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年間第27主日 勧めのことば

年間第27主日 福音朗読 ルカ17章5~10節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は信仰をどのように捉えるかという問題です。弟子たちが考えていたことは、何かをすれば自分たちの信仰を強くすることができるということです。わたしたちは普通、信仰は人間のこころのもち方のように考えています。弟子たちは信仰を不可能なことを可能にするような力、例えば病気を治したり、他人を幸福にしたリ、人々を救ったりできる力と考えていたように思います。それに対して、イエスさまは「あなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば…」と話されます。確かにわたしたちがどんなに頑張って桑の木に「抜け出して海に根を下ろせ」と命令しても、そのようにはなりません。ということは、弟子たちもわたしたちにも、からし種一粒の信仰もないということになります。からし種は、この世界でもっとも小さい種のひとつですから、わたしたちにはからし種一粒の信仰もない、つまり、わたしたちは自分が信仰をもっていると思っているけれど、それは錯覚で、勘違いなのだということをいわれたのです。わたしたちは、わたしが信じていて、わたしが信仰をもっていて、わたしが信仰を守っている、だから信仰はわたしの信仰であると思っていますが、もともとわたしの信仰などないということなのです。

信仰というと、たいていの場合はわたしたちのこころのもち方とか、信念であるとか、神仏への恭順のこころだと思っています。日本語のいい方もそのことをよく表しています。「あの人はお稲荷さんを信心している」とか、「あの人はアーメンを信仰している」とかいいます。それは、その人がどの宗教に属しているかであって、まさに信じているわたしのありさま、わたしの信心のことを指しています。そして、「あの人はお稲荷さんを強く信心している」とか、「あの人は熱心に教会に行っている」とか、「一生懸命、奉仕活動をしている」といういい方をします。それらどこまでもいっても、わたしたち人間の意識活動としてのこころのあり方、またわたしの生き方として信仰を捉えています。ですから、わたしたちは自分の意志の力で、信仰を強くも弱くもできるのだと考えているのです。しかし、少し考えてみると分かるのですが、わたしの意志の力では、わたしのこころをコントロールすることはできません。

わたしたちが信仰をそのようなものだと思っているなら、今日のイエスさまのたとえ話にあるように、一生懸命働いて帰ってきて、主人がご褒美に「すぐ来て食事の席に着きなさい」といってくれると思っている愚かな僕と同じだということになります。イエスさまは、「命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝しはしない」といわれます。つまり、あなたがたが考えている信仰の理解、それ自体が間違っていますよということをいわれたのです。わたしたちは皆愚かで、イエスさまを信じて熱心に教会に行けば、真面目に生活すれば、一生懸命職務を果たせば、つまりわたしが頑張って何かをすれば、イエスさまがご褒美に天国に迎え入れてくれるとか、救ってくださると思い込んでいるということではないでしょうか。そして、そのようなことを信仰であると思い込んでいます。イエスさまは、そんな信仰理解はわたしと駆け引きをしているだけであって、真の信仰ではない。そういう人間の思い込みをすべて捨てて、空の手になって、わたしに任せなさいといわれているのです。わたしたちが信仰して、立派に働いて、その報いとして救われるのではないということです。

イエスさまの救いは、どのようにしても救いようがないわたしたち人類を救うという、イエスさまの誓い、憐れみのこころによってなされるものです。自分の力で一生真面目に努力して、それで救われるのであれば、イエスさまはいらないことになります。ですから、表面的にはイエスさまを信じているといいながらも、イエスさまを疑い、自分の力で何とかしようとして、実はイエスさまなどいらないといって背を向けている、“救われがたいわたし”がわたしたちの姿なのです。そのことを知っておられたイエスさまが、わたしたちを救うという計画を起こしてくださったのです。そのようなイエスさまの深い憐れみのこころ、イエスさまの救いを、わたしたちがそう簡単に理解できるはずがありません。イエスさまのこころは、わたしが祈りをする、ミサに行く、犠牲をする、人を助けたことの報いとして救ってもらおうと思っているような姑息な思いとはまったく異なったものなのです。ですから、わたしたちは何をしたところで、何を頑張ったところで、イエスさまの救いには関係ないのです。ただイエスさまがわたしを救うと誓われたそのこころが、わたしたちのうちに届けられており、それが信仰に他ならないのです。信仰は、わたしのこころのもち方とか、わたしのこころの問題ではありません。イエスさまが何としてもあなたを救うと誓われたその願いが、恵みとしてわたしに与えられ、わたしのこころに届いたものが信仰に他なりません。だから、わたしの信仰といっていますが、わたしの信仰など初めからないのです。その信仰は与えられるものですから、わたしたちがそれを受け取らない限り、信仰にはならないのです。わたしが信仰を守るとか、わたしが信仰を強くするなどということ自体、本来あり得ないのです。

イエスさまから、そのような信仰が与えられていることに気づいた人は、わざわざ遜って謙遜してではなく、「わたしどもは取るに足らない僕です。しなければならないことをしただけです」と、自然とそのような言葉が出てくるのでしょう。なぜなら、その人は自分が何かよいことをしたとしたら、それは自分ではなく、自分の中のイエスさまであることを知っているからです。わたしの中に、何ひとつとして、イエスさまによって救われるような種はないのです。ただ、イエスさまによってわたしのこころに蒔かれた種があるだけなのです。それをわたしのものだというなら、それは人のものをわたしのものだと言い張っているようなもので、そこに真実はありません。わたしたちのうちに種がまかれているということ、その信仰という種はイエスさまのこころであって、その種がわたしたちのうちでイエスさまとして働いておられるのです。わたしたちのうちにおけるイエスさまのその働きに気づくこと、これこそがわたしたちの真の信仰生活に始まりなのです。わたしがあれをやった、これをやったといっているうちは、洗礼を受けただけであって、わたしたちは何もしていないことに気づいていないのです。

年間第26主日 勧めのことば

年間第26主日 福音朗読 ルカ16章19~31節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の箇所も、ルカだけ見られる固有の箇所です。このようなたとえ話が書かれた意図は何処にあるのでしょうか。「もし、モーセと預言者に耳を傾けないなら、たとえ死者の中から生き返るものがあっても、そのいうことを聞き入れはしないだろう」という言葉が、今日のたとえ話の結論になると思います。それでは、なぜ人は耳を傾けようとしないのでしょうか。自分は正しいと思っていたり、いつでも聞けると考えていたり、その人の性格などいろいろあるでしょうが、ひとつの大きな理由は、自分は死なないと思っているからではないでしょうか。死ぬまで、まだまだ時間があるから、まだ大丈夫と思っているのではないでしょう。そこで、今日は「死」というテーマから見ていきたいと思います。

人は誰でもが、「人は死ぬ」と頭では分かっていると思います。現代社会で100%確実なものは何もないといわれますが、すべての人は例外なく確実に死にます。しかし、その場合の死は他人のことです。なぜなら、わたしたちが体験するのは家族や自分に近い人の死であり、それは他人の死であって、どこまでいっても他人事でしかありません。他人の死を見ると、どうも死は大変なことらしいと思っています。しかし、どうしても自分の死というのは現実のこととしては考えられないのだと思います。

その一方で、どの宗教でも、見てきたような死後の世界の話をします。天国、地獄、煉獄、輪廻などでしょうか。しかし、死後の世界のことを話しているのは、100%生きている人間です。話しているのが生きている人間である限り、死についても、死後についても客観的に何かを語ることはできないはずです。イエスさまでさえ、生前に一度も死後の世界、死後のいのちについて話されたことはありません。だから、そんなものがあるのかどうか誰もわからないのです。確かに、イエスさまは永遠のいのちについて話されましたが、永遠のいのちとは死後のいのちのことではありません。わたしたちが今生きている、わたしたち生きとし生けるものを生かし、動かし、生死の枠を超えて働きかけている大きないのちの営み、その働きを永遠のいのちと呼んだのです。

生きている人で誰も死んだ人はいませんから、死が何であるかわからないのです。だから、死という100%確実な真理であっても、誰も自分のこととして認めたくないのです。他の人は死んでも自分だけは死なない、いつまでも生きていると思っている。医学が進歩し、社会や家庭から死が隠されていけばいくほど、人間が死ぬという感覚を失くしていくのではないでしょうか。またその一方で、現代人は、自分の「死に方」を自分で決めようとします。エンディングノートを書いたり、終活をしたりします。多くの人は、他人の死に方をみて、立派な最期だったといい、あるいは無念な死に方だったといいます。しかし、それは単に「死に方」の問題であって、それは「死」ではないのです。「死に方」と「死」を混同しているだけなのです。カトリックではどういう「死に方」をするかで、その人の救いが決まってくると教えてきました。でも、そんなことを誰が決めたのでしょう。安らかな立派な死に方をした人は聖人で、酷い死に方をした人は罪人だとでもいうのでしょうか。わたしたちのイエスさまは罪人の中の罪人として、絶望のうちに死んでいかれたのではないでしょうか。あんなみじめな「死に方」はありません。しかし、それは「死に方」の問題であって、死そのものではありません。わたしたちは見た目の現象としての「生き死に」に捉われているだけではないでしょうか。

死はすべての人に平等に訪れます。生きているものは必ず死ぬのです。人間は病気や事故で死ぬのではありません。生まれてきたから死ぬのです。人間が死ぬということは、生きているから、生まれたからだという以外の理由はないのです。そして、わたしたちが見るのは他人の死だけです。自分が自分の死を見るということはありません。多くの人は、死ぬと自分がなくなるとか、死後の世界にいくなどというイメージを持っていますが、それはあくまでも生きているわたしたちが思っているだけなのです。教会が教えているから、来世のいのちを信じるということでも構いません。しかし、そうだとしても、そうでなかったとしても、何であるかわからない死を恐れて、また死後の世界のことを心配しながら、今日という日々を過ごすのであれば、わたしたちは何ともったいない生き方をしていることでしょうか。わたしたちは、今というときを生きていないのです。わたしたちが生きるのは、今というこのとき、この刹那のときだけなのです。今日のたとえ話は、わざわざ金持ちとラザロの死後の二人の顛末を話して、生前での善行を促すというような陳腐な教訓話ではありません。あなたがたは、今を生き、今、神のことばに耳を傾けなさい、今、神のことばを聞かないなら、永遠に聞くことはない、といわれたのです。

イエスさまがいわれたのは、「聞く」というわたしたちのあり方です。イエスさまは、わたしたちが聞かない存在であることをよくご存じでした。あなたがたは、いくらアブラハムが話そうとも、ラザロが死者の中から蘇って話そうとも、復活されたイエスさまが話そうとも聞かない、といわれているのです。それは、あなたがたは、今というときを生きていないからである、といわれるのです。それは、わたしが死すべき存在であることを受け入れていないから、だらだらと生きているのだと。わたしたちは、過去の出来事や失敗、成功体験に囚われているか、あるいは将来への期待や夢に逃避しているだけで、今というときを生きていないのです。わたしたちが生きているのは、今というこのときしかないのに、今を生きようとしない。だから、今、聞くということができないのも当然なのです。わたしたちが生きているのは、今という一瞬、今という刹那であり、そこにすべてが、永遠があるのです。わたしたちは、過去でも未来でもなく、今を生きることしかできないのです。わたしたちは、いつイエスさまと出会い、いつイエスさまに聞くことができるのでしょうか。昨日でしょうか。明日でしょうか。1週間後でしょうか。それとも何年か後でしょうか。わたしたちは、今、生きているこのときしか、イエスさまと出会い、イエスさまに聞くことはできないのです。イエスさまのことばが、今、わたしに聞こえる、このことが救いなのです。そのために、イエスさまは今、わたしに働きかけてくださっているのです。

年間第25主日 勧めのことば

年間第25主日 福音朗読 ルカ16章1~13節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日のたとえ話は、放蕩息子のたとえ話の直後に置かれています。今年は十字架称賛のお祝い日が日曜日に入りましたが、普通であれば、年間第24主日に15章の放蕩息子のたとえで、憐れみ深いお父さんの姿が読まれた次の週に、世間的で不正な管理人のたとえ話が読まれるわけです。しかも、今日の箇所は、放蕩息子のたとえもそうなのですが、ルカ福音書にだけに見られるたとえ話です。マタイ、マルコに並行箇所が見られないということは、今日の箇所はルカの関心事によって編集されたとみるのが正しいでしょう。それにしても、今日の箇所はイエスさまに由来する話として理解しがたいものがあります。そもそも、このようなたとえ話を現代人のわたしたちが理解することは非常に難しいものがあります。15章の放蕩息子のたとえ話もルカ固有なものであることを考えると、ルカは放蕩息子のたとえで憐れみ深いお父さんの姿で神さまの姿を紹介し、16章で抜け目のない管理人の話をすることで、人間の姿をあからさまに示そうとしてわざと並べたのかもしれません。それにしても、今日の箇所から何を受け取ればいいのでしょうか。イエスさまの意図からかなり離れてしまっており、これはルカの教会の関心事であるということをよく知っておく必要があると思います。

「不正な富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか」、「神と富に使えることはできない」というのが、今日のたとえ話の結論であると考えられています。不正にまみれた富というのは、不正義な手段で手に入れた富という意味ではなく、この地上の富という意味です。そのことから考えていくと、当時のルカの教会が置かれていた状況というものがあるのではないかと思われます。つまり、教会が「本当に価値あるものを任せられる」ものなのか、また「本当に価値あるものを任せられている」という意識があるのかどうかという問いかけがあったのではないかと思います。ルカの教会は、ユダヤ教から独立し、異邦人宣教に向かっていった教会です。教会が教団として広がっていき、組織が大きくなっていくということは、どうしても組織を維持していくということに関心事が動いていきます。自分たちの組織を維持していくために、自分たちは選ばれた正しい正統な集団であるという意識をもたなければやっていけません。そして教団の体制を整備し、教えを整理し、財産を管理していくという問題も出てきます。その上で、その当時の社会と対峙していくわけで、それは当時の社会と距離をとっていくことになりますが、現実的には対峙する社会の価値観ややり方を自分たちの中に取り入れていくことを意味しています。そうすると、地上の富というものとどういうふうに折り合いをつけていくかということが問題になります。ルカ福音書のひとつのテーマは、貧しさということです。そうすると、貧しさということを強調しておきながら、教会は自己矛盾を抱えるということになっていきます。さらに自分たちの教団に入れば救われるが、入らないものは救われないというような教えを作っていくわけですからなおさらです。そのようにして教会は自らのアイデンティティを作っていくのですが、そのことによって教会は既成宗教に成り下がり、イエスさまの福音を宣べ伝えるという本来の使命からずれていきます。ルカの教会の中には、そういう危機感があったのではないかと思います。イエスさまの福音を生きることと、実際に組織を維持し、運営していくという現実の板挟みになっていたのではないでしょうか。

現代のキリスト教はどうでしょうか。時代や社会からかけ離れた教えや制度、組織にしがみつき、自分たちは特別なグループだという意識にとらわれていないでしょうか。現代の教会をみてみると、教団への忠誠心を要求し、教団の教えをイエスさまの教えであるとして、それを守ることに拘っているように見えます。そうなると、教会は社会から乖離していき、社会は宗教を必要としなくなっていく、そして教団も本来の使命から離れ、特殊化していくという悪循環に陥ります。これでは、現代人の魂の要求に応えることができなくなってしまいます。教会は自らの現実に問題があるということを常に意識していなければならないということだと思います。ルカの共同体はその意識をもっている共同体だったのでしょう。いくら自分たちの宗教は真理をもっている、「本当に価値あるもの」をもっているんだと主張したところで、イエスさまの教えから離れていては宗教としての役割を果たすことはできません。ですから、教団の中にいるものは、絶えず自分たちの枠を取り壊していくという意識をもっておく必要があるのだと思います。

カトリック教会は完璧で、普遍的であるという考え方自体、錯覚ではないでしょうか。教会はあくまでも神の国、人類すべての救いのための手段であって、その役割が終われば終焉するのだという意識をもっている必要があると思います。カトリックの人だけは救われるというのなら、これはイエスさまの教えではありません。すべての人類が救われるためであれば、カトリックがなくなってもよい、というのが本来の宗教の姿です。自分たちのいる教団だけは生き残るというのであれば、これはイエスさまの教えではありません。単なる宗教的エゴイズムでしかありません。外ずらはキリスト教、しかし内側は、ひどい宗教的エゴイズムということが起こってくるのです。それでは、なんでもかんでもいいのかというとそうではなく、わたしが真理であるイエスさまと出会うことが大切なのです。真の宗教は、病気が治るとか、お金持ちになるとかそういうものではありません。真の宗教は、わたしの個人的な幸福を約束するものではありません。わたしの生き方を問う、いのち、真理を追い求めていくことが、宗教の本質的なあり方です。人間を問うということは、人間の生死を問うということであり、それがイエスさまを問う、真理であるイエスさまと出会うということです。その意味で、今日の福音は、あなたがたは「本当に価値あるものを任せられる」ように生きていますか、あなたがたは真理を追い求めていますか、ということが問われているのだと思います。わたしたちは、「神と富に仕えることはできない」という言葉をどのように生きているか、教団にも、わたし自身にも問われているのだと思います。

十字架称賛 勧めのことば

十字架称賛 福音朗読 ヨハネ3:13~17

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の十字架称賛のお祝い日の起源は古く、コンスタンチヌスの母ヘレナがエルサエムでイエスさまがかかられた真の十字架を9月13日に発見したという出来事に由来しています。そして、335年の9月13日にエルサレムの復活聖堂が献堂され、その翌日にイエスさまがかかられた十字架の木を礼拝する習慣が広がり、それが十字架称賛のお祝い日になりました。

以前にもお話ししましたが、小学生のとき、お寺の日曜学校で聞いた話です。ある国の慈悲深い王子は、森で飢えて動けなくなっている母虎と子虎に会いました。王子は慈悲のこころを動かされ、母虎に自分の体を食べさせて、母虎が子虎たちにお乳をやれるようにと決心します。しかし、王子が目の前に体を差し出しても母虎は食べる元気もないほど衰弱しています。そこで、王子は崖から飛び降りて血を流し、その血を母虎に飲ませようとします。そうすると、母虎はやっとその血を飲んで気力を取り戻して、王子の傷ついた体を食べて元気になって、子虎にお乳をやることができ、母子ともに生きながらえたという話です。この王子は生まれ変わってお釈迦さまとなって、衆生を救うために悟りをひらくという話です。それが法隆寺の宝物の玉虫厨子の側面に描かれている「捨身飼虎(しゃしんしこ)」というお釈迦さまの前世譚の物語です。小学生のわたしは、その話にこころを動かされないではいられませんでした。わたしはこの王子の生き方にあこがれるというか、このいのちの真実を語る話に小学生ながらすべてを聞いたような気がしました。現代であれば、そんなことをすれば、血の味を覚えた虎がまた人を襲うのではないかとか、いろいろな反論があると思いますが、これはいわゆるたとえ話であって、それこそいのちの真実を明らかにするための話であったのです。

そして、今日、わたしたちが祝うイエスさまの十字架は、この話そのものです。これ以上、何かを説明する必要があるでしょうか。イエスさまが十字架の死によって、わたしたちの罪を贖い、罪人として売られているわたしたちを買い戻してくださったのだなどという贖罪論を持ち出すまでもない話です。虎を養うために崖から身を投げるという行為は、イエスさまの十字架そのものです。宇宙開微以来、すべてのいのちはお互いのいのちをわかちあうことによって生きながらえてきました。わたしたちは、いのちを誰かから分けてもらうことなしには生きていくことができないのです。動植物はその食物連鎖によって、お互いのいのちをわかちあいながら生きている、これがいのちの真実の姿なのです。そして、このいのちは消えていくもの、はかないものなのです。この地上には終わりのないいのちなどあり得ないのです。だから、いのちは美しいのです。

このいのちの循環は、食物連鎖というふうにいわれています。そして、その食物連鎖の頂点にいるのだと錯覚しているのが愚かなわたしたち人間なのです。人間は頂点などにいないのです。だれがそのようなことを教えたのでしょうか。いのちの絶妙なバランス、調和をたもってきた食物連鎖という循環の中に、人間が「弱肉強食」という概念を持ち込んでしまったのです。弱肉強食は食うか食われるかの世界、競争世界です。他の誰かの何かを奪わないと生きていけないと錯覚している人間の観念の世界なのです。これは観念であって、本来は存在しないものなのです。このような観念に支配されていることが、わたしたち人間か抱えている罪であり、社会が抱えている根本的な問題で、それが競争、差別、貧困、飢餓、戦争等という姿をとってあらわれているのです。競争、差別、貧困、飢餓、戦争自体をなくすために働くことも大切ですが、大切なことはその観念から解放されていくことなのです。

この捨身飼虎の物語は、この弱肉強食という人間の観念を出離したところにいのちの真理があることを描いているのです。しかしながら、人間である限りこの弱肉強食の観念の世界から出離することは非常に難しいというのが現実です。だからこそ、イエスさまは人間となり、人間の食糧となって、わたしたちのために十字架にかかり、いのちの真実をわたしたちに啓示してくださったのです。

イエスさまの十字架は、「捨身飼虎」の行、イエスさまの決して終わることがない永遠の修行です。イエスさまご自身が迷いの衆生の身となって、衆生とともに迷い、衆生にその身を分かち合いながら、衆生がひとり残らず皆救われるときまで、その行を続けられておられる、これこそがイエスさまの十字架なのです。わたしたちはこの大いなるいのちによって生かされていながらも、わたしたちはいつまでもいのちの外にあり、わたしたちは「弱肉強食」という観念に縛られたままなのです。イエスさまはこの観念が幻想であり錯覚であることを、ご自分がいのちを捨てて、自分が死んでみせて、いのちはこういうものだということをわたしたちに示してくださったのです。わたしはわたしのいのちを自分でどうすることもできないとしても、この大いなるいのちの中にあり、そのいのちの働きに気づかされ、その大いなるいのちの循環に己の身を委ねていくとき、わたしたちもいのちそのものとなって、ありのまま、自然のままに生き、死んでいくことができるのです。わたしたちもこの大いなるいのちそのものなのですから。このいのちの自分を与えていこうとする愛の働きにわたしたちが目覚めることが救いであり、わたしたちの死からの解放、復活のいのち、永遠のいのちなのです。

年間第22主日 勧めのことば

年間第22主日 福音朗読 ルカ14章1,7~14節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の話はわたしたちにとっては、非常に分かりにくい話であると思います。イエスさまは、食事の席に招かれた人たちが上席を選ぶ様子に気づいて、今日のたとえを話されました。「たとえ」というのですから、これは単なる世間的な知恵や道徳について話されたのではなく、神の国についてのたとえであることがわかります。それにしても、神の国の何についてのたとえであるのか、非常に分かりにくいといわざるを得ません。普通、このたとえを聞いたら、イエスさまが礼儀作法について話されたとしか考えられません。そして、日本人であれば、何かの席に招かれたとき上席に座る人はありません。それこそ、世間知らずで、社会性がないということになります。ユダヤ人には、日本人のような謙譲の美徳というようなものは通用しません。ですから、あからさまに上座に座ることをいさめなければならなかったのでしょう。では、日本人は皆が下座にいきたがろうとする、だから謙虚な国民かといえばそうではありません。教会でも謙遜、へりくだりということをしきりに教えますが、謙遜、謙遜といっていると、かえって謙遜になる努力をするという傲慢に陥ってしまいます。謙遜というのは結局傲慢の裏返しであり、へりくだりというのも自分が上にいること前提にした発想でしかないからです。ですから、傲慢に対していわれるような謙遜というものは、本当の謙遜ではありません。イエスさまがここでいわれていることは、自分の座るべき所に座るということを意味しています。

金子みすゞの詩に「私と小鳥と鈴と」というのがあります。「私は両手をひろげても、お空をちっとも飛べないが、飛べない小鳥は私のやうに、地面を速くは走れない。私がからだをゆすってみても、きれいな音は出ないけれど、あの鳴る鈴はわたしのやうに、たくさんの唄は知らないよ。鈴と小鳥と、それから私、みんなちがって、みんないい」。わたしたち人間は、鳥でないのに飛んでみようとしたり、鈴でないのに音を出そうとしたりします。わたしたち人間だけが、必死に自分以外の何ものかになろうとしているのではないでしょうか。しかし、そもそもわたしたちがなろうとしている自分とは何でしょうか。「わたしは○○です」といえるものは、果たしてわたしでしょうか。親子との関係では、親であったり子であったり、兄弟との関係では、兄であったり弟であったり、会社では上司であったり部下であったり、学校では教師であったり生徒であったり、教会では信徒であったり司祭であったり、ペットとでは飼い主とペットであったり、それらはいずれも関係性の中でのみ成り立っているわたしに過ぎません。しかし、わたしたちはそのような自分の立場にこだわり続けているのです。それらは確かにわたしの一部でしょうが、それがなくなったら、わたしはわたしでなくなるわけではありません。

それでは、もっと根本的な意味で自分とは何でしょうか。名前でしょうか。役職でしょうか。肉体でしょうか。魂でしょうか。キリスト教では魂ということにこだわりますが、この魂が自分でしょうか。実は誰もわからないのです。何もわからない自分が一生懸命、自分でない何ものかになりたがっているとしたら、こんなに滑稽なことはありません。自分など、本当はあるようでもないし、ないようでもないし、何ものでもありません。あるんだかないんだかわからないのに、何か確固としたものが「ある」ように思い込んで、執着している。そして、その何ものかになろうとして、必死で努力し、自分探しを続けています。イエスさまは、あなたは自分のことを何ものかのように思い込んで生きているけれど、一度それを手放してみなさいといわれているのではないでしょうか。そうすれば、どちらが上座に座るとか、どちらが偉いとか、どちらが優秀だとかいったことはどうでもよくなるはずです。

わたしの部屋に「赤い実がなる木に、赤い実がなった。木の満足」という言葉が掛けられています。当たり前のことなのですが、この当たり前のことができないのがわたしたち人間です。謙遜ということを、わざわざいわなければわからないほど、人間は他の動植物より愚かなのです。「謙遜は真理である」といわれます。つまり、ありのまま、小鳥は小鳥、鈴は鈴、わたしはわたしということなのではないでしょうか。そのことがわからないのが人間ということになります。ある人の言葉に、「わたしは神さまのお使いになるほうきです。神さまはわたしをお使いになり、使われた後、わたしをドアの後ろにお置きになりました」というのがあります。神さまがほうきを使っておられるときに、ほうきは立派な働きをしています。しかし、掃除が終わったら、誰も振り向きもしないドアの後ろ、ほうきが普段置かれている暗い所に直されるということです。そして、そのことについて、ほうきは文句をいいません。この当たり前のことがわからないのが、わたしたち人間です。わたしは神父だとか、わたしは社長だとか、わたしは責任者だとか、そんなことに何の意味があるのでしょう。イエスさまがどうしてこんなわかりにくいたとえを話されたのか考えると、そこまでいわなければわからないほどわたしたち人間は愚かであるということなのでしょう。わたしは神さまのほうきです。どうぞ神さまのお仕事のためにお使いください。お仕事が終わったら、どうぞ隅っこに直してください。これを召命というのです。自分が何ものかになることが召命ではありません。神さまの前での真実のわたしが見えて、わたしがわたしがいるところに置かれる、それが召命なのです。

9月7日分はお休みさせていただきます。

年間第21主日 勧めのことば

年間第21主日 福音朗読 ルカ13章22~30節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

「主よ、救われる人は少ないのでしょうか」という弟子たちの問いから、今日の物語が始まります。そもそも、弟子たちのこの問い自体が間違っています。救いというものが、何かを信じたり、何かをしたことの結果であったり、また救いがすべての人の救いでないのなら、救いではありません。宗教は気をつけないと、救いに条件を付けたり、救いに線引きをしたり、こちらに来れば救われるが、こちらに来なければ救われないということをやりがちです。宗教は、自分たちの正統性を主張するために、他を排除し、救いを限定するという自己矛盾に度々陥ります。これがどの宗教も抱えている自己矛盾であり、同時にそれは自己内省、自己点検の要点にもなります。また宗教は、国家権力と結びついたり、民族・文化と結びついたりして、様々な問題を引き起こしてきました。そもそも、宗教が救いということを説くときに、救いを特定の人たちだけのものであるとしたり、信じた人だけが救われるといった時点で、それはもはや宗教の本来の姿から逸脱したものであり、真の救いではなくなってしまいます。わたしたちが信じている方は、そんなに狭量な方ではありません。慈しみ深く、憐れみ深い方であって、すべての人間の救いを望んでおられる方ではなかったのでしょうか。問題なのは、救いそのものを誤って捉えているわたしたち人間にあるのではないでしょうか。

今日の福音では、救いはすべての人が招かれている宴会として描かれています。しかし、宴会というイメージで救いを説明しようとすること自体にすでに限界があります。わたしたち人間は、宴会というと、ある特定の時間に、ある特定の場所で行われている、招かれる人と招かれない人がある会食としか捉えることができません。そうすると、わたしたちは、どうしたら宴会にいくことができるのか、その条件を考えて、その条件に適うようにしようとします。そして、その条件を充たすことが救われることだと勘違いするようになってしまいます。ですから、救いを宴会として説明しようとすることには、どうしても無理があります。イエスさまの時代にはまだ分かりやすいイメージだったのでしょうが、これだけグローバル化された現代においては、宴会は理解しがたく、紛らわしいイメージであるといえるでしょう。イエスさまが意図しておられたことは、おそらくもっと別のところにあったように思います。

イエスさまが問題にされていたのは、どうしたら救われるかということではなく、どこまでも救いに背を向け続ける人間の姿にあったのではないかと思います。そうすると、イエスさまがいわれた「狭い戸口」というのは、救われるための条件の厳しさではなくて、どこまでいっても救いを人間の頭の理解で捉えて、頑なに救いを拒否していく人間の狭さ、限界についていわれているのではないでしょうか。あとの部分で、イエスさまははっきりと、「人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国の食卓に着く」といわれました。そこには何の条件も付けられていません。誰をも排除しない、差別しない、すべての人が救いの対象であることが明確に述べられています。救いのために条件があるかのように思うのは、人間の勝手な思い込みであり、イエスさまと駆け引きをしているのにすぎません。こういうふうにすれば救われるといって、救いをどこまでも限定し、狭めていく人間の浅はかな知恵が「狭い戸口」なのです。そして、こんなはずではなかったと、泣きわめいて歯ぎしりするのです。人間の頭で考えている限り、イエスさまの救いなど分かるはずがありません。どこまでも、自分のこころで納得して、頭で分かろうとする愚かな愚かなわたしたちの姿が描かれてるのです。

実は、その愚かさに気づくこと、それ自体が救いなのではないでしょうか。救われる救われないではない、そのような分別をしているわたしたちの愚かさをはるかに超えて、わたしたちを救うといわれるイエスさまの願いだけがあるのです。イエスさまは、すべての人が「東から西から、また南から北から来て、神の国の食卓に着く」ことを願い、誓われているのです。そして、イエスさまが願い、誓われているということは、もうすでにその願いは実現しているということなのです。なぜなら、イエスさまは真実な方ですから、その誓いが反故にされることはあり得ないからです。わたしたちは、その願いに背き続けている自分らの愚かしさに気づく、気づかせていただくことだけだと思います。人間は、自分の力では決して自分の愚かしさには気づくことはできません。だれもが自分は、他の誰かよりはましだと思っているからです。そのような、わたしたちの愚かしさは消えることがありません。ただ、わたしたちを救うと誓われているイエスさまの真実のみが、わたしの愚かしさに気づかせてくれるのです。そして、その気づきが救いなのです。わたしが信じることで救われるのではありません。わたしたちは救われていることに気づくこと、それが信仰です。その信仰はわたしの心に起こりますが、わたしのこころに与えられた気づきであり、イエスさまからの一方的な恵みでしかないのです。わたしたちが救いだと思っているものから解放されること、それが真の救いなのです。

年間第20主日 勧めのことば

年間第20主日 福音朗読 ルカ12章49~53節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

イエスさまは、「わたしが来たのは、この地上に火を投ずるためである。その火がすでに燃えていたらと、どんなに願っていることか」といわれました。ここでいわれる火とは何でしょうか。イエスさまが切に願っておられるこの火とは、どのような火なのでしょうか。旧約聖書のなかで、火は聖霊のシンボルとして使われてきました。火は人間が暖をとったり、料理をしたりするなど、人間の生活に欠かせないのですが、また火はすべてのものを焼き尽くしてしまう激しさをもっています。すべての汚れを浄め、すべてのものを焼き尽くし破壊し、自らへと同化してしまう働きがあります。イエスさまが地上に火を投ずるために来たといわれるのは、この愛の炎である聖霊で世界を焼き尽くすことだったのではないでしょうか。イエスさまがこの世界に愛の火が燃え上がることを切望され、また愛の火でこの世界を焼き尽くそうといわれているということが、どのようなことか味わってみたいと思います。

この愛の火の特徴は、すべてのものを焼き尽くすということです。すべてのものを焼き尽くすということは、よいものも悪いものも、価値があるものも価値がないものも、紙切れであろうと1万円札であろうとも、同じように焼き尽くしてしまうということです。よいもの悪いもの、価値があるもの価値がないもの、紙切れと1万円札の違いを決めているのは人間の都合です。付加価値をつけるといういい方がありますが、付加価値とは、生産活動によって生産された商品の価格が、原材料等の価格より高くなることをいいます。そもそも、その原材料に価格をつけているのも人間です。その基準は、あくまでも人間にとって役に立つか役に立たないか、人間の都合です。この世界のすべてのものが商品のための材料で、人間さえも人材として扱われているわけです。その根底にある価値観が、わたしにとっての善悪、有用無用という人間の分別、人間の都合に他なりません。そして、その分別が人間世界にありとあらゆる分断、分裂、差別、争い等を引き起こしているのです。イエスさまが投ずるために来たといわれる火は、それらのすべての分別を飲み込んで、焼き尽くしていきます。これが愛の第1の働きです。

第2の特徴は、火はすべてのものを浄める働きであるということです。大海は、自分に注がれるすべての汚れを受け入れます。大海は、単にその汚染されたものを希釈するだけではなく、浄化していく働きでもあります。火も同じように、汚れたものを薄めるのではなく、自らが受け入れて、その汚れを浄める働きをもっているのです。わたしたちの罪や汚れ、過去の忌まわしい思い出や傷、どうすることも出来ないものもすべて焼き尽くしていきます。わたしたちの中にあるそのようなものを、わたしは自分ではどうすることも出来ません。わたしたちがどれだけ否定しようとも、存在し続けるわたしの一部であるのです。しかしそれらが、イエスさまの愛の火の中に一度投げ込まれると、焼き尽くして、わたしたちを浄めていくのです。

第3の特徴は、火は火の中に投げ込まれてものを、火と同じものにしていく働きがあります。たとえそれがどんなに汚れたものであっても、ひん曲がっているものであっても、一度火の中に投げ込まれると、初めは臭い匂いやその中に含まれている水蒸気、有害物資を吐き出しながら、火は投げ込まれたものの中に浸透していき、やがて火と区別することができないほどひとつになって、燃え上がる炎となって燃え上がります。わたしたちの罪や汚れ、わたしたちのみじめな自己中心性、わたしたち自身もすべて、聖霊という愛の活ける火の中に投げ込まれるなら、わたしたちの感覚は静められ、分別という理性は浄められ、意志は神の意志とひとつとなって、ただひとつの意志、ひとつの愛となって燃え上がります。そして、イエスさまが愛される同じ愛をもってイエスさまを、人々を愛するものとなります。そこにおいては、「もはや、ギリシャ人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられる(コロ3:11)」世界が現れます。そしてその世界こそが真実の世界であり、実はわたしが今生きている世界は真実の世界なのだということが明らかにされます。その真実に背を向けているのがわたしです。その真実に目覚めさせる働きが、世界に投げ込まれる火、聖霊なのです。

ここで大切なことは、その真実は将来のこととか、わたしたちが努力して頑張って、いつかそうなるといっているのではありません。わたしたちは、今すでに愛の火に投げ込まれ、愛に焼き尽くされて、愛の炎となって燃え上がっているのです。わたしたちが頑張って愛の業をおこなって愛の火を燃え上がらせるというのであれば、それは人間の業によって神の働きをおこさせようとすることであり、人間が中心になって神さまに指示することになります。そうではなく、されるのはあくまでも神さまであって、人間はそれに協力するのにすぎません。

イエスさまが宇宙の歴史の中にお生まれになった、イエスさまの生涯、特に受難、死、復活によって、ご自分の愛を永遠化して、無限の光ですべてのものを照らし、無限のいのちですべてのものを充たされたのです。そして、時間と空間を超えて、イエスさまの愛の炎はわたしたちを焼き尽くし、愛の炎とし、燃え上がっているのです。これは死んでからの話でも、特別な聖人たちのための話でもないのです。その愛の火は、今このとき燃え上がっており、わたしたちがそのことに目覚めることをイエスさまは願っておられるのです。イエスさまが切に願っておられることは、それはもう実現し動いているのです。「今日、あなたがたが耳にしたとき、実現している(ルカ4:21)」といわれている通りです。わたしたちが信じたから、何かをおこなったから、わたしたちが祈ったからそうなるという話ではないのです。イエスさまがそう働いておられるのです。確かに、わたしたちは肉の人で、罪の中に投げ込まれています。しかし、「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。そのキリストの血によって義とされ(ロマ5:8,9)」、「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちのこころにそそがれているのです(5:5)」。これが世界の真実なのです。わたしたちは、聖霊によって燃やされ生かされている、「あゝ、そうであったのか」と気づかされること、その真実をいただくこと、それを信仰というのです。

年間第18主日 勧めのことば

年間第18主日 福音朗読 ルカ12章13~21節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の愚かな金持ちのたとえは、わたしたちすべてのものへの問いかけとなっていると思います。この金持ちにとっては、自分の望んだことが満たされていくことが幸せで、それが現世でのすべてだったのでしょう。当時のユダヤ教の考え方によると、この地上での繫栄や富、成功は、神さまがその人を嘉せられているしるしであると考えられていました。ですから地上の富や成功は、ユダヤ人にとっては神さまからの祝福そのものでした。しかし、それはただ自分の思いが満たされていく世界を、人間の幸福、あるいは救いと考えていたということに他なりません。さらに、ユダヤ人たちは、現世における義人の苦しみをどのように考えるかということが問題となり、ヨブ記などが書かれていきます。そして、この現世で幸せが叶えられないなら、来世での幸せを永遠のいのちとして理解するようになっていきます。イエスさまの時代のサドカイ派は、来世を認めませんでしたが、ファリサイ派は来世を認めるようになっていきます。彼らが望んだことは、現世であろうと来世であろうと、所詮自分の思いが満たされていく世界を望んでいたのに過ぎません。イエスさまはそのようなユダヤ人たちに、「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならないものはこのとおりだ」といわれたのです。

しかし、このイエスさまのことばを、教会は、来世のために善行をして来世の天国のために宝を積むという誤った信仰理解をしていきました。結局のところ、わたしたちの願いが叶うこと、この世では家内安全、無病息災、立身出世、大願成就、来世では天国での救い、永遠のいのちが人間の幸せ、救いとして考えてしまったということなのです。イエスさまが問題にされたのは、この世の富の虚しさではないのです。まして、この世で無理なら天国でという話でもありません。そうではなく、人間が自分の願いが叶うことが幸せであり、自分の思いが叶わないことが不幸であると考えている、わたしたちのこころのあり方を問題にされているのです。

仏教では六道輪廻の中に、天というものがあるとされています。天というのは天人の世界で、自分のすべての願いが満たされていく世界を意味します。普通の人は自分の願い、健康、長寿、学業、成功、富などすべてが満たされたら幸せだと考えています。そして、そのすべてが満たされた世界が天であると考えられています。しかし、仏教の世界でははっきりと天も迷いの世界であるといいます。すべての願いが叶う天人の世界にも、天人五衰といって、その輝きに陰りが出て腐ってくるといわれます。その天人五衰には、5つのしるしがあるといわれています。先ず自分の衣服が汚れてくる、次に頭の冠が萎えてくる、体臭がするようになる、脇に汗が流れるようになる、じっとしていられなくなる。現代人の生活は、まさに天人五衰の生活ではないでしょうか。どれだけ豊かさを手に入れても、その豊かさを失うのではないかと不安になり、じっとしていられなくなる、まさに現代は天人の生活です。それは見え方が違うだけで、結局は人間の迷いの世界なのです。そして、わたしたちキリスト教が考えている救いとか天国というのも、所詮は迷いの世界なのではないでしょうか。

それでは、イエスさまが「神の前に豊かになる」といわれたのはどのようなことなのでしようか。そのヒントが今日の第2朗読にあるように思います。「新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。そこには、もはや、ギリシャ人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです(コロ3:11)」。わたしたちは、わたしを中心にしてこれが幸せだ、これが不幸だ、これが正しい、これは間違っている、この人は同胞で、この人は外国人というふうに、すべてを分別してこの世界を生きています。そして、自分を中心にして、自分がどちらに入るか、あの人はどちらに入るかで物事を見て判断しています。そして、その分別の世界から一歩も出ることができないのがわたしたちの現実です。イエスさまは、そのような迷いの世界から出ることのできないわたしたちを日々新たにし、真の知識を授けたいと思われたのです。そうすると、また真の知識をもっている人ともっていない人が出てきます。そして真の知識をもっている人は救われるが、もっていない人は救われないということになります。救われるとか救われないとかいって、人間は世界に境界線を作り出しているけれど、イエスさまはそのようなものは真の救いではないといわれたのです。

それでイエスさまはどうされたかというと、イエスさまは救いという境界線を破壊されたということなのです。どういうことかというと、イエスさまは“すべてのものとなって、すべてのもののうちにおられる”ようになられたのです。これが、実はイエスさまが復活されたということであり、時間と空間の壁をなくして、世界の境界、差別、区別をすべてなくされたということなのです。時間の境界も、空間の境界もすべてなくすということは、すべてがキリストであり、すべてのうちにキリストがおられるということです。この世界、宇宙がキリストであるということです。イエスさまは、永遠のいのち、永遠の光として、この世界、この宇宙をいのちと光で満たされました。ですからそこには、いわゆる天国、地獄、煉獄という境界がない。すべてがキリストであるということです。イエスさまがすべてで、すべてのもののうちにおられるのであれば、そこに如何なる差別も区別もないし、救われた救われないという境界さえもないはずです。それがイエスさまの復活ということなのです。

それにもかかわらず、自分の周りに境界を作り続けているのが人間であるということなのです。わたしたちは光の中にありながらも光に背を向け続け、自分のこころの殻に閉じこもり続けているのです。自分に光が届いていることを、いのちで満たされていることを見ようとしないのです。救いを求めていながら、救いを拒否しているのだといえるでしょう。このわたしの殻を破ってくださる方が、復活されたイエスさまなのです。教会の役割は、救いという境界をつくりだすことではなく、その境界を破壊していくことが本来の使命です。真の知恵によって、イエスさまの福音の本質に触れさせていただけるように祈りましょう。イエスさまの十字架と復活こそが、真の知恵、真のいのち、福音なのです。

年間第17主日 勧めのことば

年間第17主日 福音朗読 ルカ11章1~13節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は、祈りについての教えの要約ともいえる箇所です。今まで、いずれも問題とされてきたことは、神への愛と隣人愛、隣人と敵、祈りと活動というように、人間が物事を二元論的に捉えてしまうことです。ここで取り上げられる祈りは、生活や活動と遊離した祈りではなく、生活の中から湧き上がってくる願い、叫びのようなものとして見ることができます。そこから祈りの本質について考えていきたいと思います。

ルカ福音書は、しばしば祈っているイエスさまの姿をわたしたちに伝えてきます。今日の箇所は、洗礼者ヨハネが自分の弟子たちに祈りを教えていたように、自分たちにも祈りを教えてほしいという弟子たちの願いから始まります。そこで、イエスさまは弟子たちに主の祈りをお与えになります。しかし、ここでイエスさまが教えたのは、いわゆる文句としての主の祈りではありません。わたしたちは祈りというと、言葉が決まった祈りやミサ、ロザリオに代表される信心業を思い浮かべます。しかし、そもそも祈りというものは何でしょうか。アウグスティヌスは「主よ、あなたはわたしたちをご自身に向けて創られました。ですから、わたしたちたちはあなたのうちに憩うまで安らぎを得ることはできないのです」といっています。つまり、人間は、すべての生きとし生けるものは、神へ向かう存在として造られているということです。わたしたちの魂のうちに、いのちの根源へと還ろうとする動きが刻印されているといってもいいと思います。このいのちの根源へと向かう動き、それが祈りについて考えるときの前提になります。

弟子たちは、イエスさまがたびたび祈っておられる姿を見て、イエスさまのうちに体現されているこのいのちの本源へと向かう動き、方向性のようなものを感じたのではないでしょうか。イエスさまの全存在そのものが祈りとなっているというか、いのちの叫び、動きとなっていたということではないかと思います。ですから、弟子たちは、わたしたちにも祈ることを教えてほしいと願ったのではないでしょうか。すべての生きとし生けるものうちに、その根底に神へと向かう動き、渇きがあるのです。しかし、すべてのものがそのことを意識しているわけではありません。むしろ、その動き、渇きに対して無自覚、無関心であるのが普通かもしれません。しかし、人間の心の深みにはいのちへの渇きがあり、たえず神へと向かおうとしていいます。その渇きは、人間のさまざまな形を変えた欲望や願望となって、人間の中に蠢いています。満たされたい、愛されたい、大切にされたい、ひとつになりたい、自分のものにしたいといった人間の願望です。こうしたわたしたちの自分勝手な欲望は、どこまでいっても満たされることはありません。しかし、この癒されることのない渇きは、わたしたちの中にある根源的な神への渇きを指し示しているのではないでしょうか。どれほど雲が太陽を覆い尽くそうとも太陽は存在し続けており、雲に覆い隠されてその真実の姿はわからないとしても、いのちあるものは光の方へ、光の方へと向かっていこうとします。その動きは、太陽の存在を証明しているようなものです。そして、人間はその自分の内なる志向性によって、自分を超え出て行くとき、はじめて本来の人間になれるということではないでしょうか。その意味で、祈りは、人間の根源的な渇きであるとともに、もっとも人間らしい行為なのではないでしょうか。それは人間の行為なのですが、この渇きは神さまが与えられたものである以上、人間に働きかけている神の働きであり、神の営みそのものなのです。わたしたちの祈りは、神の営みに他ならないのです。

イエスさまは弟子たちに主の祈りを与え、パンを求める友人のたとえから、具体的な信頼をもって祈るようにいわれました。「求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求めるものは受け、探すものは見つけ、門をたたく者には開かれる」と。イエスさまは、「求めなさい。そうすれば、与えられる」といわれました。「多分与えられるだろう」とか、「おそらく」などとはいわれません。しかし、わたしたちは、神さまがわたしたちの自分勝手な願いは叶えてくださらないことを知っています。わたしたちが、自分勝手な願いを神さまに聞かせることが祈りではないからです。それでは、わたしたちの願いではなく、イエスさまの願い、イエスさまがわたしたちに与えるといわれたものは何でしょう。それが、今日の朗読の最後に書いてあります。「天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」と。つまり、イエスさまが願っておられることは、つまりわたしたちに与えたいと願っておられるものは「聖霊」であるといわれます。聖霊は神さまのいのちであり、神さまの愛の本質です。神さまがわたしたちに願っておられること、それは自らを与えることです。愛である神さまは、ご自身を与えることしかできないのです。それが聖霊を与えるといわれていることです。神さまは愛でいらっしゃるので、自分を与えることしかできない。だから神さまが願っておられ、わたしたちが願い求めるものは、愛を、神さまご自身を求めることであるということなのです。この愛は、すべての苦しむ生きとし生けるものをすべて救いたいと願っておられる、イエスさまの真実の愛以外の何ものでもありません。わたしたちが、求めなければならないものは、このイエスさまの愛であり、イエスさまはその愛を、聖霊を必ず与えるといわれるのです。

わたしたちのうちにイエスさまの愛への渇きを与えられたのは、イエスさまであり、わたしたちのうちにおいて、その愛を願い求めているのもイエスさまです。また、その愛を必ず与えるのもイエスさまです。おそらく、今までのわたしたちは、わたしがイエスさまを知って、イエスさまを信じて、イエスさまに祈って、努力して、聖霊が与えられる、そしてわたしが救われるのだと思っていたでしょう。司祭たちも信徒たちも、ほとんどそうだと思います。しかしそれは、まったく違っているのです。イエスさまの愛の世界は、そんなみみっちい話ではないのです。まして、聖体拝領をして、清いものになって救われたような気分になることなどとは全く違うのです。そうではなく、わたしたちすべてのものに愛の渇きが与えられているということは、実はわたしたちにはすでに聖霊が与えられているということなのです。聖霊はわたしたちのうちにおいて、わたしとひとつになって愛を乞い求めておられる。そして、すべての生きとし生けるもののうちに、愛を乞い求めるものとしてわたしたちとともにおられるのです。ですから、祈りは、イエスさまのわたしたちのうちにおけるイエスさまの働き、営み、聖霊の叫びに他ならないのです。こうして、わたしたちはイエスさまの祈りに乗せていただくだけなのです。

年間第16主日 勧めのことば

年間第16主日 福音朗読 ルカ10章38~42節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日のマリアとマルタの話は、ルカ福音書にだけある箇所です。この箇所は、過去の教会では、活動の生活に対して祈りの生活の優位を説くためによく引用されてきた箇所です。つまり、祈りに専念することが尊いことで、それに対して活動や生活にまつわることは二次的なことと捉えられてきました。ですから、キリスト者としても、司祭・修道者になることが本来の生き方で、信徒はそうなれなかった人たちだと考えられてきました。信徒は、司祭・修道者が唱える教会の祈り(聖務日課)が出来ないので、その代わりにロザリオの祈りを唱えるよう勧めた時代がありました。また、教会の中に、信徒・助祭・司祭・司教という位階制度を設け、また、祈りや教育に従事すること、労働に従事することの間に上下をつける時代が続きました。少し考えたらこれはイエスさまの思いでないことはすぐにわかるのですが、そのような誤った考え方が教会の中で長い間続いてきました。そして、そのような考え方を擁護するために、今日の福音は利用されてきました。公会議後はその反動から、祈りの生活を否定する活動主義に傾いた時代もありました。

先週に続いて今日の箇所も、イエスさまがよきサマリア人のたとえを話すきっかけとなった神への愛と隣人愛をどのように理解していくかということで説明されてきたように思います。先週は、ユダヤ人たちが隣人愛について取り上げながら、どこまでが隣人かといって、境界を設けていることが問題になりました。つまり、隣人という境界をわたしがどこに引くかということが関心事となっていたということです。ですから、隣人を敵・味方という概念で区別しているわたしのこころのあり方そのものが問題であることが指摘されました。そして、今日の箇所では、神への愛と隣人愛を対立するものとして捉えている人間のあり方が問題にされているといえばいいでしょう。

そもそも、神への愛と人々への愛、祈りの生活と奉仕、活動生活をわけて考えていることに問題があります。それらを区別していると、愛の奉仕に献身している人たちは、祈りだけで何も活動をしない人を批判し、祈りの生活が大切だと主張する人たちは、愛の奉仕という名目のうちになされている活動主義を批判することとなり、話は平行線になります。しかし、人間が生きていくときに祈るということも、また活動するということも、それは生きている人間の姿であって、どちらが尊いとかどちらが優れているという区別はありません。たとえば、わたしたちが生きていくために食事をすることと、食べたものを消化し排泄することと、どちらが尊くてどちらが賤しいなどと考えないでしょう。人間として生きるうえで、いずれも当たり前のことなのです。人間は生き物で、他のいのちをいただくことでしか生きていけまから、そのようないのちへの感謝から、祈りや宗教が生まれてきたのでしょう。ですから、人間として祈りを捧げることも、いのちをいただくことも、いのちを狩ってくることも、等しく人間の生きていくための生業なのです。そのどちらが尊くて、どちらが賤しいとか、どちらが高等で、どちらが下等だというようなことはあり得ないのです。それなのに、そこに区別を持ち込んできた人間のあり方が問題なのです。先週と同じ問題が底辺に流れているように思います。

しかし、かといって、皆が同じことをすることはできません。夫々に夫々の役割があり、働きがあります。パウロは「体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか(Ⅰコリ12:17)」といいます。ひとりひとりが皆違っているように、夫々のあり方も働き方も違っています。この世界に同じものは何ひとつありません。この世界は多様性に満ちています。決して一括りにすることはできません。わたしたちは、とかくすると、すべて違ったものが同じになること、同じ扱いを受けることを平等であると考えがちです。それが人間社会での教育であったり、宗教だったりするわけです。現代、個性や人権を尊重するなどといいますが、もともとすべて異なっているのにそれを認めず、平等であるべきだと錯覚しているので、そのようなことがでてきます。そこに多様性と平等のはき違えが起こっています。

わたしたちは夫々が皆違っており、夫々が当事者です。わたしたちは各自が祈る人、奉仕する人、働く人なのです。しかし、そのあり方、働き方はすべて違っています。それでいいのです。ですから、神への愛と隣人愛、祈りと活動を対立させて、役割とか働き、身分を固定してしまう必要はないのです。わたしたちは夫々が当事者であり、生活者なのです。生活を離れて、祈りも活動も奉仕もありません。イエスさまはマルタのあり方を否定して、マリアのあり方を肯定されたのではないのです。マリアとマルタの働きをわけることはできないのです。祈るときは祈り、働くときは働く、それでいいのです。そこに優劣をつけているわたしのあり方が問われているということでしょう。わたしたちが、そのときその場にあったあり方、働きに徹すればいいのです。それができないこと、そこにこころの迷いがあるのです。

さらに、もうひとつの大きな問題が隠れています。それはわたしたちの祈り、信仰について幻想というか勘違いをしているという問題です。イエスさまは「必要なことはただひとつである」といわれました。そのひとつは何かということです。ここで多くの人たちは、奉仕の生活より、祈りの生活の方が大切だといわれたと考えてしまうというのはお話しした通りです。しかし、イエスさまはマルタの奉仕を否定されたのではありません。イエスさまは、「あなたは多くのことに思い悩み、こころを乱している」といわれたのです。奉仕というのは、相手があってのことで、相手に沿うこと、先週の福音のことばでいえば隣人となること、わたしたちが相手の身になることの大切さがいわれました。しかし、ここでマルタがしていたことは、自分の段取り、自分のやり方、自分の仕事です。つまり、マルタは自分のしたいことをしていたのに過ぎないということなのです。相手を見て、憐れに思い、近寄って介抱したサマリア人ではなかったということなのです。見た目は奉仕をしていたかもしれませんが、それはただ彼女のやり方、計画を推し進めているだけだったのです。それを「多くのことに思い悩み、こころを乱している」とイエスさまは指摘されたのです。奉仕の本質からずれていて、自分に中心がなってしまっていました。

それは祈りについても同じことがいえます。イエスさまはマリアのことをほめ、祈りの生活を強調されたという単純な話ではありません。たまたまかもしれませんが、マリアは祈りの本質を抑えていました。祈りは神さまに聞くことです。祈りは、自分の願いをイエスさまに聞かそうとすることではなく、イエスさまの願いを聞くことだからです。多くの場合、わたしたちの祈りはイエスさまに何かを願うことになりがちです。イエスさまにわたしたちの願いを聞かそうとしているのです。確かに祈りの中に、わたしたちが願うという要素も含まれてはいます。しかし、わたしたちが人間関係の中で、自分の願いだけをいつも要求してくる人とよい関係を築くことができるでしょうか。それとも、イエスさまは神さまなので、なんでもかなえてくださるとでもいうのでしょうか。祈りは、自分の願いをイエスさまに聞かせることではなくて、イエスさまの願いをわたしが聞かせていただくことなのです。共同祈願はわたしたちの願いではなく、イエスさまの願いをささげることに他なりません。

福音についても同じことがいえます、福音とは、人間が神さまのために何をすべきかについての知らせではなくて、神さまが人間に何をしてくださったかについての知らせです。祈りはこの福音を聞くこと、信仰とは福音を聞くことに他なりません。わたしがこういうふうに隣人愛をしたいとか、わたしの願いはこれで、これを神さまに祈るというのであれば、これはわたしの思いを神さまに押し付けているだけなのです。宗教は神さまとのわたしたちとのかかわりですが、人間が自分の願望を神さまに投影しているような宗教は、真実の宗教とはいえません。宗教の中心はわたしではなく、神さまです。キリスト教はわたし中心の宗教ではなく、神さまがわたしたちにしてくださってことを観想し、イエスさまを通して示された神さまの願いを聞かせていただく宗教なのです。まずは、聞かせていただくことの大切さを味わっていきたいと思います。

年間第15主日 勧めのことば

年間第15主日 福音朗読 ルカ10章25~37節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は、有名なよきサマリア人のたとえが朗読されます。今日の箇所は大抵の場合は、「誰が追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」というイエスさまの問いと、「行って、あなたも同じようにしなさい」というイエスさまの言葉を引用して、隣人愛の実践について説教されます。それはそうなのでそれでいいのですが、そもそもイエスさまがなぜこのたとえ話をされたのかというところから見ていく必要があるように思います。

今日の物語の伏線にあるのは、ある律法学者がイエスさまを試みようとして、「何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができますか」と質問したことから始まります。永遠のいのちを得たいというもっともな願いが背後にあるわけですが、それはイエスさまを試みるための悪意ある質問であったということが書かれています。どういうことでしょうか。ユダヤ教では、モーセから与えられた律法を実行すれば、永遠のいのちが得られると教えていました。ですから、神への愛と隣人愛を教える律法を実践するという答えはすでに出ているのです。それでは、何が問題だったのでしょうか。

永遠のいのちを受け継ぎたいという望みそのものが、問題なのだといわなければならないと思います。永遠のいのちを受け継ぎたいという望みの何が問題なのでしょうか。ユダヤ教の律法学者やファリサイ人にとって、永遠のいのちを受け継ぐこと、神によって嘉せられることは、彼らの宗教の究極的な目的でした。キリスト教であってもそうではないでしょうか。その何が問題なのでしょうか。それでは、永遠のいのちを得たいのは何のためでしょうか。それは、自分が救われたいとか、自分が神さまから嘉せられたいということでしょう。これをわたしたちキリスト者に置き換えるなら、天国に行きたいとか、洗礼を受けて救われたいとかいうことでしょう。でも、少し考えてみると、これほど自己中心的な話があるでしょうか。救われたいと思っているのは、結局はわたしの望みが叶うことではないでしょうか。そこでいわれている救いは、わたしの働きや努力が認められて、「忠実な良い僕だ、よくやった(マタイ25:21)」と褒めてもらえる世界、わたしが報われる世界です。また、わたしたちには、あの人とは会いたくないという人や、考えを異にする人たちがいます。わたしたちは、そのような人たちがいない世界、自分の嫌いな人、自分の考えと違う人がいない世界が天国で、救われた世界だと思っていないでしょうか。今日の聖書のことばでいえば、“わたしの隣人たち”だけがいる世界を天国だとか、永遠のいのちだと思っていないでしょうかということです。大体、自分と自分の好きな人たちだけが救われる、死んだあと親しい人とだけ再会したいと思っている、それの自分の性根そのものが問題なのではないでしょうか。気をつけないと、わたしの救いは非常に狭い、自分にとって都合のよい世界を考えていないかということが問われているのです。それでは、イエスさまはどのように考えておられたのでしょうか。

当時のユダヤ人たちが考えている隣人愛の対象となる人たちは、同じ同胞のユダヤ人だけでした。ユダヤ人以外の外国人、ローマ人やギリシャ人、そして何百年間も反目し合ってきたサマリア人はまさに敵そのものであって、愛することなど考えもしませんでした。ですから当時のユダヤ人が永遠のいのちを受け継ぐために、律法が命じている隣人愛の隣人というのは、同朋のユダヤ人だけに限られていたのです。つまり、彼らの考えている永遠のいのちの世界は、同朋のユダヤ人だけが幸せになる世界でしかなかったのです。他の憎むべき敵であるローマ人やギリシャ人、ましてサマリア人がいない世界であったわけです。こんなに自分勝手な救いがあるはずがないことは、わたしたちは直ぐにわかるでしょう。しかし、これがわたしのこととなれば別ではないでしょうか。

わたしたちが永遠のいのちを受け継いだ世界に、自分の嫌いな人、自分が憎んでいる人、自分を苦しめた人、自分にとって都合の悪い人はいてほしくないというのがわたしたちの本音ではないでしょうか。洗礼を受けた人は救われるが、洗礼を受けていない人は救われないという発想も所詮同じことなのです。イエスさまは今日のたとえ話で、祭司やレビ人を非難し、外国人であるサマリア人の行動を褒められたという単純な話ではないのです。また、イエスさまはよいサマリア人のたとえを話すことで、隣人愛の対象の境界を広げていくように教えられたのだという人たちもいます。しかし、問題はそんな簡単なことではありません。そもそも、隣人という言葉は、反対概念である敵を含んだ言葉であるということです。ですからユダヤ教では、「隣人を愛し、敵を憎め」と教えられてきました。それに対して、イエスさまは「敵をも愛しなさい」と教えられました。そこで、わたしたちが隣人愛の境界を少し頑張って広げて、隣人の範囲を大きくするような発想では、この憎しみと争いに明け暮れる世界をどうすることも出来ないのです。敵を作り出しているのは誰なのでしょうか。実は、隣人と敵、同朋と異邦人という境界を作り出しているのは、わたしのこころのあり方に他なりません。ですから、そのあり方、わたしたちのそのこころの闇に光を当てなさいということなのではないでしょうか。

イエスさまが問題とされたのは、味方と敵、ユダヤ人と外国人、洗礼を受けた人と洗礼を受けていない人というあらゆる区別、境界を作り出している人間のこころの闇です。わたしたち人間は自分を相手と区別することで、自分というものを認識し、安定しようとする存在です。わたしたちはそのようにしてしか、自分というものを確認することしかできないのです。そのようなわたしたち人間のあり方が、差別、区別、排除、敵対を作り出しているのだといっても過言でありません。イエスさまがいわれるのは、そのような人間のもっている本性、弱さ、限界、傾きを自分のこととして意識しなさいということだと思います。イエスさまには、敵味方、同胞外国人、男女などといった区別がありませんでした。イエスさまは、ただ相手を見て、憐れに思い、近寄って介抱されたのです。わたしの隣人はだれかを問うのではなく、あなたがその人の隣人になりなさいとイエスさまはいわれたのです。相手に何かを要求するのではなく、相手に沿うてみなさい、沿うだけではなく隣人となってみなさいといわれるのです。わたしがキリスト者であるとか、相手が何であるかということなど一切関係ないのです。あなたはその人になりなさいといわれたのです。なぜなら、あなたはその人だからといわれるのです。

イエスさまは、相手が自分の敵か味方か、同胞か同胞でないか、隣人か他人かで関わられませんでした。「そこではもはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいてひとりなのです(ガラテア3:28)」といわれます。イエスさまにとって,他者というのは自分であり、自分というものは他者なのです。みことばであるイエスさまが人間となられたということは、イエスさまはわたしになられたということなのです。イエスさまがわたしになられたということは、わたしはイエスになったということでもあるのです。これをパウロは、「キリストにおいてひとりである」というのです。ですから「ひとつの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、ひとつの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです(Ⅰコリ12:26)」。隣人を愛する、隣人となるというのは律法の掟でも、キリスト教の教えでもないのです。同じいのちを生きる、同じひとつの体であるいのちの法則なのです。ひとつの体しかありませんから、すべて自分ごとです。他人とか隣人はいないのです。ひとりの部分が痛めば、すべての部分が痛みます。これは掟なのではなくて、いのちとしての当然の法則なのです。見て、憐れに思い、近づくというのはいのちの法則なのです。イエスさまにはわたしというものなどないのです。実はわたしたちもそうなのです。

年間第14主日 勧めのことば

年間第14主日 福音朗読 ルカ10:1―9

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の福音はイエスさまの後に従おうとするもの、キリストの弟子であるわたしたちすべてものの信仰の歩み、またキリスト者の集いである教会共同体のあり方を考えるうえで大切な箇所であるといえるでしょう。大切な点が3つあります。第1はイエスが弟子たちを町や村へ遣わすにあたって、2人ずつチームとして遣わされたということ、第2はその弟子たちに貧しい状態で宣教に従事するように指示されたこと、第3は信頼を要求されたということです。このことを今日はお話してみたいと思います。

第1に、イエスさまは弟子たちを宣教に派遣するにあたって、2人以上のチームとして任命されました。その理由はユダヤの習慣によると、何かをしたときに2人以上の証言が必要であったから、2人で派遣したのだといわれています。しかしもっと大切な理由は、おそらく人間というものを深く見つめたイエスの知恵であろうと思われます。イエスさまは、人間がひとりですべてをするということの限界と危険というものをよく知っておられました。人間としてひとりでできることは限られています。もしひとりですべてうまくやれたとしても、その人は変な自信をつけ、絶対君主になってしまう危険が多々あります。政治家などにしても、始めは人々のことを考えてよい政治をおこなっていても、やがてそれに権力、名声、富がくっ付いてくるとおかしくなります。教区でおこなわれている共同宣教司牧では、必ず司牧者は複数で任命されますが、それはそうした弊害を避けるためです。昔のようにひとりの主任司祭、ひとりの信徒会長が力を振るって何かをやるということ自体、根本的にイエスの意図から逸脱しているのです。

しかし、チームで派遣されることのもっと根本的な理由は、神の三位一体性からくるといえるでしょう。つまり神ご自身が父と子と聖霊というチームであり、そこで愛を生きておられるから、わたしたち教会共同体もチームで働くということを通して、その愛を実現していくように召されているということだと思います。ですから、父と子と聖霊がそれぞれの役割に応じて働いておられるように、教会では皆がそれぞれ意見を出し合い、一緒に考え祈って識別し、それぞれが役割に応じて責任をとっていくということで、わたしたちがこの地上で神の愛の証し人になっていくための訓練、修練の場でもあるともいえるでしょう。これは教会のことに限らず、すべての人間、すべてのいのちの根本的なあり方でもあるのです。ただし、わたしたちは神の愛から、はるかにかけ離れているということを肝に銘じておかなければならないと思います。でないと、自分たちは愛を実践しているという錯覚をもってしまいます。特に教会では、愛の奉仕をおこなっているとか、何かよいことをしていると錯覚するとで、偽善的な集まりになってしまいます。わたしたちは神さまの愛を証しするように呼ばれていますが、それは神さまの愛であって、わたしたちの愛ではないのです。わたしたちの中には愛のかけらもないのです。

第2にイエスは、弟子たちに全く貧しい状態で、宣教に出かけるように指示されました。「財布も袋も履物ももつな」。このイエスさまの命令は、この世の欲からの離脱とこころの自由を得るための教育です。イエスさまに近づき、イエスさまの従うものには、何ものにもとらわれないこころの自由をもつことが要求されます。人間は何かをもつことや何か手に入れることで、自分は偉くなったとか、人間として成長したとたやすく錯覚し、自信をもつ人がいます。しかし、それは人間としての成長ではなく、単なる自分の中での子どものときの「欲しい、欲しい」という欲を、大人になることで手に入れることができるようになったということに過ぎません。これは真の意味で大人になったのではなく、幼児化しているのに過ぎません。イエスの弟子になるということは、何かを手に入れることではなく、自分の何かを手放すことなのです。自由になることなのです。イエスは別のところで、「あなたの宝のあるところに、あなたのこころもある」といわれました。その意味はあなた方が何に捕らわれているかを知りたければ、自分が何を宝としているか見なさいということです。その宝がどんなによいものであっても、それに捕らわれているのであれば、それはわたしたちの信仰の歩みを妨げるということなのです。エックハルトという神秘家は、神さまからも自由にならなければならないといっています。それほどこころの自由ということは、キリストの弟子として大切なことということなのです。というか、こころの自由は成長した人間のありさまであるといえるでしょう。

 第3は信頼です。イエスさまに従ったという以上、自分の持ち物すべて、生命もすべては神さまのみ手の中にあることに信頼し、神さまに委ねることを学んでいくことが必要です。わたしたちが貧しい状態に留まるようにとの勧告も、ひとつの家に留まりそこで世話になれという当時のやり方も(これは現代的ではありませんが)、ひとえにすべての日々の思い煩い、労苦を委ねることを学んでゆくために訓練なのです。この世界への信頼、委託を学ぶということで、すべての宣教の主体は神さま、聖霊であり、わたしたちは協力して働くものでしかないことを学ぶのです。

これらすべてはわたしたちキリスト者の信仰の歩み、また教会共同体の歩みを考えるうえで基本となることです。いやキリスト者である以前に人間として成熟したものになるために大切なことであるともいえるでしょう。わたしたちはキリスト者である前にひとりの成熟した大人、人間になることが必要なのです。上下関係や支配被支配ではなくて、同等の関係を結ぶことができること、自分自身のさまざまな欲から自由であること、大きなものへの開きと信頼があることです。これは通常は成熟した人間の姿なのですが、実はこの究極的モデルは三位一体であるということなのです。父と子と聖霊である神さまは、いわゆる世間でいわれる父と子という主従関係ではありません。父と子といわれると父の方が先に生まれて、あとから子が生まれて、そこに上下関係、主従関係があるように思ってしまいますが、実は父と子の間に主従関係はないのです。父と子は同時に生まれ、同時に存在します。父あっての子であり、子あっての父です。子のない父はいない、父のない子はいません。お互いあっての存在です。ですから父と子という人間の世界のことばで、神さまのありさまを説明することには無理があるのです。このともにあるというありさまが、本来の生きとし生けるもののありさまなのです。それぞれの存在が尊くかけがえのないものであって、そこに上下優劣はなく、それでもってお互いに緊密に関係しあっているのです。そこに上下関係を作り出したのが人間の欲なのです。ですから、わたしたちがその欲から解放されていくことが、わたしたちが人間となる道、本来の存在となる道なのです。

ただ、人間は直立歩行を始めたころから大脳が発達し、本来すべての存在がもっている安らかさというものを失っていきました。ですから、自分を守ってくれるものの中で、自分を保護してくれるものの中でしか、安らぎを得ることができなくなっています。貧しく何もない、安全が保障されない状態では安らぐことができなくなっているのです。そのようなわたしたちに、イエスさまはちょっと勇気を出して自分というものを手放してみなさいといわれるのです。自分をいうものを手放しても、あなたは何も変わりませんよ、何も失いませんよといわれるのです。「空の鳥を見よ、野の花を見よ」といわれることです。大きな存在に自分というものを明け渡してみなさいといわれるのです。三位一体の神さまは、絶え間のない自己脱出、自己放棄であり、自分をすべて手放して、貧しさそのものでおらます。しかし、自分のすべてを与えつくしてなお、平和そのもの、喜びそのものでおられるのです。これが三位一体の神さまの姿、貧しさそのものでありながら、豊さそのものである三位一体の姿なのです。そして、これこそが成熟した人間の姿でもあるのです。わたしたちは皆、三位一体の神さまの写し、似姿なのです。

聖ペトロ 聖パウロ使徒 勧めのことば

聖ペトロ 聖パウロ使徒 福音朗読 マタイ16章13~20節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日はイエスさまと弟子たちがフィリポ・カイザリア地方に行かれた時の出来事が読まれます。フィリポ・カイザリア地方というのは、ヨルダン川の源流で、エルサレムらもガリラヤからも離れた異教徒の地です。フィリポ・カイザリア地方に行ったということには、ガリラヤ地方での宣教活動がうまくいかなくなったということがあるのです。人々は最初はイエスさまの力強いわざと話に熱狂しますが、自分たちの思うようなしるしをしてくれないイエスさまからだんだん離れていきました。人々が求めていたのは、自分の生活を楽にしてくれて、自分たちの病を治し、空腹を満たしてくれるイエスさまだったのです。こうしてイエスさまの宣教は、ガリラヤでの挫折、そしてユダヤ教の本山があるエルサレムへの旅へと続いていきます。

そのエルサレムへの旅の始まりが、今日のフィリポ・カイザリアでの出来事です。そこで、イエスさまは弟子たちに、まず「皆は、わたしのことを何といっているのか」と尋ねられます。弟子たちは、それぞれ答えます。そして最後に、では「あなたがたはわたしを何者だというのか」と尋ねられます。他人から聞いた受け売りの答えではなく、またどこかの図書館で調べたことや公教要理で学んだことではなく、あなたにとってわたしは何なのかと問われます。ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えます。ペトロの思いは、イエスさまはイスラエルをローマ帝国の支配から解放してくれるリーダーということだったのでしょう。ペトロなりの一生懸命な答えであったと思います。ちなみに、ペトロに対するイエスさまの答えの部分(17~19)はマタイの固有の加筆であって、イエスさまに由来しない箇所です。マタイ福音書が書かれたころは、初代教会はユダヤ教から排除されていく中で、自分たちこそ真のイスラエルの後継者であると主張することに主眼があったと思われます。後代、この個所は、教会の創立や教皇職、ゆるしの秘跡の根拠とされますが、イエスさまに由来する箇所ではなく、当時の教会当局の関心事によるものです。この個所については、わたしたちに関係ないので触れません。

話を戻しましょう。イエスさまが自分は誰であるかを問うということは、イエスさまについての問いのように思われますが、実はわたし自身を問うということでもあります。たとえイエスさまを救い主、メシアであると信仰告白しても、それがわたしたちの人生にとって何なのかということにつながっていなければ意味がありません。ペトロの答えは教科書的には正解です。しかし、ペトロにとってイエスさまがどのような意味で救い主であるのかは、聖書の文面からは何も分かりません。つまり、その答えが正解であるかどうかが問題ではなく、ペトロ自身のあり方が問われているのだということなのです。おそらくペトロにとってのイエスさまは、当時の人々がイエスさまに期待していたのと同じで、自分たちの生活を楽にしてくれて、自分らの願いや野心をかなえてくれるリーダーということだったと思います。

わたしたちがキリスト者であること、イエスさまと出会うということは、わたしがイエスさまを救い主として信仰宣言することや、教会に籍があることとか、なんとなく教えられたことを聞いてわかったつもりになることではありません。イエスさまと出会うということは、イエスさまとの出会いによって、わたしたちが自分のあり方や生活がどうなったかということにあります。わたしたちは自分の人生の中でさまざまな人々や出来事に遇っていきます。そして、わたしたちはその人々や出来事から少なからず影響を受けるものなのです。つまり、そのことを通してわたしが変えられていくものなのです。もし、わたしたちがイエスさまと出会っても、イエスさまがわたしの人生を豊かにし、わたしの望みをかなえてくださるということだけを期待するならば、これはイエスさまと真実に出会ったとはいえません。なぜなら、イエスさまがわたしの人生に豊かにしてくれるありがたい神さまというなら、そのような神さまはイエスさまである必要はないからです。それだけならば、ガリラヤの人たちがイエスさまに自分の生活をよくしてくれて、自分たちの願いをかなえてくれる都合のよい救い主を求めていたのと何ら変わりがないからです。もしわたしたちがそのような野心と願望を抱えながら、自分を利用しようとして近づいてくる人がいたら、その人を胡散臭い、計算高いものだとは思わないでしょうか。そのような人と友だちになりたいと思わないでしょう。

たいそう立派な信仰告白をしたペトロでしたが、ペトロ自身は何も変わりませんでした。本当の友情というものであれば相手を利用しようとか、自分が相手にとって都合がよいかなどということは考えもしないのではないでしょうか。ペトロは、イエスさまに自分が思っているメシア、救い主でいて欲しかったのです。イエスさまはそのような弟子たちの限界と愚かしさを知っておられました。だから、「メシアであることを誰にも話さないように」と命じられます。イエスさまの実際の姿と、弟子たちが思い描くメシア像の間に大きな隔たりがあったことがわかります。弟子たちはイエスさまに幻想を抱いていたのです。これが友だち関係であったり、夫婦であったりすればうまくいくはずがありません。

弟子たちはイエスさまとともに生活していましたが、自分の中に不満や嘘偽り、野心がうごめいていて、自分のことで一杯でした。彼らは自分たちのこころの中を見つめようとはせず、自分たちの欲望をかなえてくれる対象としてしかイエスさまを見ていなかったのでしょう。これはイエスさまにとってはどれほどつらかったことでしょう。しかし、イエスさまはありのままの自分を生きておられました。人々が自分のことを「偉い預言者だ」とか、「メシアだ」とか、「生ける神の子だ」といおうとも、イエスさまはイエスさまであることを生きておられました。弟子たちは、イエスさまのことをいろいろ知っていたかもしれません。でも、こうあってほしいというイエスさまを求めていただけで、弟子たちのこころの中にイエスさまが入っていく隙間がありません。だから、弟子たちは変えられていくこともなかったのです。

この弟子たちの姿はわたしたちです。確かにイエスさまを信じること、拝むことで、問題が解決したり、状況が変わったりすることがあるのかもしれません。それでは、わたしたちがイエスさまを信じるのは、わたしたちの望みをかなえてもらうためなのでしょうか。わたしたちがイエスさまと真に会わせていただくということは、自分自身のあり方が問われることなのです。ある意味で、自分自身のあり方を問うということがあるかないかが、イエスさまとの真の出会いとなっているかどうかといえるかもしれません。わたしはイエスさまを信じています、出会っています、しかし、わたしは変わりませんということはあり得ないのです。わたしたちがイエスさまと出会えば変わらざるを得ないのです。変わっていきたくなるのです。確かにわたしたちの愚かさ、無力さは変わらないかもしれませんが、にもかかわらず、イエスさまから憐れまれ、無限に愛されている自分に気づくのです。それは自分で気づくというのではなく、気づかされていくということでしょう。だから、出会いは恵みなのです。イエスさまの方からやってこられるのです。このようなイエスさまと会わせていただくと、わたしのこころが動き始めるのです。イエスさまに何かをしてほしいなどというような、わたしの姑息な思いは吹っ飛んでいきます。

わたしたちはこのイエスさまとの出会いを渇き求めなければならないのです。そして、そのイエスさまと会わせていただくことで、どのような状況の中でもイエスさまとともに生きられるようになるのです。これがイエスさまと真に出会うということ、イエスさまを救い主であると信仰告白するということにほかなりません。今日は、心を空にして、イエスさまとの真の出会いを乞い求めたいと思います。

キリストの聖体 勧めのことば

キリストの聖体 福音朗読 ルカ9章11~17節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日読まれる聖書箇所は、イエスさまの宣教活動の中での一コマが描かれています。イエスさまの神の国の宣教は、言葉と業によって行われました。イエスさまの活動によって神の国が始まっていますが、それは具体的な出来事によって人々に示されていきます。神の国は決して、抽象的な教えや理論、綺麗事ではありません。イエスさまは人々の具体的な要求にただ応えるのではなく、深みにおいてあきらかにしていかれました。ここでは、イエスさまは人間の食べるということに着目され、パンの増やしを行われました。実際にパンの増やしを行われたかどうかということよりも、人間にとって食べるということから教えていかれたということです。

人間にとって最も基本的なことは、当たり前ですが生きていくことです。生きていくということは、食べるということです。食べるということは、他の生き物を殺して食べていくことに他なりません。日本では古来、殺生ということが厳しく戒められていました。明治になるまでは日本人の多くは、穀物、野菜、魚を主食とし、肉を食べるということはありませんでした。ですから食べるための家畜というものは、ほとんどいませんでした。馬や牛は飼われていましたが、それは食べるためではなく、農耕や運搬、交通手段として使われていました。魚は食べていましたが、必ず放生会といって、捕獲したの一部を池に放し、殺生を戒め、いのちに感謝する儀式が行われていました。食事のときには「いただきます」といって、いのちへの敬意を表してきました。ですから、いのちを乱獲するという発想はありませんでした。日本では、いのちをわけてもらっているという感覚だったと思います。これは動物が自分が生きるために、必要なだけのいのちを狩るという感覚に近いのではないでしょうか。ですから、動物は無制限にいのちを狩るということはしません。

それに対して、ユダヤ教やヨーロッパ世界では古くから、動物を家畜化して、それを人間の食べ物として生活してきました。その根拠は、動物は神さまが人間に与えた食糧であって、それは人間の便宜のために自由にとってよいという教えでした。そこで神さまに感謝を表すことはあっても、食べられるいのちへの感謝はありません。動物を見ると、それは食糧として映ったということです。日本人は動物を見て、それが食糧に見えるということはありません。このように自然というものを見るときの生命観というものが当然異なってくるわけです。そのような狩猟民族の欧米文化の中で、近代になってやっと動物愛護、エコロジーということが起こってくるのです。しかし、その視点はどこまでも人間側からの視点で、人間の自分たちのいのち中心という視点から出ることはありません。そもそもいのちを見る目が異なっているのです。

今でこそスーパーに行くと、あらゆる肉や魚がトレイにはいって売られていますが、昔の人たちは、それらの生き物を殺して食べてきたのです。ですから、日本では食事のときに、必ず「いただきます」「ごちそうさま」といって、いのちをいただくことに感謝し、いのちへの礼を尽くしてきました。おそらく食前、食後の「いただきます」「ごちそうさま」をするのは日本だけでしょう。海外で、うつむいて食前の祈りをしていたら、ウェイターの人に「どうされましたか」と声を掛けられたという笑い話があるぐらいです。もちろん、キリスト教で食前食後の祈りはするのですが、それは神さまに向けられた感謝の祈りであって、自分が今いただくいのちに対する礼ではありません。しかし、日本人のいただきますは、いただくいのちへの礼です。このように生きてきたわたしたちには、イエスさまがわたしたちの食べ物、飲み物になってくださったことの意味がすぐにわかります。ですから、ミサが犠牲であって、感謝の祭儀であることを、抵抗なく受け入れていくことができるのです。わざわざ、ミサをイエスさまの十字架の生贄の再現であるといわなくてもよいのです。

それに対して、ユダヤ教やヨーロッパ文化の中にいる人たちにとっては、イエスさまがわたしたちのための食べ物、飲み物となってくださったことを、非常に具体的に、強烈に表現しなければ、その意味がわからなかったのだと思います。食べ物は、神さまが人間の便宜のために与えたという思想が根底にありますから、生きもの、動植物への感謝という発想はほぼありません。だから、食糧がたくさん手に入ればそれは神さまからの祝福、恵みで、たくさん獲物があればラッキーという感覚です。昔、ミサは無血祭といわれてきました。イエスさまはゴルゴダの丘で血祭りにあげられて、実際に血を流してわたしたちを贖い、わたしたちの身代わりとなっていのちの源となられた。それを十字架の生贄、犠牲、日本的にいうと人身御供となられたのだと教えたのです。それに対して、ミサは無血祭といわれ、今度はイエスさまは血を流すことなく捧げられる犠牲であると説明されてきました。そこまでいわなければ、ユダヤ人や狩猟民族の人たちには、食べるということのもっている深みが伝わらなかったのでしょう。イエスさまは、大切なこの人たちのために、わたしが彼らの食糧になるといわれたのです。あなたはわたしを食べて生き延びてほしいといわれたのです。

今日、いのちの源であるイエスさまが、わたしたちを生かし支え続けておられることを改めて味わいます。イエスさまは、物分かりの悪いわたしたちのために、具体的な食べ物、飲み物となってご自身を与えてくださったのです。そのことにわたしたちを気づかせ、目覚めさせていただくために、イエスさまは聖体の秘跡を定めてくださったのです。

イエスさまは聖体となって、わたしを生かし支え続けておられること自体はそうですが、目に見えないもっと大きな現実に目を向ける必要があります。つまり、イエスさまはわたしたちを聖体によってしか、ミサだけしか生かすことができないという意味ではなく、わたしたちはもっと大きないのちそのもので生かされ、支えられているということをきちんと押さえておくことが必要だと思います。過去の教会では、司祭=ミサをおこなう人という理解されて、信徒はミサにあずかることが救いに直結し、すべてであるかのように教えられてきました。今わたしたちはミサについて改めて考え直すことが必要であると思います。教会の中でミサを行うことは大切なことに変わりはありませんが、イエスさまがその生涯を通して、ご自分を与え尽くすという生き方がいのちそのもののあり方であり、その大きないのちでわたしたち人間も生かされているということに気づかせていただくことが本質的なことではないでしょうか。ただ、わたしが聖体をいただきたい、永遠のいのちが欲しい、それがお恵みだというのなら、こんな自分勝手な生き方はありません。それなら獲物を狩っている動物と何ら変わりがありません。

わたしたちが食べるイエスさまは、ご自分をわたしたちのために食べ物飲み物として差し出されたいのちであるということです。そのことを知って、イエスさまをいただくわたしたちは、今度はわたしたちが自らを食べ物として差し出すところまでいかなければならないのです。わたしたちは食べるものですが、食べられるものでもある、これがすべてのいのちのありさまなのです。食べ続けるだけのいのちというものはありません。わたしたちが食べるのは、わたしたちが誰かに食べられるようになるためなのです。これを愛するというのです。イエスさまを通して示されたこのいのちの生きざま、ありさまをきちんと見つめていくこと、これがわたしたちが生きるということなのです。ミサをすること、ミサにあずかることだけがわたしたちの目的ではありません。

三位一体の主日 勧めのことば

三位一体の主日 福音朗読 ヨハネ16章12~15節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

わたしたちは、主の復活、主の昇天、聖霊降臨を通して、わたしたちを生かし、動かしている大きな働きを黙想してきました。そして、わたしたちは三位一体の主日を迎えました。今日の集会祈願では「聖なる父よ、あなたは、みことばと聖霊を世に遣わし、神のいのちの神秘を示してくださいました」と祈ります。わたしたちを生かし、動かしている大きな働きは、実は三位一体のいのちであったというのが、このお祝い日の意味です。それで、今日は「神のいのちの神秘」を祝うのだということが分かります。そのことをご一緒に見ていきましょう。

三位一体のお祝い日は、御父による神のみことばと聖霊の派遣によって、神のいのちの神秘を示してくださったということがいわれています。そのようないのちの本質は、自分自身を出ていく、自分自身を与えていく、溢れ出ていく、自分自身を超えていくところにあるといえます。つまり、このいのちは、わたしという個体のいのちが個体以上のものになっていく、個体の外へあふれ出ていくところに現象の特徴があるということなのです。そのもっともわかりやすい例は、すべていのちは自分のいのちというものを超えて、次の世代にいのちを受け渡していこうとすることです。いのちは、自分という枠組みを壊して、自己という輪郭の外へと溢れ出ていこうとするのです。それを多くの生命体は、わが子を愛すること、また自分の死として体験しています。

わたしたちは自分の個体だけがいのちであると思っている限り、自分のいのちがなくなったらすべては終わりだと思ってしまいます。どれだけ永遠のいのちがあるといっても、それを自分のいのちの延長線上のことだと考えているだけであれば、それはいのちを物質的に考えているのにすぎません。それはあくまでをいのちをわたしのいのちとして握りしめているということなのです。しかしながら、わたしたちはいのちがわたしという個体の中にあるときに“いのち”というものを知ることができるのです。すべての生きとし生けるものはいのちを生きていますが、そのいのちは意識されるということがありません。自然はその有様によって、いのちの本質を当たり前のこととして生きています。しかし、その中で人間だけがいのちの本質を知ることができる目を与えられているのです。それはわたしたちがいのちの本質を知って、いのちを生きるようになっているからです。これが人間であるということでもあるのです。そして、人間はどのようにいのちを体験するかといえば、わたしという個別のいのちをもつことで死にたくない、永遠に生きたいと願うということでいのちを体験しているのです。死にたくない、永遠に生きたいというのは、個人の欲望でしかありませんが、その欲望の中に真のいのちの願いを見つけていく手掛かりがあるといえるでしょう。しかし、わたしたちはこのいのちをわたしのいのちであると勘違いしていますから、そのいのちを長らえようと健康管理をしたり、健康診断に行ったり、薬を飲んだりしています。そのようなことで、個体の中にあるいのちを少し留めおくことはできるかもしれませんが、そのいのちはやがて個体の中を出ていかざるを得ません。死ぬということです。

わたしたちがいのちが何であるかを知るために、確かにいのちはわたしという個体の枠組みの中に入っていかなければなりませんが、その個体の枠組みの中にだけ留まっているだけであれば、それは本当のいのちを知ることにはなりません。いのちの本質は、いのちは個体という形はとりますが、その個体という枠組みを脱出して、いのちそのものの中に還るところに本来の動きがあるからです。個体性をとったものが、その個体性を脱ぎ捨てていくということが、いのちのもっている本来の動きなのです。神ご自身はいのちそのものでおられるということですから、当然御父による御子のこの世界への派遣、御子の御父への帰還、そして聖霊の派遣という動きとなっていくのです。これは神のいのちのダイナミズムで、神がいのちである、愛であるという以外の何ものでもありません。いのち、愛はひとつのところにとどまっていることはできず、絶え間なく自分から出ていこう、自分を他に与えていこうとします。これがいのち、愛の本来の動き、いのちの本質です。父と子と聖霊である神さまは愛の神さまですから、自分のところに留まっていることができず、絶え間なく御父は御子を生み、聖霊を発出し、また御子は御父に帰還しようとします。神さまはこの絶え間のない愛の流れ、動きを人間に知らせ、このいのちの本来の実相を生きるように招いているのです。

イエスさまを信じるということは、単にイエスさまを礼拝の対象として拝むという意味ではなく、このイエスさまのいのちの動きにわたしたちが乗ることを意味しているのです。それは、わたしたちが自分のエゴイズムの外に出るということなのです。自分のエゴイズムを優先している限り、それは自分を信じているだけであって、その信仰がどれだけ熱心であったとしても、それは自分のエゴを強化しているだけにすぎません。自分のエゴの外に出るということは、大きないのちの中に自分を解放することなのです。イエスさまはそのことをご自分を十字架に釘付けにすることによって、それがイエスさまの本来の姿、いのちの本来の姿であることをあきらかにされたのです。

これは神の救いの経綸であるといわれ、この流れの中に入ることが救いであると説明されますが、これは人間側の恣意的なものではなく、いのちの本質にもとづく運動であるといえます。これはいのちの本来の動きであり、わたしたちの中にその動きがあるというか、わたしたちはその動きの只中に飲み込まれているのです。これが人間の本来の姿なのです。わたしたちが個体性から脱出していくこと、愛するということは大切で必要なことなのですが、それ自体が目的でさえないのです。いのちの本来の目的はこの自己脱出であるといってしまえば、それはプラトンのイデア論になってしまい、わたしたちの本当の国籍は天国にありそれを切望していくという厭世主義の霊性になってしまいます。そうではなく、いのちの本質は、この全体の動きにあるのです。いのちはいったん個体性を取らなければならない、しかしその個体の輪郭に留まるのではなく、個体性を取ったいのちがもう一度その個体性の輪郭から脱出し、大きないのちのうちに自分を解放して、この大きないのちのうちに帰還していくという一連のいのちの循環にわたしたちが自分をゆだねることが信仰なのです。

この三位一体のいのちは、先ずはイエス・キリストの派遣としてあらわされました。いのちはまず個体にならなければならないのです。いのちは個体になることによって、人類にイエスさまをあきらかにし、イエスさまを通してわたしたちにいのちをあきらかにし、聖霊の派遣としてわたしたちにもたらされました。その流れはわたしたちを巻き込んで大きな渦となり、神のいのちへ生まれていこうとします。この流れは生きとし生けるもの、あらゆるものを巻き込んでいく大きないのちの流れであり、神へ帰還する動きとして理解されます。そして、神に帰還したいのちはまたこの大きないのちの流れとなってわたしたちへと流れてきます。これは別々の流れではなく、大きないのちの環流であって、愛し愛され、与え与えられていく相互の働きとして認識さ、これは分かつことのできないいのちの流れ、ダイナミズムなのです。これを抑えて三位一体のいのち、永遠のいのちというのです。わたしたちは、この永遠のいのちの循環の只中に、三位一体のいのちのうちに、父と子と聖霊の交わりの中に生きているのです。

聖霊降臨の主日 勧めのことば

聖霊降臨の主日 福音朗読 ヨハネ14章15~16,23~26節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は聖霊降臨の主日です。教会は今日までを復活節と呼び、今日が終わると、復活のろうそくを片付けます。今日の福音の中では、聖霊の派遣とわたしたちの魂のうちにおける聖霊の内住、現存ということが述べられます。また、今日の第1朗読の中では、エルサレムでの五旬祭の出来事が描かれています。ルカは、イエスさまの過越しが、ユダヤ教の過越祭の時期におこなわれたのと合わせて、聖霊降臨を、イスラエルの民のシナイ山での律法授与の記念である五旬祭に起こった出来事として描いています。これはルカの解釈であって、聖霊降臨が一体何であるかは実のところはわかりません。おそらく史実としていえることは、イエスさまの死後、弟子たちは十字架にかかって亡くなったイエスさまが真に生きておられ、しかも弟子たちとともに歩み、弟子たちを支え、弁護し、ともに働いておられるということを、また弟子たちの魂のうちに内住、現存しておられることを体験したということだと思います。それは、弟子たちのなかにイエスさまの生前の思い出が残ったという個人的体験ではありません。思い出ということであれば、あくまでもわたしの中の個人的な記憶であって、それらは時間とともに薄れていきます。しかし、この体験はイエスさまが現存される、つまりイエスさま側からの働きですから、薄れていくどころか、生き生きとしたリアリティをもった現実として弟子たちに体験されたということだと思います。

このことはイエスさまの側から見ると、弟子たちとともに生き、現存するということであり、それはイエスさまの復活、弟子たちへの聖霊の派遣によって実現していきました。弟子たちの側から見ると、亡くなったイエスさまが、自分たちのなかで単なる過去の思い出としてではなく、生き生きと現存しておられ、自分たちを愛し、ゆるし、自分たちとともに宣教し続けておられる霊の働きとして体験されたということだと思います。その働きは弟子たちの何かではなくて、イエスさまの側からの圧倒的な働きであって、そしてその働きはイエスさまの弟子たちに留まらず、すべての生きとし生けるものに対して働いています。そして、その働きは、イエスがすべてのものに働いているという真実に目覚めさせるために、すべてのものに等しく働いているということが明らかにされた出来事、それが聖霊降臨であるといえます。第1朗読の聖霊降臨の記述をみると、世界中から来ているありとあらゆる文化や言葉を異とする人々が、皆等しく福音を聞く出来事として描かれています。

生命体がこの地球に誕生して40億年の年月を重ねてきており、現在の地球はあらゆる多種多様な生命体で溢れています。今、地球には870万種類ほどの生命がいるといわれています。すべての生命体は細胞といわれる最小単位でできているのですが、40億年前、すべての生命の共通祖先となるあるひとつの細胞が誕生し、その細胞がひたすら分裂を繰り返し、地球の隅々にまで広がっていったといわれています(NHKスペシャルの人体より)。その証しとして、地球上の生き物の細胞はみな“同じ材料”でできていて、わたしたちは〝細胞きょうだい〟と呼ぶべきものであり、人間と他の生命体は決してかけ離れた存在ではないことがわかってきました。ですから、わたしたちにとって都合の悪いと思われるゴキブリや蚊なども、わたしたちの兄弟姉妹であるということなのです。彼らもわたしたちと同じ細胞をもつ細胞きょうだいです。わたしたち人間は、今まで自分たちが生命体の進化の頂点に立っている特別な存在で、独り勝ちをした存在であるかのように錯覚してきました。しかし、実はそうではなく、多種多様な生き物とわたしたちは並列の関係であり、わたしたちは生態系の支配者でも、主宰者でもないということなのです。人間は神の似姿、神の像であるとして、ユダヤ教とそれにつながるキリスト教は声高く主張してきましたが、人間だけが神の似姿、神の像ではなくて、すべての生きとし生けるものは神の似姿、神の像であるということなのです。この生命の多様性こそが生命のあり方なのです。

ですから当然人間という種の中にも、いろいろな文化や風土の違う民族が存在していて、人間界は成り立っています。今、行われている戦争や環境破壊、人権を認めないような国家や宗教のあり方は、人間だけを神の似姿と主張して他の生命体を支配し、近代になると人類を生命体の進化の頂点と錯覚しているような誤った生命観から起こっている問題なのです。これは自分と自分の周りの一部の人しか認めないような人類優生的な考え方であり、生命体として人類を絶滅危惧種としてしまうような危うさを抱えており、人類だけでなくこの地球を破滅に導きかねない考え方なのです。現代世界には、国家や宗教の名において生命の多様性を認めないような考え方が蔓延しているのです。

人間の生物として大きな特徴は、社会性であると考えられてきました。しかし、人間以外の生命体も優れて社会的、利他的な存在であることがあきらかにされています。すべての生命体は、お互いが協力しながらコミュニティーを作っていく存在です。それなのに人間は争い、お互いに傷つけあう弱い存在です。しかし、わたしたちは愛する力ももっているはずです。愛するとは、すべてのものが等しくあるということなのです。この人は愛するけれど、あの人は愛さないというのなら、それは愛とはいえません。それは好き嫌いということです。好き嫌い、善悪というのは、どこまでいっても人間の都合でしかないのです。もしこのような愛の特徴が等しさであるとしたら、この地上の870万種もの多種多様な異なった生命体に溢れているということはどのように捉えればいいのでしょうか。この多様性の根底に流れるものは、40億年前に誕生したひとつのいのちの細胞であり、すべてはこのいのちにつながっており、わたしたちは細胞きょうだいであり、皆等しいものであるということではないでしょうか。いのちに上等も下等もありません。そのような区別をしているのは、人間の都合です。この夫々の多様性を認めるための前提は、わたしたちは自他ともにすべての生きとし生けるものは、同じ大きないのちで生かされており、そのいのちを生きているということなのではないでしょうか。

十字架のヨハネは、「愛の特徴は、愛するものをその愛の対象と等しくする(霊の賛歌27)」といっています。ですから、旧約聖書の「自分を愛するように、隣人を愛しなさい」という自分を出発とするのでは足りないのです。先ず、すべてに勝って、生きとし生けるものに等しく注がれる神さまの愛を知ることが必要であり、その愛を受けるのに上も下も、高い低いもありません。夫々の多様性に応じて、皆夫々一杯に受ける、その意味で皆等しいということなのです。わたしたちは同じいのちを生きるものなのです。しかし、すべては異なっています。ひとつとして、同じものはないのです。

聖霊降臨の出来事は、皆が夫々の文化や習慣、民族の違いをそのままにして、等しくイエスさまの福音を聞くということでした。これこそイエスさまが、太陽はすべてのものに等しく注がれているといわれたことでした。等しく注がれるという側面から見ると平等ですが、光を受けるものは夫々違っています。違っていますが、お互いを排除したり、敵対したりしません。キリスト教は、安易な平等、極端な個人主義を説く宗教ではありません。皆で一緒に○○しましょうというのなら、小学校の今週の目標と同じです。すべてものは異なっている、しかしすべて同じいのちで支えているということにわたしたちを気づかせ、立ち帰らせる働きが、聖霊降臨の出来事であるということができます。お互いの差異を認めならが、しかしともにある世界、これが本来のいのちの世界なのです。

復活節第6主日 勧めのことば

復活節第6主日 福音朗読 ヨハネ14章23~29節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は、イエスさまが最後の晩さんの席で、聖霊の派遣について話される箇所が朗読されます。正直なところ、理解するのが難しい箇所でもあります。イエスさまについてはまだ理解できても、聖霊とか弁護者といわれると何のことかよく分からなくなります。そもそも、わたしたちが普通に使っている“神”と訳された言葉も、はたして現代人にとってどれほどの意味をもっているのでしょうか。

旧約聖書のなかで、神の霊、聖霊を表すために「風」、「息吹」という言葉が使われてきました。風というものは、空気の流れのことで、流れる空気自体のことを指しています。古来、日本でも風は、眼に見えないものを表すためにも使われてきた意味の深い言葉です。今でこそ、空気の実体が解明されていますが、空気自体は目には見えませんし、空気の流れ、動きによって風があることがわかかります。木々が揺れていると、空気が動いていることがわかります。つまり、風は空気そのものを指すのではなく、空気の流れ、動きであり、あるものを動かす働きのことをいっています。遠藤周作は小説「深い河」の中で、「神は存在というより、動きです。玉ねぎは愛の働く塊りなのです」といっています。従来のキリスト教の中では、神さまは存在そのものであるという説明がなされてきたと思います。しかし、現代人にとっては、神という言葉はもはや重みのない、実感のない言葉になっているのではないでしょうか。だから、遠藤は神という言葉を使わず“玉ねぎ”という言葉を使います。たまねぎは、皮をむいていくと最後にはその実体がなくなってしまう、しかし、人がそれを料理しようとすると勝手に涙が出てくる、そのように人を内側から突き動かしていく働きとして、神を捉えようとしたのだと思います。

今日読まれるヨハネの箇所の中でも、聖霊はわたしたち人間のうちに内住し、人間を弁護する「弁護者」であり、また弁護しながら「側にいるもの」、弟子たちに「すべてのことを教え」イエスさまの「話したことをことごとく思い起こさせて」くれる “働き”であると述べています。働きといっても、わたしたちはあんまりピンとこないかもしれませんが、わたしが今日ここに、このようにいることができるのは、いろいろな人の助けや関わり、いろんな出来事、またわたしが置かれた環境、それが宇宙であったり、地球であったり、地域であったり、家族であったり、いろんなこと、人の繋がりのおかげです。そのひとつでも欠ければ、わたしという人間は存在していないのです。つまり、わたしたちの意志や思いを超えた大きなものが、わたしを生かし働いているということではないでしょうか。それを、わたしたち日本人は「生かされている」とか、「おかげさま」という言葉でいい表してきました。遠藤は、そのように人を生かす働きのことを神といったのでしょう。神とか聖霊という言葉を使ってしまうと、あまりにも実感のない陳腐なものになってしまいます。

聖霊は、キリスト教の教義では三位一体の第三の位格であると説明されています。しかし、そのような説明がわたしたちの心を打つことはありません。普通、わたしたちが元気なときは、自分の力で何でもできて、動いて、働くことができます。そして、わたしたちは自分の人生を思う通りに設計し、それを実行し実現できることが人間としての能力、実力であり、幸福であると考えているのではないでしょうか。しかし、人は生きていくときに、必ず自分の思いが通らないことが起こってきます。それを人間は困難として体験します。そのことによって、わたしたちは、自分の力だけではどうすることも出来ないこと、自分のこころも体もいのちも思い通りにできないこと、まして他人や世界を思い通りにできないことに気づきます。

もし、人生がわたしのものであれば、わたしの人生はわたしの思い通りになるはずです。しかし、“わたしの人生は”、わたしの人生ではなく、わたしは生かされていたのだということに気づくことが聖霊を体験するということではないでしょうか。それは、わたしたちが実際に風に吹かれてみて、はじめて風の流れ、動き、力を感じるようなものではないでしょうか。無風のときには風を感じることはできません。風は、風を遮るものがあってはじめて風を感じることが出来ます。わたしたちの人生も同じではないでしょうか。人生が順風満帆のときには、よもやこの世に風が存在しているなどということを考えることはありません。しかし、順風満帆と思われた人生を妨げるような出来事や事件が起こってくると、風が吹いていることに気づき、それを人生の嵐として体験します。わたしたちが聖霊とか、神の恵みを感じるのは、聖霊や神の恵みを妨げるものがあって、それに風があたるとか、恵みが注がれることによって、それが聖霊とか神の恵みとして体験されるのです。ですからそのような体験が、救いであったり、ゆるしであったり、癒しとも呼ばれるのです。つまり、救い、ゆるし、癒しを体験するということは、わたしたちの中に救われなければならない現実、ゆるされなければならない罪、癒されなければならない傷や病があるからなのです。そこに聖霊の風が吹き、恵みが働くとき、それを聖霊の働き、神の恵みとして体験されるのです。何もないときには、何も感じませんが、それではそこには聖霊がおられず、神の恵みがないというのではなく、聖霊、神の恵みはいつも満ち溢れているのです。

聖霊は、わたしたち人類をいのちの根源において支え、生かし、働きかけておられる大きないのちの働きです。そして、その大きないのちが、わたしたち人間にも見える形で人間となった出来事がイエス・キリストです。そのイエスさまを通して、わたしたちは大きないのちの働きで動かされ、その大きないのちで生かされている、おかげさまであるということに気づかされます。それは往々にして、わたしたちには困難であったり、受け入れがたい体験であったりするのかもしれません。しかし、そのとき、わたしたちは、そのような状況の中においても、わたしたちを生かし、支え見守り、動かしている働きを聖霊の働きとして体験するのではないでしょうか。

(主の昇天(6月1日)の勧めのことばはお休みです。)

復活節第5主日 勧めのことば

復活節第5主日 福音朗読 ヨハネ13章31~35節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は、最後の晩さんの食卓で、イエスさまからユダが「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」といわれて、パン切れを受け取り、出て行った直後の場面が描かれています。「夜であった」と書かれています。ユダが最後の晩さんの家を出て行ったとき、すでに夜になっていたのでしょう。辺りは、夜の闇に包まれていたのだと思います。しかし、この闇は単なる夜の闇を指すだけではないと思います。それは、ユダ自身が入っていった自分ではどうすることも出来ないこころの闇を表していたのではないでしょうか。それはまた、わたしたちが入っていくこころの闇を表しています。

ユダは、ペトロたちのように単純な人間ではなかったのでしょう。ある意味で、イエスさまのしようとしておられたことを、誰よりも理解していた人間だったかもしれません。だからこそ、イエスさまのしょうとされることに一体何の意味があるのか、人々の苦しみを引き受けようとしておられるけれど、それで人々の苦しみがなくなるわけではないのにと、ユダ自身は問い続けていたのかもしれません。ユダは、イエスさまを愛していました。しかし、理解しようとしても入っていけないイエスさまの崇高さが、イエスさまを銀30枚で裏切らせ、ユダも自分自身を裏切って、こころの闇へと降りていったのかもしれません。そして、イエスさまもこの闇にユダとともに入っていかれたのではないでしょうか。イエスさまが、自分の愛する弟子をお見捨てになることがありません。イエスさまが一度、その人の人生を横切られたなら、その人はイエスさまのことをどれほど否定しても、忘れられなくなると遠藤周作はいっています。その理由は、イエスさまがその人の中で、その人を愛し続けるからだといっています。わたしたちは皆、イエスさまによって人生を横切られたものです。わたしが誰であるか、何をしたか、何であるかは問題ではないのです。イエスさまが、わたしを愛しておられるということだけが真実なのです。裏切ったものが、裏切ったものを一番理解している、また裏切られたものが、裏切らざるを得なかったものの本当の痛みを知っている、そして愛しているということではないでしょうか。

今日の箇所では、ユダがイエスさまを裏切って晩さんの広間から出て行ったとき、イエスさまは栄光を受けたといわれています。そのとき、イエスさまはもっともイエスさまらしくなったといわれるのです。そして、そのような状況のなかで、イエスさまは弟子たちに新しい掟をお与えになるのです。最後の食事が始まるとき、イエスさまは「ご自分のときが来たことを悟り、世にいる弟子を愛して、この上なく愛し抜かれた(13:1)」といわれます。その愛はもはや、「自分自身を愛するように、隣人を愛する」愛ではなく、「わたしがあなたがたを愛したように」といわれるイエスさまの愛であり、その愛にもとづいて、「あなたがたも互いに愛し合いなさい」とイエスさまはいわれるのです。このような壮絶な愛があるでしょうか。

不思議なことですが、このユダの裏切りということがなければ、イエスさまはご自分の栄光、つまり神の愛を人類に完全に示すことは出来なかったのです。十字架も復活もなかったわけで、キリスト教というものも成立していなかったわけです。もちろん裏切りということを弁護しているのではなく、それがよくないことであることに変わりはありません。河合隼雄がどこかで、「裏切りによってしか、距離がとれないときがある」といっています。多くの場合は、裏切ったものも裏切られたものも、大きな傷を負って夫々破滅してしまいかねません。しかし、キリスト教は、このような深い痛みと後悔、深い傷口から血を流しながら成立してきたものであるということなのです。弟子たちは皆、大なり小なりユダであったわけです。イエスさまが亡くなってしまわれたのですから、弟子たちの側からイエスさまとの関わりを修復することは不可能です。その修復不可能かと思われる関わりを、イエスさまがご自分の側から一方的に回復してくださったということ、それがイエスさまの復活なのです。そのイエスさまであるからこそ、恵みとして新しい掟、新しい関わり、愛の絆をわたしたちにお与えになることがお出来になるのです。わたしたちの惨めさの淵は、神のいつくしみの淵を呼び寄せるのだということなのでしょう。実に、ユダはわたしだったのです。このような人間のこころの闇の深みに入っていくことが、救いの意味を知ることなのです。わたしたちは、裏切りは罪で、悪であるとして、救い、恵みと対立したものとして捉えがちです。だから、罪や悪を取り除くこと、またそれらをなくしていくことが神に近づくことだと教えられてきました。しかしながら、わたしたちは生きることの中から、罪や悪、闇というものを取り除くことはできません。わたしたちは、闇から離れることはできないのです。それでは、わたしたちは何処で神さまの憐れみと、いつくしみ深いイエスさまのゆるしと出会うことが出来るのでしょうか。カトリック教会の素晴らしい教義、荘重な書物の中ででしょうか。

わたしたちは闇というものがなければ、光というものを認識することはできません。わたしたちはイエスさまのいつくしみぶかい憐れみ、イエスさまのゆるしを素晴らしい教えとして知ることはできても、実際にイエスさまがわたしの罪をゆるし、わたしの弱さ、傷に触れ、憐れみ深いあたたかな光を注がれることなしに、わたしたちはイエスさまの慈しみ、ゆるしと出会うことはできません。わたしたちのどうすることもできないみじめさ、傷、わたしたちが浸っている弱さ、聖なるものではないこと、わたしたちの罪は、イエスさまの救いと対立するものではなく、そのようなわたしたちの闇は救いのための場、手段、土壌となるのです。ですから、イエスさまがわたしたちを愛したといわれたとき、イエスさまはわたしのすべて、一切をゆるしておられるのです。わたしたちが誰であるかなかったか、何をしたかしなかったか、何であったかなかったかは問題ではなく、ただ一切を何であろうとゆるしておられたのです。このことに気づかされるのは、わたしたちのみじめさ、貧しさ、弱さ、傷、罪を通してです。わたしたちのみじめさの闇の淵は、いつくしみの淵を呼び起こすのです。このいつくしみの光は、わたしたちの闇に注がれるときもっとも憐れみ深くいつくしみ深いのです。そして、みじめなわたしたちは、神のいつくしみの使徒となるのです。これが恵みの世界で起こることなのです。

復活節第4主日 勧めのことば

復活節第4主日 福音朗読 ヨハネ10章27~30節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日のヨハネ福音書の中で、イエスさまは良き牧者として、わたしたちに永遠のいのちを与えるといわれています。そもそも、永遠のいのちとは何なのでしょうか。キリスト教ではどうも永遠のいのちを、来世のいのち、よいことをした人が死んだ後に報いとして受けるいのち、罪を犯した人は受けることができないものというような単純な考え方をしているように思えます。確かに聖書を読むと、永遠のいのちをそのように説明する箇所もあります。しかし、その箇所はあくまでも神の国のたとえとして語られているだけであって、そのまま真実として読む必要はありません。ヨハネ福音書に中には、永遠のいのちについての定義と思われる箇所があります。そこには「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです(17:3)」といわれています。永遠のいのちとは、唯一のまことの神である方とその遣わされたイエスさまを知ることですといわれています。永遠のいのちは、来世のいのちでもなく、わたしたち人間の業、行いへの報いとして与えられるものでもないのです。

唯一のまことの神である方とイエスさまは、わたしたちが生まれる前から、わたしたちがその方を認め信じる前から存在しておられます。ですから、永遠のいのちは、ご褒美のようにわたしたちに与えられ、わたしがあるときから手に入れるようなものではなく、わたしたちが信じたことで与えられるようなものでもないことがわかります。わたしがその方を知っているか知っていないか、また信じるか信じないかというような人間の精神活動やわたしたちの信仰心とは関係なく、唯一のまことの神、イエスさまは存在しておられるからです。つまり、唯一のまことの神とイエスさまご自身が永遠のいのちであるといわれているのです。これを、一般的にわたしたちは、創造的恵み、内在的恵みと呼んでいます。わたしたちに意識されませんが、恵みとしてわたしたちの中に働いています。これは、いわゆるわたしたちを助けるために与えられる恵みではなく、世界を創り生かし、わたしたちの意思に関係なくわたしたちをこの世界に存在させ、わたしたちを存在の根底から生かし、わたしたちに自分自身を与え続けている存在のことをいうのです。その働きを神のいのち、永遠のいのちといい、恵みの中の恵みであり、その神の恵みは神ご自身に他ならないのです。ですから、わたしたちはすでに神のいのち、永遠のいのちの中にあり、その中に生きているのです。しかし、わたしたちはその永遠のいのちによって生かされていることを知りません。ですから、永遠のいのちとしておられるまことの神とイエスさまを知ることが、わたしたちの永遠のいのちなのです。もう少し説明してみましょう。

当たり前のことですが、わたしたちはいのちというものを意識する前に、いのちを受けて生まれてきました。そのいのちはわたしたちに与えられたものであり、両親や家族、環境、国などもすべて与えられて、わたしたちはそれを引き受けてこの世に生まれてきました。ところが与えられたものをすべて引き受けていたわたしが、知恵がつき、言葉を覚えはじめていくと、「わたし」ということをいいだします。与えられたものをすべて引き受けていたはずなのに、「わたし」ということをいいだすと、「わたしがする」、「わたしのものだ」といい始めます。与えられたいのちの上に「わたし」ができたにもかかわらず、「わたしのいのちだ」といっていのちに執着するようになります。わたしの両親、わたしの家族、わたしの国など、すべてわたしを中心にして与えられたものが逆転していきます。そして、わたしの都合に合わないものは受け入れられなくなってきます。すべてのものがわたしでないところから与えられたものであったのにもかかわらず、「わたしのものだ」と主張し、わたしの基準で考えた人生設計をしようとします。しかし、何ひとつわたしの思う通りにならないわけです。それで怒ったり、嘆いたり、苦しんだり、悩んだりするわけです。

わたしたちの人生の中でいちばん思い通りにならないものは、わたしのこころとわたしのいのちです。腹を立ててはいけないと思っていても腹が立ちますし、信じなければならないと思っても疑いのこころが湧いてきます。1日でも自分のいのちを延ばしたいと思っても、自分の力で短くすることも長くすることもできません。ですから、もしわたしのこころやいのちが自分の思い通りになるなら、それを手に入るためにわたしたちは何でもすることでしょう。わたしたちは、わたしの思い通りになるものを「わたしのもの」であるといいます。そして、「わたしのこころ」、「わたしのいのち」といってわたしの所有物であると勘違いしていきます。しかし、わたしのこころもわたしのいのちも何ひとつとして、わたしの思うようにはならないのです。それと同じように、永遠のいのちも、わたしが何とかすれば手に入るものだと勘違いしています。それで祈ったり、修行をしたり、人助けをしたり、いい人になろうとする。そしてそれが手に入ると思う。しかし、すべてわたしを出発点にしてものごとを考えている限り、永遠のいのちが何であるかわからないし、永遠のいのちはすでに与えられているのに、それを探し続け、永遠のいのちを手に入れようとします。

永遠のいのちは、わたしたちが手に入れることなどできないし、またその必要もないのです。永遠のいのちは、すでにわたしたちに先立ってあり、わたしたちに先立って与えられているのです。つまり、永遠のいのちは、わたしたちに先立ってある唯一のまことの神であり、イエスさまであり、そのいのちを「わたしのいのち」であると勘違いしているのであって、すでに与えられているいのちのことなのです。それをわたしのいのちだと主張しても、そのいのちは一切わたしたちの思うようにはならないのは当たり前なのです。それは永遠のいのち、神のいのちであって、わたしのいのちではないからです。わたしたちが気づかなければならないのは、わたしのいのちと思っているいのちが、永遠のいのちであって、わたしたちに先立って与えられた唯一のまことの神とイエスさまであることを知ることです。その真実を知って、そのいのちの動き、流れにわたしたちを委ねていくことなのです。

永遠のいのちとはわたしたちのいのちを離れて別のところにあるのではなく、わたしたちのいのちも永遠のいのちと別のいのちではありません。わたしたちは、わたしがわたしのいのちを生きるのだと錯覚していますが、このいのちは大きな永遠のいのちであって、そのいのちの流れに乗ることが、わたしが生きることなのです。このいのちは生きもの、いのちですから、いのちそのものの中に動きをもっています。そしてその大きないのちの流れの中に生きることも死ぬこともあるのです。ですから生きることと死ぬことは別のことではありません。この大きないのちを知ることが永遠のいのちであって、わたしが何かを信じ込むことによって永遠のいのちを手に入れるのでも、新たに別のいのちとして与えられるのでもないのです。そのいのちはイエスさまの生きざま、死にざまとなって現れました。ですから、イエスさまの生き方にわたしたちが合流していくことが永遠のいのちです。わたしの小さな頭で考えて信じ込むのではなくて、イエスさまの大きないのちの中に入ることを信仰というのです。わたしたちが頭で考えている思い込みやわたしの信仰は壊れていきますが、イエスさまの大きな思いは壊れません。

道元禅師が「仏道をならうということは、自己をならうなり。自己をならうとは、自己を忘れるなり」といいました。そのことをパウロは、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしのうちで生きておられるのです(ガラ2:20)」といったのです。自己を知り、自己を忘れること、自分の思いを手放していくこと、すべてに自分を入れない生き方をしていくこと、そこにまことのいのちがあるのです。華道で花を活けるとき、わたしがどう活けるかではなく、花がどうしてほしいかを聞く、そのことに通じるものではないでしょうか。

復活節第3主日 勧めのことば

復活節第3主日 福音朗読 ヨハネ21章1~14節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

イエスさまの復活についての記述は、大きく2つの伝承があるとされています。ひとつは、エルサレムでの空の墓の伝承で、イエスさまに付き従った婦人たちが日曜日にイエスさまを葬った墓に行くと、墓は空であったというものです。もうひとつはガリラヤに逃げ帰った弟子たちが、復活されたイエスさまと出会ったという伝承です。いずれの物語も、イエスさまの復活そのものについては何も語っていません。いわれていることは、エルサレムでイエスさまを葬った墓が空であったということ、そして、弟子たちがガリラヤで、十字架で亡くなったナザレのイエスと同一人物と出会ったというものです。それは、単に個人的な幻視(マリアさまのご出現のようなもの)のようなものではなく、生きているイエスとの現実的な出会いであり、その出会いは弟子たちの生き方そのものを変えてしまうような体験であったということです。弱虫で自分勝手であった弟子たちは、今までとは打って変わって、ナザレのイエスは救い主であると宣言し、自分のいのちをかけるまでになったということです。一体何があったのでしょうか。

イエスさまに付き従った婦人たちは、十字架刑、十字架からの降下、埋葬までイエスさまを見届けました。それに対して弟子たちは、イエスさまが逮捕された時点で保身に走り、エルサレムの隠れ家に潜伏し、日を移さずにして彼らの活動拠点であったガリラヤに逃げ帰ってしまったということです。そこで、彼らはイエスさまに従う前の仕事に戻っていたようです。ペトロの「わたしは漁に行く」という言葉は、わたしは漁師に戻るといったニュアンスのようです。それに対して、他の弟子たちも「わたしたちも一緒に行こう」というのです。彼らは、失敗に終わってしまったエルサレムでの計画に対してこころの整理をして、元の仕事に戻るという感じだったのではないでしょうか。そして、彼らが戻ったガリラヤの日常生活の中で、彼らの生き方を根底から変革させるような体験したということ、それが弟子たちの復活体験といわれるものです。

イエスさまの復活については、いろいろと説明がされています。例えば、わたしたちが自分の親しい人が亡くなった後も、その人が自分の想い出の中に生きている、またこころの中で生きているというものです。しかし、このような想い出は、時間の経緯とともに薄れてゆきます。また、弟子たちがキリスト教という新興宗教を作るために、イエスの復活という教えを作り上げたのだという説明もあります。しかし、ひとつの宗教団体を作り上げるために、そのような教えを作り上げたとしても、自分のいのちまでかけたというのは少々無理があります。そもそも、イエスさまの十字架と死については、人間側の歴史的事実として証明することはできるのでしょうが、イエスさまの復活ということは、人間の側から証明できるようなものは何もないのです。

それでは何がいえるのかというと、イエスさまの弟子たちは、自分たちは復活したイエスさまと出会った、そしてそのことをいのちをかけて証ししたということ、それが多くの人々の共感を呼び起こし、ひとつのグループを形成していったということです。人々が何を体験したのかというと、復活されたイエスさまと出会ったという弟子たちの証しを聞いた人々は、その人たちも同じように復活されたイエスさまと出会う体験をしたということです。感染症がパンデミックといわれる爆発的な感染を引き起こすように、復活されたイエスさまと出会うという体験が爆発的に広がっていったということなのです。もちろん、イエスさまによって説かれた新しい神の国の生き方、愛と慈しみの教え、その愛といのちは暴力や死よりも強いという教えが広がっていくのですが、それは単なる素晴らしい、納得がいく教えが広まっていったということではないのです。

キリスト教の広がりというのは、単なる教えや教義、組織を宣伝していくことによって教勢を拡大していったということではないのです。確かにフランク王国時代とか、大航海時代には、宣教師による布教という手段で、キリスト教を知らない未開の人たちに唯一の救い主の教えを広め、洗礼を授けることでキリスト教を広めるということが強制的になされてきました。しかし、これはキリスト教の本来の広がり方ではありません。イエスさまご自身はキリスト教という宗教を創設する意図も、宗教を広めるという意図もありませんでした。また、カトリック教会という宗教教団を作る意図もありませんでした。イエスさまが人々に告げ知らようとされたのは、神の国の真実です。神の国はいろいろなことばで説明することができますが、イエスさまご自身が体験された神さまとのかかわり、そのかかわりに基づく世界の真理であるといえるでしょう。教会がどうとか、教団がどうとかに関心はありませんでした。ただ、イエスさまが体験された神の国の真実、またイエスさまによって体現された神の国の真理を告げ知らせること以外にはなかったのです。それは、わたしたちがその真理を体験するということによってのみ伝わっていくものでした。何か素晴らしい教えを教えるとか、隣人愛や奉仕の生き方を説くとか、制度や組織を伝達するとかによっては伝わらないものなのです。イエスさまという真実に出会うことによってのみ伝わっていくものです。その反面、教えや制度によって伝えられたことで、イエスさまの真実が正しく伝えられていないという状況が起こっているのも事実です。

イエスさまが大切にされたのは、イエスさまがわたしたちひとりひとりと出会うということでした。今日の聖書の箇所をみると、イエスさまがひとりひとりの弟子たちにかかわっていかれるのが目に浮かびます。これは生前のイエスさまの弟子たちひとりひとりへのかかわり方なのですが、イエスさまが十字架の上で亡くなってしまわれた、しかしイエスさまが復活されたということで、そのようなイエスさまのわたしたちひとりひとりへのかかわりが変わることなく同じように続いているということなのです。それがイエスさまの復活なのです。

いつの時代の人とも、世界中どこにいる人とも、このわたしに出会いに来てくださる、出会われていないものは誰もいない、これが復活のイエスさまなのです。ですから初代教会の人々の体験は、復活されたイエスさまに出会った弟子たちが、その出会いの体験を通して、イエスさまが今生きておられる、わたしとともにおられることを信じるようになり、そのことをもはや疑うことのできない真理として体験した弟子たちが、そのことを他の人たちに証ししていったのです。そうすると、その証しを聞いた人たちは、その弟子たちがしたようにイエスさまと出会うという体験をしていったということです。弟子たちがイエスさまの復活を教えとして教えるのでなく、キリスト教の教理として教えるのでもなく、いわゆる布教という方法によってではなく、ただ復活されたイエスさまとの出会いを証ししていっただけなのです。証しをする人がいたということだけで、他の人たちはイエスさまと直接に出会っていったのです。そこには何も仲介するものはありませんでした。ですから、これは弟子たちの力とか祈り、働きによるものではありません。そのことを弟子たちはよく分かっていました。「主は彼らとともに働き、彼らの語ることばが真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった(マルコ16:20)」と述べられています。弟子の教えでも、弟子の働きでもないのです。イエスさまの教え、イエスさまの働きなのです。誰かの教えなどないのです。ただイエスさまが働いていかれる、そのことが真理なのです。わたしたちはどれほどイエスさまの働きを信じ、謙虚でなければならないでしょうか。そこで働いておられるのは、イエスさまであり、真理の霊でしかないのです。そのイエスさまと出会うとき、わたしたちも自分が動きたくなるのです。