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12月のお知らせ

2024年12月9日現在の予定です。変更される可能性もございます。

■2025年は「通常聖年」です。
「希望は欺かない―2025年の通常聖年公布の大勅書」が中央協議会のサイトに公開されています。https://www.cbcj.catholic.jp/2024/07/24/30297

■大塚司教の聖年についての文書
2025年聖年「希望の巡礼者」を迎えるにあたって
https://kyoto.catholic.jp/shikyo/20241124.pdf

クリスマスメッセージ
https://kyoto.catholic.jp/shikyo/2024christmas.pdf

司教年頭書簡
https://kyoto.catholic.jp/shikyo/letter202501.pdf

が、教区のホームページに掲載されています。
各国語版もありますので、お知り合いで必要な方がおられましたらお伝えください。

■今年度分の教会維持費の納入がまだの方は、どうぞよろしくお願いいたします。

■高野教会ミサ予定
1日(日)待降節第1主日 ミサ10:30
3日(火)ミサ10:30
8日(日)待降節第2主日 第2日曜日につきミサはありません
10日(火)ミサ10:30
15日(日)待降節第3主日 ミサ 10:30
17日(火) ミサ10:30
22日(日)待降節第4主日 ミサ10:30
24日(火)主の降誕夜半のミサ ミサ17:00
29日(日)聖家族 集会祭儀 10:30
31日(火) ミサはありません。


■主の降誕 近隣教会のミサ
西陣  主の降誕日中 ミサ25日(水)9:00
北白川 主の降誕夜半ミサ 24日(火)19:15 主の降誕日中ミサ 25日(水)10:30
河原町 主の降誕夜半ミサ24日(火)18:30、21:00
主の降誕日中ミサ 25日(水)7:00、10:30、13:00(英語ミサ)

■任意団体の活動
3日(火) ミサ後 コミュニティ広場 
4日(水) 10:00 シスターレベッカの英会話
7日(土) 10:00 高野教会混声合唱会
10日(火) ミサ後 コミュニティ広場
14日(土) 10:00 キリスト教のエッセンスを学ぶ会(ペトロ)
17日(火) ミ サ後 コミュニティ広場
17日(火) 13:30 アフタヌーンティー(教会に興味のある方、初めて来られる方、どなたでも
18日(水) 10:00 シスターレベッカの英会話
21日(土) 10:00 高野教会混声合唱会
22日(日) ミサ後 コミュニティ広場
28日(土) 10:00 キリスト教のエッセンスを学ぶ会(パウロ)
29日(火) ミサ後 コミュニティ広場

■ その他
12月22日のミサの後、ホールにて、教会学校の子どもたちが発表を行います。(プログラム未定)

■オンライン版『教会の祈り』について 
従来「聖務日課」と呼ばれてきた「教会の祈り」が、カトリック中央協議会のサイトにて公開されましたのでご利用ください。
https://www.cbcj.catholic.jp/2024/11/25/30970

待降節第2主日 勧めのことば

待降節第2主日 福音朗読 ルカ3章1~6節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は、イエスさまの宣教活動に先立つ洗礼者ヨハネの活動を述べます。ルカは、その際に“とき”ということを強調します。「皇帝ティベリウス治世の第15年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督であったとき…」と述べています。それは、おそらくイエス・キリストという出来事が、いわゆる伝説や架空上のおとぎ話ではなく、人類の歴史のなかで実際に起こった出来事であることを強調しようとしたのだと思います。

普通、わたしたちは現在・過去・未来というときの流れのなかに生きているというふうに考えています。また、時間というものがあると考えています。だから、よきにつけわるきにつけ、わたしたちは過去の行いによって今の自分があり、その自分が過去を背負って生きていくのだというふうに考えます。勧善懲悪的なものの考え方というものは、過去によいことをすれば将来よい報いがあり、悪いことをすれば将来罰がくだるという時間の流れの中で因果関係を捉えていくという発想になります。そして、実際の人間社会も宗教もそのように時間というものをとらえています。しかし、現代の物理学の発達によって、時間を初めがあって終わりがあるような現在・過去・未来というようなときの幅をもった連続として捉えるのではなく、時間というものはあくまでも、人間が天体などの運動法則等によって作り出された変化をはかるための物差しにすぎないと考えるのが主流となっています。ですから、人間が考えている現在・過去・未来というのは人間の作り出した物差し、決め事であって、宇宙そのものはそのような時間や空間の規定の枠のなかにはないというように捉えられています。ということは、わたしたち自身も宇宙の一部ですから、わたしは時空のなかにいるわけで、実は時間というものは人間の決めた約束事であり、必ずしも真実、リアリティあるものであるという確証はないということになります。つまり、今わたしが生きていると思っている時空の世界は、人間が理性で過去と未来として認識しているのにすぎず、今という現実を人間は認識することはできないということなのです。それでは、一体何が真実、リアリティなのでしょうか。

そのような観点から、改めて今日の箇所を読み直してみると、まったく別の読み方をしていくことができると思います。皇帝ティベリウス治世の第15年のとき、洗礼者ヨハネが悔い改めの洗礼を宣べ伝えた、預言者イザヤを通して「人は皆、神の救いを仰ぎ見る」といわれたそのときは、世界史的には紀元27年か28年にあたると特定されています。それによって、イエス・キリストという出来事を人間の歴史的事実として位置づけることができます。しかし、まったく別の観点から読み直していくと、その“とき”というのは、紀元27年か28年にあたる過去の時間のある一点をいうのではなく、人が皆、神の救いを仰ぎ見つつあるそのとき、イエス・キリストによって救いが実現しつつあるとき、わたしたちが“今、救われつつあるとき”、つまり永遠における今であるところの、わたしたちが決して捕まえることができないその“とき”であるということではないでしょうか。それが、神さまは永遠であるということです。

聖書の中では、イエスさまといついつに出会ったといういい方がなされており、わたしたちもイエスさまとの出会いというとそのように時間とか自分の人生の中でのこととして考えてしまいます。確かに、ヨハネ福音書では最初の弟子がイエスさまと出会ったのが「午後4時ごろ(ヨハネ1:39)」であったとか、パウロのようにダマスコへ行く途中で復活されたイエスさまと出会った(使徒9:2)というような体験が描かれています。確かにそうなのでしょう。しかし、大切なことは、今生きているわたしたちがイエスさまと出会うことができるのは、過去のあるときでもなく、まだ来ていない未来のあるときでもなく、わたしが生きている今この“とき”でしかないということです。聖書に描かれているような、過去の人の救いの体験というものは参考になるでしょうし、それを黙想して追体験するということもできるでしょう。しかし、救いそのものを、救われたという過去の出来事や思い出であるとか、その過去に起こった出来事にもとづいて未来に起こるであろうことであると捉えてしまうと、救いとは人間のこころの問題になってしまいます。そのようになると、わたしたちは過去の救いの体験にしがみつくか、未来の救いの希望にしがみつくことになります。こうして、救いはいずれも人間のこころの問題になってしまうのです。そうすると、わたしがどのように生きたかとか、どのように生きるかとか、わたしがどれだけ強く信じたかとか信じなかったかによって、救いが決まってくるということになっていきます。救いは、過去の出来事でも、未来の約束事でもありません。救いや永遠のいのちを、将来受けるであろう何かと捉えることになってしまいます。これらは人間の作り出したものであって、それらが真実であるという保証はどこにもありません。なぜなら、わたしたちが信じるというとき、その対象は不確かだということだからです。ですから、わたしが信じれば信じるほど真実が深まり、救いが確実になるということはあり得ず、信じれば信じるほど不信の闇は深くなるのが現実です。それは、救いを人間の信じるという行為によると捉えているからです。そうすると疑いのこころが起こるのは信仰が弱いからだといい、追い打ちをかけるような教えになってしまいます。

しかし、救いは神さまの行為であり、神さまの業です。人間の行為とか、人間の信仰の影響を受けません。しかし、人間は自分が救われたという証拠が欲しいので、救われたという体験を記憶につなぎ留めたり、教会に保証を求めたり、またそれを自分の信仰の深さに求めてきました。しかし、自分のこころを拠り所としている限り、そのような状態が長続きすることはあり得ません。それは、最初の弟子たちもパウロも同じだったでしょう。あの出来事は一体何だったんだろうと疑いのこころを起こしつつ、自問自答していたのではないでしょうか。ですから教会では、繰り返して感謝の祭儀をおこなって、イエスさまのことを忘れないようにしてきたのだと思います。そして、わたしたちは過去に犯した過ちや罪に対して恐れおののきつつ、将来訪れるであろう苦しみや罰に怯えながら人生を過ごすのです。教会がそのような教え方をしてきたということも否めません。しかし、もしわたしたちの人生がそれだけであれば、人間は人間が作り出した時間の奴隷にすぎません。そうではなく、神さまが永遠で、生きておられるということは、わたしたちがイエスさまと出会い救われるのは、わたしの業とか何かによるのではなく、わたしが生きている今、救われつつあるのは永遠の今であるこのときにおいては他にあり得ないということなのです。やれ救われた救われないという不確実な人間の思惑が入り込まない、しかしわたしたちが現実に生きている今というこの“とき”こそが、神さまとわたしとの出会いのために与えられた“とき”であるということなのです。そして、このときはイエスさまが人類のために一回きり、ご自分のいのちを捧げてくださったその救いのときでもあるのです。

主の降誕に向かってわたしたちは黙想会に参加したり、12月25日にイエスさまが来られると信じて馬小屋を整えたり、こころを浄めてイエスさまを迎えようと準備します。それ自体はよいことなのですが、考えてみると、確実なものなど何もないわたしたちは何と愚かなことをしているのでしょうか。イエスさまがわたしたちを訪れ、わたしたちのうちにイエスさまがお生まれになるのは、二千年前の過去のベトレヘムの馬小屋ではないのです。まして、まだ来ていない今年の12月25日でもないのです。イエスさまは、今生きているわたしのうちに、今お生まれになるのです。イエスさまがお生まれになるのは、“今というとき”をおいて他にはないのです。

待降節第1主日 勧めのことば

待降節第1主日 福音朗読 ルカ21章25~28節、34~36節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今年も待降節に入りました。待降節はイエスさまの降誕を待つ季節として理解されていますが、アドベントということばは「来る」という意味です。ですから、待降節は大きく2つの部分に分かれています。12月17日からは降誕前の8日間として、主にイエスさまの降誕に向けた準備の時期として位置づけられています。それに対して、待降節第1主日から16日までは、イエスさまの再臨ということがテーマとなっています。ですから、今日読まれる福音箇所は、イエスさまの再臨ということがテーマです。

このテキストは福音書のなかでも解釈の難しい箇所のひとつです。ルカはこの箇所の直前で、ローマ帝国によるエルサレムの都の包囲と滅亡を予告していますが、ルカが書かれたときすでにエルサレムの都は陥落していました。なぜこのように書かれたのかというと、エルサレムの陥落は聖書で預言されており、イエスさまを拒んだユダヤ人への神の怒り、裁きとして描きたかったのでしょう。ルカ福音書は、ユダヤ教からキリスト教になった人、またユダヤ人でないキリスト者に宛てて書かれています。エルサレムの都の陥落と多くのユダヤ人が虐殺され捕虜となったことは、彼らにとっても大きなショック、信仰の試練となったようです。というのは、当時のキリスト者たちにとって、エルサレムはイエスさまが最期を遂げられた聖地であり、救いはエルサレムから始まると考えていたからです。ルカ福音書の後編でもある使徒言行録では、「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父から約束されたものを待ちなさい(1:4)」と述べられ、聖霊降臨、そしてそこから福音宣教が始まることになっています。

当時の初代教会は、ユダヤ教から受け継いだ終末思想を生きていました。ユダヤ教の終末思想というのは、試練によって浄められたイスラエルの民にメシアが遣わされて救いがもたらされ,審判が行われて人類の歴史が完成するというものでした。この思想は初代教会にも受け継がれ、旧約聖書で預言されていたメシアであるイエスの生涯、死、復活によって終末と救いが始まり、メシア(キリスト)が再臨することで人類の歴史は完成され、神の国が到来するという期待が広がっていました。そして、その舞台がエルサレムでした。そうした期待が、苦しい状況を生きるキリスト者のこころの拠り所となっていたのです。

しかし、そこでキリスト者たちが体験したことは、神の沈黙とキリストの再臨の遅延という現実です。神さまは、エルサレムの都が滅ぼされ、民が殺されるままにしておられる。彼らはすぐにでもキリストが再臨して、ローマ帝国の支配を裁かれると考えていましたから、何が何だかわからないということだったと思います。ですから、この神の沈黙とキリストの再臨の遅延という事実について、キリスト者たちは再解釈をしなければならなくなったわけです。再臨の遅延を、さらに時間的に延長したり、精神化して捉えようとしたりしました。その後この終末思想は、キリスト教の教義となり、現在も死、審判、地獄、天国を四終として教え、私審判と公審判とか、天国・地獄・煉獄の教えと絡み合って、怖れでもって信仰教育をする時代が非常に長く続いていくわけです。21世紀になっても、このような前世紀的なことが教えられていることに驚かされます。

この終末思想は、特定の民族に偏った現世利益的な救済観、歴史観です。そもそも、イエスさまの十字架の死によって、ユダヤ人の救いは果たされませんでしたし、安定した日常も訪れませんでした。つまり、イエスさまはこの世から人類の苦しみをなくされなかったということです。わたしたち人間が生きていく限り、誰もが体験する老病死という現実はなくならなったのです。イエスさまはわたしたちの幸せを実現するような、またわたしたちが生きる上での苦しみ、老病死からの救い主ではなかったということなのです。初代教会の体験したことは、イエスさまの十字架、復活という出来事を信じても、自分たちの苦しい人生は何も変わらないということです。むしろ、それに追い打ちをかけるように、エルサレムの都の陥落、ローマ帝国によるユダヤ人の虐殺、その後はキリスト教徒に向けられる迫害と試練が続きました。その中で脱落者も出てきます。もとのユダヤ教に戻ろうとするもの、キリスト教信仰から離れるものも少なくありませんでした。彼らは、神の沈黙、イエスさまの不再臨に待ち疲れてしまいました。ユダヤ教から受け継いだ終末思想は、もはや彼らの信仰の拠り所にはなり得なかったということです。

それでも尚且つ、彼らがイエスさまへの信仰を持ち続けたのはどうしてでしょうか。当時の人々があれほどの試練のなかでも、イエスさまへの信仰から離れなかったのは、彼らが頑張ってイエスさまを信じ続けた意志の強さゆえでしょうか。そうではないと思います。もはや、人間の力でどうこうできる種類の状況ではなかったはずです。それはキリスト者が頑張って信じたからではなくて、イエスさまからの働きかけ、彼らがイエスさまから離れられない何かがあったのではないでしょうか。イエスさまは、当時の人々の望みに何も答えませんでした。ローマ帝国によってエルサレムの都が破壊され、ユダヤ人たちが殺害されあるいは捕虜にされ、今度は自分たちに迫害の矛先が向けられてくる。神は介入せず、イエスさまが再臨して自分たちを危険から守ることもされません。終末論的な希望はすべて打ち砕かれたのです。

それでも、彼らが信じ続けたのは、彼らの意志や信念、こころの強さではなく、復活されたイエスさまが彼らのなかに生きておられ、彼らを捕らえて離そうとされなかったということではないでしょうか。これを復活体験というのです。彼らはもはやイエスさまなしの人生など考えることが出来ないほど、イエスさまから深く関わられてしまったのです。パウロはそのことの体験を「キリストの愛がわたしたちを駆り立てているのです(Ⅱコリ5:14)」といいました。パウロ自身がではなく、イエスさまがパウロ自身を捕まえてしまったと告白するのです。だから「誰が、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができるでしょうか。艱難か。苦しみか、迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か(ロマ8:35)」というのです。わたしがイエスさまのことを忘れようとも、どれだけ離れようとも、呪おうとも、イエスさまは決してわたしを見放そうとはされない、そのことを体験した人は、自分のなかで復活されたイエスさまが今生きておられ、もはやイエスさまの再臨を待つ必要がなくなったのです。ただ、わたしがイエスさまとその人生をたどるために、待降節があり、降誕祭があるのにすぎないのです。わたしたちは、いつもガリラヤから始めて、わたしとともに歩んでくださるイエスさまとともに人生を歩んでいけるのです。

今生きているわたしたちは、その当時の終末思想の焼き直しのような終末論を教えられています。最後の審判で、正しい人は報われ天国に行き、悪人は罰せられる地獄に落とされると。イエスさまは、正しい人にも正しくない人の上にも注がれるいつくしみ深い神さまの真実を説かれたのではなかったでしょうか。それなのに、どうして教会は救われる人と救われない人を区別しようとするのでしょう。また、今もっても教会の内と外とを区別しようとするのでしょうか。イエスさまとともに生きている人にとって、もはやそれらの区別は存在しないのです。なぜなら、わたしたちは、わたしのうちに生きておられるイエスさまと出会っているからです。ですからわたしたちが気づきさえすれば、イエスさまはわたしたちのうちにおられ、わたしたちはイエスさまのうちにいるのです。その気づきを、イエスさまの降誕、イエスさまの再臨というのです。この待降節を迎えるにあたって、改めてわたしたちが置かれている身というものを省みてみましょう。

王であるキリスト 勧めのことば

王であるキリスト 福音朗読 ヨハネ18章33~37節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は王であるキリストのお祝い日です。キリストが王であるといいますが、そもそも、王という存在はいかなるものでしょうか。ピラトは「お前がユダヤ人の王なのか」と質問しています。ピラトは総督で王、皇帝の下にいました。王、皇帝はこの世で権力と富を一身に掌握し、人身の頂点に立ち、自分の思いや願いをすべて通していける存在です。ですから、ピラトはイエスさまに、お前は権力と富を一身に掌握し、自分の思いや望みを実現していくものなのかと問うているのです。王は自分の思いや望みを実現していくために、国を建てることも必要になります。国土をもたない王というものはありません。ですから「お前がユダヤ人の王なのか」と聞くのです。

では国というものは何でしょうか。わたしたちが国というものを考えると、それは特定の領土と特定の国民、ある種の統治形態を備えたものであると考えます。ですから、国は地球上の北緯何度、東経何度にあって、そこには国民がいて、国境があってということになります。つまり、国という概念を持ち出してくると、それは地球上のどこかにあって、領土と国境があって、その国の国籍をもった人と国籍をもっていない人がいて、その国に入ることができる人と入ることができない人がいるということになります。つまり、国という概念は人を分断していく考え方であるということになります。しかし、ここでイエスさまが「わたしの国」といわれたことばは、共観福音書では「神の国」と訳されている“国”にあたることばで、その意味は「支配する」「統治する」ことであって、国土という意味はありません。つまり、イエスさまが「わたしの国はこの世には属していない」といわれたのは、わたしの国というのは、あなたがたが考えているような国土を伴うような国ではないし、わたしはあなたがたの考えているような王ではないといわれたのです。ですから、このお祝い日は誤解を招くお祝い日であるということなのです。

わたしたち人間は、夫々がグループや家庭、地域、職場、宗教、国家などにおいて、いろいろなことを自分の思いを通していきたい、そのような存在です。つまり、テリトリーや国土をもち、王、トップ、上になりたがる存在であるということです。わたしたちは、すべてを自分の思い通りにして、自分の望みを叶えて自己実現していこうとするのです。これは人間として、どうすることもできない現実なのです。しかしそれで、果たして人間は幸福になれるのかということです。

イエスさまがいのちをかけて伝えようとされた神の国は、わたしたちが考えるような国ではないし、イエスさまはそのような国の王でもないといわれたのです。しかし、それがマタイでは天の国になり、天の国が天国となっていきます。そして、神の国は場所とか、人間のこころの問題、あり方として理解されるようになっていきました。よいことをした人は入れて、そうでない人は入れない、そこには審判する王がいて、すぐに入れない人たちが待機する場所がある(煉獄、化国)いう発想が出てくるのです。しかし、イエスさまはそのような国のあり方、王のあり方を否定されたのです。

それではイエスさまが王であるというのはどのような意味なのでしょうか。それを、イエスさまは「わたしは真理を証しするために生まれ、そのためにこの世にきた」といわれました。イエスさまの役割は真理を証しすることです。今日の続きの箇所で、ピラトは「真理とは何か」とイエスさまに聞きますがイエスさまは答えられませんでした。自分で考えろということでしょう。わたしたちは、よくこれは本当だとか、この宗教、教えは真実だといういい方をしますが、真理とはそのようなものの性質や種類や現象をいうのではなく、真理を真理たらしめるものは何かということなのです。

イエスさまは別の箇所で「わたしは道、真理、いのちである」といわれました。真理とは、いかなる時代でも、どのような場所で変わることがない真実のことです。イエスさまは、“俺が真理で正義だ、だから俺を信じろ”と自己主張されたという意味ではないのです。イエスさまは、ご自分のあり方、生き様で真理の本質、内実を示されたということではないでしょうか。そのイエスさまのあり方の本質は、「友のためにいのちをすてること、これ以上に大きな愛はない(ヨハネ15:13)」といわれた利他性にあるということができると思います。ユダヤ教のもっていた限界は、わたしが神を愛する、自分を愛するように隣人を愛する、またわたしが敵を愛するというふうにいわれてきた自己中心性にあります。英語ではエゴセントリズム、またはセルフセンタードネスといわれるものです。エゴイズムは単なる自分勝手、自己中で、非常に幼稚な自己のあり方を指しますが、エゴセントリズム、またはセルフセンタードネスというのは、人間は自己というあり方を離れて、客観的に事実を認識し、判断することができないことをいいます。ですから、エゴイズムはある程度は人間の注意で矯正できるものですが、わたしたちの自己中心性は人間をやめない限りなくならないということなのです。

そもそも、キリスト教信仰自体が、この自己中心性の上に成り立っています。わたしたちが信仰といっても、信仰を自分のこころのあり方として捉えている限り自己中心性が最後まで残ってしまいます。これが、現代のキリスト教が行き詰っているところです。しかし、イエスさまがメスを入れられた、切り込んでいかれたのがこの自己中心性なのです。それは、「友のためにいのちをすてる」ということなのですが、それは単に他人のために自分のいのちを捨てる、自分が救い主として上から目線でこの世を救うということでは終わりません。すべての人、この世界を救い取らない限り、自分も救い主にならない、安息に入らないというのがイエスさまのあり方だということなのです。これこそがイエスさまが王であるゆえんです。パウロはそのことを「キリストは、神の身分でありながら、神と等しいものであることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じものとなられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした (フィリピ2:6~8)」といい、ヨハネ福音書では「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ(ヨハネ5:17)」といわれていることです。

そして、これは単に自分のあり方を捨てるという利他性だけにとどまりません。どういうことかというと、イエスさまは世界を救う自分をこの世界の中心に置くということはされないのです。わたしたちは普通、自分が先にあって他人があると考えます。これが自己中心性といわれるものです。ですからイエスさまについても、救い主としてのイエスさまが先にあって、イエスさまがこの人類を憐れんで救われるのだというように捉えます。しかし、イエスさまはそうではないです。救い主としての自分があって人類があるのではなく、救われなければならない人類、宇宙があるから自分があり、また救われるべき人類、宇宙によって自分は救い主になるのだといわれるのです。そして、そのような相互関係こそがこの世界本来のあり方であり、これがイエスさまは神の国、神の支配といわれたことの内実なのです。ですから、この世界はすべてお互いさまであり、この世界すべてが神の国の当事者なのです。これが真理なのです。

ですから真理とは、わたしを離れてどこかにあって、それをわたしが手に入れるということではなく、自分というものは、実は他人によって自分であるということに気づかされるということだといえます。このことをキリスト教は回心と呼んでいます。ですから、回心は軌道修正とか反省ではなく、パラダイム変換なのです。自分が先にあって他人があるとかでなくて、他人があって自分がある、自分があって他人があるという、この世界の本来的なありさまをイエスさまが神の国の宣教によってあきらかにし、自分の生きざま、死にざまをもって、真理をあきらかにしてくださったのだということなのです。現代人はみな個人としての自分が中心になっています。そのようなわたしたちに、真理とは何かが問われているということなのです。

年間第33主日 勧めのことば

年間第33主日 福音朗読 マルコ13章24~32節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

マルコ福音書は紀元66年から始まった第1次ユダヤ戦争の頃、ローマで書かれたといわれています。第1次ユダヤ戦争は、当時のユダヤ州の総督がインフラ整備の資金のために、エルサレムの神殿から宝物を持ち出したことが発端となって始まります。ローマ帝国への支配に対して不満をもっていたユダヤ教の過激派グループが反乱を起こし、73年まで争いが続きました。エルサレムのキリスト者共同体は戦乱を避けて、ギリシャのべレアに非難します。マルコ福音書の読み手は、ユダヤ戦争を逃れてきたキリスト教共同体であったと考えられます。

当時のキリスト教は、まだユダヤ教の一派として留まっていました。しかし、ユダヤ人以外の信者も増えて、ユダヤ教の狭い枠組みから脱皮し、世界宗教へと変容を遂げようとしているところでした。彼らは、ユダヤ教の伝統を尊重しながらも、ナザレのイエスをメシアと信じ生活していました。エルサレムは、彼らにとってもイエスさまが十字架の死を遂げられた聖都であり、信仰の拠り所でした。当時の彼らの信仰は、イエスさまがメシアとして再臨し、新しいエルサレムを再興してくださるということでした。ですから、ユダヤ戦争の成り行きを祈るような気持ちで見守っていたのでしょう。そして、自分たちに聞こえてくるユダヤ戦争の惨事を、終末のしるしとして捉えるというのが当時の終末思想でした。

終末思想というのは、当時のユダヤ教のなかに広まっていた考え方で、試練によって浄められたイスラエルの民にメシアが遣わされ、救いがもたらされ,審判が行われて人類の歴史が完成するというものでした。この思想は、キリスト教にも引き継がれました。初代教会では、旧約聖書で預言されていたメシアであるイエスの生涯、死、復活によって終末と救いが始まり、メシア(キリスト)が再臨することで人類の歴史は完成され、神の国が到来すると信じられていました。ですから、当時の人々はイエスさまの再臨がすぐにでも起こると考えていました。復活されたイエスさまに出会った弟子たちは、「主よ、イスラエルのために国を立て直してくださるのはこの時ですか(使徒1:6)」と尋ねています。マルコ福音書の読者たちも、ユダヤ戦争、エルサレムの都の惨状などを耳にし、すぐにでもイエスさまが再臨して、裁きが行われ神の国が到来すると考えていたと思われます。ですから、マルコ福音書の中には、イエスさまの再臨を期待させる記述が出てきます。しかし、歴史的には、イエスさまが再臨されることはありませんでした。エルサレムの都の陥落以降、またローマ帝国による支配とキリスト教の迫害のなか、キリスト教徒は一連の終末思想を再解釈していかなければなりませんでした。

そもそも再臨とか、終末、審判という思想そのものが、ユダヤ教の枠組みのなかの民俗的希望が色濃く反映されたひとつの歴史観であり、それをもって全人類の歴史を理解しようとすること自体限界があるといえます。日本でも末法思想が広まった時代がありました。末法とは、釈迦が説いた教えが正しく実践されている時代が過ぎると、次に教えが形骸化し、やがて人も世も最悪となるという歴史観です。日本では、平安時代末期から末法の時代に入ったと考えられてきました。キリスト教は、今でもこの終末思想に基づいた歴史観を説いており、それを教義として人類の歴史やこの世界の始まりと終わりを説明しようとしています。そもそも、この宇宙の成り立ちをキリスト教の教義ですべて説明できるわけがありません。アインシュタインは相対性理論によって、わたしたちの時間・空間の概念は人間が作り出したものであり、相対的なものでしかないといいました。わたしたちは、今日の福音を読むとき、新しく読み直していくことが必要になるのです。この箇所から学ぶべき点は、人間の理解、教会の教えの限界と真理を表す神のことばの永遠性ということだと思います。「天地は滅びるが、わたしのことばは決して滅びない」といわれていることです。それでは、なぜことばなのでしょうか。今日は、ことばということに注目してみたいと思います。

そもそも、ことばというものは、人間が音声や文字を用いて自分の考えや感情等を伝達するために用いる記号体系です。ことばは、人類が獲得したひとつのコミュニケーションの手段です。それでは、ことばをもたない人間以外の動物や植物がお互いに、また他の生命体とコミュニケーションを取っていないかというとそうではなく、夫々彼らの感性を使ってコミュニケーションを取っています。そして、絶えず変化していく自然界のなかで、その変化を感じ対応しています。それが、生きるということでしょう。それに対して、人類はことばというものを獲得したがゆえに、わたしたちが生きるという現実を非常に狭く限定してしまっているのではないでしょうか。どういうことかというと、わたしは自分というものを中心に据えて、自他の境界を設けて、物事を理解していこうとします。そしてことばでもって、自分以外のものを認識し、自分以外のものの善悪、正邪、優劣などを判断していくのです。しかし、自然の世界には自我の区別はありませんから、よい悪いも上下もありません。しかし、人間はことばでもって区別、差別をしますから、それゆえに競争と争いを作り出してしまいました。人間が、自分の都合判断で、これはよいこれは悪い、これは優良でこちらは劣悪だと決めているだけであって、自然のなかには優劣などありません。自然はお互いに調和しており、そこに善悪、優劣はなく、従って争いや憎しみ、競争もありません。それがあると決めつけているのは人間であり、すべて人間目線から見た人間の都合なのです。人類はことばを獲得することで、飛躍的に文明を進化させてきました。しかし、自然そのものがもっている主客を分離しない一体性、いのちの調和、言語化できないいのちの平衡、言語化できない現象を切り捨ててきました。その結果、人類の進歩、社会の発展を手に入れましたが、その引き換えに苦悩を引き寄せてしまいました。そして、そのような視点から、人間目線の歴史観や宗教、そして終末思想が生まれたのです。

しかし、近年、ことばでもって現実を非常に狭く限定してきた歪みがあらわになり、地球温暖化から始まり、人間の活動の限界、ことばの空洞化、世界といのちの分断化などがいわれるようになりました。ですから、ことばを主体とする人間活動のひとつであるすべての宗教にも、限界があるのは当然のことなのです。特に、ユダヤ・キリスト教は、ことば(ロゴス)中心の宗教ですから、パウロが「文字は殺しますが、霊は生かします(Ⅱコリ3:6)」と指摘したように、ことばは人を生かしも殺しもするということを、こころしなければならないと思います。生きたイエスさまの福音を、ギリシャ哲学の概念で説明してきた教会の試みは、福音を生き生きとさせるものではなく、窒息させてしまったともいえるでしょう。

神さまは、このような人類の歩みを予見して、自らがことばとなってわたしたちのうちに宿られ、わたしとなられた、それがイエスさまなのです。ことばで自分たちを苦しめている人類に対して、自分がことばとなって、人間のうちに宿り、人間を照らし、解放しようとされたのがイエスさまです。神さまがことばとなることで、ことばにいのちを宿らせ、イエスさまの死と復活という出来事を通して、そのいのちのことばをこの宇宙、全世界に満たしてくださったのです。そして、そのことばをもってわたしたち人間に働きかけ、人間ひとり一人に呼びかけられたという出来事がイエス・キリストだったのだといえます。これが、ヨハネ福音書の冒頭で「ことばのうちにはいのちがあった。いのちは人間を照らす光であった。光は暗闇のなかで輝いている。暗闇は光を理解しなかった…ことばは肉となって、わたしたちの間に宿られた」といわれていることなのです。このことばは永遠のいのちのことばであり、「イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名によって命を受けるためである(ヨハネ20:31)」といわれたように、イエスさまの名によって、イエスさまの働きによって、わたしたちは人間のことばの限界を超えた真のいのちの世界に触れさせていただけるようになったのです。そして、この真理であるいのちのことばは、決して滅びることがなく、わたしたちを今も絶えず照らし続けており、すべてを超えて働くいのち、光なのです。そしてわたしたちは、今その光に覆われているということが福音なのです。これが「天地は滅びるが、わたしのことばは決して滅びない」といわれたことの真実なのです。

年間第32主日 勧めのことば

年間第32主日 福音朗読 マルコ12章38~44節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の福音の箇所は、エルサレムの神殿での出来事です。わたしたちも、たくさん献金しましようとかそういう話ではありません。先週、律法で最も大切な掟についてで、神への愛と隣人愛についての話が出てきました。今日の箇所はそれに続く箇所で、そこでは愛の特徴について話すことに意図があったのだと思われます。

エルサレムの神殿にはファリサイ派の人々や律法学者が集まっていました。彼らは律法の定めに従って、十分の一の献金をしていたと思われます。そこに貧しいやもめがやってきて、1クァドランス、自分の生活費のすべてを献金してしまいます。やもめの持ち金は1クァドランス100円ぐらいですから、律法に従えば10円献金すればよかったわけです。おそらく、1クァドランスは彼女のその日の生活費のすべてだったのでしょう。彼女はそれを献金します。そうすると、わたしたちは、それでは彼女はその日の生活はどうなるのだろうと心配しますが、そのようなことを考える必要はありません。これは、ある意味のたとえ話です。わたしたちが同じように、すべてを献金しましょうとか、すべてを捨ててイエスさまに従いましょうと理解する必要はありません。

先週の箇所で、神への愛と隣人愛ということが話されました。そこで、わたしたちはどこまでいっても、わたしというものを抜きにして愛することはできない、だから敵味方に関係なく等しく注がれる真実の神の愛について理解することがわたしたちには大変難しいのだということをお話ししました。それゆえ、まことの神の愛そのものに触れることが必要であることを申し上げました。この神の愛はすべてのものに平等に注がれる愛ですが、もうひとつの特徴は、自分のすべてを与え尽くす無償の愛であるということです。このことが、やもめが生活費のすべてを献金したことと繋がっています。確かに自分のすべてを与え尽くすのが神の愛なのですが、キリスト教のなかでひとつの極端な考え方があります。それは、キリスト教の愛を間違って捉えたもので、相手のために自分をまったく犠牲にする愛がキリスト教の愛であるという考え方です。純粋な愛は、自分のことは何も考えず、一切見返りを求めず、すべてを他人のために犠牲にしていくことであるといいます。もっともなわかりやすい解釈のようですが、それは一方通行の愛となり、極めて不健全な愛になってしまう可能性があります。わたしたちは、イエスさまの愛を自己犠牲として説明し、このやもめは自分のすべてを捧げた、だからわたしたちもすべてをイエスさまにお捧げしましょうと教えられがちです。わたしたちは自分のすべてを捧げるなどということはできもしないのに、もっともらしい綺麗ごとが平気でいわれてしまいます。

このやもめは、律法に従って自分の生活費の十分の一を献金すればそれでよかったはずです。それなのに、彼女はどうして自分の生活費のすべてを献金してしまったのでしょうか。それは、彼女がそうしたかったからでしょう。ファリサイ人のように、普通に律法や掟を守っていればそれでよかったのです。でも、彼女は生活費のすべてを献金したくなったということなのです。どうしてでしょうか。それは、彼女が一瞬であったとしても、神さまの真実の愛に触れたからではないでしょうか。何があったのかはわかりません。普通は、誰も生活費のすべてを献金したいなどと思いません。しかし、彼女がすべてを献金してしまいたくなるほど、彼女を内側から突き動かすものがあったということなのです。そのことを神の国というのです。それはまさしく「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して(Ⅰヨハネ4:10)」くださったことを体験したということでしょう。“愛は愛を呼ぶ”ということばがあるように、神さまの愛を体験した人は、たとえ何もできなくても何かしたくなります。もちろん、神さまはわたしたちに何も要求されるようなことはなさいません。しかし、愛の本質は一方通行ではなく、相互的なもの、愛するものと愛されるものがあってはじめて成立するものです。ですからこのような愛の体験は、神さまが人間を一方的に無償に愛してそれだけで終わるものではないのです。愛は、自分が愛した同じ愛で愛されることを要求します。神さまの限りない愛を受け取れば、わたしたちは少しなりともその愛に応えたくなるのは当然なことなのです。それが愛の本質なのです。わたしたちが神さまの愛をすべてそのまま受け取ることによって、それを別のことばでいえばその愛に応え、行動することによって、愛は完成し、愛の神さまは満たされるのです。それが神さまに喜びを与えるのです。愛は本質的に相互的なものであって、一方通行の愛だけでは、それがどんなに美しく崇高に見えても、ストーカー的な病んだ愛に他なりません。

キリスト教のなかには、ストーカー的な病んだ愛の理解が結構広まっており、一方的に自己犠牲的に愛し献身すること、そのような善行をすることが神を愛すること、また隣人を愛することだとし、ボランティアや慈善事業を美化して教えます。しかし、愛は、愛するものとその愛を受け取るものがあってはじめて成立するものであって、愛するだけの愛は一方通行で、上から目線の自分勝手な愛、歪んだ病的な愛となり、それは結局エゴイズムになってしまいます。また、その一方でそのような人間の活動を否定し、神の愛を受けることだけを強調するなら、静寂主義となる可能性もあります。これもエゴイズムです。

イエスさまのまことの愛に触れると、自分というものが破れ、突き抜けて、相互愛になっていくのだろうと思います。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分のいのちを捨てること、これ以上に大きな愛はない(ヨハネ15:12~13)」。友のためにいのちを捨てるというのは、一方的な自己犠牲の愛ではなく、友情というお互いの関わりのなかでの相互愛なのです。しかし、そこには、「わたしがあなたがたを愛したように」といわれるイエスさまの愛が先にあります。「友のために自分のいのちを捨てる」は、まさにイエスさまの愛し方であり、「わたしがあなたがたを愛したように」といわれることの内実です。そのようなすべてを与える神の愛に触れたものは、自分も何かしたくなるのです。それは、友人として当たり前のことなのです。

このような相互愛自体は、お互いに大切にし合うこと、支え合うこと、尊敬し合うことであり、実はわたしたちが教えられなくても、聖書を読まなくても、普段の生活ですでに生きている平凡なことなのです。しかし、それは平凡なことですが、同時にまったくの非凡さを要求するところまで深められていく可能性をもっています。相互愛は、「わたしがあなたがたを愛したように」、また「友のために自分のいのちを捨てる」といわれるところまでに深められていく可能性を秘めています。自分のために神を愛するとか、自分と同じように隣人を愛するというような律法の神への愛や隣人愛ではなく、相互愛は神さまのダイナミックな愛の動き、愛の交わりにまで深められていくことができるのです。

この貧しいやもめは、このイエスさまの愛、神さまの愛の本質を体験したのでしょう。だから、たとえ貧しくてもどんなに些細なものであったとしても、自分のすべてをもって神さまの愛に応えたいと思ったのでしょう。問題は量ではなく質です。一滴の水は、たとえ一滴であっても、大海の水と同じ水であることに変わりはありません。実は、わたしたちの魂のうちに、その一滴の水、神の愛、聖霊をすでにいただいているのです。わたしたちのうちにイエスさまと同じ愛が注がれ、同じ愛の川が流れているのです。しかし、わたしたち人間の側の愛の体験である限り、その体験は絶対的なものではなく、過ぎ去ってゆくものであり、あえなく崩れ去ってしまうものであることも確かです。ただイエスさまの愛が真実であり、そこにのみ信仰の確実さがあるのだということを知らなければなりません。わたしが愛したのではなく、イエスさまが愛されたのです。地金のわたしのなかには、イエスさまを、人々を愛することが出来るものは何もないのです。あるとしたら、恵みとして与えられたイエスさまの愛に他なりません。そして、その愛は愛し愛されるという愛の動きそのものなのです。

年間第31主日 勧めのことば

年間第31主日 福音朗読 マルコ12章28~34節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の箇所は、エルサレムの神殿で、当時の宗教的指導者である律法学者との対話の場面で、モーセの律法のなかで何が一番大切かということが問題になります。というのは、当時、モーセの律法は細かく細分された613の項目に分かれていました。それで、律法学者の間では、どれが一番大切な掟かという論争がなされていたようです。そこで、律法学者が真摯にイエスさまに尋ねます。それに対して、イエスさまは、ユダヤ教の日常の祈りの信仰告白である「シェマ(聞け、イスラエルよ)」の最初の部分(申6:4~5)とレビ記(19:18)から、神への愛と隣人愛の掟をお答えになります。それに対して、律法学者は適切な受け答えをしたので、「あなたは、神の国から遠くない」といわれたのです。

キリスト教のなかでも、神への愛と隣人愛は、キリスト教の教えであるかのようにいわれ、またそれを実践するように教えられてきました。しかし、今日の箇所を読む限り、イエスさまは神への愛と隣人愛はモーセの律法の要約であって、これがわたしの掟であるといわれたわけではありません。そして、イエスさまご自身、この2つが律法の要約であると認めた律法学者に対して、「あなたは、神の国から遠くない」といわれました。遠くないということは近くもない、まして神の国に入れるといわれたわけではありません。しかし、キリスト教のなかで、この2つの掟が、イエスさまの愛の掟であるとか、キリスト教の掟、黄金律であるといったことが平気で教えられています。

一方でイエスさまは、律法で「隣人を愛し、敵を憎め」と教えられてきたイスラエルの人たちに、「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しいものにも正しくないものにも雨を降らせる」天の父の完全性を示し、敵への愛を説かれました。ここに律法に見られない新しさがあります(マタイ5:43~48)。そもそも人間は、自分を中心にして、自分の隣人(味方)と敵、悪人と善人、正しい人と正しくない人、ユダヤ人と異邦人などという区別、差別を作って生きてきました。それに対してイエスさまは、隣人と敵、善人と悪人、正しい人と正しくない人、ユダヤ人と異邦人といった区別、差別をしない天の父の完全性にもとづく一切平等を説かれたのです。しかし、わたしたち人間は、この神さまの本質である愛の完全性を受け入れることは非常に難しいのです。

イエスさまが誰も区別、差別されないということは、簡単にいうと、わたしが嫌いなあの人、わたしが憎んでいるかの人も、わたしを愛しておられるのと同じように愛しておられるということです。わたしたちは、自分が努力をして、一生懸命働いて、熱心に教会活動をして、真面目にミサに行っている。だから、イエスさまに当然受け入れられ愛されると思っている。しかし、イエスさまは、努力もせず、頑張りもせず、だらしなく、堕落しているとわたしが軽蔑しているあの人も、わたしを愛されるのと同じように愛しておられるということなのです。わたしたちは、救われ天国に行きたいと思っているかもしれません。しかし、わたしが考えている天国は、わたしの敵や罪人、堕落しただらしない人がいないところが天国だと考えているのです。つまり、わたしが救われたいと思うとき、わたしが嫌いなあの人、わたしが憎んでいるかの人は救ってほしいと思っていないということなのです。そのような人たちが天国に入るのは、わたしはゆるせないし、嫌なのです。それが、どこまでもいっても自分本位である、わたしという人間の惨めな本性です。しかし、イエスさまは、「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しいものにも正しくないものにも雨を降らせる」といわれるのです。それが、神さまの完全性です。その完全とは、失敗しないとか完璧な人みたいになるという意味ではないのです。わたしたちは、そのようなイエスさまのいつくしみ、愛の完全性を理解できずに、背を向けて生きることしかできないというのが現実なのです。

わたしたちが、たとえ隣人を愛するといっても、「敵を愛しなさい」といわれたイエスさまのことばを聞いて、わたしがその隣人の境界、枠を少しばかり広げることでもやっとなのです。わたしたちのいう隣人愛は、わたしの考えている境界を広げていくだけであって、それはどこまでいっても神さまの愛の完全性とは質的に異なったものでしかありません。神さまは、そのことを分かっておられましたから「自分を愛するように隣人を愛しなさい」としか教えられなかったわけです。わたしたち人間が愛するとき、自分を抜きにして愛することは不可能だからです。仏教の世界では、仏の愛を大慈悲といいますが、人間の愛は小慈悲といわれます。人間はどこまでいっても、自分というものを抜きにして愛することはできない存在であるということなのです。そのことを知らずして、隣人愛を実践しましょうと平気でいうことがいかに愚かかということなのです。自分が隣人愛を実践していると思っていることが、実は自分を愛していることに他ならないのです。ですから、神への愛と隣人愛を律法の中心であると答えた律法学者に対して、イエスさまは「あなたは神の国から遠くない」、でも「近くもない」といわれたのです。つまり、隣人と敵、悪人と善人、正しい人と正しくない人、ユダヤ人と異邦人というような区別、差別を作っているわたし自身の殻が破られない限り、神の国には入れないといわれたのです。では、どうしたらよいのでしょうか。

そのためには、わたしたちが、イエスさまの何ものをも区別しないその愛にまず触れること、イエスさまに聞くことであるといわざるを得ないと思います。どこまでいっても愛せない人間の弱さというか、人間の性に涙し、救いの計画を起こし、人間となってこの世界にこられたイエスさまが、先ずわたしたちを愛してくださいました。しかしその愛は、単に一方的で、無償でわたしたち人類をあわれみ、愛するだけでは終わらず、愛することができない人間が“愛するもの”となるまで変容するところまで及びます。これこそ、愛は愛されることによってしか完成しない神の愛の本質であり、人間を神の愛の本質に与らせようとされたということなのです。その上での神さまの壮大な救いのご計画であるといえるでしょう。それは、わたしたちがイエスさまを愛することによってではなく、先ずイエスさまがわたしたちを愛するという働きによってなされたものなのです。わたしたちは、わたしがイエスさまを信じることによって救われると思っているかもしれません。しかし、それだけなら、わたしがイエスさまを信じるというわたしのこころを確固たるものとしようとしただけであり、そのようなわたしのこころはいろいろな状況のなかで、いつどのように変わってしまうかわかりません。わたしの信念を強くするとか、わたしの疑いがなくなることが信仰ではないのです。信仰がただそれだけなら、結局わたしのこころの問題で終わってしまいます。そうではなく、イエスさまがわたしを愛されることで、わたしのなかに今度はわたしがイエスさまを愛したいという願いを呼び起こし、わたしのうちでイエスさまが愛してくださることによって、愛は愛されて完成されるのです。ただ不思議としかいいようがありません。

ですから、わたしを愛されるのはイエスさまであり、わたしのなかでイエスさまを愛するようにしてくださるのもイエスさまなのです。それが可能になるのが、最後の晩餐の席で弟子たちを極みまで愛し、十字架の上で自分のいのちを与え尽くすイエスさまの愛、聖霊がわたしたちのうちの恵みとして注がれていることに気づかされることによって実現していくのです。信仰は、この愛の働きを信じることに他なりません。ですから信仰はわたしのこころの持ち方ではなく、信仰自体がイエスさまの恵みなのです。わたしたち人間ができることは何もないのです。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい(ヨハネ13:34)」といって、わたしにご自分の愛を与えてくださった、そのイエスさまの愛がわたしに届いていることをわたしは信じさせて頂くことしかできないのです。そして信じさせて頂けるのも、それもイエスさまの愛の働きに他ならず、神さまの愛のダイナミズムにわたしたちが入れられていることに他ならないのです。

年間第30主日 勧めのことば

年間第30主日 福音朗読 マルコ10章46~52節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日はバルティマイという目の見えない人を見えるようにされたという箇所が朗読されます。目が見えないということはどういうことでしょう。目が見えないということは、単にものが見えないということだけではなく、この世界が光に満ちているのに、その光を見ることができないということです。考えてみると、わたしたちは太陽の光があるので、いろんなものを見ることができるのですが、その太陽の光を意識するということはありません。太陽の光線は、透明なガラスを通り過ぎるとき、窓から入って来て、知らないうちに反対側へと出て行きます。しかし、ガラスが汚れていたり、曇っていたりすれば、光によってガラスが汚れていることに気づかされます。イエスさま自身が「わたしは世の光」であるといっておられますが、イエスさまの存在はこの世界のありとあらゆるものに平等に注がれ、すべてのものを刺し通す光のようなものではないでしょうか。その光は永遠の彼方からやって来て、常にわたしたちを照らし続け、わたしたちを包み込んでいます。 

わたしたちが、光を意識するのは、光を遮る強烈な何かがあるときです。光がさして影ができることで光を意識する、また教会の壮麗なステンドガラスが美しく見えるのも、太陽の光を遮るものがあるからです。とすれば、光であるイエスさま自身が意識されるのは、そこにイエスさまを遮るもの、つまり照らされ、癒され、浄められ、贖われなければならない、種々の病や、誰も癒すことのできない傷、わたしたちが抱えている罪や闇があるときだといえるのではないでしょうか。しかし過去の教会では、そのような罪、傷や弱さ、貧しさや惨めさは、イエスさまと出会うための妨げ、障がいであると教えてきました。そうではないということなのです。つまり、イエスさまの光は絶え間なくわたしたちに届いており、その光がわたしたちに働きかけていることにわたしたちが気づかされたときに、わたしたちは病をいやされたとか、罪をゆるされたとか、傷が癒されたと感じ、イエスさまがおられることを感じるのだということなのです。イエスさまを感じるのは、光を妨げているものがあるからです。そして、その働きを感じ、その妨げが取り除かれたことをわたしたちはお恵みであるといっているのです。しかし、まことの恵みとは、わたしたちのうちにある光を妨げるものが取り除かれることではないのです。わたしたちの病気がよくなったとか、傷が癒されるとか、罪がゆるされて平和になったことをお恵みであるといいますが、そうではないのです。イエスさまの光が、わたしが何であっても何でなくても、わたしに絶え間なく注がれていること自体が恵みなのです。わたしたちは、神の働きの結果を感じるだけであって、それ自体が恵みでも救いではないのです。イエスさまが働いておられること、光が注がれていること自体が恵みなのです。

今日の福音に出てくるバルティマイは、目が見えませんでした。ですから、イエスさまを見ることができません。しかし、幸い耳は聞こえましたから、ナザレのイエスのお通りだという声が耳に入ってきます。目が見えず、暗闇のうちにいても耳は聞こえていたのです。それは、遥か彼方から聞こえてくる、バルティマイを呼ぶ声だったのではないでしょうか。バルティマイは、ナザレのイエスのお通りであると聞くと、人々の制止もものともせず「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫び続けます。長い間闇の中にいたバルティマイにとっては、イエスさま、どうぞこのわたしを憐れんでくださいとしかいえなかったのでしょう。最近のミサ曲で、「イエスさま、わたしを慈しんでください」と歌っていますが、そのような中途半端なものではない、「わたしを憐れんでください」というのはバルティマイのこころの底からの叫びなのです。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」といわれ、彼は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスさまのところへやって来ます。イエスさまは、「何をしてほしいのか」とお尋ねになります。彼は、改めて自分の目が見えないことを意識します。「先生、目が見えるようになりたいのです」。これは、彼のこころからの願いであり、これはわたしたちの魂の叫びではないでしょうか。この人の目が見えるようになったときに、一番先に見えてくるのはイエスさまです。

わたしたちが探し求めているものは何でしょうか。それは、イエスさまではないでしょうか。それでは、そのイエスさまはどこにおられたのでしょうか。イエスさまは、天地創造の前から、わたしとともにおられました。そのことに気づかず、イエスさまに背を向け続けてきたのは、実はこのわたしだったということなのです。イエスさまがおられなかったのではなく、わたしがイエスさまに背を向け続けていたのです。イエスさまは永遠の光として、絶えずわたしたちを照らし、包み込んで、わたしとともにおられました。目が見えないということは、わたしが、わたしたちともにおられるイエスさまの現存に気づいていなかったということに他なりません。このバルティマイは、わたしたち自身の姿です。

ずっとイエスさまはわたしたちともにおられるのに、わたしたちが目を閉じていたのだといえばいいかもしれません。わたしたちが目を閉ざしていれば、光は入ってきません。光がないのではなく、わたしが目を瞑って光を拒絶していたのです。しかし、わたしたちが目を瞑っていても、光はわたしたちを絶え間なく照らし続けています。生まれつき目が見えないのであれば、自分が光によって照らされていても、それが闇であることさえ分からないのです。つまり、自分が闇のなかにいることさえ気がつかないほどの深い無明の闇に沈んでいる、これがわたしたち人間の姿なのです。そのようなわたしたちですが、耳は開いています。目の見えないバルティマイでしたが、ナザレのイエスさまが近づいて来られるのが聞こえます。わたしたちがどんなに拒もうとも、イエスさまのわたしへの呼びかけの声は聞こえているのです。「天は神の栄光を語り、大空はみ手の業を告げる。日は日にことばを語り継ぎ、夜は夜に知識を伝える。ことばでもなく話でもなく、その声は聞こえないが、その響きは地をおおい、その知らせは世界におよぶ(典147、詩編19)」と詩編でも歌われています。イエスさまの声は世界に鳴り響いている、それにもかかわらず、その呼びかけの声に心の耳を閉ざしてきたこと、これがもっと深い闇であるといえるでしょう。“闇”という漢字が現している通り、まことの闇は、その呼びかけの声、“音”にも門を閉ざすことなのです。

バルティマイは目が見えないという現実を通して、イエスさまと出会いました。イエスさまと出会うということは、病を治してもらうということではありません。イエスさまに聞き従うことに他なりません。イエスさまの弟子たちは、長年、イエスさまと一緒にいましたが、イエスさまに耳を傾けていませんでした。イエスさまを見ていたかもしれませんが、イエスさまを見ていません。ここに本当に見えるということは何かということが問われます。イエスさまがともにおられるということなら、弟子たちもバルティマイも同じです。違うのは、イエスさまの呼びかけが聞こえたかどうかということです。信仰は、弟子たちのように、目に見える形でわたしたちが何かをするということではありません。わたしたちは、闇のなかにいて何もできないのですから、イエスさまの呼びかけが聞こえるという事実しかないわけです。このイエスさまの声を聞かせていただくということが信仰に他なりません。信仰はわたしの努力や善意で作り出せるものではないのです。イエスさまに従っているつもりの自作の信仰は、イエスさまの受難の前にしてあえなく崩れ去ってしまいます。それは、自分のこころのあり方を頼りにしているからです。大切なことは、わたしのこころがどうかではなく、わたしに呼び掛けられるイエスさまに聞くこと、信頼することなのです。これをもって信仰というのです。信じることで、わたしの心が平和になったとか、安らかになったということではありません。信仰は聞くこと(ロマ10:17)に尽きるといえます。わたしがどう聞いたとか、どう従ったとか、安心が得られたとかいうことでさえありません。そうなると、わたしの心の問題になりってしまい、そのような信仰は絶えず不安定なものとなってしまいます。イエスさまの呼びかけが聞こえるということだけが、真実であり、そこにまことの信仰の本質があるのです。

年間第29主日 勧めのことば

年間第29主日 福音朗読 マルコ10章35~45節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の聖書の箇所は、イエスさまが3度目のエルサレムでの受難予告をされた直後のお話です。イエスさまは、「今、わたしたちはエルサレムに上って行く」といい、先頭に立ってエルサレムに向かって進んでいかれました。その姿に弟子たちは驚き、従う者たちは恐れたとあります(10:32)。さすがに鈍感な弟子たちも、周りの雰囲気やイエスさまの様子から、エルサレムに上ることは唯ならぬことであることに気づいたのでしょう。そのような状況のなかでのヤコブとヨハネの願いが描かれます。マルコ福音書は、イエスさまの3回の受難予告の直後に、無理解な弟子たちの姿があからさまに描かれています。その度に、根気強く、イエスさまは弟子としてのあり方を教えていかれます。今日のことばは、主導権争いに終始する弟子たちに対して、イエスさまの姿勢を要約したものといえるでしょう。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分のいのちを捧げるために来たのである」。これがイエスさまの自己理解であり、イエスさまが考えておられた神の国の宣教ということでした。

ヨハネ福音書の中の最後の晩餐の席で、自らが跪いて弟子たちの足を洗われるイエスさまの姿が描かれます。イエスさまは、福音宣教を人々への奉仕として理解されていました。わたしたちは、福音宣教というと、イエスさまを知らない人たちにキリスト教を教え、洗礼に導くことだと考えがちです。特に、戦後の日本の教会は、貧しく教育の行き届かない人たちに、教会の教えを伝え、教育し、洗礼に導くことを中心にやってきました。確かに、それも福音宣教の一部でしょうが、そのような捉え方は、福音宣教の真の姿を弱め、歪んだものとする危険があるといわざるを得ません。その一番大きな問題は、上から目線の教えてあげる的な布教で、イエスさまの福音宣教の姿勢とは根本的に異なっていたといわざるを得ません。

教会では、ながらく布教ということばが使われてきました。布教は大航海時代から使われた言葉であり、文字通りイエスさまを知らない人々に教え、教育をし、洗礼によって救いに導くことと定義されていました。その布教ということばは、プロパガンダ=宣伝が語源で、「特定の思想・世論・意識・行動へ誘導する意図を持った行為」であるといわれています。バチカンの福音宣教省は、かつては布教聖省といわれ、まさにそのような上から目線の発想でやってきました。大航海時代に始まる海外征服にキリスト教の宣教師が同行し、キリスト教の伝達という名のもとに霊的植民地化を推し進め、列強の植民地政策に協力してきたという経緯があります。第二バチカン公会議は、そのような教会の姿勢を改め、福音宣教(福音化)ということばをもちい、布教聖省も福音宣教省という名前に変更されました。第二バチカン公会議は、イエスさまの福音宣教の精神を再興しょうとしたのだといえるでしょう。

イエスさまの神の国の宣教の心構えは、「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分のいのちを捧げるために来たのである」ということばに要約されています。イエスさまは、福音宣教を奉仕として理解されていました。しかし、この奉仕ということばも気をつけて使わないといけないと思います。「仕える」というのですから、そこには上下関係が前提となってきます。実際、イエスさまも「あなたがたのなかで偉くなりたいものは、皆に仕えるものになりなさい。いちばん上になりたいものは、すべての人の僕となりなさい」といっておられます。少し意地悪な読み方をすると、あなたがたは偉くなりたいんでしょう、いちばん上になりたいんでしょう、それなら皆に仕えるものになりなさいという、弟子たちのレベルに合わせた方便の教えであるともいえなくもありません。主導権争いをしている弟子たちに、イエスさまはこのようにいうことが精一杯だったのでしょう。

仕えるとか奉仕するというと、どうしても奉仕する人のことばかりが取り上げられます。マザーテレサの活動は取り上げられますが、その奉仕を受けた貧しい人たちのことは取り上げられません。ノーベル平和賞を受けたのはマザーです。しかし、仕えるとか奉仕ということが成り立つためには、仕えるためには仕えさせてくれる人、奉仕するには奉仕させてくれる人が必要です。いくら仕えたいとか、奉仕したいと思っても、相手がいなければ成り立たないのです。ですから、仕えさせてくれる人は仕えてもらうということで、仕えたのであり、奉仕させてくれる人は奉仕してもらうということで、奉仕しているのです。ですから、どちらが上とか、どちらが偉いということなどないのです。わたしたちがレストランに食事にいったとき、給仕をしてくれる人がいなければ食事はできません。しかし、お客さんが来なければ給仕することもできないのです。皆がお客さんであったら、誰が給仕するのでしょうか。皆が給仕するのであれば、誰が食べるのでしょうか。日本では「お客さまは神さまです」といった時代がありましたが、神さまも給仕する人がいて、はじめて神さまになれるのです。このことがミサについてもいえるでしょう。皆がミサを司式すれば、誰が参加するのでしょう。皆が参加者であれば、誰がミサの司会をするのでしょう。ですから、そのような関係はお互いさまであり、相手があって初めて成り立つものであって、もちつもたれつであり、どちらが偉いとか、どちらが上下とかいうようなことは本来的にあり得ないのです。

それなのに、教える方が偉いとか、奉仕する方が上だとか、偉くなりたいんだったら仕えるものになりなさいなどということを教えること自体がおかしなことなのです。ですから、イエスさまは、最後の晩餐の席で弟子たちの足を洗われた後、「ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合いなさい(ヨハネ13:14)」とお命じになったのです。そして、さらに「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である(同15:12)」といって、相互愛の新しい掟、お互いに足を洗い合いなさい、お互いに愛し合いなさいとおっしゃいました。もはや、敵を愛しなさいとか、相手を一方的に愛しなさいとはいわれなかったのです。お互いにといわれました。但し、ここでイエスさまが「わたしが愛したように」といわれる愛は、十字架上で自分のいのちを与え尽くすまで愛する、そのような愛し方(同13:1)です。これは神さまの愛し方であり、わたしたち人間が通常できるものではありませんが、わたしたちが生来的に知っており、体験している愛でもあるのです。わたしたちがこの地上にいのちを受けたということは、無条件に愛されたということそのことなのです。しかしわたしたちはその愛を忘れてしまっています。わたしたちが覚えているのは、駆け引きの愛しか覚えていません。そこでイエスさまは、わたしたちのために自分のいのちを与え尽くすことによって、わたしたちにいのちの本来の姿を示してくださったのです。そのいのちの本質は、無条件にすべてを与えつくしていく愛であり、愛し愛されるダイナミックな愛、イエスさまの霊である聖霊です。「わたしの父はその人を愛され、父とわたしはその人のところへ行き、一緒に住む(同14:23)」といい、わたしたちの魂の内奥に現存する愛のいのちの働きをあきらかにしてくださいました。わたしたちはこのいのちの働きによって生かされているのです。これが、わたしたちのうちにイエスさまがおられ、わたしたちがイエスさまのうちにいるということです。

ですから、わたしが愛するときに、わたしが愛するというよりもイエスさまがわたしたちのうちにおいて愛しておられるのです。つまり、イエスさまがわたしにおいて他者を愛する、また愛されるものとなられているのです。このような愛の働きはわたしではなく、イエスさまの働きでしかないのです。この愛には、誰が誰に仕えるとか、どっちが上で下でとか、どっちが仕えるとか仕えられるというような人間の価値基準における区別、差異はないのです。愛することも愛されることも愛なのです。このような愛が、イエスさまによってすべての人に差別なく等しく注がれており、わたしたちはその愛に生かされているのです。このような愛はただ恵みであって、わたしたちが自力で獲得できるものではありません。わたしたちはこのいのちを受け、このいのちを生きるように呼ばれているのです。

年間第28主日 勧めのことば

年間第28主日 福音朗読 マルコ10章17~27節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

イエスさまはエルサレムへと向かう旅、すなわち十字架に向かう旅の途上で、ひとりの人と出会います。その人は真面目にモーセの律法を守り、誠実に生きてきた人のようです。「善い先生、永遠のいのちを受け継ぐには、何をしたらいいでしょうか」と真剣にイエスさまに問いかけます。彼は一生懸命にモーセの律法を守ってきましたが、それでも心の平和が得られなかったのかもしれません。それで、必死の思いで、イエスさまに問いかけます。子どものときから、律法は守ってきました。まだ何か足りないものがあるでしょうかと。イエスさまは、彼に「あなたに欠けているものがひとつある。行ってもっているものを売り払い、貧しい人に施しなさい。それから、わたしに従いなさい」といわれます。おそらく、彼はたくさんの財産をもっていたのでしょう。

当時のユダヤ教の理解では、財産は神さまからの祝福のしるしで、財産をもつことは悪い事ではなく、むしろ、律法を忠実に守ってきたことへの報い、祝福と考えられていました。それなのに、イエスさまは、永遠のいのちを得るためには、財産をすべて売り払わなければならないといわれます。この人は、気を落とし、悲しみながら去っていきます。それからイエスさまは、弟子たちに財産のあるものが神の国に入ることの難しさについて話されます。それでは、誰が救われるのだろうと弟子たちは驚きます。それに対して、イエスさまは、「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」といわれます。しかし、人間にはできないことだといわれているのに、ペトロは相変わらず、ずれた発言をします。「わたしたちは何もかも捨ててあなたに従ってまいりました」と。

今日の箇所は、ペトロのようにイエスさまのために進んで何もかも捨てて従いましょう、というような説教がされがちです。それでは、もしその人がもっているものをすべて売り払って、イエスさまに従えば、永遠のいのちを受け継ぐことができたのでしょうか。答えは、いいえです。もっているものをすべて売り払って、イエスさまに従ったとしても、永遠のいのちを得ることはできません。なぜでしょうか。そもそも、彼が永遠のいのちを得たかったのはどうしてでしょうか。それは、自分の救いのためなのです。自分の救いが目的なのです。問題は、財産をたくさん蓄えていたことでも、財産を売り払うことができなかったことでも、またペトロが豪語するように、何もかも捨ててイエスさまに従うことでもないのです。ペトロも含めて、彼らは人間の物差しで神の国を捉え、自分が永遠のいのちを得、救いを得ようとしていることに問題があるのです。つまり、自分の何かが目的になっており、しかもそれを自分の力で得ようとしているところに問題があります。ですから、自分の力で何もかも捨ててイエスさまに従って来たと主張するペトロも同じです。ペトロは、捨てたという行為だけを取り上げて、自分たちは永遠のいのちを受ける資格がある、救われる資格があるように主張しますが、救いは神の恵みであるとイエスさまはいわれます。イエスさまが、捨てたものは来世では永遠のいのちを受けるというようなことをいわれますから、余計にわかりにくくなります。

わたしたちがイエスさまに従うというとき、始めは自分の救いや永遠のいのちが目的であっても構わないでしょう。しかし、自分の救いとは何でしょうか。それは大抵の場合、物事が自分の思い通りになることではないでしょうか。そこには、思い通りにならない自分と思い通りになった自分があり、今すでに得ている自分では満足できないので、思い通りになる自分を探し求めます。しかし、その思い通りになることを求めている自分のこころ、それを救いと勘違いしている、それが執心(執着心)といわれるものなのです。執心は一般的な世界では、社会の中での成功体験であったり、地位や名誉であったり、愛情、健康や長寿を願うこころとなって現れます。これが宗教の世界になると、名声や名誉、人助け、霊性や聖性、自分の救い、永遠のいのちとなり、その執心のとどまるところはありません。宗教で永遠のいのちや自分の救いを願うことはよいことだと思われるかもしれませんが、名前こそ永遠のいのちや救いといっていますが、これこそ執着のもっとも深いもので法執といわれ、ファリサイ人や弟子たちが陥ったもっとも深い執着心なのです。別のいい方をすれば、宗教、信仰という名のもとに、自分の幸福や安寧、自分の生きがい、自己実現、来世のいのちを求めているのであって、どこまでいっても自分の幸せを求めてやまない執着の塊であり、我執そのもののわたしであるということなのです。利他業である人助けであってさえもそうなのです。人間では自利が入らない利他などないのです。先ずは、そこに光が当たらなければならないのです。わたしたち人間は、根底に自分の思い通りにしたいという性根が息づいています。そして、思い通りにならなければ、腹も立ち、妬む心が湧いてきますし、がっかりしたりします。しかし、どこまでいっても思い通りになる自分など、どこにもないのです。

今日の福音に登場する人は、一生懸命に律法を守ってやってきた、財産という神さまからの祝福もいただいた、でも何か足らないものを感じていたのでしょう。それは、そうだと思います。なぜなら、彼が求めていたものは、自分の思い描く永遠のいのちであって、イエスさまがいわれる永遠のいのちとは根本的に異なっています。わたしたちが、本当に魂の深みで求めているものは、我執から出たようなものでは満たされるものではないからです。先ずもってわたし自身がずれており、イエスさまはそのことに気づかせるために、彼のこころが囚われているところに切り込んでいき「もっているものを、すべて売り払いなさい」とチャレンジされました。大切なことは、財産をもっているかどうかではなくて、また財産を捨てられるかどうかでもありません。わたしたちのこころが囚われていることに気づくことなのです。実際、ザアカイはイエスさまを家に迎え入れましたが、財産を売り払うことは要求されませんでした(ルカ19:8)。

イエスさまに従うとき、イエスさまと出会っていくとき、自分の救いや永遠のいのちなど、もはや目的にはなり得ないのです。始めはいいかもしれませんが、イエスさまに従っていくプロセスのなかで、イエスさまとの関わりが深まっていけば、自分の救いというような自己中心的な目的は浄められていき、問題ではなくなっていきます。そして、イエスさまに従うために、全財産を放棄することや人助けをすることが目的や条件でないこともわかってきます。むしろ大切なことは、イエスさまとの関わりを通して、ありのままの自分に出会っていくことだといえます。そうすると、わたしたちは、自分がどれほど自己中心で、我執の塊であるかということが見えてきます。わたしたちがありのままの自分と出会うことは、イエスさまとの出会いを通してのみ可能なのです。いろいろな自己分析や識別によってではなく、イエスさまとの出会い、イエスさまの光のもとでしか真実の自分を知ることはできません。イエスさまなしに自分を見つめれば、そこには暗闇と絶望しかありません。あるいは、ありのままの自分を見つめることから、どこまでも逃げ続けるかです。でも、逃げても逃げても、自分はどこまでも追いかけてきます。

誰がそのようなわたしを解放し、救ってくれるのでしょうか。それは、「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」といわれるイエスさまのいつくしみの眼差しに出会うことしかないのです。パウロも、「わたしはなんと惨めな人間なのでしょうか。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」とうめき声をあげます。しかし、直ちに「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします(ロマ7:24~25)」と感嘆の叫びをあげます。イエスさまのいつくしみの光を通してのみ、わたしたちは真実の己というものを知らされ、わたしたちの救いであるイエスさまの姿がはっきりと見えてきます。イエスさまの姿がはっきりすれば、わたしたちがどうしなければならないか自然に知らされてきます。わたしの救いやわたしが永遠のいのちを得ることなど、どうでもよくなるのです。真理であるイエスさまと出会うとき、わたしたちはわたしの救いから解放されるのです。

年間第27主日 勧めのことば

年間第27主日 福音朗読 マルコ10章2~16節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の聖書の箇所は、しばしばカトリック教会における結婚の不解消性の根拠として述べられているところです。しかし、イエスさまがここで話された意図は、結婚の不解消性について述べるためではなく、当時の女性の権利を擁護するための発言であるといえます。この話は、その直後に来る、子どもを祝福するという箇所と密接に結ばれています。というのは、その当時、女性と子どもという存在は、社会的に権利が認められていないものの代表であったからです。その点から、今日の箇所をもう一度読み直してみたいと思います。

今日の箇所は、イエスさまがガリラヤからエルサレムへ向かう途上での出来事です。そこには、イエスさまの教えを聞こうとして多くの人が集まってきますが、イエスさまに対して明らかに敵意を抱いているファリサイ派の人々も混じっていました。ファリサイ派の人々にとって、イエスさまは律法の違反者として映ったようです。というのは、夫が妻を離縁することは、モーセの律法において男性側の権利として認められており(申命記24:1)、イエスさまの時代において通常のことになっていました。それにもかかわらず、ファリサイ派の人々が、「夫が妻を離縁することは、律法にかなっているでしょうか」と質問したのは、おそらくイエスさまが離婚について、通常のモーセの律法解釈とは異なる考えをもっていることを彼らは知っていたのでしょう。共同訳聖書では「夫が妻を離縁することは、律法にかなっているでしょうか」と訳されていますが、原文では「夫が妻を追い出すことはゆるされていますか」と書かれており、「律法にかなう」という言葉はありません。誰か親切な人が書き加えたのでしょう。ですからイエスさまは、「モーゼはあなたがたに何を命じたか」と質問しておられるのです。このファリサイ派の人たちの質問は、真心からのものではなく、イエスを試み、陥れようとする悪意から出たものでしかありません。結婚を擁護するような意図はまったくなく、男性の立場から、ただイエスさまを律法の反対者として告発するためのものでした。まして、離婚を認めないという教会の教えの根拠ではありません。

イエスさまは、離婚をゆるしている律法を神さまの本来の意図によるのではなく、「あなたがたの心が頑固なので」与えられた次善の策であると理解されていたということです。このようなユダヤ人にとって教えの本質である律法を再解釈し、なおかつ相対化し、律法を超えるものを目指していく発想は、エルサレムの陥落後にユダヤ教から独立していった後代の教会のものではなく、イエスさま自身に由来するものであると思われます。なぜなら、マルコ福音書は紀元70年のエルサレムの陥落以前に書かれたものであり、イエスさま自身の教えに由来するものが書き記されているといえるからです。70年以降に書かれた他の3つの福音書は、ユダヤ教の一派であったナザレ派から、キリスト教になっていく過程で書かれたものであり、その時々の教会の状況が色濃く反映されています。そのように見ても、このような律法に対する捉え方は、イエスさまに由来するものであり、当時のファリサイ派の人々にとっては受け入れがたいことだったと思われます。それゆえ、ファリサイ派の人々はイエスさまと激しく対立し、ファリサイ派の人々は、イエスさまを律法の違反者としてゆるすことはできないと考えたのでしょう。しかし、イエスさまは、男性にだけ離婚する権利を認め、女性にはその他種々の権利を一切認めない、当時の律法という名のもとに行われている男性中心主義的な恣意的な暴力を批判されたのだということができるでしょう。ここで問題とされていることは、権利や既得権をもった男性によって、しかも、宗教という名のもとにおこなわれている弱者への抑圧、暴力ということが問題になっているのです。ですから、この箇所をもって結婚の不解消性を主張するのはまったく論点がずれていることになります。

この後に続く、子どもたちとのやり取りも同じ問題であるということを理解すれば、なぜこの箇所の直後に、子どもの祝福の箇所が置かれているのかもよく理解することができます。マルコ福音書では、すでに「わたしの名のためにこのような子どものひとりを受け入れるものは…(10:37)」とあり、イエスさまが弟子としての心構えについて話しておられます。聖書のなかで、“子ども”ということばは、幼児から12歳までの子どもを指しています。この年齢の子どもたちは、律法を理解できず、また律法を守ることもできません。それゆえに神さまの前に何の価値もないものとして扱われていました。しかも、ユダヤ教、特にファイリサイ派では、人は律法の遵守によってのみ、神さまによって義とされると考えられていました。律法を完全に守れない女性や子どもたちは、人としての価値を認められていなかったという当時の状況があるわけです。そのような当時のユダヤ教の価値観に対して、イエスさまは憤って「神の国はこのようなものたちのものである」といわれました。当時の人々の考えていた神の国は、律法によって示されている神の意志への従順によってもたらされると考えられていました。つまり、人間の力で神の国を建設できると考えられていました。また、神の国は、世の終わりの到来によって、世界が神を認めるようになることによってもたらされるとも考えらえられていました。第1のものは人間の力、努力による報いとして、第2のものは将来的、来世的な希望として神の国を理解しようとするものでした。

その点からすれば、「神の国はこのようなものたちのものである」というイエスさまの主張は、神の国はいつどのようにくるのかという発想と異なっていることがわかります。イエスさま自身「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』といえるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ(ルカ17:20)」といわれています。ここで「見える形では」といわれていることばは、「オブザーバーとしては」という意味です。つまり、神の国というのは、わたしたちが外に立って眺めることができるようなものではなく、わたしたちが部外者としてその外に立つことができるようなものではない、あなたがたそのままが神の国ですといっているのです。つまり、神の国はいつか、どこかにきて、そこへわたしたちがどのようにかして入るとか、入れないとかいうようなものではなくて、あなたがたが神の国の当事だという意味なのです。わたしたちが決して出ることができない、わたしたちが生かされている神のいのち、永遠のいのち、三位一体の交わりが神の国だといっているのです。わたしたちは、神のいのち、永遠のいのち、三位一体の交わりから出ることはできませんし、出ることはありえません。すべての生きとし生けるものをすべて包み込んで流れていく根本的な大生命のようなものなのです。魚が水を離れて、魚でいることができないように、鳥が空を離れて、鳥でいることができないように、東洋でいわれているところの無、空といわれているような何かであり、それなくしては、わたしはわたしでありえないところの何かであるといえばいいかもしれません。キリスト教では、それを神の国、永遠のいのち、聖霊、神の働きといってきたのだと思います。

神の国に入るために必要なことは、といっても神の国に入るとか入らないということなどないのですが、あえていうならば、わたしたちが神の国に気づくということが「子どものように神の国を受け入れる」ことであるといわれているのです。子どもたちは、律法を守ったり、功徳を積むことも、犠牲を捧げることもできません。ですから、子どもたちは神の国に入るためには何もできません。しかし、そのようなことなど何も問われていない、あなたがたが生きていることが神の国なのだということに気づくこと、人間が作り出した垣根を取り払うこと、それがイエスさまの時代では律法を守れるとかどうかという区別を取り払うこと、律法を相対化することだったのです。さて、わたしはどの垣根を取り払うのでしょうか。

年間第26主日 勧めのことば

年間第26主日 福音朗読 マルコ9章38~48節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の箇所はマルコの福音書の中でも、非常に解釈が難しい箇所です。多くの人は、この箇所を読むときに大きな勘違いをしてしまいます。いのちに与るために、神の国に入るために、地獄に落ちないために、罪を犯すぐらいなら、自分の手を切り取り、足を切り取り、目をえぐり出すという英雄的な行為をしなさいといわれているように読んでしまいます。そのぐらい、神の国に入るのは大変だという話になってしまっています。実際にそのようなこと、キリスト教の教えを守るために殉教したり、誘惑に打ち勝つために特別の修業をしたりする人たちがいて、その人たちが殉教者、聖人としてほめたたえられてきました。それはそれでいいかもしれませんが、なぜそのような聖書の読み方をしてしまうのかというと、みな自分を主人公として読んでしまうからです。ひとことでいえば、みな自己中だからです。イエスさまが問題にしておられたのは「これらの小さなものひとりをつまずかせる」ことです。しかし、いつのまにか、わたしが地獄に落ちたくない、わたしがいのちに与りたい、わたしが神の国に入りたいというふうに、無意識に読み替えがおこなわれているのです。そう思っているのは誰かというと “わたし”なのです。ただ、わたしが地獄に落ちたくない、いのちに与りたい、神の国に入りたいというところに視点がずれてしまっているのです。それは全部自分のため、自分のために功徳の積立をしているだけであって、イエスさまの中にそのような考え方は一切ありません。そんなことを考えている時点で、すでに神の国とは全く違ったものになってしまっているのです。

ここでイエスさまがいわれたのは「これらの小さなもののひとりをつまずかせる」ことの問題であって、わたしの救いなど問題にされていないのです。それを、いつのまにか焦点が、「小さなもののひとり」から、「わたしの救い」に転化してしまっています。イエスさまが目を向けられたのは、「この小さなものひとり」を大切にすることです。ここで、イエスさまが問題としておられるのは、弟子たちの特権意識、教化者意識です。弟子たちの特権意識というものは、自分たちこそがイエスさまの弟子で、自分たちこそがイエスさまに従っており、自分たちこそイエスさまの正統な後継者であるという意識です。また、教化者意識というのは、自分たちが正統であり、自分たちこそ正しい教えをもっており、自分たちが人々を教えていかなければならないという意識です。そのような自分たちこそが正しいもの、正統なもの、力あるもの、教えるもの、指示するものであるという意識が、「これらの小さなもののひとりをつまずかせる」とイエスさまはいわれたのです。

過去の教会の中では、罪を犯すぐらいなら、また誘惑を避けるために、自分の手を切り、足を切り、目をえぐり出すという人たちがいました。でも、彼らが守ろうとしたのは、キリスト教の教えを信じている他の人とは違う“特別なわたし”であって、「これらの小さなもののひとり」ではなかったのです。このような信仰理解は、自分の意志を信仰と置き換え、どれだけ自分の意志を強くもてるかということが信仰深いことであると勘違いしてしまったのです。このような信仰理解は、信仰という恵みを自分のものとして握りしめてしまい、イエスさまを信じている特別なわたしに執着しているだけで終わってしまいます。

イエスさまがいつも最優先されたのは、「これらの小さなもののひとり」です。「これらの小さなもののひとり」とは、いわゆるかわいそうな、貧しい人たちのことではありません。先週の福音であれば、子どもであり、赤ちゃんであり、ユダヤ教の中では律法を守ることすらできない価値がないとされていたものたちです。これは、わたしであり、わたしでない人たちのことなのです。わたしたちは価値があるから神の国に入るのでもないし、価値がないから神の国に入れないのでもないのです。神の国は、人間の価値基準と関係ないのです。

これがイエスさまが宣べ伝えられた神の国の価値観であり、「わたしたちに従わないのでやめさようとする」ような自分たちを正統とし、そうでないものを異端とする特権意識とも真っ向から反対するものです。地獄というのを教義的な地獄として教えようとする教化者意識とも違います。そもそも、ここで使われているゲヘンナとはエルサレムの都の南側にあったゴミ焼き場のことであって、教義で教えられるような地獄ではありません。それを、あたかもイエスさまが地獄について教えられたかのように教え、注釈でも永遠の罰を受ける場の意味になったと書かれていますが、これはイエスさまの意図ではありません。イエスさまは、誰かが永遠の罰を受けることや滅びることなど望んでおられません。

イエスさまがおっしゃりたかったのは、わたしたちの中に潜む特権意識や教化者意識のもつ危険であって、誘惑を受けないように手足を切り、目をえぐり出せとか、そして神の国の入るためにがんばれとか、地獄にいかないようにしろといわれたのではないのです。このもっとも小さなもののひとりを大切にしていくこと、つまり、誰が正しいか正しくないかとか、誰が仲間であって仲間でないかとか、誰が大きくて小さいとか、誰が天国に入って地獄にいくとかいう考え方をやめなさいといわれたのです。なぜなら、このもっとも小さなものは、正しいことを何もできない、律法を守ることもできない、人のために何も良いことをすることもできない、彼らは天国にいくために何もできないのです。しかし、神の国は彼らのものだとイエスさまはいわれたのです。イエスさまがいわれるのは、何かができるからとか、何かをやったからとか、よいことをしたから、神の国に入るのではないといわれたのです。神の国はそのような人間のよしあしを超えたものだということをいわれたのです。この小さなもののひとりを受け入れるものが、わたしを受け入れるのだ、それが神の国ですといわれたのです。

年間第25主日 勧めのことば

年間第25主日 福音朗読 マルコ9章30~37節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の福音はイエスさまが2度目のエルサレムでの受難予告をされた後の物語です。イエスさまのエルサレムへの旅は、フィリポ・カイザリアからガリラヤへ、ガリラヤからエルサレムへと舞台が変わっていきます。イエスさまは、エルサレムへ出発される最後のときを、ガリラヤでの宣教拠点とされたカファルナウムで過ごされました。

フィリポ・カイザリアからカファルナウムへと向かう旅の途中で、弟子たちの関心事は、イエスさまがエルサレムで政権交代を果たされたあかつきには、誰がどの役職に就くかということでした。自分がどの省庁の大臣になるかということです。一方で、イエスさまは弟子たちに、自分がエルサレムでどのような最期を迎えるかを話されます。「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と。弟子たちは、イエスさまが何をいわれているか分かりません。というか、弟子たちの世界には、失敗、成功という価値観しかなく、自分たちのリーダーであるイエスさまがエルサレムで失敗されることは考えられなかったのでしょう。イエスさまと弟子たちの乖離ということが描かれています。イエスさまは、全部で3回の受難予告をされますが、いずれもその直後に弟子たちの無理解ということが描かれています。第1回目の後には、ペトロへの諫言と叱責、第2回目は、弟子たちの覇権争い、第3回目は、ヤコブとヨハネの願い-これも弟子たちの覇権争いですが-となっています。イエスさまの働きへの弟子たちの無理解ということが、一貫して描かれるのがマルコ福音書の特徴です。先週の福音で、イエスさまは弟子たちに、「あなたがたはわたしを何者だというのか」と問いかけておられますが、イエスとは誰かということを問い続けること、それはつまりわたしというものは何かを問うことでもあるのです。     

通常、わたしたちが様々な計画を立てるのは、人生を自分の思った通りに進めたいという欲があるからです。そして、その欲を何が何でも推し進めようとします。ですから、弟子たちにとって、失敗すると分かっているエルサレムへの旅というものは、理解できないというか、分からないのは当たり前です。人間の考える幅というものは、それほど大きくありません。自分の想定できる範囲内で、すべてを収めようとします。失敗を恐れますから、リスクを侵さないようにし、その想定内に収まらないときには想定外ということになります。弟子たちは、怖くてイエスさまに尋ねられなかったと書かれていますが、それはそうだと思います。弟子たちの計画、想定にはないことを、イエスさまはしようとされているわけですから、当然理解することはできないし、聞くに聞けないのです。12使徒といわれた弟子たちは、そのようにまったく世俗的で凡庸な人々だったのです。彼らの関心事は、自分たちの中で誰がリーダーシップを取って、権力を握るかということしかありませんでした。彼らが教会のリーダーだったわけです。情けないといえばそうですが、これはわたしたち人間世界の現実でないないでしょうか。

そのような弟子たちに対して、イエスさまはひとりの子どもの手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて、「このような子どもを…」と話し始められます。抱き上げるわけですから、子どもといっても大きな子どもではなかったと思います。また、もう少しあとの箇所では、「子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることができない(10:15)」といっておられます。当時のユダヤ教の世界では、人としての地位を認められていたのは13歳以上の男子だけで、女性、子ども、病人や障がい者、罪人とみなされる職業についている人たちは人扱いされませんでした。その中で、子どもは無力で弱い立場におかれた人々の代表として捉えられています。子どもであるということは、自分では何もできない存在で、両親やそれに類する人たちに保護してもらい、誰かに頼るしかできない無力な存在です。ユダヤ教の律法を守ることができない存在ですから、子どもたちというのは、神さまから嘉せられる存在ではなかったのです。しかし、イエスさまは、「このような子どものひとりを受け入れるものは、わたしを受け入れるのである」といわれ、「子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることができない」といわれたのです。

弟子たちの価値観は、何かができる人が偉く、そしてその人が力を握る。失敗や挫折することは悪で、ダメなことという価値観です。ですから、子どものように無力で、何もできないということは、価値がなく、無意味ということになります。わたしたちの通常の価値観もそうではないでしょうか。人間として強いこと、力があること、誰かに何かをしてあげられること、何かを与えられるものであること、他者を助けることができるものであることがよいことだと思っています。わたしが非常に気になることは、カトリック教会がいつもそちら側に立っていることです。確かに、わたしたちが誰かに何かを与えること、施すこと、面倒をみること、何かわたしがすることはそれなりに尊いことだと思います。しかし、もしわたしたちが、誰かに何かを与え、施し、面倒をみ、わたしが何かをできるとしたら、それはわたしが与えるものを受け取ってくれる人がいて、施しを受け取る人がいて、面倒をみられる人がいて、わたしに何かをさせてくれる人がいてはじめでできることなのです。全員が与える人、施す人、面倒をみる人であれば、そのこと自体が成り立ちません。わたしたちが何かをできるとしたら、それはたまたまわたしたちが何かをもっていたり、何かをすることができたり、そのような力をもっているだけなのです。それはたまたまなのです。状況が変われば、与える側にも与えられる側にもなります。お互いさまなわけです。どちらが偉いとか、偉くないということではありません。怖いことに、教会は自分たちがもっている側、与える側、してあげる側であると思い込んでいることです。それなら、弟子たちの価値観と何ら変わりません。

わたしたちは誰もが、何もできない赤ちゃんとして生まれてきますが、だんだんできることが多くなり、何でも自分でできるようになります。しかし、最後に何もできないものになります。人間は必ず老い、病気になるのです。どんなに健康で、どんなに美しくて、活動的な人であっても、最後には必ず、誰かから何かをしてもらう側になる、施しを受ける側になる、介護を受ける側になるのです。与える存在ではなくて、与えられる存在になるということです。そのようにして、わたしたちは自分が与えられた存在であることを学ぶのではないでしょうか。この世界は、何かができるようになること、強くなることは教えてくれますが、何かができなくなることを教えてくれません。強くなること、できるようになることは評価され肯定されますが、できないこと、弱いことは否定されがちです。しかし、イエスさまは「このような子どものひとりを受け入れるものは、わたしを受け入れるのである」といわれました。これは弱い人を受け入れて助けなさいとか、子どものように謙遜になりなさいといわれたのではないのです。

イエスさまが、わたしたちの世界に来られたときに、小さなか弱い幼子として来られました。幼子は、誰かが受け止めて、守って養い育てなければ生きていくことができない、無力な存在です。わたしたちもそのようにしてこの世界にいのちを受けたのです。それは、わたしが何かができるようになって、強くなって、権力を振るって、人々を支配するためではないのです。自分が与えられるものであることを学ぶため、面倒をみられ、何もできないものとなることで、自分が与えられたものであることに気づき、自分は与えるものでもあるけれど、与えられたものであることを学ぶためではないでしょうか。わたしたちは、自分を手放すことによって、本当の自分、与えられた存在に還っていくのだと思います。そのことをイエスさまは「子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることができない」といわれたのです。わたしたちは人生において、弱さを学ぶことができる、これこそが希望です。

年間第24主日 勧めのことば

年間第24主日 福音朗読 マルコ8章27~35節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の箇所は、マルコ福音書における大きな分岐点にあたる箇所が朗読されます。イエスさまは、故郷のガリラヤで病人をいやし、罪人にゆるしをもたらし、貧しい人々に神の国の福音を積極的に述べ伝えてきました。しかし、イエスさまが直面されたのは、ファリサイ派の人々の反発と批判、身内や故郷の人々の無理解、そして、弟子たちの無理解でした。イエスさまの孤独感は高まり、宣教活動にも陰りが見えてきます。そのような状況の中で、ヨルダン川の源流の北限の地であるフィリポ・カイザリアに行かれます。どのような思いで、フィリポ・カイザリアに行かれたのでしょうか。

イエスさまがガリラヤでの宣教で直面したのは、人々の反対と熱狂、そして熱狂している人々のうちに見られる勘違いと無理解でした。人間は皆自己中心なので、自分の思いや願いをかなえられることを最優先にします。そして、多くの宗教は人間の思いをかなえるという形で人を誘導し、むしろ人間を迷いの方向に導き、宗教の本来の姿を見えなくさせてしまっています。宗教に入信して一生懸命精進しても、自分の願いや思いがかなわないとき、指導者に相談すると必ずといっていいほど、祈りが足らないとか、信心が足らないとか、精進が足らない、献金が足らないといわれます。いわれた方もそうかなと思い、ますます熱心になり、精進するということが繰り返されます。しかし、そもそもその根底にある勘違いは、宗教をすることや信仰をすること、祈ることや修行をすることで、自分の思いや願いが成就されると考えているということなのです。また、宗教の方も自分たちは特別なもので、救われるのは特別なものであると考えているということです。それらは、いずれも根本的に間違いなのです。それだけなら、ただの自己実現、自己充足にひたっているだけに過ぎません。

そもそも人間は、一般的にいって、苦しみからの救いを宗教に求めてきたのでしょう。ガリラヤの人々が求めたものも、例えば病気の回復、貧困や飢えからの解放、いろいろな人生における困難の解決を救いと考えていたと思います。または、旧約聖書のイザヤ書にある「苦しむしもべ」のような、苦しみの意味を求めたり、また生死の意味を求めたりします。また、実際的に死後の行方を求めるということもあります。そして、そこから反転して、宗教をこの世の道徳の基礎として説明するという構図もあります。つまり、死後に天国に行くために、この世でよいことをしようという、この現世での道徳の基礎として宗教を求める理由になっていきます。このように、人間はどの時代においても宗教を求める心理というものをもっているように思います。しかし、このような人間の素朴な宗教心は、イエスさまが感じられたこと、つまり自分が教えれば教えるほど、奇跡をおこなえばおこなうほど、むしろ人々を迷わせてしまっているのではないかという疑念、自己嫌悪になっていったのではないでしょうか。イエスさまは、自分が伝えようとされた神の国の真実と人々の思いの間に、あまりにも大きな乖離があることを痛感せざるを得なかったのだということです。そこで、イエスさまは、ガリラヤでの宣教活動に終止符を打って、ユダヤ教の中心であるエルサレムへいくことを考え始められるというのが、今日の箇所であると思います。

そこでイエスさまが弟子たちに、「人々は、わたしのこと何者だといっているか」と尋ねるという話がつづきます。このことは教会では大切なペトロの信仰告白として捉えられていますが、これは後の教会でのイエス・キリストへの信仰告白を土台とした教話の挿入です。ペトロの「あなたは、メシアです」という答えは、「あなたはイスラエルの新しいまことの指導者になられます」ぐらいの意味しかありませんでした。事実、ペトロの勘違いは、イエスさまが十字架上で亡くなられた後も続きます。ペトロがイエスさまの神の国の真実に気づかされたのは、復活されたイエスさまとの出会いの体験後なのです。ここで、むしろ大切なのは、ペトロの告白後に語られるイエスさまの生き方とその教えにあるといえるでしょう。

非常に簡単にいうと、イエスさまは自分が殺されること、それが自分の人生、生きることだといわれたのです。そのことをイエスさまは「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥され殺され、三日の後に復活することになる」といわれ、「自分のいのちを救いたいと思うものは、それを失うが、わたしのため、また福音のためにいのちを失うものは、それを救う」といわれたのです。人は皆、生きていれば死ぬ、しかし、死ぬことによって人は生きるのだといわれたのです。そして、それがイエスさまの後に従うこと、人間として生きることだといわれたのです。ある意味で、当たり前のことをいわれたのです。

大体の人間は、自分が生きていて、自分は自分で生きていると思っています。ですから、このようなイエスさまのことばが衝撃的に聞こえるわけです。しかし、少なくとも、わたしたちは自分の意志で生まれてくる人は誰もいません。そして、死ぬことも自分の意志ではコントロールできません。わたしたちが、自分が生まれることは決められないとしても、死ぬとき死ぬのはわたしであるのに、その死ぬことをわたしの意志では決められないということなのです。つまり、生まれてきたことも死ぬことも、わたしの意志ではないのです。生まれてきたので死ぬまで生きていく、これがわたしの人生だということなのです。それが、わたしたちはこの世に生まれて、だんだん大きくなっていくと、このからだ、このいのちは自分のからだ、自分のいのちであるように思いこみ、この人生は自分の人生であると思いこんでしまうのです。そして、自分の意志で生きていると思ってしまっている、だから自分の思い通りにならない自分の人生や死を、宗教を持ち込んで解決し、意味付けをしようとする、そこら辺から宗教が始まったのではないかと思います。そのように、わたしの思いをどこまでもすえ通らせようとするわたしたちに、「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」とイエスさまはいわれたのです。特に現代社会は、自分が自分の力や意志、科学の力で生きていると思い込んでしまっているのです。現代の個人主義はその最たるものです。しかし、わたしのいのちだと思っているいのちはわたしが作ったわけではないのです。では今生きているわたしは、一体だれが望んだのだということになります。それを神さまが望んだのだというのが宗教なのでしょう。しかし、その神さまはわたしだけの都合に合わせて、わたしを作っておられませんし、誰かの都合や思惑に合わせておられわけでもありません。ただ今こうして自分が生きてあるということ、そのこと自体が奇跡のようなものです。そのことが、あますところなく満ち溢れていることに気づくこと、それがまことの宗教のように思います。

そのことをイエスさまは、生きて死ぬといわれたのです。ですから、死ぬことによって生きること、生きるとは死ぬことだといわれたのです。だからわたしたちの思っているような救いなどもともとないのです。救われたよう思うことで、真実に気づかされるということではないでしょうか。わたしたちの人生の中での苦しみや困難が歴然として存在することには変わりません。しかし、苦しんでいるのは自分で、苦しみを苦しみとしているのはわたしであって、それがわたしの人生の中で起こっていることなのだと気づくこと、それにもかかわらず、わたしは生きている、今、生かされているということに気づくとき、それが救いであり、安寧であり、今まで苦しんでいた世界とは別の世界-同じ世界なのですが-がみえてくるということなのです。それをイエスさまは、「自分のいのちを救いたいと思うものは、それを失うが、わたしのため、また福音のためにいのちを失うものは、それを救う」といわれたのだと思います。

年間第23主日 勧めのことば

年間第23主日 福音朗読 マルコ7章31~37節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の聖書の箇所は、イエスさまが、耳が聞こえず舌の回らない人を癒された箇所です。そこでは「エッファタ」という印象的なことばが使われます。「エッファタ」というのは、当時のユダヤ人が使っていたアラマイ語で「開け」という意味です。おそらくイエスさまが直接に使われたことばで、人々にとって非常に印象的であったので、ギリシャ語で聖書が書かれたとき訳されることなく、そのままアラマイ語が残されたのだと思います。そのようなものとして「タリタ、クム」、「アッバ」、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」などがあります。これらはイエスさまに由来することばであるといわれています。

さて、耳が聞こえず、ことばが話せないということですから、それは生まれつきの障がいであったという可能性が高いことがわかります。生まれつき耳が聞こえないということは、音として情報が一切入ってこないということですから、目で入ってくるものが何であるかがわからないという状況になります。つまり、人間は発達段階の中で、音として入ってくるものでことばが生まれ、ことばでその人の世界が作られていきます。「ママ」という音が、母親を指すものだということで、ママということばが何を意味しているのかがわかるということです。音がないとことばができませんし、ことばがないと意味というものがわかりません。生まれつき聞こえないということであれば、音からことばを習得することができないということになります。だからことばも話せないということになります。人間はことばをもつことで、自分の世界が作られていくのです。ですから、わたしたちがその人の状況を想像することは、大変難しいということがわかります。わたしたちは考えるとき、頭の中ではことばで考えているわけですが、ことばがないということは考えるということができません。それは本人にとっては非常に深刻なことなのですが、その深刻さを本人がわからないし、周りの人もそのことを想像することができないのです。文字でことばを学べばいいというかもしれませんが、当時の民衆は読み書きができませんでしたから、文字をことばとして認識することは容易なことではありませんでした。

ですから、その苦しみは本人が自覚することさえできないほど、精神的な、心理的な、社会的な苦しみとなっています。その苦しみの本質は、その人から他者やこの世界とのコミュニケーションを、すべて奪っているということなのです。ことばをもたないので「苦しみ」という意味も理解できず、当然他者とのコミュニケーションはできません。ですから、その種のコミュニケーションの阻害は、根本的、本質的なものであるといえます。中途で耳が聞こえなくなった場合、すでにことばや文字を習得していれば、手話とか、筆談で人とコミュニケーションをとることができます。しかし、生まれつき耳が聞こえない場合は、生きとし生けるものとのつながりという感覚をもち難く、自分の内に閉じこもるということになります。その苦しみは非常に内的であって、わたしたちが想像できないような苦しみだということです。

 イエスさまの時代、耳が聞こえないようなことも含めて、そのようなことは悪霊の仕業であると考えられていました。悪霊の働き方はいろいろありますが、主なことはひとつであるといえるでしょう。それは、その人が、神さまへ、あるいは他者へと向かっていくこと、関わっていくことを妨げるということです。外へ向かっていくことを妨げられた人は、自分に向かっていかざるを得なくなります。いわゆる自己関心へと、その人を閉じ込めてしまいます。人間は基本的には、自己関心の塊です。そのような人間であるわたしたちは、イエスさまや他者と関わることによって、自己関心という人間の最大の闇から解き放たれていくことができるのです。わたしたちは、イエスさまや他者と関わることがあったとしても、それでも自己関心という呪縛から完全に自由ではありません。しかし、この世界と関わることによって、せめて、自己関心という闇のなかに閉じこもることから守られているのです。

人間は、神の似姿として創られているといわれます。神の似姿であるということは、愛し愛されるものとして創られているということです。愛するということは、神さまの本質であり、人間の本質であり、すべてのいのちの本質でもあります。つまり、愛するということは、自分を出ることであり、自己脱出、自己忘却、自己超越であり、自分をおいて、他に向かっていこうとすることです。イエスさまは愛そのものですから、愛することしかできません。イエスさまにとって愛するとは、自分を出ること、自分を与えることであり、愛の神さまですから、一瞬たりとも愛さないでいることはできません。その際に、一切条件を付けられません。たくさん犠牲をして祈りをすれば愛してあげようとか、ミサに行ったら愛してあげようとか、告白に行けばゆるしてあげようとかいわれません。わたしがわたしであるというだけで、今のわたしを愛し、ゆるしておられるのです。わたしが何かをしたから、何かをしなかったから、愛されゆるされるのではありません。イエスさまに愛されるため、ゆるされるために、わたしが何かをすること、わたしが変わる必要がないのです。イエスさまからただ愛されゆるされていることに気づくこと、それがわたしが愛されるということなのです。これによって、はじめて愛が完成されます。わたしたちがイエスさまに愛されたままになること、これが、わたしがわたしを出ていこうとすること、自己脱出なのです。わたしたちは、そのことがわからず、自力で一生懸命自分を変えようとしているのです。何と愚かなことでしょうか。まさに、イエスさまに向かうことをせず、小さい自分の考えや思いのなかに閉じこもっている、自己関心という闇のなかで、もがいているのだといえばいいでしょう。

今日の福音に出てくる耳が聞こえず舌の回らない人というのは、神の似姿として創られたわたしたち本来の姿を生きられないようにされているのです。自分が望んだのでないのにも関わらず、その人を自己という闇の中に閉じ込めてしまっているのです。そして、その自己という闇から、自力では決して出ることができません。イエスさまは、その人を自己の闇から解き放ちたいと思われたのです。そして、「エッファタ(開かれよ)」といって、その人の耳を開き、音を届け、ことばを与え、意味をわからせようとされたのです。その人が生まれてこの方、決して自分では出ることができなかった闇の世界から、イエスさまが光の世界へと導き出してくださったのです。ことばというものを知らなかったであろうその人が、すぐに話し始めたように書かれていますが、イエスさまは人と人とが関わるために必要なことばも授けてくださいました。そのことを「唾をつけて、その舌に触れられた」と書かれています。

今日の福音はわたしたちにいろいろなことを教えてくれています。わたしたちが当たり前のようにしている聴くこと、見ること、話すことは何か、ことばとは何か、わかるというのはどういうことかということを改めて考えさせられます。これらが整って、人はコミュニケーションを取ることができるのです。そしてコミュニケーションとは、単なる人間活動である以上に、人間が神の似姿として作られたことを現実化していくこと、人間の本質である自己脱出そのものであるということなのです。わたしたちにとって一番難しいのは、自分という中に閉じこもってしまうことです。わたしたちは、日々の生活の中で、たやすく自己関心という闇に飲み込まれてしまいます。そのようなわたしたちをみて、深く憐れみ「天を仰いで深く息をつき」、「エッファタ」といって、わたしを無明の闇から光へと解き放ってくださるのがイエスさまなのです。わたしたちは、イエスさまに憐れんでいただくしかない存在です。ですから、わたしたちは、イエスさまに向って、「主よ、わたしをあわれんでください」と祈るのです。

年間第22主日 勧めのことば

年間第22主日 福音朗読 マルコ7章1~23節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日から、またマルコ福音書を読んでいきます。今日は、ユダヤ教の清浄規定というものが取り上げられていきますが、根底にあるのは人間の苦しみはどこから来るのかという問いであるといえるでしょう。ユダヤ教では、聖と汚れを区別することが非常に大切にされてきました。それは、衛生という概念がなかった時代、人々の健康をいかに守るかということを律法という宗教的な概念を用いて説明しようとしたのだと思われます。それで、聖なるものと汚れているものをはっきりと区別し、汚れを避けることで、神さまに受け入れられると考えられるようになっていきました。結果的に、そのような律法がユダヤ人の健康や民族を守ってきたことは確かです。しかし、その考え方は、人間社会のなかに分断を生み出し、差別、区別を宗教的に正当化するものになってしまいました。すべての宗教は、すべての人の救いを目指すといいながらも、宗教上の差別、区別という課題を抱えてしまっているのです。しかし、このことは宗教の問題であるだけではなく、同時にわたしの内なる問題でもあるのです。わたしが自分というものをどのようにとらえているかということが問われるからなのです。

わたしたちが生きていくとき、老病死は避けることが出来ません。わたしたちが望むと望まざるに関わらず、老病死はわたしたちに訪れます。イエスさまの生きていた時代は現代と違って、ちょっとした病も死と直結しました。ユダヤ人たちは、病を誘発するものを細心の注意を払って避けました。そのために、手を洗うとか、沐浴するとか、食器を洗うこと、寝床を清潔に保つことを、宗教的な規則としておこなうようになりました。手洗いにしても、日本では通常の習慣としておこなわれていますが、欧州においてさえも必ずしも通常のことではないのです。日本人は衛生的で、当然のようにそのような対策を講じることが出来ます。しかし、全世界では、今でも清潔な水で手洗い、うがい、歯磨き、洗濯、入浴し、またバランスの良い食事を取り、家を清潔に保つために掃除をし、充分な睡眠がとれる環境を整えることができない人たちがたくさんいるということです。そのような、基本的な生活を整えられないということは即、病、死と直結していきます。世界的に見ても、わたしたちは、非常に高い生活の質が保たれているのです。ユダヤ教は衛生ということを、宗教として教えていたということになります。

しかし、そのような決まりが人々を助けるのではなく、分断、差別を生み出していったというのが今日の聖書箇所の問題です。民を壮健に保つための決まりでしたが、その規則を守ることができる人たちというのは、ある程度、生活の質が保障されている人たちでした。多くの民衆は、守れなかったというより、貧困という問題を抱えていたので、その規則を守ることが出来ませんでした。そして、その規則を守ろうとした人たちは、自分たちができない仕事や様々な作業を、貧しい人たちに担わせていたというのが当時の状況でした。例えば、安息日の労働は禁じられています。しかし、今日は安息日だから羊の世話をしないということはできません。そうすると、羊の世話のために、貧しい人たちを雇うわけです。そして、彼らに羊の世話をさせました。にもかかわらず、羊飼いは安息日を守ることが出来ない人たちだと見下し、差別しました。そして、彼らを汚れたもの、罪人とみなし、ファイリサイ人は彼らと接触することを避けるようになります。

そのような、聖と俗を分けて考える二元論的な発想は、人々の間に分断をもたらします。根底にある問題は、聖と俗という区別を持ち込み、そこに境界線を引き、境界線の中に入っている人たちは清い、つまり救われるものとし、境界線の外にいる人たちは汚れている、つまり救われないと決めつけたのです。これは宗教の問題である以前に、わたしの中にある忌避意識の問題です。このわたしの中にある忌避意識が、すべての宗教の中にみられ、救われたものと救われないものという境界を作り出し、救われた側に入ったものだけが救われて、ますます自分の世界に閉じこもり、自分のこころとからだを清浄に保つことだけに関心を払うようになっていくという問題がみられます。それは、すべての宗教が抱えている問題ですが、根底にある問題はわたしの忌避意識なのです。イエスさまは、わたしたちに分断、差別、区別を作り出しているものが一体何かということを正面から取り組まれたのです。

一般的にわたしたちは、悪いものや自分に都合のよくないものは自分の外からくるというふうに考えます。あの人のせいで、あの病気のせいで、あの人さえいなければ、あの出来事さえなければというふうに考えます。もちろん、わたしたちの外側からくるいろいろな難しい状況があることは確かです。確かに、病気はわたしに都合を聞いてくれませんし、事故にあうとき、事故にあってもいいかどうかわたしに相談してくれません。老病死は、わたしが年をとってもいいか、病気になってもいいか、死んでもいいか、相談してくれません。わたしが望むと望まないに関わらず、突然というか当たり前のように、自然にわたしのところにやってきて、そのことからわたしは大きな影響を受けてしまいます。ということは、わたしたちが生命体として生きていくうえで、そのようなことを避けることはできないというか、自然なことであるということなのです。そう考えていくと、自分の外に汚れがあって、それがわたしを汚しているとか、苦しめているという単純な考え方は成り立たなくなります。つまり境界線を引いて、清いとか汚れているというふうに区別、差別しているのはだれでもなく、当事者である“わたしのこころ“、わたしの都合に他ならないということなのです。それをイエスさまは「外から人のからだに入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出てくるものが、人を汚すのである」といわれました。清いもの、汚れたものの区別があるのではなく、それを作り出しているのは“わたしのこころ”なのだということです。

人間はものごとを区別していくことでしか、この世界を理解していくことができません。だから区別し、分析することで、この世界が、宇宙が、いのちがわかると思い込んでいます。このような善人と悪人、聖人と罪人、救われるものと救われないものという区別は人間にはわかりやすいのですが、それが、宗教や社会の中で取り上げられていくとき、それは容易に人々の間に分断、差別、暴力を生み出してしまいます。人間の世界には、完全な善もないし、完全な悪もありません。これは、犯罪を肯定しているわけではありません。イエスさまにとっては、清い人汚れた人、善人悪人の区別はないのです。しかし、わたしたち人間が生きていくということは、悲しいことに、自分が望むと望まないのにも関わらず、夫々の置かれた状況の中で、善人にもなるし悪人にもなる、聖人にもなるし罪人にもなる、被害者にもなるし加害者になるということなのです。キリスト教では、人間の自由意志を強調しますから、善と悪をきっちりとわけて、わたしが悪いか、悪くないかで判断し、常に善をおこなうことを勧めます。そのように教えるのはいいのですが、人間は時間を生きているわけですから、それほど単純ではありません。そのような単純な発想は、人は自分の中の忌避意識を強化し、簡単に区別、差別を生み出し、それが他の人への関わり方に及んでいくとき、人を判断し、人を裁くという暴力となっていきます。それでは、そのようなことをしている“わたし”という存在は、いったい何かということをイエスさまは問うておられるのです。

わたしたちが生きていくということは、わたしたちの計画や予定通りにいかないことばかりです。それを通して、自分の弱さや限界、無力さ、己の罪深さを思い知らされることの連続です。そのとき、わたしたちはわたしたちの力や思いをはるかに超えて、わたしに大きな力が働きかけ、それがわたしたちを生かし、守り、救われていることに気づかされます。それが神、イエスさまとの出会いの場となっていくのです。

年間第21主日 勧めのことば

年間第21主日 福音朗読 ヨハネ6章60~69節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日はイエスさまのもとから多くの弟子たちが去り、12人だけが残り、彼らに「あなたがたも離れて行きたいか」とイエスさまが尋ねられる箇所です。イエスさまのガリラヤでの宣教に陰りが出た、その出来事が取り上げられていきます。

共観福音書の中で、イエスさまがフィリポ・カイザリアにいかれたとき、弟子たちに人々はわたしのことを何と呼んでいると質問された直後、自分のエルサレムでの受難を予告される場面と対応しています。いずれにしても、イエスさまのガリラヤでの宣教活動は早い段階で行き詰まり、挫折を迎えたということなのです。それは、人々がイエスさまの神の国の福音を受け入れなかったというか、人々が理解できないことが離れていった原因だと思います。12使徒たちもイエスさまの神の国の福音を理解していたわけではなく、自分たちもイエスさまを見限って離れていきたいというのが本音だったのかもしれません。実際のところ、イエスさまがエルサレムに行って、ユダヤ教の指導者たちと対決していこうと決意されるのをみて、イエスさまの真意を理解していない弟子たちは、これは危ないと思って自ら武装をし始めています。

多くの弟子たちがイエスさまを離れていった理由を、イエスさまが自ら説明されています。「いのちを与えるのは霊である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話したことばは霊であり、いのちである」と。霊とは人のうちに働く神の力を指しています。共観福音書では神の国といわれています。その霊に反するものをヨハネは肉と呼び、共観福音書では神の国に対して律法をあげています。霊や神の国が何であるかを説明するのは、とても難しいのです。霊というのは、超常現象やオカルト的な現象ではなく、神の国も理想的な国家とか、死後にいくような天国や楽園でもありません。ですから、肉、律法を説明した方がわかりやすいのでそこから話してみたいと思います。

肉、律法というものは、人間が通常生きていて、それにわれわれが従っている秩序や道理、価値観、思考体系全体を指しています。例えば人間が息を吸う、吐くというような生命活動から始まって、正しいことをすればそれは善として評価され、悪いことをすれば罰を受けるというような人間の社会倫理や様々な活動など、ことばで説明できる人間のすべての事象を指しています。また、人間の具体的な活動、例えば介護をする人がいて、介護を受ける人がいて介護というシステムが成り立っていること、育てたり教えたりする人とそれを受け取る人がいることで家族や教育、社会が成り立っていること、また、支配するものがいて、支配されるものがいて国家や政治が成り立っていることなど等です。こうしたものは人間の生活、社会を作っていくために不可欠なもので、それなくしては成り立たないものであるわけです。ですから、肉、律法が悪いという意味ではありません。人間の生命活動、介護、教育、政治といった人間のあらゆる社会活動など、それらは人間の生活が成り立っていくために必要なものです。そのような秩序やシステムが正常に機能していることで、人間は安心安全な生活をすることができます。しかし、そのようなシステムが動いていくときに、どうしてもそこにひずみというか、歪みが生じてくるということなのです。それが、人間のもっている限界でもあるわけです。

介護を受ける人がいるから、介護をする人がいるのであって、皆が介護を受ける人であれば困ってしまいます。反対に皆が介護する人なら介護は成り立たないわけです。介護を受ける人と介護する人がいて、初めて介護が成り立つわけです。しかし、どういうわけか介護をする人は介護をされる人より上に立ち、教育をする人は教育を受ける人より偉くなり、支配される人より政治家の方が権力や財力をもつようになっていきます。そして、そこに支配・被支配、上下関係、従属関係という力関係、権力構造が生み出されていきます。そこには、お互いがあって初めて成り立つ自分たちの関係であるにも関わらず、いつのまにか両者の間に力関係や上下関係が生まれてしまいます。そのゆがんだ関係性、またその関係を調整するものが、聖書の中で律法とか肉というふうにいわれているのです。

イエスさまが説かれた神の国は、そのお互いの関係性がそれぞれ相対するままで、より高い段階で止揚された状態、そのお互いがともに尊敬しあう関係性を指しているのです。つまり、教えるものと教えられるもの、助けるものと助けられるもの、救うものと救われるものの間に上下、優劣などというものがない世界が神の国、本来のいのちのあり方ですよと、イエスさまはいわれたのです。ですから、そこでは、立場の違いはありますが、善人悪人、上下、優劣が問われないということなのです。そこには善人も悪人も、義人も罪人もいないのだといえるでしょう。わたしたちは神の国に入ることを救いだと考えていますが、イエスさまは、天の父は悪人の上にも善人の上にも同じように太陽を昇らせ、雨を降らせられるといわれました。また、敵を愛せよといって、敵味方の区別をやめるようにいわれました。それは単なる道徳的な要求として教えを説かれたのではなく、神の国というものは、善人悪人、敵味方、優劣その他のいかなる区別も差別もないことであるといわれたのです。わたしたちが神の国に入るということを考えるとき、人間の善悪優劣の世界の延長線上での救いを考えてしまいます。つまり、救われない側ではなくて、救われた側、善人の側に自分が入ることで安心しようとします。しかし、そのようなものは神の国ではないといわれたのです。イエスさまは、今までの旧来の宗教的あり方さえも相対化されたのです。

イエスさまは神の国、霊ということばをもって、わたしたちが表面的にみている世界のもっと奥にある“こと”について話されたのです。すべてのものを区別せず、すべてのものを生かしているもの、その“こと”、それをイエスさまは霊とか神の国といわれたのです。そのようなすべてのものを生かしているのは、人間の力とか活動ではなくて、大いなるいのち、その働き、大生命、大宇宙といわれるような何かであり、それによってわたしたちは生かされているのだ、そのことに気づきなさいといわれたのです。そのような大きないのちは、わたしたちが目に見えることで人間を判断したり、区別したり、差別しません。もちろん、人間の社会活動が成立するためには、律法や肉、決まり、ことばが必要です。でも、そのことばにならない以前の大いなるいのちによってわたしたちが生かされていることに、わたし一人が目覚めていくとき、イエスさまのことばが、わたしを生かしているいのちのことばであることがみえてくるということでしょう。実は、それを永遠のいのちと呼んでいるのです。ですから永遠のいのちとは、来世のいのちとか天国のいのちではなく、イエスさまのわたしたちを生かす働き、願いのことをいうのです。

イエスさまの働きは、時間空間を超えて、すべてのものに働き、その働きが及ばないというところはなにもなく、わたしがどこにいてもいなくても、わたしを必ず捕らえて離さないという願い、働きなのです。その大いなる働きに気づかず目を閉ざしているのが、わたしのありさまなのです。このイエスさまに背を向けて離れていこうとするわたしたちに「あなたも離れていきたいのか」と声をかけ続けておられるのが、イエスさまなのです。そのイエスさまは「あなたは必ずわたしに捉えられるのだ」といわれ、イエスさまのお名前である「わたしはあなたを必ず救う」とわたしを呼び続けておられるのです。わたしたちが「イエスさま」と祈ることこそ、イエスさまの願いがわたしに届いている証拠なのです。ですから、わたしが信じて、「主よ、あなたは神の子キリスト、永遠のいのちの糧…」といっているのではないのです。そのようにいわせておられるのは、わたしではなく、わたしの中で働く神の働き、わたしに届けられたイエスさまの願い、イエスさまの信仰なのです。ですから、わたしが信仰告白するのではなく、わたしの中のキリストがしておられるのです。そのことを、パウロは「もはやわたしが生きるのではなく、キリストがわたしの内に生きておられるのです(ガラ:20)」といいました。そのイエスさまの呼びかけがわたしに届いていること、その内なる働きこそが神の国なのです。それに気づくようにとの呼びかけなのです。

年間第20主日 勧めのことば

年間第20主日 福音朗読 ヨハネ6章51~58節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

イエスさまは、わたしは天から降ってきた生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことであるといわれました。今日の箇所は、わたしたちが生かされるということはどういうことであるかを取り上げています。それは、わたしたち生きとし生けるものが生きるということは何であるかということを問うことでもあります。今日の福音によると、生きるということは食べるということであるといわれています。わたしたちすべての生命体は、生きるためには他の生命体からいのちを分けてもらわなければならないのです。生きるということは食べるということであり、食べられなくなったら死が訪れるというのが一般的な理解だと思います。一昔前まで、食べられなくなったらお迎えが来るといっていました。それが最近の医療や介護では、生きたい生きたいといっている個人のいのちを引き延ばすことだけに視点が向けられています。これは、個人の中に閉じ込められているいのちがすべてであるとする近代科学の考え方でもあります。

「汝とは、汝の食べた物そのものである」という西洋のことわざがあります。これは、食べ物の食環境によって、わたしたち生命体のありようが影響を受けるという意味のようです。肉食とか、草食とかいわれていますが、よくよく考えてみるとわたしという存在は食物連鎖の中にあって、わたしだけで存在することはできないばかりか、わたしという存在そのものが、すべての事象の夫々の関係性の中にあるということをいっているように思われます。普通、わたしはわたしでないものとわたしを区別したものをわたしと呼んでいますが、わたしとわたしでないものの境界はどこにあるのでしょうか。わたしたちの体の表面には、約40兆個という細菌やばい菌が生息しています。さらに、わたしたちの腸内には100兆個以上の細菌が生息しているといわれます。それをわたしたちは排除することなく、わたしたちはたくさんのばい菌と共生しているのです。実はわたしという境界は非常にあいまいで、本来的に区別することなどできないのだということではないかと思います。わたしたちを構成しているものは、元をたどるとこの世界を構成している元素と同じです。わたしがわたしであると呼んでいる意識というか、魂というものも、この世界、この宇宙と同一だということになっていきます。ですから、わたしとは、わたしの食べた物そのものである、実はわたしは、この世界、環境、自然であるといえるのではないかと思います。

このような視点は、キリスト教の中ではいわれてこなかったことで、むしろ汎神論、理神論的として異端的な考え方だと思われてきました。しかし、皮肉なことにキリスト教のアンチテーゼとして発展してきた科学が近年発見してきたことは、この宇宙、この世界は決してそのもの単独で成立しているものは何もなく、お互いがジグソーパズルのような精密さをもって、お互いが共生しあっているという事実です。人類は万物の霊長として、独り勝ちをしたようなキリスト教神学に基づく人間論が展開されてきましたが、皮肉なことにそのような偏った価値観に対抗するために生み出された科学が、人類に未曾有の発展と恩恵をもたらしました。しかし、同時にこの世界を破滅へと導いているのも事実です。今わたしたちは、そのような世界の中にあって、改めていのちの諸相を捉えなおしていくことを余儀なくされているのではないでしょうか。それが、今日の福音で語られていることのように思います。

いのちの諸相としてあることは、あらゆる生命体は絶え間のない自己破壊と自己組織化によって成り立っているということです。多くの場合は、いのちをできるだけ永らえさせ、いのちの自己組織化を維持していくということがいのちの本質であるようにいわれてきたと思います。DNAは利己的で、自分の個体や個種を維持していくようにプログラミングされているといわれてきました。しかし、最近の生命科学の発展によって、多くの生命体は自己を破壊することでいのちを繋いでいること、また夫々のいのちはお互いに共生しあうということでいのちを繋いでいるということもわかってきました。わたしたちはこの地上の生命体は弱肉強食で、強いものが生き残り、弱い個体は淘汰されていくのだというふうに教えられてきたと思います。しかし、生命体は必ずしも利己的だけではなく、お互いが助けあったり、共生しあったり、また弱いものを守ろうとする利他の働きをするということもわかってきました。もちろん、それを意識的にしているわけではないでしょう。しかし今まで、わたしたちがいのちというとき、ある一定期間、蝉であれば2週間、犬であれば15、6年、人間であれば80、90年といった有限な個々のいのちしかみてこなかったのではないでしょうか。しかし、いのちの動き、働きをじっくりとみていくと、そのような短いいのちの中でも、夫々の細胞組織の中にで、また大きな生命体においても、自己破壊と自己組織化が絶え間なく繰り返されていることが明らかになっています。これはまさに、わたしたちが死と復活といってきたいのちの本質ではないでしょうか。キリスト教や聖書が教える前に、すでに世界は、この宇宙はそのいのちの実相を生きているのです、

今日の福音でイエスさまが、わたしの肉を食べ、わたしの血を飲まなければ、あなたたちの中にいのちはないといわれたことは、まさにそのいのちの実相そのものなのではないでしょうか。いのちというものは、生きたい生きたいと願っているものです。しかし、同時にそのいのちは自分自身を超えていくという性質をもっています。個体の中に閉じ込められたいのちが、その個体以上になっていくために、その個体を自らが壊してあふれ出ていくという性質があるということです。実際に、多くの植物や動物は、自分のいのちを壊して、いのちを次世代へ繋いでいきます。このいのちの自己脱出というか、自己超越こそがいのちの独特の現象なのではないでしょうか。イエスさまはわたしたちに新しいことを伝えられたのではないのです。すでに自然に生き続けられてきたこのいのちの本質を、ご自分の十字架の自己犠牲という出来事を通して、自らの肉を裂き、血を流すという行為によって、いのち本来の実相を示してくださったのです。そのことをどのように神学的に説明するかそれはそれで結構ですが、わたしたちがこの自分の個体だけがいのちであると思っているあいだは、本当のいのちはわからないのだと思います。どんなにいのちが大切だといっても、いのちを個としてしか捉えないのであれば、自分が永遠のいのちを手に入れるという程度のところで終わってしまい、わたしを超えた大きないのちが何であるかがわからないままではないでしょうか。イエスさまは自分のいのちを壊すことによって、大きないのちの中にご自身を解放されました。イエスさまの復活は自分のためではありません。イエスさまが個の中にあったいのちを失うことによって、自分を取り壊すことによって、大きないのちそのものとなられました。

わたしたち人間は、自分の個体性を失うことが一番怖いことなのです。だから、人は死を恐れるのです。人間以外の動植物、細菌、ばい菌は、この自己解体ということによって、新しいいのちを繋いでいっています。だから、自分が死んでもいのちは受け渡されていきますので、自分は死なないのです。この当たり前のことができないのが人間です。そうすると人間はどうするのかというと、この世のいのちにしがみつくか、来世のいのちにしがみつきます。前者はこの世の身体的生命だけをいのちだと考える現代科学であり、後者は自己意識をいのちだと考える思想、宗教となっています。いずれにしても、わたしがわたしだと思っているものを、大きないのちに中に解放しなさいということがイエスさまのメッセージです。 「自分のいのちを愛するものは、それを失うが、この世で自分のいのちを憎むものは、それを保って永遠のいのちに至る(ヨハネ12:25)。」といわれました。わたしがわたしの救いなどと考えているあいだは、ダメということ、そのことを今日の福音はわたしたちに告げているのです。

年間第19主日 勧めのことば

年間第19主日 福音朗読 ヨハネ6章41~51節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日、イエスさまは、自分が天から降ってきたいのちのパンであり、このパンを食べる人は死なない。永遠に生きるといわれました。そして、わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉であるといわれました。ここで、イエスさまは永遠のいのちについて語っておられます。今日は永遠のいのちということについて考えてみましょう。

わたしたちは今日の箇所を単純に読むと、ミサに与かって、聖体をいただくと、永遠のいのちがいただけるのだと勘違いしてしまいます。そもそも永遠のいのちというと、先ず有限ないのちがあって、わたしたちが自分の人生という有限のいのちを生きて、その有限のいのちが終わるとき、その一生の所業に応じて、永遠のいのちに入るか、滅びるかが決められるのだと考えてきたと思います。あまりにも幼稚な生命観ですが、これがキリスト教の従来の捉え方になっています。しかし、今日の福音を注意深く読むと、永遠のいのちというものの本質がみえてきます。

先ずイエスさまは、「父が引き寄せてくださらなければ、誰もわたしのもとに来ることはできない」といわれました。確かに、イエスさまのもとに来なければ何も始まりません。しかし、引き寄せてくださるのは、父である神の働き、イエスさまの働きであるといわれています。ですから、イエスさまを信じて、イエスさまの方に行くのはわたしたちですが、そのような信じるこころを引き起こすのは神さまご自身であることがいわれているのです。それでは、わたしたちが信じることとは一体何なのでしょうか。それは、先々週からみてきた通り、イエスさまがいのちのパンであり、「ともにおられる神」としてわたしたちとともにおられるという事実です。ですから、永遠のいのちとは、永遠のいのちでない別のいのちがあって、そのいのちに永遠のいのちが与えられるのではなく、イエスさまがわたしたちとともにおられるということが永遠のいのちであることがわかります。わたしたちはそのことを信じさせていただくわけですから、わたしたちは、すでに永遠のいのちを生きている、救われてあるということを信じるのです。

なぜなら、イエスさまは十字架の死と復活によって、神さまはわたしたちとともに永遠におられる神であることを啓示してくださったからです。イエスさまのときまで、永遠のいのちはなかったのではなく、わたしたちはすでに永遠のいのちのうちにあったことをあきらかにしてくださったのです。わたしたちの問題は、光の中にあって光を捜すような、大海の中にあって海を捜すようなことをしているということなのです。イエスさまが死んで復活されたということは、イエスさまの十字架の死と復活によって、全人類が永遠において救われており、イエスさまのみ手の中にあるということなのです。そのことが、わたしたちがすでに光にうちにある、大海のうちにあるといったらいいでしょう。

太陽は善人の上にも、罪人の上にも、貧しい人の上にも、豊かな人の上にも等しく昇ります。日の光は、何も一切区別しません。区別を作り出しているのは、人間の知性、分別であり、人間が貧富の差、支配・被支配、格差、差別、競争、貧困などのありとあらゆる区別を作り出しているのです。イエスさまは、善人悪人の別なく一切平等ですべての人を救う神さまの姿を示すことで、人類にそのあり方を問うておられるのです。確かに、イエスさまは弱い立場にある人たちの側に立たれました。それは、その人たちが、声をあげることすらできないほど、貧しくされているからに他なりません。そして、そのような状況を作り出している人間自身の闇に、人間が気づくことを望まれたのでした。その気づきを回心といっていいでしょう。その上で、イエスさまは、差別される側の人も、差別する側の人もともに救われていく世界、神の国の到来を宣言されました。豊かな人だけが救われて、貧しい人や罪人は救われないような不正義な世界ではなく、かといって、貧しい人や罪人が救われて、豊かな人や支配者は罰を受けるというような勧善懲悪の世界でもなく、そのような差別、区別、分別を作り出している人間の業、闇をあわれんで、その浅ましく愚かな人間すべてが等しく救われていく世界をイエスさまは望まれたのです。それが神の国といわれます。そして、そのイエスさま側からの神の国のありさまが永遠のいのちといわれるのです。

神の国は、イエスさまの生涯とその死と復活によって啓示され、すべての人類はその救いの光のうちに置かれています。しかしながら、それが分からず、相変わらず区別、差別、分別、搾取等を作り出し続けているのが人間の業、罪に他なりません。ですからイエスさまが、引き寄せてくださらなければ、誰も自分のところに来ることはできないといわれたのです。人間は真理に触れることなしに、自分の愚かさ、闇、罪ということを知ることはできません。わたしたちは真理であるイエスさまに出会うときに、初めて自分が救われなければならない罪人であることが知らされ、同時に、イエスさまによってすでに救われていることにも気づかされます。感謝の祭儀は、すでに救われていることに気づかないわたしたちに、あなたがたはもうすでに救われているのだということを思い起こさせてくださる場であり、また、わたしたちが救われていることを感謝する場であり、神の国のために派遣される場でもあるのです。

イエスさまは、わたしたちが救われているということを、「信じる者は永遠のいのちを得ている」といわれました。ですから、わたしたちは、すでに救われてイエスさまのうちにあることに気づかされ、その真実を知らされたことを「永遠のいのちをすでに得ている」といわれたのです。わたしたちは、今、イエスさまのうちに生きているのです。だから、信じることによって永遠のいのちを獲得するのではなく、すでに永遠のいのちのうちにわたしたちがあることに気づかされ、そのことを信じるのです。大海を泳いでいる魚が、実は自分が泳いでいるところが海であったことに気づくのと同じです。ですから、永遠のいのちは、死後のいのちではなく、また生前の善行への報いでもなく、わたしたちが、今、生きているこのいのちに他なりません。しかし、教会は―イエスさまが決して教えなかったこと―つまり、この世は辛くても、来世には永遠のいのちが約束されているというようなことを教えてしまいました。永遠のいのちを、死後のいのち、「あの世」のものにしてしまったのです。「この世」が思い通りにならないので、「あの世」のことを持ち出すことによって、「この世」のどうしようもないことを慰め、我慢させるために、永遠のいのちを利用してしまったのです。イエスさまのいう永遠のいのちは、「あの世の」ことではありません。

イエスさまによって、わたしたちのすべて、わたしたちの生も死もすべてが包みこまれているのです。そして、そのイエスさまご自身が永遠のいのちそのものですから、わたしたちは、今すでに、永遠のいのちを生きているということなのです。思い通りにならない、苦しみの連続である「この世」において、イエスさまがわたしたちとともに歩んでくださっていることに目覚めさせていただくことが、救いに他なりません。悲しいから、苦しいから、イエスさまを信じて、死後に永遠のいのちを求めるのではないのです。今、ここで、わたしたちとともにいてくださるイエスさまに出会わせていただくことが、永遠のいのちそのものなのです。だから、たとえ肉体の死がわたしたちに訪れたとしても、わたしたちにとって死はないのです。感謝の祭儀で聖体を拝領するものに永遠のいのちを約束されるのではなく、全人類、全世界は、イエスさまによって計らわれ、生死を超えたところで、生かされているのだということを宣言する、その真実を宣言する場が感謝の祭儀なのです。

年間第18主日 勧めのことば

年間第18主日 福音朗読 ヨハネ6章24~35節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の福音は、イエスさまがパンの増やしの奇跡をおこなわれた翌日の出来事です。パンの増やしの奇跡をみて熱狂し、イエスさまを王としようとする人々を避けて、イエスさまはまた山へひとり退かれます。人々は、“また”イエスさまに奇跡を行ってもらおうとして、次の日もパンを食べたところに集まりました。毎日パンを増やしてくださるなら、こんな便利なことはありません。人々はイエスさまを探し回って、湖の対岸のカファルナウムでイエスさまと弟子たちをみつけます。

そこで、イエスさまは「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」といわれます。あなたがたが求めているのは、自分たちが満腹するパンであって、わたし自身を求めているのではないと指摘されます。これは、イエスさまの最大限の嫌味です。しかし、人々は気づく様子はありません。これは、わたしたちが感謝の祭儀をどのように捉えているかが問われているということです。往々にして、わたしたちは感謝の祭儀を自分のこころの平和、安心、自分の救いのための場という間違った理解をしていまいがちです。

カトリック教会は、ミサを義務として教え、プロテスタント諸教派においては、主日の礼拝を守るといういい方がなされています。ことばの問題だといえばそうかもしれませんが、ミサや礼拝は義務とか守るものではなく、感謝の祭儀ではなかったのでしょうか。それでは、わたしたちは「感謝しなさい」と誰かからいわれて、感謝することができるでしょうか。感謝というと、パウロの手紙の「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい(Ⅰテサロニケ5:16)」という箇所が有名ですが、これは例外であって、パウロの手紙の中では、感謝するというときは、いつもパウロ自身が神さまに感謝することであって、それを他の人に要求することはありません。「あなたが感謝するのは結構ですが、そのことで他の人が造り上げられるわけではありません(Ⅰコリント14:17)」という言葉が残されています。感謝するのは、教会の教えだから感謝しましょうというほど愚かなことはありません。このことが、わたしたちが感謝の祭儀を自己中心的に理解することに拍車をかけているように思います。感謝はわたしたちのこころから、自ずから溢れてくるものでしょう。

そもそも、今日の聖書の箇所に登場する群衆は、自分たちの満足にしか関心が向いていません。「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」と指摘されます。そのような人びと、これはわたしのことなのです。イエスさまは、わたしたちに己の身の愚かさに気づくように話していかれます。しかし、話は平行線のままずれていきます。「神の業を行うためには何をしたらよいでしょうか」、「そのパンをいつもわたしたちにください」。結局は、いつも「わたし」が主語になっています。わたしは何をしたらいいのか、わたしのために何をしてくれるのか、わたしに何をくださいますか。どこまでいってもわたしという自己関心の闇から出ることができない愚かなわたしたちの姿が描かれています。イエスさまは「いのちのパンをください」というわたしたちに、「わたしがいのちのパンである」といわれます。あなたがたが求めているパンはわたし自身である、今わたしはあなたがたとともにいるではないか。それなのにあなたがたはこれ以上、わたしに何を求めるのかといわれます。それでも人々は、気づこうとしません。というか、それほどわたしたちの闇は深いのです。

人間は基本的に自分という立場からしか、ものごとを考えることは出来ません。教会でよく相手の立場に立って考えましょうといいます。しかし、わたしたちは、誰も相手の立場に立つこと自体出来ないのです。親が、病の自分の子どもに代わってあげたいと思っても、代わることは出来ないのです。誰もわたしの代わりにはなれないし、わたしも誰かに代わることは出来ません。先ず、その事実を謙虚に受け止めることから出発しなければならないのではないでしょうか。わたしたちが、相手に対して何かができるという発想自体、こちら側からの一方通行になりがちで、上から目線の教会のあり方を助長するだけになってしまいます。カトリック教会は、人々に対して教える任務、治める任務、聖化する任務があるといいます。教会は常に上で、キリスト教を知らない人々にカトリックの教えを広め、天国に行けない可哀そうな人たちに洗礼を授けてあげるという発想で、何世紀もの間、布教という名の霊的植民地化が推し進められてきました。それが今の北米、南米、アジア、アフリカの現実です。イエスさまが、そんなふうに人々と関わられたことが一度でもあったでしょうか。どうして、相手の立場に立って考えるとか、人々を自分の隣人愛の実践の対象などと平気でいうことができるのでしょうか。

イエスさまは、人間がどこまでいっても自己中心で、自己関心の塊であることを見抜いておらました。ですから「自分を愛するように隣人を愛しなさい」と、先ず旧約の隣人愛をお教えになったのです。しかし、イエスさまは人生の終わりには、もはや「自分を愛するように、隣人を愛しなさい」とは教えられませんでした。イエスさまは「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛しあいなさい」といわれ、新しい相互愛の掟をお与えになりました。イエスさまは自分が人間として生き切ること、人間としてもっとも貧しくなること、つまり十字架の死を通して真実の神の愛をみせてくださいました。神の愛とは、決して上から与えるような愛ではなく、また人間としてその人の身代わりになることでもありません。イエスさまは相手の身になることはできないという限界を知った上で、人間の痛み、苦しみ、辛さをご自分のこととして生き死なれたということなのです。それはある意味で、イエスさまが“わたし”となられたといっていいのかもしれません。イエスさまは神さまでおられますから、絶対慈悲です。それに対して、わたしたち人間は小悲小慈でしかありません。人間としてのイエスさまは、その人の痛み、辛さ、苦しみを知っても、その人と代わることができないという限界を知った上で、自分の生き方、そして死に方を通して、その一人ひとりを大切にして、一緒にいようとされました。よく「ともに喜び、ともに苦しみ、ともに泣く」といういい方がされますが、わたしたち人間は、どこまでいっても、その人の喜び、その人の苦しみ、その人の悲しみを理解することなど出来ないのだという地平に立つ謙虚さが必要です。表面的な同情やあわれみは、かえって相手を傷つけます。わたしの喜び、わたしの苦しみ、わたしの悲しみはわたしのものであって、それを誰かに理解してもらえるものではないし、まして代わってもらえるものでもないのです。夫々、自分が引き受けていくしかないのです。その現実を受け入れて、ひとり一人を大切にしていく、それがイエスさまのなさったことだと思います。

今日の箇所でイエスさまがわたしたちに問いかけられるのは、あなたの感謝の祭儀はどこに向かっていますかということだと思います。わたしたちが感謝の祭儀をおこなうとき、その方向が常に自分の方に向いてしまっていることに気づいていますかということだと思います。わたしたちは、結局のところ、自分の安心、満足、自己関心でしかありません。ミサが、自分たちキリスト者のため、自分の安心安寧のため、自分の救いのためである思っているとしたら、それは感謝の祭儀ではありません。それなら、神社でおこなわれているご祈祷と変わりません。当時のヨハネの共同体は、まさにこのような問題に直面していたのです。感謝の祭儀は、イエスさまがわたしたちすべての人類のために、ご自分のいのちを一度切り、十字架の上で捧げ尽くし、いのちの真実を示してくださったイエス・キリストという救いの出来事への感謝に他なりません。それなのに、わたしたちは未だイエスさまに何を要求するというのでしょうか。