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復活節第2主日 勧めのことば

復活節第2主日 福音朗読 ヨハネ20節19~31節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の福音では、イエスさまが十字架の上で亡くなられた後の日曜日の夕方の出来事が描かれます。弟子たちはすべてが終わってしまった、自分たちの先生は十字架につけられてしまい、今度は自分たちに追手が及ぶかもしれないと恐れて、家の戸に鍵をかけて閉じこもっています。その弟子たちは、保身に走りイエスさまを見捨てて逃げてしまった弟子たちです。その弟子たちと復活されたイエスさまとの出会いが描かれていきます。家の戸に鍵をかけて閉じこもっている弟子たち、これはまさしくわたしたち人間の姿でもあります。弟子たちはイエスさまを裏切ってしまったという自責の念に苛まれ、次は自分たちに追手が及ぶかもしれないという二重三重の恐れと後悔という闇の淵に沈んでいます。イエスさまが十字架の上で死んでしまった以上、もはやイエスさまにゆるしを乞うとか、和解するという、自分たちからの手立てをすべてなくしてしまった状態です。

わたしたちはいろいろな困難に直面するとき、それなりにやり過ごしていく業を身に着けています。しかしわたしたちは、人間の力だけではどうしてもやり過ごすことができない状況を、人生の中で何度となく体験します。聖書ではそれを闇とか、罪とか、死と表現し、わたしたちのことばでいえば四苦といわれる生老病死がそれにあたります。どのようにしても、わたしたちの力が及ばず、わたしたちからそれを突破する手立てがない状況をあらわしています。このような中で、わたしたちはどうするでしょうか。わたしたちはとにかくもがき苦しみますが、やがて自分たちの方からは何の手立てもないという現実を受け入れざるを得なくなります。そのとき、“イエスが来て真ん中に立たれる”のです。もはや、あちら側から手が差し伸べられてくること以外にはないのです。それが、イエスさまの方がわたしに出会いに来られる、関わって来られるということなのです。イエスさまを知らない人であれば、真理が明らかにされるといってもいいでしょう。

今日、描かれる弟子たちとイエスさまとの出会いは、決してわたしたちが普通に誰かと出会うような次元の話ではありません。わたしが望んだから、わたしが頑張ったからできるようなものではないのです。ただ、一方的に与えられてくるものなのです。これを恵みというのです。ただ今日の聖書朗読にあるような出会いが、聖書の中で描かれている具体的なことがあったかどうかはわたしたちにはわかりません。多くの場合、聖書の記述をあたかもそのまま起こった物語のように解説されてしまいます。最初のときトマスはいなくて、一週間後にトマスがいて、トマスがイエスさまの手とわき腹の傷跡に指を入れるとかいう生々しい話です。それをまた、そのままあったかのようにリアルに説明する。しかし、そのようなことがあったかどうかは、わたしたちにとって大切なことではありません。それなのに、そのような特殊な体験ができることをお恵みだとか、特別なことだとか考えてしまう、愚かなことです。そんなことがあったとしても、それがイエスさまであると誰も証明できません。単に自分がそうであると思い込んでいるだけかもしれません。それは信仰とは関係ないのです。

わたしたちは誰も生前のイエスさまと直接に出会った人はいません。わたしが出会うのは復活されたイエスさまです。復活されたイエスさまであるということは、いつでもどこでも、どの時代に生きていても、すべての人が出会うことができる方であるということです。より正確にいうならば、わたしたちの方からイエスさまと出会えるための手立てというものは何もありません。しかしイエスさまが復活されたということは、イエスさまは二千年前のユダヤの一部の限られた人としか出会うことができなかったイエスさまではなく、時間と空間を超えてすべての人のイエスとなられたということなのです。つまり、すべての人はイエスさまによって関わられている、イエスさまの働きがすべて人に及んでいるということなのです。わたしたちの方からイエスさまと出会うことを望んでも望んでいなくても、またイエスさまのことを知っていても知らなくても、イエスさまはすべてのところのすべての時代の人々に関わっておられるということなのです。イエスさまによって関わられていない人は誰もいない、善人悪人の関係もない、洗礼の有無も関係ない、罪の有無にも関係ない、イエスさまによって愛され救われていない人は誰もいないということなのです。このことがわたしの何かによって変わるということはありません。わたしの努力とか精進によってどうこうなることでもありません。イエスさまがわたしのことを知っておられ、愛しゆるし、関わっておられる、イエスさまは愛の働きとして、その働きがすべての生きとし生けるものに及んでいるのです。そのイエスさまと出会うこと、それはわたしが出会いにいくのではなく、イエスさまがわたしに出会いに来られるのです。教会は長い間、救われる人は特定されており、救われるためにわたしは何かをしなければならないという予定説に苦しめられてきました。しかし、それはイエスさまではないのです。

このような体験は特別ではなく、すべての人のうちにイエスさまと出会う力が賦与されているのです。ただそれはわたしの力ではなく、イエスさまがわたしと出会いたいという願い、わたしとの出会いに飢え渇いておられる、その渇きがわたしたちに振り向けられているのだということなのです。わたしの方から、イエスさまと出会うための手立ては何もありませんが、イエスさまの願いがわたしの中に振り向けられており、それがわたしの中で起動させられるとき、信仰という形をとるということなのです。だから、わたしが信じるのではないのです。わたしの信仰などありません。イエスという名は、「わたしはあなたを救う」という願いであり、働きであり、イエスさまがわたしたちを救い取って捨てない、人類最後のひとりが救われるまで働き続けるというイエスさまのお約束がわたしたちに届いていること、それが救いであり、信仰なのです。ですから、わたしたちを信じさせるよう働いておられるのはイエスさまに他ならないのです。

わたしたちはイエスさまのことを知って、考えて、信じて助かるのではないのです。わたしはあなたを救うといわれている方の名を聞くことによって救われるのです。キリスト教は、イエスさまという救い主を知って、勉強して、洗礼を受けて救われると思っているのであれば、その人はイエスさまのことを何もわかっていません。わたしたちはイエスさまを思うとか、信じるといいながらも、悲しいかな、結局はイエスさまを信じている自分を信じているのに過ぎません。わたしたちの罪、わたしたちの闇の根っこにあるのは、その自我、エゴなのです。家に鍵をかけて閉じこもっているのはわたしで、そこには自分しかいないのです。そして自分にかがみこんでいるわけですから、そこには自分の陰でできた闇しかありません。だからそのようなわたしがイエスさまを信じるとか、イエスさまのことを思うなどということは不可能なのです。ただ、わたしが頭の中でイエスさまのことをぐるぐる考えているだけです。これを黙想だという人がいますが、それは違うように思います。わたしの方からイエスさまに向かう道はありません。イエスさまの方からわたしの方に来てくださる道だけしかないのです。この真理の前に、わたしの方から何かできると思うのは、すべて錯覚です。犠牲とか、祈りとか、隣人愛を実践することで、わたしがイエスさまに向かっていこうとすることは大切であるとしても、わたしの力でできるものではないのです。怖いのは、そのようなことを行うことで自分はイエスさまに向かっているのだ、それが信仰だと勘違いしていることです。本質的にキリスト教はすべて、真理であるイエスさまがわたしたち人間の方に来られるという、ただひとつの大道しかないのです。そのことを今日の福音は語っているのです。わたしたちがエゴを離れるという必要性や方法論があるのはそうでしょう。しかし、キリスト教では、いずれにしてもイエスさまの方から来ていただく道しかありません。今日改めてそのことを抑えておきたいと思います。

復活の主日 勧めのことば

復活の主日 福音朗読 ヨハネ20章1~9節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日、わたしたちはイエスさまの復活をお祝いします。しかし、今日読まれた福音の中に、イエスさまの復活が何であるかは何も書かれていません。イエスさまが十字架の上で亡くなり、その後、遺体を納めた墓が空であったということだけが書かれているだけです。多くの人は、イエスさまの復活をそのことば通り、「死んで生きかえる神」であるかのように考えています。よく、墓から包帯を解きながら出てくるイエスさまのご絵があり、そんなイメージをもっているのではないでしょうか。そんな話なら、世界中のいろんな神話のなかに死と再生というテーマで出てきます。また、わたしたちが日曜日毎に唱える、「ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられて死に、葬られ、陰府に下り、三日目の死者のうちから復活し、天に昇って、全能の父である神の右の座に着き…」という信条は、前半は歴史的史実をいっていますが、後半は教会の教義であり、イエスさまの復活自体が何であるかについて何も語ってはいません。これでは、イエスさまの復活が何であるかは分かりません。イエスさまの復活は、単に死者が生きかえったという話ではありません。イエスさまの歩まれた道、その生涯、そして、その最期の受難・死・復活という出来事を通して、それに関わった弟子たちの人生の中にイエスさまが入ってこられ、そして、今も関わり続けておられるということだといったらいいかもしれません。これが弟子たちの復活体験です。

わたしたちの人生は生老病死であり、生きることの中に大きな苦しみを抱えています。特に老病死は大きな苦しみです。イエスさまはそのようなわたしたちの中に、何があるのかをよく知っておらます。イエスさまは、わたしのこころの動きをすべてご存じなのです。わたしのこころの痛み、悲しみ、苦しみ、試練、失敗、そしてわたしの罪もすべて知っておられます。なぜなら、イエスさまご自身が人間となって、人間であることをすべて生き切られたからです。そのイエスさまは生きておられたとき「空の鳥、野の花をみなさい」と教えられました。つむぎもしないし、労苦もしない、でも神さまはその鳥を養っておられ、野の花を装わせておられる。それなのにあなたがたは何を思い煩うのかといわれました。イエスさまはわたしたちが、何かであるからとか、何かでないからではなく、そのままのわたしを愛しておられるのです。もう一度、いいましょう。イエスさまはわたしがわたしであるから、イエスさまはわたしを愛しておられるのです。人類はそのことを忘れ、分別とエゴイズム、罪でその魂の記憶と美しさを曇らせてしまいました。そしてこころを閉ざし、自分の中に閉じこもってしまったのです。

そのわたしが願っていることは、自分のことを認めてほしい、愛してほしい、わかってほしい、大事にしてほしい、自分を呼んでほしい、それがわたしたちが根本的に願っていることではないでしょうか。誰からも認められず、愛されず、大切にされず、理解されず、呼ばれることもない、これほどわたしたちにとって苦しいこがあるでしょうか。どれだけのお金があって、地位があって、名声があっても、決してわたしたちは満たされることはありません。それなのにわたしたちは、イエスさま以外のものでどれほど自分を満たそうとしたことでしょう。他の人と自分を比べ優れていると優越感に浸り、自分はダメだといって劣等感に沈み、過ぎゆくもので自分を満たし、自分の内にある空虚を満たそうと躍起になってきたことでしょう。わたしは自分のことを認めてほしい、愛してほしい、わかってほしい、大事にしてほしい、自分を呼んでほしい、わたしは自分が認められ大事にされることに飢え渇いているのです。イエスさまは、そのわたしたちの渇きを癒すために、わたしたちの願いに応えるために、わたしと同じ人間のひとりとなられ、わたしとひとつになって十字架に架かり、死ぬほどまで、わたしを愛し尽くしてくださったのです。こうして、わたしの願いとイエスさまの願いがひとつになるまでにいのちを与え尽くしてくださったのです。そして、それが今もわたしのなかで続いているのです。イエスさまは、わたしの人生とひとつになられたのです。これがイエスさまの復活の意味でしょう。

「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書のことばを、二人はまだ理解していなかったのである」といわれます。イエスさまは復活し、すでにわたしたちとひとつとなって、わたしを大いなる光で包んでくださっています。わたしの生も死もすべて呑み込まれています。だからもはやわたしの生も死もないのと同じです。わたしたちはただ生命体としては生と死を迎えます。しかしそれはわたしのいのちの一部で起こっていることに過ぎません。「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であられたあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです(ヨハネ17:17)」といわれる通り、わたしたちが復活されたイエスさまと出会うことが永遠のいのちなのです。永遠のいのちとは死後のいのちであるとか、どこかよそにあるいのちではありません。イエスさまを知らせていただいたこと、イエスさまが復活し、世の終わりまでわたしたちとともおられることを知らせていただいたこと、そのことが永遠のいのちなのです。まさに、今、わたしたちが生かされていることそのものが永遠のいのちなのです。

わたしたちがそのことに気づけないのは、わたしたちのエゴイズムやわたしたちの頑なさの結果であり、それこそわたしたちの罪であるといったらいいでしょう。しかしイエスさまは復活し、わたしたちの罪の闇を打ち破り、わたしを光で包んでくださいました。ある意味で、わたしたち人間の闇がそれほど深いともいえますし、イエスさまの光があまりにも強くてその光の中にあることにさえ気づけないのかもしれません。大切なことは、わたしが何であって、何でなくても、イエスさまはわたしを探し求め、わたしとともにおられ、わたしの愛に渇いておられるということです。十字架上で「渇く」といわれたように、イエスさまはわたしたちがイエスさまの愛に応えることに渇いておられるのです。イエスさまの愛に応えるということは、イエスさまに愛されたままになることに他なりません。わたしたちがどれだけイエスさまから離れようとも、遠く彷徨うとも、イエスさまの愛は永遠に変わることなく、わたしについてきて離れることはありません。これが永遠のいのちなのです。そして、このイエスさまの愛を受け入れることがわたしの復活体験であり、復活されたイエスさまと出会うことなのです。

主の晩さんの夕べのミサ 勧めのことば

主の晩さんの夕べのミサ 福音朗読 ヨハネ13章1~15節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

小学生のとき、お寺の日曜学校で聞いた話です。ある国に慈悲深い王子がいて、ある日、森で飢えて動けない母虎と子虎に会いました。王子は母虎に自分の体を食べさせて、母虎が子虎たちにお乳をやれるようにと決心します。しかし、王子が目の前に体を差し出しても食べる元気もありません。そこで王子は自分の血を母虎になめさせようとして、崖の上から飛び降ります。やっとその血をなめた母虎は気力を取り戻して、王子の体を食べて子虎にお乳をやることができました。そして、この王子は生まれ変わって釈迦となって悟りをひらくという話です。それが法隆寺の宝物の玉虫厨子の側面に描かれている「捨身飼虎(しゃしんしこ)」というお釈迦さまの前世譚の物語です。小学生のわたしは、そのまことの真実を語るその話に心動かされないではいられませんでした。現代であれば、そんなことをすれば、血の味を覚えた虎がまた人を襲うのではないかとか、いろいろな反論があると思いますが、これこそがまことの真実を明らかにするための話であったのです。

今日、わたしたちが祝うイエスさまの最後の晩さんの聖体の制定は、この話そのものです。これ以上、何かを説明する必要があるでしょうか。虎を養うために崖から身を投げるという行為は、イエスさまの十字架そのものであるといえるでしょう。宇宙開微以来、すべての生物は食物連鎖によっていのちを繋いできました。その食物連鎖は「弱肉強食」という姿をとっているように捉え、その食物連鎖の頂点にいるのが人間であるかのように考えられていました。弱肉強食は強者が弱者を食べるということです。それでは、誰がそのように考えてきたかというと、それがユダヤ教であり、キリスト教なのです。今のほとんどの世界の価値観は何によって形作られたかというと、それはキリスト教なのです。キリスト教徒が世界中の多くの民族を植民地化し、キリスト教を広めてきました。ですから当然、キリスト教が根底にもっている世界観、食物連鎖=弱肉強食という価値観を広めてしまい、人間の世界も当然「弱肉強食」の競争社会となり、食うか食われるかの世界になってしまっているのです。自分が他の誰かの何かを奪って生きていかない限り、生きていけないと錯覚しているのが現代社会なのです。しかし、これらは人間の思い込みで、その仮想現実に支配されているのがわたしたち現代人なのです。強くならないと相手から攻撃される、だから強くならないといけない、これが現代の国家なのです。ですからこれらが競争、貧困、飢餓、戦争等という姿をとって現れてくるのは、ある意味では当たり前なのです。

仏教では王子のいのちも、虎のいのちも、草木のいのちに区別をつけません。だからいのちに、上等も下等もありません。王子はそのことがわかっていて、常日頃、自分はほかのいのちによって養ってもらっている、だから飢えで死にそうな虎の親子と出会って、この度は自分の身を捨てて、虎を養おうとされるということなのです。この価値観は日本人には当たり前で、わたしたちは食事のとき「いただきます」といっていただくいのちへの感謝をあらわし、食後には「ごちそうさまでした」といっていただいたいのちに感謝をあらわします。わたしたちは皆、他のいのちによってわたしが養われていること、生かされていることを知っているのです。そのことがわからないで、いのちを奪って食べて当たり前だと思っていたユダヤ人たちに対して、イエスさまはいのち本来の姿を示されたのです。ですから主の晩餐とはいのちへの感謝を知らないユダヤ人やキリスト教徒のための儀式なのです。しかしこれほど「弱肉強食」の価値観がキリスト教の伝播とともに広がり、人間が食物連鎖の頂点にいるのが当たり前だと錯覚している愚かな現代人にとって、感謝の祭儀はいのちの尊さを指し示す秘跡となっているのです。

最後の晩餐は、この弱肉強食の世界を出離したところにいのちの真理があることを描いています。しかしながら人間である限り、もはやこの弱肉強食の世界から出離することはできなくなっており、わたしたち現代人はこの間違った価値観、錯覚、幻想に支配されているのです。ですからイエスさまは人間となり人間の食糧となって、わたしたちに食べられる弱いものとなって、人間の愚かさに気づかせ、わたしたちはひとり残らずほかのいのちによって生かされているという真実に目覚めてくれよとのお呼びかけなのです。それが、今日祝う主の晩さんの意味です。そこまでしなければ、ユダヤ人にはわからなかったということでしょう。これが聖金曜日の主の受難です。そして生きとし生けるものを生かすために、つまりわたしたち人間を最後のひとりまで残らず救い取るために、イエスさまはその業を永遠に続けられる愛の働きとなって、わたしたちのために永遠に働き続けておられること、これが主の復活の意味なのです。この愛の働きは決して終わることがありません。イエスさまの「捨身飼虎」の行が決して終わることがない、永遠の修行なのです。

イエスさまご自身が迷いの衆生の身となって、つまりイエスさまはわたしとなってともに迷い、わたしたち衆生にその身を分かち合いながら、ひとり残らず衆生が皆救われるときまで、その行を続けられておられる、これこそが聖なる過越しの3日間の意味なのです。ですから、聖なる過越しの3日間は夫々別のことを祝っているのではなく、イエスさまの愛の働きを3つの側面から記念しているなのです。それがイエスさまの受難、死、復活です。ひとつ目はわたしたちとなってわたしたちの身をご自身の身で養うということ、ふたつ目はそのためにご自身の身を投げ出すということ、3つ目はそのイエスさまの業は永遠に続くということです。イエスさまはこの3つの出来事を通して、わたしたちにいのちの真実を明らかにしてくださったのです。

こうしてイエスさまはいのちの本来の姿を示されました。わたしは通常はほかのいのちによって生かされていることを忘れてしまいます。そして自分のいのちを保つことばかりに躍起となっています。しかし、わたしたちが他のいのちによって生かされていることに気づいたら、そこに感謝が生まれ、今度はわたしたちのいのちを他のいのちを養うものに使うということになっていきます。これをわたしたち使命といいます。文字通り、いのちを使うと書くのです。植物、動物は非常に短い生命のスパンでそれを生きて、いのちを与え分ち合っています。親は子孫にいのちを受け渡したら死ぬのです。そして親は子の中にいのちとなって生き続けます。人間だけが寿命が延びて、その機会を失い、生きることに執着していきます。しかし、イエスさまが示されたいのちの真実は、生きるということは死ぬことだ、そして死ぬということは他を生かすことだということ、このいのちの本来の姿に立ち返れといわれるのです。そのことを忘れている人間は餓鬼畜生にも劣るということなのです。イエスさまの教えは、難しい教えではないのです。いのちの教えというか、いのちの本来の姿に立ち戻ることです。これが最後の晩餐、ミサなのです。

受難の主日 勧めのことば

受難の主日 福音朗読 マタイ21章1~11節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日はイエスさまのエルサレム入城が記念されます。イエスさまがどうして、エルサレムへ行こうとされたのかを考えてみたいと思います。イエスさまはガリラヤでの宣教活動に終止符を打って、エルサレムに向かわれました。エルサレムへの入城はイエスさまの凱旋のように描かれていますが、事実はそうではありません。イエスさまの旅は、挫折の連続でした。ガリラヤでの宣教活動がうまくいっていると思われた時期もありましたが、それは最初の頃だけです。人々は貧しさに喘ぎ、日々の生活は困窮を極めていました。その人々の苦しみを見て、イエスさまは人々に寄り添い、飢えた民衆にはパンを与え、病に苦しむ人々を癒していかれました。しかし、イエスさまの神の国の福音は、人々に伝わるということはなかったのです。人々がイエスさまに求めたのは、その日一日の食べ物と病からの癒し、苦しみからの解放でした。苦しむ人々にどんなに崇高な神の愛を説いても、神の国の福音を告げ知らせても、そんなものは単なる理想、綺麗ごとでしかなかったのです。では、どのようにすればこの人々が救われ安寧がもたらされるのでしょうか。イエスさまは人々に寄り添いながら、必死に祈り考えられたのだと思います。それこそ、宇宙開闢以来の神さまの悲願であったと思います。この人類の苦しみの歴史にイエスさまはずっと向き合ってこられたのです。

ユダヤ教の厳格な律法を守ることで救われる人は、それでいいかも知れません。難しい律法の解釈や研究のできる人はそれでいいでしょう。しかし民衆のほとんどは、難しくて厳格な律法など守ることができない人たちでした。それでは、律法や掟を守ることができない人たちは、どのようにしたらいいのでしょうか。救いを求めて群がる人々に、イエスさまは自分の出来るすべてのことをしていかれたのだと思います。しかしイエスさまが感じられたことは、やってもやっても決して終わることがない無力感であったのではないでしょうか。どこまでやっても、全人類の最後の一人まで残らず救われるには終わりがない、何もできないことをおそらく痛感されたのではないでしょうか。イエスさまご自身、自分が救い主として、人々を救う側にいて、人々を救っていくというご自身のあり方そのものがわからなくなられたのではないでしょうか。これこそ、イエスさまの最大の試練、挫折だったのではないでしょうか。そこで、イエスさまが選ばれた道は、エルサレムへ向かうということであったように思います。イエスさまは救い主として、自分が救う側ではなく、救い主としての身分を捨てて、救われなければならない人間の身にご自身を置かれたということではないかと思います。イエスさまは救う側ではなく、救われない側に、救われ難きわたしたちと同じものとして、ご自身の身を置くという大きな決断、転換がなされた出来事、それがエルサレムに向かうこと、エルサレムの入城ということだったように思われます。

今日の詠唱にあるように「キリストは人間の姿であらわれ、死にいたるまで、しかも十字架の死にいたるまで、自分を低くして、従うものとなった」、つまり、イエスさまはわたしたち人間と同じものとなられた、イエスさまはわたしになられたのです。人間として病み、老い、苦しむ、死ぬものとなられたのです。しかも人間としてもっとも惨めで酷い、呪われた最低の十字架という死に方をされたのです。わたしの人生の綺麗な部分だけではなく、わたしのどす黒い闇、罪、すべてと一致されたのです。イエスさまは決して偉大な救い主としてわたしたちを救ってくださる方ではなく、わたしとなって生き、悩み、苦しみ、老い、病み、死ぬものとなられ、この世界の最後の一人が救われるときまで、わたしとなって歩み続けられる、これこそがわたしたちのイエスさまなのです。

イエスさまの中で救いというものの意味が根底からひっくり返ったといってもいいかもしれません。栄光のキリストではなくて、十字架へと歩むキリストとなられたのです。こうして、イエスさまはわたしたちとともに歩み、苦しみ続け、決して休むことなく働き続ける愛の働きとなろうとされたのです。これが、エルサレムに向かおうとされたこと、エルサレム入城の意味であり、十字架に向かっていこうとされたイエスさまの思いではないでしょうか。このイエスさまの願いが成就され永遠のものとなった、これがイエスさまの復活であるといえばいいのではないかと思います。そして、このイエスさまの願いがわたしたちに届けられること、それが救いといわれるのではないでしょうか。

四旬節第5主日 勧めのことば

四旬節第5主日 福音朗読 ヨハネ11章3~45節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日はラザロの復活といわれる箇所です。ここでは、人間、誰もが避けることができない生死の問題を取り上げています。この世界の生物の中で、人間だけが宗教をもち、古今東西の宗教が等しく取り上げてきた根本的な問題は生死です。カトリック教会では永遠のいのちということで、それは死後始まる終わることのないいのちとし、地上のいのちと別のものと考えられています。それで永遠のいのちというと、死ななくなるような不老不死のいのちを想像しているのかもしれません。しかし、イエスさまが取り上げられたのは、死ななくなるいのちのことではなくて、人間の生死そのものを取り上げられたのです。ラザロは病気で亡くなり、イエスさまによって復活させらせられました。しかし、これはいわゆる蘇生のことです。その後、ラザロを死なない体、不老不死にされたのでもありません。その後、ラザロもいつか死ぬわけです。ですから、永遠のいのちは生命体として歳を取ることも、病むことも、死ぬこともないいのちのことでもなく、またマルタがいうような「終わりの日の復活のときに復活する」いのちを指しているのでもないのです。永遠のいのちを死後のいのちであると考えたり、もはや死ぬことも終わることもないいのちであると考えたりすることは、あまりにも人間的な発想ではないでしょうか。それは天国のために宝を積みなさい的な神さまと駆け引きをする人間的な捉え方であって、永遠のいのち、救いをそのように考えること自体イエスさまの思いから離れています。イエスさまを信じ永遠のいのちを得るということは、自分が死ななくなることでも、死んで天国で永遠のいのちがご褒美のように与えられることでもありません。宗教は人が死ななくなる、病気をしなくなる、歳をとらなくなるものではありません。もし、そのようなことを説く宗教があれば、それは似非宗教だといえるでしょう。イエスさまはわたしたちを、生命体として死ななくされるわけではないのです。また、死後のいのちについて何かを教えられたわけでもありません。

2019年から始まったコロナ禍のとき、15世紀の蓮如上人の疫癘(えきれい)の御文というのがよく取り上げられました。「当時このごろ、ことのほかに疫癘とてひと死去す。これはさらに疫癘によりて初めて死すにはあらず。生まれはじめしよりして定まれる定業なり。さのみふかくおどろくまじきことなり。しかれども、いまの時分にあたりて死去するときは、さもありぬべきようにみなひとおもえり。これまことに道理ぞかし云々」とあります。最近、疫病がはやって、疫病で人が死ぬといっているが、人が死ぬのは疫病で死ぬのではない。死ぬのは人が生まれたからであって、改めて驚くようなことではないといっています。それなのに、近頃は人が死ぬということを疫病のせいだと取沙汰しているのはおかしなことだといっているのです。わたしたちも、自分が元気なときは、自分は決して死なないように思って生活しています。しかし、ひとたび癌であると宣告されたら、死んだらどうしようといって騒ぎ始めます。人間、生まれたということは必ず死ぬということなのです。人は癌で死ぬのではあません。もし死にたくないのであれば生まれなければいいのです。生まれることと死ぬことを反対のこととして捉えていますが、生まれるということと死ぬことは別のことではないのです。ひとつの現実の表と裏のようなものなのです。わたしたちは、この生死から一歩も出ることができないというのが人間の定められた業なのです。

わたしたちは生と死というものの本来の姿を、さまざまな出来事に出会うときに強烈に見せつかられます。わたしたちは、平生は自分のいのちを自分で管理できるように思っています。けれども、それは人間の願望であり幻想にすぎません。実際は容赦ない過酷な現実が起こってくるわけですが、それは何の祟りでも罰でもありません。死とか病気とかいうのは、人が生きるにあたって当たり前のことが起こっているだけなのです。それがわたしたちのいのちのあるがままの姿なのです。生まれてくることも死ぬことも、わたしの力を超えており自然にそうなのです。生死だけではなく、わたしの人生の一瞬一瞬も自然のまま、ありのままであって、わたしの力でないものによって営まれているのではないでしょうか。わたしがわたしのいのちをつかんでいるように見えますが、それはわたしの手のうちにあるのではないのです。その当たり前のことが分からず、生死の中で右往左往しているのがこのわたしなのです。わたしのいのちはもっと大きないのちのはからいの中にあって、人生の万事はわたしの自由にはならないのです。しかもその大きないのちのはからいの中でしか物事は何ひとつ起こらないわけですから、そこには本来大きな安心と自由があるはずです。わたしがどのような生き方をしようと、どれほど酷いみじめな死に方をしようとも、すべて大きないのちのはからいの中にあるのです。イエスさまは畳の上で死ねないような死に方をしてくださいました。日本的にいえばよっぽど業が深いということになります。わたしの生も死も、イエスさまのみ手の中にあるのです。そのことをイエスさまは「わたしは復活であり、いのちである。わたしを信じるものは、死んでも生きる。生きていてわたしを信じるものはだれも、決して死ぬことがない」といわれたのです。

わたしはすべて大きないのちのみ手の中にあるのですから、自分でくよくよすることなど何もないのです。自分の責任だといって自分を責める必要もない。そうかといって自分の手柄だといってうぬぼれることもない。大きないのちにまかせると、虚栄心も卑下するこころもなくなります。反省したり、うぬぼれたりする必要がないわけです。反省したり、うぬぼれたりしても構いませんが、そのようなことによってこの世界はなにもよくならないのです。世界の根底には、人間の力を超えた力が働いています。その力、働きによってわたしはわたしなのです。その大いなるいのちの働きなしには、わたしは生きることも死ぬこともできない、その大きないのちに自分をまかせることしかできないのを知る、それが真の信仰なのです。死んで天国に行くとか、死後に清めがあるとか、死後の問題を引き合いに出して、それをこの地上の自分の力で何とかしようと思っているならただの愚かものでしかありません。

京都女子大の創立者の九条武子の歌に「いだかれてありとも知らずおろかにもわれ反抗す大いなるみ手に」というのがあります。永遠のいのちとは、この大いなるいのちのわたしへのはからいと働きを知ること、そのものなのです。「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです(ヨハネ17:17)」といわれているとおりです。永遠のいのちは死後のいのちであるとか、わたしの生き方でどうこうなるものではありません。イエスさまの神の国とは、この大いなるいのちの働きのことなのです。それなのに、わたしたちはこの地上の人間の些末な考え方に囚われているのです。そのわたしたちにイエスさまはいわれるのです。「ほどいってやって、いかせなさい」と。つまり、わたしたち人間を生死の囚われから解放しなさい、そして、大いなるいのちにまかせなさいといわれているのです。この真実を知ること、これこそが真の信仰なのです。

四旬節第4主日 勧めのことば

四旬節第4主日 福音朗読 ヨハネ9章1~38節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は、生まれつき目の見えない人の癒しの物語です。ここでは、目の見えない人の癒しというより、人間にとって闇とは何かということが取り上げられています。

わたしたちは闇というと、光がない状態、暗くて見えないことだと思っています。今日の福音の中のファリサイ人の反応は、わたしたちにとって闇とは何かを知ることの手掛かりになります。彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」といい、省かれた朗読の箇所の中では「それでは、我々も見えないということか」とイエスさまに敵意をぶつけてきます。ファリサイ人の主張することは、自分たちは見えている、わかっている、自分のことは自分たちの努力で何とかできると思っているということです。わたしたちも、自分で頑張って努力して、キャリアを積んで、立派な人間になっていくことができると教えられてきました。特に日本人は真面目ですから、真面目がいいと思っています。ですから、洗礼を受けて、真面目に教会のミサに通って、教会でお話を聞いて奉仕活動して、それで救われるのだと思っています。わたしたちは自分の生活の中でもいろんなことが起こってきます。そのことをわたしが頑張って信仰することで、何とかしようとしているわけです。わたしたちは自分で懸命に生きており、自分の信心や自分の努力、真面目さで、苦しみや悩みを解決していける、そしてそのような自分を神さまは助けてくださると思っているのです。しかし、わたしたちは、このような考え方がどれほど危ういものであるかは考えたこともないのです。

自分が病気にかかっていることに気がつけば、治療を受け、薬を求めるということもできるでしょう。しかし、病にかかっていながら自分は病でないといい張るなら、治療を受けることはしません。わたしたちの愚かさというものは、自分は真面目にやっている、信仰しているつもりになっている、しかし自分のそのあり方がずれている、その自分の愚かを知らないことからくる愚かさなのです。一応謙遜しますが、自分が愚かであるとは少しも思っていません。だから自分が迷っていることさえ気づかない愚かさなのです。むしろ、自分は信仰深くて、自分こそが教えることができる、人を指導することができると思っているのです。この自我こそが、治療不可能な重病だということに気がつくこともありません。わたしたちはこのような深い深い闇を抱えているのです。特に宗教をやっている人たちは、気をつけないと気づかないうちにこの病にかかっています。そのような人たちは、真面目に信仰して、努力していれば何とかなる、神さまは自分を守ってくださると思っているのです。そして、人生をそのようにやっていくわけです。祈れば何とかなる、真面目に一生懸命していたら何とかなる、神さまが助けてくださる、そして自分こそ天国にいける人間だと思っているわけです。これこそが愚痴、無明というわたしたちの真の愚かさ、真の闇なのです。それは、わたしが闇の中にいることさえわからないほどの暗さ、愚かさなのです。

それでは、わたしたちはどのようにこの己の闇に気づいていくことができるのでしょうか。それはイエスさまからの呼びかけを聞くことを通してであるといえます。闇ということばは、門に音と書きます。闇は、すべてに対して門戸を閉ざしていること、自分の思い、自分のはからいの中に閉じこもっていることであるといえます。わたしたちのあり様というものは、光に包まれているのにも関わらず目を瞑っている状況なのです。光がないとか、イエスさまがおられないのではなく、光であるイエスさまに対して門を閉ざしていることを闇というのです。目を閉ざしているので光は入ってきません。しかし、音は入ってきます。そこに「シロアムの池に行って洗いなさい」というイエスさまの声が聞こえてきます。それで、その人が行って洗うと、目が見えるようになりました。イエスさまの声を聞いて、声に従って目を洗うと、わたしがこの光に満ちた世界にいることに気づかされます。自分は光の世界にいたのに、目を瞑って光を拒絶していたことに気づかされるのです。イエスさまは何も区別しておられないのに、わたしが自分で努力して頑張って、信仰して上に行こう救われるものになろうとしていた、しかし、何のことはないイエスさまはわたしとともにおられたのだという気づきが感動となり、救いとなるということなのです。わたしたちは光の世界にいながら眠っている人のようなものであるといえるかもしれません。眠っている人をどのようにして呼び起こすのかというと、その人の名前を呼ぶことではないでしょうか。人間は意識不明に陥っても耳は聞こえているといいます。人の魂の耳は開いているのです。イエスさまは、死んだも同然のわたしの名を呼び続けておられるのです。

ヨハネ福音書の中で、マリア・マグダレナがお墓の中に死んだイエスさまを探していたのに、復活されたイエスさまはマリアの後ろに立っておられたという箇所があります。イエスさまがおられないのではなく、マリアがイエスさまに背を向けていたのです。暗いのはわたしが目を瞑っているからであって、世間のせいでも、誰かのせいでもなく、わたしのあり方の問題なのです。そのわたしのあり様に気がつかないことを愚か、闇というのです。そのマリアにイエスさまは「マリア」と呼びかけられ、はっと気がつく。わたしたちの愚かさというのは、自分の闇を自分でつくりだして、光の世界に背を向けていることなのです。しかしながら、イエスさまはそのわたしを愛おしんで、目を瞑り続けている、光の世界から逃げ続けているわたしを呼び続けてくださっているのです。そして、はっと気づく、闇が破られ光が射す、それがイエスさまの声が届いたということなのです。回心といってもいいでしょう。

しかし、それによってわたしの愚かさがなくなるということではありません。闇も愚かさもなくなりません。夜が明けたわけではなく夜明けが来ることがわかる、空がどれだけ雲に覆われていても太陽があることがわかるということだといえばいいかも知れません。わたしのこころがきれいになったり、問題が解決したり、悩みがなくなることではないのです。自分のこころを何とかしようとすることで、救われるのではないのです。救われたいと思う前にすでに救いはあったのだということ、どんなに状況が過酷であったとしても、わたしを呼びかけておられる方がいる、わたしを救い取って捨てないといわれる方がいることが我が身に知らされること、これを真の信仰というのです。わたしがわたしのこころをどうこうする、わたしのこころがどうこうなることではないのです。わたしのこころを見ればそこには自分の都合と欲、自我のはからいしかありません。わたしのこころがどうこうなること、こころが平和になったり、ありがたい気持ちになったりすることと救いは何の関係もありません。わたしたちのうちにいかにも信者ぶったところがあるなら、それは自分がこしらえた信仰に過ぎません。そのようなこころ、信心は長続きしません。そうではなく、わたしを抱き取って決して離さないといわれるイエスさまのこころを知らせていただくこと、そのイエスさまの願い、働きがわたしに届くことを真の信仰というのです。その信仰は神さまから与えられたものであって、わたしたちが作り出せるものではありません。

四旬節第3主日 勧めのことば

四旬節第3主日 福音朗読 ヨハネ4章5~42節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日はイエスさまとサマリアの女の出会いの物語です。聖書朗読は5節からですが、3~4節に「(イエスは)ユダヤを去り、再びガリラヤに行かれた。しかし、サマリアを通らねばならなかった」ということばがあります。普通、ユダヤ人がガリラヤに行く場合、エルサレムからサマリアを通ってガリラヤに行けば直線距離で近いのですが、わざわざヨルダン川を渡って北上するという遠回りのコースを使っていました。その理由は今日の箇所の中に、「ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである」と書かれています。サマリア人とユダヤ人の間には数百年に及ぶ怨恨があって、お互いに憎しみ合う関係でした。ですから、ユダヤ人のイエスさまがガリラヤに行くとき、サマリアを通るということはあり得なかったわけです。それなのに、イエスさまは「サマリアを通らねばならなかった」と書かれています。どうしてでしょうか。それは、イエスさまが渇いておられたからです。今日の話を表面的に読むと、旅の途中のイエスさまは喉が渇いて、サマリア人の女に水を所望されたぐらいにしか読めません。そこで、たまたまサマリア人の女性と出会って、この女性を信仰に導かれたというのが話の筋書きです。しかし、そのように読むと、イエスさまの渇きというものはある種のきっかけで、偶然出会った女性を信仰に導かれたというような表面的な話になってしまいます。

しかし、このイエスさまの渇きというのは、単なる身体的な渇きではなく、このサマリアの女への唯一無比ともいえるイエスさまの魂の渇きなのです。このサマリアの女が特別という意味ではなく、このサマリアの女は人類の代表で、イエスさまは人類であるこのわたしに飢え渇いておられるのだといえるでしょう。イエスさまの魂の渇きは確かに普遍的であり、すべての人に対するものなのですが、このサマリアの女と出会わなければならなかったということは、イエスさまの渇きはわたしひとりのためなのだということを意味しています。イエスさまは全人類の救い主ですから救いはすべての人に等しく及びますが、その愛は決して抽象的な教義のようなものではなく、わたしたち一人ひとりへの愛の渇きであるということなのです。教会では、イエスさまはわたしたち全人類を愛しておられるといういい方をしていますが、イエスさまは全人類の中のひとりであるわたしを愛しておられるのではないのです。それだけなら、どこまでいっても、イエスさまの愛は他人事で、わたしとイエスさまの関わりは漠然としたままです。

イエスさまが全人類を愛しておられるということは、このわたしひとりを愛しておられ、わたしとの出会い、わたしの愛に飢え渇いておられるということなのです。イエスさまは、わたしたち一人ひとりの名を呼んで、「あなたに渇いている」といわれているのです。100人の中のひとりではないのです。教会の祈りはすべて「わたしたち」になっていて、わたしたちは教会共同体として救いに呼ばれているというのは確かにそうなのですが、イエスさまの愛は本質的にはわたしひとりのためであるということなのです。歎異抄の中に「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」ということばがありますが、これは決して、神仏の救いをわたしひとりが独占しようという独善的なものではなくて、この「わたし」というものの実体は、結局は自分のことしか考えられない、自分のことで精一杯で、人のこと、まして共同体のことなど考えることもできないような、自分だけが救われればいいと思っているような「わたし」であるという意味なのです。わたしが元気なときは、いくらでもそういう綺麗事をいうこともできるでしょう。しかし、いざ自分のいのちが取るか取られるかというとき、わたしたちはさあどうぞとはいえないのが正直なところでしょう。結局はわたしが一番なのです。そのようなどうしようもない、度し難い、絶対に救われないわたしをどのようにすれば、真の救いへと導き、目覚めさせることができるのかというイエスさまの願い、それがイエスさまの魂の渇きなのです。だから、このわたしが愛されているというなら、それは人類の最後のひとりであるわたしが愛されていることなのです。ですから全人類が愛されているとは、そのようなイエスさまのこのわたしへの渇きなのだということなのです。

わたしひとりというのは、全人類のひとり、社会の中に生きているひとり、共同体の中のひとりという意味ではないのです。その他大勢の中のひとりではないのです。まさに、イエスさまの前に立っている、宇宙の中で絶対のひとりであるわたしのことなのです。わたしは、この広い宇宙の中で一人ぼっちなのです。それが、あのサマリア人の女だったのです。だからイエスさまは、その女性と会わなければならないといわれるのです。このサマリア人は、この世界のすべてから見捨てられたものでした。わたしたちも徹底的に自分を見つめていくと、わたしたちは一人ぼっちです。そのわたしにイエスさまは出会わなければならないといわれ、わたしとの出会いに飢え渇いておられた、わたしを愛することに渇き、わたしの愛に渇いておられるのです。こんなイエスさまの渇きに気づかされたなら、わたしたちはもう他のものは何もいらなくなります。なぜなら、その人は、自分の中にある内なる泉を見つけ、その泉はこんこんと永遠のいのちに至る水を湧き出でさせるからです。その泉がイエスさまなのです。その泉が、今わたしの中で湧き出でているのです。わたしが何かをしてもしなくても、その泉はわたしの中でただ湧き出でて、その水は周りにひとりでに広がっていくのです。わたしたちは、この内なる泉はどこかに探しにいかなくてもいいのです。わたしの中にこの泉は湧き出でて、おのずから周りに広がっていくのです。

わたしが神学校に入ったとき、自分の救いだけを考えていてはいけないといわれました。わたしは正直何のことをいっているのかわかりませんでした。わたしは自分だけの救いなど考えもしませんでした。ただイエスさまと出会ったことを分かち合いたいと思っただけでした。そんなことをいわなければならない当時の教会がおかしかったのであり、祈りもイエスさまとの個人的は関わりもいらないといわれました。教会ではその後遺症が今でも続いており、教会の中で間違った共同体、仲間意識を作り出してしまっています。共同体をつくるということは、共同体に入る人と入らない人をつくることであり、仲間をつくるということは仲間外れをつくることです。イエスさまはそうした内と外という境界線を破壊されたのではなかったでしょうか。今日、改めてイエスさまへ、内なる源泉へと目を向けてみたいと思います。

四旬節第2主日 勧めのことば

四旬節第2主日 福音朗読 マタイ17章1~19節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の聖書の箇所は、イエスさまがガリラヤでの宣教活動に終止符を打って、ユダヤ教の本山のエルサレムに向かう旅の途上での出来事、主の変容といわれる箇所です。そこでイエスさまの栄光が現されると同時に、弟子たちの不信仰ということもあらわにされていく箇所です。山の上で、弟子たちは「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という呼びかけを耳にします。これはイエスさまが洗礼を受けられたときに、イエスさまが内的に聞かれたことばでもあります。

長い教会の歴史の中で、イエスさまはいつから神の子であるかということが議論されてきました。ある人たちは、洗礼のときからだとか、変容のときからだとか、死と復活を通して神の子になられたのだとかいうような議論がなされてきました。もちろんわたしたちは、イエスさまが生まれながらにして、神の子であることを知っています。このことはよく考えればあたりまえで、人間の場合でも同じです。人間は生まれたときにはじめて、誰かの子となるのではありません。子であるということは、難しいいい方でいうと関係概念であって、親があってはじめて子ということばが生まれてきます。その反対も然りです。わたしたち人間で親にならない人たちというのはありますが、わたしたちは必ず誰かの子です。子であるということは必ず親がいるということになります。子になるのは生まれたときでも、はじめてお父さん、お母さんの名前を呼んだときでもありません。まして、わたしが子であると意識したときでもありません。わたしたちは皆、生まれながらにして子として生まれてくるのです。ということは、わたしたちは誰もが子である、つまり生まれたもの、生かされているものであるということなのです。その事実に、あるときにはっと気づく、お母さんに自分の名前を呼ばれたときに、子どもがお母さんの名前を呼んだとき、また根源的ないのちに呼ばれていることを意識したときに、自分が子であったことに気づくのです。

それでは、その気づきはどのように与えられてくるのでしょうか。わたしたちは自分の力で、子であることに気づくことはできません。先ず、お母さんが絶えずわたしを呼び続けているという事実が先にあって、わたしはその呼びかけを聞き応えようとすることによって、その気づきが起こるのです。わたしたちの親子という関係は、イエスさまを通してわたしたちが根源的ないのちに呼ばれていることに気づくための予行練習のようなものです。この地上の親子関係がすべてではないのです。つまり、わたしたちが子であるということは、単に人間としての両親がいるということだけではなく、あなたがたにはあなたがたを生み出し、いのちを与えて支え続けている真の親がいる、その真の親に気づいて自分をまかせなさいといわれているのです。人間の両親は、たまたまその子を預かっただけにすぎないのです。それなのに、子を自分の所有物のように勘違いしている親が何と多いことか、それが現代社会の問題であるのです。

ですから、わたしたち人類は皆、生まれながらにしてイエス・キリストにおいて神の子なのです。洗礼によって神の子になるのではありません。絶えまなく大いなるいのちによって生み出され生かされ、はからわれていることが、わたしたちが神の子であるということに他なりません。わたしが努力して、頑張って子の身分を獲得したのではないのです。子であるということは、すでに永遠において与えられていることなのだということです。イエスさまが神の子であるということの意味は、神さまである方が人間となることで、人間の本質を人間に教えてくださった、人間の真実、人間のいのちの根源、人間の歩むべき道をしめしてくださったということなのです。ですから、イエスさまは「道、真理、いのち」と呼ばれています。イエスさまは人間になって、生まれるものとなって、人間の苦しみ、悩み、迷い、罪となって、わたしの人生となってくださったのだということなのです。

ですから、今日の変容の箇所で「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」といわれるのは、イエスさまを通して、わたしたちに神さまが呼びかけている、その呼びかけがわたしに届いているということなのです。わたしたちは、その呼びかけが届いていることを確認したから、そのことを信じたから、わたしたちは神の子になるのではありません。神さまの呼びかけが届いていること自体が真実、信仰なのです。その真実にふれたものはイエスさまの真実とひとつになります。だから、もはやわたしが信じるのではなく、キリストがわたしのなかで信じるのだといえるでしょう。どうしたら信じられるか、どうしたら呼びかけに応えられるかではなく、何処までもイエスさまから逃げようとする、この逃げるわたしを追いかけてきて決して離さないというイエスさまの真実だけがあり、わたしたちはそのことを知らされる、神の子であることに気づかされるということなのです。わたしがどこへ行こうとも、どこに隠れようとも、イエスさまはついて来られます。

パウロはそのことを「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです(ガラ2:20)」といいました。この気づきがないなら、洗礼を受けようと、ミサに何回参加しようと、何度聖体を頂こうとも、わたしたちはイエスさまがわからないままです。何と無駄な時間を過ごしていることでしょうか。わたしたちは、頑張って努力して神の子になるのではありません。まして、洗礼を受けた人だけが神の子になるのでもありません。わたしたちは神の子であることに気づかされたから、洗礼を受けたのです。そこを勘違いしてはならないのです。

実に、今日の第2朗読でいわれているとおりです。「神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく、御自身の計画と恵みによるのです。この恵みは、永遠の昔にキリスト・イエスにおいてわたしたちのために与えられ、今や、わたしたちの救い主キリスト・イエスの出現によって明らかにされたものです(Ⅱテモテ1:9,10)」。イエスさまによって明らかにされた真実、生かされているという真実がわたしたちの先にあるのです。わたしたちはそのことに気づかせていただくことが信仰なのです。そして、その真実のことばは、今わたしたちに届いているのです。その真実のことばを、わたしたちが聞くことを信仰というのです。そしてその輪が広がっていくことを教会、福音宣教というのです。

四旬節第1主日 勧めのことば

四旬節第1主日 福音朗読 マタイ4章1~11節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

四旬節に入りました。今日読まれる箇所は、ヨルダン川で洗礼を受けられたイエスさまが、霊に導かれて、荒野に滞在される出来事が語られていきます。荒野というと、わたしたちはいろいろなイメージをもつと思いますが、日本で荒野というと荒れ果てた土地のことや休耕田を考えるかもしれません。しかし、イスラエルでの荒野は、まったくいのちを寄せ付けない、人が一度迷い込んでしまうといのちが危機に晒され、死と向き合わなければならなくなるような不毛の土地をさしています。そのような荒野は、わたし自身のいのちが脅かされ、わたしがわたしであると思っているような些末なこと、こだわり、大切にしていること、社会的な地位、役割、家族的な役割、宗教などもすべて役に立たなくなる世界です。

わたしたちは通常、社会の中で生きているとき、わたしが何者かであるということを他者との関わりの中で確かめて生きています。親であるとか、子であるとか、夫婦、兄弟姉妹といった血縁関係、会社では上司・部下、同僚、地域ではお隣さん、学校では教師・生徒、教会では信徒、司祭、司教、役員など、また性別、出身地とか等などです。つまり、わたしたちは自分の戸籍や住民票に書いてあったり、免許書やパスポートに書いてあったり、名刺に書いてある役職や名前が自分であると思い込んで生きています。しかし、荒野というところは、そのような自分、つまり自分が自分だと思っていることが一切通用しなくなるところなのです。通常、わたしたちは立場だとか、役割だとか、身分だとか、名前とかが自分であると思って生きています。しかし、それが通用しないところが荒野です。イエスさまが霊によって導かれていかれたところは、そのような場所なのです。そこではイエスさまも神の子であるということが通用しません。そこで悪魔は「あなたが神の子ならば…」といって誘惑してくるのです。悪魔というと悪いものというイメージがあるかもしれませんが、その意味は「誘惑するもの」です。つまり、わたしたちが自分のことを何ものかのように思っている、しかし本当にそうなのかというところを突いてくるのだといえるでしょう。荒野での滞在を、悪魔の試練のように思われていますが、そうではなく、わたしは一体何ものかが問われる場であるといったらいいでしょう。それが荒野なのです。あなたは自分のことを、○○だと思っているかもしれないけれど、それは本当にそうなのかということが問われるのです。この○○には、わたしたちのありとあらゆる立場、役職、身分、性別、名前などが当てはまります。わたしはキリスト者だとか、社長だとか、役員だとか、司祭だとか、司教だとか、先生だとか、シスターだとか、自分の名前だとか、そんなものがすべて吹っ飛んでしまうのが荒野なのです。

今日の第1朗読では、創世記の人間の創造が描かれています。そこで、神さまは人間を土の塵で形作って、その鼻にいのちの息を吹き込まれたと書かれています。まったく寓意的な話であると思われるかもしれませんが、あながち作り話でもないのです。この地球のありとあらゆるものを構成する要素は、酸素、ケイ素、鉄、アルミニウム、リン、カルシウム、マグネシウム、カリウム、ナトリウム、水素などであり、それはさらに細かい素粒子、クオークによって作られています。その最小の構成要素のその時々の集合体のひとつが人間であり、わたしなのです。ですから、わたしがわたしだと思っているようなもの、意識というようなものは、わたしが誕生してから出来てきたものに過ぎません。わたしが誕生する前に世界はすでにあったのです。考えてみると、わたしが生まれたときに、わたしなどという意識はありません。わたし自身の始まりなどわたしにはわかりません。わたしは何も知らないのです。だれも「俺は、今生まれるんだ」などと意識して生まれてくるということはありえないのです。すでに、わたしより先なるものがあったということなのです。そして、わたしより先にあったものに、わたしという自意識がくっついてきたのです。わたしが意識したときにわたしが始まったのではなくて、わたしの意識より先にあるものがあるのです。しかしながら、人間は意識が生じた瞬間に、わたしの意識より先にあったものをわたしの意識の支配下にあるものとして捉えようとします。つまり、自分がそれを支配しているかのように思うのです。そして、それを錯覚して、わたしの意識の世界がすべてだと思い、それを自分の統制下におこうとするのです。これが、自分本位の世界、自己中心性、原罪の正体です。

それに対して創世記は、わたしを形作っているものは、わたしの中にあり、またわたしの外にもある土の泥であって、それをわたしはわたしであるといっているのにすぎないのだといいます。わたしの自意識の前には、わたしを超えたものがあるのです。いのちの息が、その土の塵の集合体に吹き込まれて、わたしがわかってもわからなくてもそのいのちがわたしを支えているのです。わたしたちがするべきことは、そのような泥にすぎないわたしを推し広げていくことではなく、その内なるいのちに己をまかせることなのです。しかし、そのいのちがなかなかわからなくて、そのいのちの中で迷い、善悪を決めて、区別したり、幸不幸を作り出したりしているのがわたしたちです。わたしたちはいのちに抱かれているのにも関わらず、そのいのちに抗い、暴れまわっているのです。

四旬節は、霊がわたしたちを荒野へといざなう恵みのときです。荒野では、わたしがわたしであると思い込んでいるものが解体されていきます。そうすると、今までわたしだと思い込んでいたわたし、わたしたちのありとあらゆる立場、役職、身分、性別、名前が解体されていきます。そして、そこにある根源的いのちと出会うこと、これが宗教です。わたしがわたしのことをわかって、イエスさまと出会うのではありません。自分が解体されることで、わたしたちはイエスさまと出会うのであり、またイエスさまと出会うことで自分が解体されるのだともいえるでしょう。そのときわたしは最も根源的なわたし自身に出会うことになるのです。この四旬節、わたしたちは意識的に荒野を作り出して、荒野を生き、わたしたちが霊の導きに従って歩めるように祈りましょう。

年間第6主日 勧めのことば

年間第6主日 福音朗読 マタイ5章17~37節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の箇所は、他の共観福音書にないマタイ固有の箇所になります。そこから、マタイの教会の抱えていた問題がわかります。彼らの多くはユダヤ教からキリスト教になった人たちで、ユダヤ教側から決別されて、自分たちの今までのユダヤ教に由来する信仰を見直し、新しいイエスさま中心の生き方に向かっていかなければなりませんでした。自分たちは、一体何者なのかを問わざるをえなくなっていきました。

マタイ福音の中でのイエスさまの話し方は、「あなたがたも聞いているとおり」で始まり、「しかし、わたしは言っておく」というスタイルになっています。それは、旧約の律法ではこのように教えられていたけれど、わたしは新たにいうといういい方です。さらに、イエスさまは「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファイリサイ派の人々の義にまさっていなければ、決して天の国に入れない」といわれます。それでは、律法学者やファイリサイ派の人々の義とは一体どのようなものだったのでしょうか。今日の箇所を見ると「殺してはならない」「姦淫してはならない」「偽証してはならない」などという十戒の教えがまず述べられます。十戒の教えは、「目には目を、歯には歯を」でよく知られた同害報復法のハムラビ法典とともに古代社会の法規として知られています。ハムラビ法典は、社会秩序と人間のいのちを守るために、犯された行為に対して同等の償いを要求する古代の人間社会の法規です。ハムラビ法典は、お互いが必要以上の復讐に発展しないようにする人間の知恵でもあったわけです。これは現代にいたるまでの一般的な人間社会の正義であり、ユダヤの律法や十戒はその人間の正義を宗教化し、神法化したものです。

ここでいわれている人間の正義は、どこまでいっても報復的正義、配分的正義であり、わたしたちの今の社会もその正義で成り立っています。罪を犯したら罰を受ける、また反省させる、罪に釣り合った償いを受けさせるという考え方です。それは勧善懲悪、因果応報という考え方であり、多くの宗教がその倫理観にもとづいて教えを説いてきました。ですから、頑張れば報われる、努力すれば認められるが怠ければ報われない、罪を犯せば罰せられるという極めて単純な考え方が特徴となっていきます。これはどこまでいっても、人間の理性で考えた正義であって、律法学者、ファリサイ派の人々の正義はこれであるということです。人間にはわかりやすいし、誰もが受け入れやすい考え方であり、説得力のある教えです。

しかし、イエスさまは「あなたがたの義がファイリサイ派の人々の義にまさっていなければ」といわれました。それではイエスさまは、わたしたちに律法学者やファイリサイ派の人々より立派な人になれといわれたのでしょうか。「右の頬を打たれたら、左の頬をも向けなさい」的なことでしょうか。しかし、イエスさまがいわれるのは、律法学者やファリサイ人よりさらに上の正義を目指しなさいといわれたのではないと思います。わたしたち人間の考える正義とは、所詮は人間の頭で考えられる理屈で納得できる正義なのですが、神の国の正義、イエスさまがいわれる正義は、人間の側からのすべての理由や説明がまったく通用しないということなのです。どういうことでしょうか。

パウロはローマの教会の手紙のなかで次のように書いています。「律法が入り込んできたのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました(ロマ5:20)」。パウロの考えでは、律法が与えられたことで罪ということがより一層意識されるようになった。だから罪が増し加われば、それなりに罰も償いも重くなる。しかし恵みの世界では、罪が増し加われば加わるほど、神の恵みはなおいっそう満ちあふれるのだというのです。罪が多くなり重くなれば、それだけそのゆるしは大きくなり、恵みは満ち溢れるということです。これが、神の国の正義なのです。わたしたちは何度となく、このパウロのことばを聞いています。しかし、いくら聞いていても、どうしても人間の正義、理屈と合いません。わたしたちは、頑張ればそれなりに認められたいし、悪いことをした人は罰を受けて当然だと思っています。自分の嫌いな、また自分を害する人がゆるされて救われるなどということを、わたしたちは到底受け入れられないのです。イエスさまがゆるしても、わたしは認めないしゆるさないということになります。しかし、イエスさまの考え方、神の国の正義は、わたしたちの考えとまったく違っているのです。神の国の正義は永遠の絶対平等であり、わたしたちはそれを愛と呼んでいます。それは、頑張ったものは報われて、罪を犯し悪いことをした人は罰せられるというようなこととまったく関係がない世界なのです。わたしたちは、やはり頑張った人は評価されて、悪い人は自業自得だと思いたい、しかしその考え方がまったく通用しないのがイエスさまの正義なのです。だからわたしたちの頭で神の国の正義を理解できるはずがありません。

ですから律法学者やファリサイ派の人々にまさった義というのは、彼らの正義の捉え方の延長線上にあるより立派な正義、例えば敵への愛とかではなくて、人間の正義という物差しをまったく超えた正義、まったく人間の理由や理屈が通用しない神さまの正義、神さまのあわれみのことなのです。わたしは、なぜイエスさまから愛されているのかを考えてみてください。それは、わたしがイエスさまの愛にふさわしいからでしょうか。そうではありません。わたしがふさわしいから、愛してもらうなどと考えるのは人間の正義の捉え方です。イエスさまが愛するとき、与えるとき、ゆるすとき、理由などないのです。それはあたかも水が高いところから低いところに流れるように、自然でただそのままで、愛とはそういうものだということなのです。わたしが生まれてきた理由も、死んでいく理由もありません。ただ生まれて、生きて死んでいく、そこに理由などありません。わたしたちは自分が生きていると考えがちですが、生きるということはわたしの努力などによるものではありません。あるがままなのです。これが神さまの正義、愛のありさまなのです。

大きないのちの世界は、わたしたちが考える自分と他人の区別がなくなった世界、生と死がなくなった世界です。いのちに上等も下等もありません。神の国は、そのようないろいろな区別、隔てがなくなった透明な世界のことを指しているのです。イエスさまはそのことを、まことの義といわれました。自他、生死のある世界は、やはり暗い苦しみの世界でしかありません。自分さえよかったらいいとか、他人のことは知らないとか、いつまでも生きたいとか、そうすると自分が病気になったり、老いたり、死ぬことは悪になります。これは苦しみの世界です。これが人間の考える正義、理屈なのです。しかし、わたしたちはもっと大きないのちそのものに生かされているのです。にもかかわらず、わたしたちは人間の正義という小さな枠組みの中に閉じこもっていることに気づかないのです。人間の正義が全く通用しない大きな正義、愛といってもいい、そのような大きないのちが、この小さなわたしを生かしているのです。それが神さまの正義、天の国、神の国なのです。ですから神の国(天の国)は場所ではなく、時間の中にあるのでもなく、わたしたちを生かしている働きそのものなのです。

年間第5主日 勧めのことば

年間第5主日 福音朗読 マタイ5章13~16節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の福音では、「あなたがたは地の塩、世の光である」といわれています。今日の箇所で大切なことは、イエスさまは「あなたがたは地の塩、世の光である」といわれたのであって、「あなたがたは地の塩、世の光になりなさい」といわれたのではないということです。多くの場合、わたしたちは聖書のいろいろな箇所を読むとき、それをイエスさまからの命令、掟、「○○しなさい」、あるいは「○○になりなさい」というように読んでしまいます。確かに、聖書の中で「○○しなさい」という箇所もあるのですが、そうするとイエスさまの教えというものは、道徳的な規範や掟を指示したということになってしまいます。道徳を教えるだけであれば、いろいろな時代の偉人たちの教えもあり、旧約聖書の律法だけでも充分なはずです。イエスさまが教えたことは、道徳や人の道ではないのです。今日の箇所も間違って読むと、あなたがたは頑張って地の塩、世の光になりなさい。そうしてあなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。そうすれば、人々はあなたがたの立派な行いを見て、神さまをあがめて、人々が教会に来るでしょう、といった間違った自己中心的な宣教観をもってしまうことになります。その時点で、教会は慈善団体かNPO法人になってしまいます。確かにその方が多くの人にわかりやすく、教会でもそのような謳い文句でことがなされることが多いように思いますが、それでは宗教ではなくなってしまいます。

イエスさまがいわれたのは、あなたがたは自分の力で頑張って世の光になれ、地の塩になれ、人々の模範になれ、奉仕者するものになれ、社会貢献しなさいといわれたのではないということです。実はイエスさまとの関わりを深めていけば、わたしが世の光、地の塩になるなんてことは間違ってもあり得ないことが知らされてきます。なぜなら、イエスさまと出会えばわたし自身が知らされ、わたしたちが自分のこころをどうにかして、イエスさまの方に近づこうとすること自体が迷いであるということが知らされてくるからです。いろいろな努力や修行をして自分のこころを何とかしていこうというのは迷い、罪の中で最たるものは傲慢に他なりません。方向がまるで違うのです。わたしが世の光、地の塩になるのではなく、世の光、地の塩であるイエスさまご自身が、わたしを通して現れてくることを宣教というのです。イエスさまがわたしの中で働かれることが宣教であって、わたしが自分のこころをどうにかしようと思っていることが間違いなのです。その間違いに気づくときに、ふっとわたしの中でイエスさまが働いて、光を輝かせてくださる、塩味をきかせてくださるということなのです。宣教といいながら、わたしというものが前面に出ているのであれば、それは自我の匂いがプンプンして、イエスさまは働けませんし伝わりません。

「伝わるはよし、伝えんとするは悪し」ということばがありますが、光は自ずから自然と周りを照らしていきます。「『山の上にある町は、隠れることができない』『ともしびは、燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものをすべて照らすのである』」というときの「そうすれば」は恣意的な結果を意味することばではなく、「自ずから」という意味です。光は、頑張って周りを照らしてやろうとかいうような自我はありません。ですから自我の匂いも、己のはからいもありません。「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」と訳されている言葉は不正確な訳であって、「あなたがたの光が人々の前で輝くようにせよ」という意味であって、わたし個人の恣意的な働きを命じるものではなく、わたしに与えられている光そのもののもつ自ずからの働きを発揮させなさいという意味なのです。わたしたちはその働きを妨げないようにということなのです。

イエスさまは「あなたがたは、頑張って、努力して、地の塩、世の光になりなさい。そして、頑張って神の国をいい広めなさい」といわれたのではありません。そうではなく、「あなたがたは気づいていないかもしれないけれど、あなたがたは地の塩、世の光になっている。あなたがいるというそのことだけで、あなたの存在は他の人を生かし、光となっている。あなたは他の人、この世界、この宇宙のためになっている。同じように他の人々も、他のいのちもそうだ。そして、あなたも他の人から生かされ、光を受けているのだ」という意味なのです。このようなわたしたちとこの世界の、この宇宙とのあり方をイエスさまは明らかにしようとされたのです。塩を塩足らしめているのは、塩味を感じるものです。塩味を感じるものがあってはじめて、塩は世の塩となるのです。光を光足らしめているものは、光を受けるもの、光によって照らされるものです。光を感じるものがあってはじめて、光は世の光となるのです。この世界で何も自分ひとりだけで存在しているものはありません。すべては、お互いの繋がりの中に生きているということなのです。

わたしたち人間も、自分ひとりだけで生きていくことはできません。わたしの体内にいる何十兆個の細菌やウイルス、空気、水、光、ありとあらゆる物質を構成する素粒子等を排除し、「わたしが」と意識している存在だけでは生きていくことができないのです。わたしとこの世界はすべて繋がっており、わたしたち人間が勝手に環境と呼んでいる周りすべてのものがわたしを形作っており、環境なしにわたしは存在し得ず、わたし自体が環境、生態系のひとつなのです。そしてこの全宇宙とわたしとは繋がっており、このわたしひとりを生かせるために全力で働いてくれているのです。そのことがはっきりわかると、わたしの中で働いている光も塩味もわたしのものでないことがわかります。そのことに先ずあなたが気づき、わたしたちは生かされている、そしてお互いに生かし合っている、そのことを皆に明らかにしなさいということなのです。その気づきを失わせるものが、「わたしが」という意識であり、その「わたし」という意識が、わたしと「わたしでない」世界とを分け隔ててきているのです。この「わたし」を破る働きが、神の国の福音に他ならないのです。

神の国の福音は難しいことではありません。難しくさせているのはわたしが何とかしようとするわたしの思い、わたしのはからいです。わたしたちが地の塩、世の光にならなければならないと思わなくても、わたしたちはすでにイエスさまの光によって照らされ、塩味をつけられているのです。それはあたかも太陽の光を受けて輝く月のようなものだともいえるでしょう。月が輝いて見えるのは太陽の光を受けているからであって、月自体が輝いているわけではありません。たとえわたしたちが、照らされている、塩味をつけられていると感じないとしても、確かにわたしたちはイエスさまによって照らされ、塩味をつけられているのです。それがイエスさまの働きであって、わたしたちの思い、感覚とは関係がないからです。そのことを、先ずわたしが気づかなければ、わたしは闇の中に沈んだままです。しかし、そのことに気づき、そのことを味わうときに、光はわたしを通して自ずから広がっていくのです。わたしたちにとって大切なことは、光であるイエスさまによって照らされたままであること、真理であるイエスさまによって塩味をつけられるままになることなのです。

年間第4主日 勧めのことば

年間第4主日 福音朗読 マタイ5章1~12節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の聖書の箇所は真福八端といわれる箇所です。あまりにもよく知られた箇所ですが、最初に書かれたマルコ福音書に並行箇所はなく、イエスさまに由来しているとはいえ、マタイ共同体の教えを編集したものであると考えるのが一般的です。その特徴は、「あなたがたも聞いているとおり、○○と命じられている。しかし、わたしはあなたがたにいう」というように、イエスさまを新しい律法の制定者と描いていることにあります。しかし、イエスさまは律法を守るか守らないということで、人を区別し差別していた当時のユダヤ教のあり方に対して異議申し立てをされたのです。それゆえに律法の違反者として、十字架刑に送られました。それにも関わらず、イエスさまを新しい律法の制定者として描くことには違和感があります。それは、マタイ共同体の固有の状況が強く影響していると考えるのが妥当でしょう。マタイ共同体にはユダヤ教からの改宗者がたくさんいたのでしょう。

イエスさまの宣教の中心は神の国(マタイでは天の国となっており、天国ではない)の告知であって、ユダヤ教の律法に対して新しい律法を制定したり、新しい道徳律を提示したりするような人間的な次元の話ではありません。イエスさまのいわれた神の国は、人間の努力とか恣意によってどうこうする次元の教えではありません。本来的な神と人との関わり、宇宙や世界とわたしたちの関わり、人と人との関わりにわたしたちを目覚めさせるものなのです。つまり、すでにわたしたちが生かされてあるところの世界の本質について、イエスさまは語られたのだということです。ですから、神の国は律法のような命令ですらありません。マタイもルカも省いていますが、マルコは神の国を成長する種としてたとえています(4:26)。そこで、神の国は、「ひとりでに」「おのずから」成長していくいのちのダイナミズムとして描かれています。そして、イエスさまはご自分の存在をもって、神の国を体現していかれるのです。

わたしたち人間の最大の勘違いは、この世界のすべてを人間が理解し、支配し、コントロールし、努力でやっていくことができると思い込んでいることです。しかし、この世界に自分の意志で生まれてきた人は誰もいません。また、頑張って死んでいく人もいません。本来のいのちの世界は「おのずから」なのです。それに最大限に抵抗して抗っている生命体が人間なのです。その抗いは文明の発展をもたらしたかもしれませんが、同時に多くの人々、動植物の犠牲の上に成り立ってきました。それが様々な問題を引き起こしてきたのです。そこで、イエスさまはすべてのものの上に等しく昇る太陽や降り注ぐ雨として、神の国の働きを示されたのです。しかし、人間はそのことが理解できません。イエスさまとともに生活した弟子たちも理解できませんでした。その様子が、福音書の中には赤裸々に描かれています。

イエスさまのことは、イエスさまが亡くなった後、復活したイエスさまと出会ったパウロなどによって、イエスさまの神の国の教えとして再構築されていったといえばいいでしょう。今まで律法を守ることで自分たちは選ばれ、救われ、神によって嘉せられると幾世代にもわたって教え込まれてきたユダヤ人が、そう簡単にイエスさまの神の国の教えを受け入れられたとは思えません。しかし、その弟子たちを大きく変えた出来事が、復活したイエスさまとの出会いです。それは、イエスさまとの直接体験ともいえる出会いの体験でした。それが何であったかを説明することは簡単ではありませが、そこで「聖霊」が働いておられます。わたしたちの努力とか修行とかは関係がない、まったく関係ないとはいいませんが、人間の行為の結果ではなく、本来の世界である神の国はそうであるということに気づかされる体験だったといえるでしょう。

イエスさまの神の国のメッセージ自体は、人間の概念をまったく超えたものです。ですから、真福八端の箇所を道徳やイエスさまの命令であると捉えてしまうと、何もわからなくなります。多くの場合は、努力して修行をして、心の貧しい人になれ、心の清い人になれ、平和を作り出す人になれ、そうすれば神の国に入れるとか、神の国の住人だと話されることがほとんどです。あるいは、社会貢献して、現代社会を変革していくスローガンとして理解されがちです。マタイ福音書は概してそのように捉えられがちな書き方をしているのですが、もちろんそれは大切なのですが、神の国の本質はそうではないのです。一般的に、人間は自分が理解できない出来事や事象に直面するとき、そのことをそのまま受け取るのではなく、自分流にわかりやすく解釈しようとします。つまり、自分が納得できるように、皆に教えやすいように解釈し平坦化しようとします。それは多くの場合、本質を歪曲させることになってしまいます。カトリック教会もその例外ではありません。

ですから、神の国とは何ということを人間に分かりやすく説明することは、当然リスクが伴うわけです。マタイの真福八端の中にはいろんなものが混在していますから、人間が聞いてわかるものもあるし、わからないものもあります。心の貧しい人、悲しむ人、義のために迫害される人は幸いというのはわからない。しかし、柔和な人、義に受け渇く人、憐れみ深い人、心に清い人、平和のために働く人は幸いというならわかる。なぜなら、わたしたちはそのような人になることで神の国に入ることができる、あるいはそれは教会の使命だというように捉えると理解できるからです。しかし、イエスさまがいいたかったことは、努力して頑張ってそのような人になれとか、それは教会の使命であるといわれたのではありません。そうではなく、神の国に目覚めた人、そのことを自覚した人はそのようになる、それが人間の本来の姿、つまり幸いであるといわれたのです。ですから、復活されたイエスさまと直接体験をした人たちは、神の国の真実に目覚め、福音書という時系列のイエス物語がなくても、生き生きとしたイエスさまとの関わりを感じることができ、そのような人と人とがつながりの輪が自然と広がっていきました。しかし、世代が下っていくに従って、神の国の直接体験が言語化され、概念化されていきます。マタイ福音書はイエスさまが亡くなってほぼ半世紀後に書かれていくのです。そこでは、神の国の直接体験が伝わっていくのが非常に難しくなっていき、イエスさまの教えが道徳化され概念化され組織化されていくのです。しかし、イエスさまとの関わりは道徳とか教義、組織ではありません。

大切なことは、真福八端を読むときにこれをイエスさまの命令だとか理想として聞くのではなく、わたしたちを存在の根底において生かし、支えている世界としての神の国の真実として受け取っていくということなのです。わたしたちが頭で理解すること、神の国を自分に引き寄せて理解するのではなく、わたしたちは神の国という真実に自分を投げ込んでいくというか、聖霊の促しによってそれを体感するということなのです。そうすると、頭で考えて教えだからこうしなければならないというのではなく、こころとからだがひとりでに動き出します。神の国が場所とか制度とか掟ではなく、わたしたちを生かしているいのちの働き、営みであるということをわたしたちが体験することになります。そこで、神の国の真実がおのずからわたしたちに明らかにされていくのではないでしょうか。

年間第3主日 勧めのことば

年間第3主日 福音朗読 マタイ4章12~17節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の福音は、イエスさまの宣教活動がどのようなものであったかが語られていきます。イエスさまの働きが、イザヤ書を引用して解き明かされます。「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射しこんだ」と。ゼブルンとナフタリはイスラエルの12部族であり、ガリラヤ湖の西側の地域を支配していました。いわゆるガリラヤ地方のことになります。ソロモン王の死後、イスラエル王国は北王国と南王国に分裂しますが、ゼブルンとナフタリは北王国に属していました。その北王国の首都がサマリアであり、南王国の首都がエルサレムでした。紀元前722年にアッシリアが攻めてきて、北王国は滅ぼされてしまいます。そのとき、南王国は北王国を助けようとしませんでした。その後、ゼブルンとナフタリには異邦人が入植して同化政策が進められました。エルサレム中心の正統性を主張するユダヤ人からみれば、ガリラヤ地方は正統なユダヤ教でないとして差別され、神の約束と救いから除外されたものとみなされていました。ローマの植民地時代にはいり、ガリラヤ地方はローマ帝国の支配に対するテロ活動の温床となり、ガリラヤ地方は相変わらず、神の救いから退けられ除外された地域とみなされていました。イエスさまが生まれた時代のユダヤ教は分断、差別、憎しみという状況を抱えていたのです。

おおよそ、すべての宗教が根底に抱えている問題は差別、区別という問題です。宗教自体が救いということを取り上げる限り、宗教は差別、区別という問題を避けて通ることはできません。つまり、救いということを取り上げるということは、救われたものと救われないもの、聖なるものと汚れたもの、こちら側とあちら側という区別を作り出していくからです。そして、あなたは救われたといわれることで、自分は救われたのだ、特別なのだという意識を人々の中に作り出していきます。そして、自分は救われたという意識が、自分たちは特別であるという錯覚を人々の中に作り上げてしまうのです。こうなると宗教は麻薬となっていき、人々はそのような宗教の教える救いに依存し、また宗教も人々を依存させることになっていきます。そして、自分たちの宗教的グループの教勢を拡大しようと様々な教えや決まりを作り出していきます。イエスさまの時代のユダヤ教というのはまさにそのような状況でした。宗教がこのようなものであれば、そこで説かれる救いはだんだん狭くなり、勧善懲悪の教え、道徳になっていきます。そして、自分たちのグループに加わり、掟を守ることで救われ、そうでない人は救われないという教えが中心になっていきます。ユダヤ人のそのような状況のなかでイエスさまが説かれたことは、一切平等の救いということです。そのことが「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住むものに光が射しこんだ」ということばで現わされていることです。

そこでは、イエスさまの働きが光として表現されています。聖書の中では、神さまの働きが、たびたび太陽や光として説明されています。「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである(マタイ5:45)」。当時の人々にとって、神さまの何ものも区別しない平等な働きを説明するためには、太陽や光のたとえがわかりやすかったのだと思います。確かに、太陽は小さい草花の上にも、大きな樹木の上にも同じように昇ります。この花には光を注いで、この木には光を注がないということはありません。しかし、それでも太陽の光のたとえでは限界があります。太陽の光は、必ず日向と日陰を作り出します。太陽が当たった部分は明るくなりますが、その裏は陰になります。その意味では太陽の光は、すべてのものに平等ではありません。イエスさまが光であるといわれるとき、その光は日向と日陰、光と影という区別を一切作り出さない無量無辺の光であるということなのです。つまり、日向と日陰とか、救われたとか救われないとか、清いとか清くないといった区別を一切作り出さない、すべてのものをそのまま包み込み、すべての闇、罪、悪をも貫き通し、いかなるものも妨げない光であるということです。それが、イエスさまが光であるいわれるときの意味です。光というより、すべてを照らし包み込み、すべてを貫き、すべてを浄める働きであるともいえるでしょう。影を作り出すような有限な光ではありません。その働きを神の国というのです。

しかし、そうなると救いというものを主張する宗教は、自分の中に本質的に矛盾を抱えてしまうことになります。なぜなら、善悪の線を引いて、善人の方に来ることで救われると教えるのが多くの宗教の実態だからです。そこからわかることは、宗教は特定の人たちだけが救われる特別なものだと考えることや、救われるものと救われないものを作り出すこと自体、宗教として矛盾しているということなのです。宗教でありながら、一部の人々の救いを説くとか、自分の救いだけを考えるということ自体あり得ないからです。宗教でありながらそのようなことをいった瞬間に、その教えはまやかしになってしまい、その宗教自体が自己矛盾を抱えることとなってしまいます。イエスさまが宣べ伝えようとされたのは、そのような当時の人たちの間違った宗教観、これこれをした人は救われるとか、こうした人たちは救われないといったような差別や区別を作り出してきた誤った救いの概念を打ち砕くことだったのです。

イエスさまの存在自体が、このように善悪の線を引いて、自分たちは善人の方に入って安心しているような宗教のあり方への根本的な問いかけであったということができます。それは同時に、現代のわたしたち教会のあり方への問いにもなっているのです。イエスさまの登場によって暗闇に光が射しこんだということは、宗教が作り出してきた救いという境界線を破壊し、人間中心の救いの概念から人々を解放する真実が現れたということなのです。その人々を解放する働きを神の国というのです。神の国とは、律法を守った人や洗礼を受けた人だけが救われてはいる天国のようなものではなく、そのような誤った囚われを破壊する働きであり、誤った救いからの解放であるということができると思います。イエスさまの登場によって、そのイエスさまの働き、神の国が、すべてのものに遍く注がれる光として述べられていくのです。

年間第2主日 勧めのことば

年間第2主日 福音朗読 ヨハネ1章29-34節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の福音は、洗礼者ヨハネがイエスさまについてあかしをする箇所です。ヨハネはイエスさまが「世の罪を取り除く神の子羊」であることをあかしします。その中でヨハネは、2度も「わたしはこの方を知らなかった」と繰り返します。しかし、考えてみるとマリアとヨハネの母親のエリザベトとは従姉妹同士です。まったく面識がなかったということは解せません。それにもかかわらず、ヨハネが2度まで「わたしはこの方を知らなかった」と繰り返します。そのことを今日は一緒に味わってみたいと思います。

 わたしたちも、知るということに段階があることは知っています。わたしたちが日本の総理大臣を知っているというとき、また自分の伴侶や親友を知っているというときにも同じように「知る」ということばを使っています。ここでヨハネが使っている「知る」という言葉は、わたしたちが総理を知っているというようなレベルの知るではないことがわかります。総理を知っているというレベルであれば、ヨハネは従妹の子であるイエスさまを知っているというでしょう。それではヨハネ福音書において知るということは一体どういうことでしょうか。ヨハネ福音書の中で、知るということは単に知的な理解や情報として知るということではなく、その人との深い交わりをもっていることを意味します。だからその知り方は、その人の存在の深み、その人のあり方にまで及ぶような知り方です。例えば、わたしが生涯を共にする人と知り合うということは、知るということが、わたしの人生に決定的な影響を与えます。またガンの告知の例を考えてみましょう。わたしはそのことを知ることで、今までの自分ではいられなくなってしまいます。来年の桜は見られるだろうかと、今まで当たり前にように見ていた桜が全く違うものに見えてきます。つまり知るということは、今まで知らなかった真実や現実がわたしの中に入ってきますから、それによって知らなかった以前の自分にはもう戻れなくなります。そして当然わたしの中に変化が起こってきます。

つまり、知るということは部分的であれ、今までの自分が死んで、新しい自分が生まれるというようなことではないでしょうか。ですから、わたしたちがイエスさまを知っていくということは、単に「ああ、イエスさまというのはそう人か」という情報を得るだけではありません。イエスさまはわたしの人生に関わってこられますから、わたし自身がイエスさまから影響を受けますし、同様にイエスさまもわたしから影響をお受けになるということなのです。そのような知り方なのです。ヨハネはそれまではイエスさまを親戚として知っていたのでしょう。しかし、ヨハネは霊の力によってまったく新しい知り方をしていきます。それによってヨハネもイエスさまも影響を受けて、それぞれに新しい人生が始まっていくということではないでしょうか。

ですから、イエスさまと出会った人々は、イエスさまを知ることで人生が、生き方が変えられていくのです。わたしたちは、イエスさまが残された神のみことば(聖書)に触れていくときに、2000年前の書物を読むということだけではなく、今もイエスさまと出会うことができるのです。みことばはそのような不思議な力をもっているのです。そのみことばはわたしたちに影響を与え、わたしたちを変えていくほどの力があるのです。「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです(ヘブライ4:12)」といわれているように、ことばは人を変えていく力をもっているのです。もはや何も知らなかったときの自分には戻れない、神を知るということは、今までの自分ではいられなくなるということなのです。だから知るということは、苦しいことでもあるのです。真実を知ることになるからです。真実を知るということは、今までの自分に死んで、新しい自分に生まれ変わるのですから、正直いって誰でも怖いのです。でも、それが真実、真理を知ることであれば、わたしの死などいとわないほどの感動があるからなのです。

今の世の中を見てみると、リスクあることは一切しないというのが信条みたいで、先の見えないことをやってはいけない、先の読めないことはしない、すべて分かっているところを歩く、安全第一でいいけれど、それでは本当の意味での学びというか、出会いも生じません。そこには人間的成長もありません。わたしたちは、毎日曜日に教会に来てイエスさまのみことばと聖体に養われています。しかし、「わたしは絶対変わりません、今までのやり方でやりますから、どうぞわたしを守ってください」と祈っているのであれば、その信仰は何なんでしょうか。イエスさまは、わたしたちを「わたし体質」から「イエスさま体質」に作り変えようとしておられるのです。イエスさまのみことばと聖体は、わたしたちを内面から根本的にキリストの体に作り変えていく力があるのです。ですから大切なことはその霊の力に自らを委ね、わたしたちを作り変えようとしておられる神の働きに自分を任せていくということなのです。

わたしたちは、イエスのさまのみことばと聖体によって日々養われています。それは別のことばでいえば、わたしたちは今、キリストの体へと変わっていくように、愛を生きるように呼ばれているということなのです。わたしたちが学ぶことを怠らず、神の働きを拒みさえしないのであれば、わたしたちはキリストの体に変えられていくことができるのです。それは死後のことではないのです。今のことなのです。それはなんという慰めでしょうか。わたしの力では、1000年かかってもできないことを、イエスさまは一瞬のうちにそれをしてくださるのです。今日、この真理に気づくためにこころと頭を柔軟にして、神の霊の働きにわたしたちを委ねていくことができるよう祈りましょう。

主の公現 勧めのことば

主の公現 福音朗読 マタイ2章1~12節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

主の公現の祝日は伝統的には1月6日に祝われ、12月25日の主の降誕の祝日より起源が古く、救い主イエスのこの世界への現れを祝う重要な祝日でした。つまり、古代教会ではイエスさまの誕生そのものよりも、イエスさまがご自身をこの世界に公に現れたことが重要なことだったのです。それをもっと神学的に、また本質的に示すものは、主のお告げのお祝い日です。これは公会議前までは、マリアへのお告げの祝日として、マリアのお祝い日になっていました。しかし、お告げのお祝い日はマリアのお祝い日ではなく、「神のみことばが人となり、わたしたちの間に住まわれたこと」を祝う、もっとも本質的なイエスさまのお祝い日なのです。教会の中でお祝い日というと、聖人方のお祝い日だと思われがちですが、根本的なお祝い日は神さまのこの世界への働きかけ、救いの出来事を記念するということです。現在のカトリック教会の祝日は、救いの歴史から微妙に焦点がずれた祝い方をしているということになります。キリスト教のもっとも根本的なお祝い日が復活祭で、イエスさまの受難と死によってイエスさまの愛が永遠化されたことを祝いますが、実はイエスさまの復活によってその愛が永遠化されたのではなく、もともとイエスさまの愛は永遠であることを祝うのです。

わたしたちは神の愛の神秘を、主のお告げ、主の降誕、主の公現、主の洗礼、主の受難と復活、聖霊降臨として、時系列の出来事として祝っていきます。しかし「ことばは肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た」と書かれていること、つまり神さまが神さまであること、つまり神さまが愛であることを人類わたしたちに現されたこと、それが主の公現のお祝い日の意味なのです。神さまが神さまであることが公になることが神の栄光です。神の栄光とは神さまのお喜びであるということなのです。ではどのように栄光が現されるかというと、神さまが人間となってわたしたちの間に宿られたことによってです。つまり、わたしたち人間、またこの世界は神さまの愛を現しているということです。何処の誰であってもその人は神さまのいのちを宿しており、人間と不可分であるこの世界もまた神さまのいのちを宿しており、神さまの愛を現しているということなのです。洗礼を受けてキリスト者になった人たちだけのことではないのです。神さまの愛は、神さまの救いは無限です。しかしどの宗教でも、自分たちの教えが一番正しいとか、自分たちの宗教でしか救われないというようないい方をします。そうすると、せっかくのイエスさまの愛を限られたものにしてしまう危険があるのです。

東から来た占星術の学者たちは、伝統的な絵画では、アフリカ大陸から、ヨーロッパ大陸から、アジア大陸から来た人として描かれています。または青年、壮年、老人として描かれています。つまり、イエスさまは全人類の救い主であることをいおうとしているのです。ユダヤ人やキリスト教の人たちだけのためではありません。彼らは星に導かれて、まことの普遍的真理であるイエスさまを見出しました。この普遍的真理はすべての生きとし生けるものを遍く照らし、生かしている真理です。普遍的な真理は誰のものでもない、すべての人のものです。ですから、そのような真理を見出したなら、いかなる権威、地位、学問、制度といった人間的な何かによって認めてもらう必要がありません。ですから、占星術の学者たちは自分の冠を投げ出して、イエスさまの前に自らを投げ出して礼拝します。そして、もはやヘロデのもとに戻る必要がありませんから、別の道を通って自分の生活の場に帰っていきました。

しかし、多くの宗教がその真理を証しすることから少しずつ離れ、人間的なものに拘り、教えるための宗教、聖職者のための宗教、教団のための宗教に堕落していきました。それは、自分自身が絶えまなく真理に触れることを怠ったがゆえの結果です。その真理を自分たちのものだと思い込み、自分たちのものとして独占しようとするとき、その真理はもはや普遍的な真理ではなく、有限な人間の手垢にまみれたものになってしまうのです。それが、宗教の中の分派、派閥、グループ、偏った教義を生み出していきました。

宗教というのは、一定の教義を受け入れて信じるというようなことではなく、わたしたちが大宇宙、広大無辺ないのち、愛の力によって生かされているということへの自覚に他なりません。イエスさまは、そのような宇宙の広大無辺ないのちそのもの、真理そのものとして、ひとりのか弱い幼子のうちにご自身を現わされたのです。その真理との出会いはわたしたちの努力によるのではなく、恵みによってだけなされます。わたしたちはキリスト教というひとつの宗教を通して、その宇宙的真理に触れさせていただいているのです。ですから、キリスト教だけが素晴らしいとか、カトリックだけが唯一の救いだという必要はないのです。そのようなことをいい出すと、真理の教えは人間の手垢にまみれた抹香臭い教えになってしまいます。イエスさまの教えに、抹香臭い匂いなどあるはずがありません。しかし、現実には人間の匂いがくっついてくるのです。イエスさまの教えを抹香臭くしているのは、人間の匂い、わたしの匂いなのです。

イエスさまは完全な真理、愛の人であるというのは、この「わたし」という匂いがしないということなのです。その姿が幼子です。幼子は、「わたし」という意識をもつ以前のいのちそのものです。ですから、わたしという匂いがしません。ですからわたしが「こうしたら救われる」とか、「ああだから救われる」というような教えにはならないのです。「ああだ」「こうだ」と考えているのは、すべて「わたし」であって、そのわたしが匂いをつけているだけであって、わたしという匂いがない状態を救いというのです。わたしたちは自分でこうしよう、ああしようと思ってこの世に生まれてきたわけではありません。そんなことを思わず、ただあるがまま自然に生まれてきたのではないでしょうか。真理を見出すということは、この存在自体の安らかさをわたしたちが、もう一度体験することではないでしょうか。イエスさまにまかせる、イエスさまを信頼するというはそういうことだといえるでしょう。難しい教え、神学、理屈ではありません。幼いイエスさまは、わたしという匂いのないその姿をもって、真理であるご自身を現しておられます。実にイエスさまは特別なことの中ではなく、あるがままの自然の中に、すべての人の中に、すべてのものの中にご自身を現しておられるのです。

主の降誕(日中のミサ) 勧めのことば

主の降誕(日中のミサ) 福音朗読 ヨハネ1章1~18節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今は復活祭と並んで大きく祝われる降誕祭ですが、その起源は、ローマ帝国でおこなわれていた異教の冬至の祭りをキリスト教化したのが始まりです。キリスト教がローマ帝国に広まっていくなかで、人々の慣れ親しんだ土着の太陽神の祭りをキリスト教に取り込むことで、民衆の支持を得るという政治的な目的で始まったものです。それが今では、キリスト教の2つの大きな祭日となっています。そもそも、初代教会はイエスさまの誕生について関心をもっていませんでした。最初に書かれたマルコ福音書には、マリアの息子という記述以外、イエスさまの誕生についての記述はありません。そこからしても、初代教会はイエスさまの出自について、関心をもっていなかったことがわかります。しかし、復活されたイエスさまとの出会いのなかで、人間イエスさまへの関心がその誕生、出自へと向かわせたというのは自然なことだと思います。教会が最初から祝ってきたのはイエスさまの復活であり、その視点から主の降誕を見なければならないと思います。

主の降誕で祝うのはイエスさまの誕生ではなく、神が人間の救いのために人間となった受肉という出来事です。「ことばは肉となって、わたしたちの間に宿られた」。今日、ヨハネ福音書の冒頭の箇所が朗読されます。聖書学的にはいろいろ議論がある箇所ですが、伝統的にこの箇所は、三位一体の第二の位格であるロゴスの永遠の存在、創造への参与、そしてロゴスの受肉を説明するものとして捉えられてきました。そして、その神的存在であるロゴスといわれるみことばの受肉を、主の降誕として祝うというものです。そこで、今日は神が人となる受肉の神秘の深みに入っていきたいと思います。そして、この受肉という出来事が具体的にどういうことなのかを見ていきたいと思います。

わたしたちが祝うクリスマスのなかで、マリアとヨゼフに見守られた幼子イエス、ベトレヘムの貧しい馬小屋、羊飼いたち、天使たちの歌声など、その温かい心安らぐイメージに親しんでいます。しかし、主の降誕に登場するヨゼフとマリア、ベトレヘムの馬小屋、羊飼いたちは、当時のユダヤの社会のなかで、もっとも弱い立場におかれ、貧しく見捨てられ堕落しているものの象徴でした。ヨゼフとマリアは人口調査のために実家の村に帰るわけですが、マリアは出産間際であったのにかかわらず「泊まる場所がなかった」と書かれています。実家の村ですから、親戚や知り合いの家はいくらでもあったはずです。それにもかかわらず、宿屋にさえ泊まれませんでした。これはどういうことでしょうか。これは、マリアの妊娠がヨゼフと関係のないものであるということを皆が知っていたということです。ユダヤの伝統では家族や一族を大切にします。ですから、普通実家に帰ったら、しかも妻が妊娠しているというのであれば、一族を上げて歓迎します。しかし、ヨゼフたちを受け入れてくれる親戚は誰もおらず、宿屋からも断られてしまいます。ベトレヘムの人々はマリアの子はヨゼフの子でない不義の子、罪の子であると知っていたということなのです。だから、律法に背いた堕落した罪人たちを受けいれれば、自分たちも汚れるとして、人々はヨゼフたちを受けいれようとしなかったのです。そして、どこにも身を寄せるところがなく、イエスさまは家畜小屋で、“罪の子”として生まれてくるのです。このことを、これが第一の現実です。

わたしたちが慣れ親しんだ馬小屋も、決して暖かなものではありません。藁だらけの、糞だらけの家畜小屋です。そこでイエスさまは生まれます。生まれたばかりのイエスさまを寝かせるための暖かなベッドも布団もありません。家畜が餌を食べる汚い餌箱に寝かされたのです。イエスさまの誕生は、誰からも祝福されない、喜ばれない、望まれない誕生であったのです。ヨゼフとマリアにしても、血のつながりのないこの幼子の誕生を心から喜べたかどうかわかりません。聖書は淡々と出来事を描いていきますから、わたしたちはあまりにも綺麗なベトレヘムの馬小屋の風景に慣れてしまっています。しかし、ベトレヘムは、いくら金箔をはっても、所詮糞まみれのベトレヘムなのです。それなのに、ベトレヘムを美化し、神話化し、崇高な物語のような話を作り上げていきます。糞に金箔をはっても、所詮糞なのです。その糞まみれの現実のなかにイエスさまが入ってこられます。というかイエスさまはその現実そのものとなられるのです。ですから、イエスさまはすべての人の救い主なのです。

イエスさまの誕生をはじめに知らされた羊飼いも、堕落した人間の代表でした。アブラハムの時代、羊飼いは、ユダヤ民族にとっては誇り高い仕事でした。しかし、カナンに定住して農耕生活に移行していく中で、羊飼いという仕事は奴隷や貧しい人々、罪人と呼ばれる人たちにさせるようになっていきます。律法を守るという観点からすると、羊飼いたちは移動して仕事をしなければなりませんから安息日を守れません。ですから、律法を破らないと仕事ができないのです。ですから、生きていくためにどうしても罪を犯さざるを得なかった人たちが羊飼いでした。そのような人たちとは、誰も交際しません。教会は正義と平和については問題にして声をあげます。そして、不正義や被害者救済については考えますが、加害者となった人たちや生きることで罪を犯さざるを得ない人たちのことまで考えようとはしません。それは、自分は加害者にはならない、いわゆる罪人にならないと思っているからでしょう。しかし、イエスさまの誕生を最初に知らされた人たちは、社会からも宗教の世界からも堕落していると思われている人たちでした。わたしたちは、自分の境遇を選んで生まれてくることはできません。わたしたちが、今、キリスト者として教会に来ているとしたらそれは偶然であり、たまたまのことなのです。わたしの手柄でも努力の結果などでもありません。わたしは立場が変われば何をしでかすかわからない、そのような存在なのです。

だからイエスさまの救いはすべての人々のものなのです。イエスさまの救いは善意の人々だけでなく、生きるためには罪を犯さないでいられなかった人、またわたしたちを殺そうとして向かってくる人、自分で自分のいのちを絶たなければならない人、そのような誰をも何をも排除しないすべての生きとし生けるもののためなのです。わたしたちが悪とか、罪とか決めつけているものは、実はわたしたちの兄弟姉妹であり、わたし自身であるということなのです。この世界、この宇宙の何ひとつでも欠けていればわたしは存在し生きていくことはできません。わたしたちは皆、お互いに繋がっているのです。イエスさまはそのようなこの世界、この宇宙、このわたしたちとなられたのです。イエスさまはすべての人の救い主ですから、すべてとなられたのです。そのためにイエスさまは、まさにこの苦しみ悲惨に満ちた、加害者であり被害者であり傍観者であるわたしに、堕落した罪人であるわたしのために不義の子、罪の子、怒りの子(エペソ2:3)となられたのです。それは誰も排除しない、何も妨げない、それがクリスマスの意味です。わたしたちはいくら金箔をはっても、所詮は糞まみれでしかないのです。イエスさまは、そのすべての人間の救いのために、悩み苦しむ罪人であるわたしとなって、わたしのなかにお生まれになるのです。イエスさまはわたしとなられたのです。わたしはイエスさまではありませんが、イエスさまはわたしとなってわたしを救われるのです。

わたしたちはこの迷いの世界から自分の力で出ることはできません。迷い傷つき苦しんでいるわたしたち人間に真実のことばとなって語りかけるという出来事、それがイエス・キリストです。ですから、この方はみことば、真理、いのち、光と呼ばれています。みことがはすべてのものを新たに創り出す力、すべてにいのちを与えるいのちそのもの、すべてのものを遍く照らす光、まことの真理といわれます。その方が迷っているわたしたち人間となって、この迷いの世界に来られた、これが主の降誕の意味なのです。主の降誕は2000年前のベトレヘムでの出来事ではなく、イエスさまがわたしとなった出来事なのです。イエスさまはこの世界で迷い苦しんでいるわたしとなって、この人生をともに彷徨ってくださるのです。この方の光によって、わたしたちを主の降誕の神秘の深みにいれていただけるように祈りましょう。

待降節第4主日 勧めのことば

待降節第4主日 福音朗読 マタイ1章18~24節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

 今日はマタイ福音書から、イエスさまの誕生の顛末が描かれていきます。わたしたちは、マタイはヨゼフの立場からのイエスの誕生物語であり、ルカはマリアからの誕生物語であるとか、受胎告知とか、聖霊による懐胎とか、イエスさまはベトレヘムで生まれたとかいろんな事を知っています。しかし、そのようなことをわたしたちがわかっても、またいろんな教会の教えを覚えたとしても、実はそれはほとんど意味がありません。わたしたちを救うのは神学や聖書学、教会の教えではないからです。それをわたしが覚えて帰ったとしても意味がないのです。聖書は神のことばですが、それは人間の手で編集された物語であり、それをまた聖書学者や説教者が解釈し、人間のことばとして説明してしまいます。そのような話を聞いてもわたしたちは救われるということはありません。すべての宗教には教学や聖典がありますが、それはひとえにわたしたちを信仰に導くためのひとつの手段です。これを仏教では方便といいます。カトリック教会でも、神学や聖書の知識を深めることと信仰とは同じではないのです。

カトリック教会はいろいろな教義や教えがありますが、それは単に教義をそのまま信じ込むことが目的ではなく、信仰へと導くためなのです。信仰ということばは、語源からして真理と同義語ですが、その真理、それが宗教の本質ですが、その真理を解き明かし教義として説明しようとしてきました。それがかえってキリスト教の本質が何であるかわかりにくくし、真理を複雑にしてしまっています。難しい教義や聖書を理解すことが信仰ではありません。いくら、教義を勉強しても、聖書の解釈を知っても、それは人間の理性の業であって、信仰とは関係ないどころか、わたしたちの信仰生活の妨げとなってしまいます。教義とか聖書について、わたしたちの捉え方、関わり方について間違えてはならないのです。

わたしたちは人間のことばを通してしか神のことばを聞くことはできませんが、ただ人間のことばを聞いているだけでは救われません。よく、今日のお話はよかったとか、難しかったというような反応を聞きます。それは説教者や講師の話を聞いているだけで、人間のことばを聞いているだけにすぎません。自分にとって心地よいことばか、受け入れやすい話を聞いているだけなのだということになります。確かに聖書にしても、聖書の解き明かしである説教や講話にしても、人間のことばを通してしか神のことばを聞くことはできないわけですから、わかりやすいほうがいいでしょう。しかし、その人間のことばを通して響いてくるもの、つまり人間のことばの中を通って響いてくる神のことばを聞くということが大切なのです。人間のことばを通して、イエスさまが直々にわたしに語りかけてくださる「神のことば」を聞かなければならないのです。そのことは、聞くものも、語るものも心得ておかなければなりません。自分の得手に聞き語ることを、重々戒めておかなければならないからです。

今日の福音で、天使は生まれてくる子をイエスと名付けなさいといいました。そこで天使がいったとか、ヨゼフがどうしたということが大切なのではありません。イエスという名は「わたしはあなたを救う」という意味です。ですから「わたしはあなたを救う」「この子は自分の民を罪から救う」ということばを通して、イエスさまのわたしへの「わたしはあなたを救います」という直々の声が聞こえていること、それが信仰なのです。わたしがどう聞こえたとか、わたしがどう理解して納得したかでさえありません。ただ「わたしはあなたを救う」というのが、キリスト教の宗教としての真理であり、その真理がわたしに聞こえる、与えられているということが信仰なのです。信仰というと、わたしが信じることとして理解されがちですが、そうではなく、キリスト教が宗教としてわたしたちに伝えようとする単純な真理、キリスト教は何を教えていますかということを信仰というのです。ですから、わたしたちにイエスさまの真実、真理がわたしに届いていること、その働きを信仰というのです。わたしが何かをする前に、イエスさまがわたしを救うと誓われた真実が信仰なのです。

ですから、ヨゼフがどうの、マリアがどうの、ベトレヘムがどうのということは、わたしたちを真理へと導くための手段、方便であって、わたしたちの信仰と直接関係ありません。カトリック教会はこの真理の周辺のことが多すぎて、何が真理の本質であるかが非常にわかりにくくなっています。司祭がいったからとか、司教がいったから、教皇がいったから、教会が教えているからではないのです。誰がいったかは問題ではなく、イエスさまが直々にわたしに語りかけてくださること-特別なお告げとかご出現ではなく-イエスさまがわたしを呼ぶ声、「わたしはおまえを救う」ということばが聞こえる、そのことがすべてなのです。

教会、また教会の秘跡は人類をこの真実へと導くための道具、方便であって、教会はそのために奉仕者に過ぎません。イエスさまの真実より前に出ようとする教会は、人々をイエスさまに導かないばかりか、妨げの石となってしまうのです。イエスという名、「わたしはあなたを救う」という単純な信仰の真理がキリスト教の宗教としての魂です。それを伝えるために、聖書があり、教義があり、教会があるのです。

今日、待降節第4主日にあたって、わたしたちはイエスという名、「わたしはあなたを救う」というイエスさまの声がわたしに届いていることに、改めて気づかせていただきたいと思います。

待降節第3主日 勧めのことば

待降節第3主日 福音朗読 マタイ11章2-11節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の福音では、捕らわれの身になっている洗礼者ヨハネが登場します。洗礼者ヨハネは先週の福音にも出てきましたが、神さまによってイスラエルの民に送られた旧約の最後の預言者です。ヨハネはヘロデ王の結婚が律法に適っていないことを指摘したために、捕らえられ牢に入れられます。そのヨハネが獄中から弟子をイエスさまのところへ送って「来るべき方はあなたでしょうか。それともほかの人を待たなければなりませんか」と尋ねさせています。ヨハネはイエスさまに洗礼を授け、イエスさまのことを知っていたはずです。イエスさまが洗礼者ヨハネから洗礼を受けようとされたとき、ヨハネは「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところに来られたのですか(3:14)」といっています。つまり、イエスさまが神さまから使わされたメシアであることを知っていたのです。そしてヨハネは「イエスのなさったことを牢の中で聞いた」と書かれています。そうすると、ヨハネはわざわざイエスさまのもとに弟子を遣わして、「来るべき方はあなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と尋ねるということは、ヨハネの中で何かが揺らぎ始めたということでしょう。ひとことでいえば、イエスさまは洗礼者ヨハネが思っていたとおりのメシアではなかったということでしょう。期待外れだということです。だから自分の弟子を送ってわざわざ「来るべき方はあなたでしょうか。それとも…」と尋ねねばならないほど疑問、戸惑いがヨハネの中に生じていたということなのでしょう。

イエスさまに「女より生まれた者のうち、洗礼者ヨハネよりは偉大な者はいない」とまでいわしめたヨハネでしたが、イエスさまの答えは「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、思い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」でした。ヨハネはその出来事の中に、神さまの働きを見ることができなかったのです。イエスさまをして「預言者以上のものである」といわしめたヨハネであってさえも、イエスさまにつまずいてしまったのです。イエスさまは「わたしにつまずかないものは幸いである」といわれます。おそらくヨハネは、イスラエルの民をローマ帝国の支配から解放する力強い指導者を期待していたのでしょう。しかし、イエスさまは、目の見えない人を見えるようにし、耳の聞こえない人を聞こえるようにし、貧しい人に福音を告げ知らせておられました。そのイエスさまの働きの中に、ヨハネは神さまの働きを見ることができませんでした。

このことは、わたしたちがイエスさまを理解するときにも同じことになりがちです。わたしたちも、わたしという狭い枠の中でイエスさまを捉えてしまう危険性が絶えずあるのです。ヨハネでさえ自分の狭い考えの枠の中でしか、イエスさまを捉えることができませんでした。わたしたちはなおさらではないでしょうか。神のみ言葉を聞くとき、わたしたちは自分に都合よく聞いてしまう傾向があります。そもそも、わたしたちが何かを理解するというとき、自分が今まで体験したことの中でしか物事を理解することしかできませんから、当然限界があるのです。ですから、神のみ言葉を聞くときも、自分の思い描いた自分の気に入った神さまのイメージ、信仰のイメージ、教会のイメージにあてはめて、その幻想を膨らましていくことになりがちです。洗礼者ヨハネでさえ、そうした誘惑から自由ではありませんでした。その後のヨハネは、牢屋の中で自分のすべてを奪われ失望のうちに、最期は殉教という苦しみを通して「自分勝手な思い」というものから清められることで、イエスさまの到来を準備するという己の使命に徹することを学んでいかなければならなかったのです。それは、あまりにも過酷といえば過酷です。ヨハネは牢屋の暗闇の中で度々「あの方は栄え、わたしは衰えなければならない」と繰り返したことでしょう。

わたしたちの基本的なこの世界とのかかわり方は何かといえば、「わたしは栄え、あの方は(相手側は)衰えなければならない」「わたしの思いが据え通らなければならない」ということなのです。わたしの望みが叶い、わたしの思いが据え通り、わたしの計画が実現していくことがわたしのモチベーション、わたしの目標なのです。それがわたしの我欲であると認識していればまだ救いようがありますが、それがわたしの生きがい、目標、使命であると勘違いしているのであれば重症です。たとえどのような立場にあっても、それがどれほど崇高な計画や目標であっても、自分のプロジェクトをイエスさまの計画と錯覚し、己を押し通していくということから、わたしたちは決して自由ではないのです。

このヨハネの姿は、キリスト者として生きようとするわたしたちの模範です。キリスト者とは、その名の示すとおり、「キリストにつくもの」となることです。わたしがどれだけすばらしいことをして活躍しても、教会に奉仕しても、信者として長い間信仰を守ったとしても、それが「自分教」であれば、わたしはまだキリスト者になっていない、ただの自分教の信者にすぎないのです。キリスト者としての成長は、神の恵みと助けによってわたしが何かができるようになることではありません。そうではなく、むしろ反対で、わたしの中でわたしが消え去り、イエスさまが中心となり、イエスさまがすべてを行われるようになることに他なりません。わたしたちがカトリックであることと、キリスト者であることは同じではありません。

イエスとの出会いはわたしたちにとっては、いつも驚きであり、予想外であり、感動なのです。わたしたちを動かすとしたら、それはイエスさまへの感動です。わたしたちは、高邁な教えや複雑な神学によって動かされはないのです。イエスさまへの感動は、わたしたちをまったく新しい真理へ、新しい世界へと招き入れてくれるのです。わたしたちは真の意味でキリスト者となるように、たえず呼びかけられているのです。

待降節第2主日 勧めのことば

待降節第2主日 福音朗読 マタイ3章1~12節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は洗礼者ヨハネの活動が描かれていきます。洗礼者ヨハネは、メシア到来を準備する悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。悔い改めとは一体何なんでしょうか。わたしたちはミサの前に、「わたしたちの心を改めましょう」といいますが、わたしたちがこころを改めるとはどういうことなのでしょうか。そもそもわたしたちは悔い改めるということができるのでしょうか。

現代人のわたしたちは、わたしたちのこころ、体、いのちは自分たちのものだと思っています。ですから、自分のこころや体、いのちを自分の意のままにできると考えています。それはわたしたちのこころや体、いのち、そしてこの自然界は、神さまからわたしたち人間に与えられたものであるというユダヤ・キリスト教的な自然観が根底にあるからなのです。自分のこころや体、いのちは神さまからもらったものだから自分のものであり、それを支配することができると考えているのです。これが世界中に浸透している西洋の世界観でもあるのです。先ずわたしという存在を立てて、わたしたち人類が神の代理者としてすべてのものの所有者となりこの世界を支配し統治していく、この発想はキリスト教のものなのです。

そして、近代に起こってきた科学は、このようなキリスト教的な世界観への反発として起こってきたものなのです。今度は神さまに代わって、人間が支配者になるということです。こころや体、自然界が、わたしたちに与えられた、あるいはわたしたちのものであるというのですから、当然それらを人間の力で支配し、コントロールできると考えるようになります。しかし、現実はどうでしょうか。人類は自然界の支配者、所有者のような顔をして、自然から搾取し続けてきた結果、今、わたしたちはその自然から反逆を受けています。自然破壊や公害による気候変動などはそのひとつでしょう。

わたしたちはこころや体をわたしの所有物としてコントールしようとしてきました。ですから、キリスト教では、努力して頑張って、反省して罪を避けて、善行をしてよい人間になることが信仰者としてのあり方であると教えてきました。それでも、いろんなことがうまくいかない、病気になったり、不幸になったりするとそれは信仰が足らないからだといわれ、自分のこころを修め、強い信仰をもてば困難を克服できると教えてきました。または、これは神さまからの試練であるから忍耐するようにと諭してきました。これがキリスト教の信仰観なのです。しかし、果たしてわたしたちは自分のこころを修め、信仰を強くし、わたしたちの何かを変えることができたでしょうか。信仰は、わたしたちのこころのもち方でどうにかなる問題なのでしょうか。現実は病気がなくなることも、困難がなくなることも、死がなくなることもありません。人のこころをコントロールすることはできないし、それによって事態を動かすことなどできないのです。

わたしたちは、自分の意志で頑張って心臓を動かし、血液を体の隅々にまで送っているのでしょうか。わたしが頑張って呼吸して体に酸素を取り込み、食べ物を消化し栄養として取り込んでいるのでしょうか。わたしが腹を立てないように頑張れば腹が立たなくなり、憎しみのこころを抱かないように頑張れば憎しみが湧かなくなるでしょうか。わたしの中では、皮膚の細胞はおよそ1か月で入れ替わり、血液は3〜4か月、骨でさえ10年もすればほとんどが新しいものに入れ替わっているといわれます。わたしが、体に命令してそのようになっているわけではありません。わたしのこころとか意志とかに関係ないところで、自然とそうなっているのではないでしょうか。にも関わらず「わたしがある」と主張している「わたし」とは、一体誰なのでしょうか。わたしのこころとか、意志とか、意識とはどこにあるのでしょうか。このように考えていくと、わたしという人間がいかに不安定で、絶えず移り変わっていくものであるかということが見えてきます。わたしのこころも体も、絶えず変化していて、ひとつの状態に留まるということはありません。

それでは、悔い改めるよういわれているわたしというのは何でしょうか。わたしがわたしであると思っているような確実なものは、何もないのです。わたしは絶えず移り変わっていく、それが生きているということなのです。それなのに何か確実なものがあると思い込み、それを真実であるかのように握りしめているのがわたしです。それがひとつの考えとか思想であったり、宗教であったり、富であったり、権威であったり、地位や名声であったり、よい人間であるということであったり、恩恵の状態であったりします。しかし、たとえそのようなものを握りしめていても、あえなく崩れ落ちてしまいます。腹を立ててはいけないと思っていても腹が立ってくる、笑ってはいけないと思っていても笑ってしまう。病気にならないように気をつけていても病気になる。歳をとりたくないといっても老いてゆく。この世では何もわたしたちの思うようにはならないのです。かりに思い通りになったと思っても、それが永遠に続くことなどありえないのです。それを思い通りにしようとするのは、わたしの欲に他ならないのです。凝りもせずに、自分自身を、他人を思い通りにしようとする、しかし決して思い通りにはならないのです。それなのに、わたしはすべてを思い通りにしようとする、これこそが人間の根深い執着であり、迷いに他ならないのです。

最後は「わたしが」、「わたしの」という我執です。結局は自分を中心にしてすべてを捉えて、すべてを理解していこうとするこのわたし、我執が問題なのです。よい人間になりたいと思うのも、所詮わたしの執着なのです。わたしたちは、この我執から離れることができない、その現実に気づくことが必要なのではないでしょが。その我執がありとあらゆる苦しみ、罪と傲慢を作り出していくのです。

 

洗礼者ヨハネは「蝮の子らよ」といい、わたしたちにこの身を知らせ、この我執の身が破られることの必要性を知らせました。この身が知らされ、この身が破られるのは水の洗礼、つまり人間の業によってではなく、聖霊と火による洗礼、つまりイエスさまの到来によってしか成し遂げられることはできないとヨハネは宣言します。ヨハネの時代までは人の業、人の力による悔い改めであり、真の悔い改めは人の力によってなされるのではないことが知らされます。イエスさまの到来、イエスさまとの出会いだけが、わたしたちをこのわが身から、わたしを解き放つことができるのです。ですから、イエスさまの到来そのものが福音であり、神の国、恵みそのものなのです。

待降節第1主日 勧めのことば

待降節第1主日 福音朗読 マタイ24章37~44節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

待降節に入りました。待降節はアドベントウスといわれ、日本語では降誕を待つと訳されていますが、本来の意味は「主が来る」という意味です。この日本語の訳は人間の側からみた、人間中心の訳になっていますが、本来は「主が来る」というイエスさまを中心とした季節であるということを指摘しておきたいと思います。

わたしたちが待つということを中心に据えると、さてどのように主の降誕を準備しようかとか、告白して心の準備をしようとか、わたしたちの心がけの問題になってしまいます。しかし、イエスさまが来られることを中心に据えると、少し雰囲気が違ってくるのではないかと思います。

今日の福音でも主は思いがけないときに来るといわれています。主は、いつ来られるのでしょうか。4週間後でしょうか。1か月先でしょうか。1年先でしょうか。10年先でしょうか。100年先でしょうか。そして、何のために来られるのでしょうか。それを知るためにはイエスさまの時代の人々が生きていた思想を知ることが必要になるかと思います。

当時の人々の間には終末思想が浸透していました。終末思想というのは、天変地異が起こり、苦難が訪れ、最終的には神さまが介入してイスラエルの民が再興され、勝利するという考え方です。日本の鎌倉時代の末法思想に似たところがあります。今日読まれたマタイ福音は、紀元70年のユダヤ戦争の後に書かれました。ユダヤ戦争では、ユダヤ人にとって、キリスト者にとっても心の拠り所であったエルサレムがローマ帝国によって陥落させられ、エルサレムの神殿も破壊され燃やされました。人々は、そのときにこそ神さまが介入されると信じていました。しかし、神さまの助けも、介入もありません。じゃ、あの終末思想は何だったのかということが人々の疑問として湧き上がってきました。神さまの助けはない、イエスさまが再臨されることもない。自分たちの思っているようなメシアは来ないのではないかと。  

こうして、終末思想、イエスさまの到来について広まっていた考え方が、教会の中でも修正されていくことになります。当初は終末を時間の流れの中で理解していこうとしますが、イエスさまが来られるということは、何年か後の時間の中での出来事ではないということがわかってきます。そこで、四終―死(私審判)、最後の審判、地獄、天国―という考え方がうみだされ、それが教会の中で定着していくことになります。今日でもそのように説明され、教えられています。確かに最近はあんまりいわなくなりましたが、このような考え方は現代人には受け入れがたいものとなっています。

少し考えたらわかるのですが、イエスさまが来られるということは、今、このときの出来事であるということです。なぜなら、わたしたちは生きているのは、いつも今というときでしかありません。わたしが生きているのは、昨日でも、明日でもなく、今、今しかないのです。ですから、わたしが生きているところに死はなく、死があるところにわたしはないのです。ですからイエスさまが来られるのは、今というときをおいてないわけです。それが過去のことであったとしても、将来のことであったとしても、そのときはわたしの今なのです。そう考えると、12月25日にイエスさまが来られるということではなくて、今日この日この時がイエスさまが来られるときであることがわかります。つまり、今、このときが主の来臨、主の降誕、イエスさまの訪れのときだということです。12月25日だけを主の降誕として祝うのではなく、今このときをイエスさまの訪れのときとして生きられたら、わたしたちはどんなに幸せでしょう。

イエスさまはわたしたちを裁くためでなく救うために、ベトレヘムに来られました。そのベトレヘムは動物の糞だらけの汚い家畜小屋です。イエスさまが来られるのはきれいなベトレヘムではありません。そして、このわたしたちも糞だらけの汚い家畜小屋のようなものです。イエスさまは、日ごとの生業と労苦で右往左往して、欲のこころを起こし、人のことを怒り妬み、傷つけ恨んだり、悩み迷っている糞だらけのわたしのところへ来てくださるのです。そして、わたしたち一人ひとりに寄り添ってくださるのです。何の準備も、何もかしこまる必要もないのです。わたしのこころがけ次第で来てくださったり、来てくださらないのではない。黙想したから来てくださるわけではない。また信者だから来て、信者でないから来なかったりされるのではない。善人だから来て、悪人だから来てくださらないのでもない。わたしたちのこころがけの問題ではないのです。そのまんまのわたしのところへ、イエスさまは来てくださるのです。わたしたちは、イエスさまをそのまんまいただくことしかできないのです。堅苦しい態度も、小難しい理屈も神学もいりません。キリスト教は、一部の選ばれたひとたち、洗礼を受けた人のためにエリート集団ではないのです。この福音は全人類みんなのものなのです。

そして、今このときが主の訪れとなったわたしたちは、今度は他の人々のところへわたしのうちにいらっしゃるイエスさまをお連れするのです。わたしたちはそのイエスさまを、みことばにおいて、聖体の秘跡において、またわたしたちのうちにおられるイエスさまの現存によって、すべての人のところにイエスさまをお連れするのです。イエスさまはわたしのイエスさまがですが、イエスさまはすべての人のイエスさまです。そして、わたしのイエスさまはわたしを通して、人々のところにいきたいのです。それがわたしたちが出ていくということ、派遣されているということなのです。