四旬節第3主日 福音朗読 ルカ13章1~9節
<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗
今日の箇所は、ルカだけに見られる固有の箇所となっています。そこでは、二つの出来事が述べられています。ひとつはピラトが、ユダヤ人が生贄を捧げるために集まっていたとき、ガリラヤ人を殺してその血を混ぜた、つまりガリラヤ人を見せしめのために血祭りに上げたこと、もうひとつは、シロアムの塔の改修工事中に塔が壊れて犠牲者が出たという話です。いずれも歴史的に確認されてはいません。ただ、当時の一般的なユダヤ教の考え方で、この世に起こる災害で被災する人々は、災難を受けなかった人より罪深かったからだと考えるのが一般的でした。それで、災難を受けなかった人は、自分はあの人たちのような罪人でなくてよかった安心するのが一般的であったようです。それはユダヤ教に限らず、原因があるからそれに等しい結果があると考える因果応報、自業自得という考え方が人間のなかに広がっているということではないでしょうか。人間は皆弱いので、自分に災難が降りかかってくると、自分の罪に対して罰が当たったのだとか、先祖の罪業の報いが自分に及んでいるのだとたやすく考えます。それは、人間は誰しも完璧ではないし、人にはいえないようなことを抱えていたり、思ったりやったりしているからでしょう。向こう脛に傷があるということでしょうか。わたしたちは誰も、神さまの前に大手を振って立つことができるものはいません。それで、因果応報、自業自得という考え方を容易に受け入れてしまうということになるのだと思います。それでは、この世界は本当にそのようになっているのでしょうか。
今日の福音で、イエスさまは「彼らがそのような災難に遭ったのは、他の人々よりも罪深い者であったと思うのか」と問われています。そして、「決してそうではない」といい、短絡的な因果応報という考え方を否定されました。そして、わたしたちの身に起こってくることは、わたしたち一人ひとりへの問いとなっているといわれました。ですから、罪深いから、不幸になるのではないし、善人だから、よい報いがあって幸せになるというのでもない。その反対に、よい人間なのに、不幸になり、悪い人間なのに、のさばるということでもないということなのです。つまり、わたしたちが考えている善悪、幸不幸はすべて人間わたしの判断による相対的なものであって、世界の中の事象はいわゆる教訓話のように起こるのではないということなのです。何も悪いことをしていないのに、どうしてこのように災難に遭うのかという問いも、悪いものがなぜ罰せられることもなくのうのうとしているのかという問いも、そもそも成り立たないし、頑張って努力したので報われたのだとか、頑張らなかったので駄目なんだという考え方も、一面ではそうかもしれないけれど、必ずしもその通りではないということなのです。つまり、人間の考える善悪、快不快によって、この世界の事象は起こるのではないし、世界はそのように理解されえないということなのです。もっと大きな視点が必要なのだということなのです。
それでは、現実問題として、この地上で起こるいろいろな事象をどのように考えていけばいいのでしょうか。この宇宙の生きとし生けるものは、すべてお互いに関わり合って構成さえ、生かされています。通常、わたしたちはわたしの自分の小さな言動や何かが、よもや世界の動きに関係することはないと思って生きています。今でこそSNSやメディアの進化により、地球の裏側で起こっているウクライナの戦争をリアルタイムで情報を手に入れることができます。しかし、100年、200年前であれば、そのことを知る由もなく、かなり時間が経ってから知る、あるいは他人事で終わってしまうというのが普通でした。その一方で、日本のことわざに「風が吹けば桶屋が儲かる」というものがありますが、それは、ある事象の発生により、一見すると全く関係がないと思われる場所・物事に影響が及ぶたとえとしていわれています。現在の量子力学で、バタフライ効果ということばがあります。蝶々の小さな羽ばたき、そのわずかな変化が、その後の生態系が大きく異なってしまうほど大きな影響を及ぼし、予想もしていなかったような大きな事象につながるということを意味しています。「風が吹けば桶屋が儲かる」といわれてきたことわざが、量子力学的に実証されたということでもあるのです。実はこの量子力学の考えは、この世界、この宇宙は決して夫々のものがバラバラに無関係に、別個に存在しているのではなく、お互いが関わり合って、呼応し合って、響き合って存在している関係存在であることをいおうとしているのだということです。
そのことを、パウロは「あなたがたはキリストの体であり、また、一人ひとりはその部分です(Ⅱコリ12:27)」といいました。「神は、ご自分の望みのままに、体に一つひとつの部分をおかれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるのでしょうか…目が手に向かって『お前はいらない』とはいえず、また、頭が足に向かって『お前たちはいらない』ともいえません…むしろ各部分が互いに配慮し合っています。ひとつの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、ひとつの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです(同」12:18~26)」といいます。人間の体は夫々の部分によって成り立っていますが、部分だけでは人間ではありません。体のたとえを用いて、人間はあらゆる関りのうちに成り立っている関係存在であるということがいわれているのです。このことは、わたしたち人間のことだけでなく、全人類、自然、地球、全宇宙にまでその関りは及んでいきます。この世界、この宇宙はわたしと無関係ではなく、わたしもこの世界、この宇宙と無関係ではありません。夫々が関わり合って、響き合って、わたしを、この世界を、宇宙を、いのちを形作っているのです。それがいのちの本来のあり方なのです。これがイエスさまの視点であるといえるでしょう。
古来、日本人は「わたしとこの世界はひとつである」という世界観、生命観を当たり前のこととして生きてきました。しかし、現代のわたしたちの価値観を形作っているものは、ギリシャ、ローマ、ヨーロッパの価値観であり、それは目の前にある実体を細かく切り分け、細分化することによって世界を、生命を理解しようとするものです。それは端的にいうと、自分と相手の関わりを区別し、相手がわたしにとって有用な存在であるかどうかによって、相手の価値を決めていく世界観です。それは「目が手に向かって『お前はいらない』といい、また、頭が足に向かって『お前たちはいらない』という」ような価値観、つまり、わたしと他者、世界は夫々別々で、別個に独自で存在していて、お互いに関係がない実体であるという考え方が根底にあるのです。そして、相手が、わたしの得になるかならないかでその存在価値が決まっていくような価値観です。このような価値観、世界観で、今の世界は覆いつくされているのです。
わたしはこの世界なしには存在することはできず、わたしはわたしひとりだけでは存在することはできない存在なのです。世界がなければわたしはいない、わたしがいなければ世界はない。だれひとり、何ひとつかけても、この世界は存在しえないほどの深い相互関係、これがいのちのありさまであり、イエスさまはこのいのちの感覚を宣べ伝えられたのです。相手がわたしにとって役に立つか役に立たないかという考え方、そのような考え方の行き着く先は、戦争、分裂、差別、分断です。今、わたしたちは聖書のことばに立ち返って、本来のいのちがもっているあり方に立ち帰るように呼びかけられているのではないでしょうか。イエスさまの「いっておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」というのは、脅しではなく、わたしたちが本来のいのちのあり方へと回帰するようにとの呼びかけに他ならないのす。そして、そのいのちの感覚にわたしたちが立ち帰るとき、この世界に起こるすべてのことは、もはや他人事ではなく自分事となっていくのです。指先を怪我をすれば、わたしのすべてが痛むように、イエスさまにとって、人々の苦しみはご自分の苦しみ、世界の痛みはご自分の痛みなのです。