カテゴリー別アーカイブ: 全体向け

復活節第3主日 勧めのことば

復活節第3主日 福音朗読 ルカ24章35~48節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の福音の中で、復活されたイエスさまと弟子たちとの出会いが語られます。復活節に読まれる聖書の箇所では、「イエスご自身が彼らの真ん中に立ち」ということばが度々繰り返されます。今日は、その意味を考えてみたいと思います。

まず「イエスご自身が真ん中に立ち」といわれていることです。復活されたイエスさまと弟子たちとの出会いのイニシャティブは、イエスさまご自身です。弟子たちが望んだのではありません。ルカ福音書では、今日の朗読箇所の前にエマオへの旅人の話が置かれています。使徒ではなかった2人の弟子たちは、イエスさまの十字架の死という出来事で、すべてが終わったと思って、エルサレムを後にしてそれぞれの生活に戻ろうとしていたのかもしれません。その旅の途中に、「イエスご自身が近づいてきて、一緒に歩き始められます」。弟子たちには、それが復活されたイエスさまであることがわかりません。つまり、復活されたイエスさまは、もはや弟子たちが知っていたような生前のイエスさまではなかったということなのではないでしょうか。生前のイエスさまであれば、わかったはずです。しかし、あたかも別の人であるというか、わたしたちが通常に認識できるような方ではなかったということだと思います。その理由は「二人の目は遮られていて、イエスだとはわからなかった」とあります。

イエスさまの復活は、イエスさまがお墓を開いて出てこられたとか、死者の中から蘇ったとかいった人間の頭の領域で理解できるような出来事ではないわけです。イエスさまの復活というのは、神の領域においてというか、永遠のうちにあることなのです。だから、わたしたちにわかるわけはないのです。それを教会はあたかも絵にかいた出来事のように教えてしまいました。イエスさまの復活は、蘇生物語のようになってしまったのです。もちろん、人間は物語を通して、つまり人間の語る言葉を通して、その奥にある神秘に触れていくのですが、物語そのものが事実であるかどうかが問題ではなりません。教会は多くの場合、物語をそのまま史実であるかのように教えてきました。

エマオへの旅人と歩き始められた復活されたイエスさまは、弟子たちに「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書かれていることを説明された」とあります。イエスさまの復活を、わたしたちが頭で理解できるということはありませんが、人間が言葉をもってこの世界を理解している限り、言葉でもって物事を説明していくしかないのです。復活されたイエスさまもそうされました。しかし、人間が理解する言葉であるということは、どこまでいっても不完全で相対的なものであり、物事の一面だけを言い表すものでしかありません。イエスさまの復活ということも、マリア・マグダレナたちがイエスさまを納めたお墓にいくと遺体がなくなっていたとか、天使が「ガリラヤにいきなさい。そこであの方と出会うことができる」といったとか、11人の弟子たちに現れたとか、人間にわかる言葉で説明することしかできなかったのです。しかし、人間の言葉である以上、それは不完全な相対的な言葉であって、イエスの復活という人間の領域を超えた神の世界での出来事の一部しかいい現していないということに注意しておく必要があります。

人間の世界での出来事であれば、あるところまでは人間の言葉で説明し、解き明かすことができます。それでも、わたしの体験したことを、また相手の体験したことを、他の誰かが完全に理解できるということはありません。わたしたちは、人の気持ちがわからないとか、自分は理解してもらえないとかいいますが、それは当たり前のことなのです。わたしのことはわたししかわかりませんし、わたしがわたしのすべてをわかっているわけでもないのです。まして、人間の世界ではなく、神の領域において起こったイエスの復活という出来事を、人間の言葉で、また人間の理解で捉えることができるはずがありません。それが、エマオでの弟子たちが、復活されたイエスさまがわからなかったといわれていることなのです。

それでは、わたしたちは復活されたイエスさまと出会うことができないのかというと、そうではないということが今日の福音だと思います。復活されたイエスさまは、弟子たちの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」といわれます。それでも、弟子たちはその方がイエスさまだとは信じられません。おそらく生前のイエスさまのようではなかったのでしょう。しかし、その方の手と足には十字架の傷跡が残っていました。それでも弟子たちは、それがイエスさまだとわからず不思議がっています。つまり、わからないのです。そこでイエスさまは、エマオでの旅人にされたように、聖書を悟らせるために、「彼らのこころの目を開かれた」と書かれています。そのとき、弟子たちは復活されたイエスさまと一緒にいましたが、目が遮られていました。弟子たちはすでにイエスさまの復活の光に包まれていたのですが、彼らのこころの目が遮られていて、その真実-イエスの復活-が見えなかったということなのです。それは、あたかもわたしたちが日の光を浴びながらも、その光が見えないのと同じです。光があるということがあまりにも当たり前すぎて、不思議を不思議と思えない、そのことと同じです。わたしたちもイエスさまに目を開いていただかなければ、その光であるイエスさまを見ることはできないということなのです。

しかし、その光が何であるかを理解するのは、人間の言葉を通してです。わたしたちは言葉を通してしか、自分の身に起こっていることを理解できないからです。そして、そのことを解き明かす場として、聖書があり、パンを裂く式(ミサ)があるわけです。しかし、聖書を勉強して研究していればイエスさまがわかるとか、ミサに出ていればイエスさまがわかるということではないのです。その反対です。わたしたちが気づかせていただいたことを、言葉でわたしたちは理解するだけなのです。わたしたちは、イエスさまに光によってわたしたちの無明、闇を破っていただくこと、こころの目を開いていただくことが絶対的に必要なのです。イエスさまがそうしてくださらなければ、わたしたちはイエスさまに触れることも、理解することも出来ないのです。イエスさまが道、真理、いのちといわれる理由はそこにあります。イエスさまの方からわたしの方に来てくださる以外の道はないのです。

イエスさまという道を通して、真理、いのちであるイエスさまに触れさせていただく、気づかせていただく、わたしたちがいのちのうちに、光のうちに生かされているという真理に気づかせていただくことができるのです。そして、今自分たちが体験していること、これが復活されたイエスさまであり、永遠のいのちであるということを、言葉で教えていただくのです。そのとき、そのような人間を通して語られる言葉は、もはや人間の言葉ではなく、人間の言葉を通して働かれる、いのちのみことばがわたしのところにきておられることに気づかされるのです。

復活節第2主日 勧めのことば

復活節第2主日 福音朗読 ヨハネ20節19~31節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の福音では、イエスさまが十字架の上で亡くなられた後の日曜日の夕方の出来事が描かれます。弟子たちは、すべてが終わってしまった、自分たちの先生は十字架につけられてしまった、今度は自分たちに追手が及ぶのではないかと恐れて、家の戸に鍵をかけて閉じこもっています。その弟子たちは、怖くなってイエスさまを見捨てて逃げてしまった弟子たちです。そして、その弟子たちと復活されたイエスさまとの出会いが描かれていきます。家の戸に鍵をかけて閉じこもっている弟子たち、これはまさしくわたしたち人間の姿でもあります。弟子たちは、イエスさまを裏切ってしまったということで自分たちを責め、また今度は追手が自分たちに及ぶかもしれないという二重三重の恐れと後悔に苛まれています。イエスさまが十字架の上で死んでしまった以上、もはやイエスさまに許しを乞うとか、和解するという、自分たちからのすべての手立てをなくしてしまった状態です。

わたしたちはいろいろな困難に直面するとき、それなりにやり過ごしていく業を身に着けています。しかし、わたしたち人間の力だけではどうしてもやり過ごすことができない状況というものを、人生の中で何度となく体験します。聖書ではそれを闇とか、罪とか、死とか表現し、わたしたちのことばでいえば老病死がそうでしょう。どのようにしても、わたしたちの力が及ばず、わたしたちからそれを突破する手立てがなくなった状況です。このような中で、わたしたちはどうするのでしょうか。わたしたちの方から手立てが何もなくなったとき、あちら側から手が差し伸べられてくるということ以外にはないのです。それが、イエスさまの方がわたしに出会いに来られる、関わって来られるということです。イエスさまを知らない人であれば、真理が明らかにされることといってもいいでしょう。

今日、描かれる弟子たちとイエスさまとの出会いは、決してわたしたちが普通に誰かと出会うような次元の話ではありません。わたしが望んだから、わたしが頑張ったからできるようなものではないのです。ただ、一方的に与えられてくるものなのです。今日の朗読箇所にあるような出会いは、聖書の中で描かれている具体的なものであったかどうかはわたしたちにはわかりません。多くの場合、聖書の記述があたかもそのまま起こった物語のように解説されてしまいます。最初のときトマスはいなくて、一週間後にトマスがいて、トマスがイエスさまの手とわき腹の傷跡に手を入れるとかいう生々しい話です。それをまた、そのままあったかのようにリアルに説明する。しかし、そのようなことがあったかどうかということは、わたしたちにとって重要なことではありません。それなのに、そのようなことを体験できることをお恵みだとか、特別なことだとか考える、愚かなことです。そんなことがあったとしても、それがイエスさまであると誰も証明することはできないのです。単に自分がそうであると思い込んでいるだけなのです。それは信仰ではないのです。

わたしたちは誰も生前のイエスさまと直接に出会った人はいません。わたしが出会うのは復活されたイエスさまです。復活されたイエスさまであるということは、いつでもどこでも、どの時代に生きていても、すべての人が出会うことができる方であるということです。しかし、より正確にいうならば、わたしたちの方からイエスさまと出会えるための手立てというものは何もありません。イエスさまが復活されたということは、イエスさまは二千年前の、ユダヤの一部の限られた人としか出会うことができなかったイエスさまではなく、時間と空間を超えて、イエスさまはすべての人のイエスとなられたということなのです。つまり、すべての人はイエスさまによって関わられている、イエスさまの働きがすべての人に及んでいるということなのです。わたしたちの方からイエスさまと出会うことを望んでも望んでいなくても、またイエスさまことを知っていても知らなくても、イエスさまはすべてのところのすべての時代の人々に関わっておられるということなのです。イエスさまによって関わられていない人は誰もいない、イエスさまによって愛されて、救われていない人は誰もいないということなのです。このことがわたしの何かによって変わるということはありません。また、わたしの努力とか精進によってどうこうなることでもありません。イエスさまがわたしのことを知っておられ、愛し、ゆるし、関わっておられる、イエスさまは愛の働きとして、その働きはすべての生きとし生けるものに及んでいるのです。そのイエスさまと出会うこと、それはわたしが出会いにいくのではなく、イエスさまがわたしに出会いに来られるということなのです。

これは、特別な体験を意味していません。そのようなことが稀にあるかもしれませんが、わたしたちはそのようなことを体験せずとも、イエスさまと出会う力がわたしたちの内に賦与されているのです。ただそれはわたしの力ではなく、イエスさまがわたしと出会いたいと願い、わたしとの出会いに飢え渇いておられる、その渇きがわたしたちに振り向けられているということです。わたしの方から、イエスさまと出会うための手立ては何もありませんが、その渇きがわたしの中に振り向けられており、それがわたしの中で起動させられるとき、信仰という形をとるということなのです。だから、わたしが信じるのではないのです。わたしの信仰ではありません。イエスという名は、「わたしはあなたを救う」という働きであり、イエスさまがわたしたちを救い取って捨てない、最後の最後のひとりが救われるまで働き続けるというイエスさまの名乗りが、わたしたちに届いていることが救いであり、信仰なのです。ですから、わたしたちを信じさせるよう働いておられるのはイエスさまに他ならないのです。

わたしたちはイエスさまのことを知って、考えて、信じて助かるのではないのです。わたしはあなたを救うといわれている方の名を聞くことによって救われるのです。キリスト教は、イエスさまというありがたい救い主を知って、勉強して、洗礼を受けて救われると思っているのであれば、その人はイエスさまのことを何もわかっていませんし、自分のこともわかっていません。イエスさまを思うとか、信じるといいながらも、わたしたちは悲しいかな、結局はイエスさまを信じている自分を信じているに過ぎません。わたしたちの罪、わたしたちの闇の根っこにあるのは、そのことなのです。家に鍵をかけて閉じこもっている、そこには自分しかいませんし、自分にかがみこんでいるわけですから、そこには自分の陰でできた闇しかないのです。だからそのようなわたしがイエスさまを信じるとか、イエスさまのことを考えるなどということは不可能なのです。ただ、わたしが頭の中でイエスさまのことをぐるぐる考えているだけです。わたしの方からイエスさまに向かう道はないのです。イエスさまの方からわたしの方に来てくださる道だけしかないのです。もちろん、イエスさまを知らない人にわざわざイエスさまといわなくても、真理といってもいいでしょう。真理の前に、わたしの方から何かできるということなどすべて錯覚です。犠牲とか、祈りとか、隣人愛を実践することで、わたしがイエスさまに向かっていこうとすることは、本来わたしの方からできるものではないのです。怖いのは、そのようなことで自分はイエスさまの方に向かっているのだ、それが信仰だと勘違いしていることです。

わたしたちの信仰生活において、わたしからイエスさまの方へいく道などないのです。わたしたちがどういうふうにイエスさまの方にいくかというのは、すべて方便、方法論でしかありません。本質的にいって、キリスト教はすべて、真理であるイエスさまがわたしたち人間の方に来られるという、ただひとつの大道しかないのです。そのことを今日の福音は語っているのです。わたしたちがエゴを離れるという必要性や方法論があるのはそうでしょう。しかし、キリスト教では、いずれにしてもイエスさまの方から来ていただく道しかないのだという根本を、今日改めて抑えておきたいと思います。

復活の主日・復活の聖なる徹夜祭 勧めのことば

復活の主日・復活の聖なる徹夜祭 マルコ16章1~7節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今年の復活徹夜祭では、マルコ福音書が読まれます。マルコ福音書は、今日読まれる16章8節で終わっています。結びの部分は後代の加筆、補遺であるといわれています。8節は次のような言葉となっています。「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、誰にも何も言わなかった。恐ろしかったからである」。

最初に書かれた福音書であるマルコは、空の墓の物語で終わっています。つまり、マルコ福音書には、イエスさまと弟子たちの再会については何も書いていないことになります。しかし、天使は婦人たちに「あの方は、あなたがたより先にガリラヤに行かれる…そこでお目にかかれる」といい、ガリラヤでイエスさまと出会えると告げました。弟子たちがガリラヤでイエスさまと再会したかどうか、何も書かれていません。ただ、天使は、ガリラヤであの方と出会えるといったのです。そのガリラヤとは何でしょうか。それは、弟子たちが、イエスさまから呼びかけを聞き、イエスさまと出会い、イエスさまとともに生きたガリラヤ、そしてエルサレムへ向かうことを決意されたガリラヤです。そのガリラヤの日々の生活の中で、イエスさまと出会えると天使はいったのです。別のいい方をすれば、あなたがたの今の日常の生活の中で、あなたのガリラヤでイエスさまと出会える、そこにイエスさまがおられるということがいわれているのではないでしょうか。わたしたちの人生にイエスさまがおられる、わたしたちはイエスさまの光に包まれているということだと思います。

そもそも、人類の歴史が始まって以来、人間の生老病死は、人間にとって最大の謎でした。どれだけ科学や医学が進歩したとしても、人間の生老病死という現実をなくすことはおろか、コントールすることさえできません。ある程度、長くしたり、苦しみをやわらげたりすることはできるでしょう。しかし、人間の力ではどうすることもできないのが現実です。仏典の中に、「人、愛欲の中にありて、独り生まれ、独り死し、独り去り、独り来る。身みずから之れを当(う)くるに、代わる者あることなし」と述べ、人はひとり残らず、生まれてくるのも独り、死ぬときも独り、わたしはその身を引き受けていくしかない、その現実を誰も代わってもらうことはできないと述べています。実際、イエスさまが十字架の上で人類の罪を引き受けて、死なれ、復活された日も、その翌日も、同じように日が昇り、人々の苦しみが取り去られるということはありませんでした。また、生老病死という現実がなくなるということもありませんでした。

イエスさまの復活は、この人間の世界から生老病死をなくすことではありませんでした。そうではなく、人間が生まれ、老い、病み、死んでいくことが、人間として生きることそのものであるということを、イエスさまご自身が人間として生き切って、わたしたちにいのちの実相、いのちの真実を見せてくださったということではないでしょうか。復活のいのち、永遠のいのちというものは、わたしたちがもはや老いることも、病むことも、死ぬこともなくなるとか、来世での不老不死のいのちだとか、天国のいのちのことではありません。そこを、教会は間違って教えてきたように思います。人間は生まれ、老い、病んで、死んでいく、そのことそのものがいのちの営みであり、真実である。その現実の中に神のいのちが宿っているというか、わたしたちは大きないのちの真実の中に生きている。生をもはや苦として、謎として捉えるのではなく、その現実をそのまま引き受け、生きていくことができるようになる、それが復活されたイエスさまと出会わせていただくということであり、それは同時に、わたしたちがすでに永遠のいのちの中にあるということを知らせていただくということではないでしょうか。

イエスさまが、「空の鳥を見なさい。野の花を見なさい」といわれたとき、自分の生老病死で悩み、そのことに囚われている人間たちに、いのちであることを生き切っていくことを大自然に学びなさいといわれたのではないでしょうか。天国行きを目標にして、びくびくし、犠牲をし、掟を守ってちまちまと生きるのではなく、空の鳥のように、野の花のように、生き生きとのびやかにいのちを生きなさい。与えられているいのちを生き切りなさいといわれたのだと思います。

生きとし生けるものは、大きな神のいのちの計らいの内にあり、そのいのちを生きている。それなのに、どうしてあなたがたは、そのいのちを自分のいのちであるかのように握りしめ、苦悩するのか。いのちを自分のものとして握りしめること、これこそが人間の苦しみ、迷い、闇であり、そこからありとあらゆる欲と怒り、無知、罪が出てくるのです。イエスさまは人間としてのいのちを生き切ることで、この人間の我への捕らわれ(我執)を、ご自分の愛をもって打ち砕き、わたしたちにもっと広い世界、大きないいのちの世界を垣間見させてくださいました。自らに十字架を引き寄せるということで、自分というものを打ち砕いて、自分というものから脱出していかれた、過ぎ越していかれたのです。これが主の過ぎ越しです。ある人の「生のみが我らにあらず。死もまた我らなり」ということばを思い出します。死んでも復活のいのちがあるという間違った教えではなく、また死ななくなるのが永遠のいのちであるというのでもなく、死と生を対立さている二元論的な人間の分別の世界を越えて、わたしたちの生も死もすべて、大いなるいのちに包まれてあることに目ざめさせていただくこと、それが復活されたイエスさまに出会うということなのです。そのときわたしたちは、すでにすべてが永遠のいのち、大いなるいのちに飲み込まれていることに気づかされるでしょう。

この地球に生命体が誕生して38億年といわれます。その長い長い、気の遠くなるような生命の歴史の中で、生きとし生けるものはその生命をつないできました。この脈々と続く生命の営みの中で、この生命を生み出した真の光を、永遠の光をわたしたちは永遠のいのちというのでしょう。そして、この生命の歴史の中で、人間だけが、自分が大いなるいのちで生かされていることを知ることができるのです。わたしたちが生きていると思っているちっぽけな生命は、わたしたち生命体がこの宇宙に誕生するはるか昔より、すでに永遠のいのち、永遠の光に包まれてあることを、今一度、気づかせていただきたいと思います。宗教はその真実に気づかされるためにあるのです。自分の小さな宗派の中に閉じこもるためではありません。

主の受難 勧めのことば

主の受難 ヨハネ18章1節~19章42節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は、昨日の主の晩餐の夕べのミサで記念されたことを、イエスさまが実際に自分の身をもって生きられたことを記念します。つまり、イエスさまが晩餐の夕べのミサの中で、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさいと(ヨハネ13:34)」といって、相互愛の新しい掟をお与えになるにあたって、イエスさまがどのようにわたしたちを愛されたかを見るわけです。その愛し方は、敵味方、加害者被害者、善人悪人、聖人罪人の区別なく、すべての人々のために、ご自分の体を裂いて、血を流して、自分のいのちを与え尽くすこと、十字架につけられるものになることでした。多くのことを説明する必要はないと思います。イエスさまが、「わたしがあなたがたを愛したように」といわれたその愛し方が、十字架であるということです。

それでは、わたしたちが、実際に新しい相互愛の掟を実践できるのかといえば、「はい、できます」とは誰もいえないでしょう。「できます」といえる人がいるとしたら、その人は嘘つきです。なぜなら、人間は誰もイエスさまの愛を完全に理解し、実践することは不可能だからです。結局は、自分が可愛い、自分の幸福や利益を求め、自分の世界から一歩も出られないわたしというのが現実だからです。しかし、ただ「わたしたちが愛を知ったのは、あの方がわたしたちのために自分のいのちを捨ててくださった(ⅰヨハネ3:16)」からですと、ヨハネが手紙の中で書いているように、イエスさまの十字架によって、人の知恵をはるかに超えた、イエスさまの「愛の広さ、長さ、高さ、深さ(エフェソ3:18)」を垣間見させてくださいました。

仏教では、人間の愛はどこまでいっても小さな愛、小悲であるといいます。人知を超えた方だけが、真の大悲、大慈悲といわれる愛そのものであって、死ぬことの真の意味をわたしたちに知らせてくださいます。わたしたちは、そのイエスさまの愛に触れることによってのみ、「わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています(Ⅰヨハネ4:16)」といわれる真実の信仰がわたしたちの内に、イエスさまの側から呼び覚まされてくるのではないでしょうか。

実は、キリスト者であるわたしたちは、イエスさまについて何も知らないのです。わたしの信仰は、わたしのものではありません。わたしの信仰と呼んでいるものは、単なる自分の身勝手な思い込みでしかなかったことが、イエスさまの十字架を見つめるときに明らかにされるのではないでしょうか。信仰はわたしの信仰ではなく、イエスさまの願い、イエスさの真実がわたしのなかで引き起こさせた信仰であり、わたしが愛するとしたら、それはわたしではなく、わたしの内でイエスさまなのです。

[聖なる過越しの3日間]主の晩餐の夕べのミサ 勧めのことば

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

[聖なる過越しの3日間]

聖週間の「聖なる過越しの3日間」は、1年間の典礼暦の頂点です。この「過越しの3日間は、主の晩餐の夕べのミサから始まり、その中心を復活徹夜祭におき、復活の主日の『晩の祈り』で閉じる」と典礼総則に記されています。この説明から分かるように、この「3日間」は、イエスさまの受難、死、復活を時間をかけて、ひとつの流れとして体験し、味わっていくことにあります。

主の晩餐の夕べのミサ ヨハネ13章1~15節

主の晩餐の夕べのミサと翌日の金曜日に行われる主の受難の祭儀は、本質的に同じことを記念しています。木曜日は主の晩餐ということで、わたしたちの食べ物となって、パンとしてご自分のいのちを人類の救いのために与えられたことを記念します。翌日の主の受難の祭儀では、イエスさまが十字架の上で、実際にご自分のいのちを全人類の救いのためにお与えになったことを記念します。今日、主の晩餐の夕べのミサで読まれるのは、ヨハネ福音書の箇所で、イエスさまが弟子たちの足を洗われる場面が朗読されます。共観福音書にみられるような、聖体の制定の箇所ではありません。それもわざわざ、「過越祭の前のことである」ということで、ヨハネ福音書に描かれる食事は、過越祭の食事ではなく、前日の弟子たちとの別れの食事であったことが強調されています。そうすることで、イエスさまの十字架を「真の過越しの生贄の子羊」として描こうという意図があったと思われます。どうしてでしょうか。ヨハネ福音書が書かれた紀元90年代は、当然のように教会の中で典礼としての聖体祭儀が行われていました。しかし、ヨハネ福音書は共観福音書にある聖体の制定の箇所を省き、イエスさまの洗足の話をもってきていました。それは、イエスさまによって制定されたミサという儀式よりも、ミサの本質を問わなければならない必要があったからです。

実は、ヨハネの教会の中でも、すでにいろいろの問題がありました。パウロも当時の教会の中で、派閥争い、勢力争いが絶えなかったことを書いています。「あなたがたの間で仲間割れがあると聞いています…それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにはならないのです(Ⅰコリ11:18~20)」。また、古代のある教父は、「主の晩餐に与りながら、貧しい人のことを考えないなら、主の晩餐に与ったことになりません」ということばを残しています。さらに、パウロは激しい口調で「主の体のことをわきまえずに飲み食いするものは(聖体拝領すること)、自分に対する裁きを飲み食いしているのです(11:29)」、といって、当時の人々のあり方を厳しく批判しています。つまりミサを行いながら、それとまったく違った生き方をしていたということです。イエスさまが聖体の秘跡を制定されたのは、イエスさまのこころを残すためであって、ミサという儀式や荘厳な典礼形式を残すためではありません。また、わたしたちが聖体拝領するためでもありません。ヨハネ福音書が、イエスさまによる聖体の制定についての記述を省いたのは、聖体を軽視したのではなく、聖体を聖体たらしめるもの、つまりミサの本当の意味を共同体に再確認してほしいという思いが強くあったからだといえるでしょう。キリストの体とは、いわゆる「ご聖体」のことをいうのではなく、キリストのいのちを生きるキリスト者の共同体自体であり、聖体は教会の生き方そのものであることを思い起こさせるためだったということです。

イエスさまは洗足の場面で、「わたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない(13:14)」といわれました。そのイエスさまのことばは、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である(13:34)」といわれたイエスさまの新しい掟と同じ意味です。この「わたしがあなたがたを愛した」、「わたしがあなたがたの足を洗った」といわれていることが、イエスさまが人生とその死をかけてわたしたちに示されたいのちの真実です。イエスさまは全世界の人々を、ひとりとして漏らすことなく救い、十字架に付けられる側の人も、十字架に付ける側の人も、ともに救われていく世界を願って神の国を始められたのです。しかし、わたしたちの現実はどうでしょうか。日々、些細な争いや妬み、憎しみ、党派争いが絶えることはありません。ヨハネの共同体は同じ問題を抱えていました。しかし、それでも平気でミサがおこなわれていたということです。それなりの善意の人たちの集まりでしたが、そこに争いや妬みがうごめいていました。わたしたちも同じではないでしょうか。わたしたちキリスト者はどうしても、自分たちは善意で、自分こそが正しいと思ってしまっています。わたしたちは悪人ではない、誰かを十字架に付けるようなことは絶対しない、という信念をもって生活しています。誰かを十字架に付ける側の罪人にわたしは絶対にならないと思っているのです。

今、世界でいろいろな紛争が起こっていますが、もしわたしがその国に生まれていたならば、それは他人ごとではなかったはずです。わたしは否応なくその現実に巻き込まれ、殺す側にも殺される側にもなっていたのです。今、わたしたちが殺す側に立たないでいられるのは、たまたまわたしがそのような状況にいなかったからであって、状況が変われば、わたしは殺す側にも殺される側にもなってしまうのです。わたしがキリスト者で、今そのような立場にいないのは、たまたまそのような環境に生まれなかったのにすぎないのです。それなのに、わたしたちは常に被害者側の立場に立ってものをいう、そこにわたしたち人間のもつ業、闇の深さを感じさせられます。人間は状況が変われば、十字架に付ける側にも、付けられる側にもなる、殺す側にも、殺される側にもなるということに思いが至らないのです。教会は常に自分たちは絶対正義で、正義と倫理の擁護者、番人であるかのように振舞っています。

イエスさまがわたしたちに残されたのは、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい(ヨハネ13:34)」という新しい掟、相互愛の掟です。イエスさまはもはや、心を尽くして、思いを尽くして、神を愛し、隣人を愛しなさいとは教えらません。わたしが、自力で神を愛し、隣人を愛するというような思い上がりを捨てなさいといわれたのです。わたしたちは皆お互い様であって、足を洗う側にも足を洗われる側にもなる、だからお互いに足を洗い合いなさいといわれたのです。もっと謙虚になりなさいということなのです。わたしは、いつも足を洗う側、奉仕する側だという思い上がりは、イエスさまの中には微塵もありません。イエスさまが愛するといわれるとき、敵味方、加害者被害者、善人悪人、聖人罪人の区別や差別はないのです。いろいろ困難な状況の中であっても、お互いに足を洗い合い、ゆるし合い、仕え合うこと、それが相互愛であり、イエスさま自身がその身をもって模範を残してくださいました。それなのに、たとえそれがよいことであったとしても、わたしたちは自分を絶対正義だと思い込んでいるのではないでしょうか。そのような思い込み、自分にしがみついているわたしたちが問題なのです。そのようなわたしたちにとって、形式だけのミサ、聖体拝領に何の意味があるのか、ヨハネはそのことを問題にしたのです。

わたしが自分の正義を肯定し、自分のやり方を肯定するためのミサであれば、どんなに荘厳で美しい典礼であっても、何回聖体拝領しても、わたしたちは何も変わらないのです。わたしたちのなかに、絶対といえるものは何もないのです。だから、お互いに足を洗い合わなければならないのです。相手の足を洗うだけでは足らないのです。足を洗ってもらわなければならないのは、このわたしなのです。だから、互いに足を洗い合うのです。

聖木曜日に、形だけの洗足式をおこなっても意味がありません。今日、わたしたちは、人類のために、このわたしのためにいのちをかけてご自分を与え尽くされたことを、イエスさまのミサの制定として記念します。古代教父の「あなたがたは、ミサで記念しているものとなりなさい」という、呼びかけを今一度、謙虚に心に留めたいと思います。

四旬節第5主日 勧めのことば

四旬節第5主日 福音朗読 ヨハネ12章20~33節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

 今日の福音の中でイエスさまは「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきりいっておく。ひと粒の麦は地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ」といわれました。栄光というのは、その人がもっともその人らしく輝くときのことをいっています。人の子、つまりイエスさまがもっとも自分らしくなる時が来たといわれたのです。そのたとえとして、「ひと粒の麦は地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ」と教えられました。わたしたちは、このたとえを、一粒の麦はそのまま取っておいたらひと粒のままであるが、これが蒔かれて地に落ちると、そのひと粒の麦は失われるが、そこから芽が出て多くの実を結ぶようになるというふうに捉えています。しかし、そこでいわれている意味はもっと深いものがあるように思います。つまり、一粒の麦は取っておかれたらそのままだけれど、地にまかれたら多くの実を結ぶということだけのたとえなら、それは当たり前のことをいっているだけであり、普通の自然現象を現しているのに過ぎません。しかし、「死ねば多くの実を結ぶ」という意味を、もっと根本的に捉えることができるのではないかと思います。つまり、これは単なる種まきの話ではなく、一粒の麦が地に落ちて死ねばという意味は、種もみの形態が失われて芽が出て麦になろうが、種がそのまま腐って地の肥やしになろうが、いろいろな意味で、ある存在様式が失われることによって、多くのいのちを養い、新しいいのちとなるといういのちの姿を意味していると捉えることができるのではないかと思います。

今、NHKの大河ドラマで京都の鳥辺野という地名が出てきましたが、鳥辺野は古来、京都の人々の鳥葬、風葬の地でした。日本の仏教美術の中に九相図(くそうず)というものがあります。それは、嵯峨天皇の后であった橘嘉智子が仏教に深く帰依して、自分が死んだあと皇族として葬るのではなく、自分の遺体を道端に放置して、鳥や獣に与えるようにと遺言したという話に由来します。自分の体を鳥や獣の飢えを救うため餌として与え、この世のありとあらゆるものは移り変わり永遠なるものはひとつも無いという「諸行無常」の真理を、自らの身をもって示して、人々に菩提心を呼び起こさせるためであったといわれています。そして、遺体は道端に放置され、その遺体は腐乱して蠅がたかり蛆がわき、鳥や獣に食べられて、白骨化していく様子を人々に示し、またそれを絵師に描かせたものが九相図というものです。いろいろな九相図がありますが、イエスさまの「一粒の麦」のたとえ、また「自分のいのちを愛するものはそれを失うが、この世で自分のいのちを憎むものは(失うものは)、それを保って永遠のいのちに至る」といわれたことばと相通ずるものがあるように思います。たとえ自分の肉体は滅びても、そのいのちは他のいのちに受け継がれていく、もっと大きないのちへとひとつになっていくということではないでしょうか。

人間は霊長類として食物連鎖の頂点に君臨し、ありとあらゆるいのちを、自分のいのちを保つために摂取してきました。そのためであれば、あらゆる動植物を乱獲し、そのためであれば他の人間のいのちを殺めることさえも厭いません。食物連鎖の頂点に君臨し、あらゆるいのちの王であるようにふるまっているのが人間です。仏教に深く帰依した橘嘉智子は、そのような人間の業とういうものに深く思いをいたし、せめて自分が亡くなった後、そのからだを他の生き物のための食料として与えることによって、他の人々にいのちの大切さ(菩提心)、いのちの真実を説こうとしたのではないでしょうか。人間だけが、すべての生き物を利用し、食料として摂取していきますが、人間は他の生き物の何の役にもたっていません。遺体は大切に埋葬され、カトリック教会であれば、聖人ともなればその遺体を切り刻んで聖遺物として崇められます。からだの復活を教義としている、もちろんそうかもしれませんが、それは人体の復活ではありません。そう考えると、自然界の中で人間とは何と自分勝手で、自分たち人間のことしか考えていない愚かな存在なのでしょうか。せめて、からだを土に返して、他のいのちを養うための栄養となることさえしようとしないのです。

藤原新也という写真家の「メメント・モリ」という写真集があるのですが、そのなかで、ガンジス川で水葬された遺体を食べている野犬を撮った写真があります。グロテスクといえばそうですが、これこそイエスさまが自分のいのちを他に与えようとした行為に他なりません。わたしたち人間にとって、死はわたしたちの人生を揺るがす一大事です。しかし、わたしたちはその死ぬというプロセスを通して、与えられたいのちを生きるのだということをイエスさまはご自身をもって教えてくださったのではないでしょうか。死は生の反対語ではなく、いのちには生も死もなく、いのちのひとつの流れの中に生があり、死があるということなのではないでしょうか。そして、イエスさまはそのいのちの諸相の中で、死がもっともいのちがいのちらしくなる、つまり自分を壊してそのいのちを他に与えようとするとき、それを栄光のときとして示されたのです。死というものは人間にとって動揺であり、苦しみ、心騒ぐときであることに変わりはありません。しかし、死は人間にとって、もっとも人間らしいことなのでということを語っておられるのです。死も、大きないのちの営みの中にあること、すべてはイエスさまのみ手の中にあることを教えてくださったのだといえるでしょう。そして、そのことをわたしたちは、生きてある今、このときに知らせていただいているのです。このことは、生きている今にしか聞かせていただくことはできません。死んでしまえば聞くことはできません。生きている今こそ、いのちの意味を聞かせていただくときなのです。

聖週間をまじかに迎えようとしているわたしたちに、わたしの小さな思いや思惑を突き抜けて、わたしのいのちの全体が、途方もなく大きなイエスさまのいのちの計らいに支えられ、抱かれているという真実を味わわせていただきたいと思います。

四旬節第4主日 勧めのことば

四旬節第4主日 福音朗読 ヨハネ3章14~21節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日のヨハネ福音書の箇所は、イエスさまとファリサイ派のニコデモとの対話で、福音の核心ともいうべき箇所が朗読されます。「神は、その独り子をお与えになるほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠のいのちを得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである(3:16)」。ここに、イエスさまの福音のすべてが要約されているといっていいでしょう。

ここで、まず注目すべきことは、「神は、その独り子をお与えになるほどに、世を愛された」といわれていることです。「独り子を世に与えた」、「世を愛された」ということは、ナザレのイエスという人物において実現した歴史的事実を指しています。その歴史的事実とは、ナザレのイエスという方が、わたしたち人間とまったく同じように、生まれ、成長し、生きて、悩んで、苦しんで、死んだという具体的なひとりの人間の人生を意味しています。しかし、その出来事は、単に過去の出来事として終わってしまったことではなくて、わたしたちが生きている今現在においても続いている普遍的な真理として述べられているのです。確かにイエスさまが、この地上にいらして人間として生き、ご自分のいのちを十字架上で全人類のためにお与えになったことは、2千年前の歴史的事実です。しかし、そのイエスさまの人生は、復活という出来事によって、現在、過去、未来にわたって、人間の相対的な時間を超えて、永遠の真実としてすべての人に及んでいるということなのです。つまり、イエスさまにおいて自分を与えるという救いの出来事は、イエスさまの復活によって、永遠における真実として啓示されたということです。2千年前の十字架と復活という出来事によって、救いが永遠のものとなったというより、すでに永遠であった救いの真実が、イエス・キリストという出来事によって顕かにされたということでしょう。そして、その目的が、「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠のいのちを得るため、救われるためである」といわれています。つまり、イエスさまがこの世界に来られた目的は、わたしたち全人類の救いであるということなのです。わたしたちにとっては、何度も聞かされ当たり前のことかもしれませんが、これこそがイエスさまの願い、悲願であると言ったらいいでしょう。ひとりとして救われない人がいる限り、イエスさまの願いは果たされないということなのです。わたしが、救われたいと願うはるか以前に、すでにイエスさまによって起こされた永遠の願いであるということなのです。その救いの真実が示されました。

しかし、ここでひとつの問題が出てきます。「独り子を信じるものが」ということが、あたかも条件であるかのように述べられています。しかし、イエスさまを信じることが、永遠のいのちを得、救われるための条件であるとか、信じない者を排除したりしているのではないということです。イエスさまの救いは、すべての人を分け隔てなく救うことです。そもそも、救いに条件があるとか、救われたものと救われていないものがあるという隔てがないことが真実の救いです。ですから、「独り子を信じるものが」というのは、イエスさまを信じることを条件としているのではなく、イエスさまはすべての人を漏れなく救われるという真実を信じるようにという呼びかけであると捉えることができるのではないでしょうか。わたしたち人間はイエスさまを信じるといいながら、結局は自分に都合よく、自分勝手に信じている。そして、何かあるとすぐ信仰が揺らいでしまうわたしたちです。そのようなわたしたちが、そもそもイエスさまを一心に信じるということが可能なのかということが問われているのです。つまり、イエスさまを信じないということは他人事ではなく、わたしの問題として捉えなさい、ということだと思います。わたしたちが、自分のことを振り返ってみるとすぐ分かることですが、自分に都合よく信じてみたり、こんなに頑張っていますといってイエスさまと駆け引きをしてみたり、何か大変なことがあると信仰が直ぐに揺らいでしまう。また、人を心から信じることができない、そうした己の現実を見たとき、こんなに勝手なわたしであるのにもかかわらず、わたしたちをひとりとして漏らすことなく救おうとされるイエスさまの願いに気づかせていただくことが信仰であるといえるのではないでしょうか。

ですから、ここでいわれている「信じる」ということは、「信じない人たち」のことを排除するという意味ではなく、そこまでして全ての人類を救おうとされるイエスさまの願い、悲願の広さ、高さ、深さを指しているのだといえるでしょう。イエスさまが、自分のことを信じる人は救うが、信じない人は救わないといった、そのような了見の狭いことをいわれていると考えること自体不可能です。勿論、洗礼の有無に関わりなく、信じる、信じないに関係なく、全人類を一人も漏らすことなく救い取らずにはいられない、イエスさまの願いを述べているのだといえるでしょう。こうして、今日の第2朗読で、わたしたち人類が救われたのは、「自らの力によってではなく、神の賜物です。(わたしたちの)行いによるのではありません」といわれることが明らかにされていきます。これが、イエスさまの救いの真実であり、わたしたちに賜っている信仰なのです。このイエスさまから賜った信仰をそのままいただくことが、わたしが信じるということなのです。

イエスさまの救いのみ業は、このようにすでに永遠において成就しているわけです。イエスさまの十字架と復活によって、全人類はひとりとして余すことなく救われていくことが示されました。イエスさまを信じる者だけが救われるというのではなく、救われがたい、このわたしをも余すことなく救うというイエスさまの願いを聞くこと、それがイエスさまを信じるということなのだということが明らかにされたのです。そもそも、信仰は、わたしたちのこころの持ち方や精神論ではありません。つまり、わたしの努力や自分の力ではなく、イエスさまからわたしたちに届いているひとり残らず救うという救いの願いが、わたしのこころの中で信仰として呼び起こされているのだといったらいいでしょう。信仰とは、全ての人を救いたいというイエスさまの願いが、呼びかけとしてわたしのうちに届き、その絶対的な呼びかけが聞こえたということが真の信仰に他なりません。だから、わたしが自力で信じるのではなく、信じること自体が恵み、神の賜物なのです。信仰は、わたしたちがイエスさまにご加護を願ったり、自分の身勝手な欲望をかなえてもらったりするというような信心ではなく、また自分の力で頑張るとか、自分の根性で強くするような信念でもありません。わたしたちがイエスさまと出会うとき、いつもそのような自分の思いから一歩も出られない、わたしたちの根本的なあり方に気づかされます。その己の姿にもかかわらず、イエスさまの救いの願いに気づかされるとき、「ああ~そうであったのか」と、わたしたちは信仰をいただくのです。これが永遠のいのちを生きるということなのです。

ですから裁きというものも、イエスさまがわたしたちを裁かれるのではありません。わたしが自分の思いで、救われるだろうか、救われないだろうかと算段したり、また同じように他の人のことも判断する、これがイエスさまの救いの真実を疑うということであり、これがわたしたちの迷い、闇の中にいるということなのです。しかし、そのような闇の中にあってもわたしたちは光に包まれています。西洋では闇は光の欠如として説明されますが、そうではなく闇こそが光の実在を証しし、その闇の中に光が届いていることこそが救いなのだといったらいいでしょう。「光は暗闇の中で輝いている(1:5)」といわれています。わたしたちが光を意識するのは、昼間ではなく漆黒の闇においてです。わたしたちの苦しい、また困難の多い、罪深い人生のただ中に、イエスさまが光としておられることこそが、わたしたちがイエスさまによって救い取られているという真実に他ならないのです。

四旬節第3主日 勧めのことば

四旬節第3主日 福音朗読 ヨハネ2章13~25節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日はイエスさまのエルサレムの神殿の清めの物語です。マタイ、マルコ、ルカの共観福音書では、エルサレムの神殿の清めの出来事は、イエスさまの宣教活動の終わりごろ、エルサレム入城後の出来事として描かれています。しかし、ヨハネは宣教活動の始めの出来事として描かれます。いずれにしても、イエスさまのエルサレムの神殿への嘆き、ユダヤ教の信仰形態への問題提起ということがテーマになっています。どうようなことでしょうか。そのことを今日は考えてみたいと思います。

当時のエルサレムの神殿は、ユダヤ人たちの信仰の最大の拠り所でした。エジプトからの解放を記念する過越祭、シナイ山での律法授与を記念する七旬祭、荒野の彷徨を記念する仮庵祭の年3つの大祭にはエルサレムへ巡礼し、そこで生け贄を捧げることが大切な信仰行為でした。特に過越祭は3つの大祭の中でもっとも重要で、自分たちの祖先が神の導きによって、奴隷であったエジプトの家から紅海を渡って解放されたという、ユダヤ人の民族的アイデンティティに直結する大切な祭りでした。ですから過越祭のときは、多くのユダヤ人がエルサレムに巡礼し、町はごった返していました。そして、神殿で生け贄をささげ、献金をすることは、ユダヤ人にとっては大切な信仰の表現であったわけです。お稲荷さんにお参りにいって、ろうそくをあげて、油揚げを捧げて、お賽銭を投げるようなものです。

しかし、そこにはいくつか問題がありました。先ず生け贄にする牛や羊、鳩(これは家族の経済状況によって違っていたわけですが)を、家から連れてくるのは大変なことでした。何日もかかってエルサレムに巡礼してくるわけですから、その旅に牛や羊を連れてくることは大変な手間がかかることでした。また、エルサレムの神殿でお賽銭をあげるわけですが、当時のユダヤではローマの貨幣が使われていましたが、異教の貨幣は不浄であるとして、神殿用の貨幣を使わなければなりませんでした。神殿用の貨幣は普段は使いませんから、それを両替する必要があったわけです。ですから、エルサレムの神殿の境内には、生け贄の動物を売るお店や、神殿用の貨幣に両替するお店が軒を並べていたわけです。伏見のお稲荷さんにお参りにいくと、参道にろうそくや油揚げを売っているお店がたくさんあります。それは、信者さんの便宜をはかったもので当然のことだといえるでしょう。

しかし、イエスさまはそれらをひっくり返し、商売をするものを追い出されたわけですから、何をするんだということになるわけです。「このようなものはここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家にしてはならない」。ここでイエスさまが問題にされたのは、まことの礼拝とは何か、まことの信仰とは何かということだったと思います。当時のユダヤ人は、エルサレムの神殿に巡礼し、いわゆる本山詣でをし、生け贄をささげ、献金をすることが、自分たちの信仰の熱意を表すことだと考えていました。わたしたちも、何かそのようなことをしている人たちを見ると、あの人は信仰に熱心な人だというのと同じです。日本でもあの人は信仰が強いとか、熱心だといういい方がなされますが、それは何を意味しているでしょうか。多くの場合、信徒歴が長いとか、毎週欠かさずミサに出席しているとか、特別な信心をしているとか、たくさん献金をして、一生懸命慈善活動とかボランティアをしているとか、そのような人が信仰が篤いといわれがちなのではないでしょうか。また、成人洗礼より、幼児洗礼の方が、信仰経験があって信仰深いといわれがちです。しかし、多くの場合、わたしたちが何かをしているということで、信仰が強くなるということはありません。むしろ、単に我が強くなり、信仰上も自信満々になっているだけであって、信仰が強くなるということと自分の意志、根性が強くなることと混同しているだけではないでしょうか。ところが、多くの人は自分の意志が強くなることが、信仰が強くなることとだと考えてそれを願っています。それは、大きな勘違い、錯覚であるといえるでしょう。

わたしたちのこころが強くなることを願えば、かえって我が強くなっていくだけで、イエスさまを信じているといいながらも、むしろ自分の外的、内的な成功や成長を願うことになってしまいます。イエスさまに強められるということは、イエスさまへの信頼が強くなり、何があっても何がなくても揺るがないでいられる、自分の幸不幸、如意不如意、成功不成功などに執着しないで、信頼のうちに平和でいられるということではないでしょうか。詩編51に「あなたはいけにえを望まれず、燔祭をささげても喜ばれない。神よ、わたしのささげものは打ち砕かれたこころ。あなたは悔い改めるこころを見捨てられない」とあります。ここで、「わたしのささげものは打ち砕かれたこころ」「悔い改めたこころ」といわれているこころとは、自分のことに囚われない、自由な、偏りのないこころを指していると思われます。多くの人は悔い改めるこころというと、何か悪いこころをよいこころにすることだと思っています。しかし、自分のこころをよくするとか、そのようなことに囚われ、自分に拘っているわたしのこころ、我執が問題なのです。それを、自分のこころを強くすることを信仰だと思い込んでいるのです。

当時のユダヤ人たちは、自分たちはきちんと信仰生活をしている、本山詣でもし、生け贄をささげて、献金もしている、自分はきちんと信仰生活している。だから神さまは当然わたしを受け入れて、恵みを与えられ、災いから守ってくださるはずだと考えていました。わたしが一生懸命祈れば、わたしが一生懸命信仰すれば、わたしが一生懸命努力すれば、神さまはわたしたちの願いをかなえてくださると考えていたわけです。しかし、そんなわたしの自分勝手な都合で神さまを動かそうとすること自体が的外れであり、それは信仰ではないのです。イエスさまは、そのような人びとの信仰形態に問題提起をされたということだと思います。

わたしのささげものは、“打ち砕かれたこころ”、つまり自分の思い、自分の計画、我意が打ち砕かれたこころ、自分に絶望したところから生まれてくる神への信頼なのです。わたしの何かを満たし、わたしの何かがかなえられるための信仰であれば、それは自分の都合を延長し、自分のエゴを神さまに押し付けているだけに他なりません。そもそも、わたしの信仰などありえないのです。イエスさまは、別の箇所で、まことの礼拝とは、霊と真理をもって礼拝することだといわれました(4:23,24)。つまり、まことの礼拝、信仰とはイエスさまの霊と真理をもつことなのです。イエスさまの霊と真理をもつとは、サマリア人の女との出会いの箇所でイエスさまが話されたことなのですが、結局はイエスさまがこのサマリア人の女との出会いと救いに飢え渇いておられたということに、彼女が気づかされたということなのです。

わたしたちは、いろいろな動機で教会に来るでしょうが、それがたとえどんなに自分勝手で、現世利益的な動機であったとしても、また崇高な思いや、まことや救いを求めてであったとしても、そのようなわたしの願いよりはるかに超えたところで、わたしたちのすべてを包み込んで、わたしとの出会いに受け渇いておられたということなのです。そのことを救いの真実(真理)といい、そのイエスさまのわたしへの救いの願い、思い、こころ(霊)がわたしたちに届けられていることを信仰というのです。ですから、そのイエスさまの救いの真実と願いを聞くことが、わたしたちの信仰なのです。わたしが信じて、イエスさまに何かをしてもらうことではありません。わたしを救い取って捨てないと仰っている方の願い、その真実を聞くことが即信仰となるとのです。パウロも「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストのことばを聞くことによって始まるのです(ロマ10:17)」といいました。ですから、わたしたちは、“わたしを救う”といわれたイエスさまのことば、イエスさまの真実と願いを聞くことなしに、信仰はあり得ないのです。

四旬節第2主日 勧めのことば

四旬節第2主日 福音朗読 マルコ9章2~10節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日はイエスさまのご変容の箇所が朗読されました。その中に出てくるのは、栄光に輝くイエスさまの姿と弟子たちの無理解、不信仰という問題です。その背景を理解するために、少し前からお話ししたいと思います。変容の箇所の前、フィリッポ・カイザリアで、イエスさまが弟子たちに「あなたがたはわたしを何者だというのか」と問う場面があります。それに対して、ペトロは「あなたは、メシアです」と華々しく信仰告白をしました。その直後から、イエスさまは自分のエルサレムでの最期について教え始められたとあります。イエスさまは、自分がエルサレムで、長老、祭司長、律法学者から排斥され、殺され、3日目に復活すると、はっきりとお教えになったと書かれています。弟子たちはイエスさまが何をいっておられるのかわかりませんでした。

当時のユダヤ教の世界でメシアといえば、ローマ帝国の支配からイスラエルの民を解放し、ダビドのような王国を再興してくれる、政治的にも宗教的にリーダーシップのある人物を指していました。それなのにエルサレムで排斥され、殺されるということは、失敗、挫折であり、リーダーシップの無力さを露呈する以外の何ものでもありませんでした。そのことを、イエスさまは弟子たちに堂々とお教えになったわけですから、弟子たちの驚きというか、混乱は計り知れないものがあったのでしょう。それで、これはいけないと思った弟子たちのリーダー格のペトロは、イエスさまをわきにお連れしていさめ始めたとあります。それに対して、イエスさまは「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と、ペトロを厳しく叱られます。そして、「自分のいのちを救いたいと思うものは、それを失うが、わたしのため、また福音のためにいのちを失うものは、それを救うのである」と教えられました。

わたしたちが一番大切にしているものは何かというと、結局は自分のいのちです。わたしたちは、自分のいのちが一番大切ですから、自分のいのちを何としてでも救おうとします。これは当たり前のことです。わたしたちの日々の心配は、いかに自分のいのちを保つか、一日でも長く、健康で長生きするかということで明け暮れているわけです。それに対して、イエスさまは、わたしたちが本当の意味で自分のいのちを救うこと、また本当の意味でイエスさまのために働くこと、福音のために奉仕するということは、自分のいのちを失うことであると教えられたのです。弟子たちには、まったく理解を超えた教えであったでしょう。それは、わたしたちであっても、本音ではないでしょうか。そして、その直後にイエスさまの変容の話が続くわけです。そこでは、栄光に輝く王であるメシアの姿が顕現されます。弟子たちからみたら、これこそイエスさまが勝利を得られた姿であり、本物の成功したメシアの姿であったわけです。それも旧約の太祖であるモーセと、預言者の代表であるエリヤを従えています。これは右大臣と左大臣を従えた、典型的な栄光の王、メシアの姿です。弟子たちは再び舞い上がってしまいます。「ここにいることは素晴らしいことです…」と感極まっていうわけです。その感動冷めやらぬなか、山を下りていくとき、イエスさまは「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことを話してはいけない」と弟子たちを戒められます。そこで、弟子たちは再びわからなくなってしまい、死者の中から復活するとはどういうことかを議論し始めます。あとの部分は省かれていますが、弟子たちはイエスさまに「死者の中から復活するとはどういうことですか」と直接に聞くことができないので、話をずらして「なぜ、律法学者は先ずエリヤが来るはずだといっているのですか」と遠慮気味に尋ねています。イエスさまと弟子たちはどこまでも平行線が続きます。

弟子たちは人間というものを、その人が華々しく成功し、勝利をおさめ、栄光に輝いている姿こそが素晴らしく、いのちが輝いていると考えているわけです。ですからいのちの輝きというものは、イエスさまとそれに連なる自分たちが、エルサレムでローマ帝国の支配を駆逐し覇権を掌握して、イエスさまがメシアとして頂点に君臨して、イスラエルの民を再興することでした。いわゆる革命です。しかし、それはローマ帝国から見たらテロ活動でしかありません。実際、エルサレムに向かう弟子たちは武装していたようです。弟子たちは力で勝ち取ったいのちが、本当のいのちであると考えていたということになります。つまり、自分たちのいのちを最大限に拡大したものがいのちの本来の姿、いのちの輝き、栄光の姿であると思っていたということになります。そのような弟子たちにイエスさまは、「自分のいのちを救いたいと思うものは、それを失うが、わたしのため、また福音のためにいのちを失うものは、それを救うのである」と教えられたということなのです。弟子たちとは真逆のことを教えられたのです。弟子たちはわかるはずがありませんし、受け入れることも出来ません。

イエスさまはご自分のいのちについて、別の箇所で自分は「多くの人の身代金として自分のいのちをささげるために来た」とお教えになりました。ここでいわれる自分のいのちとは、イエスさま個人のいのちのことではなく、小さなエゴを捨てて大きないのちにまかせて生きているイエスさまのいのちのことを指しています。自分がすべてのいのちだと思ってそれにしがみついているわたしたちに、自分の小さな身体的ないのちに執着するのをやめれば、死んでも死なないいのちに生きることになるといわれたのです。多くの人はこれをイエスさまの自己犠牲の教えであるとか、キリスト教の特徴的な愛であるといいますが、実はこれこそがいのちのもっている本来の姿なのです。すべてのいのちは生きようとしますが、生きるために、自分のいのちを出て行こうとするということなのです。人間以外のいのちは、そのようにいのちを生きています。確かに、自分のためのいのちを保とうとして、いのちを自分の中に取り込もうとしますが、同時に、自分のいのちを他のいのちに与えていこうとします。これを、わたしたちは自然界の食物連鎖と呼んでいます。いのちを自分のものだといって握りしめているのは人間だけなのです。他の動植物は、自分のいのちを守るために他のいのちを捕食しますが、また他のいのちの食料、餌食になることによって、自分のいのちを与えていきます。動物でも植物でも、自分の死を通して、他のいのちを養っているのです。いのちの本来の姿は、生きようとすることですが、すべてのいのちはいったんわたしという個体の輪郭をとりますが、その個体の輪郭、わたしという枠を脱出していくことによって、いのちを生きているということなのです。そのもっとも典型的な現象が死ぬということです。いのちは死ぬことによって、真のいのちとなっていくのです。これが、イエスさまが、「自分のいのちを救いたいと思うものは、それを失うが、わたしのため、また福音のためにいのちを失うものは、それを救うのである」と教えられたことです。イエスさまはいのちの本来の姿を示されたのです。

真のいのちといいますが、いのちに本当のいのちと偽物のいのちがあるという意味ではありません。生きられているのはすべて同じいのちです。しかし、いのちがいのちであるためには、わたしという身を通らなければならないということなのです。ですから、この身を通して、わたしたちはいのちの実相について知らせていただくのですが、同時にわたしのこの身がいのちの生きる場であり、救いの場であるということをも知らせていただいているということです。死んでしまえば、それがいのちであることに気づくことさえできません。ですから、生かされている今こそ、救いのとき、恵みのとき(Ⅱコリ6:2)なのです。わたしたちは、今、愛する子に聞くように呼びかけられています。わたしたちは、今、聞かないならいつ聞くというのでしょうか。

四旬節第1主日 勧めのことば

四旬節第1主日 福音朗読 マルコ1章12~15節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

四旬節第1主日では、イエスさまの荒野の誘惑の箇所が朗読されます。マルコ福音書では、マタイ、ルカに見られる3つの誘惑について触れられていません。イエスさまは、ヨハネからの洗礼を受けた後、聖霊によって荒野に送り出され、そこに40日間滞在されてサタンから誘惑を受けられますが、野獣がイエスさまとともにいて、天使たちが仕えていたと書かれています。聖霊によって荒野へ導かれたこと、サタンからの誘惑を受けられたことは3つの共観福音書に共通することなのですが、野獣が一緒にいたこと、天使たちが仕えていたことはマルコ福音書にだけ見られるものです。イエスさまの荒野での滞在は、40日間昼も夜も断食されたということから、断食や苦行の修業の場、またサタンの誘惑などの試練の場と一般的には考えられているのではないでしょうか。教会は、それを復活祭の前の40日間、四旬節として、回心と償いの季節としてきました。しかし、もともとは洗礼志願者のための準備の期間からはじまったもののようです。

イエスさまの荒野での40日間の滞在について、わたしたちは決して積極的なイメージをもっているわけではありません。わたしたちは主の祈りの中で、「わたしたちを誘惑におちいらせず、悪よりお救いください」と祈っています。つまり、わたしたちは、誘惑やわたしたちを害するものから解放された状態を救いとして捉えているからだと思います。そしてそのためには、厳しい修行や試練、つまり荒野が必要だと考えているのはないでしょうか。つまり、荒野というのはわたしたちの人生における必要悪のようなもので、そのような状態から救われることをわたしたちは願っているということだと思います。わたしたちが人生において、誘惑を受けること、その誘惑に負けて罪を犯すこと、また失敗すること、また厳しい試練にあうことはよくないことで、不幸なことだと考えているということなのです。そしてそのようなものから、わたしを遠ざけてくださいと願っているのです。確かにそうでしょう。しかし、マルコが描くイエスさまの荒野での滞在は、そのようなわたしたちの考え方とちょっと違っているように思います。今日は、そのことをお話ししたいと思います。

先ずは、イエスさまの荒野の滞在中、イエスさまは野獣とともにおられたと書かれています。野獣というのはわたしたち人間を害するものと考えがちですが、イザヤ書11章では人と野獣がともにある世界が描かれています。「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる。彼は主を畏れ敬う霊に満たされる…弱い人のために正当な裁きを行い、この地の貧しい人を公平に弁護する。正義をその腰の帯とし、真実をその身に帯びる。狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ、幼子は蝮の巣に手を入れる。わたしの聖なる山においては、何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように、大地は主を知る知識で満たされる(1~9)」。ここでは、今まで相反するもの、相敵対してきたものがともに憩い安らぐ新しい世界が描かれています。これがイエスさまの宣べ伝えようとされた神の国であるといったらよいでしょう。荒野でイエスさまが野獣とともにおられたということは、イエスさまの出現によって、神の国が到来しているということを意味しているのでしょう。

しかし、マルコのメッセージはそのことにとどまらないと思います。荒野では、誘惑があり、試練がありますが、獣たちがイエスさまとともに憩い、また天使がイエスさまに仕えています。これらを新しい世界の始まりと捉えることも出来るでしょうが、むしろそれだけではないように思います。荒野というと、どこか普段の落ち着いた日常が損なわれた世界で、出来れば誰も受け入れたくないような状態だとわたしたちは考えます。しかしよく考えてみると、荒野というのは、わたしたちの人生や生活の外に起こることではなく、むしろわたしたちの人生の中に、毎日の生活そのもの中にあるということができるのではないかと思います。わたしたちの人生には喜びもありますが、誘惑があり、罪や失敗、苦しみ、悲しみもある。いろんな生き物がいて、野獣もいるけれど、それでも一緒にやっていかなければならない。しかし、そこには天使もいる。わたしたちの人生というか、日々の生活というものは、わたしたちは通常それらが相反するもの、相敵対すると思っているものが共存しているところそのものではないでしょうか。つまり、荒野とはわたしたちが生きなければならない人生、生活そのものを表していると思います。そのことはすなわち、わたしたちの救いや信仰というものは、わたしが救われたいと思っている現実の生活を離れたところにあるのではなく、今の生活のただ中にあることを意味しているのではないでしょうか。信仰や救いは、わたしが生きている今の場を離れたところにはないのです。

多くの人は救いや信仰というものを、欣求浄土厭離穢土ということばに現わされているように、汚れた罪深いこの世を去って、清らかな浄土を求めるところにあると考えています。つまり、汚れたこの世界を去って天国にいくこと、または汚れや罪を避けて、我が身が清くなっていくこと、またそのような清いものにさせていただくことが救いだと考えているということです。ですから、できるだけ汚れがなく、苦しみもない、悲しみもない状態、世界にわたしたちが迎え入れられることが救いで、またそのためには、わたしたちが罪を避け清くなる努力をすることが信仰であると思い込んでいるのです。しかし、マルコはそうではないというのです。わたしたちが生きているその泥だらけの罪深い日々の生活、苦しみの多い人生こそが、わたしたちの生きる場、荒野であって、同時にそこが救いの場であるといおうとしているのではないでしょうか。だから、四旬節だからきれいになって、復活祭を迎えましょうなんて、そんな都合のいい自分勝手な根性は捨てなさいということだと思います。もちろん誘惑があって、苦しくて、しんどくて、汚いこと、罪がいいとはいいませんし、それを肯定するということではありません。しかし、わたしたちはそれきりしか生きられないというのが現実ではないでしょうか。罪を避け清くなる努力して聖性に達した人が聖人で、そうでないものが凡人、罪人であるという教えは、イエスさまのものではありません。

うちの玄関に“常在久遠今処浄土”という書がかけられています。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ(ルカ17:20~21)」。神の国は、わたしたちが今生きている現実のただ中にある、わたしが神の国を求めていくのではなく、神の国がわたしを求めているのだということだと思います。なぜならば、イエスさまが人となってこの世界に来られたということはそういうことなのです。罪は罪のまま、闇は闇のまま、救いの契機となるということなのです。わたしが求めるのではなく、イエスさまがわたしを求めておられる、わたしがいのちの水を飲もうとするのではなく、すべてをそのまま受け入れていく大きな慈悲の大海がわたしを飲み込んでいく、実はそれがわたしたちの生きている人生であり、荒野なのだということをいおうとしているのではないでしょうか。わたしたちが生きている日々の生活、人生そのものが救いの場であるということなのです。四旬節を新しい気持ちで過ごしてみたいと思います。

年間第6主日 勧めのことば

年間第6主日 福音朗読 マルコ1章40~45節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は重い皮膚病を患っている人の癒しの箇所です。重い皮膚病という言葉は、1987年に新共同訳聖書が訳されたとき「らい病」と訳されました。その後1996年に「重い皮膚病」と改められました。2018年に改訳された聖書協会共同訳では「規定の病」と訳されました。この「規定の病」という意味は、レビ記13章に述べられている「ヘブライ語聖書に規定されている病」という意味です。ですからレビ記を読むと、旧約聖書が書かれた時代の世界観、人間観というものを知ることができます。当時の考え方は、世界を聖なる世界と汚れた世界にわけ、人間はその2つの世界の狭間にいて、できる限り「汚れ」から遠ざかり、清い状態に近づくことで、聖である神さまに近づくことができると考えられていました。日本の神道にも同じような考え方がありますが、聖書の世界にこのような差別、区別意識があったということを押さえておく必要があると思います。ですから、イエスさまが生きた時代のユダヤ教の根底に、このような差別、区別という考え方があり、それが当時の人々の生活や衛生感覚を支配していたということです。

 当時、規定の病に罹ったものは、レビ記13章によると「この病を発症したものは衣服を裂き、髪を垂らし…『汚れている。汚れている』と叫ばなければならない。その患部があるかぎり、その人は汚れている。宿営の外で、一人離れて住まなければならない(45~46)」とあります。このような病に罹ったものは共同体から追い出され、人々が自分に近づかないように大声で叫ばなければならず、通常人のいるところに近づくことはできず、家族から地域の共同体から、もちろんユダヤ教の礼拝の場からも排除されました。その苦しみは、病からくる肉体的な苦しみだけではなく、家族や共同体、もっとも助けが必要な宗教からも、救いからも除外されているという精神的な苦しみの方が大きかったのではないでしょうか。そのような状況におかれていた人に、イエスさまは「深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ」られます。ユダヤ教としての最大の禁忌を犯すわけです。この人は病気に罹ってから、人に触れられるのはおそらく初めてだったでしょう。いくら親子、家族ですらその人に触れることは、自分も汚れるとして律法から厳しく禁じられていました。しかし、イエスさまはその人に触れられるのです。それはイエスさまのその人への「深い憐れみ」からであったと描かれています。他の聖書の写本では「怒って」となっているものもあります。イエスさまの憐れみと怒りというと一見矛盾するようなことばですが、人間が、それも宗教という名において「聖」と「汚れ」というものでものごとを分け隔てている社会の現実への悲しみ、怒りが感じられる箇所ではないでしょうか。

創世記では、この世界は神さまによって創られ、「よし」とされました。これが本来の聖書の価値観であったはずです。それが、人間の健康を守るという観点から、衛生概念を清浄規定として宗教に組み込んでしまった人間のどうすることも出来ない闇へというものがあったのではないでしょうか。わたしたちとて例外ではありません。わたしたちはすべてのものごとを分け隔てて理解し、認識しようとします。善悪、生死、自他、大小、老若、男女、上下、内外、真偽、優劣、賢愚、敵味方等、わたしたちの世界は反対語で成り立っているといっていいほど、この差別、区別の世界になってしまっています。教会でも信者「未信者」、内陣会衆席、聖職者信徒等々、上げればきりがありません。つまり、わたしたちの世界は、ものごとを分け隔てることによって成り立っているのです。というかわたしたちは、ものごとを理解し認識していくときに、ものごとを分け隔てて、夫々に名前を付けて規定し、それを“よし”と“あし”として捉えることしかできなくなっているのです。これが人間の内的構造の本質にあることでもあるのです。すべてのものに垣根を作ってしまうということです。誰も病気になってよかったという人はいません。病気に罹ったら残念だといい、病気がよくなったらよかったといいます。このように、人間は、病気は悪、健康は善、病気になることは不幸で、健康なことは幸せとしか捉えることができないのです。

日本人が初詣やいろいろな神社仏閣を参拝したときには、誰しもが家内安全、健康長寿、大願成就を祈ります。キリスト教ではそのような現世利益はいけないといいながら、病気に罹れば治りますようにと祈りますし、少しでも病気をしないで長生きできように、仕事や使徒職がうまくいくように祈っているわけです。いうなれば同じことをしているわけです。それで、わたしたちは、現世利益の宗教ではありませんといっているのです。どこが違うのでしょうか。イエスさまが問題とされたことは、宗教という名のもとに差別、区別を作り出している社会構造への怒り、その被害者となっているものへの深い憐れみ、翻っていえば、差別、区別という垣根を作り出すことによってしか生きられない人間存在そのものに対する深い痛み悲しみがあったのではないかと思われます。このものごとを分け隔てていく、垣根を作り出していくという人間の根源的なあり方が人間の闘い、争いを生み出しているものに他なりません。それなのに、それをよしとしている、しかも宗教という名においてそれを肯定している、そのことへのイエスさまの怒りと悲しみが今日の福音の中に見られるのではないでしょうか。これはどの宗教も変わりません。カトリック教会であっても同じことです。洗礼を受けた人と受けていない人、聖人と罪人、聖職者と信徒等、その制度自体の中に垣根を作り出していることには変わりはないのです。その制度がなければ教会自体が成り立たない、しかし、そのことが当然になっていて、痛み悲しみ、問題意識がない。それが、「深く憐れんで」というイエスさまの言葉の中に込められた思いなのではないでしょうか。

イエスさまがこの世に現れたのは、神の国を告げ知らせるためでした。神の国は、この人間の差別、分別が絶えた世界、すべての垣根がなくなった世界です。人間は生まれたときには、この差別、分別を知りません。ベトレヘムの幼子は、その垣根がなくなった姿なのです。イエスさまの方から、わたしたちを隔てている垣根は初めからありません。垣根を作っているのはわたしたち人間の方で、イエスさまは少しも垣根を作っておられない。イエスさまの中には、病気の人、病気でない人、汚れた人、聖なる人といった垣根がないのです。イエスさまはありのままのわたしを初めから知り尽くして、わたしに向かって来られるのです。信仰というと、何かわたしが向こう側におられる聖なるイエスさまを信じることで、イエスさまに繋がることだと考えている人たちがいます。それだけなら、わたしはイエスさまとの間に垣根を作っているだけで、イエスさまをまだ疑っているのです。そうではなく、イエスさまはわたしが作っている垣根をもろともせずに、向こうから垣根を超えてやって来られるのです。イエスさまからしたら、垣根などもともとないのです。わたしのところに来られるのはイエスさまです。わたしが行くのではありません。わたしのところに来られるイエスさまに来ていただく、それがまことの信仰です。今日はそのことを知らせていただいたのです。そして、そのことをイエスさまは貧しい人は幸いといわれたのです。人間の貧困や飢え、病がよいことだといわれたのではなく、主にのみより頼む人は幸いであるといわれたのです。

年間第5主日 勧めのことば

年間第5主日 福音朗読 マルコ1章29~39節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の箇所は、イエスさまの一日の生活がどのようなものであったかを知ることができる貴重な箇所です。「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。シモンとその仲間はイエスの後を追い、見つけると、『みんなが捜しています』と言った。イエスは言われた。『近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。』そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された」。これは、イエスさまの日々の生活のリズムが描かれているといってもいいわけです。つまり、朝早く起きて祈り、祈りから活動へ、そして活動から祈りへと向かわれるイエスさまの姿です。この祈りから活動へ、活動から祈りへというイエスさまの動きをみると、イエスさまの活動、つまりその教えや人々との関わりは、イエスさまの祈りから出ているということがわかります。それではイエスさまの祈りとは何かということは、イエスさまを知るための大きな鍵であるといってよいと思います。そこで、今日はイエスさまの祈りということをご一緒に考えてみたいと思います。

わたしたち人間が祈るということを考えると、特定の宗教をもっているか否かに関わらず、非常に自然なものであることに気づきます。自分の愛する人のために祈る、また苦しんでいる人々のために祈る、自分のためにも祈る、たとえそれがどれほど自分勝手なものであったとしても、わたしたちは悲しいときにも、苦しいときにも、嬉しいときにも、なんともないときも、自然と手を合わせたり、頭をさげたりという行動をしています。アウグスチヌスという方は、「祈りは魂の呼吸である」といったそうです。実は、祈りというものは、わたしたち人間にとって、とても自然なものであるということができるのではないでしょうか。それがあたかも呼吸のようであるという言葉で表現され、しかも呼吸であればそれは人間にとって不可欠なものであるということが出来ます。呼吸が止まれば死んでしまいます。そうすると祈りというものは、それをわたしたちが認めるか否かに関わらず、人間にとって非常に自然なものですが、同時に不可欠なものであるというふうにいうことができると思います。それでは、イエスさまにとって非常に自然であって、また不可欠なものといえばなんでしょうか。つまりイエスさまになくてはならないもの、本質は何かという問いになると思います。そうすると、イエスさまの本質は“愛すること”であるといえると思います。正確にいうと“愛”なのですが、愛をもっと正確にいうと”愛し愛されるという働き”であるといえると思います。

イエスさまは神さまですから、愛そのものでおられます。一瞬たりとも愛することなしにいることがおできにならない、それがイエスさまです。神さまの本質は愛ですから、愛でないということはあり得ないということなのです。愛であるということは、絶え間なく自分をすべて与えるということです。聖書の中でイエスさまのそのあり方は、「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分のいのちを捧げるために来たのである(10:45)」と説明されています。つまり、自分のいのちを与えること、これがイエスさまの本質であるということなのです。また「友のために自分のいのちを捨てること、これ以上に大きな愛はない(ヨハネ15:13)」ともいわれています。そして、この愛の特徴は、相手の幸福を願うこと、常に他者に向かっていくということです。愛というものは常に自分を与えることしか知らない、常に自分を出て行くことしか知らないのが愛なのです。イエスさまは、その愛の本質を人間に明らかにするために「自分のいのちを救いたいと思うものは、それを失うが、わたしのため、また福音のためにいのちを失うものはそれを救う(8:35)」と教えられました。普通わたしたち人間は、自分のいのちが一番で、そのいのちを救おうとします。しかし、まことのいのちは、自分のいのちを失うことによってしか得ることができない、自分を救いたいのであれば、人の救いを願うこと、自分の救いを後回しにして、自分のいのちを放棄することによってしか自分を救えないのであると教えられました。これが愛の本質のあり方です。

そして、その愛は無償の愛であるといわれていますが、正確に理解されていないところがあります。無償の愛といわれると一方通行の自己犠牲的な献身的な愛のことであると思われてしまいますが、愛というものは決して一方通行ではありません。まことの愛というものは愛するものと、愛されるものがいて初めて成立するものです。一方的な、上からの恵みのような愛ではなく、愛し愛されるものが愛なのです。愛はその愛を受け取る人がいて初めて成り立ちます。しかし、その愛は、愛してその愛を受け取って終わりではなく、今度は愛を受け取ったものが、同じように愛そうとするのです。そして、その愛は愛し愛されるものの間で絶え間のない循環となっていきます。その循環は往相(おうそう)と還相(げんそう)という形を取ります。つまり与えるという動きは一方から見れば与えると見えますが、他方から見ると受けとるというふうに見えます。同様に受けるという動きは一方から見ると受けると見えますが、他方から見ると与えるというふうに見えるのです。この愛の循環、ダイナミズムこそが、イエスさまが生きておられたものなのです。そこには、もはや他者のためにという利他も、自分のためにという自利もなくなっていきます。自他という区別もありません。自分が救われて幸せになるという自利も、人の救いのために働くという利他の区別がなくなるのが愛の世界です。ですから、イエスさまにおいては、生きることは愛すること、愛さないでは生きることができない、これが本来のいのちのあり方であり、祈りはそのいのちを生きることに他ならないといえるのではないでしょうか。

イエスさまが朝早く起きて、教会の祈りを唱えていたとか、念祷をしていたということではありません。もちろん詩編の祈りや沈黙の祈りに親しんでおられたでしょうが、イエスさまが朝早く起きて祈っておられたというのは、イエスさまはご自分がご自分であることを生きておられたということなのです。愛が愛であることを生きておられた。だから、そのことを人々との関わりの中で、ただ生き、実行されたということになります。この当たり前といえることが、わたしたち人間はいかに困難であるかをわたしたちは知っています。イエスさまと同じいのちを生きているわたしたちですが、イエスさまはわたしたちがそのいのちの本質を生きることがいかに困難であるかをご存じでした。だから、わたしたち人間のために模範を残されたのだということができると思います。それがイエスさまの祈りであるということなのです。ですから、わたしたちは今日もイエスさまのその祈りに、絶え間なく自己を出るという祈りに、わたしの小さな祈りを合わせる、イエスさまのお望みに、ご意志に乗せていただく祈りが大切なのです。わたしたちが祈るとき、わたしたちはこの小さな自分から出る練習をしているのです。つまり小さな自分を手放すのです。だから祈りというものは人間として絶対的に必要不可欠ですが、人間の本性には難しいのです。しかし、わたしたちが祈ろうとするとき、難しいことを考えるのではなく、わたしたちはイエスさまの愛の動きに乗せていただき、ただイエスさまの愛の動きに、いのちの還流に身を委ねさえすればよいのです。そのことを今日は味わってみたいと思います。

年間第4主日 勧めのことば

年間第4主日 福音朗読 マルコ1章21~28節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は、イエスさまの権威ある新しい教えが述べられる箇所です。しかし、朗読個所の中にはイエスさまのどのような教えが、新しい権威ある教えとして教えられたのか述べられていません。ただ、イエスさまの権威を証明するかのように、悪霊追放の出来事が述べられています。当時のユダヤ教の宗教生活は、年に数回あるエルサレムの神殿詣でと、安息日である毎土曜日の地域の会堂で行われる礼拝に参加することでした。年数回の神殿詣ではわたしたちの感覚でいうと、本山詣でのようなもので、そこで生け贄を捧げることが普通でした。毎土曜日の安息日の礼拝では、律法の書や預言書が朗読され、詩編の歌があり、説教や律法の解釈を聞くことが通例でした。そこで活躍したのが律法学者たちでした。

当時の宗教観は、今もそうかもしれませんが、神さまを熱心に信仰すればするほど、神さまに嘉せられると考えられていました。神さまを熱心に信仰することは、律法、掟を守って生活することで、律法をよく守る人には恵みが与えられ、守らない人は罰せられると考えられていました。若死や病気、天災や飢饉などの災いは神さまからの罰で、それは律法を守らなかったことへの報いであると単純に教えられてきました。今ではキリスト教ではそのように教えられてはいませんが、それでも勧善懲悪の神さまというのは普通の人間にとってわかりやすい説明であったといえるでしょう。つい最近までキリスト教の教会の教えもそのようなものではなかったでしょうか。教えを守り、礼拝に参加し、教会活動に熱心に参加し、慈善の業や社会活動に参加することが信仰深い信徒の姿とされてきました。ユダヤ教においては、神さまの教えを守るために、掟、律法がどのようなもので、毎日の生活の中でどのようなことをしなければならないか、もしくはしてはならないのかが細かく決められていました。律法そのものは何百年も前に神さまが民にお与えになったものですから、社会や文化の変遷と共に「再解釈」される必要がでてきました。その解釈をし、人々に教えていたのが律法学者たちであったということです。

このように、人々は恵みと罰という考え方が前提で、そのように教えられていましたから、その延長線上で神さまの教えを生きようとしていたということなのです。しかし、実はそのような教えが人を救うということはないのです。なぜなら、神さまに嘉せられ、自分が救われるため、よい信者として生きることを目的にした時点で、そのような宗教は出発点がすでにずれているからです。イエスさまの教えに人々は非常に驚いたと書かれています。それは律法学者のようにではなく、権威あるものとして教えられたからだとあります。イエスさまの教えは、あれやこれやの難しい教義や律法の細かい解釈ではありませんでした。イエスさまの口から出てきたのは生きたことばであって、人々を生かし、そのことばが人々を動かすような、あたかもことばが真実となるような内側から湧き出る力強いことばであっということでしょう。その証拠に、イエスさまのことばは悪霊を追い出すほどの力がある、真実のことばでした。「出て行け」といわれると、悪霊は出て行ったのです。わたしたちもことばを使いますが、わたしたちのことばは真実味がなく、真実との間に乖離があります。わたしたちが「出て行け」といっても、悪霊は出て行きません。イエスさまのことばは、イエスさまご自身の実在とことばの間に乖離がないものであったということです。

日本では、このように生きたことばをもっている人をまことの人という意味で、命と書いて「みこと」と読ませてきました。日本の神話に出てくる神さまたちです。ですから、イエスさまは“イエスの命(みこと)”であるといえばイメージできるかもしれません。イエスさまのことばはそのまま、事実、出来事になるのです。そのようなことばは、日本では言霊といわれてきました。ことばと世界の間に齟齬がない有様、それが真実であるといえるのではないでしょうか。それこそが生きた内なる権威の源であるといえるでしょう。イエスさまご自身が生きたことば、真実そのものでいらっしゃいましたので、そこには何ものにも奪われることのない尊厳、威厳がありました。なぜならばイエスさまご自身が真実であり、本当に尊いものであるからです。尊と書いて「みこと」とも読ませています。ですから、そのイエスさまの権威というものは、何ものによっても奪われることがありません。わたしたちの借り物の偽りの権威などは、あっけなく崩れてしまいます。

律法学者やファリサイ人といった借り物、偽り物の権威が跋扈(ばっこ)するユダヤ教のなかに、イエスさまが登場されたのです。そして、イエスさまは当時当たり前となっていた当時のユダヤ人たちの信仰観、宗教的な権威、ユダヤ教のあり方に対して根本的な意義申し立てをしていかれたのです。神さまに嘉せられ、神さまから恵みを受けることを目的としている宗教であれば、それは宗教ではない、「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか(5:46)」ということです。これはキリスト教でも同じことがいえると思います。わたしたちは、カトリック教会という教えや制度を信じているのではないのです。イエス・キリストといわれる方とわたしが出会うというその一点から始まったのがキリスト教なのです。なんとなく神さまを信じて、よい人間になって、よい活動をして、貧しい人に寄り添っていくのが信仰者のあり方で、教会は地域に開かれ、ボランティアや社会活動をしている、確かにそれでもいいのかもしれません。しかし、そこに生きたイエスさまとの交わりがあるでしょうか。そこではキリストは2千年前にパレスティナ地方に現れた偉大な人物で、彼はいつも貧しい人や弱い立場の人と連帯して、その教えを述べ伝えた。そして、そのような素晴らしい教えが2千年間受け継がれ、その教えを実践しようとする人たちが教会であるということでもよいのかもしれません。しかしそこには、今わたしたちとともに生き、働き続けておられるイエスさまとの生き生きとした人格的な交わりがあるといえるのでしょうか。そして、わたしたちの素晴らしい生き方を助けてくださるのが聖霊で、聖霊は当然教会を助けてくださると考えているとしたら、それは果たしてどうなんでしょうか。

人々が出会って感動したのは、イエスさまの素晴らしい説教や困った人を助けるという教えではないのです。人々が出会ったのは、このわたしを探し求め、わたしと出会うことを切に望まれているイエスさまであったということなのです。その教えが素晴らしいとか、活動が素晴らしいということではないのです。もちろん教えが素晴らしく、活動も素晴らしいものだったでしょう。しかし、人々が出会ったのは、教えとか活動ではなくて、わたしに関わってくださるイエスさまだったのです。それは2千年経っても同じことではないでしょうか。確かに、そのイエスさまを表現するといろいろな教えや倫理が出てくるでしょう。でも教えや倫理を説く前に、わたしを探し求め、わたしと出会いたいと切に願っておられるイエスさまがおられるということなのです。教えや倫理があって、活動があって、それが素晴らしいから創始者であるイエスさまにひかれたでかまいません。自分もそうしたいというのでもいいでしょうが、素晴らしいとか、ひかれてそうしたいと思っているのは、結局はわたしがそうしたいのであって、それはイエスさまではないのです。出発点がずれています。そこを間違えないようにしたいものです。

年間第3主日 勧めのことば

年間第3主日 福音朗読 マルコ1章14~20節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日はマルコ福音書における最初の弟子のお召しの箇所です。今日の福音ではヨハネの箇所と違い、イエスさまが直接に声を掛けておられます。その特徴は、その人を見て声を掛けるということです。イエスさまは弟子たちに声を掛ける前に、すでにその人を見ておられるということなのです。これはイエスさまが、その人が自分の弟子にふさわしいかどうかをじっくり見定めて、その上で声を掛けられたという意味ではありません。イエスさまとの出会いはすべて縁であり、いわばタイミングがあるということなのです。すべてにタイミングがあるように、イエスさまとの出会いも縁なのです。イエスさまの願いはわたしを呼び、わたしと出会うことです。そのために、イエスさまはわたしを見ておられたのだといえるでしょう。しかし、この宇宙の歴史のなかで、わたしたちがどのようにイエスさまと出会うかは、イエスさまだけがご存じです。イエスさまは永遠のうちにそのタイミングを計っておられるのだといえばいいでしょう。

138億年の宇宙の歴史のなかで、わたしがイエスさまと出会うことができるというのはほぼ奇跡に等しいことなのです。なぜなら、この宇宙の歴史のなかの芥子粒ひとつともいえる一点一ヶ所に生まれたわたしが、イエスさまと出会うことができるかどうかは、わたしの力ではまったく不可能なことだからです。この宇宙の歴史の何かで、ひとつでもかけていたり、違っていたりすればわたしというものは存在していません。それにわたしたちは今生きているこのとき、その場でしかイエスさまと出会うことはできません。イエスさまは大宇宙そのものでいらっしゃいますから、その意味でわたしと出会うためにタイミングを計っておられる、その意味でわたしを見ておられるといえるでしょう。そのイエスさまの眼差しは永遠の眼差しであって、パウロが「天地創造の前に、わたしを愛して、ご自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになった(エフェソ1:4)」という、その眼差しであるということがわかります。

わたしたちは召命というと、すぐに司祭・修道者になることだとか、結婚生活、独身生活だなどと考えますが、わたしの召命は先ずわたしをいのちとして、人間としてこの世界に呼び出すことなのです。そして、わたしたちが本当のいのちとなる、人間となるということです。これを第1召命、根本召命といいましょう。そして、そのことをわたしたちに気づかせるためにイエスさまと出会わせる、すなわちわたしをキリスト者と呼ばれるということ、これを第2の召命といえるでしょう。そして、キリスト者としてどのようにいのちの証し人となるかということ、それが夫々の生き方にあたるのですが、これを第3の召命といえるでしょう。ですから、わたしたちにとってもっとも根本的なのは、第1召命であるいのちとなる、人間となるということだといってもいいと思います。カトリック信者としてどうするとか、教会としてどうするというのは、すべて根本召命を生きるため、その使命を果たすためのものなのです。司祭・修道者また信徒として生きるということは、根本召命を生きるためであって、その身分自体が目的とはなりません。ときどきそれを目的にしている人がいますが、それは勘違いであるといったらいいでしょう。第3召命は手段、方便といってもいいもので、その身分にしがみつくものではありません。そのためには、いのちの召命が何であるかを知ること、それがすべてであるといったらいいと思います。それに気づかせ、示されたのがイエスさまということになります。イエスさまを見るときに、そこにいのちが何であるかを知ることができます。イエスさまを見るときに、そこに人間が何であるかを知ることができます。

真如であるイエスさまが、ことばとなって、人間となって、わたしたちの世界に来られたのは、先般のパウロのことばを使うと、わたしたちを愛して、聖なる者、汚れのない者とするためでした。聖なる者、汚れのない者とするということは、わたしたちを特別なもの、救われたものとするという意味ではありません。また、わたしたちの罪をゆるして天国に迎え入れるというような、わたしたちが普通に考えている自分勝手な救いのためではありません。聖なる者、汚れのない者というのは、本来のいのちに目覚めたものを意味しています。本来のいのちに目覚めるといっても、頭で理解することではありません。むしろ、イエスさまの生涯によって示されたいのちの本来の流れに、己をまかせることであるといえばいいかもしれません。まかせるというと、わたしに手を差し出されているイエスさまの手を握るというイメージをもつかもしれませんが、むしろイエスさまがわたしをつかんでくださることだといえばいいかもしれません。イエスさまが手を出してこられて、それをこちらから手を握るということだと、イエスさまは決して手を離されることはありませんが、わたしたちが手を離してしまうことがあります。猿の赤ちゃんはお母さん猿のお腹にしがみついて運ばれていきますが、猫の赤ちゃんは親猫が子猫の首根っこをくわえて運ばれていきます。子猫は何もしなくても、お母さん猫がしっかりくわえていますから、落ちる心配はありません。しかし、子猿はしがみつく力が弱かったりすると落ちてしまうかもしれません。この子猫の姿こそ、イエスさまに己をまかせるものの姿です。聖なるもの、汚れのないものというのは、自力で聖なるものになろう、汚れないものになろうとするのではなく、大いなるいのちに自分を完全にまかせたもののことなのです。

わたしたちは新幹線に乗ったら、この新幹線は無事に東京駅に着くだろうかなどと心配しません。この新幹線はかならず東京駅に着くと知っていますし、信じています。だから新幹線に乗った人は、平気で居眠りをしたり、おしゃべりを楽しんだりしています。運転手の心配をしている人は誰もいません。しかし、わたしたちの信仰心というものは、新幹線に乗りながらも、東京に着くかどうか不安なので新幹線の中で歩いたり、走ったりしているようなものではないでしょうか。わたしたちが祈るということは、イエスさまに必死にお願いすることだと思っている人が多いかもしれません。そうではなく、祈るとは、運転している人の“意”に“乗る”ことだといったらいいでしょう。つまり、イエスさまの意志、イエスさまの思い、イエスさまの願いに乗ることだといえばいいでしょう。イエスさまこそ、救いの大船です。イエスさまはわたしを救うと誓われた方、神さまなのです。そのことばが違えることは決してありません。だから、イエスさまにくどくどと祈る必要などないのです。イエスさまの意に乗ればいいのですから、本当の祈りというものを知ると、祈りは義務だとか決まった言葉や決まった時間にしなければならないものではなくなっていきます。このことを頭で分かるとか、意識するのではなく、自然とそうなるということだといえばよいと思います。もちろん、そのためにわたしたちの側からの協力は必要ですが、イエスさまの意に乗る、もっと正確にいえば、祈りはイエスさまの意に乗せていただくことなのだといえるでしょう。わたしたちをイエスさまの意に乗せてくださるのも、実はわたしではなくイエスさまです。イエスさまとの関わりも、このようになるところまでわたしたちは呼ばれているのです。今日のみことばを通して、祈りについて改めて深めてみてはどうでしょうか。

年間第2主日 勧めのことば

年間第2主日 福音朗読 ヨハネ1章35~42節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日はヨハネ福音書に見る最初の弟子たちのお召しの箇所です。洗礼者ヨハネが2人の弟子にイエスさまを紹介します。そして、またそのうちのひとりアンデレが、兄弟のペトロをイエスさまに紹介します。そのようにして弟子の輪が広がっていきます。イエスさまの弟子たちというのはこのように広がっていったのかもしれません。マタイ、マルコでは、イエスさまがこれと思う人をお呼びになるというふうにイエスさまのイニシャティブを強調しますが、それに対してヨハネでは、人を通して働かれるイエスさまということが強調されているように思います。どちらが本当なのでしょうか。

教会の中には、幼児洗礼と成人洗礼というものがあります。幼児洗礼は本人の意志とは関係なく、両親や周りの人々の望みによって洗礼を授けられます。自分の意志に関係なく、イエスさまに繋がったというようにいわれます。それに対して、成人洗礼は自分から望んで、今日の福音に出てくる弟子たちのように、誰かの手引きでイエスさまに出会ったとか、「どこに泊まっておられるのですか」と自分からイエスさまを求めていったというようにいわれます。自分の意志で決断して、イエスさまを選んだのだといういい方がなされます。教会の中ではわりと幼児洗礼と成人洗礼を区別して、幼児洗礼の人たちは成人洗礼の人たちに、「あなたがたは教会や神さまのことをよくわかっていない」といったり、成人洗礼の人たちは幼児洗礼の人たちを「あなたたちは漠然と神さまを信じているだけで、イエスさまのことを知らない」といったりします。いずれも愚かなことだと思います。これは、時間の中に生きている人間のレベルでの話になっています。

今日の福音の中では、イエスさまは人と人との関わりを通してその人を呼んでおられます。洗礼者ヨハネの紹介であったり、自分の兄弟や友達に誘われたりしてイエスさまと出会っていきます。しかし、それは幼児洗礼であっても同じではないでしょうか。両親や周りの人を介してイエスさまに出会わせていただいたからです。結局、わたしたちは誰か人やものを介してしか、イエスさまと出会うことはできないのです。それを恵みというのではないでしょうか。別のいい方をすれば、イエスさまはこの世界のありとあらゆるもの、両親であったり、友人であったり、ものであったり、この大自然であったり、すべてのものを通してわたしをご自分と出会わせようとしておられるということなのです。なぜなら、わたしの中には、まことであるイエスさまと出会わせていただくようなものは何もないからです。ただ、イエスさまご自身がわたしと出会いたいと切に願っておられるということだけなのです。わたしが出会いたい出会いたくないかとか、またわたしがそれに相応しいか相応しくないかに一切関係なく、イエスさまはわたしに出会いたいと願っておられるということなのです。それでは、わたしが自分の力でイエスさまと出会えるかというと、たとえ自分が求めたとしても、いろいろな状況が揃わなければ何光年かかっても永遠に出会うことはできないのです。もし、わたしが自分の意志でイエスさまに「どこに泊まっておられるのですか」と問うのなら、それはわたしをしてイエスさまにそのように問わしめているのは、わたしではなくイエスさまご自身なのです。この全宇宙を総動員して、イエスさまはわたしと巡り合い、出会うようにしておられるからです。だから、成人洗礼であれ幼児洗礼であれ、関係ないのです。あなたは「何を求めているのか」という「求める」という心を起こさせるのは、わたしの中に何かがあるからでなく、求める何かがわたしをして求めさせているということに他ならないのです。そのことを、はっきりと押さえておきたいと思います。

最近教会の中で会議があって、以前のように参加者が個々の意見を発表し議論する形式ではなくて、同じテーブルに参加者がついて、お互いの話を聞き合う形式が取られたそうです。それで、他の人の話を聞くうちに自分の意見が変わっていくのを体験したということでした。そしてそのことを、これは聖霊の働きであると感想が書かれていました。人の話を聞いて、自分の考えや思いが変わっていくというのは、人間として当たり前のことではないでしょうか。聖霊の働きでも何でもありません。確かに他の人やいろいろなことから影響をうけて、自分が変えられていくというのは大きな意味では聖霊の働きといってもいいかもしれません。しかし、変わっていくというのがいのちの本来の姿です。変わることを拒否しているというなら、それは機械かロボットです。人もいのちです。人と出会って、話を聞いて変わらないというなら、それがおかしいのです。いのちは自ら変わっていくものなのです。

イエスさまはこの世界の、この宇宙のすべてのものを総動員して、わたしに呼び掛けておられるのです。それは、自分と出会ってほしい、本当の真実を知ってほしい、真実のいのちを生きてほしいというイエスさまが願っておられるからです。そのようなイエスさまと出会わせていただければ、当然というか自然に変わっていくものなのです。先ず自分がすべてだと思っていた己の頑なさ、愚かさが知らされるでしょう。そして、そのような愚かなわたしと出会い、わたしを必ず真実に目覚めさせようとしておられる方があることも知らされていきます。これが変わるということなのです。イエスさまに出会わせていただくということは、わたしが変えられていくということなのです。もちろん、わたしが変わったから、イエスさまと出会えるわけではありません。また、イエスさまと出会うことで、わたしの性格とか根性がよくなるとか、今より立派な人間になるとか、眼に見えて今までの自分の問題や課題がなくなってハッピーになるということではありません。イエスさまと出会うということは、わたしが今までこれがわたしの救いであると思って願っていたことが、根底からひっくり返されるということなのです。わたしが破られるということなのです。ですから、イエスさまと出会うことはハッピーになるということではありません。そうなると、その意味では福音とはいえないかもしれません。必ずしも、わたしにとって都合のいい話ではないからです。イエスさまと出会うということは、真実が知らされることであって、真実はわたしにとって都合のいいことではありません。ただ、その真実があまりにも大きく、わたしたちの言葉や思いをはるかに超えたものであることが知らされるので、わたしの小さな幸せや思いなどどうでもよくなるということなのです。これがイエスさまと出会わせていただくということなのです。しかし、この出会いは第一歩であり、あくまでも入り口に立ったのに過ぎません。わたしたちは生涯、このイエスさまに聞き続けなければならないのです。実は、それが一番難しいことなのです。

主の公現 勧めのことば

主の公現 福音朗読 マタイ2章1~12節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は主の公現のお祝い日です。古代教会においては1月6日の新年に主の顕現(エピファニー)、つまりイエスさまのこの地上における現れを、主の降誕、主の公現、主の洗礼、カナでの婚礼での最初のしるしとして祝ってきました。これらの東方起源のエピファニーはキリストの誕生というより、キリストの到来、闇を照らす光の訪れとして祝われてきました。それが西方教会では、主の降誕、主の公現、主の洗礼の3つの祝日として祝われるようになりました。しかし、その中心にあるテーマは主の到来ということです。待降節(アドベント)のテーマも主を待つことではなくて、主の到来であることは先般指摘してきた通りです。つまり主が来る、主の到来という神さま側からの出来事を、人類として体験した出来事として待つこと、生まれること、現れることとして理解したということなのです。主の降誕も、主の公現も、主の洗礼もイエスさまの人類への到来という一点に集中しているのですが、それを人間に説明するときに、また人間が理解していく方便としていろいろの祝い日となっていったといえるでしょう。そういってしまうと、身もふたもないので、教会はそれをいろいろな祝日として祝ってきたということなのでしょう。

わたしたちにとって根本の祝日である主の復活も、主がわたしのところに来られ、いのちの諸相を示されたということ、いのちの実相を祝っているといえます。本当のいのち、永遠のいのちとはイエスさまご自身であって、わたしたち人間の個々のいのちは、その本当のいのちがあってはじめて可能であることが知らされます。そして、イエスさまという方を通していのちの実相が示されていくのです。そのいのちは元来無限無量のいのち、永遠のいのちそのものであって、わたしたちがいのちだと思っている有限のいのちは、本当のいのちを個人の小さい枠の中に閉じ込めたものに過ぎません。しかしながら、同じいのちの実相をもっています。但し、わたしたちは有限の形でしか、いのちというものを体験することができないのです。ですから、わたしのいのちが一番大切であると思いこんで、わたしのいのちに執着します。宗教というものは、わたしが一番大切で、生きたいと思っているわたしのいのちを健やかに保ち、永らえさせ、引き伸ばすものではありません。これは個々のいのちを軽視しているのではなく、わたしたちがいのちというものを体験できるのは、確かにこのわたしの個々のいのちを通してですが、わたしのいのちですべてが尽きるものではないということです。

わたしのいのちはあらゆるいのちとつながっており、そしてそのいのちは、大きな家族、大宇宙、大生命を構成しています。パウロがいうキリストのからだのようなイメージでしょうか。他者、他物なくしてわたしはあり得ませんが、わたしなくしても他もあり得ないという一見すると矛盾のようなことなのですが、そのような繋がりをお互いに生きているということなのです。そして、そのいのちは絶え間ない動きであり、ダイナミックな流れであり、絶え間ない自己脱出なのです。このいのちは自分を壊して、自分を出て行くことによって、自分となっていく、いのちとなってくという固有の特性をもっているのです。別の言葉でいえば、新陳代謝ともいえますし、死と再生、復活ともいえますし、動的平衡ともいえます。これはひとつの流れ、還流であって、見る方向によって生まれると見え、他の方向から見ると死ぬと見えます。生まれることと死ぬことは正反対で真逆のことと思われがちですが、そうではなく大きないのちの還流の中の流れの方向であるといえるでしょう。このいのちのダイナミズムを損ない、止めようとする動きが罪であったり、欲、執着であったりするのです。いのちは本来溢れ出ていくものなのです。そのいのちがわたしたちに現れた出来事がイエス・キリストです。しかし、この本来のいのちを知ることは、わたしたちにとって必ずしも快いことではないかもしれません。

そのイエス・キリストがわたしたちへ来るという動きが、主の降誕、主の公現、主の洗礼です。そのイエス・キリストがいのちとして本来の姿に戻る動きが、受難・死・復活なわけです。わたしたちの老病死ともいえます。これはいのちの本来の姿なのです。それをイエスさまは、ことばとしてわたしたちに現すために、ことばとなってこの世に来られました。そのことを、わたしたちは記念しているのです。イエスさまの受肉、生涯、受難、死、復活は、いのちの実相をわたしたちに見せているのです。イエスさまはひとりの人間として生きることで、いのちとしてもっともいのちらしい姿を示しました。イエスさまは、わたしたちにいのちであることを気づかせるために、人間の言葉となって、わたしたち人間となって、わたしたちの仲間になって、わたしとなって、わたしが理解できるものになられました。これはわたしたちがいのちの本当の願いに気づき、目覚めるためなのです。わたしたちはいのちですから、すでにいのちを生き、体験しているはずですが、このいのちが何であるかを説明することができません。いのちとは有機体のうちにみられるある一定期間の現象であるとか、DNAがどうのといっても、いのちはそういうことではないのです。むしろ、わたしたち人間にとっていのちは「死にたくない」という感覚において、端的に体験されているのではないでしょうか。いのちは生きたいという根本的な願いをもっているからです。しかし、生きたいといういのちの根本的な願いが何であるかをわたしたちは理解することができないのです。せいぜい、健康で長生きしたいとか、他のものを押しのけてでも生き残りたいとか、いのちを永らえさせることぐらいしか思いつきません。他のものを押しのけてでも生きたいという願いは自分勝手な願いですが、実は、その願いは永遠に生きたいといういのちの本来の願いを発見していく入り口にもなるのです。人間の罪というか煩悩の中に、いのちの願いがすでに内包されているのです。

イエスさまは御自らが人間となって、つまり罪と煩悩に迷うわたしとなって、このいのちを生きようとされているのです。このイエスさまのこの世界への現れを祝うことが主の公現、主の顕現、エピファニーです。降誕節は光のお祝いでもあります。この光はイエスさまであって、この迷いの闇に輝く光です。闇が闇を破ることはできません。闇を破るのは光です。この光が闇に届けられて、闇の中でこの光が輝いている(ヨハネ1:5)こと、これがわたしたちへの福音、神の国の始まりなのです。ですからわたしのなかで生きられているのはわたしのいのちではなく、イエスさまのいのちなのです。そのことをパウロは、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです(ガラテア2:20)」といったのです。わたしが我が物顔をして生きているいのちは、“ああ、わたしのいのちではなく、イエスさまのいのちを生きさせて頂いていたのか”と気づくこと、これが回心であり、神の国なのです。そして、その証し人となるように、わたしたちは洗礼を受け、教会として呼ばれたのです。自分だけ助かってなんて、さもしい根性ではないのです。また、人助けをして、自分も助かろうというよこしまな根性でもないし、まして洗礼者を増やそうということでもないのです。このいのちの世界は、そのようにしか考えることができないわたしが破られるのですから、わたしの本性にとって必ずしも心地よいものではありません。しかし、どこまでいっても愚かな愚かなわたしが皆とともに救われていく世界が、確かにわたしたちに届けられていること、そのことへの気づきがこの降誕節の祝いなのです。

能登半島地震の募金につきまして

カリタスジャパン

能登地震 募金受付を開始しました

災害被災者のための祈り

父である神よ、
すべての人に限りないいつくしみを注いでくださるあなたに、
希望と信頼をこめて祈ります。
災害によって、苦しい生活を送り、
不安な日々を過ごす人々の心を照らし、
希望を失うことがないよう支えてください。
また、亡くなられた人々には、永遠の安らぎをお与えください。
すべての人の苦しみを担われたキリストが
いつもともにいてくださることを、
祈りと行動によってあかしできますように。
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

(2021年2月16日 日本カトリック司教協議会認可)

https://www.cbcj.catholic.jp/wp-content/uploads/2021/02/inori_saigai20210216.pdf

主の降誕(日中のミサ) 勧めのことば

主の降誕(日中のミサ)福音朗読 ヨハネ1章1~18節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

主の降誕の日中のミサにおいては、ヨハネ福音書の冒頭の箇所が朗読されます。聖書学的にはいろいろ議論がある箇所です。伝統的にこの箇所は、三位一体の第二の位格であるイエス・キリストの受肉以前のロゴスの先在を説明するものとして捉えられてきました。そして、その神的存在であるロゴスといわれることばが受肉するという出来事を、主の降誕の神秘として祝うというものでした。しかし、「はじめにことばがあった」というところを、救いの歴史におけるナザレのイエスとの出会いを中心にして捉えて、日本語では「はじめにことばがいた」と訳したらどうかという意見があります。日本語では「ある」は非人称的存在に使われ、「いる」は人格的存在に用いられます。ヨーロッパ言語では「ある」と「いる」の区別はありません。しかし、日本語で「ある」と「いる」は、単にものとひとの区別に使われているかというと、それほど簡単ではありません。ひと、動物以外のものであっても魂がこもっているものとか、動くものには「いる」を使っているようです。そう考えると「ことばがあった」というのは、神さまを全知全能の創造主、不動の動者として捉える意味ではいいかもしれませんが、わたしたちが神さまと呼んでいる方は決して不動の動者ではなく、もっといきいきとした、ダイナミックでいのちの根源でおられる御者です。その意味では、「ことばがいた」といっていいのではないかと思います。日本での最古の聖書であるギュツラフ訳では、「はじめにかしこいものござる」と訳されていることはよく知られているのではないでしょうか。そのことから今日は、ことばのもつ意味を、人間の言語という観点からお話ししてみたいと思います。

人間は言葉を話します。話すだけではなくて、書いたり読んだりもします。他の動物も彼らの独自の方法でお互いにコミュニケーションをとっています。最近の研究では、植物もお互いにコミュニケーションをとっているということがいわれています。多くの人々は、ことばは人間がお互いのコミュニケーションをとるために、人間が発明した道具だと思っているようです。確かにことばを使って、自分の思いや考えを他人に伝えるのという意味では、道具だといって間違いではありません。しかし、よく考えてみると自分の思いや考えをそのことばで表すことを誰が決めたのでしょうか。そもそも、わたしたちはいつ、どこでことばを覚えたのでしょうか。わたしたちは、まだ言葉を話す以前の子どものとき、言葉を話すことを両親や周りの人から教わりました。しかし、その言葉は親たちが自分で作って子どもに教えたわけではありません。彼らもまたその親たちから、またその親はその親たちから教わったはずです。それでは、その言葉というものはいつ、どこで、誰によって作られたのでしょうか。創世記によると、人祖が“もの”に名前を付けたということになっています。それでは、人祖が名前を付けるために、“もの”と名前が同じ意味であることを誰が決めたのかということになっていきます。それを神さまが決めたというのは簡単ですが、では神さまというものを“神さま”という言葉で呼ぶことは誰が決めたのかということになります。つまり、言葉には必ず意味があって、そのような言葉を誰が決めたのかは、実は誰もわからないということなのです。そのわからないものを神さまとか、創造主といったのでしょう。ですから、「はじめにことばがいた。ことばは神とともにいた。ことばは神であった」ということになったのではないでしょうか。

だから、言葉が万物を創造する力をもっているといっていいのだと思います。こうして、人間が言葉を話す前に、言葉-意味があったということだということがわかってきます。人間が言葉を話しているのではなく、言葉が人間を通して話しているといってもいいのではないでしょうか。それを神的言語といってもいいかもしれません。日本で昔、このことを理解した人たちは、言葉を大切にして「言霊」と表現しました。言葉がそのまま出来事になるという意味で、真(まこと)といわれ、その真を生きた人を命と書いて「みこと」と読ませました。ですから、イエスさまのことを「みこと」と呼んでもいいのかもしれません。言葉には、それが現実となっていく力があると考えたのです。ヘブライ語で言葉はダバールといわれ、出来事という意味があります。神の口から出ることばは、必ず出来事となるということに由来しているといわれています。しかし、これは神の言葉であるから、出来事になるのではなく、言葉そのものが出来事になる力をもっているということだと思います。その意味では、言葉というものが神であるとか、いのちそのものであるといっていいのだと思います。これはキリスト教の発明ではないのです。

実際、わたしたち人間は言葉を使うことなしには生きていくことはできません。すべてを言葉で考え、言葉で意味を理解し、言葉でコミュニケーションをとっています。そして、言葉には人のこころを動かす力があるのです。人を救うことができるのは言葉であって、その意味では言葉こそがいのちであるといっていいと思います。その代わりに言葉は人を傷つけもします。このように人間に意味を与え、人生を歩ませ、生きさせるのは言葉であるといっていいと思います。わたしたちは言葉なしには生きられませんが、同時に言葉によって惑わされ、苦しめられているのも事実です。人は嘘をつくとか、信じないとか、傷つけるとか人間の根本的なあり方にもとるようなことを、わたしたちは言葉によってやっているのです。そして、わたしたちは言葉の世界から、つまりこの迷いの世界から自分の力で出ることはできないのです。

その言葉によって迷い、傷つき、苦しんでいるわたしたち人間に、真実のことばが言葉となって語りかけるという出来事、それがイエス・キリストということなのです。ですから、この御者はことば、真理、いのち、光と呼ばれているのです。すべてのものを創り出す力であり、すべてにいのちを与えるいのちそのもの、すべてのものに遍く届く光、真実、まこと、みこと、真如、法などといろいろな名前で呼ばれています。この御者が人間となって迷いの世界に来られたこと、これが主の降誕の意味なのです。主の降誕は2000年前のベトレヘムでの出来事ではなく、イエスさまが、ことばがわたしとなった出来事なのです。イエスさまはこの世界で迷い続けているわたしとなって、この人生をともに彷徨ってくださるのです。この方の光によって、わたしたちが主の降誕の神秘の深みにいれていただけるように祈りましょう。

待降節第3主日 勧めのことば

待降節第3主日 福音朗読 ヨハネ1章6~28節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は洗礼者ヨハネの証しの箇所が読まれます。ヨハネは「証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た」といわれています。そしてヨハネが証しする光は、「まことの光で、世に来てすべての人を照らす(1:9)」光です。このまことの光はイエスさまご自身をさしています。イエスさまがまことの光であるということは、どのような意味でまことの光なのでしょうか。今日は、それを見てみたいと思います。

 わたしたちは自分の目があるから光が見えると思っています。しかし、光がなかったら何ひとつ見ることはできません。それこそ、わたしたちは闇そのものになってしまいます。わたしたちは光に照らされているからものが見えるのです。どんなに強い視力があったとしても、光がなければものを見ることはできないのです。その光というのは太陽のような目に見える光ではなくて、光そのものであって、決して肉眼で見ることはできない光です。このような光は、眼がものを見ることを可能にする基礎、前提のようなものであるといったらいいでしょう。この光は、わたしたちが世界を認識するために不可欠なものなのです。ですから、わたしたちが光を見るのだと思っているかもしれませんが、そうではなく、わたしが見えることを可能にしているのが光なのだということなのです。まさに、創世記で「光あれ」といわれた光のことであって、それは太陽の光をさしているのではなく、すべてのことを可能にする根源的な光、いのちそのものともいえるような光なのです。そして、聖書の中で、イエスさまご自身はこのような光であるということが述べられているのです。

わたしたちは、わたし自身が聖書を読んで、信仰をもって、わたしが何かをしてイエスさまを探し求めていくのだというふうに考えていますが、そうではないのです。わたしがイエスさまを信じることによって、イエスさまがわたしを受け入れてくださるとか、愛してくださるとか、救ってくださるということではないのです。イエスさまは、わたしがイエスさまを探し求める前に、信じる前に、イエスさまはイエスさまであって、そのお名前の通り「あなたを救う」でいらっしゃって、「あなたは愛されて、ゆるされて、救われて、生かされているのだ、どうかそのことに気づいてくれ」といっておられるということなのです。わたしがイエスさまを信じるとか認めるとかに関わらず、イエスさまという光の中にわたしたちは今すでにいるのだという意味なのです。しかし、わたしたちはイエスさまの光の中に自分がいるのだということがなかなかわかりません。ある意味で当たり前となっているからです。わたしたちは、常に光の中にあるので、光によって照らされているということがわかりません。

わたしたちは闇というものに出会って、はじめて光のありがたさに気づかされます。わたしたちがイエスさまという光の中にいる、わたしたちはイエスさまに愛され、ゆるされ、救われている、イエスさまのいのちによって生かされているということを何度聞かされてもわからないのです。わたしは光の中にいながら、光であるイエスさまを探して、見つけ、信じようとしているのだともいえるでしょう。あるいは、光の中にいながら、わたしが光に対して背を向けているというか、わたしが眼を閉ざして、光を拒絶しているのだともいえるでしょう。このことを闇とか、無明、罪というふうにいっているのです。光そのものについて、わたしが自分の頭で考えてもわかるはずがありません。光の中にいるものが、光について考えることなどできないからです。しかし、一部の天才たちがそのあたり前にことに気づき、それを探求してきました。それが宗教であったり、科学であったりするのです。宗教も科学も、何か人間の研究や探求によって新しい事実を発見することのように思われていますが、そうではなく、すでにある古い真理を発見しているのに過ぎないのです。誰かが、光の中にいながらも闇となっているわたしたちに、光について証しをしていく必要があるのです。今日の洗礼者ヨハネはまさに、闇の中にいながらも、光について知って証しをするものなのだということができるでしょう。

この光であるイエスさまは、聖書の中では太陽のようなものとしてもたとえられています。「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しいものにも正しくないものにも雨を降らせてくださる(マタイ5:45)」 太陽はイスラエルの上にも、パレスチナの上にも同じように等しく昇ります。一方の人には昇って、他方の人には昇らないとか、いい人だけの上に昇って、悪い人の上には昇らないというようなことはありません。しかし、このような太陽の光であってさせも不完全なたとえに過ぎません。なぜなら、太陽の光は影を作り出す光だからです。イエスさまが光であるというとき、それはいかなる影をも作り出さない、明るさそのものの光をさしています。太陽の光は有限な光で、障がい物に当たれば光が吸収されてしまいます。しかし、イエスさまの光は太陽のような物質が発する有限な光ではなく、数量に限りがなく、始まることも終わることもなく、あらゆるものを通り抜け、自由自在で、透き通った、並びない無限の光です。自分が光を発しながらも、すべてのものを光に同化してしまうような、すべて光で覆い尽くし、影というようなものを一切作り出さず、一面光の海のような、あらゆる区別と境界を破壊する、無限無碍の光なのです。

イエスさまは、「わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来られ(12:46)」ました。イエスさまという光が、わたしたちを照らし続けていますが、その光にわたしたちは気がつきもせず、認めることも出来ません。ヨハネがいうように、イエスさまはわたしたちのうちにあって「知らないかた」としてとどまっておられるのです。わたしたちが認められないので、わたしたちにとって闇として体験されてしまいますが、それはイエスさまがおられない闇ではなく、イエスさまがおられることによって引き起こされる闇であるといえるかもしれません。しかしながら、わたしたちがいくら闇であるというふうに感じたとしても、イエスさまはまことの光としてわたしたちを絶え間なく、倦むことなく、照らし続けておられます。イエスさまという光が、「わたしはあなたを決して見捨てることがない」「わたしはあなたを必ず救う」という、わたしたちへの呼びかけとなって、倦むことなく絶えることない永遠の光としてわたしたちに届けられているのです。このことをわたしたちは主の降誕としてお祝いするのです。

*待降節第4主日の勧めのことばはありません。次回は主の降誕(日中のミサ)の勧めのことばとなります。
*また、聖家族の勧めのことばはお休みです。

待降節第2主日 勧めのことば

待降節第2主日 福音朗読 マルコ1章1~8節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

典礼暦年のB年が始まり、これからはマルコ福音書が読まれていきます。マルコ福音書は4つの福音書の中で、イエスさまの死後30年頃に最初に書かれたものであり、「神の子イエス・キリストの福音の初め」ということばで始まります。マタイやルカ福音書と違って、イエスさまの誕生や幼年物語について一切触れていません。福音書は、時系列でイエスさまの生涯が描かれ、伝記風に描かれていきます。読み手であるわたしたちは、福音書を通して、イエスさまの生涯について追っていくのだとわたしたちは思って読みます。しかし、福音書というものはひとつの文学様式であって、時系列の物語という形式をもちいながら、読者に必要なメッセージを伝えようとしているものなのです。文学にはいろいろなスタイルがあり、そこには著者の意図というものがあって、そのメッセージを伝えるために様々な文学様式が用いられます。詩、歌、物語、神話、伝記、歴史書、エッセイ、フィクション、ルポルタージュ等々もそうです。福音書というものも、ある時系列による物語、神話などのスタイルをもちいた文学なのだということを先ず押さえておく必要があります。大切なことは、わたしたちは著者の意図を、神のことばとしてきちんと受け取るということなのです。神のことばということは、著者は聖霊ということなのですが、その聖霊の意図というものがあるということです。

それでは、聖霊の意図は何かというと、マルコは「神の子イエス・キリストの福音」というふうに簡潔にその意図を要約しました。ここに書かれていることは、神の子であり救い主であるイエスという方が告げられた“よい知らせ”であるということになります。よく、聖書の中に書かれている様々な物語、例えばイエスさまの奇跡譚やたとえ話をそのまま実話として捉えて、そのまま信じることが大切なんだというようないい方がされることがあります。しかし、福音書はイエスさまの行動や語録の報告書ではありません。それを勘違いすると、福音書の字面を追うことになってしまい、イエスさまの意図とずれたものを受け取ってしまいかねません。マルコはそのようなことをできるだけ避けるために、イエスさまの出自や幼年物語、人となり等という、皆の興味があるようなことはほぼ省き、できるだけイエス・キリストによってもたらされたよい知らせを浮き彫りにするように努めました。ですから、おそらく当時皆が知っていたようなイエスさまの誕生物語や幼年物語にはあえて触れず、洗礼者ヨハネによって始まるイエスさまの宣教活動に直接入っていくのです。しかし、それであっても当時のマルコの生きていた時代の教会の状況、人々の関心事、時代の雰囲気や人々のものの考え方が反映されています。これが人間の言語活動の限界です。イエスさまによってもたらされたよい知らせを福音、その働きを神の国というのですが、それを人間のことばで言い表すこと自体不可能なのです。ですから、イエスさまはそれを主にたとえ話として語られました。つまり、神のことばを人間の言葉に翻訳して話されたということなのです。

洗礼者ヨハネの描き方も単純です。マタイはヨハネを、人々を救い主に備えるための、厳しく厳格な旧約の最後の預言者として描きます。ヨハネは民衆に「蝮の子等よ」と呼び掛けます。ルカに出てくるヨハネは、マリアの従姉エリザベットの息子として描きます。マルコはヨハネの出自についても、何も触れません。このように描き方は夫々です。マルコにとっては、イエスさまやヨハネの出自について関心がありませんでした。おそらくそれが真実でしょう。マルコ福音書では、マリアについても、偶然にイエスのことを「マリアの子」というイエスさまの出自を辱めるために使うために出てくるだけで、福音書において、また救いの歴史におけるマリアの役割に何も注目していません。このように、マルコ福音書の特徴は、イエスさまによってもたらされた福音、よい知らせ、救いが何であるかを明らかにすることでした。

それは、つまりイエスさまこそが福音であり、よい知らせであり、救いであり、いのちであるということに尽きるといえばいいと思います。それが、「神の子イエス・キリストの福音の初め」といわれていることであるいえるでしょう。マルコが関心のあったのは、イエスさまだけです。イエスさまがすべてであって、イエスさまがわたしのところへ来られることが即救いであるということなのです。イエスさまがわたしたちの救いのためにわたしのところに来られること、そしてそのイエスさまの働きである神の国以外のものは何も必要ではないのです。わたしたちはただ、そのイエスさまをお受けすることだけで十分なのです。わたしたちの業も、心構えも徳も必要ではないのです。もちろん何もしないでいいといっているのではありません。本質を見極めるということです。そのことを、わたしたちはB年のマルコ福音書を読むことによって深めていきたいと思います。