に立つかどうか、教会であれば、教会に役に立つかどうかで選別されるということです。そのような誤った信仰観や価値観の中から、本当によいものが出てくるはずがありません。これは、教会の中であっても例外ではないのです。

ぶどうの木のたとえを通して、わたしたちは改めて自らの価値観が問われているといえるでしょう。これだけ世界で情報が飛び交う中で、かえって自分のことしか考えられない人間自身の姿がますます露呈されているように思います。ひとりの人間を、無限のいのちの繋がりの中で見ていくか、数、統計の対象として見ていくかです。わたしたち人類、いやこの世界、地球、宇宙は、神のいのちで生かされているひとつの大きな生命体のようなものでといえるでしょう。だから、枝が切られれば、ぶどうの木すべてが痛む。指にけがをすれば、わたしのすべてが痛むのと同じです。パウロは、「ひとつの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、ひとつの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです(Ⅰコリ12:26)」といいます。わたしが苦しめば、他のすべてが苦しむ。わたしが喜べば、他のすべてが喜ぶ。誰かが苦しめば、皆すべても苦しむ、わたしも苦しむ。そこにはもはや自他の区別はない、同じいのちを生きているひとつの大きな生命体としての姿があります。だから、イエスさまはすべての人が救われるまで、その十字架の苦しみは終わることがなく、安息に入られることもないのです。

バタフライエフェクトということばがありますが、ある気象学者の「蝶がはばたく程度の非常に小さなかく乱でも遠くの場所の気象に影響を与えるか」という仮説を立てたことに由来します。つまり、あるところで起こったことが、生態系全体に大きな影響、変化を引き起こすことがあるという考え方です。日本のことわざにある「風が吹けば桶屋が儲かる」というのと同じです。日本では突拍子もないことのたとえとして使われていますが、実はこの世界はすべて繋がっているということをいい表すためのたとえであるともいえるでしょう。わたしの指のけがでわたしが痛むというのはわかりますが、わたしの痛みなど誰も感じていないというのが普通の一般の感覚です。しかし、イエスさまはわたしの指の痛みを痛んでおられるということなのです。これがいのちの感覚です。古来、日本人は地域の共同体や宗教観の中で、そのような感覚をもっていました。それが、「いただきます」とか、「お互いさま」、「させていただきます」ということばに日本人のいのちの感覚が現れていました。しかし、明治以降導入された欧米の教育や価値観は、キリスト教に由来する個人主義に裏打ちされたものでした。多くの日本人は、そのキリスト教に由来する個人主義だけを受け入れ、元来日本人がもっていたいのちの感覚を少しずつ失っていったのではないでしょうか。そして、キリスト教を土台とする西洋文明自体がいのちの感覚を失った結果として、エコロジーやSDGs、ラウダート・シなどが出てきたのです。

今日、あらためて、わたしたちのなかにいのちの感覚をイエスさまが呼び起こしてくださいますように祈りましょう。

復活節第4主日 勧めのことば

復活節第4主日 福音朗読 ヨハネ10章11~18節 

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日はよき牧者の主日です。「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」といわれ、よい牧者であるイエスさまの知り方とわたしたちの知り方が取り上げられます。しかし、イエスさまがわたしを知っておられるのと、わたしがイエスさまを知っているのとは同じ知り方ではありません。イエスさまの知り方は、わたしを愛し抜き、わたしのためにいのちを捨てるような知り方です。

それに対して、わたしたちがイエスさまを知っているというのは、洗礼を受けて信者を何年やっているとか、イエスさまについて勉強をして情報や知識をもっているとか、そういうことではありません。わたしたちがイエスさまを知っているというのは、わたしたちがイエスさまと出会っているかどうかということだといえるでしょう。わたしたちの中で、どれだけの人が本当の意味でのイエスさまとの出会いを体験しているでしょうか。イエスさまを知るということは、わたしたちを知っておられるイエスさまの愛と出会うということです。洗礼を受け何年信者をしていても、たとえ修道者や聖職者になった人たちでも、イエスさまと出会ったことがない人たちがいるのではないでしょうか。確かに、ミサに熱心に参加して、決められた祈りをし、教会活動をするかもしれません。イエスさまや教会についての教えや知識、典礼や神学についての知識もあるかもしれません。でもそれが、イエスさまと生き生きとした関わり、真の信仰をいただいている証拠にはなりません。イエスさまについていろんなことを知っていても、教会のことを一生懸命やっていたとしても、イエスさまと「わたしとイエス」という個人的出会いをしていないのであれば、信仰を生きているとはいえないのです。今、このことを聞いてピンとこないのであれば、真の信仰を得ていないのかもしれません。それをダメだといっているのではありません。もしそうであるならば、「わたしはあなたを愛している」といっておられるイエスさまとの出会いをイエスさまに願ってください。決まった祈りや形だけの祈りをするだけでは足りません。「あなたを愛している」といわれているイエスさまと、沈黙のうちに、わたしたちのこころのうちにおられるイエスさまと日々親しく出会えるように願ってください。それがイエスさまを知るということなのです。

実際に、わたしたちのなかで多くの人が、イエスさまといわず、神さまといっているのではないでしょうか。その神さまというのは誰でしょうか。もしそうであれば、おそらくイエスさまと出会ったことがないのかもしれません。イエスさまの復活とは、イエスさまがいつどこの時代にも、そこで生きている人と出会うことができる方であるという意味なのです。イエスさまが生きておられたときには、特定の時代、特定の場所、特定の人としか出会うことができませんでした。しかし、イエスさまの復活によって明らかにされたことは、イエスさまは時間と空間を超えて、すべての人の主、すべての人の救い主であるということなのです。すべての人の救い主であるということは、「わたしはあなたを救う」というお名前のイエスさまが、わたしを愛し抜き、わたしを救われるということなのです。愛したということは、救ったということです。愛するということは、そのままのわたしを愛しておられるのですから、イエスさまの愛に制限はありません。おまえは不格好だから、もう少しきれいになって、罪を洗い清めてからきなさいとはいわれないということなのです。わたしたち日本人は忖度をし、このままでは申し訳ないとか、相手はきっとこう考えているだろうからとか余計な計らいをします。しかし、イエスさまが愛するといわれるとき、そのままのわたしを愛されるのです。そのままで来なさい、あなたの中のあらゆる欲望や、妬みのこころ、腹を立てるこころ、そのような迷いをそのままもって来なさいといわれているのです。わたしはあなたをそのまま救うと仰っているのです。イエスさまがわたしを知る、愛するということはそういうことなのです。そのイエスさまの愛に、「はい」と答えることが信仰です。せめて、もう少しよくなってからとか、罪を犯さなくなったらとかいうのは、イエスさまの愛を、救いを疑っていることに他なりません。イエスさまはこのような罪深いわたしをお救いになれないとか、これは自分のことを卑下しているようですが、実はイエスさまの愛を疑っていることに他なりません。また、イエスさまはあの人のような罪人はおゆるしになるまいというのは、日本人の心情としてよくわかるのですが、これはわたしたちの高慢であり、イエスさまの救いの力を人間と比べて制限して疑っていることなのです。

わたしたちがイエスさまの愛、イエスさまの知り方をどれだけ想像しても、せいぜいわたしたち人間の力や考え方を最大限に延長したぐらいしかできないのです。このような人間の計らいや忖度が、わたしたちをイエスさまの真実の愛に触れるのを妨げているのです。わたしがイエスさまから愛されるために、わたしが変わる必要はないのです。イエスさまはそのままのわたしを愛しておられる、救われるのだと単純に信じることだけを望んでおられるのです。ときとして、わたしたちが自分を受け入れることができないと思うときでも、イエスさまはわたしを受け入れてくださっているのです。しかし、わたしたち人間はそのように人と関わり、人を愛し、人を知るということができません。ですから、イエスさまがそのようにわたしに関わり、愛し、知っておられることを信じることができず、本能的に疑ってしまうのです。そこで、イエスさまはわたしたちにご自分の十字架をもって、わたしたちにその愛の大きさ、深さが永遠であることを示し、復活して、わたしが何であっても何でなくてもわたしとともにいることを明らかにしてくださったのです。その真実に気づかされることを、信仰というのです。わたしがイエスさまの愛にふさわしくなるとか、清くなることに努めることが信仰生活でもないし、イエスさまがわたしのところに来ていただくように頑張ることが信仰ではないのです。そのままのわたしのところへ、復活されたイエスさまが来てくださることを信仰というのです。わたしの力で信仰心を起こすのではなく、イエスさまがわたしのところへ来てくださることによって、わたしの中に信仰が湧き起こるのです。

イエスさまはわたしを愛し、その愛をわたしたちが受け入れることに渇いておられます。イエスさまがどれだけわたしを愛したい、わたしをゆるし、救いたいと思われても、それをわたしが受け入れなければ、イエスさまはわたしを愛することはできないのです。わたしたちが回心しなければならないのは、わたしのあれやこれやの罪や欠点、弱さやを直すことではありません。そのようなわたしを、イエスさまはそのまま愛し、ゆるしておられることを信じないわたしたちの頑なさです。イエスさまはわたしを愛することを望み、渇いておられます。イエスさまは、今のわたしと出会うことを望んでおらます。わたしたちができることは、イエスさまの愛をそのまま、今、受け入れることなのです。わたしたちは、そのようにしてイエスさまとの出会いを深めていくことができるのです。