復活節第6主日 福音朗読 ヨハネ14章15~21節
<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗
今日は、イエスさまが“わたしの掟”についてお話になります。わたしの掟とは何でしょうか。イエスさまの掟とはイエスさまの願いです。それは、イエスさまが愛しておられるように、わたしたちが愛し合うことです。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である(15:12)」といわれました。イエスさまがわたしの掟、新しい掟といわれるのは、実はこの相互愛の掟です。
聖書の中には、神への愛と隣人愛の掟も教えられています。これがあたかもイエスさまの教え、キリスト教の教えのようにいわれていますが、イエスさまはこれをわたしの掟といわれたことはありません。旧約の律法の掟の中でどの掟がもっとも大切ですかと尋ねたファリサイ人に対して、イエスさまは「こころを尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」という神への愛と、「隣人を自分のように愛しなさい」という隣人愛が、旧約の律法の中で一番大切な掟だと答えられました。
しかし、イエスさまは人生の最後、自分の死を前にして、最後の晩餐の席で弟子たちの足を洗い、「主であり、師であるわたしがあなた方の足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合いなさい(13:14)」と教え、さらに「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい(13:34) …友のために自分のいのちを捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である…互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である(15:13~14、17)」といわれました。イエスさまがわたしの掟、新しい掟といわれたのは神への愛、隣人愛ではなくて、相互愛の掟なのです。旧約の律法の掟とイエスさまが教えられた新しい掟は一見似ているように見えますが、根本的に異なっているものなのです。
旧約の律法の掟の出発点は、いつもわたしです。わたしが神を一生懸命に愛する、自分のことのようにわたしが隣人を愛する。出発点はいつもわたしたち人間です。ですから、この掟は人間の倫理道徳の域を出ません。しかし、イエスさまの掟の出発点はイエスさまです。「わたしがあなたがたを愛したように」といわれ、「わたしが自分のことを愛するように」というのとは違います。出発点がわたしたち人間であるのか、イエスさまであるかは根本的な違いなのです。
ですから、イエスさまの掟の主語は“イエスさま”です。イエスさまがされることが、わたしたちのすべてにおいて先行しています。実は旧約も初めはそうでした。しかし、時代が経るに従って人間の思惑で、神中心から人間中心の信仰へと歪められていきました。イエスさまの登場によって、原初のあり方が回復されていくのです。そのイエスさまの第一の願いは、先ずイエスさまがわたしたちを愛することです。なぜなら、イエスさまの本質は愛であり、その愛は神の愛そのものだからです。だから、イエスさまは愛さないでいることはできません。愛と訳されている日本語が適当かどうかはわかりませんが、イエスさまの本質、つまり神さまの本質は愛ですから、愛さないでいるということはできないのです。しかし、愛の本質は、愛することだけでは終わりません。愛することは、愛されることでもあります。愛するだけの愛はありません。それならそれはただの一方通行の、自己本位の愛になる可能性を含んでいます。愛は、愛し愛されることによって初めて成り立つのです。しかし、それだけで愛は完成されることはありません。愛の本質は、自らを与え、それを受けるとるものが受け取り、また受けたものがそれを返すという終わることがない循環だからです。終わることのないキャッチボールだともいえるでしょう。しかし、イエスさまの願いは、先ずこの愛を受け取ってほしいということなのです。
愛を受け取るということは、イエスさまにわたしが愛されること、イエスさまに愛されることをわたしが受け取ること、イエスさまに愛されることをわたしがわたしにゆるすことなのです。わたしたちが何かをしたから、何かができたから愛されるのではありません。愛は無条件です。頑張って愛されるに値するものになったから、愛されるのではありません。イエスさまの中で愛するということは、水が高いところから低いところに流れるように自然なことなのです。わたしたちが考えるような、また教会で勘違いして教えてしまうような、わたしが頑張って神さまを愛するとか、頑張って隣人を愛するというような恣意的なものではなく、もっと自然なものなのです。神さまの本質が愛そのものだからです。本当の愛には力みがありません。愛は恣意的ではなく、水が流れるように自然なことなのです。それは、友人の中で交わされる友情に似ています。ですから、イエスさまの中ではあなたがたを愛してやるんだとか、救ってやるんだというような力みは何もないのです。確かにあるときは、友のためにいのちを捨てるようなことがあるかもしれません。しかし、愛はわたしたちが考えるよりもっと自然なものなのです。そもそも、わたしが愛するんだとかいうのは、恣意的で力が入っていて、愛される側はうっとうしく感じるのではないでしょうか。一歩間違えればストーカーになってしまいます。
イエスさまはお前を救ってやるんだとか、恵みを与えてやるんだとか、そういう上から目線のことをいっておられるのではないのです。今までは、わたしとお前たちは、主人と僕の関係だったけれど、もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人の顔色だけを窺っているだけで、主人の本当の願いを知らない。しかし、わたしはわたしのすべてをあなたに知らせた。わたしの思い、わたしの願いをすべて話した。そして、そのようにあなたがたを愛してきた。だから、あなたがたはもう僕ではない。友である。わたしとあなたはひとつ、一体である。だから、あなたがたはわたしの願いを自分の願いとし、わたしと同じ働きを生きてほしい。そして、その願いに目覚めてほしい。そして、そのものの名前がキリスト者であるということなのです。
そのイエスさまの願いが実現するとき、愛する側と愛される側、救う側と救われる側、助ける側と助けられる側、こちら側とあちら側という区別がない世界が出現するのでしょう。それは、おたがいさまの世界です。もはやいかなる区別もありません。というか、元々の宇宙、世界にはそのような区別などなかったのです。ただ、人間がその区別を作り出してしまいました。これが原罪だともいえるでしょう。
そのような区別が絶えた世界、これを神の国というのです。そこには誰が与える側だとか、奉仕する側だとかという区別がありません。お互いに与え合い、奉仕し合います。そもそも与えるだけでは、“与える”という行為は成立しません。それを受け取る人があって、はじめて与えるという行為は成立するのです。奉仕もそうなのです。どちらが上で下でというようなことはありません。キリスト教は慈善団体やNPO法人ではありません。イエスさまの世界はお互いさまの世界なのです。与えるものになったり与えてもらうものになったり、愛するものになったり愛されるものになったりする、これがいのちのありさまなのです。そのいのちの姿に目覚めさせていただくこと、これがイエスさまの新しい掟なのです。ですから、この掟は新しい掟ではなく、もっとも古い掟、原初からあったお互いさまのいのちのあり方そのものなのです。
