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待降節第2主日 北村善朗

待降節第2主日 福音朗読 マタイ3章1~12節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は洗礼者ヨハネの活動が描かれていきます。洗礼者ヨハネは、メシア到来を準備する悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。悔い改めとは一体何なんでしょうか。わたしたちはミサの前に、「わたしたちの心を改めましょう」といいますが、わたしたちがこころを改めるとはどういうことなのでしょうか。そもそもわたしたちは悔い改めるということができるのでしょうか。

現代人のわたしたちは、わたしたちのこころ、体、いのちは自分たちのものだと思っています。ですから、自分のこころや体、いのちを自分の意のままにできると考えています。それはわたしたちのこころや体、いのち、そしてこの自然界は、神さまからわたしたち人間に与えられたものであるというユダヤ・キリスト教的な自然観が根底にあるからなのです。自分のこころや体、いのちは神さまからもらったものだから自分のものであり、それを支配することができると考えているのです。これが世界中に浸透している西洋の世界観でもあるのです。先ずわたしという存在を立てて、わたしたち人類が神の代理者としてすべてのものの所有者となりこの世界を支配し統治していく、この発想はキリスト教のものなのです。

そして、近代に起こってきた科学は、このようなキリスト教的な世界観への反発として起こってきたものなのです。今度は神さまに代わって、人間が支配者になるということです。こころや体、自然界が、わたしたちに与えられた、あるいはわたしたちのものであるというのですから、当然それらを人間の力で支配し、コントロールできると考えるようになります。しかし、現実はどうでしょうか。人類は自然界の支配者、所有者のような顔をして、自然から搾取し続けてきた結果、今、わたしたちはその自然から反逆を受けています。自然破壊や公害による気候変動などはそのひとつでしょう。

わたしたちはこころや体をわたしの所有物としてコントールしようとしてきました。ですから、キリスト教では、努力して頑張って、反省して罪を避けて、善行をしてよい人間になることが信仰者としてのあり方であると教えてきました。それでも、いろんなことがうまくいかない、病気になったり、不幸になったりするとそれは信仰が足らないからだといわれ、自分のこころを修め、強い信仰をもてば困難を克服できると教えてきました。または、これは神さまからの試練であるから忍耐するようにと諭してきました。これがキリスト教の信仰観なのです。しかし、果たしてわたしたちは自分のこころを修め、信仰を強くし、わたしたちの何かを変えることができたでしょうか。信仰は、わたしたちのこころのもち方でどうにかなる問題なのでしょうか。現実は病気がなくなることも、困難がなくなることも、死がなくなることもありません。人のこころをコントロールすることはできないし、それによって事態を動かすことなどできないのです。

わたしたちは、自分の意志で頑張って心臓を動かし、血液を体の隅々にまで送っているのでしょうか。わたしが頑張って呼吸して体に酸素を取り込み、食べ物を消化し栄養として取り込んでいるのでしょうか。わたしが腹を立てないように頑張れば腹が立たなくなり、憎しみのこころを抱かないように頑張れば憎しみが湧かなくなるでしょうか。わたしの中では、皮膚の細胞はおよそ1か月で入れ替わり、血液は3〜4か月、骨でさえ10年もすればほとんどが新しいものに入れ替わっているといわれます。わたしが、体に命令してそのようになっているわけではありません。わたしのこころとか意志とかに関係ないところで、自然とそうなっているのではないでしょうか。にも関わらず「わたしがある」と主張している「わたし」とは、一体誰なのでしょうか。わたしのこころとか、意志とか、意識とはどこにあるのでしょうか。このように考えていくと、わたしという人間がいかに不安定で、絶えず移り変わっていくものであるかということが見えてきます。わたしのこころも体も、絶えず変化していて、ひとつの状態に留まるということはありません。

それでは、悔い改めるよういわれているわたしというのは何でしょうか。わたしがわたしであると思っているような確実なものは、何もないのです。わたしは絶えず移り変わっていく、それが生きているということなのです。それなのに何か確実なものがあると思い込み、それを真実であるかのように握りしめているのがわたしです。それがひとつの考えとか思想であったり、宗教であったり、富であったり、権威であったり、地位や名声であったり、よい人間であるということであったり、恩恵の状態であったりします。しかし、たとえそのようなものを握りしめていても、あえなく崩れ落ちてしまいます。腹を立ててはいけないと思っていても腹が立ってくる、笑ってはいけないと思っていても笑ってしまう。病気にならないように気をつけていても病気になる。歳をとりたくないといっても老いてゆく。この世では何もわたしたちの思うようにはならないのです。かりに思い通りになったと思っても、それが永遠に続くことなどありえないのです。それを思い通りにしようとするのは、わたしの欲に他ならないのです。凝りもせずに、自分自身を、他人を思い通りにしようとする、しかし決して思い通りにはならないのです。それなのに、わたしはすべてを思い通りにしようとする、これこそが人間の根深い執着であり、迷いに他ならないのです。

最後は「わたしが」、「わたしの」という我執です。結局は自分を中心にしてすべてを捉えて、すべてを理解していこうとするこのわたし、我執が問題なのです。よい人間になりたいと思うのも、所詮わたしの執着なのです。わたしたちは、この我執から離れることができない、その現実に気づくことが必要なのではないでしょが。その我執がありとあらゆる苦しみ、罪と傲慢を作り出していくのです。

 

洗礼者ヨハネは「蝮の子らよ」といい、わたしたちにこの身を知らせ、この我執の身が破られることの必要性を知らせました。この身が知らされ、この身が破られるのは水の洗礼、つまり人間の業によってではなく、聖霊と火による洗礼、つまりイエスさまの到来によってしか成し遂げられることはできないとヨハネは宣言します。ヨハネの時代までは人の業、人の力による悔い改めであり、真の悔い改めは人の力によってなされるのではないことが知らされます。イエスさまの到来、イエスさまとの出会いだけが、わたしたちをこのわが身から、わたしを解き放つことができるのです。ですから、イエスさまの到来そのものが福音であり、神の国、恵みそのものなのです。

待降節第1主日 勧めのことば

待降節第1主日 福音朗読 マタイ24章37~44節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

待降節に入りました。待降節はアドベントウスといわれ、日本語では降誕を待つと訳されていますが、本来の意味は「主が来る」という意味です。この日本語の訳は人間の側からみた、人間中心の訳になっていますが、本来は「主が来る」というイエスさまを中心とした季節であるということを指摘しておきたいと思います。

わたしたちが待つということを中心に据えると、さてどのように主の降誕を準備しようかとか、告白して心の準備をしようとか、わたしたちの心がけの問題になってしまいます。しかし、イエスさまが来られることを中心に据えると、少し雰囲気が違ってくるのではないかと思います。

今日の福音でも主は思いがけないときに来るといわれています。主は、いつ来られるのでしょうか。4週間後でしょうか。1か月先でしょうか。1年先でしょうか。10年先でしょうか。100年先でしょうか。そして、何のために来られるのでしょうか。それを知るためにはイエスさまの時代の人々が生きていた思想を知ることが必要になるかと思います。

当時の人々の間には終末思想が浸透していました。終末思想というのは、天変地異が起こり、苦難が訪れ、最終的には神さまが介入してイスラエルの民が再興され、勝利するという考え方です。日本の鎌倉時代の末法思想に似たところがあります。今日読まれたマタイ福音は、紀元70年のユダヤ戦争の後に書かれました。ユダヤ戦争では、ユダヤ人にとって、キリスト者にとっても心の拠り所であったエルサレムがローマ帝国によって陥落させられ、エルサレムの神殿も破壊され燃やされました。人々は、そのときにこそ神さまが介入されると信じていました。しかし、神さまの助けも、介入もありません。じゃ、あの終末思想は何だったのかということが人々の疑問として湧き上がってきました。神さまの助けはない、イエスさまが再臨されることもない。自分たちの思っているようなメシアは来ないのではないかと。  

こうして、終末思想、イエスさまの到来について広まっていた考え方が、教会の中でも修正されていくことになります。当初は終末を時間の流れの中で理解していこうとしますが、イエスさまが来られるということは、何年か後の時間の中での出来事ではないということがわかってきます。そこで、四終―死(私審判)、最後の審判、地獄、天国―という考え方がうみだされ、それが教会の中で定着していくことになります。今日でもそのように説明され、教えられています。確かに最近はあんまりいわなくなりましたが、このような考え方は現代人には受け入れがたいものとなっています。

少し考えたらわかるのですが、イエスさまが来られるということは、今、このときの出来事であるということです。なぜなら、わたしたちは生きているのは、いつも今というときでしかありません。わたしが生きているのは、昨日でも、明日でもなく、今、今しかないのです。ですから、わたしが生きているところに死はなく、死があるところにわたしはないのです。ですからイエスさまが来られるのは、今というときをおいてないわけです。それが過去のことであったとしても、将来のことであったとしても、そのときはわたしの今なのです。そう考えると、12月25日にイエスさまが来られるということではなくて、今日この日この時がイエスさまが来られるときであることがわかります。つまり、今、このときが主の来臨、主の降誕、イエスさまの訪れのときだということです。12月25日だけを主の降誕として祝うのではなく、今このときをイエスさまの訪れのときとして生きられたら、わたしたちはどんなに幸せでしょう。

イエスさまはわたしたちを裁くためでなく救うために、ベトレヘムに来られました。そのベトレヘムは動物の糞だらけの汚い家畜小屋です。イエスさまが来られるのはきれいなベトレヘムではありません。そして、このわたしたちも糞だらけの汚い家畜小屋のようなものです。イエスさまは、日ごとの生業と労苦で右往左往して、欲のこころを起こし、人のことを怒り妬み、傷つけ恨んだり、悩み迷っている糞だらけのわたしのところへ来てくださるのです。そして、わたしたち一人ひとりに寄り添ってくださるのです。何の準備も、何もかしこまる必要もないのです。わたしのこころがけ次第で来てくださったり、来てくださらないのではない。黙想したから来てくださるわけではない。また信者だから来て、信者でないから来なかったりされるのではない。善人だから来て、悪人だから来てくださらないのでもない。わたしたちのこころがけの問題ではないのです。そのまんまのわたしのところへ、イエスさまは来てくださるのです。わたしたちは、イエスさまをそのまんまいただくことしかできないのです。堅苦しい態度も、小難しい理屈も神学もいりません。キリスト教は、一部の選ばれたひとたち、洗礼を受けた人のためにエリート集団ではないのです。この福音は全人類みんなのものなのです。

そして、今このときが主の訪れとなったわたしたちは、今度は他の人々のところへわたしのうちにいらっしゃるイエスさまをお連れするのです。わたしたちはそのイエスさまを、みことばにおいて、聖体の秘跡において、またわたしたちのうちにおられるイエスさまの現存によって、すべての人のところにイエスさまをお連れするのです。イエスさまはわたしのイエスさまがですが、イエスさまはすべての人のイエスさまです。そして、わたしのイエスさまはわたしを通して、人々のところにいきたいのです。それがわたしたちが出ていくということ、派遣されているということなのです。

王であるキリスト 勧めのことば

王であるキリスト 福音朗読 ルカ23章35~43節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は、年間最後の主日、王であるキリストの祝日です。イエスさまが王であるというのはどのような意味なのでしょうか。今日はそのことを考えてみたと思います。今日の福音の中で、十字架につけられているイエスさまの頭上には「これはユダヤ人の王」という札がつけられており、十字架につけられている強盗も「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」といい、イエスさまを王として仰いでいる姿が描かれています。普通、王さまがいるということは、国土があって、その国民がいるということになります。イエスさまの時代には、メシアの到来によって神の国が完成するという終末思想が広まっていました。そして、イエスさまご自身、「神の支配」を意味する「神の国」の福音を告げ知らされました。その福音のメッセージの中から、イエスさまがどのような神の国を考えておられたのかを垣間見ることができます。しかし、当時のユダヤ人の考えていた神の国は、あくまでもユダヤ教中心とした覇権主義的なユダヤ人の国家であり、そこに諸民族が集うようなものが考えられていました。そのような国には王さまと国民がいて、そして国土という国境線をもち、その時代の統治形態のもと、国民と国民でない人たちによってわけられている国家を意味します。

しかし、イエスさまが宣教された神の国とは、ユダヤ教という枠組みから出発しながらも、それまでの民族宗教をまったく超え出たものでした。その特徴は、ユダヤ人だけに限定されない、国境線をもたない、生も死も越えたまったく新しい世界であるといえばいいでしょう。イエスさま自身が「神の国は、○○にたとえられる」といわれ、神の国について定義されるということはありませんでした。それは神の国というと、人々は安易に、ユダヤ人の望みが叶い、ユダヤ人の国家が再興され、国民の生活が安定し、その生活が保障されるようなものとして錯覚することを避けるためでした。イエスさまの話された神の国は、ユダヤ人の望みが叶うようなものではなく、またわたしたちの望みが叶うようなものでもありません。国家や領土というような場所とか時代の影響を受けるものではなく、またわたしたちが考えるようなこの世での安寧や死後のいのちを保証するような楽園でも天国でもありません。わたしたち人間はどこまでいっても、自分を中心にしたものの見方しかできません。ですから、神の国について考えるとき、自分たちの望みや願いが叶うようなものとしてしか捉えることができないのです。

そして、自分たちは救われたものとして、神の国の住人であるかのような顔をして、救われていない人に教えを説くという発想になりがちです。よく、カトリックでは、洗礼を受けていない人を未信者といういい方を平気でしていますが、それは、自分たちは洗礼を受けて信者になっているが、あの人たちは未だ洗礼を受けていない、可哀そうな救われていない人たちという前提に立ったいい方です。どの宗教でもそうですが、救われた人と救われていない人、洗礼を受けた人と洗礼を受けていない人、助かった人と助からない人という区別を設けて、自分たちはどこまでも救われた側に立ち、人を助ける側、救う側に立とうとします。これは人を助ける立場に立ちたいという我執から出てくる欲に他なりません。人を助ける立場に立つということで、自分が上に立って救われた立場に安住する、これは宗教のもっとも醜いありさま、迷いの姿に他ならないのです。同じ教えや信仰を共有して満足していく、それは閉鎖的な宗教集団であって、そのようなものを救い、神の国といえるでしょうか。このような自己満足、また集団満足に安住しないということが、救いの道を求める、神の国の建設のために働くということではないのでしょうか。

ですからイエスさまは、神の国の到来を告げ知らされましたが、同時に皆が考えているような神の国の国境を破壊し、神の国の住民登録をなくし、神の国そのものの概念を破壊されたのです。イエスさまご自身が王であることを否定し、十字架によって神である自分自身をも否定されました。神の国は、「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです(ガラ3:28)」というパウロの言葉が実現されたのです。つまり、いかなる区分も差別もない、すなわち国家、身分、性別、学歴がない、救われたものと救われないもの、救うものと救われるものという区別さえ存在しない、もちろん宗教もない、カトリック教会もない、キリスト教もない、そのようなありかたが神の国なのです。イエスさまの死と復活によって、今、その働きがわたしに届いている姿が神の国なのです。

宗教の根本的な使命は、自らがなくなることにあります。自分の宗派の教勢を広げることを目的としているのであれば、それは本当の宗教ではありません。宗教は真実、真理、真如を指し示す指月の指であって、うちの宗派がどう、うちの教会がどう、うちの宗教がどうということが目的にならない、これが本来の宗教です。ですから神の国は、すべてのものにとっての真理だといえるでしょう。イエスさまはその生涯、特にその死と復活によって、イエスさまの働きが一定の場所と時間にしか及ばないという限界を破壊し、すべてのときすべてのところをご自分のいのちと光で満たされました。もはや、その光が届かないというところがない、影というものがない、全宇宙の隅々までその光といのちで満たされたということなのです。ですから神の国はいつ実現するとか、どこかにあるという話ではなく、イエスさまはこの宇宙すべてを満たす働きとなられたということなのです。別の言葉でいえば、イエスさまは十字架の死と復活によって、王であり神であるご自身を否定することによって、神の国の国境をなくし、神の国自体を破壊することで、すべての生きとし生けるものをその働きで満たし、すべての時代にすべての場所に、イエスさまのいのちが、光が届けられている姿が神の国なのです。

「実に、神の国はあなたがたの間にある(ルカ17:20)」のです。しかし、わたしが自分の世界に閉じこもって、自分の頭で理解しようとしている限り、神の国の秘義はわたしにとっては明らかになりません。それにも関わらず、神の国はわたしたちに届いており、その真実に目覚めよと叫ぶ声が届けられているのです。その状態、その働きを指して、神の国というのです。そこには、もはやわたしたちが考えるような国土も国民も王もいないのです。イエスさまはもはや王としてではなく、わたしたちのひとりとして、友としておられるのです。

年間第33主日 勧めのことば

年間第33主日 福音朗読 ルカ21章5~19節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日はイエスさまが、終末について語られる箇所です。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか」と問う人たちに対して、イエスさまは「世の終わりはすぐには来ない」と答えられました。当時の歴史観は、飢饉とか戦争、暴動が起こり、試練を通してメシアが来臨して、イスラエルの民が再興されるというものでした。そのメシアはダビデの子と呼ばれ、ダビデのような理想的なイスラエルの民の指導者であり、その指導者のもとイスラエルは国家を再建し、理想的な支配が確立されるというものでした。ですから、終末といっても、イスラエル民族を中心とした国家の再興であって、その統治の下にすべての民族が入ってくるといった、非常にユダヤ覇権主義の強い思想でした。弟子たちがイエスさまに期待していたのは、そのような強い指導者であり、いつくしみぶかく、十字架上で無力のうちに亡くなっていく弱いメシアではありません。ですから、イエスさまの十字架上の死は、当時の人々にとっては、失敗、挫折であって、メシアの来臨は叶わなかったというのが人々の理解でした。当時の人々は、終末というものを、ある時間と空間の中で起こることとして理解するしかできませんでした。ですから、「いつ、どこ」でということが問題になったわけです。

ルカの教会は、ローマ帝国によるエルサレムの陥落、神殿の破壊を知っている教会です。エルサレムの神殿は、当時のキリスト者にとっても信仰のよりどころでした。ですから、この出来事をどのように理解していくのか考えざるをえませんでした。そこで当時の教会は、当時のユダヤ教の終末思想をもとに理解していこうとするのです。ですからキリスト教の中では、イエスさまの到来、その生涯、その死と復活に終末が始まり、イエスさまが再臨されることで、神の国が完全に到来すると考えたのです。これがイエスさまの再臨、私審判(個人の死)、最後の審判という終末論となり教会の教えとなっていきました。当時の教会は、終末をあくまでも時間の流れの中で起こることとして理解していたのです。しかし、このような形での終末は到来しませんでした。なぜなら、このような終末理解は、永遠である神さまを時間と空間の中に押し込めた、その時代の中の限界ある歴史観にすぎなかったからです。カトリック教会では、終末理解が再解釈されていくとはいえ、それを今日でも同じように教えているわけです。ですから、1000年のとき終末が来るとか、2000年のとき終末が来るというような陰謀論が広まったのです。

今日、科学や物理学の発展によって、宇宙の成り立ちや時間と空間について新たな発見、解明がなされています。その現代において、旧来のカトリック教会の教えは非現実的なものとなっています。教会の教えは現実の社会から遊離したものとなり、教会の教えは教会の教え、この世の現実は現実という割り切りがキリスト者の信仰生活の中に蔓延してしまうというのも無理はありません。教会の教えは綺麗事であって、わたしたちの人生には何の影響も与えないとなってしまうのが現実です。

もうひとつの問題は、このような終末についての教えの根底にあるのは、当時の人々が期待していた、現世での個人の生の充足、民族の充足、いうなれば幸せな生活、完成された世界を終末として捉えているということです。これは、実はこの世の生活の充実が人間の第一の目的だと考えている現代人と同じ考え方です。結局は、自分にとって幸せで有意義な人生や国家を築き上げるということが、目的になっています。キリスト教はといえば、このユダヤ教の終末思想を少しだけ修正し、その目的を時間的に延長し、それを来世に設定しただけに過ぎません。たとえ、それがキリスト教化された終末についての教えであったとしても、時間的流れの中で、キリスト教という枠組みの中だけでの充足を考えているのであれば、それは根本的に違うのではないでしょうか。この世の、あるいは来世のいのちの充足が目的だと考えている個人、宗教、信仰であれば、それはいのちの本来のあり方に背いたものであって、真の宗教とはいえないように思います。真の宗教というものは、夫々の宗教の教えや自己中心的な立場を超えて、すべての生きとし生けるもののうちに働いている普遍的ないのちそのものの真理であり、その真理に己をまかせていくというものではないでしょうか。それが、自分の人生、自分の国、自分の宗教、自分の信仰だけで完結しようというのであれば、それは宗教本来のあり方とはいえません。また、自己の救いを目的としているのであれば、それは人間としてのあり方としても偏ったものであるといわざるを得ません。それらは、結局は自我が作り出した幻想であって、イエスさまの願いとは異なっているのではないでしょうか。

一方で、わたしたちは自分のこと、自分の近くにいる人のことからしか考えられないのが現実です。わたしたちが大切に思ったり、悲しんだりするのは、自分と自分の近くにいる二人称のだれかであって、いくら地球の裏の人々のことも同じように大切にしましょうと叫んでも、それは言葉だけであって、わたしの近くにいる人と同じように大切にすることなど不可能なのです。わたしたちは、時空を超えてイエスさまがされたようにすべての人に関わることも、平等に接することなど出来ないのです。わたしたちの中にあるのは、まずわたし、そして大切な人、嫌いな奴、そしてどうでもいい人々です。世界の人々を同じようにといっても、出来ないのです。まずは、その人間としての限界、悲しみを謙虚に見つめていくことが必要なのではないでしょうか。わたしたちは自分を中心にした世界を作りだしているのであり、その世界は虚構であって、真実ではないのです。結局のところ、わたしのことからしか考えられないというわたしの痛み、悲しみを見つめるとことからしか始まらないのではないでしょうか。そして、このような個人の救いというものに囚われているわたしたちが、わたしの救いから解放されることが、まことの救い、終末なのではないでしょうか。

結局、この度し難いわたしがどうにかならない限り、世界が幸せになることもない、本当の意味で世界が、わたしが幸せになることもないということだと思います。ですから、終末はわたしたちの救いのためにあるのではなく、今、生きているわたしに対する問いかけとして存在するのだと思います。

ラテラン教会の献堂 勧めのことば

ラテラン教会の献堂 福音朗読 ヨハネ2章13~22節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日はイエスさまのエルサレムの神殿の清めの物語です。マタイ、マルコ、ルカの共観福音書では、エルサレムの神殿の清めは、イエスさまの宣教活動の終わりごろ、エルサレム入城後の出来事として描かれています。しかし、ヨハネは宣教活動の始めの出来事として描かれます。いずれにしても、イエスさまのエルサレムの神殿への批判、ユダヤ教の信仰形態への問題提起ということがテーマになっています。それは同時に、わたしたちの信仰形態、またわたしたちが現在抱えている教会制度を問うということでもあります。

当時のエルサレムの神殿は、ユダヤ人たちの信仰の最大の拠り所でした。過越祭、七旬祭、仮庵祭の年3つの大祭にエルサレムの神殿に巡礼し、そこで生け贄を捧げることがユダヤ人の大切な信仰行為でした。特に過越祭はもっとも重要で、自分たちの祖先が神の導きによって、エジプトから解放されたというユダヤ人の民族的アイデンティティにつながる大切な祭りでした。過越祭のときは、多くのユダヤ人がエルサレムに巡礼し、町はごった返していました。そして、神殿でたくさんの生け贄がささげられ、献金することは、ユダヤ人にとっては大切な信仰の表現であったわけです。お稲荷さんにお参りにいって、ろうそくをあげて、油揚げを捧げて、お賽銭を投げるようなものです。しかし、そこにはいくつか問題がありました。先ず生け贄にする牛や羊、鳩を、家から連れてくるのは大変なことでした。何日もかかってエルサレムに巡礼してくるわけですから、その旅に牛や羊を連れてくることは大変手間がかかることでした。また、エルサレムの神殿でお賽銭をあげるわけですが、当時のユダヤではローマの貨幣が使われていましたが、異教の貨幣は不浄であるとして、神殿用の貨幣を使わなければなりませんでした。ですから、エルサレムの神殿の境内には、生け贄の動物を売るお店や、神殿用の貨幣に両替するお店が軒を並べていたわけです。伏見のお稲荷さんにお参りにいくと、参道にろうそくや油揚げが売られているのと同じです。

イエスさまはそれらをひっくり返し、商売をするものを追い出されたわけですから、何をするんだということになるわけです。ここでイエスさまが問題提起されたのは、まことの礼拝とは何か、まことの信仰は何かということでした。当時のユダヤ人は、エルサレムの神殿に巡礼し、いわゆる本山詣でをし、生け贄をささげ、献金をすることが、自分たちの信仰の熱意を表すことだと考えていました。わたしたちも、例えば毎週ミサに欠かさず出席するとか、決まった祈りを唱え、信心業を熱心にするとか、決められた献金をするとか、一生懸命ボランティア活動をするということが、いわゆる信仰深いよい信者さんであると教わってきたかもしれません。確かに、それらは信仰心から出てきたことかもしれません。しかし、イエスさまが指摘されたことは、それが本当の信仰ということなのか、まことの礼拝ということなのかということです。

イエスさまの時代に何が起こっていたかというと、信仰、礼拝の形骸化ということでした。確かに、それらの行為は素朴な信仰心からできたものかもしれません。しかし、いつの間にかそれらは形だけの礼拝、制度、組織となり、こころが伴わないものになっていったということです。そればかりか、形式主義になっていくと、それをやっているということで慢心に陥り、かえって我が強くなり、それを信仰熱心であることと勘違いするようになるということです。これはわたしたちにも容易に起こってくることなのです。

詩編51に「あなたはいけにえを望まれず、燔祭をささげても喜ばれない。神よ、わたしのささげものは打ち砕かれたこころ」とあります。まことの礼拝は、いけにえを捧げるという決められた儀式をおこなうことではなくて、「わたしの打ち砕かれたこころ」「悔い改めるこころ」だといわれます。儀式という形式ではなくて、わたしたちのあり方だといわれるのです。イエスさまは「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」ともいわれました。神殿もいけにえも、わたしたちが神さまと出会うための手段、場にすぎません。しかし、イエスさまは、わたしたちと神さまの出会いのためには、もはや神殿という建物やいけにえという形式はいらなくなるといわれたのです。

わたしたちが容易に勘違いしてしまうことは、わたしたちが何かをすれば、どこかの場所へ行けば、神さまと出会うことができると考えてしまうことです。確かに、わたしたちが神さまとの出会いを乞い求めていかなければなりません。しかし、わたしたちに神さまと出会いたいというこころを湧き立たせ、また出会いのための場を差し出してくださるのは神さまなのです。わたしたちの中に神さまへのあこがれ、渇きが生じますが、わたしたちに神さまへのあこがれ、渇きを与えになるのは神さまです。そして、イエスさまが人間となってわたしたちのところに来られたこと、イエスさまがわたしとなられたことによって、わたしの中に神さまとの出会いの場が設けられたのです。つまり、わたしたち人間が神さまとの出会いの場とされているということなのです。わたしたちの中にイエスさまが生きておられ、わたしたちはそこでイエスさまと出会い、信仰を生き、礼拝するのです。もはや神殿もいけにえもいりません。それがイエスさまの復活ということであり、まことの礼拝するものは、真理と霊をもって礼拝するといわれたことなのです。

イエスさまは、ユダヤ教が神殿宗教に成り下がっていることを厳しく批判されました。ということは、カトリック教会も神殿宗教になってしまうことを厳しく戒められているということなのです。教会は神殿となってはならないのです。イエスさまのからだ、つまりわたしたちが聖霊の住まい、わたしたちのうちに神が現存されているということをいわれたのです。イエスさまによって生かされている人間わたしたちが、神さまとの出会いの場、信仰の場、礼拝の場なのです。それなのに、いつのまにか制度や建物、組織が神殿になっていないか、キリスト教が神殿宗教になっていないかということが問われているのです。これこそ批判されなければなりません。ですから教会の献堂自体、イエスさまの思いに反することなのです。まことの神殿は、生きているわたしたちであり、まことの礼拝はわたしたちの生き方なのです。

死者の日 勧めのことば

死者の日 福音朗読 ヨハネ6章37~40節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

カトリック教会では、11月は死者の月といわれ、11月2日は死者の日となっています。今年は11月2日が日曜日になりましたので、日曜日ですが死者の日のミサがささげられます。日本のお盆のようなものです。でもよく考えてみると、死者というのは一体何なんでしょう。

人類はその誕生以来、死というものと向き合ってきました。それは、死が人類最大の謎だったからです。偉大な哲学者や宗教家は、この死という謎と向き合ってきました。しかし、誰一人として、死が何であるかを解明した人はいません。なぜなら、人類は、生きている人で誰も死を体験した人はいないからです。多くの宗教は、死と死後について様々に語ってきましたが、それらについて話しているのは、すべて生きている人たちなのです。生きている人が、死と死後について語っているのです。よく考えるとおかしなことではないでしょうか。そもそも、生きている人がどうして死について語ることができるのでしょうか。また、それが真実だとどうしてわかるのでしょうか。教会が教えているからでしょうか。この世界の中で、死について問題にしているのは人間だけで、他の動物も植物も死について考えていません。同じ生命体なのになぜでしょうか。

「わたしは復活であり、いのちである。わたしを信じる者は、死んでも生きる。また、生きていてわたしを信じるものは決して死ぬことはない。このことを信じるか(ヨハネ11:26)」とイエスさまはいわれました。この個所は、イエスさまが自分を信じるものに、死後の永遠のいのちを約束したように説明されています。しかし、そうでしょうか。イエスさまは、わたしを信じるもの-つまり生きているもの-は死なない、生きているものは死を体験することがないという至極当然のことをいわれただけではないでしょうか。わたしたちは死が存在すると考えています。しかし、生きているもので誰も死んだものはいないし、死を味わったものも死を体験したものはいません。わたしたちが知っているのは、二人称、三人称の死なのです。一人称であるわたしは、死を体験することはできないのです。そのときわたしはいないのです。

三人称の死とは、わたしたちにニュースや情報として入ってくる死者の数です。死者の数とは死体の数なのです。二人称の死はわたしたちの親しい人、知っている人の死です。このときにわたしたちは、大変悲しみます。この二人称の死も、三人称の死もわたしたちは死体があるときに死んだといいます。親しい人がただいなくなったのであれば、それは行方不明として、その人が生きているといいます。だから、捜索願を出したり、探しにいったりするのです。わたしたちは、死体があることで死を確認した気になっていますが、それは死体であって、死体は死ではありません。

そもそも、わたしは死というもの体験することはできないのですから、わたしが生きているときに死はありえないのです。その反対に、死が存在するとわたしは生きていません。だから、わたしが生きているということは、死なないという当たり前のことをイエスさまはいわれたのではないでしょうか。ですから、イエスさまがいわれたことは、わたしを信じるものは生きているものだ、そして、生きているものには死はないと当たり前のことをいわれたのです。事実、イエスさまは「神は死んだものの神ではなく、生きているものの神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである(ルカ20:38)」といわれました。また、イエスさまは、「死んでいるものたちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたはいって神の国をいいひろめなさい(同9:6)」といわれ、死んだもののために何かをするとか、葬りをおこなうことを相対化されました。なぜなら、死があると思っているのは人間の錯覚だからです。二人称の死に寄り添うということが、宗教の中に取り入れられたのです。

わたしたちは、二人称と三人称の死体を見て、それが死であると錯覚しているだけなのです。たぶん、他人が死ぬのを見て、死がわかった、死を見た、死を知っていると思ってしまっているのです。自分が死ぬということを誰もまったくわかっていないのに、それをわからないままに、死体を見てそれを死と呼び、動いているもの生きているものを見て、生と呼んでいます。しかし、わたしたちは生きているということを、意識することはできません。わたしが呼吸しなければいけないと思って呼吸しているわけではない。食べ物を消化して栄養にしようと思って、消化しているのではない。心臓を動かして体中に血液を送らなければいけないと思って、心臓を動かしているのでもありません。つまり、わたしたちはだれも自律的に生きているわけではなく、意識的に生きているのでもないのです。ただ、そうなっている。それが生であり、それが動かなくなるとき、動かなくなるだけなのです。だから、誰も自分で生きている人はいないし、自分で死ぬ人もいないのです。人間にとって生死は便宜上の言葉であって、ただそうなっている、自然ということなのです。人間といえども、自然の一部です。自然は生死を当たり前に生きているのです。それに逆らっても仕方ないし、無理する必要もないのです。

イエスさまが十字架の上で死んだといっても、その死にざまはイエスさまの生き方でした。そして、死んだイエスさまは、人間は皆、生きて死ぬという当たり前の事実をわたしたちに見せただけなのです。死後のいのちがどうとか、永遠のいのちがどうだとか、そんなこと誰も死を説明できないのに、どうして死後があるなどということをいえるのでしょうか。生きていて死を体験したことがない人が、どうして死の世界や死後を語るのでしょうか。宗教だからゆるされているのでしょうか。死の世界や死後のことは、あくまでも生きている人間が期待していることなのです。イエスさまは、はっきりと「神は死んだものの神ではなく、生きているものの神だ」といわれました。実は、イエスさまは死後のことについて、何も話しておられません。イエスさまは、「すべての人は、神によって生きている」といわれ、イエスさまがいわれた永遠のいのちは、われわれを生かしている神のいのちのことであって、死後のいのちのことではありません。お釈迦さまだって、死については何も語られませんでした。宗教は生きている人たちのためのものです。死者のためではありません。宗教はいのちの真実を告げるものであるのに、死後の世界のための教えにしてしまったのです。11月は死者の月だといいますが、これは二人称、三人称の死を体験した家族や親しい人、生きている人が、自分が生きているということはどういうことなのか、何なのかを考えるための月なのではないでしょうか。死んだ人が、わたしたちに何かを期待しているなんてことはありません。

年間第30主日 勧めのことば

年間第30主日 福音朗読 ルカ18章9~14章

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日のたとえは、ファリサイ人と徴税人のたとえ話です。ここでは、祈りにおける自己認識という問題を取り上げています。分かりやすいたとえのようですが、ことはそれほど簡単ではない難しい問題を含んでいます。確かに、奪い取るものでないこと、不正を行わないものであること、姦通を犯すものでないことは善いことであることをわかっています。週に2回断食し、収入の十分の一を献金することも善いことに違いありません。そこでよく考えてみると、ファリサイ人の祈りというのは、わたしたちの思いでもあるということがわかります。あそこまで露骨にいわなくても、わたしたちは教会の掟を守って、善人になる努力をして、ミサに行って、献金もきちんとしています。ですからイエスさまは当然、わたしたちを善い人間として、義としてくださると思っているということではないでしょうか。だれでもが善いものでありたい願いますし、実際にそうでしょう。わたしは悪人であると開き直る人もいますが、大抵は善い人間になりたいと思っています。それは、わたしたちは、善いことをする人は救われ、悪いことをすれば罰せられると思っているからではないでしょうか。つまり、わたしたちは自分の生き方で、救いが決まってくると考えているのです。だから、悪い人がのさばっているのは許せないし、戦争をする人や犯罪をするものは許されない、この世は勧善懲悪の世界であるべきだ、そして当然、神さまもそう思っていると考えているのではないでしょうか。

しかし当時、罪人とされていた徴税人は、自分の徴税人としての身分を変えることは容易なことではありませんでした。現代でも、戦争に行きたくないと思っていても、国から徴兵されれば戦争にいき、人を殺す側にならざるを得ません。戦場では、殺す側にならなければ、自分は殺される側になってしまいます。また、だれも酷い親や家庭に生まれたいと思う人はいません。しかし、わたしたちは選べないことがたくさんあるのです。もし、今わたしたちが、キリスト者で、教会に来られていて、イエスさまのことばを聞く機会に恵まれているとしたら、それはわたしの手柄ではないのです。ただ、そのような縁に巡り合わせていただいただけなのです。いくら善人でありたいと願っていても、自分の身を自分で決められないことが起こってきますし、皆それぞれに業を背負っています。生まれた状況や立場によって、善悪はころころと変わっていきます。わたしたちは殺したくないと思っていても殺す側になったり、殺される側になってしまうことがあるのです。その最たるものは戦争でしょう。わたしたちは、状況が変われば、生まれた国や身分が変われば、何をしでかすかわからない不気味で不安定な存在なのです。わたしたちは、今、奪い取るもの、不正を行わないもの、姦通を犯すもの、殺すものでないかもしれません。しかし、それはたまたま神さまの恵みでそうであって、善人の顔をしているけれど、状況が変われば何をしでかすかわからない存在なのです。外面は善人の顔をしていても、自分はあの人や他の人よりはましだとこころの中では思っている、そしてこころには怒り、腹立ち、そねみ、ねたみが蠢いている、そのような地獄を抱えているのがわたしではないでしょうか。そして、自分は救われたいが、嫌いなあいつは救われてほしくないと願っている存在なのです。善をおこなわなくていいといっているのではありません。自分はまともだ、自分は正しい、自分は善人だと思っていること自体が迷いなのであり、イエスさまの救いに背を向けていることに他ならないのです。

今日のたとえ話を注意深く読めば、イエスさまによって見抜かれているわたしがいることがわかります。わたしはいかなる善行や祈り、犠牲によって救われる身ではない、そのままであれば地獄行きの身であることを何とかかばって隠そうとしている、そのような身であることをイエスさまによって見抜かれているのです。キリスト者といいながらイエスさまと表面的な駆け引きの世界に沈んでいるわたしがいるだけなのです。わたしたちは誰一人として、イエスさまにわたしは慈しんでもらうに値するものだとはいえないのです。自分こそは正しいと思っていること、それ自体が迷いであり、自分が地獄を作り出している身なのです。そのわたしがイエスさまのすべてを超えた憐れみに触れるときに、はじめてわたしが何ものであるかに気づかされるのです。世界中の人が救われても、わたしは救われないのだ、ということが見えてくるということでしょう。わたしたちは、「イエスさま、罪人であるわたしを憐れんでください」としかいえない身であることがわかるのです。そして、この救われがたいわが身を必ず救うと誓われたイエスさまがおられたということが知らされ、そのイエスさまの真実と出会わせていただくのです。このイエスさまの真実に出会わせていただくことによって、わたしたちは本当の自分、イエスさまによって永遠に愛されている、同時に永遠にゆるされている罪人であるわたしを発見させていただくのです。

わたしたちは、果たして「わたしとイエス」という真の、個人的な出会いをしているでしょうか。確かに、ミサにいく、祈りもする、教会の教えを守っているかもしれません。しかし、こころの目でイエスさまがどれほどの愛をもってわたしをご覧になっておられるか体験しているでしょうか。本を読むとか、神学の勉強をするとかではなく、わたしたちのこころに生きておられる、生きたイエスさまと出会っているでしょうか。わたしのうちに生きておられるイエスさまは、わたしにご自身を与えたいと熱く願っておられるのです。これは単なる考えではないのです。イエスさまはあふれるほどの愛を与えたいと、こころから願っておられるのです。そのイエスさまと日々親しく出会うようにしてください。そのとき、わたしはイエスさまに限りなく愛されているわたし、イエスさまによってゆるされている罪人であるわたし、しかしながら救われているわたしに気づかせていただけるのです。わたしたちは、イエスさまに出会うことなしに、自分の身を知らされることもないし、本当のイエスさまを知ることもできないのです。そのことがわからないのであれば、イエスさまにその恵みを願ってください。わたしたちは、イエスさまとの真実の出会いを渇き求めていきたいと思います。

年間第29主日 勧めのことば

年間第29主日 福音朗読 ルカ18章1~8節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の福音はわたしたちに、気を落とさずに絶えず祈ることの必要性について語っています。そこでまずわたしたちが思うことは、「絶えず祈る」ということが果たして可能であるのかというでしょう。そのためには祈りということを、正しく理解していくことが必要になってきます。ここでイエスが絶えず祈れといっても、一日中聖櫃の前に座っているとか、ロザリオの祈りを絶え間なく唱えることを勧められたとは思えません。だからといって、「自分の活動はすべて祈りです」的な自分の活動を美化し、正当化する傲慢なあり方をイエスが勧めたとも思われません。ではイエスさまが絶えず祈れというとき、一体何を意味しているのでしょうか。それともイエスさまは、わたしたちに実現不可能なことを要求しておられるのでしょうか。

そのヒントは、「不正な裁判官とやもめ」のたとえの中にあるのではないかと思います。そのたとえの中で、神を畏れず人を人とも思わない裁判官にしつこく訴えるやもめの姿が描かれています。しつこく食い下がるやもめの訴えに根負けして、裁判官はやもめのために裁判をするようになります。不正な裁判官がやもめの訴えを取り上げるのは、正義からではなく、あのやもめが「うるさくて、ひっきりなしにやってきて、わたしをさんざんな目に遭わせるにちがいない」と考えたからなのです。

イスラエルの社会では、やもめという身分は非常に弱い立場で、法的な保護を受けることがほとんどできない、人々から、特に男性から暴虐と搾取の格好の対象でした。イスラエルでは、女性にいかなる社会的身分の保証もなかったのです。ですから、人々はやもめの財産を搾取したり、借金の方にやもめやその子どもを売り飛ばしたりすることは決して珍しくなかったのです。だから、やもめが求める訴訟というものは、自分と自分の生活を守るためのものだったのです。裁判官が訴えを取り上げて、自分を守ってくれなければ、やもめは次の日から生きるのに困るのです。いくら裁判官にうるさいと思われたとしても、彼女にとっては生きていくために必要なことであり、なりふりなどかまっていられず、まさに生きるための戦いでした。ですから、やもめは寝ても覚めても裁判のことしか頭にはなく、裁判官に必死で食い下がるのです。今、やもめにとってこの訴えを取り上げてもらうために裁判官に食い下がることが生きることであり、彼女のすべてになっていました。つまり、この裁判官に向かっていく必死な関わりが、やもめの中で生きていくということ、ひとつの習性、存在のあり方になっているのだといえるでしょう。

イエスさまがわたしたちに、絶えず祈りなさいといわれるとき、わたしたちに求めていることは、神さまとわたしとの関わりが、あたかもひとつの生きた習性、存在のあり方となるまで、その関わりを深めていくことの必要性をいっておられるのではないでしょうか。確かに、神さまはどこにでもおられ、わたしたちのこころの中に救い主として、親しい友人として現存されています。ですからわたしたちはいつでも、どこでも絶え間なく神さまの大いなる生命の中にいて、その生命の中に生きているのです。しかし、この神さまとの関わりはわたしたちの側から求めて深めていかない限り、神さまのわたしたちのうちにおける現存は単なる神学的な教え、絵に描いた餅になってしまいます。

その関わりを深めていこうとする態度は、あたかも母親がやがて生まれてくるであろう子どものために、自分のお腹の中にいるときから、その子どものために時間と労力を割いて養い育てながら母親となっていくのと似ています。誰も生まれながらに母親であるものはいません。母親は子どもを胎内に宿したときから、子どもと関わり、少しずつ母親になっていくのです。そして、母親はいつでも、どこでも絶えず子どものことを思っているようになっていきます。寝ても覚めてもいのちのある限り、子どものことが母親にとってすべてとなっていくのです。自分と子どもが一緒にいないときであっても、母と子という関わり、しっかりとした絆ができていますから、母も子も安心していられるのです。この母と子という関わり、絆ができている状態、これが絶えず祈れといわれたことなのです。大切なことは、誰も生まれながら、すぐに自動的にこのような状態にはなれないということです。母親になるということは、決して自動的ではありません。子どものために時間と労力を割いて子どもに関わっていくこと、それによって母親になっていくのです。それに、いつもいいことだけではありません。あるときには、もうすべて投げ出したいと思うようなこともあるかもしれません。しかし、もし母親が母親であることを止めてしまったらどうなるでしょうか。新しい生命は、子どもは育たないのです。これがわたしたちの祈りにおいても同じことがいえます。わたしたちの側から神さまへ関わっていかなければ、神さまはおられたとしても、その関わりはなく、死んだも同然なのです。からし種を大事にとっておくようなものです。わたしたちが親しいといっている人と、一週間に1時間、一日に2、3分しか関わらないというのであれば、その相手はわたしにとって、そんなに親しい人とはいえないのではないでしょうか。わたしたちの祈り、イエスさまとの関わりは、そのようになっているのではないでしょうか。それではイエスさまと親しくなることはできません。

わたしたちが神さまに向かって、今日のやもめのように必死に関わっていき、その関わりがあたかもそひとつの習性、わたしたちのあり方となっていくまで、神さまとわたしたちのあいだで、その関わりは深められていかなければならないのです。信頼に満ちた愛の絆が深められていくとき、その関わりは絶え間のない愛に満ちた相手への思い、気遣いとなっていきます。そして、お互いにただ相手の願いを果たしたいと望むようになっていくのです。そのときわたしたちのすべての活動は、宣教であり、祈りであるといえるようになるのでしょう。しかし、これは、祈りの生活の頂点においておこることで、わたしたちはそれからはるかに程遠いことを自覚しなければならないと思います。ただ、わたしがなんであってもなくても、わたしたちのうちにイエスさまが現存されているのですから、わたしたちにまず求められることは、わたしたちが関わるべき方をまずよく知ることです。これが学びです。

イエスさまはわたしたちをしもべとは呼ばれず、友であるといわれました。イエスさまのことを知ることなしに、イエスさまと関わることも、愛することもできません。母親が子どもと関わることで母親となっていくように、わたしたちもイエスさまと関わっていくことでイエスさまの友となっていくのです。そのために先ず、そのイエスさまを知ること、知れば知るほどその方のことが好きになります。好きになるのでもっと知りたいと思うようになります。この関係ができてくればしめたもので、イエスさまはわたしにとってかけがえのない方、親友となっていきます。わたしたちにとって大切なことは、先ずイエスさまのことを知って好きになることです。そして愛し始めること、それがすべての祈りの生活の始まりなのです。

年間第28主日 勧めのことば

年間第28主日 福音朗読 ルカ17章11~19節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は先週に引き続いて、信仰という問題を取り上げます。神さまから与えられた恵みである信仰が、どのようにわたしのこととなるのかというテーマです。イエスさまは、重い皮膚病を患っていて、癒された人に、「あなたの信仰があなたを救った」といわれました。それは、10人の病人が癒されて、イエスさまに感謝するために引き返してきた、ひとりのサマリア人だけが救われたという意味ではありません。また、このサマリア人だけが深い信仰心をもっていて、それでその人が救われたという意味でもありません。それでは、イエスさまがいわれたのはどういうことでしょうか。

当時、レビ記で規定されていた重い皮膚病は、不治の病で一度罹れば治るということがない病として恐れられていました。ですから、この病人たちは、この病は人間の力ではどうすることもできないことを心底分かっていました。そうすると、人間はどうするでしょうか。おそらく、人間の力を超えた特別なものにすがろうとします。それが当時、不思議な癒しの力をもっていると噂されていたイエスさまだったのです。ですから、彼らはイエスさまがお通りの際に、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と叫び声をあげます。彼らは、自分たちは憐れんでもらうことしかできない存在であることを心底分かっていたのです。自分で頑張ってとか、一生懸命お祈りしてとか、信仰深くなってとか、そんな自分の力ではどうすることもできないことを知っていました。彼らは自分たちの病気を治してもらいたいただその一心で、イエスさまにすがります。それ自体は信仰でもなんでもなく、自分の病気を治してほしい必死な願い、生きたい、治りたいという欲でした。多くの説教で、彼らが癒されたのは、彼らはイエスさまに必死に治してくださいと願ったその熱心さが信仰であると説明されることが多いと思います。でもそれだけなら、よくある奇跡物語で、お稲荷さんでも、観音さんを信心するのでもいいわけです。そのような信仰は、ただの人間の願望でしかありません。その願いは、どこまでいってもわたしたちの欲であって、そのようなものは信仰とはいいません。また、救いと病気が治るということは無関係なのです。

大切なことは、今まで病気が治りたい一心でイエスさまにしがみついていた人が、自分の病気が癒されたことをきっかけにして、わたしたちを生かし、わたしを必ず救うと仰っているイエスさまと出会ったということなのです。自分のことで精一杯で、自分のことしか考えられない、ただ自分の病気を治したい一心でイエスさまにすがっていただけの彼らのこころに、人類を生かし、あなたを必ず救うというイエスさまの誓いが、憐みが入ってきたということなのです。ですから、彼らが「イエスさま、わたしたちを憐れんでください」と叫ぶ前に、人類を生かし、必ずあなたを救うというイエスさまの救いの誓いが、憐みがすでにあったということなのです。そして、そのイエスさまの救いの誓い、憐みが、彼らのこころに信仰として届いたということなのです。ですから、「あなたの信仰があなたを救った」といわれている病人の信仰は、病人の信仰ではなく、あなたを必ず救うというイエスさまの救いの誓い、そのイエスさまによって生かされていたことへの気づき以外の何ものでもありません。信仰とは、イエスさまの人類を一人残さず救わないではいられないという誓いが、わたしたちのこころに信仰として振り向けられたものであり、その信仰がわたしの信仰となるときに、その信仰がわたしを気づかせる、救いを体験するということなのです。救いは死んでからのことではありません。わたしを救うといわれているイエスさまと、今というこのときに出会うこと、そのことに気づくこと、それが救いなのです。死んでから天国に行くとか、そういう話ではありません。

わたしが何をしたからとか何をしなかったからとか、わたしが信じたとか信じなかったとかではなく、先ずわたしと出会いたいと願っておられるイエスさまがおられて、そのイエスさまと出会うこと、あなたを必ず救うと誓われたイエスさまのこころに触れること、それが救いなのです。わたしの中にはイエスさまによって救ってもらえるようなものは何もない、ただわたしを必ず救うと誓われたイエスさまの声が聞こえていること、そのイエスさまのこころを頂くこと、それが信仰に他なりません。わたしが救われるために、自分のこころを見つめ、こころを整えて自分の生き方を見直し、わたしが悔い改めたとか、善行をして功徳を積んだとか、祈りを何度したとか、そんなことではないのです。わたしのすることなどイエスさまの救いには何の価値もないことに気づき、ただわたしを救うといわれたイエスさまの誓いだけが真実であることに気づき、そしてその誓いにわが身を任せること、それが信仰なのです。重い皮膚病を癒された9人の人たちは、自分が救われているということに気がつかないで行ってしまいました。しかし、ひとりのサマリア人だけが自分は救われているということに気づいて、イエスさまのところに感謝するために帰ってきました。それでイエスさまは、「あなたの信仰があなたを救った」、あなたはすでに救われているのだと宣言されました。それは、ああ~わたしは救われていたんだということに、気づいたということなのです。信仰は、イエスさまからその真実がわたしたちに振り向けられたものであって、わたしが作り出せるものではありません。イエスさまの救いの声がわたしに届いていること、それがわたしのこころにイエスさまへの信仰を引き起こすのです。

年間第27主日 勧めのことば

年間第27主日 福音朗読 ルカ17章5~10節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は信仰をどのように捉えるかという問題です。弟子たちが考えていたことは、何かをすれば自分たちの信仰を強くすることができるということです。わたしたちは普通、信仰は人間のこころのもち方のように考えています。弟子たちは信仰を不可能なことを可能にするような力、例えば病気を治したり、他人を幸福にしたリ、人々を救ったりできる力と考えていたように思います。それに対して、イエスさまは「あなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば…」と話されます。確かにわたしたちがどんなに頑張って桑の木に「抜け出して海に根を下ろせ」と命令しても、そのようにはなりません。ということは、弟子たちもわたしたちにも、からし種一粒の信仰もないということになります。からし種は、この世界でもっとも小さい種のひとつですから、わたしたちにはからし種一粒の信仰もない、つまり、わたしたちは自分が信仰をもっていると思っているけれど、それは錯覚で、勘違いなのだということをいわれたのです。わたしたちは、わたしが信じていて、わたしが信仰をもっていて、わたしが信仰を守っている、だから信仰はわたしの信仰であると思っていますが、もともとわたしの信仰などないということなのです。

信仰というと、たいていの場合はわたしたちのこころのもち方とか、信念であるとか、神仏への恭順のこころだと思っています。日本語のいい方もそのことをよく表しています。「あの人はお稲荷さんを信心している」とか、「あの人はアーメンを信仰している」とかいいます。それは、その人がどの宗教に属しているかであって、まさに信じているわたしのありさま、わたしの信心のことを指しています。そして、「あの人はお稲荷さんを強く信心している」とか、「あの人は熱心に教会に行っている」とか、「一生懸命、奉仕活動をしている」といういい方をします。それらどこまでもいっても、わたしたち人間の意識活動としてのこころのあり方、またわたしの生き方として信仰を捉えています。ですから、わたしたちは自分の意志の力で、信仰を強くも弱くもできるのだと考えているのです。しかし、少し考えてみると分かるのですが、わたしの意志の力では、わたしのこころをコントロールすることはできません。

わたしたちが信仰をそのようなものだと思っているなら、今日のイエスさまのたとえ話にあるように、一生懸命働いて帰ってきて、主人がご褒美に「すぐ来て食事の席に着きなさい」といってくれると思っている愚かな僕と同じだということになります。イエスさまは、「命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝しはしない」といわれます。つまり、あなたがたが考えている信仰の理解、それ自体が間違っていますよということをいわれたのです。わたしたちは皆愚かで、イエスさまを信じて熱心に教会に行けば、真面目に生活すれば、一生懸命職務を果たせば、つまりわたしが頑張って何かをすれば、イエスさまがご褒美に天国に迎え入れてくれるとか、救ってくださると思い込んでいるということではないでしょうか。そして、そのようなことを信仰であると思い込んでいます。イエスさまは、そんな信仰理解はわたしと駆け引きをしているだけであって、真の信仰ではない。そういう人間の思い込みをすべて捨てて、空の手になって、わたしに任せなさいといわれているのです。わたしたちが信仰して、立派に働いて、その報いとして救われるのではないということです。

イエスさまの救いは、どのようにしても救いようがないわたしたち人類を救うという、イエスさまの誓い、憐れみのこころによってなされるものです。自分の力で一生真面目に努力して、それで救われるのであれば、イエスさまはいらないことになります。ですから、表面的にはイエスさまを信じているといいながらも、イエスさまを疑い、自分の力で何とかしようとして、実はイエスさまなどいらないといって背を向けている、“救われがたいわたし”がわたしたちの姿なのです。そのことを知っておられたイエスさまが、わたしたちを救うという計画を起こしてくださったのです。そのようなイエスさまの深い憐れみのこころ、イエスさまの救いを、わたしたちがそう簡単に理解できるはずがありません。イエスさまのこころは、わたしが祈りをする、ミサに行く、犠牲をする、人を助けたことの報いとして救ってもらおうと思っているような姑息な思いとはまったく異なったものなのです。ですから、わたしたちは何をしたところで、何を頑張ったところで、イエスさまの救いには関係ないのです。ただイエスさまがわたしを救うと誓われたそのこころが、わたしたちのうちに届けられており、それが信仰に他ならないのです。信仰は、わたしのこころのもち方とか、わたしのこころの問題ではありません。イエスさまが何としてもあなたを救うと誓われたその願いが、恵みとしてわたしに与えられ、わたしのこころに届いたものが信仰に他なりません。だから、わたしの信仰といっていますが、わたしの信仰など初めからないのです。その信仰は与えられるものですから、わたしたちがそれを受け取らない限り、信仰にはならないのです。わたしが信仰を守るとか、わたしが信仰を強くするなどということ自体、本来あり得ないのです。

イエスさまから、そのような信仰が与えられていることに気づいた人は、わざわざ遜って謙遜してではなく、「わたしどもは取るに足らない僕です。しなければならないことをしただけです」と、自然とそのような言葉が出てくるのでしょう。なぜなら、その人は自分が何かよいことをしたとしたら、それは自分ではなく、自分の中のイエスさまであることを知っているからです。わたしの中に、何ひとつとして、イエスさまによって救われるような種はないのです。ただ、イエスさまによってわたしのこころに蒔かれた種があるだけなのです。それをわたしのものだというなら、それは人のものをわたしのものだと言い張っているようなもので、そこに真実はありません。わたしたちのうちに種がまかれているということ、その信仰という種はイエスさまのこころであって、その種がわたしたちのうちでイエスさまとして働いておられるのです。わたしたちのうちにおけるイエスさまのその働きに気づくこと、これこそがわたしたちの真の信仰生活に始まりなのです。わたしがあれをやった、これをやったといっているうちは、洗礼を受けただけであって、わたしたちは何もしていないことに気づいていないのです。

年間第26主日 勧めのことば

年間第26主日 福音朗読 ルカ16章19~31節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の箇所も、ルカだけ見られる固有の箇所です。このようなたとえ話が書かれた意図は何処にあるのでしょうか。「もし、モーセと預言者に耳を傾けないなら、たとえ死者の中から生き返るものがあっても、そのいうことを聞き入れはしないだろう」という言葉が、今日のたとえ話の結論になると思います。それでは、なぜ人は耳を傾けようとしないのでしょうか。自分は正しいと思っていたり、いつでも聞けると考えていたり、その人の性格などいろいろあるでしょうが、ひとつの大きな理由は、自分は死なないと思っているからではないでしょうか。死ぬまで、まだまだ時間があるから、まだ大丈夫と思っているのではないでしょう。そこで、今日は「死」というテーマから見ていきたいと思います。

人は誰でもが、「人は死ぬ」と頭では分かっていると思います。現代社会で100%確実なものは何もないといわれますが、すべての人は例外なく確実に死にます。しかし、その場合の死は他人のことです。なぜなら、わたしたちが体験するのは家族や自分に近い人の死であり、それは他人の死であって、どこまでいっても他人事でしかありません。他人の死を見ると、どうも死は大変なことらしいと思っています。しかし、どうしても自分の死というのは現実のこととしては考えられないのだと思います。

その一方で、どの宗教でも、見てきたような死後の世界の話をします。天国、地獄、煉獄、輪廻などでしょうか。しかし、死後の世界のことを話しているのは、100%生きている人間です。話しているのが生きている人間である限り、死についても、死後についても客観的に何かを語ることはできないはずです。イエスさまでさえ、生前に一度も死後の世界、死後のいのちについて話されたことはありません。だから、そんなものがあるのかどうか誰もわからないのです。確かに、イエスさまは永遠のいのちについて話されましたが、永遠のいのちとは死後のいのちのことではありません。わたしたちが今生きている、わたしたち生きとし生けるものを生かし、動かし、生死の枠を超えて働きかけている大きないのちの営み、その働きを永遠のいのちと呼んだのです。

生きている人で誰も死んだ人はいませんから、死が何であるかわからないのです。だから、死という100%確実な真理であっても、誰も自分のこととして認めたくないのです。他の人は死んでも自分だけは死なない、いつまでも生きていると思っている。医学が進歩し、社会や家庭から死が隠されていけばいくほど、人間が死ぬという感覚を失くしていくのではないでしょうか。またその一方で、現代人は、自分の「死に方」を自分で決めようとします。エンディングノートを書いたり、終活をしたりします。多くの人は、他人の死に方をみて、立派な最期だったといい、あるいは無念な死に方だったといいます。しかし、それは単に「死に方」の問題であって、それは「死」ではないのです。「死に方」と「死」を混同しているだけなのです。カトリックではどういう「死に方」をするかで、その人の救いが決まってくると教えてきました。でも、そんなことを誰が決めたのでしょう。安らかな立派な死に方をした人は聖人で、酷い死に方をした人は罪人だとでもいうのでしょうか。わたしたちのイエスさまは罪人の中の罪人として、絶望のうちに死んでいかれたのではないでしょうか。あんなみじめな「死に方」はありません。しかし、それは「死に方」の問題であって、死そのものではありません。わたしたちは見た目の現象としての「生き死に」に捉われているだけではないでしょうか。

死はすべての人に平等に訪れます。生きているものは必ず死ぬのです。人間は病気や事故で死ぬのではありません。生まれてきたから死ぬのです。人間が死ぬということは、生きているから、生まれたからだという以外の理由はないのです。そして、わたしたちが見るのは他人の死だけです。自分が自分の死を見るということはありません。多くの人は、死ぬと自分がなくなるとか、死後の世界にいくなどというイメージを持っていますが、それはあくまでも生きているわたしたちが思っているだけなのです。教会が教えているから、来世のいのちを信じるということでも構いません。しかし、そうだとしても、そうでなかったとしても、何であるかわからない死を恐れて、また死後の世界のことを心配しながら、今日という日々を過ごすのであれば、わたしたちは何ともったいない生き方をしていることでしょうか。わたしたちは、今というときを生きていないのです。わたしたちが生きるのは、今というこのとき、この刹那のときだけなのです。今日のたとえ話は、わざわざ金持ちとラザロの死後の二人の顛末を話して、生前での善行を促すというような陳腐な教訓話ではありません。あなたがたは、今を生き、今、神のことばに耳を傾けなさい、今、神のことばを聞かないなら、永遠に聞くことはない、といわれたのです。

イエスさまがいわれたのは、「聞く」というわたしたちのあり方です。イエスさまは、わたしたちが聞かない存在であることをよくご存じでした。あなたがたは、いくらアブラハムが話そうとも、ラザロが死者の中から蘇って話そうとも、復活されたイエスさまが話そうとも聞かない、といわれているのです。それは、あなたがたは、今というときを生きていないからである、といわれるのです。それは、わたしが死すべき存在であることを受け入れていないから、だらだらと生きているのだと。わたしたちは、過去の出来事や失敗、成功体験に囚われているか、あるいは将来への期待や夢に逃避しているだけで、今というときを生きていないのです。わたしたちが生きているのは、今というこのときしかないのに、今を生きようとしない。だから、今、聞くということができないのも当然なのです。わたしたちが生きているのは、今という一瞬、今という刹那であり、そこにすべてが、永遠があるのです。わたしたちは、過去でも未来でもなく、今を生きることしかできないのです。わたしたちは、いつイエスさまと出会い、いつイエスさまに聞くことができるのでしょうか。昨日でしょうか。明日でしょうか。1週間後でしょうか。それとも何年か後でしょうか。わたしたちは、今、生きているこのときしか、イエスさまと出会い、イエスさまに聞くことはできないのです。イエスさまのことばが、今、わたしに聞こえる、このことが救いなのです。そのために、イエスさまは今、わたしに働きかけてくださっているのです。

年間第25主日 勧めのことば

年間第25主日 福音朗読 ルカ16章1~13節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日のたとえ話は、放蕩息子のたとえ話の直後に置かれています。今年は十字架称賛のお祝い日が日曜日に入りましたが、普通であれば、年間第24主日に15章の放蕩息子のたとえで、憐れみ深いお父さんの姿が読まれた次の週に、世間的で不正な管理人のたとえ話が読まれるわけです。しかも、今日の箇所は、放蕩息子のたとえもそうなのですが、ルカ福音書にだけに見られるたとえ話です。マタイ、マルコに並行箇所が見られないということは、今日の箇所はルカの関心事によって編集されたとみるのが正しいでしょう。それにしても、今日の箇所はイエスさまに由来する話として理解しがたいものがあります。そもそも、このようなたとえ話を現代人のわたしたちが理解することは非常に難しいものがあります。15章の放蕩息子のたとえ話もルカ固有なものであることを考えると、ルカは放蕩息子のたとえで憐れみ深いお父さんの姿で神さまの姿を紹介し、16章で抜け目のない管理人の話をすることで、人間の姿をあからさまに示そうとしてわざと並べたのかもしれません。それにしても、今日の箇所から何を受け取ればいいのでしょうか。イエスさまの意図からかなり離れてしまっており、これはルカの教会の関心事であるということをよく知っておく必要があると思います。

「不正な富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか」、「神と富に使えることはできない」というのが、今日のたとえ話の結論であると考えられています。不正にまみれた富というのは、不正義な手段で手に入れた富という意味ではなく、この地上の富という意味です。そのことから考えていくと、当時のルカの教会が置かれていた状況というものがあるのではないかと思われます。つまり、教会が「本当に価値あるものを任せられる」ものなのか、また「本当に価値あるものを任せられている」という意識があるのかどうかという問いかけがあったのではないかと思います。ルカの教会は、ユダヤ教から独立し、異邦人宣教に向かっていった教会です。教会が教団として広がっていき、組織が大きくなっていくということは、どうしても組織を維持していくということに関心事が動いていきます。自分たちの組織を維持していくために、自分たちは選ばれた正しい正統な集団であるという意識をもたなければやっていけません。そして教団の体制を整備し、教えを整理し、財産を管理していくという問題も出てきます。その上で、その当時の社会と対峙していくわけで、それは当時の社会と距離をとっていくことになりますが、現実的には対峙する社会の価値観ややり方を自分たちの中に取り入れていくことを意味しています。そうすると、地上の富というものとどういうふうに折り合いをつけていくかということが問題になります。ルカ福音書のひとつのテーマは、貧しさということです。そうすると、貧しさということを強調しておきながら、教会は自己矛盾を抱えるということになっていきます。さらに自分たちの教団に入れば救われるが、入らないものは救われないというような教えを作っていくわけですからなおさらです。そのようにして教会は自らのアイデンティティを作っていくのですが、そのことによって教会は既成宗教に成り下がり、イエスさまの福音を宣べ伝えるという本来の使命からずれていきます。ルカの教会の中には、そういう危機感があったのではないかと思います。イエスさまの福音を生きることと、実際に組織を維持し、運営していくという現実の板挟みになっていたのではないでしょうか。

現代のキリスト教はどうでしょうか。時代や社会からかけ離れた教えや制度、組織にしがみつき、自分たちは特別なグループだという意識にとらわれていないでしょうか。現代の教会をみてみると、教団への忠誠心を要求し、教団の教えをイエスさまの教えであるとして、それを守ることに拘っているように見えます。そうなると、教会は社会から乖離していき、社会は宗教を必要としなくなっていく、そして教団も本来の使命から離れ、特殊化していくという悪循環に陥ります。これでは、現代人の魂の要求に応えることができなくなってしまいます。教会は自らの現実に問題があるということを常に意識していなければならないということだと思います。ルカの共同体はその意識をもっている共同体だったのでしょう。いくら自分たちの宗教は真理をもっている、「本当に価値あるもの」をもっているんだと主張したところで、イエスさまの教えから離れていては宗教としての役割を果たすことはできません。ですから、教団の中にいるものは、絶えず自分たちの枠を取り壊していくという意識をもっておく必要があるのだと思います。

カトリック教会は完璧で、普遍的であるという考え方自体、錯覚ではないでしょうか。教会はあくまでも神の国、人類すべての救いのための手段であって、その役割が終われば終焉するのだという意識をもっている必要があると思います。カトリックの人だけは救われるというのなら、これはイエスさまの教えではありません。すべての人類が救われるためであれば、カトリックがなくなってもよい、というのが本来の宗教の姿です。自分たちのいる教団だけは生き残るというのであれば、これはイエスさまの教えではありません。単なる宗教的エゴイズムでしかありません。外ずらはキリスト教、しかし内側は、ひどい宗教的エゴイズムということが起こってくるのです。それでは、なんでもかんでもいいのかというとそうではなく、わたしが真理であるイエスさまと出会うことが大切なのです。真の宗教は、病気が治るとか、お金持ちになるとかそういうものではありません。真の宗教は、わたしの個人的な幸福を約束するものではありません。わたしの生き方を問う、いのち、真理を追い求めていくことが、宗教の本質的なあり方です。人間を問うということは、人間の生死を問うということであり、それがイエスさまを問う、真理であるイエスさまと出会うということです。その意味で、今日の福音は、あなたがたは「本当に価値あるものを任せられる」ように生きていますか、あなたがたは真理を追い求めていますか、ということが問われているのだと思います。わたしたちは、「神と富に仕えることはできない」という言葉をどのように生きているか、教団にも、わたし自身にも問われているのだと思います。

十字架称賛 勧めのことば

十字架称賛 福音朗読 ヨハネ3:13~17

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の十字架称賛のお祝い日の起源は古く、コンスタンチヌスの母ヘレナがエルサエムでイエスさまがかかられた真の十字架を9月13日に発見したという出来事に由来しています。そして、335年の9月13日にエルサレムの復活聖堂が献堂され、その翌日にイエスさまがかかられた十字架の木を礼拝する習慣が広がり、それが十字架称賛のお祝い日になりました。

以前にもお話ししましたが、小学生のとき、お寺の日曜学校で聞いた話です。ある国の慈悲深い王子は、森で飢えて動けなくなっている母虎と子虎に会いました。王子は慈悲のこころを動かされ、母虎に自分の体を食べさせて、母虎が子虎たちにお乳をやれるようにと決心します。しかし、王子が目の前に体を差し出しても母虎は食べる元気もないほど衰弱しています。そこで、王子は崖から飛び降りて血を流し、その血を母虎に飲ませようとします。そうすると、母虎はやっとその血を飲んで気力を取り戻して、王子の傷ついた体を食べて元気になって、子虎にお乳をやることができ、母子ともに生きながらえたという話です。この王子は生まれ変わってお釈迦さまとなって、衆生を救うために悟りをひらくという話です。それが法隆寺の宝物の玉虫厨子の側面に描かれている「捨身飼虎(しゃしんしこ)」というお釈迦さまの前世譚の物語です。小学生のわたしは、その話にこころを動かされないではいられませんでした。わたしはこの王子の生き方にあこがれるというか、このいのちの真実を語る話に小学生ながらすべてを聞いたような気がしました。現代であれば、そんなことをすれば、血の味を覚えた虎がまた人を襲うのではないかとか、いろいろな反論があると思いますが、これはいわゆるたとえ話であって、それこそいのちの真実を明らかにするための話であったのです。

そして、今日、わたしたちが祝うイエスさまの十字架は、この話そのものです。これ以上、何かを説明する必要があるでしょうか。イエスさまが十字架の死によって、わたしたちの罪を贖い、罪人として売られているわたしたちを買い戻してくださったのだなどという贖罪論を持ち出すまでもない話です。虎を養うために崖から身を投げるという行為は、イエスさまの十字架そのものです。宇宙開微以来、すべてのいのちはお互いのいのちをわかちあうことによって生きながらえてきました。わたしたちは、いのちを誰かから分けてもらうことなしには生きていくことができないのです。動植物はその食物連鎖によって、お互いのいのちをわかちあいながら生きている、これがいのちの真実の姿なのです。そして、このいのちは消えていくもの、はかないものなのです。この地上には終わりのないいのちなどあり得ないのです。だから、いのちは美しいのです。

このいのちの循環は、食物連鎖というふうにいわれています。そして、その食物連鎖の頂点にいるのだと錯覚しているのが愚かなわたしたち人間なのです。人間は頂点などにいないのです。だれがそのようなことを教えたのでしょうか。いのちの絶妙なバランス、調和をたもってきた食物連鎖という循環の中に、人間が「弱肉強食」という概念を持ち込んでしまったのです。弱肉強食は食うか食われるかの世界、競争世界です。他の誰かの何かを奪わないと生きていけないと錯覚している人間の観念の世界なのです。これは観念であって、本来は存在しないものなのです。このような観念に支配されていることが、わたしたち人間か抱えている罪であり、社会が抱えている根本的な問題で、それが競争、差別、貧困、飢餓、戦争等という姿をとってあらわれているのです。競争、差別、貧困、飢餓、戦争自体をなくすために働くことも大切ですが、大切なことはその観念から解放されていくことなのです。

この捨身飼虎の物語は、この弱肉強食という人間の観念を出離したところにいのちの真理があることを描いているのです。しかしながら、人間である限りこの弱肉強食の観念の世界から出離することは非常に難しいというのが現実です。だからこそ、イエスさまは人間となり、人間の食糧となって、わたしたちのために十字架にかかり、いのちの真実をわたしたちに啓示してくださったのです。

イエスさまの十字架は、「捨身飼虎」の行、イエスさまの決して終わることがない永遠の修行です。イエスさまご自身が迷いの衆生の身となって、衆生とともに迷い、衆生にその身を分かち合いながら、衆生がひとり残らず皆救われるときまで、その行を続けられておられる、これこそがイエスさまの十字架なのです。わたしたちはこの大いなるいのちによって生かされていながらも、わたしたちはいつまでもいのちの外にあり、わたしたちは「弱肉強食」という観念に縛られたままなのです。イエスさまはこの観念が幻想であり錯覚であることを、ご自分がいのちを捨てて、自分が死んでみせて、いのちはこういうものだということをわたしたちに示してくださったのです。わたしはわたしのいのちを自分でどうすることもできないとしても、この大いなるいのちの中にあり、そのいのちの働きに気づかされ、その大いなるいのちの循環に己の身を委ねていくとき、わたしたちもいのちそのものとなって、ありのまま、自然のままに生き、死んでいくことができるのです。わたしたちもこの大いなるいのちそのものなのですから。このいのちの自分を与えていこうとする愛の働きにわたしたちが目覚めることが救いであり、わたしたちの死からの解放、復活のいのち、永遠のいのちなのです。

年間第22主日 勧めのことば

年間第22主日 福音朗読 ルカ14章1,7~14節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の話はわたしたちにとっては、非常に分かりにくい話であると思います。イエスさまは、食事の席に招かれた人たちが上席を選ぶ様子に気づいて、今日のたとえを話されました。「たとえ」というのですから、これは単なる世間的な知恵や道徳について話されたのではなく、神の国についてのたとえであることがわかります。それにしても、神の国の何についてのたとえであるのか、非常に分かりにくいといわざるを得ません。普通、このたとえを聞いたら、イエスさまが礼儀作法について話されたとしか考えられません。そして、日本人であれば、何かの席に招かれたとき上席に座る人はありません。それこそ、世間知らずで、社会性がないということになります。ユダヤ人には、日本人のような謙譲の美徳というようなものは通用しません。ですから、あからさまに上座に座ることをいさめなければならなかったのでしょう。では、日本人は皆が下座にいきたがろうとする、だから謙虚な国民かといえばそうではありません。教会でも謙遜、へりくだりということをしきりに教えますが、謙遜、謙遜といっていると、かえって謙遜になる努力をするという傲慢に陥ってしまいます。謙遜というのは結局傲慢の裏返しであり、へりくだりというのも自分が上にいること前提にした発想でしかないからです。ですから、傲慢に対していわれるような謙遜というものは、本当の謙遜ではありません。イエスさまがここでいわれていることは、自分の座るべき所に座るということを意味しています。

金子みすゞの詩に「私と小鳥と鈴と」というのがあります。「私は両手をひろげても、お空をちっとも飛べないが、飛べない小鳥は私のやうに、地面を速くは走れない。私がからだをゆすってみても、きれいな音は出ないけれど、あの鳴る鈴はわたしのやうに、たくさんの唄は知らないよ。鈴と小鳥と、それから私、みんなちがって、みんないい」。わたしたち人間は、鳥でないのに飛んでみようとしたり、鈴でないのに音を出そうとしたりします。わたしたち人間だけが、必死に自分以外の何ものかになろうとしているのではないでしょうか。しかし、そもそもわたしたちがなろうとしている自分とは何でしょうか。「わたしは○○です」といえるものは、果たしてわたしでしょうか。親子との関係では、親であったり子であったり、兄弟との関係では、兄であったり弟であったり、会社では上司であったり部下であったり、学校では教師であったり生徒であったり、教会では信徒であったり司祭であったり、ペットとでは飼い主とペットであったり、それらはいずれも関係性の中でのみ成り立っているわたしに過ぎません。しかし、わたしたちはそのような自分の立場にこだわり続けているのです。それらは確かにわたしの一部でしょうが、それがなくなったら、わたしはわたしでなくなるわけではありません。

それでは、もっと根本的な意味で自分とは何でしょうか。名前でしょうか。役職でしょうか。肉体でしょうか。魂でしょうか。キリスト教では魂ということにこだわりますが、この魂が自分でしょうか。実は誰もわからないのです。何もわからない自分が一生懸命、自分でない何ものかになりたがっているとしたら、こんなに滑稽なことはありません。自分など、本当はあるようでもないし、ないようでもないし、何ものでもありません。あるんだかないんだかわからないのに、何か確固としたものが「ある」ように思い込んで、執着している。そして、その何ものかになろうとして、必死で努力し、自分探しを続けています。イエスさまは、あなたは自分のことを何ものかのように思い込んで生きているけれど、一度それを手放してみなさいといわれているのではないでしょうか。そうすれば、どちらが上座に座るとか、どちらが偉いとか、どちらが優秀だとかいったことはどうでもよくなるはずです。

わたしの部屋に「赤い実がなる木に、赤い実がなった。木の満足」という言葉が掛けられています。当たり前のことなのですが、この当たり前のことができないのがわたしたち人間です。謙遜ということを、わざわざいわなければわからないほど、人間は他の動植物より愚かなのです。「謙遜は真理である」といわれます。つまり、ありのまま、小鳥は小鳥、鈴は鈴、わたしはわたしということなのではないでしょうか。そのことがわからないのが人間ということになります。ある人の言葉に、「わたしは神さまのお使いになるほうきです。神さまはわたしをお使いになり、使われた後、わたしをドアの後ろにお置きになりました」というのがあります。神さまがほうきを使っておられるときに、ほうきは立派な働きをしています。しかし、掃除が終わったら、誰も振り向きもしないドアの後ろ、ほうきが普段置かれている暗い所に直されるということです。そして、そのことについて、ほうきは文句をいいません。この当たり前のことがわからないのが、わたしたち人間です。わたしは神父だとか、わたしは社長だとか、わたしは責任者だとか、そんなことに何の意味があるのでしょう。イエスさまがどうしてこんなわかりにくいたとえを話されたのか考えると、そこまでいわなければわからないほどわたしたち人間は愚かであるということなのでしょう。わたしは神さまのほうきです。どうぞ神さまのお仕事のためにお使いください。お仕事が終わったら、どうぞ隅っこに直してください。これを召命というのです。自分が何ものかになることが召命ではありません。神さまの前での真実のわたしが見えて、わたしがわたしがいるところに置かれる、それが召命なのです。

9月7日分はお休みさせていただきます。

年間第21主日 勧めのことば

年間第21主日 福音朗読 ルカ13章22~30節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

「主よ、救われる人は少ないのでしょうか」という弟子たちの問いから、今日の物語が始まります。そもそも、弟子たちのこの問い自体が間違っています。救いというものが、何かを信じたり、何かをしたことの結果であったり、また救いがすべての人の救いでないのなら、救いではありません。宗教は気をつけないと、救いに条件を付けたり、救いに線引きをしたり、こちらに来れば救われるが、こちらに来なければ救われないということをやりがちです。宗教は、自分たちの正統性を主張するために、他を排除し、救いを限定するという自己矛盾に度々陥ります。これがどの宗教も抱えている自己矛盾であり、同時にそれは自己内省、自己点検の要点にもなります。また宗教は、国家権力と結びついたり、民族・文化と結びついたりして、様々な問題を引き起こしてきました。そもそも、宗教が救いということを説くときに、救いを特定の人たちだけのものであるとしたり、信じた人だけが救われるといった時点で、それはもはや宗教の本来の姿から逸脱したものであり、真の救いではなくなってしまいます。わたしたちが信じている方は、そんなに狭量な方ではありません。慈しみ深く、憐れみ深い方であって、すべての人間の救いを望んでおられる方ではなかったのでしょうか。問題なのは、救いそのものを誤って捉えているわたしたち人間にあるのではないでしょうか。

今日の福音では、救いはすべての人が招かれている宴会として描かれています。しかし、宴会というイメージで救いを説明しようとすること自体にすでに限界があります。わたしたち人間は、宴会というと、ある特定の時間に、ある特定の場所で行われている、招かれる人と招かれない人がある会食としか捉えることができません。そうすると、わたしたちは、どうしたら宴会にいくことができるのか、その条件を考えて、その条件に適うようにしようとします。そして、その条件を充たすことが救われることだと勘違いするようになってしまいます。ですから、救いを宴会として説明しようとすることには、どうしても無理があります。イエスさまの時代にはまだ分かりやすいイメージだったのでしょうが、これだけグローバル化された現代においては、宴会は理解しがたく、紛らわしいイメージであるといえるでしょう。イエスさまが意図しておられたことは、おそらくもっと別のところにあったように思います。

イエスさまが問題にされていたのは、どうしたら救われるかということではなく、どこまでも救いに背を向け続ける人間の姿にあったのではないかと思います。そうすると、イエスさまがいわれた「狭い戸口」というのは、救われるための条件の厳しさではなくて、どこまでいっても救いを人間の頭の理解で捉えて、頑なに救いを拒否していく人間の狭さ、限界についていわれているのではないでしょうか。あとの部分で、イエスさまははっきりと、「人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国の食卓に着く」といわれました。そこには何の条件も付けられていません。誰をも排除しない、差別しない、すべての人が救いの対象であることが明確に述べられています。救いのために条件があるかのように思うのは、人間の勝手な思い込みであり、イエスさまと駆け引きをしているのにすぎません。こういうふうにすれば救われるといって、救いをどこまでも限定し、狭めていく人間の浅はかな知恵が「狭い戸口」なのです。そして、こんなはずではなかったと、泣きわめいて歯ぎしりするのです。人間の頭で考えている限り、イエスさまの救いなど分かるはずがありません。どこまでも、自分のこころで納得して、頭で分かろうとする愚かな愚かなわたしたちの姿が描かれてるのです。

実は、その愚かさに気づくこと、それ自体が救いなのではないでしょうか。救われる救われないではない、そのような分別をしているわたしたちの愚かさをはるかに超えて、わたしたちを救うといわれるイエスさまの願いだけがあるのです。イエスさまは、すべての人が「東から西から、また南から北から来て、神の国の食卓に着く」ことを願い、誓われているのです。そして、イエスさまが願い、誓われているということは、もうすでにその願いは実現しているということなのです。なぜなら、イエスさまは真実な方ですから、その誓いが反故にされることはあり得ないからです。わたしたちは、その願いに背き続けている自分らの愚かしさに気づく、気づかせていただくことだけだと思います。人間は、自分の力では決して自分の愚かしさには気づくことはできません。だれもが自分は、他の誰かよりはましだと思っているからです。そのような、わたしたちの愚かしさは消えることがありません。ただ、わたしたちを救うと誓われているイエスさまの真実のみが、わたしの愚かしさに気づかせてくれるのです。そして、その気づきが救いなのです。わたしが信じることで救われるのではありません。わたしたちは救われていることに気づくこと、それが信仰です。その信仰はわたしの心に起こりますが、わたしのこころに与えられた気づきであり、イエスさまからの一方的な恵みでしかないのです。わたしたちが救いだと思っているものから解放されること、それが真の救いなのです。

年間第20主日 勧めのことば

年間第20主日 福音朗読 ルカ12章49~53節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

イエスさまは、「わたしが来たのは、この地上に火を投ずるためである。その火がすでに燃えていたらと、どんなに願っていることか」といわれました。ここでいわれる火とは何でしょうか。イエスさまが切に願っておられるこの火とは、どのような火なのでしょうか。旧約聖書のなかで、火は聖霊のシンボルとして使われてきました。火は人間が暖をとったり、料理をしたりするなど、人間の生活に欠かせないのですが、また火はすべてのものを焼き尽くしてしまう激しさをもっています。すべての汚れを浄め、すべてのものを焼き尽くし破壊し、自らへと同化してしまう働きがあります。イエスさまが地上に火を投ずるために来たといわれるのは、この愛の炎である聖霊で世界を焼き尽くすことだったのではないでしょうか。イエスさまがこの世界に愛の火が燃え上がることを切望され、また愛の火でこの世界を焼き尽くそうといわれているということが、どのようなことか味わってみたいと思います。

この愛の火の特徴は、すべてのものを焼き尽くすということです。すべてのものを焼き尽くすということは、よいものも悪いものも、価値があるものも価値がないものも、紙切れであろうと1万円札であろうとも、同じように焼き尽くしてしまうということです。よいもの悪いもの、価値があるもの価値がないもの、紙切れと1万円札の違いを決めているのは人間の都合です。付加価値をつけるといういい方がありますが、付加価値とは、生産活動によって生産された商品の価格が、原材料等の価格より高くなることをいいます。そもそも、その原材料に価格をつけているのも人間です。その基準は、あくまでも人間にとって役に立つか役に立たないか、人間の都合です。この世界のすべてのものが商品のための材料で、人間さえも人材として扱われているわけです。その根底にある価値観が、わたしにとっての善悪、有用無用という人間の分別、人間の都合に他なりません。そして、その分別が人間世界にありとあらゆる分断、分裂、差別、争い等を引き起こしているのです。イエスさまが投ずるために来たといわれる火は、それらのすべての分別を飲み込んで、焼き尽くしていきます。これが愛の第1の働きです。

第2の特徴は、火はすべてのものを浄める働きであるということです。大海は、自分に注がれるすべての汚れを受け入れます。大海は、単にその汚染されたものを希釈するだけではなく、浄化していく働きでもあります。火も同じように、汚れたものを薄めるのではなく、自らが受け入れて、その汚れを浄める働きをもっているのです。わたしたちの罪や汚れ、過去の忌まわしい思い出や傷、どうすることも出来ないものもすべて焼き尽くしていきます。わたしたちの中にあるそのようなものを、わたしは自分ではどうすることも出来ません。わたしたちがどれだけ否定しようとも、存在し続けるわたしの一部であるのです。しかしそれらが、イエスさまの愛の火の中に一度投げ込まれると、焼き尽くして、わたしたちを浄めていくのです。

第3の特徴は、火は火の中に投げ込まれてものを、火と同じものにしていく働きがあります。たとえそれがどんなに汚れたものであっても、ひん曲がっているものであっても、一度火の中に投げ込まれると、初めは臭い匂いやその中に含まれている水蒸気、有害物資を吐き出しながら、火は投げ込まれたものの中に浸透していき、やがて火と区別することができないほどひとつになって、燃え上がる炎となって燃え上がります。わたしたちの罪や汚れ、わたしたちのみじめな自己中心性、わたしたち自身もすべて、聖霊という愛の活ける火の中に投げ込まれるなら、わたしたちの感覚は静められ、分別という理性は浄められ、意志は神の意志とひとつとなって、ただひとつの意志、ひとつの愛となって燃え上がります。そして、イエスさまが愛される同じ愛をもってイエスさまを、人々を愛するものとなります。そこにおいては、「もはや、ギリシャ人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられる(コロ3:11)」世界が現れます。そしてその世界こそが真実の世界であり、実はわたしが今生きている世界は真実の世界なのだということが明らかにされます。その真実に背を向けているのがわたしです。その真実に目覚めさせる働きが、世界に投げ込まれる火、聖霊なのです。

ここで大切なことは、その真実は将来のこととか、わたしたちが努力して頑張って、いつかそうなるといっているのではありません。わたしたちは、今すでに愛の火に投げ込まれ、愛に焼き尽くされて、愛の炎となって燃え上がっているのです。わたしたちが頑張って愛の業をおこなって愛の火を燃え上がらせるというのであれば、それは人間の業によって神の働きをおこさせようとすることであり、人間が中心になって神さまに指示することになります。そうではなく、されるのはあくまでも神さまであって、人間はそれに協力するのにすぎません。

イエスさまが宇宙の歴史の中にお生まれになった、イエスさまの生涯、特に受難、死、復活によって、ご自分の愛を永遠化して、無限の光ですべてのものを照らし、無限のいのちですべてのものを充たされたのです。そして、時間と空間を超えて、イエスさまの愛の炎はわたしたちを焼き尽くし、愛の炎とし、燃え上がっているのです。これは死んでからの話でも、特別な聖人たちのための話でもないのです。その愛の火は、今このとき燃え上がっており、わたしたちがそのことに目覚めることをイエスさまは願っておられるのです。イエスさまが切に願っておられることは、それはもう実現し動いているのです。「今日、あなたがたが耳にしたとき、実現している(ルカ4:21)」といわれている通りです。わたしたちが信じたから、何かをおこなったから、わたしたちが祈ったからそうなるという話ではないのです。イエスさまがそう働いておられるのです。確かに、わたしたちは肉の人で、罪の中に投げ込まれています。しかし、「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。そのキリストの血によって義とされ(ロマ5:8,9)」、「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちのこころにそそがれているのです(5:5)」。これが世界の真実なのです。わたしたちは、聖霊によって燃やされ生かされている、「あゝ、そうであったのか」と気づかされること、その真実をいただくこと、それを信仰というのです。

年間第18主日 勧めのことば

年間第18主日 福音朗読 ルカ12章13~21節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の愚かな金持ちのたとえは、わたしたちすべてのものへの問いかけとなっていると思います。この金持ちにとっては、自分の望んだことが満たされていくことが幸せで、それが現世でのすべてだったのでしょう。当時のユダヤ教の考え方によると、この地上での繫栄や富、成功は、神さまがその人を嘉せられているしるしであると考えられていました。ですから地上の富や成功は、ユダヤ人にとっては神さまからの祝福そのものでした。しかし、それはただ自分の思いが満たされていく世界を、人間の幸福、あるいは救いと考えていたということに他なりません。さらに、ユダヤ人たちは、現世における義人の苦しみをどのように考えるかということが問題となり、ヨブ記などが書かれていきます。そして、この現世で幸せが叶えられないなら、来世での幸せを永遠のいのちとして理解するようになっていきます。イエスさまの時代のサドカイ派は、来世を認めませんでしたが、ファリサイ派は来世を認めるようになっていきます。彼らが望んだことは、現世であろうと来世であろうと、所詮自分の思いが満たされていく世界を望んでいたのに過ぎません。イエスさまはそのようなユダヤ人たちに、「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならないものはこのとおりだ」といわれたのです。

しかし、このイエスさまのことばを、教会は、来世のために善行をして来世の天国のために宝を積むという誤った信仰理解をしていきました。結局のところ、わたしたちの願いが叶うこと、この世では家内安全、無病息災、立身出世、大願成就、来世では天国での救い、永遠のいのちが人間の幸せ、救いとして考えてしまったということなのです。イエスさまが問題にされたのは、この世の富の虚しさではないのです。まして、この世で無理なら天国でという話でもありません。そうではなく、人間が自分の願いが叶うことが幸せであり、自分の思いが叶わないことが不幸であると考えている、わたしたちのこころのあり方を問題にされているのです。

仏教では六道輪廻の中に、天というものがあるとされています。天というのは天人の世界で、自分のすべての願いが満たされていく世界を意味します。普通の人は自分の願い、健康、長寿、学業、成功、富などすべてが満たされたら幸せだと考えています。そして、そのすべてが満たされた世界が天であると考えられています。しかし、仏教の世界でははっきりと天も迷いの世界であるといいます。すべての願いが叶う天人の世界にも、天人五衰といって、その輝きに陰りが出て腐ってくるといわれます。その天人五衰には、5つのしるしがあるといわれています。先ず自分の衣服が汚れてくる、次に頭の冠が萎えてくる、体臭がするようになる、脇に汗が流れるようになる、じっとしていられなくなる。現代人の生活は、まさに天人五衰の生活ではないでしょうか。どれだけ豊かさを手に入れても、その豊かさを失うのではないかと不安になり、じっとしていられなくなる、まさに現代は天人の生活です。それは見え方が違うだけで、結局は人間の迷いの世界なのです。そして、わたしたちキリスト教が考えている救いとか天国というのも、所詮は迷いの世界なのではないでしょうか。

それでは、イエスさまが「神の前に豊かになる」といわれたのはどのようなことなのでしようか。そのヒントが今日の第2朗読にあるように思います。「新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。そこには、もはや、ギリシャ人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです(コロ3:11)」。わたしたちは、わたしを中心にしてこれが幸せだ、これが不幸だ、これが正しい、これは間違っている、この人は同胞で、この人は外国人というふうに、すべてを分別してこの世界を生きています。そして、自分を中心にして、自分がどちらに入るか、あの人はどちらに入るかで物事を見て判断しています。そして、その分別の世界から一歩も出ることができないのがわたしたちの現実です。イエスさまは、そのような迷いの世界から出ることのできないわたしたちを日々新たにし、真の知識を授けたいと思われたのです。そうすると、また真の知識をもっている人ともっていない人が出てきます。そして真の知識をもっている人は救われるが、もっていない人は救われないということになります。救われるとか救われないとかいって、人間は世界に境界線を作り出しているけれど、イエスさまはそのようなものは真の救いではないといわれたのです。

それでイエスさまはどうされたかというと、イエスさまは救いという境界線を破壊されたということなのです。どういうことかというと、イエスさまは“すべてのものとなって、すべてのもののうちにおられる”ようになられたのです。これが、実はイエスさまが復活されたということであり、時間と空間の壁をなくして、世界の境界、差別、区別をすべてなくされたということなのです。時間の境界も、空間の境界もすべてなくすということは、すべてがキリストであり、すべてのうちにキリストがおられるということです。この世界、宇宙がキリストであるということです。イエスさまは、永遠のいのち、永遠の光として、この世界、この宇宙をいのちと光で満たされました。ですからそこには、いわゆる天国、地獄、煉獄という境界がない。すべてがキリストであるということです。イエスさまがすべてで、すべてのもののうちにおられるのであれば、そこに如何なる差別も区別もないし、救われた救われないという境界さえもないはずです。それがイエスさまの復活ということなのです。

それにもかかわらず、自分の周りに境界を作り続けているのが人間であるということなのです。わたしたちは光の中にありながらも光に背を向け続け、自分のこころの殻に閉じこもり続けているのです。自分に光が届いていることを、いのちで満たされていることを見ようとしないのです。救いを求めていながら、救いを拒否しているのだといえるでしょう。このわたしの殻を破ってくださる方が、復活されたイエスさまなのです。教会の役割は、救いという境界をつくりだすことではなく、その境界を破壊していくことが本来の使命です。真の知恵によって、イエスさまの福音の本質に触れさせていただけるように祈りましょう。イエスさまの十字架と復活こそが、真の知恵、真のいのち、福音なのです。

年間第17主日 勧めのことば

年間第17主日 福音朗読 ルカ11章1~13節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は、祈りについての教えの要約ともいえる箇所です。今まで、いずれも問題とされてきたことは、神への愛と隣人愛、隣人と敵、祈りと活動というように、人間が物事を二元論的に捉えてしまうことです。ここで取り上げられる祈りは、生活や活動と遊離した祈りではなく、生活の中から湧き上がってくる願い、叫びのようなものとして見ることができます。そこから祈りの本質について考えていきたいと思います。

ルカ福音書は、しばしば祈っているイエスさまの姿をわたしたちに伝えてきます。今日の箇所は、洗礼者ヨハネが自分の弟子たちに祈りを教えていたように、自分たちにも祈りを教えてほしいという弟子たちの願いから始まります。そこで、イエスさまは弟子たちに主の祈りをお与えになります。しかし、ここでイエスさまが教えたのは、いわゆる文句としての主の祈りではありません。わたしたちは祈りというと、言葉が決まった祈りやミサ、ロザリオに代表される信心業を思い浮かべます。しかし、そもそも祈りというものは何でしょうか。アウグスティヌスは「主よ、あなたはわたしたちをご自身に向けて創られました。ですから、わたしたちたちはあなたのうちに憩うまで安らぎを得ることはできないのです」といっています。つまり、人間は、すべての生きとし生けるものは、神へ向かう存在として造られているということです。わたしたちの魂のうちに、いのちの根源へと還ろうとする動きが刻印されているといってもいいと思います。このいのちの根源へと向かう動き、それが祈りについて考えるときの前提になります。

弟子たちは、イエスさまがたびたび祈っておられる姿を見て、イエスさまのうちに体現されているこのいのちの本源へと向かう動き、方向性のようなものを感じたのではないでしょうか。イエスさまの全存在そのものが祈りとなっているというか、いのちの叫び、動きとなっていたということではないかと思います。ですから、弟子たちは、わたしたちにも祈ることを教えてほしいと願ったのではないでしょうか。すべての生きとし生けるものうちに、その根底に神へと向かう動き、渇きがあるのです。しかし、すべてのものがそのことを意識しているわけではありません。むしろ、その動き、渇きに対して無自覚、無関心であるのが普通かもしれません。しかし、人間の心の深みにはいのちへの渇きがあり、たえず神へと向かおうとしていいます。その渇きは、人間のさまざまな形を変えた欲望や願望となって、人間の中に蠢いています。満たされたい、愛されたい、大切にされたい、ひとつになりたい、自分のものにしたいといった人間の願望です。こうしたわたしたちの自分勝手な欲望は、どこまでいっても満たされることはありません。しかし、この癒されることのない渇きは、わたしたちの中にある根源的な神への渇きを指し示しているのではないでしょうか。どれほど雲が太陽を覆い尽くそうとも太陽は存在し続けており、雲に覆い隠されてその真実の姿はわからないとしても、いのちあるものは光の方へ、光の方へと向かっていこうとします。その動きは、太陽の存在を証明しているようなものです。そして、人間はその自分の内なる志向性によって、自分を超え出て行くとき、はじめて本来の人間になれるということではないでしょうか。その意味で、祈りは、人間の根源的な渇きであるとともに、もっとも人間らしい行為なのではないでしょうか。それは人間の行為なのですが、この渇きは神さまが与えられたものである以上、人間に働きかけている神の働きであり、神の営みそのものなのです。わたしたちの祈りは、神の営みに他ならないのです。

イエスさまは弟子たちに主の祈りを与え、パンを求める友人のたとえから、具体的な信頼をもって祈るようにいわれました。「求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求めるものは受け、探すものは見つけ、門をたたく者には開かれる」と。イエスさまは、「求めなさい。そうすれば、与えられる」といわれました。「多分与えられるだろう」とか、「おそらく」などとはいわれません。しかし、わたしたちは、神さまがわたしたちの自分勝手な願いは叶えてくださらないことを知っています。わたしたちが、自分勝手な願いを神さまに聞かせることが祈りではないからです。それでは、わたしたちの願いではなく、イエスさまの願い、イエスさまがわたしたちに与えるといわれたものは何でしょう。それが、今日の朗読の最後に書いてあります。「天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」と。つまり、イエスさまが願っておられることは、つまりわたしたちに与えたいと願っておられるものは「聖霊」であるといわれます。聖霊は神さまのいのちであり、神さまの愛の本質です。神さまがわたしたちに願っておられること、それは自らを与えることです。愛である神さまは、ご自身を与えることしかできないのです。それが聖霊を与えるといわれていることです。神さまは愛でいらっしゃるので、自分を与えることしかできない。だから神さまが願っておられ、わたしたちが願い求めるものは、愛を、神さまご自身を求めることであるということなのです。この愛は、すべての苦しむ生きとし生けるものをすべて救いたいと願っておられる、イエスさまの真実の愛以外の何ものでもありません。わたしたちが、求めなければならないものは、このイエスさまの愛であり、イエスさまはその愛を、聖霊を必ず与えるといわれるのです。

わたしたちのうちにイエスさまの愛への渇きを与えられたのは、イエスさまであり、わたしたちのうちにおいて、その愛を願い求めているのもイエスさまです。また、その愛を必ず与えるのもイエスさまです。おそらく、今までのわたしたちは、わたしがイエスさまを知って、イエスさまを信じて、イエスさまに祈って、努力して、聖霊が与えられる、そしてわたしが救われるのだと思っていたでしょう。司祭たちも信徒たちも、ほとんどそうだと思います。しかしそれは、まったく違っているのです。イエスさまの愛の世界は、そんなみみっちい話ではないのです。まして、聖体拝領をして、清いものになって救われたような気分になることなどとは全く違うのです。そうではなく、わたしたちすべてのものに愛の渇きが与えられているということは、実はわたしたちにはすでに聖霊が与えられているということなのです。聖霊はわたしたちのうちにおいて、わたしとひとつになって愛を乞い求めておられる。そして、すべての生きとし生けるもののうちに、愛を乞い求めるものとしてわたしたちとともにおられるのです。ですから、祈りは、イエスさまのわたしたちのうちにおけるイエスさまの働き、営み、聖霊の叫びに他ならないのです。こうして、わたしたちはイエスさまの祈りに乗せていただくだけなのです。

年間第16主日 勧めのことば

年間第16主日 福音朗読 ルカ10章38~42節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日のマリアとマルタの話は、ルカ福音書にだけある箇所です。この箇所は、過去の教会では、活動の生活に対して祈りの生活の優位を説くためによく引用されてきた箇所です。つまり、祈りに専念することが尊いことで、それに対して活動や生活にまつわることは二次的なことと捉えられてきました。ですから、キリスト者としても、司祭・修道者になることが本来の生き方で、信徒はそうなれなかった人たちだと考えられてきました。信徒は、司祭・修道者が唱える教会の祈り(聖務日課)が出来ないので、その代わりにロザリオの祈りを唱えるよう勧めた時代がありました。また、教会の中に、信徒・助祭・司祭・司教という位階制度を設け、また、祈りや教育に従事すること、労働に従事することの間に上下をつける時代が続きました。少し考えたらこれはイエスさまの思いでないことはすぐにわかるのですが、そのような誤った考え方が教会の中で長い間続いてきました。そして、そのような考え方を擁護するために、今日の福音は利用されてきました。公会議後はその反動から、祈りの生活を否定する活動主義に傾いた時代もありました。

先週に続いて今日の箇所も、イエスさまがよきサマリア人のたとえを話すきっかけとなった神への愛と隣人愛をどのように理解していくかということで説明されてきたように思います。先週は、ユダヤ人たちが隣人愛について取り上げながら、どこまでが隣人かといって、境界を設けていることが問題になりました。つまり、隣人という境界をわたしがどこに引くかということが関心事となっていたということです。ですから、隣人を敵・味方という概念で区別しているわたしのこころのあり方そのものが問題であることが指摘されました。そして、今日の箇所では、神への愛と隣人愛を対立するものとして捉えている人間のあり方が問題にされているといえばいいでしょう。

そもそも、神への愛と人々への愛、祈りの生活と奉仕、活動生活をわけて考えていることに問題があります。それらを区別していると、愛の奉仕に献身している人たちは、祈りだけで何も活動をしない人を批判し、祈りの生活が大切だと主張する人たちは、愛の奉仕という名目のうちになされている活動主義を批判することとなり、話は平行線になります。しかし、人間が生きていくときに祈るということも、また活動するということも、それは生きている人間の姿であって、どちらが尊いとかどちらが優れているという区別はありません。たとえば、わたしたちが生きていくために食事をすることと、食べたものを消化し排泄することと、どちらが尊くてどちらが賤しいなどと考えないでしょう。人間として生きるうえで、いずれも当たり前のことなのです。人間は生き物で、他のいのちをいただくことでしか生きていけまから、そのようないのちへの感謝から、祈りや宗教が生まれてきたのでしょう。ですから、人間として祈りを捧げることも、いのちをいただくことも、いのちを狩ってくることも、等しく人間の生きていくための生業なのです。そのどちらが尊くて、どちらが賤しいとか、どちらが高等で、どちらが下等だというようなことはあり得ないのです。それなのに、そこに区別を持ち込んできた人間のあり方が問題なのです。先週と同じ問題が底辺に流れているように思います。

しかし、かといって、皆が同じことをすることはできません。夫々に夫々の役割があり、働きがあります。パウロは「体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか(Ⅰコリ12:17)」といいます。ひとりひとりが皆違っているように、夫々のあり方も働き方も違っています。この世界に同じものは何ひとつありません。この世界は多様性に満ちています。決して一括りにすることはできません。わたしたちは、とかくすると、すべて違ったものが同じになること、同じ扱いを受けることを平等であると考えがちです。それが人間社会での教育であったり、宗教だったりするわけです。現代、個性や人権を尊重するなどといいますが、もともとすべて異なっているのにそれを認めず、平等であるべきだと錯覚しているので、そのようなことがでてきます。そこに多様性と平等のはき違えが起こっています。

わたしたちは夫々が皆違っており、夫々が当事者です。わたしたちは各自が祈る人、奉仕する人、働く人なのです。しかし、そのあり方、働き方はすべて違っています。それでいいのです。ですから、神への愛と隣人愛、祈りと活動を対立させて、役割とか働き、身分を固定してしまう必要はないのです。わたしたちは夫々が当事者であり、生活者なのです。生活を離れて、祈りも活動も奉仕もありません。イエスさまはマルタのあり方を否定して、マリアのあり方を肯定されたのではないのです。マリアとマルタの働きをわけることはできないのです。祈るときは祈り、働くときは働く、それでいいのです。そこに優劣をつけているわたしのあり方が問われているということでしょう。わたしたちが、そのときその場にあったあり方、働きに徹すればいいのです。それができないこと、そこにこころの迷いがあるのです。

さらに、もうひとつの大きな問題が隠れています。それはわたしたちの祈り、信仰について幻想というか勘違いをしているという問題です。イエスさまは「必要なことはただひとつである」といわれました。そのひとつは何かということです。ここで多くの人たちは、奉仕の生活より、祈りの生活の方が大切だといわれたと考えてしまうというのはお話しした通りです。しかし、イエスさまはマルタの奉仕を否定されたのではありません。イエスさまは、「あなたは多くのことに思い悩み、こころを乱している」といわれたのです。奉仕というのは、相手があってのことで、相手に沿うこと、先週の福音のことばでいえば隣人となること、わたしたちが相手の身になることの大切さがいわれました。しかし、ここでマルタがしていたことは、自分の段取り、自分のやり方、自分の仕事です。つまり、マルタは自分のしたいことをしていたのに過ぎないということなのです。相手を見て、憐れに思い、近寄って介抱したサマリア人ではなかったということなのです。見た目は奉仕をしていたかもしれませんが、それはただ彼女のやり方、計画を推し進めているだけだったのです。それを「多くのことに思い悩み、こころを乱している」とイエスさまは指摘されたのです。奉仕の本質からずれていて、自分に中心がなってしまっていました。

それは祈りについても同じことがいえます。イエスさまはマリアのことをほめ、祈りの生活を強調されたという単純な話ではありません。たまたまかもしれませんが、マリアは祈りの本質を抑えていました。祈りは神さまに聞くことです。祈りは、自分の願いをイエスさまに聞かそうとすることではなく、イエスさまの願いを聞くことだからです。多くの場合、わたしたちの祈りはイエスさまに何かを願うことになりがちです。イエスさまにわたしたちの願いを聞かそうとしているのです。確かに祈りの中に、わたしたちが願うという要素も含まれてはいます。しかし、わたしたちが人間関係の中で、自分の願いだけをいつも要求してくる人とよい関係を築くことができるでしょうか。それとも、イエスさまは神さまなので、なんでもかなえてくださるとでもいうのでしょうか。祈りは、自分の願いをイエスさまに聞かせることではなくて、イエスさまの願いをわたしが聞かせていただくことなのです。共同祈願はわたしたちの願いではなく、イエスさまの願いをささげることに他なりません。

福音についても同じことがいえます、福音とは、人間が神さまのために何をすべきかについての知らせではなくて、神さまが人間に何をしてくださったかについての知らせです。祈りはこの福音を聞くこと、信仰とは福音を聞くことに他なりません。わたしがこういうふうに隣人愛をしたいとか、わたしの願いはこれで、これを神さまに祈るというのであれば、これはわたしの思いを神さまに押し付けているだけなのです。宗教は神さまとのわたしたちとのかかわりですが、人間が自分の願望を神さまに投影しているような宗教は、真実の宗教とはいえません。宗教の中心はわたしではなく、神さまです。キリスト教はわたし中心の宗教ではなく、神さまがわたしたちにしてくださってことを観想し、イエスさまを通して示された神さまの願いを聞かせていただく宗教なのです。まずは、聞かせていただくことの大切さを味わっていきたいと思います。

年間第15主日 勧めのことば

年間第15主日 福音朗読 ルカ10章25~37節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は、有名なよきサマリア人のたとえが朗読されます。今日の箇所は大抵の場合は、「誰が追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」というイエスさまの問いと、「行って、あなたも同じようにしなさい」というイエスさまの言葉を引用して、隣人愛の実践について説教されます。それはそうなのでそれでいいのですが、そもそもイエスさまがなぜこのたとえ話をされたのかというところから見ていく必要があるように思います。

今日の物語の伏線にあるのは、ある律法学者がイエスさまを試みようとして、「何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができますか」と質問したことから始まります。永遠のいのちを得たいというもっともな願いが背後にあるわけですが、それはイエスさまを試みるための悪意ある質問であったということが書かれています。どういうことでしょうか。ユダヤ教では、モーセから与えられた律法を実行すれば、永遠のいのちが得られると教えていました。ですから、神への愛と隣人愛を教える律法を実践するという答えはすでに出ているのです。それでは、何が問題だったのでしょうか。

永遠のいのちを受け継ぎたいという望みそのものが、問題なのだといわなければならないと思います。永遠のいのちを受け継ぎたいという望みの何が問題なのでしょうか。ユダヤ教の律法学者やファリサイ人にとって、永遠のいのちを受け継ぐこと、神によって嘉せられることは、彼らの宗教の究極的な目的でした。キリスト教であってもそうではないでしょうか。その何が問題なのでしょうか。それでは、永遠のいのちを得たいのは何のためでしょうか。それは、自分が救われたいとか、自分が神さまから嘉せられたいということでしょう。これをわたしたちキリスト者に置き換えるなら、天国に行きたいとか、洗礼を受けて救われたいとかいうことでしょう。でも、少し考えてみると、これほど自己中心的な話があるでしょうか。救われたいと思っているのは、結局はわたしの望みが叶うことではないでしょうか。そこでいわれている救いは、わたしの働きや努力が認められて、「忠実な良い僕だ、よくやった(マタイ25:21)」と褒めてもらえる世界、わたしが報われる世界です。また、わたしたちには、あの人とは会いたくないという人や、考えを異にする人たちがいます。わたしたちは、そのような人たちがいない世界、自分の嫌いな人、自分の考えと違う人がいない世界が天国で、救われた世界だと思っていないでしょうか。今日の聖書のことばでいえば、“わたしの隣人たち”だけがいる世界を天国だとか、永遠のいのちだと思っていないでしょうかということです。大体、自分と自分の好きな人たちだけが救われる、死んだあと親しい人とだけ再会したいと思っている、それの自分の性根そのものが問題なのではないでしょうか。気をつけないと、わたしの救いは非常に狭い、自分にとって都合のよい世界を考えていないかということが問われているのです。それでは、イエスさまはどのように考えておられたのでしょうか。

当時のユダヤ人たちが考えている隣人愛の対象となる人たちは、同じ同胞のユダヤ人だけでした。ユダヤ人以外の外国人、ローマ人やギリシャ人、そして何百年間も反目し合ってきたサマリア人はまさに敵そのものであって、愛することなど考えもしませんでした。ですから当時のユダヤ人が永遠のいのちを受け継ぐために、律法が命じている隣人愛の隣人というのは、同朋のユダヤ人だけに限られていたのです。つまり、彼らの考えている永遠のいのちの世界は、同朋のユダヤ人だけが幸せになる世界でしかなかったのです。他の憎むべき敵であるローマ人やギリシャ人、ましてサマリア人がいない世界であったわけです。こんなに自分勝手な救いがあるはずがないことは、わたしたちは直ぐにわかるでしょう。しかし、これがわたしのこととなれば別ではないでしょうか。

わたしたちが永遠のいのちを受け継いだ世界に、自分の嫌いな人、自分が憎んでいる人、自分を苦しめた人、自分にとって都合の悪い人はいてほしくないというのがわたしたちの本音ではないでしょうか。洗礼を受けた人は救われるが、洗礼を受けていない人は救われないという発想も所詮同じことなのです。イエスさまは今日のたとえ話で、祭司やレビ人を非難し、外国人であるサマリア人の行動を褒められたという単純な話ではないのです。また、イエスさまはよいサマリア人のたとえを話すことで、隣人愛の対象の境界を広げていくように教えられたのだという人たちもいます。しかし、問題はそんな簡単なことではありません。そもそも、隣人という言葉は、反対概念である敵を含んだ言葉であるということです。ですからユダヤ教では、「隣人を愛し、敵を憎め」と教えられてきました。それに対して、イエスさまは「敵をも愛しなさい」と教えられました。そこで、わたしたちが隣人愛の境界を少し頑張って広げて、隣人の範囲を大きくするような発想では、この憎しみと争いに明け暮れる世界をどうすることも出来ないのです。敵を作り出しているのは誰なのでしょうか。実は、隣人と敵、同朋と異邦人という境界を作り出しているのは、わたしのこころのあり方に他なりません。ですから、そのあり方、わたしたちのそのこころの闇に光を当てなさいということなのではないでしょうか。

イエスさまが問題とされたのは、味方と敵、ユダヤ人と外国人、洗礼を受けた人と洗礼を受けていない人というあらゆる区別、境界を作り出している人間のこころの闇です。わたしたち人間は自分を相手と区別することで、自分というものを認識し、安定しようとする存在です。わたしたちはそのようにしてしか、自分というものを確認することしかできないのです。そのようなわたしたち人間のあり方が、差別、区別、排除、敵対を作り出しているのだといっても過言でありません。イエスさまがいわれるのは、そのような人間のもっている本性、弱さ、限界、傾きを自分のこととして意識しなさいということだと思います。イエスさまには、敵味方、同胞外国人、男女などといった区別がありませんでした。イエスさまは、ただ相手を見て、憐れに思い、近寄って介抱されたのです。わたしの隣人はだれかを問うのではなく、あなたがその人の隣人になりなさいとイエスさまはいわれたのです。相手に何かを要求するのではなく、相手に沿うてみなさい、沿うだけではなく隣人となってみなさいといわれるのです。わたしがキリスト者であるとか、相手が何であるかということなど一切関係ないのです。あなたはその人になりなさいといわれたのです。なぜなら、あなたはその人だからといわれるのです。

イエスさまは、相手が自分の敵か味方か、同胞か同胞でないか、隣人か他人かで関わられませんでした。「そこではもはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいてひとりなのです(ガラテア3:28)」といわれます。イエスさまにとって,他者というのは自分であり、自分というものは他者なのです。みことばであるイエスさまが人間となられたということは、イエスさまはわたしになられたということなのです。イエスさまがわたしになられたということは、わたしはイエスになったということでもあるのです。これをパウロは、「キリストにおいてひとりである」というのです。ですから「ひとつの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、ひとつの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです(Ⅰコリ12:26)」。隣人を愛する、隣人となるというのは律法の掟でも、キリスト教の教えでもないのです。同じいのちを生きる、同じひとつの体であるいのちの法則なのです。ひとつの体しかありませんから、すべて自分ごとです。他人とか隣人はいないのです。ひとりの部分が痛めば、すべての部分が痛みます。これは掟なのではなくて、いのちとしての当然の法則なのです。見て、憐れに思い、近づくというのはいのちの法則なのです。イエスさまにはわたしというものなどないのです。実はわたしたちもそうなのです。