カテゴリー別アーカイブ: 全体向け

四旬節第2主日 勧めのことば

四旬節第2主日 福音朗読 マタイ17章1~19節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の聖書の箇所は、イエスさまがガリラヤでの宣教活動に終止符を打って、ユダヤ教の本山のエルサレムに向かう旅の途上での出来事、主の変容といわれる箇所です。そこでイエスさまの栄光が現されると同時に、弟子たちの不信仰ということもあらわにされていく箇所です。山の上で、弟子たちは「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という呼びかけを耳にします。これはイエスさまが洗礼を受けられたときに、イエスさまが内的に聞かれたことばでもあります。

長い教会の歴史の中で、イエスさまはいつから神の子であるかということが議論されてきました。ある人たちは、洗礼のときからだとか、変容のときからだとか、死と復活を通して神の子になられたのだとかいうような議論がなされてきました。もちろんわたしたちは、イエスさまが生まれながらにして、神の子であることを知っています。このことはよく考えればあたりまえで、人間の場合でも同じです。人間は生まれたときにはじめて、誰かの子となるのではありません。子であるということは、難しいいい方でいうと関係概念であって、親があってはじめて子ということばが生まれてきます。その反対も然りです。わたしたち人間で親にならない人たちというのはありますが、わたしたちは必ず誰かの子です。子であるということは必ず親がいるということになります。子になるのは生まれたときでも、はじめてお父さん、お母さんの名前を呼んだときでもありません。まして、わたしが子であると意識したときでもありません。わたしたちは皆、生まれながらにして子として生まれてくるのです。ということは、わたしたちは誰もが子である、つまり生まれたもの、生かされているものであるということなのです。その事実に、あるときにはっと気づく、お母さんに自分の名前を呼ばれたときに、子どもがお母さんの名前を呼んだとき、また根源的ないのちに呼ばれていることを意識したときに、自分が子であったことに気づくのです。

それでは、その気づきはどのように与えられてくるのでしょうか。わたしたちは自分の力で、子であることに気づくことはできません。先ず、お母さんが絶えずわたしを呼び続けているという事実が先にあって、わたしはその呼びかけを聞き応えようとすることによって、その気づきが起こるのです。わたしたちの親子という関係は、イエスさまを通してわたしたちが根源的ないのちに呼ばれていることに気づくための予行練習のようなものです。この地上の親子関係がすべてではないのです。つまり、わたしたちが子であるということは、単に人間としての両親がいるということだけではなく、あなたがたにはあなたがたを生み出し、いのちを与えて支え続けている真の親がいる、その真の親に気づいて自分をまかせなさいといわれているのです。人間の両親は、たまたまその子を預かっただけにすぎないのです。それなのに、子を自分の所有物のように勘違いしている親が何と多いことか、それが現代社会の問題であるのです。

ですから、わたしたち人類は皆、生まれながらにしてイエス・キリストにおいて神の子なのです。洗礼によって神の子になるのではありません。絶えまなく大いなるいのちによって生み出され生かされ、はからわれていることが、わたしたちが神の子であるということに他なりません。わたしが努力して、頑張って子の身分を獲得したのではないのです。子であるということは、すでに永遠において与えられていることなのだということです。イエスさまが神の子であるということの意味は、神さまである方が人間となることで、人間の本質を人間に教えてくださった、人間の真実、人間のいのちの根源、人間の歩むべき道をしめしてくださったということなのです。ですから、イエスさまは「道、真理、いのち」と呼ばれています。イエスさまは人間になって、生まれるものとなって、人間の苦しみ、悩み、迷い、罪となって、わたしの人生となってくださったのだということなのです。

ですから、今日の変容の箇所で「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」といわれるのは、イエスさまを通して、わたしたちに神さまが呼びかけている、その呼びかけがわたしに届いているということなのです。わたしたちは、その呼びかけが届いていることを確認したから、そのことを信じたから、わたしたちは神の子になるのではありません。神さまの呼びかけが届いていること自体が真実、信仰なのです。その真実にふれたものはイエスさまの真実とひとつになります。だから、もはやわたしが信じるのではなく、キリストがわたしのなかで信じるのだといえるでしょう。どうしたら信じられるか、どうしたら呼びかけに応えられるかではなく、何処までもイエスさまから逃げようとする、この逃げるわたしを追いかけてきて決して離さないというイエスさまの真実だけがあり、わたしたちはそのことを知らされる、神の子であることに気づかされるということなのです。わたしがどこへ行こうとも、どこに隠れようとも、イエスさまはついて来られます。

パウロはそのことを「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです(ガラ2:20)」といいました。この気づきがないなら、洗礼を受けようと、ミサに何回参加しようと、何度聖体を頂こうとも、わたしたちはイエスさまがわからないままです。何と無駄な時間を過ごしていることでしょうか。わたしたちは、頑張って努力して神の子になるのではありません。まして、洗礼を受けた人だけが神の子になるのでもありません。わたしたちは神の子であることに気づかされたから、洗礼を受けたのです。そこを勘違いしてはならないのです。

実に、今日の第2朗読でいわれているとおりです。「神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく、御自身の計画と恵みによるのです。この恵みは、永遠の昔にキリスト・イエスにおいてわたしたちのために与えられ、今や、わたしたちの救い主キリスト・イエスの出現によって明らかにされたものです(Ⅱテモテ1:9,10)」。イエスさまによって明らかにされた真実、生かされているという真実がわたしたちの先にあるのです。わたしたちはそのことに気づかせていただくことが信仰なのです。そして、その真実のことばは、今わたしたちに届いているのです。その真実のことばを、わたしたちが聞くことを信仰というのです。そしてその輪が広がっていくことを教会、福音宣教というのです。

四旬節第1主日 勧めのことば

四旬節第1主日 福音朗読 マタイ4章1~11節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

四旬節に入りました。今日読まれる箇所は、ヨルダン川で洗礼を受けられたイエスさまが、霊に導かれて、荒野に滞在される出来事が語られていきます。荒野というと、わたしたちはいろいろなイメージをもつと思いますが、日本で荒野というと荒れ果てた土地のことや休耕田を考えるかもしれません。しかし、イスラエルでの荒野は、まったくいのちを寄せ付けない、人が一度迷い込んでしまうといのちが危機に晒され、死と向き合わなければならなくなるような不毛の土地をさしています。そのような荒野は、わたし自身のいのちが脅かされ、わたしがわたしであると思っているような些末なこと、こだわり、大切にしていること、社会的な地位、役割、家族的な役割、宗教などもすべて役に立たなくなる世界です。

わたしたちは通常、社会の中で生きているとき、わたしが何者かであるということを他者との関わりの中で確かめて生きています。親であるとか、子であるとか、夫婦、兄弟姉妹といった血縁関係、会社では上司・部下、同僚、地域ではお隣さん、学校では教師・生徒、教会では信徒、司祭、司教、役員など、また性別、出身地とか等などです。つまり、わたしたちは自分の戸籍や住民票に書いてあったり、免許書やパスポートに書いてあったり、名刺に書いてある役職や名前が自分であると思い込んで生きています。しかし、荒野というところは、そのような自分、つまり自分が自分だと思っていることが一切通用しなくなるところなのです。通常、わたしたちは立場だとか、役割だとか、身分だとか、名前とかが自分であると思って生きています。しかし、それが通用しないところが荒野です。イエスさまが霊によって導かれていかれたところは、そのような場所なのです。そこではイエスさまも神の子であるということが通用しません。そこで悪魔は「あなたが神の子ならば…」といって誘惑してくるのです。悪魔というと悪いものというイメージがあるかもしれませんが、その意味は「誘惑するもの」です。つまり、わたしたちが自分のことを何ものかのように思っている、しかし本当にそうなのかというところを突いてくるのだといえるでしょう。荒野での滞在を、悪魔の試練のように思われていますが、そうではなく、わたしは一体何ものかが問われる場であるといったらいいでしょう。それが荒野なのです。あなたは自分のことを、○○だと思っているかもしれないけれど、それは本当にそうなのかということが問われるのです。この○○には、わたしたちのありとあらゆる立場、役職、身分、性別、名前などが当てはまります。わたしはキリスト者だとか、社長だとか、役員だとか、司祭だとか、司教だとか、先生だとか、シスターだとか、自分の名前だとか、そんなものがすべて吹っ飛んでしまうのが荒野なのです。

今日の第1朗読では、創世記の人間の創造が描かれています。そこで、神さまは人間を土の塵で形作って、その鼻にいのちの息を吹き込まれたと書かれています。まったく寓意的な話であると思われるかもしれませんが、あながち作り話でもないのです。この地球のありとあらゆるものを構成する要素は、酸素、ケイ素、鉄、アルミニウム、リン、カルシウム、マグネシウム、カリウム、ナトリウム、水素などであり、それはさらに細かい素粒子、クオークによって作られています。その最小の構成要素のその時々の集合体のひとつが人間であり、わたしなのです。ですから、わたしがわたしだと思っているようなもの、意識というようなものは、わたしが誕生してから出来てきたものに過ぎません。わたしが誕生する前に世界はすでにあったのです。考えてみると、わたしが生まれたときに、わたしなどという意識はありません。わたし自身の始まりなどわたしにはわかりません。わたしは何も知らないのです。だれも「俺は、今生まれるんだ」などと意識して生まれてくるということはありえないのです。すでに、わたしより先なるものがあったということなのです。そして、わたしより先にあったものに、わたしという自意識がくっついてきたのです。わたしが意識したときにわたしが始まったのではなくて、わたしの意識より先にあるものがあるのです。しかしながら、人間は意識が生じた瞬間に、わたしの意識より先にあったものをわたしの意識の支配下にあるものとして捉えようとします。つまり、自分がそれを支配しているかのように思うのです。そして、それを錯覚して、わたしの意識の世界がすべてだと思い、それを自分の統制下におこうとするのです。これが、自分本位の世界、自己中心性、原罪の正体です。

それに対して創世記は、わたしを形作っているものは、わたしの中にあり、またわたしの外にもある土の泥であって、それをわたしはわたしであるといっているのにすぎないのだといいます。わたしの自意識の前には、わたしを超えたものがあるのです。いのちの息が、その土の塵の集合体に吹き込まれて、わたしがわかってもわからなくてもそのいのちがわたしを支えているのです。わたしたちがするべきことは、そのような泥にすぎないわたしを推し広げていくことではなく、その内なるいのちに己をまかせることなのです。しかし、そのいのちがなかなかわからなくて、そのいのちの中で迷い、善悪を決めて、区別したり、幸不幸を作り出したりしているのがわたしたちです。わたしたちはいのちに抱かれているのにも関わらず、そのいのちに抗い、暴れまわっているのです。

四旬節は、霊がわたしたちを荒野へといざなう恵みのときです。荒野では、わたしがわたしであると思い込んでいるものが解体されていきます。そうすると、今までわたしだと思い込んでいたわたし、わたしたちのありとあらゆる立場、役職、身分、性別、名前が解体されていきます。そして、そこにある根源的いのちと出会うこと、これが宗教です。わたしがわたしのことをわかって、イエスさまと出会うのではありません。自分が解体されることで、わたしたちはイエスさまと出会うのであり、またイエスさまと出会うことで自分が解体されるのだともいえるでしょう。そのときわたしは最も根源的なわたし自身に出会うことになるのです。この四旬節、わたしたちは意識的に荒野を作り出して、荒野を生き、わたしたちが霊の導きに従って歩めるように祈りましょう。

年間第6主日 勧めのことば

年間第6主日 福音朗読 マタイ5章17~37節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の箇所は、他の共観福音書にないマタイ固有の箇所になります。そこから、マタイの教会の抱えていた問題がわかります。彼らの多くはユダヤ教からキリスト教になった人たちで、ユダヤ教側から決別されて、自分たちの今までのユダヤ教に由来する信仰を見直し、新しいイエスさま中心の生き方に向かっていかなければなりませんでした。自分たちは、一体何者なのかを問わざるをえなくなっていきました。

マタイ福音の中でのイエスさまの話し方は、「あなたがたも聞いているとおり」で始まり、「しかし、わたしは言っておく」というスタイルになっています。それは、旧約の律法ではこのように教えられていたけれど、わたしは新たにいうといういい方です。さらに、イエスさまは「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファイリサイ派の人々の義にまさっていなければ、決して天の国に入れない」といわれます。それでは、律法学者やファイリサイ派の人々の義とは一体どのようなものだったのでしょうか。今日の箇所を見ると「殺してはならない」「姦淫してはならない」「偽証してはならない」などという十戒の教えがまず述べられます。十戒の教えは、「目には目を、歯には歯を」でよく知られた同害報復法のハムラビ法典とともに古代社会の法規として知られています。ハムラビ法典は、社会秩序と人間のいのちを守るために、犯された行為に対して同等の償いを要求する古代の人間社会の法規です。ハムラビ法典は、お互いが必要以上の復讐に発展しないようにする人間の知恵でもあったわけです。これは現代にいたるまでの一般的な人間社会の正義であり、ユダヤの律法や十戒はその人間の正義を宗教化し、神法化したものです。

ここでいわれている人間の正義は、どこまでいっても報復的正義、配分的正義であり、わたしたちの今の社会もその正義で成り立っています。罪を犯したら罰を受ける、また反省させる、罪に釣り合った償いを受けさせるという考え方です。それは勧善懲悪、因果応報という考え方であり、多くの宗教がその倫理観にもとづいて教えを説いてきました。ですから、頑張れば報われる、努力すれば認められるが怠ければ報われない、罪を犯せば罰せられるという極めて単純な考え方が特徴となっていきます。これはどこまでいっても、人間の理性で考えた正義であって、律法学者、ファリサイ派の人々の正義はこれであるということです。人間にはわかりやすいし、誰もが受け入れやすい考え方であり、説得力のある教えです。

しかし、イエスさまは「あなたがたの義がファイリサイ派の人々の義にまさっていなければ」といわれました。それではイエスさまは、わたしたちに律法学者やファイリサイ派の人々より立派な人になれといわれたのでしょうか。「右の頬を打たれたら、左の頬をも向けなさい」的なことでしょうか。しかし、イエスさまがいわれるのは、律法学者やファリサイ人よりさらに上の正義を目指しなさいといわれたのではないと思います。わたしたち人間の考える正義とは、所詮は人間の頭で考えられる理屈で納得できる正義なのですが、神の国の正義、イエスさまがいわれる正義は、人間の側からのすべての理由や説明がまったく通用しないということなのです。どういうことでしょうか。

パウロはローマの教会の手紙のなかで次のように書いています。「律法が入り込んできたのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました(ロマ5:20)」。パウロの考えでは、律法が与えられたことで罪ということがより一層意識されるようになった。だから罪が増し加われば、それなりに罰も償いも重くなる。しかし恵みの世界では、罪が増し加われば加わるほど、神の恵みはなおいっそう満ちあふれるのだというのです。罪が多くなり重くなれば、それだけそのゆるしは大きくなり、恵みは満ち溢れるということです。これが、神の国の正義なのです。わたしたちは何度となく、このパウロのことばを聞いています。しかし、いくら聞いていても、どうしても人間の正義、理屈と合いません。わたしたちは、頑張ればそれなりに認められたいし、悪いことをした人は罰を受けて当然だと思っています。自分の嫌いな、また自分を害する人がゆるされて救われるなどということを、わたしたちは到底受け入れられないのです。イエスさまがゆるしても、わたしは認めないしゆるさないということになります。しかし、イエスさまの考え方、神の国の正義は、わたしたちの考えとまったく違っているのです。神の国の正義は永遠の絶対平等であり、わたしたちはそれを愛と呼んでいます。それは、頑張ったものは報われて、罪を犯し悪いことをした人は罰せられるというようなこととまったく関係がない世界なのです。わたしたちは、やはり頑張った人は評価されて、悪い人は自業自得だと思いたい、しかしその考え方がまったく通用しないのがイエスさまの正義なのです。だからわたしたちの頭で神の国の正義を理解できるはずがありません。

ですから律法学者やファリサイ派の人々にまさった義というのは、彼らの正義の捉え方の延長線上にあるより立派な正義、例えば敵への愛とかではなくて、人間の正義という物差しをまったく超えた正義、まったく人間の理由や理屈が通用しない神さまの正義、神さまのあわれみのことなのです。わたしは、なぜイエスさまから愛されているのかを考えてみてください。それは、わたしがイエスさまの愛にふさわしいからでしょうか。そうではありません。わたしがふさわしいから、愛してもらうなどと考えるのは人間の正義の捉え方です。イエスさまが愛するとき、与えるとき、ゆるすとき、理由などないのです。それはあたかも水が高いところから低いところに流れるように、自然でただそのままで、愛とはそういうものだということなのです。わたしが生まれてきた理由も、死んでいく理由もありません。ただ生まれて、生きて死んでいく、そこに理由などありません。わたしたちは自分が生きていると考えがちですが、生きるということはわたしの努力などによるものではありません。あるがままなのです。これが神さまの正義、愛のありさまなのです。

大きないのちの世界は、わたしたちが考える自分と他人の区別がなくなった世界、生と死がなくなった世界です。いのちに上等も下等もありません。神の国は、そのようないろいろな区別、隔てがなくなった透明な世界のことを指しているのです。イエスさまはそのことを、まことの義といわれました。自他、生死のある世界は、やはり暗い苦しみの世界でしかありません。自分さえよかったらいいとか、他人のことは知らないとか、いつまでも生きたいとか、そうすると自分が病気になったり、老いたり、死ぬことは悪になります。これは苦しみの世界です。これが人間の考える正義、理屈なのです。しかし、わたしたちはもっと大きないのちそのものに生かされているのです。にもかかわらず、わたしたちは人間の正義という小さな枠組みの中に閉じこもっていることに気づかないのです。人間の正義が全く通用しない大きな正義、愛といってもいい、そのような大きないのちが、この小さなわたしを生かしているのです。それが神さまの正義、天の国、神の国なのです。ですから神の国(天の国)は場所ではなく、時間の中にあるのでもなく、わたしたちを生かしている働きそのものなのです。

年間第5主日 勧めのことば

年間第5主日 福音朗読 マタイ5章13~16節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の福音では、「あなたがたは地の塩、世の光である」といわれています。今日の箇所で大切なことは、イエスさまは「あなたがたは地の塩、世の光である」といわれたのであって、「あなたがたは地の塩、世の光になりなさい」といわれたのではないということです。多くの場合、わたしたちは聖書のいろいろな箇所を読むとき、それをイエスさまからの命令、掟、「○○しなさい」、あるいは「○○になりなさい」というように読んでしまいます。確かに、聖書の中で「○○しなさい」という箇所もあるのですが、そうするとイエスさまの教えというものは、道徳的な規範や掟を指示したということになってしまいます。道徳を教えるだけであれば、いろいろな時代の偉人たちの教えもあり、旧約聖書の律法だけでも充分なはずです。イエスさまが教えたことは、道徳や人の道ではないのです。今日の箇所も間違って読むと、あなたがたは頑張って地の塩、世の光になりなさい。そうしてあなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。そうすれば、人々はあなたがたの立派な行いを見て、神さまをあがめて、人々が教会に来るでしょう、といった間違った自己中心的な宣教観をもってしまうことになります。その時点で、教会は慈善団体かNPO法人になってしまいます。確かにその方が多くの人にわかりやすく、教会でもそのような謳い文句でことがなされることが多いように思いますが、それでは宗教ではなくなってしまいます。

イエスさまがいわれたのは、あなたがたは自分の力で頑張って世の光になれ、地の塩になれ、人々の模範になれ、奉仕者するものになれ、社会貢献しなさいといわれたのではないということです。実はイエスさまとの関わりを深めていけば、わたしが世の光、地の塩になるなんてことは間違ってもあり得ないことが知らされてきます。なぜなら、イエスさまと出会えばわたし自身が知らされ、わたしたちが自分のこころをどうにかして、イエスさまの方に近づこうとすること自体が迷いであるということが知らされてくるからです。いろいろな努力や修行をして自分のこころを何とかしていこうというのは迷い、罪の中で最たるものは傲慢に他なりません。方向がまるで違うのです。わたしが世の光、地の塩になるのではなく、世の光、地の塩であるイエスさまご自身が、わたしを通して現れてくることを宣教というのです。イエスさまがわたしの中で働かれることが宣教であって、わたしが自分のこころをどうにかしようと思っていることが間違いなのです。その間違いに気づくときに、ふっとわたしの中でイエスさまが働いて、光を輝かせてくださる、塩味をきかせてくださるということなのです。宣教といいながら、わたしというものが前面に出ているのであれば、それは自我の匂いがプンプンして、イエスさまは働けませんし伝わりません。

「伝わるはよし、伝えんとするは悪し」ということばがありますが、光は自ずから自然と周りを照らしていきます。「『山の上にある町は、隠れることができない』『ともしびは、燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものをすべて照らすのである』」というときの「そうすれば」は恣意的な結果を意味することばではなく、「自ずから」という意味です。光は、頑張って周りを照らしてやろうとかいうような自我はありません。ですから自我の匂いも、己のはからいもありません。「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」と訳されている言葉は不正確な訳であって、「あなたがたの光が人々の前で輝くようにせよ」という意味であって、わたし個人の恣意的な働きを命じるものではなく、わたしに与えられている光そのもののもつ自ずからの働きを発揮させなさいという意味なのです。わたしたちはその働きを妨げないようにということなのです。

イエスさまは「あなたがたは、頑張って、努力して、地の塩、世の光になりなさい。そして、頑張って神の国をいい広めなさい」といわれたのではありません。そうではなく、「あなたがたは気づいていないかもしれないけれど、あなたがたは地の塩、世の光になっている。あなたがいるというそのことだけで、あなたの存在は他の人を生かし、光となっている。あなたは他の人、この世界、この宇宙のためになっている。同じように他の人々も、他のいのちもそうだ。そして、あなたも他の人から生かされ、光を受けているのだ」という意味なのです。このようなわたしたちとこの世界の、この宇宙とのあり方をイエスさまは明らかにしようとされたのです。塩を塩足らしめているのは、塩味を感じるものです。塩味を感じるものがあってはじめて、塩は世の塩となるのです。光を光足らしめているものは、光を受けるもの、光によって照らされるものです。光を感じるものがあってはじめて、光は世の光となるのです。この世界で何も自分ひとりだけで存在しているものはありません。すべては、お互いの繋がりの中に生きているということなのです。

わたしたち人間も、自分ひとりだけで生きていくことはできません。わたしの体内にいる何十兆個の細菌やウイルス、空気、水、光、ありとあらゆる物質を構成する素粒子等を排除し、「わたしが」と意識している存在だけでは生きていくことができないのです。わたしとこの世界はすべて繋がっており、わたしたち人間が勝手に環境と呼んでいる周りすべてのものがわたしを形作っており、環境なしにわたしは存在し得ず、わたし自体が環境、生態系のひとつなのです。そしてこの全宇宙とわたしとは繋がっており、このわたしひとりを生かせるために全力で働いてくれているのです。そのことがはっきりわかると、わたしの中で働いている光も塩味もわたしのものでないことがわかります。そのことに先ずあなたが気づき、わたしたちは生かされている、そしてお互いに生かし合っている、そのことを皆に明らかにしなさいということなのです。その気づきを失わせるものが、「わたしが」という意識であり、その「わたし」という意識が、わたしと「わたしでない」世界とを分け隔ててきているのです。この「わたし」を破る働きが、神の国の福音に他ならないのです。

神の国の福音は難しいことではありません。難しくさせているのはわたしが何とかしようとするわたしの思い、わたしのはからいです。わたしたちが地の塩、世の光にならなければならないと思わなくても、わたしたちはすでにイエスさまの光によって照らされ、塩味をつけられているのです。それはあたかも太陽の光を受けて輝く月のようなものだともいえるでしょう。月が輝いて見えるのは太陽の光を受けているからであって、月自体が輝いているわけではありません。たとえわたしたちが、照らされている、塩味をつけられていると感じないとしても、確かにわたしたちはイエスさまによって照らされ、塩味をつけられているのです。それがイエスさまの働きであって、わたしたちの思い、感覚とは関係がないからです。そのことを、先ずわたしが気づかなければ、わたしは闇の中に沈んだままです。しかし、そのことに気づき、そのことを味わうときに、光はわたしを通して自ずから広がっていくのです。わたしたちにとって大切なことは、光であるイエスさまによって照らされたままであること、真理であるイエスさまによって塩味をつけられるままになることなのです。

年間第4主日 勧めのことば

年間第4主日 福音朗読 マタイ5章1~12節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の聖書の箇所は真福八端といわれる箇所です。あまりにもよく知られた箇所ですが、最初に書かれたマルコ福音書に並行箇所はなく、イエスさまに由来しているとはいえ、マタイ共同体の教えを編集したものであると考えるのが一般的です。その特徴は、「あなたがたも聞いているとおり、○○と命じられている。しかし、わたしはあなたがたにいう」というように、イエスさまを新しい律法の制定者と描いていることにあります。しかし、イエスさまは律法を守るか守らないということで、人を区別し差別していた当時のユダヤ教のあり方に対して異議申し立てをされたのです。それゆえに律法の違反者として、十字架刑に送られました。それにも関わらず、イエスさまを新しい律法の制定者として描くことには違和感があります。それは、マタイ共同体の固有の状況が強く影響していると考えるのが妥当でしょう。マタイ共同体にはユダヤ教からの改宗者がたくさんいたのでしょう。

イエスさまの宣教の中心は神の国(マタイでは天の国となっており、天国ではない)の告知であって、ユダヤ教の律法に対して新しい律法を制定したり、新しい道徳律を提示したりするような人間的な次元の話ではありません。イエスさまのいわれた神の国は、人間の努力とか恣意によってどうこうする次元の教えではありません。本来的な神と人との関わり、宇宙や世界とわたしたちの関わり、人と人との関わりにわたしたちを目覚めさせるものなのです。つまり、すでにわたしたちが生かされてあるところの世界の本質について、イエスさまは語られたのだということです。ですから、神の国は律法のような命令ですらありません。マタイもルカも省いていますが、マルコは神の国を成長する種としてたとえています(4:26)。そこで、神の国は、「ひとりでに」「おのずから」成長していくいのちのダイナミズムとして描かれています。そして、イエスさまはご自分の存在をもって、神の国を体現していかれるのです。

わたしたち人間の最大の勘違いは、この世界のすべてを人間が理解し、支配し、コントロールし、努力でやっていくことができると思い込んでいることです。しかし、この世界に自分の意志で生まれてきた人は誰もいません。また、頑張って死んでいく人もいません。本来のいのちの世界は「おのずから」なのです。それに最大限に抵抗して抗っている生命体が人間なのです。その抗いは文明の発展をもたらしたかもしれませんが、同時に多くの人々、動植物の犠牲の上に成り立ってきました。それが様々な問題を引き起こしてきたのです。そこで、イエスさまはすべてのものの上に等しく昇る太陽や降り注ぐ雨として、神の国の働きを示されたのです。しかし、人間はそのことが理解できません。イエスさまとともに生活した弟子たちも理解できませんでした。その様子が、福音書の中には赤裸々に描かれています。

イエスさまのことは、イエスさまが亡くなった後、復活したイエスさまと出会ったパウロなどによって、イエスさまの神の国の教えとして再構築されていったといえばいいでしょう。今まで律法を守ることで自分たちは選ばれ、救われ、神によって嘉せられると幾世代にもわたって教え込まれてきたユダヤ人が、そう簡単にイエスさまの神の国の教えを受け入れられたとは思えません。しかし、その弟子たちを大きく変えた出来事が、復活したイエスさまとの出会いです。それは、イエスさまとの直接体験ともいえる出会いの体験でした。それが何であったかを説明することは簡単ではありませが、そこで「聖霊」が働いておられます。わたしたちの努力とか修行とかは関係がない、まったく関係ないとはいいませんが、人間の行為の結果ではなく、本来の世界である神の国はそうであるということに気づかされる体験だったといえるでしょう。

イエスさまの神の国のメッセージ自体は、人間の概念をまったく超えたものです。ですから、真福八端の箇所を道徳やイエスさまの命令であると捉えてしまうと、何もわからなくなります。多くの場合は、努力して修行をして、心の貧しい人になれ、心の清い人になれ、平和を作り出す人になれ、そうすれば神の国に入れるとか、神の国の住人だと話されることがほとんどです。あるいは、社会貢献して、現代社会を変革していくスローガンとして理解されがちです。マタイ福音書は概してそのように捉えられがちな書き方をしているのですが、もちろんそれは大切なのですが、神の国の本質はそうではないのです。一般的に、人間は自分が理解できない出来事や事象に直面するとき、そのことをそのまま受け取るのではなく、自分流にわかりやすく解釈しようとします。つまり、自分が納得できるように、皆に教えやすいように解釈し平坦化しようとします。それは多くの場合、本質を歪曲させることになってしまいます。カトリック教会もその例外ではありません。

ですから、神の国とは何ということを人間に分かりやすく説明することは、当然リスクが伴うわけです。マタイの真福八端の中にはいろんなものが混在していますから、人間が聞いてわかるものもあるし、わからないものもあります。心の貧しい人、悲しむ人、義のために迫害される人は幸いというのはわからない。しかし、柔和な人、義に受け渇く人、憐れみ深い人、心に清い人、平和のために働く人は幸いというならわかる。なぜなら、わたしたちはそのような人になることで神の国に入ることができる、あるいはそれは教会の使命だというように捉えると理解できるからです。しかし、イエスさまがいいたかったことは、努力して頑張ってそのような人になれとか、それは教会の使命であるといわれたのではありません。そうではなく、神の国に目覚めた人、そのことを自覚した人はそのようになる、それが人間の本来の姿、つまり幸いであるといわれたのです。ですから、復活されたイエスさまと直接体験をした人たちは、神の国の真実に目覚め、福音書という時系列のイエス物語がなくても、生き生きとしたイエスさまとの関わりを感じることができ、そのような人と人とがつながりの輪が自然と広がっていきました。しかし、世代が下っていくに従って、神の国の直接体験が言語化され、概念化されていきます。マタイ福音書はイエスさまが亡くなってほぼ半世紀後に書かれていくのです。そこでは、神の国の直接体験が伝わっていくのが非常に難しくなっていき、イエスさまの教えが道徳化され概念化され組織化されていくのです。しかし、イエスさまとの関わりは道徳とか教義、組織ではありません。

大切なことは、真福八端を読むときにこれをイエスさまの命令だとか理想として聞くのではなく、わたしたちを存在の根底において生かし、支えている世界としての神の国の真実として受け取っていくということなのです。わたしたちが頭で理解すること、神の国を自分に引き寄せて理解するのではなく、わたしたちは神の国という真実に自分を投げ込んでいくというか、聖霊の促しによってそれを体感するということなのです。そうすると、頭で考えて教えだからこうしなければならないというのではなく、こころとからだがひとりでに動き出します。神の国が場所とか制度とか掟ではなく、わたしたちを生かしているいのちの働き、営みであるということをわたしたちが体験することになります。そこで、神の国の真実がおのずからわたしたちに明らかにされていくのではないでしょうか。

年間第3主日 勧めのことば

年間第3主日 福音朗読 マタイ4章12~17節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の福音は、イエスさまの宣教活動がどのようなものであったかが語られていきます。イエスさまの働きが、イザヤ書を引用して解き明かされます。「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射しこんだ」と。ゼブルンとナフタリはイスラエルの12部族であり、ガリラヤ湖の西側の地域を支配していました。いわゆるガリラヤ地方のことになります。ソロモン王の死後、イスラエル王国は北王国と南王国に分裂しますが、ゼブルンとナフタリは北王国に属していました。その北王国の首都がサマリアであり、南王国の首都がエルサレムでした。紀元前722年にアッシリアが攻めてきて、北王国は滅ぼされてしまいます。そのとき、南王国は北王国を助けようとしませんでした。その後、ゼブルンとナフタリには異邦人が入植して同化政策が進められました。エルサレム中心の正統性を主張するユダヤ人からみれば、ガリラヤ地方は正統なユダヤ教でないとして差別され、神の約束と救いから除外されたものとみなされていました。ローマの植民地時代にはいり、ガリラヤ地方はローマ帝国の支配に対するテロ活動の温床となり、ガリラヤ地方は相変わらず、神の救いから退けられ除外された地域とみなされていました。イエスさまが生まれた時代のユダヤ教は分断、差別、憎しみという状況を抱えていたのです。

おおよそ、すべての宗教が根底に抱えている問題は差別、区別という問題です。宗教自体が救いということを取り上げる限り、宗教は差別、区別という問題を避けて通ることはできません。つまり、救いということを取り上げるということは、救われたものと救われないもの、聖なるものと汚れたもの、こちら側とあちら側という区別を作り出していくからです。そして、あなたは救われたといわれることで、自分は救われたのだ、特別なのだという意識を人々の中に作り出していきます。そして、自分は救われたという意識が、自分たちは特別であるという錯覚を人々の中に作り上げてしまうのです。こうなると宗教は麻薬となっていき、人々はそのような宗教の教える救いに依存し、また宗教も人々を依存させることになっていきます。そして、自分たちの宗教的グループの教勢を拡大しようと様々な教えや決まりを作り出していきます。イエスさまの時代のユダヤ教というのはまさにそのような状況でした。宗教がこのようなものであれば、そこで説かれる救いはだんだん狭くなり、勧善懲悪の教え、道徳になっていきます。そして、自分たちのグループに加わり、掟を守ることで救われ、そうでない人は救われないという教えが中心になっていきます。ユダヤ人のそのような状況のなかでイエスさまが説かれたことは、一切平等の救いということです。そのことが「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住むものに光が射しこんだ」ということばで現わされていることです。

そこでは、イエスさまの働きが光として表現されています。聖書の中では、神さまの働きが、たびたび太陽や光として説明されています。「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである(マタイ5:45)」。当時の人々にとって、神さまの何ものも区別しない平等な働きを説明するためには、太陽や光のたとえがわかりやすかったのだと思います。確かに、太陽は小さい草花の上にも、大きな樹木の上にも同じように昇ります。この花には光を注いで、この木には光を注がないということはありません。しかし、それでも太陽の光のたとえでは限界があります。太陽の光は、必ず日向と日陰を作り出します。太陽が当たった部分は明るくなりますが、その裏は陰になります。その意味では太陽の光は、すべてのものに平等ではありません。イエスさまが光であるといわれるとき、その光は日向と日陰、光と影という区別を一切作り出さない無量無辺の光であるということなのです。つまり、日向と日陰とか、救われたとか救われないとか、清いとか清くないといった区別を一切作り出さない、すべてのものをそのまま包み込み、すべての闇、罪、悪をも貫き通し、いかなるものも妨げない光であるということです。それが、イエスさまが光であるいわれるときの意味です。光というより、すべてを照らし包み込み、すべてを貫き、すべてを浄める働きであるともいえるでしょう。影を作り出すような有限な光ではありません。その働きを神の国というのです。

しかし、そうなると救いというものを主張する宗教は、自分の中に本質的に矛盾を抱えてしまうことになります。なぜなら、善悪の線を引いて、善人の方に来ることで救われると教えるのが多くの宗教の実態だからです。そこからわかることは、宗教は特定の人たちだけが救われる特別なものだと考えることや、救われるものと救われないものを作り出すこと自体、宗教として矛盾しているということなのです。宗教でありながら、一部の人々の救いを説くとか、自分の救いだけを考えるということ自体あり得ないからです。宗教でありながらそのようなことをいった瞬間に、その教えはまやかしになってしまい、その宗教自体が自己矛盾を抱えることとなってしまいます。イエスさまが宣べ伝えようとされたのは、そのような当時の人たちの間違った宗教観、これこれをした人は救われるとか、こうした人たちは救われないといったような差別や区別を作り出してきた誤った救いの概念を打ち砕くことだったのです。

イエスさまの存在自体が、このように善悪の線を引いて、自分たちは善人の方に入って安心しているような宗教のあり方への根本的な問いかけであったということができます。それは同時に、現代のわたしたち教会のあり方への問いにもなっているのです。イエスさまの登場によって暗闇に光が射しこんだということは、宗教が作り出してきた救いという境界線を破壊し、人間中心の救いの概念から人々を解放する真実が現れたということなのです。その人々を解放する働きを神の国というのです。神の国とは、律法を守った人や洗礼を受けた人だけが救われてはいる天国のようなものではなく、そのような誤った囚われを破壊する働きであり、誤った救いからの解放であるということができると思います。イエスさまの登場によって、そのイエスさまの働き、神の国が、すべてのものに遍く注がれる光として述べられていくのです。

年間第2主日 勧めのことば

年間第2主日 福音朗読 ヨハネ1章29-34節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の福音は、洗礼者ヨハネがイエスさまについてあかしをする箇所です。ヨハネはイエスさまが「世の罪を取り除く神の子羊」であることをあかしします。その中でヨハネは、2度も「わたしはこの方を知らなかった」と繰り返します。しかし、考えてみるとマリアとヨハネの母親のエリザベトとは従姉妹同士です。まったく面識がなかったということは解せません。それにもかかわらず、ヨハネが2度まで「わたしはこの方を知らなかった」と繰り返します。そのことを今日は一緒に味わってみたいと思います。

 わたしたちも、知るということに段階があることは知っています。わたしたちが日本の総理大臣を知っているというとき、また自分の伴侶や親友を知っているというときにも同じように「知る」ということばを使っています。ここでヨハネが使っている「知る」という言葉は、わたしたちが総理を知っているというようなレベルの知るではないことがわかります。総理を知っているというレベルであれば、ヨハネは従妹の子であるイエスさまを知っているというでしょう。それではヨハネ福音書において知るということは一体どういうことでしょうか。ヨハネ福音書の中で、知るということは単に知的な理解や情報として知るということではなく、その人との深い交わりをもっていることを意味します。だからその知り方は、その人の存在の深み、その人のあり方にまで及ぶような知り方です。例えば、わたしが生涯を共にする人と知り合うということは、知るということが、わたしの人生に決定的な影響を与えます。またガンの告知の例を考えてみましょう。わたしはそのことを知ることで、今までの自分ではいられなくなってしまいます。来年の桜は見られるだろうかと、今まで当たり前にように見ていた桜が全く違うものに見えてきます。つまり知るということは、今まで知らなかった真実や現実がわたしの中に入ってきますから、それによって知らなかった以前の自分にはもう戻れなくなります。そして当然わたしの中に変化が起こってきます。

つまり、知るということは部分的であれ、今までの自分が死んで、新しい自分が生まれるというようなことではないでしょうか。ですから、わたしたちがイエスさまを知っていくということは、単に「ああ、イエスさまというのはそう人か」という情報を得るだけではありません。イエスさまはわたしの人生に関わってこられますから、わたし自身がイエスさまから影響を受けますし、同様にイエスさまもわたしから影響をお受けになるということなのです。そのような知り方なのです。ヨハネはそれまではイエスさまを親戚として知っていたのでしょう。しかし、ヨハネは霊の力によってまったく新しい知り方をしていきます。それによってヨハネもイエスさまも影響を受けて、それぞれに新しい人生が始まっていくということではないでしょうか。

ですから、イエスさまと出会った人々は、イエスさまを知ることで人生が、生き方が変えられていくのです。わたしたちは、イエスさまが残された神のみことば(聖書)に触れていくときに、2000年前の書物を読むということだけではなく、今もイエスさまと出会うことができるのです。みことばはそのような不思議な力をもっているのです。そのみことばはわたしたちに影響を与え、わたしたちを変えていくほどの力があるのです。「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです(ヘブライ4:12)」といわれているように、ことばは人を変えていく力をもっているのです。もはや何も知らなかったときの自分には戻れない、神を知るということは、今までの自分ではいられなくなるということなのです。だから知るということは、苦しいことでもあるのです。真実を知ることになるからです。真実を知るということは、今までの自分に死んで、新しい自分に生まれ変わるのですから、正直いって誰でも怖いのです。でも、それが真実、真理を知ることであれば、わたしの死などいとわないほどの感動があるからなのです。

今の世の中を見てみると、リスクあることは一切しないというのが信条みたいで、先の見えないことをやってはいけない、先の読めないことはしない、すべて分かっているところを歩く、安全第一でいいけれど、それでは本当の意味での学びというか、出会いも生じません。そこには人間的成長もありません。わたしたちは、毎日曜日に教会に来てイエスさまのみことばと聖体に養われています。しかし、「わたしは絶対変わりません、今までのやり方でやりますから、どうぞわたしを守ってください」と祈っているのであれば、その信仰は何なんでしょうか。イエスさまは、わたしたちを「わたし体質」から「イエスさま体質」に作り変えようとしておられるのです。イエスさまのみことばと聖体は、わたしたちを内面から根本的にキリストの体に作り変えていく力があるのです。ですから大切なことはその霊の力に自らを委ね、わたしたちを作り変えようとしておられる神の働きに自分を任せていくということなのです。

わたしたちは、イエスのさまのみことばと聖体によって日々養われています。それは別のことばでいえば、わたしたちは今、キリストの体へと変わっていくように、愛を生きるように呼ばれているということなのです。わたしたちが学ぶことを怠らず、神の働きを拒みさえしないのであれば、わたしたちはキリストの体に変えられていくことができるのです。それは死後のことではないのです。今のことなのです。それはなんという慰めでしょうか。わたしの力では、1000年かかってもできないことを、イエスさまは一瞬のうちにそれをしてくださるのです。今日、この真理に気づくためにこころと頭を柔軟にして、神の霊の働きにわたしたちを委ねていくことができるよう祈りましょう。

主の公現 勧めのことば

主の公現 福音朗読 マタイ2章1~12節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

主の公現の祝日は伝統的には1月6日に祝われ、12月25日の主の降誕の祝日より起源が古く、救い主イエスのこの世界への現れを祝う重要な祝日でした。つまり、古代教会ではイエスさまの誕生そのものよりも、イエスさまがご自身をこの世界に公に現れたことが重要なことだったのです。それをもっと神学的に、また本質的に示すものは、主のお告げのお祝い日です。これは公会議前までは、マリアへのお告げの祝日として、マリアのお祝い日になっていました。しかし、お告げのお祝い日はマリアのお祝い日ではなく、「神のみことばが人となり、わたしたちの間に住まわれたこと」を祝う、もっとも本質的なイエスさまのお祝い日なのです。教会の中でお祝い日というと、聖人方のお祝い日だと思われがちですが、根本的なお祝い日は神さまのこの世界への働きかけ、救いの出来事を記念するということです。現在のカトリック教会の祝日は、救いの歴史から微妙に焦点がずれた祝い方をしているということになります。キリスト教のもっとも根本的なお祝い日が復活祭で、イエスさまの受難と死によってイエスさまの愛が永遠化されたことを祝いますが、実はイエスさまの復活によってその愛が永遠化されたのではなく、もともとイエスさまの愛は永遠であることを祝うのです。

わたしたちは神の愛の神秘を、主のお告げ、主の降誕、主の公現、主の洗礼、主の受難と復活、聖霊降臨として、時系列の出来事として祝っていきます。しかし「ことばは肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た」と書かれていること、つまり神さまが神さまであること、つまり神さまが愛であることを人類わたしたちに現されたこと、それが主の公現のお祝い日の意味なのです。神さまが神さまであることが公になることが神の栄光です。神の栄光とは神さまのお喜びであるということなのです。ではどのように栄光が現されるかというと、神さまが人間となってわたしたちの間に宿られたことによってです。つまり、わたしたち人間、またこの世界は神さまの愛を現しているということです。何処の誰であってもその人は神さまのいのちを宿しており、人間と不可分であるこの世界もまた神さまのいのちを宿しており、神さまの愛を現しているということなのです。洗礼を受けてキリスト者になった人たちだけのことではないのです。神さまの愛は、神さまの救いは無限です。しかしどの宗教でも、自分たちの教えが一番正しいとか、自分たちの宗教でしか救われないというようないい方をします。そうすると、せっかくのイエスさまの愛を限られたものにしてしまう危険があるのです。

東から来た占星術の学者たちは、伝統的な絵画では、アフリカ大陸から、ヨーロッパ大陸から、アジア大陸から来た人として描かれています。または青年、壮年、老人として描かれています。つまり、イエスさまは全人類の救い主であることをいおうとしているのです。ユダヤ人やキリスト教の人たちだけのためではありません。彼らは星に導かれて、まことの普遍的真理であるイエスさまを見出しました。この普遍的真理はすべての生きとし生けるものを遍く照らし、生かしている真理です。普遍的な真理は誰のものでもない、すべての人のものです。ですから、そのような真理を見出したなら、いかなる権威、地位、学問、制度といった人間的な何かによって認めてもらう必要がありません。ですから、占星術の学者たちは自分の冠を投げ出して、イエスさまの前に自らを投げ出して礼拝します。そして、もはやヘロデのもとに戻る必要がありませんから、別の道を通って自分の生活の場に帰っていきました。

しかし、多くの宗教がその真理を証しすることから少しずつ離れ、人間的なものに拘り、教えるための宗教、聖職者のための宗教、教団のための宗教に堕落していきました。それは、自分自身が絶えまなく真理に触れることを怠ったがゆえの結果です。その真理を自分たちのものだと思い込み、自分たちのものとして独占しようとするとき、その真理はもはや普遍的な真理ではなく、有限な人間の手垢にまみれたものになってしまうのです。それが、宗教の中の分派、派閥、グループ、偏った教義を生み出していきました。

宗教というのは、一定の教義を受け入れて信じるというようなことではなく、わたしたちが大宇宙、広大無辺ないのち、愛の力によって生かされているということへの自覚に他なりません。イエスさまは、そのような宇宙の広大無辺ないのちそのもの、真理そのものとして、ひとりのか弱い幼子のうちにご自身を現わされたのです。その真理との出会いはわたしたちの努力によるのではなく、恵みによってだけなされます。わたしたちはキリスト教というひとつの宗教を通して、その宇宙的真理に触れさせていただいているのです。ですから、キリスト教だけが素晴らしいとか、カトリックだけが唯一の救いだという必要はないのです。そのようなことをいい出すと、真理の教えは人間の手垢にまみれた抹香臭い教えになってしまいます。イエスさまの教えに、抹香臭い匂いなどあるはずがありません。しかし、現実には人間の匂いがくっついてくるのです。イエスさまの教えを抹香臭くしているのは、人間の匂い、わたしの匂いなのです。

イエスさまは完全な真理、愛の人であるというのは、この「わたし」という匂いがしないということなのです。その姿が幼子です。幼子は、「わたし」という意識をもつ以前のいのちそのものです。ですから、わたしという匂いがしません。ですからわたしが「こうしたら救われる」とか、「ああだから救われる」というような教えにはならないのです。「ああだ」「こうだ」と考えているのは、すべて「わたし」であって、そのわたしが匂いをつけているだけであって、わたしという匂いがない状態を救いというのです。わたしたちは自分でこうしよう、ああしようと思ってこの世に生まれてきたわけではありません。そんなことを思わず、ただあるがまま自然に生まれてきたのではないでしょうか。真理を見出すということは、この存在自体の安らかさをわたしたちが、もう一度体験することではないでしょうか。イエスさまにまかせる、イエスさまを信頼するというはそういうことだといえるでしょう。難しい教え、神学、理屈ではありません。幼いイエスさまは、わたしという匂いのないその姿をもって、真理であるご自身を現しておられます。実にイエスさまは特別なことの中ではなく、あるがままの自然の中に、すべての人の中に、すべてのものの中にご自身を現しておられるのです。

主の降誕(日中のミサ) 勧めのことば

主の降誕(日中のミサ) 福音朗読 ヨハネ1章1~18節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今は復活祭と並んで大きく祝われる降誕祭ですが、その起源は、ローマ帝国でおこなわれていた異教の冬至の祭りをキリスト教化したのが始まりです。キリスト教がローマ帝国に広まっていくなかで、人々の慣れ親しんだ土着の太陽神の祭りをキリスト教に取り込むことで、民衆の支持を得るという政治的な目的で始まったものです。それが今では、キリスト教の2つの大きな祭日となっています。そもそも、初代教会はイエスさまの誕生について関心をもっていませんでした。最初に書かれたマルコ福音書には、マリアの息子という記述以外、イエスさまの誕生についての記述はありません。そこからしても、初代教会はイエスさまの出自について、関心をもっていなかったことがわかります。しかし、復活されたイエスさまとの出会いのなかで、人間イエスさまへの関心がその誕生、出自へと向かわせたというのは自然なことだと思います。教会が最初から祝ってきたのはイエスさまの復活であり、その視点から主の降誕を見なければならないと思います。

主の降誕で祝うのはイエスさまの誕生ではなく、神が人間の救いのために人間となった受肉という出来事です。「ことばは肉となって、わたしたちの間に宿られた」。今日、ヨハネ福音書の冒頭の箇所が朗読されます。聖書学的にはいろいろ議論がある箇所ですが、伝統的にこの箇所は、三位一体の第二の位格であるロゴスの永遠の存在、創造への参与、そしてロゴスの受肉を説明するものとして捉えられてきました。そして、その神的存在であるロゴスといわれるみことばの受肉を、主の降誕として祝うというものです。そこで、今日は神が人となる受肉の神秘の深みに入っていきたいと思います。そして、この受肉という出来事が具体的にどういうことなのかを見ていきたいと思います。

わたしたちが祝うクリスマスのなかで、マリアとヨゼフに見守られた幼子イエス、ベトレヘムの貧しい馬小屋、羊飼いたち、天使たちの歌声など、その温かい心安らぐイメージに親しんでいます。しかし、主の降誕に登場するヨゼフとマリア、ベトレヘムの馬小屋、羊飼いたちは、当時のユダヤの社会のなかで、もっとも弱い立場におかれ、貧しく見捨てられ堕落しているものの象徴でした。ヨゼフとマリアは人口調査のために実家の村に帰るわけですが、マリアは出産間際であったのにかかわらず「泊まる場所がなかった」と書かれています。実家の村ですから、親戚や知り合いの家はいくらでもあったはずです。それにもかかわらず、宿屋にさえ泊まれませんでした。これはどういうことでしょうか。これは、マリアの妊娠がヨゼフと関係のないものであるということを皆が知っていたということです。ユダヤの伝統では家族や一族を大切にします。ですから、普通実家に帰ったら、しかも妻が妊娠しているというのであれば、一族を上げて歓迎します。しかし、ヨゼフたちを受け入れてくれる親戚は誰もおらず、宿屋からも断られてしまいます。ベトレヘムの人々はマリアの子はヨゼフの子でない不義の子、罪の子であると知っていたということなのです。だから、律法に背いた堕落した罪人たちを受けいれれば、自分たちも汚れるとして、人々はヨゼフたちを受けいれようとしなかったのです。そして、どこにも身を寄せるところがなく、イエスさまは家畜小屋で、“罪の子”として生まれてくるのです。このことを、これが第一の現実です。

わたしたちが慣れ親しんだ馬小屋も、決して暖かなものではありません。藁だらけの、糞だらけの家畜小屋です。そこでイエスさまは生まれます。生まれたばかりのイエスさまを寝かせるための暖かなベッドも布団もありません。家畜が餌を食べる汚い餌箱に寝かされたのです。イエスさまの誕生は、誰からも祝福されない、喜ばれない、望まれない誕生であったのです。ヨゼフとマリアにしても、血のつながりのないこの幼子の誕生を心から喜べたかどうかわかりません。聖書は淡々と出来事を描いていきますから、わたしたちはあまりにも綺麗なベトレヘムの馬小屋の風景に慣れてしまっています。しかし、ベトレヘムは、いくら金箔をはっても、所詮糞まみれのベトレヘムなのです。それなのに、ベトレヘムを美化し、神話化し、崇高な物語のような話を作り上げていきます。糞に金箔をはっても、所詮糞なのです。その糞まみれの現実のなかにイエスさまが入ってこられます。というかイエスさまはその現実そのものとなられるのです。ですから、イエスさまはすべての人の救い主なのです。

イエスさまの誕生をはじめに知らされた羊飼いも、堕落した人間の代表でした。アブラハムの時代、羊飼いは、ユダヤ民族にとっては誇り高い仕事でした。しかし、カナンに定住して農耕生活に移行していく中で、羊飼いという仕事は奴隷や貧しい人々、罪人と呼ばれる人たちにさせるようになっていきます。律法を守るという観点からすると、羊飼いたちは移動して仕事をしなければなりませんから安息日を守れません。ですから、律法を破らないと仕事ができないのです。ですから、生きていくためにどうしても罪を犯さざるを得なかった人たちが羊飼いでした。そのような人たちとは、誰も交際しません。教会は正義と平和については問題にして声をあげます。そして、不正義や被害者救済については考えますが、加害者となった人たちや生きることで罪を犯さざるを得ない人たちのことまで考えようとはしません。それは、自分は加害者にはならない、いわゆる罪人にならないと思っているからでしょう。しかし、イエスさまの誕生を最初に知らされた人たちは、社会からも宗教の世界からも堕落していると思われている人たちでした。わたしたちは、自分の境遇を選んで生まれてくることはできません。わたしたちが、今、キリスト者として教会に来ているとしたらそれは偶然であり、たまたまのことなのです。わたしの手柄でも努力の結果などでもありません。わたしは立場が変われば何をしでかすかわからない、そのような存在なのです。

だからイエスさまの救いはすべての人々のものなのです。イエスさまの救いは善意の人々だけでなく、生きるためには罪を犯さないでいられなかった人、またわたしたちを殺そうとして向かってくる人、自分で自分のいのちを絶たなければならない人、そのような誰をも何をも排除しないすべての生きとし生けるもののためなのです。わたしたちが悪とか、罪とか決めつけているものは、実はわたしたちの兄弟姉妹であり、わたし自身であるということなのです。この世界、この宇宙の何ひとつでも欠けていればわたしは存在し生きていくことはできません。わたしたちは皆、お互いに繋がっているのです。イエスさまはそのようなこの世界、この宇宙、このわたしたちとなられたのです。イエスさまはすべての人の救い主ですから、すべてとなられたのです。そのためにイエスさまは、まさにこの苦しみ悲惨に満ちた、加害者であり被害者であり傍観者であるわたしに、堕落した罪人であるわたしのために不義の子、罪の子、怒りの子(エペソ2:3)となられたのです。それは誰も排除しない、何も妨げない、それがクリスマスの意味です。わたしたちはいくら金箔をはっても、所詮は糞まみれでしかないのです。イエスさまは、そのすべての人間の救いのために、悩み苦しむ罪人であるわたしとなって、わたしのなかにお生まれになるのです。イエスさまはわたしとなられたのです。わたしはイエスさまではありませんが、イエスさまはわたしとなってわたしを救われるのです。

わたしたちはこの迷いの世界から自分の力で出ることはできません。迷い傷つき苦しんでいるわたしたち人間に真実のことばとなって語りかけるという出来事、それがイエス・キリストです。ですから、この方はみことば、真理、いのち、光と呼ばれています。みことがはすべてのものを新たに創り出す力、すべてにいのちを与えるいのちそのもの、すべてのものを遍く照らす光、まことの真理といわれます。その方が迷っているわたしたち人間となって、この迷いの世界に来られた、これが主の降誕の意味なのです。主の降誕は2000年前のベトレヘムでの出来事ではなく、イエスさまがわたしとなった出来事なのです。イエスさまはこの世界で迷い苦しんでいるわたしとなって、この人生をともに彷徨ってくださるのです。この方の光によって、わたしたちを主の降誕の神秘の深みにいれていただけるように祈りましょう。

待降節第4主日 勧めのことば

待降節第4主日 福音朗読 マタイ1章18~24節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

 今日はマタイ福音書から、イエスさまの誕生の顛末が描かれていきます。わたしたちは、マタイはヨゼフの立場からのイエスの誕生物語であり、ルカはマリアからの誕生物語であるとか、受胎告知とか、聖霊による懐胎とか、イエスさまはベトレヘムで生まれたとかいろんな事を知っています。しかし、そのようなことをわたしたちがわかっても、またいろんな教会の教えを覚えたとしても、実はそれはほとんど意味がありません。わたしたちを救うのは神学や聖書学、教会の教えではないからです。それをわたしが覚えて帰ったとしても意味がないのです。聖書は神のことばですが、それは人間の手で編集された物語であり、それをまた聖書学者や説教者が解釈し、人間のことばとして説明してしまいます。そのような話を聞いてもわたしたちは救われるということはありません。すべての宗教には教学や聖典がありますが、それはひとえにわたしたちを信仰に導くためのひとつの手段です。これを仏教では方便といいます。カトリック教会でも、神学や聖書の知識を深めることと信仰とは同じではないのです。

カトリック教会はいろいろな教義や教えがありますが、それは単に教義をそのまま信じ込むことが目的ではなく、信仰へと導くためなのです。信仰ということばは、語源からして真理と同義語ですが、その真理、それが宗教の本質ですが、その真理を解き明かし教義として説明しようとしてきました。それがかえってキリスト教の本質が何であるかわかりにくくし、真理を複雑にしてしまっています。難しい教義や聖書を理解すことが信仰ではありません。いくら、教義を勉強しても、聖書の解釈を知っても、それは人間の理性の業であって、信仰とは関係ないどころか、わたしたちの信仰生活の妨げとなってしまいます。教義とか聖書について、わたしたちの捉え方、関わり方について間違えてはならないのです。

わたしたちは人間のことばを通してしか神のことばを聞くことはできませんが、ただ人間のことばを聞いているだけでは救われません。よく、今日のお話はよかったとか、難しかったというような反応を聞きます。それは説教者や講師の話を聞いているだけで、人間のことばを聞いているだけにすぎません。自分にとって心地よいことばか、受け入れやすい話を聞いているだけなのだということになります。確かに聖書にしても、聖書の解き明かしである説教や講話にしても、人間のことばを通してしか神のことばを聞くことはできないわけですから、わかりやすいほうがいいでしょう。しかし、その人間のことばを通して響いてくるもの、つまり人間のことばの中を通って響いてくる神のことばを聞くということが大切なのです。人間のことばを通して、イエスさまが直々にわたしに語りかけてくださる「神のことば」を聞かなければならないのです。そのことは、聞くものも、語るものも心得ておかなければなりません。自分の得手に聞き語ることを、重々戒めておかなければならないからです。

今日の福音で、天使は生まれてくる子をイエスと名付けなさいといいました。そこで天使がいったとか、ヨゼフがどうしたということが大切なのではありません。イエスという名は「わたしはあなたを救う」という意味です。ですから「わたしはあなたを救う」「この子は自分の民を罪から救う」ということばを通して、イエスさまのわたしへの「わたしはあなたを救います」という直々の声が聞こえていること、それが信仰なのです。わたしがどう聞こえたとか、わたしがどう理解して納得したかでさえありません。ただ「わたしはあなたを救う」というのが、キリスト教の宗教としての真理であり、その真理がわたしに聞こえる、与えられているということが信仰なのです。信仰というと、わたしが信じることとして理解されがちですが、そうではなく、キリスト教が宗教としてわたしたちに伝えようとする単純な真理、キリスト教は何を教えていますかということを信仰というのです。ですから、わたしたちにイエスさまの真実、真理がわたしに届いていること、その働きを信仰というのです。わたしが何かをする前に、イエスさまがわたしを救うと誓われた真実が信仰なのです。

ですから、ヨゼフがどうの、マリアがどうの、ベトレヘムがどうのということは、わたしたちを真理へと導くための手段、方便であって、わたしたちの信仰と直接関係ありません。カトリック教会はこの真理の周辺のことが多すぎて、何が真理の本質であるかが非常にわかりにくくなっています。司祭がいったからとか、司教がいったから、教皇がいったから、教会が教えているからではないのです。誰がいったかは問題ではなく、イエスさまが直々にわたしに語りかけてくださること-特別なお告げとかご出現ではなく-イエスさまがわたしを呼ぶ声、「わたしはおまえを救う」ということばが聞こえる、そのことがすべてなのです。

教会、また教会の秘跡は人類をこの真実へと導くための道具、方便であって、教会はそのために奉仕者に過ぎません。イエスさまの真実より前に出ようとする教会は、人々をイエスさまに導かないばかりか、妨げの石となってしまうのです。イエスという名、「わたしはあなたを救う」という単純な信仰の真理がキリスト教の宗教としての魂です。それを伝えるために、聖書があり、教義があり、教会があるのです。

今日、待降節第4主日にあたって、わたしたちはイエスという名、「わたしはあなたを救う」というイエスさまの声がわたしに届いていることに、改めて気づかせていただきたいと思います。

待降節第3主日 勧めのことば

待降節第3主日 福音朗読 マタイ11章2-11節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の福音では、捕らわれの身になっている洗礼者ヨハネが登場します。洗礼者ヨハネは先週の福音にも出てきましたが、神さまによってイスラエルの民に送られた旧約の最後の預言者です。ヨハネはヘロデ王の結婚が律法に適っていないことを指摘したために、捕らえられ牢に入れられます。そのヨハネが獄中から弟子をイエスさまのところへ送って「来るべき方はあなたでしょうか。それともほかの人を待たなければなりませんか」と尋ねさせています。ヨハネはイエスさまに洗礼を授け、イエスさまのことを知っていたはずです。イエスさまが洗礼者ヨハネから洗礼を受けようとされたとき、ヨハネは「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところに来られたのですか(3:14)」といっています。つまり、イエスさまが神さまから使わされたメシアであることを知っていたのです。そしてヨハネは「イエスのなさったことを牢の中で聞いた」と書かれています。そうすると、ヨハネはわざわざイエスさまのもとに弟子を遣わして、「来るべき方はあなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と尋ねるということは、ヨハネの中で何かが揺らぎ始めたということでしょう。ひとことでいえば、イエスさまは洗礼者ヨハネが思っていたとおりのメシアではなかったということでしょう。期待外れだということです。だから自分の弟子を送ってわざわざ「来るべき方はあなたでしょうか。それとも…」と尋ねねばならないほど疑問、戸惑いがヨハネの中に生じていたということなのでしょう。

イエスさまに「女より生まれた者のうち、洗礼者ヨハネよりは偉大な者はいない」とまでいわしめたヨハネでしたが、イエスさまの答えは「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、思い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」でした。ヨハネはその出来事の中に、神さまの働きを見ることができなかったのです。イエスさまをして「預言者以上のものである」といわしめたヨハネであってさえも、イエスさまにつまずいてしまったのです。イエスさまは「わたしにつまずかないものは幸いである」といわれます。おそらくヨハネは、イスラエルの民をローマ帝国の支配から解放する力強い指導者を期待していたのでしょう。しかし、イエスさまは、目の見えない人を見えるようにし、耳の聞こえない人を聞こえるようにし、貧しい人に福音を告げ知らせておられました。そのイエスさまの働きの中に、ヨハネは神さまの働きを見ることができませんでした。

このことは、わたしたちがイエスさまを理解するときにも同じことになりがちです。わたしたちも、わたしという狭い枠の中でイエスさまを捉えてしまう危険性が絶えずあるのです。ヨハネでさえ自分の狭い考えの枠の中でしか、イエスさまを捉えることができませんでした。わたしたちはなおさらではないでしょうか。神のみ言葉を聞くとき、わたしたちは自分に都合よく聞いてしまう傾向があります。そもそも、わたしたちが何かを理解するというとき、自分が今まで体験したことの中でしか物事を理解することしかできませんから、当然限界があるのです。ですから、神のみ言葉を聞くときも、自分の思い描いた自分の気に入った神さまのイメージ、信仰のイメージ、教会のイメージにあてはめて、その幻想を膨らましていくことになりがちです。洗礼者ヨハネでさえ、そうした誘惑から自由ではありませんでした。その後のヨハネは、牢屋の中で自分のすべてを奪われ失望のうちに、最期は殉教という苦しみを通して「自分勝手な思い」というものから清められることで、イエスさまの到来を準備するという己の使命に徹することを学んでいかなければならなかったのです。それは、あまりにも過酷といえば過酷です。ヨハネは牢屋の暗闇の中で度々「あの方は栄え、わたしは衰えなければならない」と繰り返したことでしょう。

わたしたちの基本的なこの世界とのかかわり方は何かといえば、「わたしは栄え、あの方は(相手側は)衰えなければならない」「わたしの思いが据え通らなければならない」ということなのです。わたしの望みが叶い、わたしの思いが据え通り、わたしの計画が実現していくことがわたしのモチベーション、わたしの目標なのです。それがわたしの我欲であると認識していればまだ救いようがありますが、それがわたしの生きがい、目標、使命であると勘違いしているのであれば重症です。たとえどのような立場にあっても、それがどれほど崇高な計画や目標であっても、自分のプロジェクトをイエスさまの計画と錯覚し、己を押し通していくということから、わたしたちは決して自由ではないのです。

このヨハネの姿は、キリスト者として生きようとするわたしたちの模範です。キリスト者とは、その名の示すとおり、「キリストにつくもの」となることです。わたしがどれだけすばらしいことをして活躍しても、教会に奉仕しても、信者として長い間信仰を守ったとしても、それが「自分教」であれば、わたしはまだキリスト者になっていない、ただの自分教の信者にすぎないのです。キリスト者としての成長は、神の恵みと助けによってわたしが何かができるようになることではありません。そうではなく、むしろ反対で、わたしの中でわたしが消え去り、イエスさまが中心となり、イエスさまがすべてを行われるようになることに他なりません。わたしたちがカトリックであることと、キリスト者であることは同じではありません。

イエスとの出会いはわたしたちにとっては、いつも驚きであり、予想外であり、感動なのです。わたしたちを動かすとしたら、それはイエスさまへの感動です。わたしたちは、高邁な教えや複雑な神学によって動かされはないのです。イエスさまへの感動は、わたしたちをまったく新しい真理へ、新しい世界へと招き入れてくれるのです。わたしたちは真の意味でキリスト者となるように、たえず呼びかけられているのです。

待降節第2主日 勧めのことば

待降節第2主日 福音朗読 マタイ3章1~12節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は洗礼者ヨハネの活動が描かれていきます。洗礼者ヨハネは、メシア到来を準備する悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。悔い改めとは一体何なんでしょうか。わたしたちはミサの前に、「わたしたちの心を改めましょう」といいますが、わたしたちがこころを改めるとはどういうことなのでしょうか。そもそもわたしたちは悔い改めるということができるのでしょうか。

現代人のわたしたちは、わたしたちのこころ、体、いのちは自分たちのものだと思っています。ですから、自分のこころや体、いのちを自分の意のままにできると考えています。それはわたしたちのこころや体、いのち、そしてこの自然界は、神さまからわたしたち人間に与えられたものであるというユダヤ・キリスト教的な自然観が根底にあるからなのです。自分のこころや体、いのちは神さまからもらったものだから自分のものであり、それを支配することができると考えているのです。これが世界中に浸透している西洋の世界観でもあるのです。先ずわたしという存在を立てて、わたしたち人類が神の代理者としてすべてのものの所有者となりこの世界を支配し統治していく、この発想はキリスト教のものなのです。

そして、近代に起こってきた科学は、このようなキリスト教的な世界観への反発として起こってきたものなのです。今度は神さまに代わって、人間が支配者になるということです。こころや体、自然界が、わたしたちに与えられた、あるいはわたしたちのものであるというのですから、当然それらを人間の力で支配し、コントロールできると考えるようになります。しかし、現実はどうでしょうか。人類は自然界の支配者、所有者のような顔をして、自然から搾取し続けてきた結果、今、わたしたちはその自然から反逆を受けています。自然破壊や公害による気候変動などはそのひとつでしょう。

わたしたちはこころや体をわたしの所有物としてコントールしようとしてきました。ですから、キリスト教では、努力して頑張って、反省して罪を避けて、善行をしてよい人間になることが信仰者としてのあり方であると教えてきました。それでも、いろんなことがうまくいかない、病気になったり、不幸になったりするとそれは信仰が足らないからだといわれ、自分のこころを修め、強い信仰をもてば困難を克服できると教えてきました。または、これは神さまからの試練であるから忍耐するようにと諭してきました。これがキリスト教の信仰観なのです。しかし、果たしてわたしたちは自分のこころを修め、信仰を強くし、わたしたちの何かを変えることができたでしょうか。信仰は、わたしたちのこころのもち方でどうにかなる問題なのでしょうか。現実は病気がなくなることも、困難がなくなることも、死がなくなることもありません。人のこころをコントロールすることはできないし、それによって事態を動かすことなどできないのです。

わたしたちは、自分の意志で頑張って心臓を動かし、血液を体の隅々にまで送っているのでしょうか。わたしが頑張って呼吸して体に酸素を取り込み、食べ物を消化し栄養として取り込んでいるのでしょうか。わたしが腹を立てないように頑張れば腹が立たなくなり、憎しみのこころを抱かないように頑張れば憎しみが湧かなくなるでしょうか。わたしの中では、皮膚の細胞はおよそ1か月で入れ替わり、血液は3〜4か月、骨でさえ10年もすればほとんどが新しいものに入れ替わっているといわれます。わたしが、体に命令してそのようになっているわけではありません。わたしのこころとか意志とかに関係ないところで、自然とそうなっているのではないでしょうか。にも関わらず「わたしがある」と主張している「わたし」とは、一体誰なのでしょうか。わたしのこころとか、意志とか、意識とはどこにあるのでしょうか。このように考えていくと、わたしという人間がいかに不安定で、絶えず移り変わっていくものであるかということが見えてきます。わたしのこころも体も、絶えず変化していて、ひとつの状態に留まるということはありません。

それでは、悔い改めるよういわれているわたしというのは何でしょうか。わたしがわたしであると思っているような確実なものは、何もないのです。わたしは絶えず移り変わっていく、それが生きているということなのです。それなのに何か確実なものがあると思い込み、それを真実であるかのように握りしめているのがわたしです。それがひとつの考えとか思想であったり、宗教であったり、富であったり、権威であったり、地位や名声であったり、よい人間であるということであったり、恩恵の状態であったりします。しかし、たとえそのようなものを握りしめていても、あえなく崩れ落ちてしまいます。腹を立ててはいけないと思っていても腹が立ってくる、笑ってはいけないと思っていても笑ってしまう。病気にならないように気をつけていても病気になる。歳をとりたくないといっても老いてゆく。この世では何もわたしたちの思うようにはならないのです。かりに思い通りになったと思っても、それが永遠に続くことなどありえないのです。それを思い通りにしようとするのは、わたしの欲に他ならないのです。凝りもせずに、自分自身を、他人を思い通りにしようとする、しかし決して思い通りにはならないのです。それなのに、わたしはすべてを思い通りにしようとする、これこそが人間の根深い執着であり、迷いに他ならないのです。

最後は「わたしが」、「わたしの」という我執です。結局は自分を中心にしてすべてを捉えて、すべてを理解していこうとするこのわたし、我執が問題なのです。よい人間になりたいと思うのも、所詮わたしの執着なのです。わたしたちは、この我執から離れることができない、その現実に気づくことが必要なのではないでしょが。その我執がありとあらゆる苦しみ、罪と傲慢を作り出していくのです。

 

洗礼者ヨハネは「蝮の子らよ」といい、わたしたちにこの身を知らせ、この我執の身が破られることの必要性を知らせました。この身が知らされ、この身が破られるのは水の洗礼、つまり人間の業によってではなく、聖霊と火による洗礼、つまりイエスさまの到来によってしか成し遂げられることはできないとヨハネは宣言します。ヨハネの時代までは人の業、人の力による悔い改めであり、真の悔い改めは人の力によってなされるのではないことが知らされます。イエスさまの到来、イエスさまとの出会いだけが、わたしたちをこのわが身から、わたしを解き放つことができるのです。ですから、イエスさまの到来そのものが福音であり、神の国、恵みそのものなのです。

待降節第1主日 勧めのことば

待降節第1主日 福音朗読 マタイ24章37~44節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

待降節に入りました。待降節はアドベントウスといわれ、日本語では降誕を待つと訳されていますが、本来の意味は「主が来る」という意味です。この日本語の訳は人間の側からみた、人間中心の訳になっていますが、本来は「主が来る」というイエスさまを中心とした季節であるということを指摘しておきたいと思います。

わたしたちが待つということを中心に据えると、さてどのように主の降誕を準備しようかとか、告白して心の準備をしようとか、わたしたちの心がけの問題になってしまいます。しかし、イエスさまが来られることを中心に据えると、少し雰囲気が違ってくるのではないかと思います。

今日の福音でも主は思いがけないときに来るといわれています。主は、いつ来られるのでしょうか。4週間後でしょうか。1か月先でしょうか。1年先でしょうか。10年先でしょうか。100年先でしょうか。そして、何のために来られるのでしょうか。それを知るためにはイエスさまの時代の人々が生きていた思想を知ることが必要になるかと思います。

当時の人々の間には終末思想が浸透していました。終末思想というのは、天変地異が起こり、苦難が訪れ、最終的には神さまが介入してイスラエルの民が再興され、勝利するという考え方です。日本の鎌倉時代の末法思想に似たところがあります。今日読まれたマタイ福音は、紀元70年のユダヤ戦争の後に書かれました。ユダヤ戦争では、ユダヤ人にとって、キリスト者にとっても心の拠り所であったエルサレムがローマ帝国によって陥落させられ、エルサレムの神殿も破壊され燃やされました。人々は、そのときにこそ神さまが介入されると信じていました。しかし、神さまの助けも、介入もありません。じゃ、あの終末思想は何だったのかということが人々の疑問として湧き上がってきました。神さまの助けはない、イエスさまが再臨されることもない。自分たちの思っているようなメシアは来ないのではないかと。  

こうして、終末思想、イエスさまの到来について広まっていた考え方が、教会の中でも修正されていくことになります。当初は終末を時間の流れの中で理解していこうとしますが、イエスさまが来られるということは、何年か後の時間の中での出来事ではないということがわかってきます。そこで、四終―死(私審判)、最後の審判、地獄、天国―という考え方がうみだされ、それが教会の中で定着していくことになります。今日でもそのように説明され、教えられています。確かに最近はあんまりいわなくなりましたが、このような考え方は現代人には受け入れがたいものとなっています。

少し考えたらわかるのですが、イエスさまが来られるということは、今、このときの出来事であるということです。なぜなら、わたしたちは生きているのは、いつも今というときでしかありません。わたしが生きているのは、昨日でも、明日でもなく、今、今しかないのです。ですから、わたしが生きているところに死はなく、死があるところにわたしはないのです。ですからイエスさまが来られるのは、今というときをおいてないわけです。それが過去のことであったとしても、将来のことであったとしても、そのときはわたしの今なのです。そう考えると、12月25日にイエスさまが来られるということではなくて、今日この日この時がイエスさまが来られるときであることがわかります。つまり、今、このときが主の来臨、主の降誕、イエスさまの訪れのときだということです。12月25日だけを主の降誕として祝うのではなく、今このときをイエスさまの訪れのときとして生きられたら、わたしたちはどんなに幸せでしょう。

イエスさまはわたしたちを裁くためでなく救うために、ベトレヘムに来られました。そのベトレヘムは動物の糞だらけの汚い家畜小屋です。イエスさまが来られるのはきれいなベトレヘムではありません。そして、このわたしたちも糞だらけの汚い家畜小屋のようなものです。イエスさまは、日ごとの生業と労苦で右往左往して、欲のこころを起こし、人のことを怒り妬み、傷つけ恨んだり、悩み迷っている糞だらけのわたしのところへ来てくださるのです。そして、わたしたち一人ひとりに寄り添ってくださるのです。何の準備も、何もかしこまる必要もないのです。わたしのこころがけ次第で来てくださったり、来てくださらないのではない。黙想したから来てくださるわけではない。また信者だから来て、信者でないから来なかったりされるのではない。善人だから来て、悪人だから来てくださらないのでもない。わたしたちのこころがけの問題ではないのです。そのまんまのわたしのところへ、イエスさまは来てくださるのです。わたしたちは、イエスさまをそのまんまいただくことしかできないのです。堅苦しい態度も、小難しい理屈も神学もいりません。キリスト教は、一部の選ばれたひとたち、洗礼を受けた人のためにエリート集団ではないのです。この福音は全人類みんなのものなのです。

そして、今このときが主の訪れとなったわたしたちは、今度は他の人々のところへわたしのうちにいらっしゃるイエスさまをお連れするのです。わたしたちはそのイエスさまを、みことばにおいて、聖体の秘跡において、またわたしたちのうちにおられるイエスさまの現存によって、すべての人のところにイエスさまをお連れするのです。イエスさまはわたしのイエスさまがですが、イエスさまはすべての人のイエスさまです。そして、わたしのイエスさまはわたしを通して、人々のところにいきたいのです。それがわたしたちが出ていくということ、派遣されているということなのです。

王であるキリスト 勧めのことば

王であるキリスト 福音朗読 ルカ23章35~43節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は、年間最後の主日、王であるキリストの祝日です。イエスさまが王であるというのはどのような意味なのでしょうか。今日はそのことを考えてみたと思います。今日の福音の中で、十字架につけられているイエスさまの頭上には「これはユダヤ人の王」という札がつけられており、十字架につけられている強盗も「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」といい、イエスさまを王として仰いでいる姿が描かれています。普通、王さまがいるということは、国土があって、その国民がいるということになります。イエスさまの時代には、メシアの到来によって神の国が完成するという終末思想が広まっていました。そして、イエスさまご自身、「神の支配」を意味する「神の国」の福音を告げ知らされました。その福音のメッセージの中から、イエスさまがどのような神の国を考えておられたのかを垣間見ることができます。しかし、当時のユダヤ人の考えていた神の国は、あくまでもユダヤ教中心とした覇権主義的なユダヤ人の国家であり、そこに諸民族が集うようなものが考えられていました。そのような国には王さまと国民がいて、そして国土という国境線をもち、その時代の統治形態のもと、国民と国民でない人たちによってわけられている国家を意味します。

しかし、イエスさまが宣教された神の国とは、ユダヤ教という枠組みから出発しながらも、それまでの民族宗教をまったく超え出たものでした。その特徴は、ユダヤ人だけに限定されない、国境線をもたない、生も死も越えたまったく新しい世界であるといえばいいでしょう。イエスさま自身が「神の国は、○○にたとえられる」といわれ、神の国について定義されるということはありませんでした。それは神の国というと、人々は安易に、ユダヤ人の望みが叶い、ユダヤ人の国家が再興され、国民の生活が安定し、その生活が保障されるようなものとして錯覚することを避けるためでした。イエスさまの話された神の国は、ユダヤ人の望みが叶うようなものではなく、またわたしたちの望みが叶うようなものでもありません。国家や領土というような場所とか時代の影響を受けるものではなく、またわたしたちが考えるようなこの世での安寧や死後のいのちを保証するような楽園でも天国でもありません。わたしたち人間はどこまでいっても、自分を中心にしたものの見方しかできません。ですから、神の国について考えるとき、自分たちの望みや願いが叶うようなものとしてしか捉えることができないのです。

そして、自分たちは救われたものとして、神の国の住人であるかのような顔をして、救われていない人に教えを説くという発想になりがちです。よく、カトリックでは、洗礼を受けていない人を未信者といういい方を平気でしていますが、それは、自分たちは洗礼を受けて信者になっているが、あの人たちは未だ洗礼を受けていない、可哀そうな救われていない人たちという前提に立ったいい方です。どの宗教でもそうですが、救われた人と救われていない人、洗礼を受けた人と洗礼を受けていない人、助かった人と助からない人という区別を設けて、自分たちはどこまでも救われた側に立ち、人を助ける側、救う側に立とうとします。これは人を助ける立場に立ちたいという我執から出てくる欲に他なりません。人を助ける立場に立つということで、自分が上に立って救われた立場に安住する、これは宗教のもっとも醜いありさま、迷いの姿に他ならないのです。同じ教えや信仰を共有して満足していく、それは閉鎖的な宗教集団であって、そのようなものを救い、神の国といえるでしょうか。このような自己満足、また集団満足に安住しないということが、救いの道を求める、神の国の建設のために働くということではないのでしょうか。

ですからイエスさまは、神の国の到来を告げ知らされましたが、同時に皆が考えているような神の国の国境を破壊し、神の国の住民登録をなくし、神の国そのものの概念を破壊されたのです。イエスさまご自身が王であることを否定し、十字架によって神である自分自身をも否定されました。神の国は、「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです(ガラ3:28)」というパウロの言葉が実現されたのです。つまり、いかなる区分も差別もない、すなわち国家、身分、性別、学歴がない、救われたものと救われないもの、救うものと救われるものという区別さえ存在しない、もちろん宗教もない、カトリック教会もない、キリスト教もない、そのようなありかたが神の国なのです。イエスさまの死と復活によって、今、その働きがわたしに届いている姿が神の国なのです。

宗教の根本的な使命は、自らがなくなることにあります。自分の宗派の教勢を広げることを目的としているのであれば、それは本当の宗教ではありません。宗教は真実、真理、真如を指し示す指月の指であって、うちの宗派がどう、うちの教会がどう、うちの宗教がどうということが目的にならない、これが本来の宗教です。ですから神の国は、すべてのものにとっての真理だといえるでしょう。イエスさまはその生涯、特にその死と復活によって、イエスさまの働きが一定の場所と時間にしか及ばないという限界を破壊し、すべてのときすべてのところをご自分のいのちと光で満たされました。もはや、その光が届かないというところがない、影というものがない、全宇宙の隅々までその光といのちで満たされたということなのです。ですから神の国はいつ実現するとか、どこかにあるという話ではなく、イエスさまはこの宇宙すべてを満たす働きとなられたということなのです。別の言葉でいえば、イエスさまは十字架の死と復活によって、王であり神であるご自身を否定することによって、神の国の国境をなくし、神の国自体を破壊することで、すべての生きとし生けるものをその働きで満たし、すべての時代にすべての場所に、イエスさまのいのちが、光が届けられている姿が神の国なのです。

「実に、神の国はあなたがたの間にある(ルカ17:20)」のです。しかし、わたしが自分の世界に閉じこもって、自分の頭で理解しようとしている限り、神の国の秘義はわたしにとっては明らかになりません。それにも関わらず、神の国はわたしたちに届いており、その真実に目覚めよと叫ぶ声が届けられているのです。その状態、その働きを指して、神の国というのです。そこには、もはやわたしたちが考えるような国土も国民も王もいないのです。イエスさまはもはや王としてではなく、わたしたちのひとりとして、友としておられるのです。

年間第33主日 勧めのことば

年間第33主日 福音朗読 ルカ21章5~19節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日はイエスさまが、終末について語られる箇所です。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか」と問う人たちに対して、イエスさまは「世の終わりはすぐには来ない」と答えられました。当時の歴史観は、飢饉とか戦争、暴動が起こり、試練を通してメシアが来臨して、イスラエルの民が再興されるというものでした。そのメシアはダビデの子と呼ばれ、ダビデのような理想的なイスラエルの民の指導者であり、その指導者のもとイスラエルは国家を再建し、理想的な支配が確立されるというものでした。ですから、終末といっても、イスラエル民族を中心とした国家の再興であって、その統治の下にすべての民族が入ってくるといった、非常にユダヤ覇権主義の強い思想でした。弟子たちがイエスさまに期待していたのは、そのような強い指導者であり、いつくしみぶかく、十字架上で無力のうちに亡くなっていく弱いメシアではありません。ですから、イエスさまの十字架上の死は、当時の人々にとっては、失敗、挫折であって、メシアの来臨は叶わなかったというのが人々の理解でした。当時の人々は、終末というものを、ある時間と空間の中で起こることとして理解するしかできませんでした。ですから、「いつ、どこ」でということが問題になったわけです。

ルカの教会は、ローマ帝国によるエルサレムの陥落、神殿の破壊を知っている教会です。エルサレムの神殿は、当時のキリスト者にとっても信仰のよりどころでした。ですから、この出来事をどのように理解していくのか考えざるをえませんでした。そこで当時の教会は、当時のユダヤ教の終末思想をもとに理解していこうとするのです。ですからキリスト教の中では、イエスさまの到来、その生涯、その死と復活に終末が始まり、イエスさまが再臨されることで、神の国が完全に到来すると考えたのです。これがイエスさまの再臨、私審判(個人の死)、最後の審判という終末論となり教会の教えとなっていきました。当時の教会は、終末をあくまでも時間の流れの中で起こることとして理解していたのです。しかし、このような形での終末は到来しませんでした。なぜなら、このような終末理解は、永遠である神さまを時間と空間の中に押し込めた、その時代の中の限界ある歴史観にすぎなかったからです。カトリック教会では、終末理解が再解釈されていくとはいえ、それを今日でも同じように教えているわけです。ですから、1000年のとき終末が来るとか、2000年のとき終末が来るというような陰謀論が広まったのです。

今日、科学や物理学の発展によって、宇宙の成り立ちや時間と空間について新たな発見、解明がなされています。その現代において、旧来のカトリック教会の教えは非現実的なものとなっています。教会の教えは現実の社会から遊離したものとなり、教会の教えは教会の教え、この世の現実は現実という割り切りがキリスト者の信仰生活の中に蔓延してしまうというのも無理はありません。教会の教えは綺麗事であって、わたしたちの人生には何の影響も与えないとなってしまうのが現実です。

もうひとつの問題は、このような終末についての教えの根底にあるのは、当時の人々が期待していた、現世での個人の生の充足、民族の充足、いうなれば幸せな生活、完成された世界を終末として捉えているということです。これは、実はこの世の生活の充実が人間の第一の目的だと考えている現代人と同じ考え方です。結局は、自分にとって幸せで有意義な人生や国家を築き上げるということが、目的になっています。キリスト教はといえば、このユダヤ教の終末思想を少しだけ修正し、その目的を時間的に延長し、それを来世に設定しただけに過ぎません。たとえ、それがキリスト教化された終末についての教えであったとしても、時間的流れの中で、キリスト教という枠組みの中だけでの充足を考えているのであれば、それは根本的に違うのではないでしょうか。この世の、あるいは来世のいのちの充足が目的だと考えている個人、宗教、信仰であれば、それはいのちの本来のあり方に背いたものであって、真の宗教とはいえないように思います。真の宗教というものは、夫々の宗教の教えや自己中心的な立場を超えて、すべての生きとし生けるもののうちに働いている普遍的ないのちそのものの真理であり、その真理に己をまかせていくというものではないでしょうか。それが、自分の人生、自分の国、自分の宗教、自分の信仰だけで完結しようというのであれば、それは宗教本来のあり方とはいえません。また、自己の救いを目的としているのであれば、それは人間としてのあり方としても偏ったものであるといわざるを得ません。それらは、結局は自我が作り出した幻想であって、イエスさまの願いとは異なっているのではないでしょうか。

一方で、わたしたちは自分のこと、自分の近くにいる人のことからしか考えられないのが現実です。わたしたちが大切に思ったり、悲しんだりするのは、自分と自分の近くにいる二人称のだれかであって、いくら地球の裏の人々のことも同じように大切にしましょうと叫んでも、それは言葉だけであって、わたしの近くにいる人と同じように大切にすることなど不可能なのです。わたしたちは、時空を超えてイエスさまがされたようにすべての人に関わることも、平等に接することなど出来ないのです。わたしたちの中にあるのは、まずわたし、そして大切な人、嫌いな奴、そしてどうでもいい人々です。世界の人々を同じようにといっても、出来ないのです。まずは、その人間としての限界、悲しみを謙虚に見つめていくことが必要なのではないでしょうか。わたしたちは自分を中心にした世界を作りだしているのであり、その世界は虚構であって、真実ではないのです。結局のところ、わたしのことからしか考えられないというわたしの痛み、悲しみを見つめるとことからしか始まらないのではないでしょうか。そして、このような個人の救いというものに囚われているわたしたちが、わたしの救いから解放されることが、まことの救い、終末なのではないでしょうか。

結局、この度し難いわたしがどうにかならない限り、世界が幸せになることもない、本当の意味で世界が、わたしが幸せになることもないということだと思います。ですから、終末はわたしたちの救いのためにあるのではなく、今、生きているわたしに対する問いかけとして存在するのだと思います。

ラテラン教会の献堂 勧めのことば

ラテラン教会の献堂 福音朗読 ヨハネ2章13~22節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日はイエスさまのエルサレムの神殿の清めの物語です。マタイ、マルコ、ルカの共観福音書では、エルサレムの神殿の清めは、イエスさまの宣教活動の終わりごろ、エルサレム入城後の出来事として描かれています。しかし、ヨハネは宣教活動の始めの出来事として描かれます。いずれにしても、イエスさまのエルサレムの神殿への批判、ユダヤ教の信仰形態への問題提起ということがテーマになっています。それは同時に、わたしたちの信仰形態、またわたしたちが現在抱えている教会制度を問うということでもあります。

当時のエルサレムの神殿は、ユダヤ人たちの信仰の最大の拠り所でした。過越祭、七旬祭、仮庵祭の年3つの大祭にエルサレムの神殿に巡礼し、そこで生け贄を捧げることがユダヤ人の大切な信仰行為でした。特に過越祭はもっとも重要で、自分たちの祖先が神の導きによって、エジプトから解放されたというユダヤ人の民族的アイデンティティにつながる大切な祭りでした。過越祭のときは、多くのユダヤ人がエルサレムに巡礼し、町はごった返していました。そして、神殿でたくさんの生け贄がささげられ、献金することは、ユダヤ人にとっては大切な信仰の表現であったわけです。お稲荷さんにお参りにいって、ろうそくをあげて、油揚げを捧げて、お賽銭を投げるようなものです。しかし、そこにはいくつか問題がありました。先ず生け贄にする牛や羊、鳩を、家から連れてくるのは大変なことでした。何日もかかってエルサレムに巡礼してくるわけですから、その旅に牛や羊を連れてくることは大変手間がかかることでした。また、エルサレムの神殿でお賽銭をあげるわけですが、当時のユダヤではローマの貨幣が使われていましたが、異教の貨幣は不浄であるとして、神殿用の貨幣を使わなければなりませんでした。ですから、エルサレムの神殿の境内には、生け贄の動物を売るお店や、神殿用の貨幣に両替するお店が軒を並べていたわけです。伏見のお稲荷さんにお参りにいくと、参道にろうそくや油揚げが売られているのと同じです。

イエスさまはそれらをひっくり返し、商売をするものを追い出されたわけですから、何をするんだということになるわけです。ここでイエスさまが問題提起されたのは、まことの礼拝とは何か、まことの信仰は何かということでした。当時のユダヤ人は、エルサレムの神殿に巡礼し、いわゆる本山詣でをし、生け贄をささげ、献金をすることが、自分たちの信仰の熱意を表すことだと考えていました。わたしたちも、例えば毎週ミサに欠かさず出席するとか、決まった祈りを唱え、信心業を熱心にするとか、決められた献金をするとか、一生懸命ボランティア活動をするということが、いわゆる信仰深いよい信者さんであると教わってきたかもしれません。確かに、それらは信仰心から出てきたことかもしれません。しかし、イエスさまが指摘されたことは、それが本当の信仰ということなのか、まことの礼拝ということなのかということです。

イエスさまの時代に何が起こっていたかというと、信仰、礼拝の形骸化ということでした。確かに、それらの行為は素朴な信仰心からできたものかもしれません。しかし、いつの間にかそれらは形だけの礼拝、制度、組織となり、こころが伴わないものになっていったということです。そればかりか、形式主義になっていくと、それをやっているということで慢心に陥り、かえって我が強くなり、それを信仰熱心であることと勘違いするようになるということです。これはわたしたちにも容易に起こってくることなのです。

詩編51に「あなたはいけにえを望まれず、燔祭をささげても喜ばれない。神よ、わたしのささげものは打ち砕かれたこころ」とあります。まことの礼拝は、いけにえを捧げるという決められた儀式をおこなうことではなくて、「わたしの打ち砕かれたこころ」「悔い改めるこころ」だといわれます。儀式という形式ではなくて、わたしたちのあり方だといわれるのです。イエスさまは「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」ともいわれました。神殿もいけにえも、わたしたちが神さまと出会うための手段、場にすぎません。しかし、イエスさまは、わたしたちと神さまの出会いのためには、もはや神殿という建物やいけにえという形式はいらなくなるといわれたのです。

わたしたちが容易に勘違いしてしまうことは、わたしたちが何かをすれば、どこかの場所へ行けば、神さまと出会うことができると考えてしまうことです。確かに、わたしたちが神さまとの出会いを乞い求めていかなければなりません。しかし、わたしたちに神さまと出会いたいというこころを湧き立たせ、また出会いのための場を差し出してくださるのは神さまなのです。わたしたちの中に神さまへのあこがれ、渇きが生じますが、わたしたちに神さまへのあこがれ、渇きを与えになるのは神さまです。そして、イエスさまが人間となってわたしたちのところに来られたこと、イエスさまがわたしとなられたことによって、わたしの中に神さまとの出会いの場が設けられたのです。つまり、わたしたち人間が神さまとの出会いの場とされているということなのです。わたしたちの中にイエスさまが生きておられ、わたしたちはそこでイエスさまと出会い、信仰を生き、礼拝するのです。もはや神殿もいけにえもいりません。それがイエスさまの復活ということであり、まことの礼拝するものは、真理と霊をもって礼拝するといわれたことなのです。

イエスさまは、ユダヤ教が神殿宗教に成り下がっていることを厳しく批判されました。ということは、カトリック教会も神殿宗教になってしまうことを厳しく戒められているということなのです。教会は神殿となってはならないのです。イエスさまのからだ、つまりわたしたちが聖霊の住まい、わたしたちのうちに神が現存されているということをいわれたのです。イエスさまによって生かされている人間わたしたちが、神さまとの出会いの場、信仰の場、礼拝の場なのです。それなのに、いつのまにか制度や建物、組織が神殿になっていないか、キリスト教が神殿宗教になっていないかということが問われているのです。これこそ批判されなければなりません。ですから教会の献堂自体、イエスさまの思いに反することなのです。まことの神殿は、生きているわたしたちであり、まことの礼拝はわたしたちの生き方なのです。

死者の日 勧めのことば

死者の日 福音朗読 ヨハネ6章37~40節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

カトリック教会では、11月は死者の月といわれ、11月2日は死者の日となっています。今年は11月2日が日曜日になりましたので、日曜日ですが死者の日のミサがささげられます。日本のお盆のようなものです。でもよく考えてみると、死者というのは一体何なんでしょう。

人類はその誕生以来、死というものと向き合ってきました。それは、死が人類最大の謎だったからです。偉大な哲学者や宗教家は、この死という謎と向き合ってきました。しかし、誰一人として、死が何であるかを解明した人はいません。なぜなら、人類は、生きている人で誰も死を体験した人はいないからです。多くの宗教は、死と死後について様々に語ってきましたが、それらについて話しているのは、すべて生きている人たちなのです。生きている人が、死と死後について語っているのです。よく考えるとおかしなことではないでしょうか。そもそも、生きている人がどうして死について語ることができるのでしょうか。また、それが真実だとどうしてわかるのでしょうか。教会が教えているからでしょうか。この世界の中で、死について問題にしているのは人間だけで、他の動物も植物も死について考えていません。同じ生命体なのになぜでしょうか。

「わたしは復活であり、いのちである。わたしを信じる者は、死んでも生きる。また、生きていてわたしを信じるものは決して死ぬことはない。このことを信じるか(ヨハネ11:26)」とイエスさまはいわれました。この個所は、イエスさまが自分を信じるものに、死後の永遠のいのちを約束したように説明されています。しかし、そうでしょうか。イエスさまは、わたしを信じるもの-つまり生きているもの-は死なない、生きているものは死を体験することがないという至極当然のことをいわれただけではないでしょうか。わたしたちは死が存在すると考えています。しかし、生きているもので誰も死んだものはいないし、死を味わったものも死を体験したものはいません。わたしたちが知っているのは、二人称、三人称の死なのです。一人称であるわたしは、死を体験することはできないのです。そのときわたしはいないのです。

三人称の死とは、わたしたちにニュースや情報として入ってくる死者の数です。死者の数とは死体の数なのです。二人称の死はわたしたちの親しい人、知っている人の死です。このときにわたしたちは、大変悲しみます。この二人称の死も、三人称の死もわたしたちは死体があるときに死んだといいます。親しい人がただいなくなったのであれば、それは行方不明として、その人が生きているといいます。だから、捜索願を出したり、探しにいったりするのです。わたしたちは、死体があることで死を確認した気になっていますが、それは死体であって、死体は死ではありません。

そもそも、わたしは死というもの体験することはできないのですから、わたしが生きているときに死はありえないのです。その反対に、死が存在するとわたしは生きていません。だから、わたしが生きているということは、死なないという当たり前のことをイエスさまはいわれたのではないでしょうか。ですから、イエスさまがいわれたことは、わたしを信じるものは生きているものだ、そして、生きているものには死はないと当たり前のことをいわれたのです。事実、イエスさまは「神は死んだものの神ではなく、生きているものの神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである(ルカ20:38)」といわれました。また、イエスさまは、「死んでいるものたちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたはいって神の国をいいひろめなさい(同9:6)」といわれ、死んだもののために何かをするとか、葬りをおこなうことを相対化されました。なぜなら、死があると思っているのは人間の錯覚だからです。二人称の死に寄り添うということが、宗教の中に取り入れられたのです。

わたしたちは、二人称と三人称の死体を見て、それが死であると錯覚しているだけなのです。たぶん、他人が死ぬのを見て、死がわかった、死を見た、死を知っていると思ってしまっているのです。自分が死ぬということを誰もまったくわかっていないのに、それをわからないままに、死体を見てそれを死と呼び、動いているもの生きているものを見て、生と呼んでいます。しかし、わたしたちは生きているということを、意識することはできません。わたしが呼吸しなければいけないと思って呼吸しているわけではない。食べ物を消化して栄養にしようと思って、消化しているのではない。心臓を動かして体中に血液を送らなければいけないと思って、心臓を動かしているのでもありません。つまり、わたしたちはだれも自律的に生きているわけではなく、意識的に生きているのでもないのです。ただ、そうなっている。それが生であり、それが動かなくなるとき、動かなくなるだけなのです。だから、誰も自分で生きている人はいないし、自分で死ぬ人もいないのです。人間にとって生死は便宜上の言葉であって、ただそうなっている、自然ということなのです。人間といえども、自然の一部です。自然は生死を当たり前に生きているのです。それに逆らっても仕方ないし、無理する必要もないのです。

イエスさまが十字架の上で死んだといっても、その死にざまはイエスさまの生き方でした。そして、死んだイエスさまは、人間は皆、生きて死ぬという当たり前の事実をわたしたちに見せただけなのです。死後のいのちがどうとか、永遠のいのちがどうだとか、そんなこと誰も死を説明できないのに、どうして死後があるなどということをいえるのでしょうか。生きていて死を体験したことがない人が、どうして死の世界や死後を語るのでしょうか。宗教だからゆるされているのでしょうか。死の世界や死後のことは、あくまでも生きている人間が期待していることなのです。イエスさまは、はっきりと「神は死んだものの神ではなく、生きているものの神だ」といわれました。実は、イエスさまは死後のことについて、何も話しておられません。イエスさまは、「すべての人は、神によって生きている」といわれ、イエスさまがいわれた永遠のいのちは、われわれを生かしている神のいのちのことであって、死後のいのちのことではありません。お釈迦さまだって、死については何も語られませんでした。宗教は生きている人たちのためのものです。死者のためではありません。宗教はいのちの真実を告げるものであるのに、死後の世界のための教えにしてしまったのです。11月は死者の月だといいますが、これは二人称、三人称の死を体験した家族や親しい人、生きている人が、自分が生きているということはどういうことなのか、何なのかを考えるための月なのではないでしょうか。死んだ人が、わたしたちに何かを期待しているなんてことはありません。

年間第30主日 勧めのことば

年間第30主日 福音朗読 ルカ18章9~14章

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日のたとえは、ファリサイ人と徴税人のたとえ話です。ここでは、祈りにおける自己認識という問題を取り上げています。分かりやすいたとえのようですが、ことはそれほど簡単ではない難しい問題を含んでいます。確かに、奪い取るものでないこと、不正を行わないものであること、姦通を犯すものでないことは善いことであることをわかっています。週に2回断食し、収入の十分の一を献金することも善いことに違いありません。そこでよく考えてみると、ファリサイ人の祈りというのは、わたしたちの思いでもあるということがわかります。あそこまで露骨にいわなくても、わたしたちは教会の掟を守って、善人になる努力をして、ミサに行って、献金もきちんとしています。ですからイエスさまは当然、わたしたちを善い人間として、義としてくださると思っているということではないでしょうか。だれでもが善いものでありたい願いますし、実際にそうでしょう。わたしは悪人であると開き直る人もいますが、大抵は善い人間になりたいと思っています。それは、わたしたちは、善いことをする人は救われ、悪いことをすれば罰せられると思っているからではないでしょうか。つまり、わたしたちは自分の生き方で、救いが決まってくると考えているのです。だから、悪い人がのさばっているのは許せないし、戦争をする人や犯罪をするものは許されない、この世は勧善懲悪の世界であるべきだ、そして当然、神さまもそう思っていると考えているのではないでしょうか。

しかし当時、罪人とされていた徴税人は、自分の徴税人としての身分を変えることは容易なことではありませんでした。現代でも、戦争に行きたくないと思っていても、国から徴兵されれば戦争にいき、人を殺す側にならざるを得ません。戦場では、殺す側にならなければ、自分は殺される側になってしまいます。また、だれも酷い親や家庭に生まれたいと思う人はいません。しかし、わたしたちは選べないことがたくさんあるのです。もし、今わたしたちが、キリスト者で、教会に来られていて、イエスさまのことばを聞く機会に恵まれているとしたら、それはわたしの手柄ではないのです。ただ、そのような縁に巡り合わせていただいただけなのです。いくら善人でありたいと願っていても、自分の身を自分で決められないことが起こってきますし、皆それぞれに業を背負っています。生まれた状況や立場によって、善悪はころころと変わっていきます。わたしたちは殺したくないと思っていても殺す側になったり、殺される側になってしまうことがあるのです。その最たるものは戦争でしょう。わたしたちは、状況が変われば、生まれた国や身分が変われば、何をしでかすかわからない不気味で不安定な存在なのです。わたしたちは、今、奪い取るもの、不正を行わないもの、姦通を犯すもの、殺すものでないかもしれません。しかし、それはたまたま神さまの恵みでそうであって、善人の顔をしているけれど、状況が変われば何をしでかすかわからない存在なのです。外面は善人の顔をしていても、自分はあの人や他の人よりはましだとこころの中では思っている、そしてこころには怒り、腹立ち、そねみ、ねたみが蠢いている、そのような地獄を抱えているのがわたしではないでしょうか。そして、自分は救われたいが、嫌いなあいつは救われてほしくないと願っている存在なのです。善をおこなわなくていいといっているのではありません。自分はまともだ、自分は正しい、自分は善人だと思っていること自体が迷いなのであり、イエスさまの救いに背を向けていることに他ならないのです。

今日のたとえ話を注意深く読めば、イエスさまによって見抜かれているわたしがいることがわかります。わたしはいかなる善行や祈り、犠牲によって救われる身ではない、そのままであれば地獄行きの身であることを何とかかばって隠そうとしている、そのような身であることをイエスさまによって見抜かれているのです。キリスト者といいながらイエスさまと表面的な駆け引きの世界に沈んでいるわたしがいるだけなのです。わたしたちは誰一人として、イエスさまにわたしは慈しんでもらうに値するものだとはいえないのです。自分こそは正しいと思っていること、それ自体が迷いであり、自分が地獄を作り出している身なのです。そのわたしがイエスさまのすべてを超えた憐れみに触れるときに、はじめてわたしが何ものであるかに気づかされるのです。世界中の人が救われても、わたしは救われないのだ、ということが見えてくるということでしょう。わたしたちは、「イエスさま、罪人であるわたしを憐れんでください」としかいえない身であることがわかるのです。そして、この救われがたいわが身を必ず救うと誓われたイエスさまがおられたということが知らされ、そのイエスさまの真実と出会わせていただくのです。このイエスさまの真実に出会わせていただくことによって、わたしたちは本当の自分、イエスさまによって永遠に愛されている、同時に永遠にゆるされている罪人であるわたしを発見させていただくのです。

わたしたちは、果たして「わたしとイエス」という真の、個人的な出会いをしているでしょうか。確かに、ミサにいく、祈りもする、教会の教えを守っているかもしれません。しかし、こころの目でイエスさまがどれほどの愛をもってわたしをご覧になっておられるか体験しているでしょうか。本を読むとか、神学の勉強をするとかではなく、わたしたちのこころに生きておられる、生きたイエスさまと出会っているでしょうか。わたしのうちに生きておられるイエスさまは、わたしにご自身を与えたいと熱く願っておられるのです。これは単なる考えではないのです。イエスさまはあふれるほどの愛を与えたいと、こころから願っておられるのです。そのイエスさまと日々親しく出会うようにしてください。そのとき、わたしはイエスさまに限りなく愛されているわたし、イエスさまによってゆるされている罪人であるわたし、しかしながら救われているわたしに気づかせていただけるのです。わたしたちは、イエスさまに出会うことなしに、自分の身を知らされることもないし、本当のイエスさまを知ることもできないのです。そのことがわからないのであれば、イエスさまにその恵みを願ってください。わたしたちは、イエスさまとの真実の出会いを渇き求めていきたいと思います。

年間第29主日 勧めのことば

年間第29主日 福音朗読 ルカ18章1~8節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の福音はわたしたちに、気を落とさずに絶えず祈ることの必要性について語っています。そこでまずわたしたちが思うことは、「絶えず祈る」ということが果たして可能であるのかというでしょう。そのためには祈りということを、正しく理解していくことが必要になってきます。ここでイエスが絶えず祈れといっても、一日中聖櫃の前に座っているとか、ロザリオの祈りを絶え間なく唱えることを勧められたとは思えません。だからといって、「自分の活動はすべて祈りです」的な自分の活動を美化し、正当化する傲慢なあり方をイエスが勧めたとも思われません。ではイエスさまが絶えず祈れというとき、一体何を意味しているのでしょうか。それともイエスさまは、わたしたちに実現不可能なことを要求しておられるのでしょうか。

そのヒントは、「不正な裁判官とやもめ」のたとえの中にあるのではないかと思います。そのたとえの中で、神を畏れず人を人とも思わない裁判官にしつこく訴えるやもめの姿が描かれています。しつこく食い下がるやもめの訴えに根負けして、裁判官はやもめのために裁判をするようになります。不正な裁判官がやもめの訴えを取り上げるのは、正義からではなく、あのやもめが「うるさくて、ひっきりなしにやってきて、わたしをさんざんな目に遭わせるにちがいない」と考えたからなのです。

イスラエルの社会では、やもめという身分は非常に弱い立場で、法的な保護を受けることがほとんどできない、人々から、特に男性から暴虐と搾取の格好の対象でした。イスラエルでは、女性にいかなる社会的身分の保証もなかったのです。ですから、人々はやもめの財産を搾取したり、借金の方にやもめやその子どもを売り飛ばしたりすることは決して珍しくなかったのです。だから、やもめが求める訴訟というものは、自分と自分の生活を守るためのものだったのです。裁判官が訴えを取り上げて、自分を守ってくれなければ、やもめは次の日から生きるのに困るのです。いくら裁判官にうるさいと思われたとしても、彼女にとっては生きていくために必要なことであり、なりふりなどかまっていられず、まさに生きるための戦いでした。ですから、やもめは寝ても覚めても裁判のことしか頭にはなく、裁判官に必死で食い下がるのです。今、やもめにとってこの訴えを取り上げてもらうために裁判官に食い下がることが生きることであり、彼女のすべてになっていました。つまり、この裁判官に向かっていく必死な関わりが、やもめの中で生きていくということ、ひとつの習性、存在のあり方になっているのだといえるでしょう。

イエスさまがわたしたちに、絶えず祈りなさいといわれるとき、わたしたちに求めていることは、神さまとわたしとの関わりが、あたかもひとつの生きた習性、存在のあり方となるまで、その関わりを深めていくことの必要性をいっておられるのではないでしょうか。確かに、神さまはどこにでもおられ、わたしたちのこころの中に救い主として、親しい友人として現存されています。ですからわたしたちはいつでも、どこでも絶え間なく神さまの大いなる生命の中にいて、その生命の中に生きているのです。しかし、この神さまとの関わりはわたしたちの側から求めて深めていかない限り、神さまのわたしたちのうちにおける現存は単なる神学的な教え、絵に描いた餅になってしまいます。

その関わりを深めていこうとする態度は、あたかも母親がやがて生まれてくるであろう子どものために、自分のお腹の中にいるときから、その子どものために時間と労力を割いて養い育てながら母親となっていくのと似ています。誰も生まれながらに母親であるものはいません。母親は子どもを胎内に宿したときから、子どもと関わり、少しずつ母親になっていくのです。そして、母親はいつでも、どこでも絶えず子どものことを思っているようになっていきます。寝ても覚めてもいのちのある限り、子どものことが母親にとってすべてとなっていくのです。自分と子どもが一緒にいないときであっても、母と子という関わり、しっかりとした絆ができていますから、母も子も安心していられるのです。この母と子という関わり、絆ができている状態、これが絶えず祈れといわれたことなのです。大切なことは、誰も生まれながら、すぐに自動的にこのような状態にはなれないということです。母親になるということは、決して自動的ではありません。子どものために時間と労力を割いて子どもに関わっていくこと、それによって母親になっていくのです。それに、いつもいいことだけではありません。あるときには、もうすべて投げ出したいと思うようなこともあるかもしれません。しかし、もし母親が母親であることを止めてしまったらどうなるでしょうか。新しい生命は、子どもは育たないのです。これがわたしたちの祈りにおいても同じことがいえます。わたしたちの側から神さまへ関わっていかなければ、神さまはおられたとしても、その関わりはなく、死んだも同然なのです。からし種を大事にとっておくようなものです。わたしたちが親しいといっている人と、一週間に1時間、一日に2、3分しか関わらないというのであれば、その相手はわたしにとって、そんなに親しい人とはいえないのではないでしょうか。わたしたちの祈り、イエスさまとの関わりは、そのようになっているのではないでしょうか。それではイエスさまと親しくなることはできません。

わたしたちが神さまに向かって、今日のやもめのように必死に関わっていき、その関わりがあたかもそひとつの習性、わたしたちのあり方となっていくまで、神さまとわたしたちのあいだで、その関わりは深められていかなければならないのです。信頼に満ちた愛の絆が深められていくとき、その関わりは絶え間のない愛に満ちた相手への思い、気遣いとなっていきます。そして、お互いにただ相手の願いを果たしたいと望むようになっていくのです。そのときわたしたちのすべての活動は、宣教であり、祈りであるといえるようになるのでしょう。しかし、これは、祈りの生活の頂点においておこることで、わたしたちはそれからはるかに程遠いことを自覚しなければならないと思います。ただ、わたしがなんであってもなくても、わたしたちのうちにイエスさまが現存されているのですから、わたしたちにまず求められることは、わたしたちが関わるべき方をまずよく知ることです。これが学びです。

イエスさまはわたしたちをしもべとは呼ばれず、友であるといわれました。イエスさまのことを知ることなしに、イエスさまと関わることも、愛することもできません。母親が子どもと関わることで母親となっていくように、わたしたちもイエスさまと関わっていくことでイエスさまの友となっていくのです。そのために先ず、そのイエスさまを知ること、知れば知るほどその方のことが好きになります。好きになるのでもっと知りたいと思うようになります。この関係ができてくればしめたもので、イエスさまはわたしにとってかけがえのない方、親友となっていきます。わたしたちにとって大切なことは、先ずイエスさまのことを知って好きになることです。そして愛し始めること、それがすべての祈りの生活の始まりなのです。

年間第28主日 勧めのことば

年間第28主日 福音朗読 ルカ17章11~19節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は先週に引き続いて、信仰という問題を取り上げます。神さまから与えられた恵みである信仰が、どのようにわたしのこととなるのかというテーマです。イエスさまは、重い皮膚病を患っていて、癒された人に、「あなたの信仰があなたを救った」といわれました。それは、10人の病人が癒されて、イエスさまに感謝するために引き返してきた、ひとりのサマリア人だけが救われたという意味ではありません。また、このサマリア人だけが深い信仰心をもっていて、それでその人が救われたという意味でもありません。それでは、イエスさまがいわれたのはどういうことでしょうか。

当時、レビ記で規定されていた重い皮膚病は、不治の病で一度罹れば治るということがない病として恐れられていました。ですから、この病人たちは、この病は人間の力ではどうすることもできないことを心底分かっていました。そうすると、人間はどうするでしょうか。おそらく、人間の力を超えた特別なものにすがろうとします。それが当時、不思議な癒しの力をもっていると噂されていたイエスさまだったのです。ですから、彼らはイエスさまがお通りの際に、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と叫び声をあげます。彼らは、自分たちは憐れんでもらうことしかできない存在であることを心底分かっていたのです。自分で頑張ってとか、一生懸命お祈りしてとか、信仰深くなってとか、そんな自分の力ではどうすることもできないことを知っていました。彼らは自分たちの病気を治してもらいたいただその一心で、イエスさまにすがります。それ自体は信仰でもなんでもなく、自分の病気を治してほしい必死な願い、生きたい、治りたいという欲でした。多くの説教で、彼らが癒されたのは、彼らはイエスさまに必死に治してくださいと願ったその熱心さが信仰であると説明されることが多いと思います。でもそれだけなら、よくある奇跡物語で、お稲荷さんでも、観音さんを信心するのでもいいわけです。そのような信仰は、ただの人間の願望でしかありません。その願いは、どこまでいってもわたしたちの欲であって、そのようなものは信仰とはいいません。また、救いと病気が治るということは無関係なのです。

大切なことは、今まで病気が治りたい一心でイエスさまにしがみついていた人が、自分の病気が癒されたことをきっかけにして、わたしたちを生かし、わたしを必ず救うと仰っているイエスさまと出会ったということなのです。自分のことで精一杯で、自分のことしか考えられない、ただ自分の病気を治したい一心でイエスさまにすがっていただけの彼らのこころに、人類を生かし、あなたを必ず救うというイエスさまの誓いが、憐みが入ってきたということなのです。ですから、彼らが「イエスさま、わたしたちを憐れんでください」と叫ぶ前に、人類を生かし、必ずあなたを救うというイエスさまの救いの誓いが、憐みがすでにあったということなのです。そして、そのイエスさまの救いの誓い、憐みが、彼らのこころに信仰として届いたということなのです。ですから、「あなたの信仰があなたを救った」といわれている病人の信仰は、病人の信仰ではなく、あなたを必ず救うというイエスさまの救いの誓い、そのイエスさまによって生かされていたことへの気づき以外の何ものでもありません。信仰とは、イエスさまの人類を一人残さず救わないではいられないという誓いが、わたしたちのこころに信仰として振り向けられたものであり、その信仰がわたしの信仰となるときに、その信仰がわたしを気づかせる、救いを体験するということなのです。救いは死んでからのことではありません。わたしを救うといわれているイエスさまと、今というこのときに出会うこと、そのことに気づくこと、それが救いなのです。死んでから天国に行くとか、そういう話ではありません。

わたしが何をしたからとか何をしなかったからとか、わたしが信じたとか信じなかったとかではなく、先ずわたしと出会いたいと願っておられるイエスさまがおられて、そのイエスさまと出会うこと、あなたを必ず救うと誓われたイエスさまのこころに触れること、それが救いなのです。わたしの中にはイエスさまによって救ってもらえるようなものは何もない、ただわたしを必ず救うと誓われたイエスさまの声が聞こえていること、そのイエスさまのこころを頂くこと、それが信仰に他なりません。わたしが救われるために、自分のこころを見つめ、こころを整えて自分の生き方を見直し、わたしが悔い改めたとか、善行をして功徳を積んだとか、祈りを何度したとか、そんなことではないのです。わたしのすることなどイエスさまの救いには何の価値もないことに気づき、ただわたしを救うといわれたイエスさまの誓いだけが真実であることに気づき、そしてその誓いにわが身を任せること、それが信仰なのです。重い皮膚病を癒された9人の人たちは、自分が救われているということに気がつかないで行ってしまいました。しかし、ひとりのサマリア人だけが自分は救われているということに気づいて、イエスさまのところに感謝するために帰ってきました。それでイエスさまは、「あなたの信仰があなたを救った」、あなたはすでに救われているのだと宣言されました。それは、ああ~わたしは救われていたんだということに、気づいたということなのです。信仰は、イエスさまからその真実がわたしたちに振り向けられたものであって、わたしが作り出せるものではありません。イエスさまの救いの声がわたしに届いていること、それがわたしのこころにイエスさまへの信仰を引き起こすのです。