王であるキリスト 福音朗読 ヨハネ18章33~37節
<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗
今日は王であるキリストのお祝い日です。キリストが王であるといいますが、そもそも、王という存在はいかなるものでしょうか。ピラトは「お前がユダヤ人の王なのか」と質問しています。ピラトは総督で王、皇帝の下にいました。王、皇帝はこの世で権力と富を一身に掌握し、人身の頂点に立ち、自分の思いや願いをすべて通していける存在です。ですから、ピラトはイエスさまに、お前は権力と富を一身に掌握し、自分の思いや望みを実現していくものなのかと問うているのです。王は自分の思いや望みを実現していくために、国を建てることも必要になります。国土をもたない王というものはありません。ですから「お前がユダヤ人の王なのか」と聞くのです。
では国というものは何でしょうか。わたしたちが国というものを考えると、それは特定の領土と特定の国民、ある種の統治形態を備えたものであると考えます。ですから、国は地球上の北緯何度、東経何度にあって、そこには国民がいて、国境があってということになります。つまり、国という概念を持ち出してくると、それは地球上のどこかにあって、領土と国境があって、その国の国籍をもった人と国籍をもっていない人がいて、その国に入ることができる人と入ることができない人がいるということになります。つまり、国という概念は人を分断していく考え方であるということになります。しかし、ここでイエスさまが「わたしの国」といわれたことばは、共観福音書では「神の国」と訳されている“国”にあたることばで、その意味は「支配する」「統治する」ことであって、国土という意味はありません。つまり、イエスさまが「わたしの国はこの世には属していない」といわれたのは、わたしの国というのは、あなたがたが考えているような国土を伴うような国ではないし、わたしはあなたがたの考えているような王ではないといわれたのです。ですから、このお祝い日は誤解を招くお祝い日であるということなのです。
わたしたち人間は、夫々がグループや家庭、地域、職場、宗教、国家などにおいて、いろいろなことを自分の思いを通していきたい、そのような存在です。つまり、テリトリーや国土をもち、王、トップ、上になりたがる存在であるということです。わたしたちは、すべてを自分の思い通りにして、自分の望みを叶えて自己実現していこうとするのです。これは人間として、どうすることもできない現実なのです。しかしそれで、果たして人間は幸福になれるのかということです。
イエスさまがいのちをかけて伝えようとされた神の国は、わたしたちが考えるような国ではないし、イエスさまはそのような国の王でもないといわれたのです。しかし、それがマタイでは天の国になり、天の国が天国となっていきます。そして、神の国は場所とか、人間のこころの問題、あり方として理解されるようになっていきました。よいことをした人は入れて、そうでない人は入れない、そこには審判する王がいて、すぐに入れない人たちが待機する場所がある(煉獄、化国)いう発想が出てくるのです。しかし、イエスさまはそのような国のあり方、王のあり方を否定されたのです。
それではイエスさまが王であるというのはどのような意味なのでしょうか。それを、イエスさまは「わたしは真理を証しするために生まれ、そのためにこの世にきた」といわれました。イエスさまの役割は真理を証しすることです。今日の続きの箇所で、ピラトは「真理とは何か」とイエスさまに聞きますがイエスさまは答えられませんでした。自分で考えろということでしょう。わたしたちは、よくこれは本当だとか、この宗教、教えは真実だといういい方をしますが、真理とはそのようなものの性質や種類や現象をいうのではなく、真理を真理たらしめるものは何かということなのです。
イエスさまは別の箇所で「わたしは道、真理、いのちである」といわれました。真理とは、いかなる時代でも、どのような場所で変わることがない真実のことです。イエスさまは、“俺が真理で正義だ、だから俺を信じろ”と自己主張されたという意味ではないのです。イエスさまは、ご自分のあり方、生き様で真理の本質、内実を示されたということではないでしょうか。そのイエスさまのあり方の本質は、「友のためにいのちをすてること、これ以上に大きな愛はない(ヨハネ15:13)」といわれた利他性にあるということができると思います。ユダヤ教のもっていた限界は、わたしが神を愛する、自分を愛するように隣人を愛する、またわたしが敵を愛するというふうにいわれてきた自己中心性にあります。英語ではエゴセントリズム、またはセルフセンタードネスといわれるものです。エゴイズムは単なる自分勝手、自己中で、非常に幼稚な自己のあり方を指しますが、エゴセントリズム、またはセルフセンタードネスというのは、人間は自己というあり方を離れて、客観的に事実を認識し、判断することができないことをいいます。ですから、エゴイズムはある程度は人間の注意で矯正できるものですが、わたしたちの自己中心性は人間をやめない限りなくならないということなのです。
そもそも、キリスト教信仰自体が、この自己中心性の上に成り立っています。わたしたちが信仰といっても、信仰を自分のこころのあり方として捉えている限り自己中心性が最後まで残ってしまいます。これが、現代のキリスト教が行き詰っているところです。しかし、イエスさまがメスを入れられた、切り込んでいかれたのがこの自己中心性なのです。それは、「友のためにいのちをすてる」ということなのですが、それは単に他人のために自分のいのちを捨てる、自分が救い主として上から目線でこの世を救うということでは終わりません。すべての人、この世界を救い取らない限り、自分も救い主にならない、安息に入らないというのがイエスさまのあり方だということなのです。これこそがイエスさまが王であるゆえんです。パウロはそのことを「キリストは、神の身分でありながら、神と等しいものであることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じものとなられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした (フィリピ2:6~8)」といい、ヨハネ福音書では「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ(ヨハネ5:17)」といわれていることです。
そして、これは単に自分のあり方を捨てるという利他性だけにとどまりません。どういうことかというと、イエスさまは世界を救う自分をこの世界の中心に置くということはされないのです。わたしたちは普通、自分が先にあって他人があると考えます。これが自己中心性といわれるものです。ですからイエスさまについても、救い主としてのイエスさまが先にあって、イエスさまがこの人類を憐れんで救われるのだというように捉えます。しかし、イエスさまはそうではないです。救い主としての自分があって人類があるのではなく、救われなければならない人類、宇宙があるから自分があり、また救われるべき人類、宇宙によって自分は救い主になるのだといわれるのです。そして、そのような相互関係こそがこの世界本来のあり方であり、これがイエスさまは神の国、神の支配といわれたことの内実なのです。ですから、この世界はすべてお互いさまであり、この世界すべてが神の国の当事者なのです。これが真理なのです。
ですから真理とは、わたしを離れてどこかにあって、それをわたしが手に入れるということではなく、自分というものは、実は他人によって自分であるということに気づかされるということだといえます。このことをキリスト教は回心と呼んでいます。ですから、回心は軌道修正とか反省ではなく、パラダイム変換なのです。自分が先にあって他人があるとかでなくて、他人があって自分がある、自分があって他人があるという、この世界の本来的なありさまをイエスさまが神の国の宣教によってあきらかにし、自分の生きざま、死にざまをもって、真理をあきらかにしてくださったのだということなのです。現代人はみな個人としての自分が中心になっています。そのようなわたしたちに、真理とは何かが問われているということなのです。