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年間第16主日 勧めのことば

年間第16主日 マルコ6章30~34節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

イエスさまとともにある生活、それが今日のテーマです。今日の福音を読むとき、最後の「イエスは船から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた」というイエスさまの言葉を取り上げ、活動の大切さを強調しがちです。しかし、イエスさまが群衆にいろいろ教え始められるというときに、イエスさまのこころを動かしたのは、イエスさまのうちにある「深い憐れみ」です。今日の福音では、イエスさまのそのように「深い憐れみ」がどこから来たのか、一体何があったのかを知ることができると思います。

今日の福音は、先週読まれた12使徒の派遣に続く、弟子たちの帰還の物語です。使徒たちは、イエスさまから派遣され、その働きを終えて、イエスさまのもとに帰ってきました。先週、派遣というものが成り立つためには、イエスさまに呼ばれること、イエスさまのもとに来て、イエスさまのもとに留まること、そして、イエスさまから派遣されることであることをお話ししました。派遣されたもののもうひとつの動きは、派遣されたもののもとに戻るという動きです。派遣されるという行路、それに対して帰るという復路という一連の動きです。この動きは、見る方向によって異なった方向性としてみることができますが、それはひとつの大きな還流であるということができます。わたしたちはとかくすると、ひとつの方向からしかものを見ない傾向があります。呼ばれること、留まること、派遣される、そして帰還することを夫々切り離してしまいます。キリスト教では、呼ばれることを召命と呼び、留まることを祈りとか観想と呼び、派遣されることを使命とか福音宣教というふうにいいます。そして、派遣されれば、必ず派遣されたもののところへ戻ってくるはずなのですが、キリスト教ではどちらかというと派遣したままで、帰還するということがあまりいわれていません。人として、人生を終えて神さまのもとに帰るとはいいますが、わたしたち生きているものの生活の中で、帰還することの重要性についてほとんど触れられていないように思います。

いずれにしても、ある部分だけを強調して、そこに拘ろうとします。現代の教会は福音宣教を大切だとはいいますが、福音宣教の前提となる祈りの生活について、それほど話されていないように思います。そして、福音宣教それだけが目的のようになってしまっており、福音宣教はイエスさまのもとに帰還することであることについて、ほとんどいわれていないように思います。しかし、この召命、養成、派遣、帰還ということは、いずれも単独によって成り立つものではなく、これはイエスさまの大きないのちの中にあるいのちの還流であるということを、改めて見直す必要があるように思います。最近といっても第2バチカン公会議後、信徒、修道者、司祭の生涯養成というようなことがいわれていますが、これは帰還することの重要性を教会も意識してきたからであると思います。しかしながら、そのことが先ず発想としてないので理解されていませんし、意識されることもないという現実があります。

 

イエスさまは派遣先から帰還した弟子たちに、「さあ、あなたがただけで人里離れたところへ行って、しばらく休みなさい」といわれました。教会の普遍的使命は福音宣教ですが、その使命を果たすためには、イエスさまのもとに留まること、祈りの生活が不可欠であり、それは絶え間のないものでなければならないことを先週お話ししました。一時、祈りに専念するとか、ある期間養成を受けるとかいうことだけではどうにもなりません。キリスト教自体がそのようになってしまっているので、非常に難しいと思いますが、例えばカトリック教会において洗礼をうけること、また堅信を受けること、ミサに参加すること、秘跡それ自体が目的になってしまって、そこから広がりがありません。成人洗礼の場合、洗礼を受けることが目標のように教えられ、洗礼を受けた多くの人が、洗礼を受けた後、教会にこなくなるということが起こっています。幼児洗礼であっても、初聖体が終わり、堅信を小学6年か中1で受けると、そのあとぱたりとこなくなります。学校が忙しいとか、クラブがあるということのようですがそれだけでしょうか。

おそらくこれらの問題の根底にあることは、イエスさまとの親しさを体験していない、イエスさまと向き合っていない、イエスさまと出会っていないということがあるように思います。幼児洗礼であれば、洗礼は受けていますが、その後の教会学校でキリスト教の知識だけは習っても、イエスさまに出会うという体験をしないままで終わってしまい、成人していきます。成人洗礼の場合では、知識としてカトリック教会の教義だけ、理屈だけを習ったとしても、生きたイエスさまとの出会いをいわれることなく、ただ洗礼を目標にしてしまうと、洗礼後どうしたらいいのかわからないというのが実態ではないでしょうか。たとえ、教会で友達ができて教会に来ているとしても、教会で何か活動しているとしても、まことの友であるイエスさまと出会うことがなければ、イエスさまとの関わり、信仰生活が深まらないのは当たり前です。

キリスト教信仰の中心にあることは、例外なくイエスさまとの親しい交わりです。その交わりを祈りと呼んでいますが、カトリック教会での難しさは、祈りというと、ミサ、教会の祈り、共同祈願、祈祷書の朝晩の祈り、ロザリオや十字架の道行だという人がほとんどだと思います。これらは祈りの文句が決まっている祈りで、声祷、口祷と呼ばれ、祈りの中のほんの一部分でしかありません。それなのに教会で祈りといえば、これらの声祷を唱え、中央協議会から配布される祈りのカードを唱えることだと思っている人が大半でしょう。祈りは、イエスさまとの親しい交わり、最後の晩餐の席でわたしを友と呼ばれたイエスさまとの親しい友情の交換、絆そのものであるとするならば、わたしたちが親友と決まった挨拶しかしない、朝晩しか話さない、綺麗ごとしかいわないとしたら、それは随分変なことではないでしょうか。イエスさまは最後の晩餐の席で、「わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである(ヨハネ15:15)」といわれ、わたしたちは文字通り、イエスさまの親しい友となっています。そのことについて、教会でほとんど話されていません。カトリック教会の教義中心に教えられ、それに基づく慈善活動が奨励され、組織や制度の話がされ、その一方で古色然としたミサや儀式、信心業が好まれるという傾向があります。それだけでは、イエスさまとの友情が深まるはずがありません。イエスさまとの友情が深められていないのに、わたしたちは一体何を証しするというのでしょうか。

今日の福音で、イエスさまと弟子たちは、休もうと思って出かけたけれども、「大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始めた」とあるのは、イエスさまとの友情のなかで、次に何をしなければならないかが知らされてきたということなのです。つまり、イエスさまとの友情がどれだけ深まっているかによって、その人の生き方、活動の質が決まってくるということです。わたしたちは、すべて夫々の生活の場において、イエスさまとの親しい友情を生きるように呼ばれています。わたしたちのすべきことは、すべて人類がイエスさまとの親しい交わりに入れられていること、大きないのちの還流の中にあることを証しすることにあるのです。この大きないのちの還流は誰ひとりとして取りこぼされることがない、またあらゆる罪汚れ、苦しみ、煩悩、闇さえも飲み込んでいくような大きないのちの流れです。この大きないのちは、大海がすべてを包み込んで、すべてを自らのところへと運んでくるような、そのようないのちの還流です。その神のいのちの還流に中にわたしたちがしばし浸ること、それがわたしたちの本来の祈りです。それは特別なことではないのです。わたしたちの人生そのものでもあるのです。1日5分でもいいので、イエスさまのうちに、何もせず、ただ無になって、その流れに浸る時間をとってみてはどうでしょうか。これは心の祈り、黙想、念祷といいわれ、わたしたち人間の本来の在り方を実行することなのです。

年間第15主日 勧めのことば

年間第15主日 福音朗読 マルコ6章7~13節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の福音は、弟子たちの派遣の箇所が朗読されます。弟子たちの宣教への派遣は、イエスさまの弟子たちの招きの箇所(3:13~19)とわけて考えることはできません。先ずイエスさまが弟子たちを呼ばれ、その目的が3章にはっきりと書かれています。「彼らを自分のそばに置くため、また派遣して宣教させて、悪霊を追い出す権能をもたせるため(3:14)」と。彼らを福音宣教のために呼ばれますが、イエスさまが第一にされたことは、「彼らを自分のそばに置くため」、別の訳では「彼らがイエスとともにいる」ことです。福音宣教へと弟子たちを遣わすための前提は、イエスさまが弟子たちを自分のもとに呼んで、彼らがイエスさまとともにいることです。派遣ということを考えても、先ずはその人が今いるところから呼ばれます。そして、派遣しようとする人のところに来て、そこから派遣されるわけです。派遣する目的は、派遣する人の望みを果たす、使命を果たすためです。派遣する人の望みを果たすためには、その望みが何であるかをよく知らなければなりません。そのためには、その人のところでじっくりと留まる必要があります。弟子たち、またわたしたちが留まるところは、イエスさまご自身です。

現代の教会を見ていると、派遣先で必要な役割を果たすためのノウハウやテクニックを、一生懸命教えているように思えます。カトリック教会の制度や教義を教え込み、儀式や典礼を習って、それを現場で適正に実行することなどです。そして、それが福音宣教であると勘違いしているように思います。福音宣教はイエスさまご自身を伝えることであって、カトリック教会という組織や制度、教勢を拡大することではありません。そのことが本質的に理解されていないと、イエスさま抜きの福音宣教がおこなわれてしまいます。ですから、福音宣教に遣わすことが可能になる前提は、何にもおいて、イエスさまが弟子たちを自分のもとに呼ばれて、自分のそばに置くという事実です。そのことなしには、派遣ということはあり得ない、というより不可能です。イエスさまのそばに置かれる、またイエスさまとともにいることは、イエスさまを体験することです。イエスさまを体験するというということは、わたし自身が何者であるかを知るということでもあるといえます。

イエスさまが弟子を派遣するとき一人ではなく、二人というところにも意味があります。そこに、イエスさまの徹底した人間に対する見方が現れています。人間は、わたし一人で存在するということはできません。人間の実存からしても、人間そのものは関係存在です。つまり、わたしたちは、誰かとの関わりの中でしか自分を発見することはできないからです。わたしたちは自分の顔を自分で見ることはできず、わたしの顔は必ず他者に向けられています。平たくいえば、わたしという存在は、誰かという存在なしには存在しえないし、誰かという存在によってはじめてわたしを発見するということなのです。親は、子というものがなくては親になることはできず、先生も、弟子なくしてはあり得ない、その反対も然りです。同様に、人間は神なしにはあり得ず、さらにいえば神も人間なしにはあり得ないということなのです。そのことが、今日の第2朗読で書かれています。「神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる祝福で満たしてくださいました。天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、ご自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストにおいて神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです(エフェソ1:3~5)」。ここに、わたしたち人間の根本的な姿、あり方が描かれています。つまり、神の前にある存在、神に関わられた存在としての人間の姿です。それこそが、人間としての事実であり、人間は究極的に神の前に、神に関わられ、神へと向かうものとして、愛され愛されるものとして造られているということなのです。このことを神の子といいます。

ですから、イエスさまの弟子となるということは、根本的にそのこと、つまり、わたしはイエスさまの前にある存在であるということを体験することなのです。これが、イエスさまがわたしたちを呼ばれた、といわれたことなのです。ですから、イエスさまの弟子足るもの、そのことを理解しないならば、イエスさまの弟子足り得ないということになります。なぜならば、イエスさまの弟子であるということは、すべての人に、人間としての根本的なそのあり方をあきらかにすることに他ならないからです。これは、カトリック教会の教義や制度を教えることではありません。わたしたちが、たとえどのような宗教や生活様式を選ぼうとも、最終的にはすべてそのことに向かっているのです。わたしは、ひとりぼっちであって、誰も自分の身を代わってくれる人はいません。しかし、わたしたちは究極的にイエスさまに関われらえたものとして存在し、わたしはイエスさまのうちにあり、誰一人として取りこぼすことなく、わたしを抱き取って離さないという真実があるのです。イエスさまの弟子となるということは、イエスさまのこのわたしたち人類への願いに目覚めることなのです。これに気づくことなしに、如何なる人間的な慰めも、神学的な理屈も、教え、制度も、組織も、意味がありません。そのためには、徹底的にイエスさまと向き合うことが必要なのです。そのことに気づかされ、受け止めていくことが、イエスさまを証しすることになるのです。しかし、生前の弟子たちはそのことを何も理解しませんでした。 

わたしたちはイエスさまのそばにいて、イエスさまのうちに生きて、初めてイエスさまの願いに触れることができます。教会の掟だ、教会の教えで決まっているからではなく、イエスさまの願いを知ること、それが「汚れた霊に対する権能を授ける」ということばの中でいわれていることなのです。汚れた霊とは、わたしたちがイエスさまへと向かっていくことを妨げるすべての迷い、働きのことです。けがれた霊は、あらゆる機会、あらゆる出来事、あらゆる事象を使って、わたしを、“わたし自身”へと関心を向けさせようとします。わたしたちは、その意味で様々な汚れた霊に憑りつかれているといえるでしょう。イエスさまの生きた時代には、多くの病や悪魔憑き、憎しみや怒り、貧困や差別などが、人々を神へと向かうのを妨げていました。イエスさまは、全力でその外的な妨げを取り除き、その妨げが実は自分自身の中にあることに気づかせようとされました。そして、その妨げが取り除かれて、人々はイエスさまと向き合うという人間本来のあり方へと立ち返っていくことができました。ですから、様々な教えや奇跡は、その時代におけるイエスさまのひとつ方便だといえるでしょう。現代、実に様々なものが、わたしたちがイエスさまと向き合うことを妨げています。イエスさまへ向かうということは、真実の自分と向き合うということにもなりますが、現代人は自分自身と向き合いたくありません。ですからそれを避けて、自分の外に一時的な楽しみを求めることから始まって、崇高な社会活動に至るまで、それを名目にして自分の外に出ていこうとします。現代、教会を含んだ社会そのものが自己中心という病をかかえていますから、皆がその価値観で動いていますし、その流れにわたしたちも飲み込まれてしまっているのです。わたしたちが自分に向かっていれば、イエスさまに向かうことがありませんから、それこそ汚れた霊の思うつぼでしょう。

わたしたちがイエスさまと向き合うということは、何か新しい教えや知識を身に着けるということではなく、また新しいことをすることでもなく、本来のわたしを発見することに他なりません。今日、イエスさまは、弟子たちが宣教に出るにあたって、最低限の貧しい状態で出かけることを望まれました。それは、わたしたちが己の貧しさに気づくことを通して、自分自身と向き合うことを望まれからではないでしょうか。それによって、わたしたちが本来の自分自身の貧しさに目覚め、イエスさまを発見し、この世界と人々へと開かれたもののとなっていくことと、それが弟子たちを遣わすということなのです。

年間第14主日 勧めのことば

年間第14主日 福音朗読 マルコ6章1~16節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の福音はイエスさまが故郷にお帰りになったときのことを描いています。イエスさまは故郷では、人々の不信仰のゆえに、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡をおこなうことがおできにならなかったと書かれています。それは、故郷の人々がイエスさまにつまずいたからであると書かれています。イエスさまがお育ちになったナザレには、兄弟姉妹や親せき、そして母親もいました。小さな村でしたから、みんなイエスさまのことを知っています。実は、この“わたしは知っている”ということが、イエスさまの働きを妨げたということなのです。

わたしたちが知るという能力は、「ものごとを、えらびわける」こと、はっきり決めることだといえます。それではえらびわけるというのは、何から何を選び分け、どう決めていくのでしょうか。わたしたちが何かをわかるとか、知るということは、わたしとわたしでないものを選び分け、はっきりと区別していることに他なりません。ですから、これはわたしである、これはわたしでないと決めていくことに他なりません。ですから人間の知るという能力、認識という働きは、わたしはわたしであると意識することであり、正確には他人、他の物に対して自分を意識することになります。根底にあることは、わたしという自意識なのです。わたしであるという自意識そのものは善でも悪でもありませんが、自意識というものは絶えず自己主張と自我を増殖させ、自我と他がお互いに分裂していく世界を作り出してしまうことになります。キリスト教自体、わたしという意識を前提とした宗教ですから、この自我をどのようにコントロールしていくかを律法で定め、神への愛と隣人愛の掟を教えてきました。そのもっともわかりやすいのが、「自分を愛するように隣人を愛しなさい」という掟でしょう。これは、自己愛を前提とした教えであるということです。

ですからキリスト教では共同体の一致とか、信仰の一致、意志の一致が強調され、謙遜とか、また自己主張を従順という徳によって信仰的にコントロールしようとしたのです。しかし、それはすべてわたしがわかる、わたしが知る、わたしがするという自我の世界を前提として、神の恵みあるいは人間の力で押さえつけ、コントロールしようとすることであり、あくまでも“わたし”を前提とした世界です。イエスさまの故郷の人たちも、わたしたちはイエスについて知っている、「この人は大工で、マリアの息子、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここでわたしたちと一緒に住んでいるではないか」というわたしの知識、わたしの理解、わたしの判断、わたしの見方が前提になっているのです。このわたし、わたし、わたしです。わたしたちは、このわたしが何者であるのかもわからないのに、このわたしに拘り、わたしに執着し続けているのです。わたしの善行、わたしの功徳、わたしの信仰、わたしの欠点、わたしの罪などなど、切りがありません。そのように、わたしに拘り、わたしに迷っているわたしたち人間に、イエスさまは「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。野の花がどのように育つのか、注意してみなさい。働きもせず、紡ぎもしない。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる(マタイ6:26~30)」と教えられました。鳥も野の花も、“わたし”という自意識をもたず、自我の拘りから解放されています。イエスさまは、わたしということに拘っているわたしたちに、もっと広いいのちの世界があることを教えておられます。

朝日歌壇に投稿されていた歌に「戦艦の沈みゆくとき己の身を助けんとて戦友をつき落とすと聞く」というのが載っていました。戦後何十年もたっているときに歌われたものです。なんと恐ろしい歌かと思いながらも、その場にいたら、自分も友をつき落としているかもしれないという恐れ、そのことを否定しきれない複雑なわたしというものを感じさせられるのではないでしょうか。またこれとは対照的に、他人をボートに載せて、自分は船とともに沈んでいく人、死刑囚の身代わりになったコルベ神父のこともわたしたちは知っています。自分が生きるか死ぬかというときに、わたしが果たしてどのような行動をとるのかは誰も想像できないし、誰もその行動を責められないでしょう。カトリック教会が死刑囚の身代わりになった司祭を聖人に列聖するのは、それはそれでもいいとしても、人間というものは、わたしが助かりたいとの思いで友人をつき落とすこともするし、友を助けるためにはわたしが身代わりになるかもしれない、そのように不安定な、何をしでかすかわからないのがわたしという人間なのだということを自分のこととして、もっときちんとその現実を見つめることの方が大切だと思います。わたしたちは自分の心の深みをのぞき込んでみると、わたしというものに拘り、そのために自分の視野を狭めているわたしがいることに気づかされるのではないでしょうか。

NHKの超進化論という番組で、植物や菌がお互いに助け合っているということを取り上げているシリーズがありました。見られた方もあると思いますが、光合成をできる植物がその栄養分を土の中の細菌などを媒介して、光合成できない木に栄養を分けてあげるという話です。だから深い森の中でも、光があたらなくても苗木が育っていくのです。その植物には、「この木は光合成ができないかわいそうな木だから、僕の養分を分けてあげる」といったような、何か人間のような上から目線の利他心はありませんし、自分の養分を与えているという意識もありません。ただ、いのちが漏れ出ていくような、そのような仕方でお互いに生きあっている、そのいのちの豊かさというものが描かれていました。人間だと、「あの人たちはもっていないからかわいそうだから、わたしたちが分けてあげる」というような上から目線の利他の考えになりがちです。キリスト教もそういう発想ではないでしょうか。イエスさまは、野の花や鳥たちは、わたしが何かをしているとか、与えているとか、受けているとかそのようなことを意識することなく生きていて、それが他のいのちをも生かして、また自分も生かされている、そのような大きな豊かないのちの世界があることを説かれたのではないでしょうか。イエスさまは、そのようないのちの在り方をご自身の十字架の完全な自己犠牲、自己忘却の愛として示されていきますが、あれは異なった文化や価値観の中で、強烈な自己主張と自己実現をする人たちのための教えであるといえると思います。わたしたちには、そのような露骨な形で、“わたしを与える”とか、“わたしを差し出す”とか、“わたしを殺す”とかいわなくても、植物たちにみられるような豊かないのちの世界を、容易に理解していけるものがあると思います。

堤中納言物語に出てくる虫愛ずる姫君がどうして毛虫が好きなのかと問われたときに、「苦しからず。よろづのこと、もとをたづねて、末をみればこそ、事はゆえあれ」と答えています。誰でもが見た目の美しいさや見栄えを好むが、ことの本質をみるとそこにいのちの姿が見えてくるといっています。見た目、外づらを好むというのは、これはまさに現代の価値観そのものです。毛むくじゃらの毛虫の中にいのちの本質をみていく、いのちを愛でるという感性が、古来わたしたちの文化の中にあるように思います。対象の相手やそれが、何ができるとか、何を知っているとか、役に立つとか、役に立たないとかではなく、相手の本質を見て愛おしいと思う気持ち、これがいのちの感覚なのではないでしょうか。それをわざわざ「自分を愛するように隣人を愛しなさい」とか、「わたしと父なる神はひとつである」とか、「わたしは世の終わりまであなたとともにいる」というようなことをいわれなくても、わたしたちはそのようないのちの感覚をもっているように思います。“わたしは知っている”というわたしをちょっと横において、「空の鳥を、野の花を見なさい」といわれたイエスさまのみことばに、耳を傾けてみたいと思います。

年間第13主日 勧めのことば

年間第13主日 マルコ5章21~43節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の福音はヤイロの娘と出血病の女の癒しの物語です。今回、ここで取り上げられていることは、信仰とは何かということです。それで、おもに出血病の女の癒しの箇所から見ていきたいと思います。ユダヤ教の規定では、レビ記に出血病についての詳細な記述があります(15:25~)。この女性は、12年間出血病にかかっており、多くの医者にかかっても治ることがなく、かえってひどく苦しめられ、全財産を使い果たしてしまったと書かれています。当時の医学では、ほとんどなすすべがなく、出血が止まらない限り、この女性は汚れたものと扱い続けられることとなります。当時のユダヤ教の中では、その女性が触れたもの、そして、触れたものに触れることも汚れとされていました。ですから、この女性が共同体の中で宗教的、社会的差別されて心身ともに大変な苦しみを抱えていたことがわかります。

そのような、状況の中で彼女が耳にしたのは、イエスという方がいろいろなところで病人を癒しておられるという噂です。彼女は、もはや頼るべきものが何もないところまで追いつめられていました。彼女が最後に希望を託したのは、いろいろな病気を癒しているといわれていたイエスの存在です。彼女は藁をもつかむ思いで、イエスさまが自分の住むところに来ておられることを聞きつけ、群衆に紛れてイエスさまに近づきます。そして、後ろからイエスさまの服に触れます。「この方の服にでも触れれば癒していただける」という、彼女の願いが癒しを引き起こします。イエスさまは群衆に囲まれて、押しつぶされそうになっていました。しかし、自分の内から力が出ていったことに、自分のいのちの根源に誰かが触れたことに気づき、「わたしの服に触れたのは誰か」といわれます。多くの群衆にもみくちゃにされているのに、イエスさまは「自分に触れたのは誰か」といわれました。群衆に取り囲まれていて、どんなに距離的に近くにいようとも、いのちの主であるイエスさまの本質に触れ、癒しの力を引き出したのはこの出血病の女でした。この物語を読むと、イエスさまと関わるということ、真の意味でイエスさまと出会うことは、信仰によってイエスさまの本質に触れることであるということがわかります。ここから、わたしたちは、改めて信仰とは何かということを考えていくことが出来ると思います。

先ず、この女性は何も頼るものがありませんでした。わたしたちは元気なときには、自分の力で何でもできると思っています。しかし、様々な困難、特に老病死などの前には、自分の努力や頑張りだけではどうにもならない自分の限界を嫌というほど思い知らされます。わたしたちは、自分で何でもできると思っている限り、誰かに助けを求めようとはしません。自分が神さまのように全能であると思い込んでいるのです。しかしこの女性には、もうイエスさましか頼るものがありませんでした。これが、徹底的な貧しさの体験です。イエスさまが福音の中で、「貧しい人は幸せ」といわれるのは、その貧しさ自体を肯定するのではなく、すべてにおける徹底した貧しさ、つまり、自分の弱さ、限界を真に知ることが、自分の力を超えたもの、真実を求める機となるということなのです。人間はここまでしなければ、真実を求めようとはしないということかもしれません。

わたしたちは、多くの場合、イエスさまを一般的に信じて、まじめにやっていれば、それでよいキリスト者、よい信者であると思っています。今までそのように教育され、信心深くやってきたのではないでしょうか。しかしそれだけなら、イエスさまの話を聞いて、押し寄せてきた群衆と何ら変わりないということなのです。今日の福音で、イエスさまの周りに押し寄せた群衆の中で、唯一、イエスさまとの真の出会いを体験したのはこの出血病の女性でした。その違いは何でしょうか。確かに、わたしたちはイエスさまについていろいろなことを教わり、信じているかもしれません。ミサに行くし、お祈りもする、いわゆるよい信者です。しかし、それだけでは十分ではないということなのです。それだけでは、信仰生活は先へ進まないということです。イエスさまとの真の出会いは、わたしたち側の努力や精進、またイエスさまについての知識などとは関係ないということです。ペトロたちの方が、この女性よりもずっとイエスさまと長く一緒にいました。しかしこの女性は一瞬にして、イエスさまのいのちの本質に触れて、イエスさまと深い出会いを体験します。この物語を表面的に読むと、彼女からイエスさまに触れて、イエスさまの癒しの力を引き出したかのように描かれています。また、イエスさまも「あなたの信仰があなたを救った」といわれますから、やっぱりわたしたちが熱心になって、わたしが一生懸命に求めて信じなければならないんだと考えてしまいます。しかし、それは大きな勘違いです。彼女は「この方の服にでも触れれば癒していただける」というイエスさまへの信仰をもって、イエスさまの服に触れます。その信仰は、彼女の心の中に生じましたが、そのような信仰を引き起こしたのは、彼女ではなくイエスさまご自身なのです。

彼女は「この方の服にでも触れれば癒していただける」という信仰を、どのようにして生じさせたのでしょうか。彼女にイエスという見ず知らずの男が自分を癒してくれるというかもしれないという淡い希望を抱かせたのは、彼女の徹底した貧しさの体験がその機となったかもしれませんが、実はイエスさまご自身が彼女と出会いたいと熱く願っておられたからなのです。それがイエスさまの願いなのです。ですから、彼女の信仰は彼女の中に生じますが、その信仰を彼女に中に生じさせたのは、彼女と出会いたいと願っておられたイエスさまご自身、イエスさまの真実なのです。この真実を信仰というのです。真実も信仰もギリシャ語では同じ言葉です。ですからその信仰は、イエスさまからの恵みとして与えられたものでしかありません。

おそらく、わたしたちのほとんどが、イエスさまの周りに群がる群衆のようなもので、イエスさまとの真の出会いをしていないのではないかと思います。だから、お祈りしたら、ミサに真面目に行っていれば何とかなると思っている、そのような表面的な信仰に留まっています。別のいい方をすれば、あなたは自分の信仰や努力で、自分の祈りで自分を何とかできると思っているのですかということなのです。彼女は自分の徹底した貧しさの体験を通して、自分は本当にイエスさまに出会って、救われなければならない存在であることに気づかされました。この気づきをキリスト教では回心というのです。

今日の物語は、癒しということが前面に出ていますが、癒しはきっかけに過ぎません。癒しということを通して、イエスさまとの真の出会い、この女性の真の信仰生活の始まりが描かれています。イエスさまは、「安心していきなさい。あなたの信仰があなたを救った」といわれます。今までは、病気を治してほしい一心でイエスさまにすがってきました。しかし、癒された今、イエスさまと出会った今、その信仰は、今までの自分勝手なものではなく、まったく異なったものになっていきます。聖書には、この後、彼女がどのように生きたのかは描かれていません。聖書がいつも描くのは、イエスさまの人類を救いたいという願いと、そのイエスさまと人類の出会いです。そこには、あなたはイエスさまと出会って、救われなければならない人間なんですよということがはっきりと、わたしへの呼びかけとして知らされてきます。それがなければ何も始まらないのです。そして、そこから彼女の真の信仰生活が始まり、イエスさまの友としての歩みが始まっていくのです。

年間第12主日 勧めのことば

年間第12主日 福音朗読 マルコ4章35~41節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

「向こう岸に渡ろう」これはイエスさまからの呼びかけです。聖書に出てくる海や湖は、人間の力ではコントロールできないものの象徴です。わたしたちは、自分の力でどうすることもできないたくさんのものを抱えています。というか元気な時は、わたしたちは自分の人生の中で自分の思い通りにならないものがあるということをなかなか認めようとしません。仏教では生老病死といって、わたしたちの人生自体が苦しみであり、決して人間の思う通りにはならないと教えています。人間は思い通りにならないものを自分の思い通りにしようとし、そうすることができないことから苦しみが生じ、にもかかわらず思い通りにしようとし続けることを人間の迷いであると教えています。宗教は、そのような思い通りにならないものを、信仰の力によって人間の思いをすえ通らせることだと勘違いしている人たちがいます。ですから、今日の福音も気をつけて読まないと、嵐になって困っている弟子たちが、イエスさまに頼むと嵐を鎮めてくださったというふうに捉えてしまいます。宗教はわたしたちの問題解決をするものでもないし、わたしの都合をかなえてくれるものでもないのです。

そもそも、わたしたちが思い通りにならないとか、苦しんだりするのはなぜかというと、わたしたちは自分を含めて、他の事象が自分の思い通りになると思っているからなのです。わたしたちは生きるということについて、わたしたちは自分の力で息をしているわけではないし、自分の意志で心臓を動かしているわけでもありません。わたしたちが生きるということについて、わたしが自分の力でしていることはほとんどないのです。もし、わたしたちが生きるということを自分の力でできるのであれば、だれも病気にならないはずですし、年も取らない、死ぬこともないはずです。しかし、どれだけ科学や医療が進歩しても、病気にならなくなることはありませんし、年を取らなくなることもありません。死ななくなるということもないのです。人間が生きるということは、年を取り、病気になり、必ず死ぬということなのです。これこそは、だれも否定することのできない真実です。わたしたちは神さまを信じますといいますが、わたしたちは誰も、人間は病気になって、年を取って、死ぬことを信じますといいません。それは、だれかに証明してもらう必要も、教会の教えとして規定する必要もないほど真実だからです。でも、わたしたちは、人間は病気になって、年を取って、死ぬことを受け入れられないのです。なぜならば、自分の体、自分のこころ、自分の何かを自分の所有物だと錯覚しているからなのです。

わたしたちは自分の体といいますが、わたしたちの体はわたしの意志とは全く関係なしに動いています。わたしのこころもわたしの意志と関係なく反応してしまいます。怒ってはいけないと思っても、腹が立ちますし、笑ってはいけないと思っても笑ってしまいます。わたしの体もわたしのこころも、何ひとつわたしの思い通りにはなりません。それなのに、わたしの体、わたしのこころ、わたしの家族、わたしの教会、わたしの教区などというのです。それらはすべて錯覚なのです。そしてそれこそが、人間の迷いであり、罪の根源にあることなのです。そのような人生に迷い続けているわたしたちに、イエスさまは「向こう岸に渡ろう」といわれたのです。

今日、「向こう岸に渡ろう」といわれたのはイエスさまです。このわたしの人生、苦海ともいえる旅で、舟をこぎだそうといわれたのはイエスさまなのです。わたしの人生の主人公はわたしではないのです。イエスさまがわたしの人生の主人公、わたしの人生そのものなのです。しかし、人間は大脳が発達することで情報処理能力と分析能力を手に入れました。そして、人類はあらゆるものを分析して、人類があらゆるものの所有者であるかのようにふるまってきました。弟子たちは湖が凪で、穏やかなときは、船を自分たちの思うように操れます。しかし、ひとたび嵐となれば、船を操ることなどできなくなるのです。いくら人間が船を操れるとしても、それはほんの一部分のことでしかありません。そんなこと当たり前のことなのです。しかし、弟子たちは自分たちは自在に船を操れるといって、自分の全能感を味わい、自分たちがこの人生の主人公であるかのように感じているのです。ほとんどの人間がそのように一生を終えていくのではないでしょうか。その船の艫-舟の後方の部分-に、イエスさまがおられるということなど、わたしたちは考えたこともないというのが現実でしょう。教会にきて、ミサに参加して、信者であるといっているかもしれませんが、それでは、わたしたちは自分教の信者でしかないのです。ありがたいことに、そのようなわたしたちに思い通りにならない現実が襲い掛かってくるのです。

多くの人は、そのような災難に会うのは、悪いことをしたから罰が当たっているのだとか、信仰が薄いからだとか、神さまからの試練だとかいいます。このような考え方はすべて間違いです。信仰のよしあし、強弱、善人悪人に関係ありません。このようなことをわたしたちが体験するのは、わたしが生きているからなのです。つまり、当たり前のことだということなのです。そのことがわからずに、信仰が弱いからだとか、じゃうちの宗教を信じたらよくなるとかいうようなことは、すべて嘘っぱちです。そんなこと関係ないのです。これは生きているということなのです。日本では、悪い生き方をしていると、畳の上で死ねないといいましたが、そんなことをいえば、イエスさまの最期は日本でいうなら磔獄門、極刑です。あれほど酷い死に方が他にあるでしょうか。たとえどのような人生であっても、わたしの人生の主人公は、わたしの旅の船頭さんはイエスさまであるということなのです。ただ、イエスさまは艫の方でいつも眠っておられますから、わたしたちは自分の人生、旅の主人公がイエスさまであることに気づかないのです。

しかし、イエスさまという救いの舟に乗っている限り、舟は必ず向こう岸に着きます。わたしたちは、東京行の新幹線に乗ったら、安心して荷物を降ろして席に座ります。それは、この新幹線が、必ず東京に着くことを知っているから、新幹線に自分を任せて座っていられるのです。しかし、わたしたちの現実は、東京行の新幹線に乗りながら、ちゃんと着くかどうか分からないので、新幹線の中で荷物を抱えて、一生懸命走っているようなものではないでしょう。そのようなわたしたちに、イエスさまは、「あなたの荷物を降ろして、わたしを信じて任せなさい」といわれているのです。生きようが、死のうが、あなたはわたしのうちにいるといわれているのです。それが「なぜ怖がるのか。まだ、信じないのか」というイエスさまのことばは、任せ切ることができないわたしたち人間への呼びかけとなっているのです。

宗教は、わたしの人生の主人公はわたしではなく、イエスさまだ、大いなるいのちなのだという真実を告げ知らせることなのです。何かを信じたらよくなるとか、うまくいくとか、天国にいくではないのです。そんなことを教える宗教は偽物です。わたしが信じることで何とかなると思っているような信仰は、人生の老病死や困難の前ではいとも簡単に崩れ去ってしまいます。人間の作り出せるものは信念であって、信仰ではありません。わたしたちが、安心して新幹線に乗っていられるのは、わたしの信念のおかげではなく、新幹線の性能と安全性のおかげです。わたしたちが信じられるとしたら、その信仰を引き起こしているのは、間違いなくイエスさまご自身に他ならないのです。わたしの心が強いからでも、わたしの努力の結果でもないのです。わたしの信仰など何物でもありません。わたしたちの人生は、イエスさまという大いなるみ手の中にあるのにもかかわらず、わたしたちは反抗し、自己主張をし続ける。わたしは、その愚かささえも分からないほどの愚かさの闇を抱えています。しかし、そのわたしをも抱き取って離さないイエスさまのみ手の中に、救いの願舟に乗せられているということなのです。ですから、信仰とはわたしの中に引き起こされますが、わたしが自力で作り出せるものではないのです。

年間第11主日 勧めのことば

年間第11主日 マルコ4章26~34

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は神の国についての2つのたとえが話されます。イエスさまが、ご自分の人生と死をかけて宣べ伝えようとされたのは神の国でした。ここでは、神の国は成長する種とからし種にたとえられています。からし種のたとえは、マタイ、ルカに並行箇所がありますが、成長する種のたとえは省かれています。マルコ福音書は最初に書かれた福音書であり、イエスさまご自身に遡るものであると捉えられています。にも拘わらず、成長する種のたとえ話は省かれてしまっています。省かれているということは、おそらくマタイ、ルカはこのたとえの意味を理解できなかったからであると思われます。

聖書の中で、特にマルコ福音書においては、弟子たちの無理解ということが大きなテーマになっていますが、マルコに出てくる弟子たちは、イエスさまの生き方とメッセージを理解することができませんでした。それでは、イエスさまの復活の後には理解できたのかというと、必ずしもそうではありません。マルコ福音書はその全体を通して、絶えずイエスという方は誰かということを問い続けていきます。マルコ福音書はイエスさまの復活については触れず、イエスさまの空の墓で天使がガリラヤに行きなさいと告げるところで終わっています。つまり、マルコ福音書は、イエスさまが育ち、生活されたガリラヤ、弟子たちがイエスさまと出会ったガリラヤへ、つまり、読み手を夫々の生活の場としてのガリラヤへ絶え間なく誘うという構造になっているのです。ですから、マルコ福音書においては、イエスさまは誰かということが絶えず問われ続けているのです。マルコ福音書は、キリスト教の教義としてのイエス・キリストを紹介するものではないということです。

そのイエスさまが、生涯をかけて人々に伝えようとされたのが神の国ということになります。ですから神の国を問うということは、イエス・キリストとは誰かを問うことに他なりません。そこで先ず、押さえておきたいことは、イエスさまが宣べ伝えられた神の国は、当時の弟子たちが考えていた新しい社会形態、政治形態ではないということです。弟子たちの多くがイエスさまに期待していたことは、イスラエル王国の再建でした。当時のイスラエルは、ローマ帝国の支配によって、自由に神さまに礼拝を捧げることができず、重税を課され、苦役を強いられていました。ですから、弟子たちがイエスさまに期待したことは、そのような植民地支配を終わらせ、新しく国家を再建する力強いリーダーシップのある政治的な指導者でした。当時、そのような指導者がメシアと呼ばれ、そのメシアによって建設されるのが神の国であると理解されていました。しかし、イエスさまが十字架上で処刑されて、周りのユダヤ人たちの目論見が崩壊したあと、イエスをメシアとして信奉するようになった人々の中で、メシアが再臨するという終末思想が広がりました。それは、イエスさまが王として近い将来再臨され、ローマ帝国は駆逐されて、神の国が完成するというものでした。結局、イエスさまが再臨されるということはありませんでしたが、初代教会はこの終末思想をそのまま受け継いでいきます。そして、その後終末思想は修正されて、教会の教えとして、死んだ人々がいく天国、キリストの再臨、最後の審判、楽園という終末論が形成されていきます。しかし、イエスさまが生涯をかけて宣べ伝えようとされた神の国は、新しい社会形態、政治形態でも、人々が死後に行くといわれている天国のことでも、この世が完成されたときに訪れる楽園でもありません。中世では、神の国は教会と同一視して語られ、それが近代まで続きます。

このような誤解がどこから生じたのかと考えると、イエスさまが宣べ伝えようとされた神の国が、人間の通常の論理ではいい表しえないことであったからだと思います。ですから、イエスさまは「神の国は○○である」とは決していわれず、必ず「神の国は○○のようにたとえられる」といわれました。また、イエスさまは神さまについても語られましたが、「神さまは○○である」とはいわれずに、例えば、いつくしみ深い父親のようだとか、善人にも悪人にも太陽を昇らせ、雨を降らせられるような方であるといわれました。イエスさまは、神さまを“天の父、アッバ”と教え、また”アッバ父よ“祈られましたが、いわゆる文字通りに神さまが父であるという意味ではないのです。これもたとえなのです。そのような状況の中で、神の国を成長する種としてたとえられたのです。そして、そのたとえが直ぐにマタイ、ルカから省かれたということは、マタイとルカはこのたとえを重要だとは考えなかったということなのですが、それは裏を返せば、マタイとルカはこのたとえの重要性を理解できなかったということです。ですから、この成長する種のたとえの中で語られていることの中に、神の国を理解していくための大切なポイントがあるといえるでしょう。

神の支配といわれる神の国は、土にまかれた種のようであるといわれています。そこでは、土に種を蒔くという人間の関与がなされていますが、中心は土にまかれた“種”であり、その種は夜昼、人が寝起きしているうちに、芽を出して成長していく、しかし、どうしてそうなるのか人はわからないといわれています。この人間の側からはわからないという、人為の及ばないところで何かがひとりでに動いていくところに神の国の働きがあるというふうにいわれています。わたしたちは、とかくすると種を蒔く人間の行為、また水をあげ、世話をする行為があるから種は成長するのだというふうに考えがちです。例えば、「心の貧しい人は幸いである」といわれると、“わたしたちが”心の貧しい人にならなければならないと考えてしまいます。しかし、イエスさまは「心の貧しい人は幸い」といわれただけであって、心の貧しい人になりなさい、そのように努力しないと神の国に入れませんよといわれたのではありません。神の国の真実に目覚めた人は、そのようになるといわれたのです。それが心の貧しい人は幸いという意味なのです。つまり、わたしたちが何かをしたからとか、何かをやったからそうなるのではなくて、わたしたちの行いや働き以前に、わたしたちを動かしている大きな働きがあり、それがすべてのものごとの背後にあって、わたしたちを生かし動かしている、その働きを神の国といい表そうとされたのではないでしょうか。

確かに、種の芽が出て、成長していくためにはいろいろな条件が必要です。人の手、空気、土、水などなど。しかし、それではそれらの条件が整えば芽が出るかというと、そうではなく種そのものがなければならないし、またいろいろな条件も必要です。それらすべてのものの背後にあって、そのものを動かし、またそれらをすべて生かしている大きな働き、それを神の働き、神の支配、神の国というのではないでしょうか。それは人間の力、思惑が及ばぬ、もっと奥にある現実、真実のことではないかと思います。それは、善人にも悪人にも太陽を昇らせ、雨を降らせるといわれているように、人間の考え方や思惑に左右されないものなのです。これがイエスさまの教えでは、敵への愛となって表れてきます。

イエスさまが説かれた神の国は、命令とか、倫理ではなくて、「おのずからそうなる」といわれたものなのだといったらいいでしょう。強盗に殴られた人を助けたサマリア人のたとえ話は、とかくするとわたしたちもよいサマリア人になりましょうという倫理、人助けの話として受け取られがちです。「その人を見て憐れに思い、近寄って」といわれているように、思わず駆け寄った、“おのずからそうなった”という動きの中に神の国の働きを見ているということだと思います。サマリア人が思わず駆け寄ったのは、それが律法の命令だから、隣人愛の実行だから、天国に行くためだからではありません。そのような人間の己の思惑を超えたところで、何かが働いてサマリア人を突き動かしているのです。このことが神の国なのです。ですから、神の国は義務でも、命令でもなく、教会の教えでもありません。すべてを超えてわたしたちを生かし、支え、働いているその大きな何かであるといったらいいでしょう。そのことに目覚めた人が心の貧しい人、つまり自分という思惑から解放された人であり、幸いな人といわれているのです。ですから神の国は、いつか来るとか、どこかにあるというものではなく、今ここに、わたしたちの内に実現している何か、わたしたちを突き動かしている真実であり、ある意味で自然にあるということではないでしょうか。

年間第10主日 勧めのことば

年間第10主日 福音朗読 マルコ3章20~35節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の福音では、人々の無理解ということがテーマになっています。先ず「イエスのことを聞いて取り押さえに」来た「身内の人たち」が登場します。続いて「エルサレムから下ってきた」権威をもっている「律法学者」たちが出てきます。イエスさまの身内の人たちは、イエスさまを小さい時からよく知っていたはずです。母と書かれていますからマリアさまのことでしょうし、兄弟というのは、イエスさまのいとこや親族のことを指しています。彼らは、イエスさまが病人をいやしたり、悪霊を追い出したりしている噂を聞いて、あれは気が変になっているといってイエスさまを取り押さえに来たと書かれています。取り押さえに来るというのですから、尋常のことではありません。またエルサレムから下ってきた律法学者たちも、あれは悪霊の頭の力で悪霊を追い出していると決めつけます。どうして、無理解ということが起きるのでしょうか。

人間は自分の経験と自分の範疇の中でものごとを頭で理解しようとし、自分の理解を超えたことについては、基本的に不安や恐怖を感じます。なぜなら、人間は自分の頭で理解できないことを受け入れられないからです。ですから、わたしたちは自分の知らないもの、また自分の理解できないものを、異物として警戒し、不安を抱き、排除しようとします。エイリアンということでしょう。ですから、わからないものには、必ず名前を付けようとします。そうすることで、理解しようとするのです。

牧野富太郎は「雑草という名の草はない」といい、すべての植物には名前があるといいました。しかし、植物は自分が何々草であると名乗っているわけではありません。人間がその植物に勝手に名前を付けただけにすぎません。また、例えば水の流れに対して、鴨川という名前をつけて理解したつもりになるのです。方丈記のなかで、「ゆく川の流れは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と栖と、またかくのごとし」といっています。川の流れというものは、絶え間なく移り変わっていく現象であって、それに実体はないといっています。にもかかわらず人間は、自分たちの都合で、鴨川という名前を付けるのだということなのです。人間はわからないということに、本能的に恐怖を感じます。わたしたちはそのものに名前を付けることで、理解して安心したいのです。というか、人間が世界を理解していくためには、ものごとに名前を付けて概念化していくことでしか理解することができないのです。名無しの権平というわけにいかないのです。

ですから、イエスさまの身内の人たちは、あれは気が変になっているといい、律法学者は、あれは悪霊の頭に取りつかれているというふうに決めつけることで自分たちがイエスさまをわかったつもりになり、安心しようとするのです。この人間の行為を、ラベリングといいます。最近のインターネットではタグをつけるともいわれていることです。このラベリングやタグをつけるというのは、現代社会において、当たり前のこととなっていますが、根底にあるのは、人やものに名前やイメージを植え付けることで評価を固定し、対象となる相手やものを自分自身の影響下に置いて支配するという、人間の心理現象をさしています。そのことが創世記の中では、人間が神さまに代わって生き物に名前を付けるという行為として記されています(2:19)。このことをわたしたちは当たり前のこととしてやっているのですが、この名前を付けるという行為やラベリングは、実はものごとをそのままありのままで受け入れるのではなく、わたしという身に引き寄せて、わたしに都合よく理解していくという危険性を孕んでいる行為でもあるのです。ですから、ラベリングという行為は、しばしば先入観や固定概念で相手を決めつけ、偏見やレッテルを貼ることになっていきます。これは人間の根本的な世界理解の方法なのですが、このことが人間社会に大きな問題を引き起こす原因ともなっているのです。そして、このラベリングをする際に大きな役割を果たしているのが人間の言葉なのです。

わたしたちはすべてのものに言葉で名前をつけることで、わたしたちは相手やものをわかったつもりになるということをしているわけです。わたしたちは生まれてきたときに名前がありません。しかし、親がこの子はこういう子になってほしいと願って名前を付けます。そして、その名前を呼び続けることで、その子はその名前そのものと不可分となっていきます。さらに成長するに従って、男女、子ども、生徒、学生、社会人らしさという肩書等がわたしにくっ付いてきます。そして、その名前や肩書、役割、偏見、レッテルがわたしらしさというものを構成する一部、あるいはすべてとなってしまうのです。その役割を果たしているのが言葉です。しかし、わたしたちには名前というものが付けられる以前のいのちそのものとしてのわたし、また“わたし”という言葉以前の何某がいるのです。わたしたちは、いのちの上に言葉が乗っかかるようになり、いのちにつけられた言葉がわたしたちを構成し、その言葉がわたしたちを束縛し、またわたしがその言葉に執着するようになっていきます。わたしたちは、このような言葉の世界に生きていますから、その言葉によって生き、また言葉によって傷つき、言葉によって捕らわれ、言葉によって惑わされているのです。わたしは人間であり、キリスト者であり、司祭であり、男性ですが、その逆がそのままわたしではありません。なにものによっても規定されないわたしというものがあるのです。しかし、わたしたちは人の言葉によって力づけられたりしますが、また傷つけられたり、立ち上がれないほど深く傷つけられること、ある意味で殺されることもあるのです。

キリスト教は言葉の宗教であるといわれるほど、言葉が大切にされています。そして、言葉ですべてを説明しようとします。そもそも、“神”という言葉も、これはキリスト教の神さまのことを指すかのように思っていますが、そうではなくすべてのいのちの源であるものを、わたしたちの言葉で“神”というふうに呼ぶことにしただけなのです。日本語では「カミ」と呼び、ラテン語ではデウスとなり、英語ではゴッドになる。これは人間が、自分たちの言葉では言い表しえないなにかを、そのような名前、仮名(けみょう)として呼ぶということに決めただけに過ぎないのです。しかし、人間は名前を付けることでなんとなくわかったような気になり、そのものを理解したような気になるのです。そして、多くの宗教は神の名前を使って、いろんなことを自分たちに都合よく説明し、利用するようとなっていくのです。これが十戒で「神の名をみだりに呼んではならない」と戒められていることの意味なのです。

そもそも人間が言葉を使うということ自体が、根本的な問題、錯覚や誤解、愚かしさ、迷いというものを抱えているということを意識しておかなければならないと思います。人間はすべてのもの、すべての現象に名前をつけて、それを実体化しようとしていきます。そして、それをすべて人間の所有物としてわかったつもりになり、自分に都合よく利用してきたというのが人類の歴史であり、人類の社会・文化活動であり、また同時に人類の罪を構成してきたのです。

 このように、わたしたちは、世界を言葉によって理解しますが、言葉によって迷っているのだということができると思います。言葉によって救われますが、言葉によって傷つき、迷い続けているのです。わたしたちの苦しみの多くは、わたしがわたしであると思っているわたしがわたしのようでないことからくる苦しみ、また相手がわたしの思っているような相手でないことからくる苦しみです。わたしたちが言葉で考え、言葉で決めつけて、言葉に迷い、言葉で苦しんでいるのです。そのような言葉に迷い続けているわたしたちに、イエスさまが真実の言葉となって訪れ、わたしたちに言葉で語りかけてくださったのです。ですから、イエスさまは“真実のいのちのみことば”と申し上げるのです。ですから、今日もわたしたちはいのちのみことばであるイエスさまに聞き続けていくのです。

キリストの聖体 勧めのことば

キリストの聖体 福音朗読 マルコ14章12~16、22~26節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は、イエスさまが弟子たちと過ぎ越しの食事をされる箇所が読まれていきます。イエスさまが人生の最後に、自分の人生を象徴的にあらわすものとして、“食べるということ”を、わたしたちに感謝の祭儀を残してくださったことを記念するのがキリストの聖体の祝日です。それで先ず、イエスさまが自分の人生をあらわすものとして食事、ある意味人間にとって、またすべての生命体にとってもっとも基本的な食べるという行為に着目してみたいと思います。

食べるという行為は、すべての生命体にとってもっとも根本的な行為です。すべての生命体は、他からいのちをもらって、自分のいのちを繋いでいます。わたしたちは普段はほとんど意識していないかもしれませんが、“食べる”ということは、ほとんどが「生きる」ということと同義語であるといってもいいわけです。スーパーで売られているものはすべて処理をされパックされていますが、実際にはわれわれは何かを殺して食べているわけです。もちろん、ヴェジタリアンの人がいて、動物は食べないといっても、食べている植物もまた生物であることには変わりがありません。食べるという行為は、このいのちの「殺戮」ということそのものでもあるわけです。何をどういおうと、われわれは生き物を食べ、そのかぎりでそれを殺しているといえるでしょう。戦争をするのも、争いをするのも、究極的には食料を確保することに繋がっているのです。

宮沢賢治はこの食物連鎖という問題を「よだかの星」という小説で取り上げています。わたしは小学生のとき、国語の副読本として「よだかの星」を読み、強烈な印象を受けたのを思い出します。よだかは醜い鳥で、皆から嫌われています。そして、自分はいろいろな虫を食べて殺生をする、誰からも顧みられず、どのようにしても救われがたい我が身というものに気づいたとき、よだかはどこか遠いところへいってしまおう、つまり自分が死ねばよいのだという思いつめ、泣きながら空の彼方へと昇っていきます。そして、昇って昇って、最期に静かに燃える青い星となったという物語です。その後、イエス・キリストという小学生向けに書かれた伝記を読んだのですが、そのときに受けた印象が、「よだかの星」を読んだときに受けた印象と重なったのを思い出します。その小学生向けの伝記は、イエスさまの十字架で終わっていて、復活の話はありませんでした。しかし、どのように表現すればよいのかわかりませんでしたが、そのときに受けた複雑ながらも安らかな印象というものが、救いというものであったのだと思います。もし、あのときイエスさまの復活という話が続いていれば、わたしは幻滅しただろうと思います。何にも報われず、ただ大変な思いをして、十字架の上でなくなっていったというところに救いをみたのであって、十字架の後に復活があったというなら、勧善懲悪を説く日本昔話と同じだという印象をわたしはもってしまったと思います。

よだかの星にもありますが、よだかが昇っていった世界は、もう「のぼっているのか、逆さになっているのか」もわからない現実を超越した世界だったのではないかと思います。それは、単に苦しみから解放されて楽になるという世界ではありません。わたしたちの人間の世界は、善悪、美醜、貧富等あらゆるものを二分し、差別区別することで成り立っている世界です。それがわたしたちの生きている世界であって、イエスさまの時代もまさにその通りでした。そのような世界の中で、様々ないのちを殺して食べているのは他の誰かではなくて、実は“わたし自身”なのだという現実に目覚めたときに、イエスさまはご自分のいのちを差し出そうとされたのではないかとわたしは思うのです。イエスさまはご自分が人々のための食べ物、飲み物になりたかった、というか、ならないではおれなかったということだと思います。そのイエスさまの悲哀というか、あらゆるいのちを愛おしむ思いが、聖体となったと思えるのです。それほど、イエスさまのすべてのいのちと連帯するという思いが深かったのでしょう。イエスさまはいのちそのものでおられたから、それが聖体の制定となり、イエスさまの十字架となったのだと思います。

もちろん、このイエスさまの復活や聖体の制定も神学的に説明することはできるでしょうが、わたしたちにとって大切なことは、それが現代社会の中で様々な困難や苦しみを生きるわたしたちにとって、それらがどのような意味なのかということを問うことであると思います。難しい形式だけの教義を繰り返すこと、今までの慣習にしがみつくことではなく、わたしたちにとって、この世界にとって、イエスさまが何なのかを問うこと、いのちとは何かを問うことが大切なのではないでしょうか。

イエスさまは、ご自身をわたしたちにそのまま差し出しておられるのです。「皆、これをとって食べなさい」と。イエスさまは、「わたしがあなたのいのちとなる」といわれたのです。パンとぶどう酒はまさにわたしたちを養ういのちの糧です。その形をとって、イエスさまは世の終わりまで、わたしたちのいのちの糧として、いのちの源として、ご自分を与え続けたいといわれるのです。しかし、そのイエスさまは、そのような生き方をしたわたしを信じなさいとか、ミサは義務ですから必ずあずかりなさいとかいわれませんでした。イエスさまには何も押しつけがましいところがないのです。どうぞ召し上がれといって、自分を差し出しておられるだけなのです。イエスさまの福音は義務ではないのです。ただ、そのようなイエスさまに触れたとき、今度はわたしたちのこころと体が動き出すのではないでしょうか。

わたしたちがそのようなイエスさまと出会うことなく、わたしの飢えを満たし、わたしの願いを満たし、わたしの救い、わたしの癒し、わたしの安寧を求めているだけであれば、ああ、今日はご聖体をいただけてこころが落ち着いた、平和になったで終わってしまうことでしょう。キリスト教を教えとしてだけ学んだだけであれば、そこからは何も生まれてきません。ただ規則を守り、義務を果たし、よい人間となって、その報いを受けるということで人生が終わってしまいます。今日、キリストの聖体の祝日にあたって、先ずはイエスさまのそのようなイエスさまのあたたかさを感じ取ってみたいと思います。

三位一体の主日 勧めのことば

三位一体の主日 福音朗読 マタイ28章16~20節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は三位一体の主日です。今日の箇所は復活されたイエスさまと弟子たちが、ガリラヤで出会う様子が描かれています。そこでは、「イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑うものもいた」と書かれています。原文では「彼らはイエスに会い、ひれ伏した。しかし、彼らは疑った」となっています。おそらく誰かが忖度して「疑うものもいた」と訳したのだと思います。教会としては、11人の弟子がイエスさまと出会い、礼拝しながらも疑ったというのは具合が悪かったのでしょう。でも、どうみても、彼らはイエスに会い、ひれ伏した、しかし、疑ったとしか読めません。おそらく、礼拝する、信じるという行為が、疑いと相いれないものであるという考え方があったのだと思います。それに、イエスの直弟子ともあろう使徒たちに信仰がなかったなどというのは考えられないという発想が教会の中にあったのだろうと思います。

西欧のキリスト教ではすべてにおいて信仰が前提であり、その前提である信仰を疑ってみるということが教会の歴史の中でなかったように思います。キリスト教がローマ帝国内に広がっていくときに、キリスト教徒は迫害を受けます。そして、その過酷な迫害を受けて、殉教までして信仰を貫いた人たちを殉教者としてたたえ、キリスト教が公認の宗教になった後は、徹底して信仰に生きた人を証聖者として崇め、列福列聖の制度が整えられました。そこでの信仰者のイメージは、キリスト教信仰を死にいたるまで貫いた人、またその信仰を徹底して生きた人であって、疑うということは棄教者であり、背教者としてのレッテルを貼られるということでした。信仰を神からの恵みとしては捉えていましたが、その信仰を守り、生き抜くのは人間であって、人間の意志が非常に重要視されていたように思います。ですから、疑うということは悪であり、信仰そのものが人間にどのように賦与されて、信仰の本体が何であるかを考えたことがなかったのだと思います。カテキズムによると、信仰は対神徳であるといわれ、神を起源、動機、目的とするとありますが、それは成聖の恩恵によって人に注がれる神の働きであるといわれています。信仰は人間に与えられた恵みであるというのですが、それがどのような意味で恵みであるかの考察がありません。ですから、疑うということは信仰の対極に置かれ、悪、罪なのです。

そもそもわたしたちが信じるということは、どういうことなのかということを考えてみる必要があると思います。教会ではよくあの人は信仰深い人だとか、信仰が強い人だといういい方がなされますが、それは何を意味しているでしょうか。概して、先祖代々信者であるとか、教会活動に熱心であるとか、よく祈りをするとか、そういうことを指しているのではないでしょうか。しかし、果たしてそのようなことが信仰の強弱、あるなしの証しになるでしょうか。ならないということは直ぐにわかります。誰もその人のこころの中をのぞいたわけではありませんし、本当のところはどうなのか誰もわからないからです。わたしたちが信者をやっているのはたまたまであって、状況というか縁が揃っているだけであって、信徒だったり、司祭だったり、修道者だったりするわけです。もちろん本人の努力とかもあるかもしれませんが、縁がなければ信仰などしていないわけです。ですから、信仰はわたしの力や努力などでどうこうできるものではないのです。その意味では、恵みというのはその通りなのですが、自分というものを真面目に掘り下げていくと、自分の中に信仰など湧くはずがないことがわかります。

わたしたちは何を信じているかというと、イエスさまの真実、イエスさまの信仰を信じているわけです。イエスさまの真実、信仰は、生きとし生けるものの救いです。それは、生きとし生けるものが救われない限り、自分は安息に入らないといわれたのがイエスさまの願いです。そう考えると、イエスさまの願いというものは永遠に実現されることがない願いであることがわかります。人類、そして生きとし生けるものは無限にいるわけですし、そのものを救いたいというイエスさまの願い、そしてその働き、つまり生きとし生けるもが苦しむとき、ともに苦しまれるわけであり、十字架の苦しみも無限なわけです。ところが、わたしたちの考えている救い等は、所詮たかが知れています。世界に紛争がなくなるとか、貧しい人がいなくなるとか、自分の近しい人の幸せを願うとか、もちろんそれは祈らなければならないのですが、わたしたちは自分の幸福の延長線上にあるようなものを救いとしてしか考えることができないのです。わたしたちはイエスさまが思っていらっしゃるような救いを、そもそも考えることなどできないのです。わたしたちが救いということを考えるとき、必ず救われたものと救われていないものが前提になってしまいます。洗礼というとき、洗礼を受けたものと受けていないもの、病気というとき、病気が治った人と治らない人とか、教会というと、教会に来ている人と来ていない人、恵みを受けた人と受けていない人とかいうふうに垣根をこしらえてしか考えていくことができません。わたしたちは救いというものを、イエスさまという囲いの中に入ることだとしか考えられないのです。だから、「イエスさまの囲いに入っていない可哀そうな羊がいる」という発想になるのです。これはどの宗教も同じです。

しかし、イエスさまはそのような救いの垣根というものを破壊されたのです。それが神の国といわれました。ですから、弟子たちやわたしたちがイエスさまのことを理解できない、信じられないのは当たり前なのです。イエスさまが、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいる」といわれたということは、イエスさまが世の終わりまで、“あなたがたとともにいないという人がいない”ということを意味しています。だから、ロシアもウクライナも、ハマスもイスラエルも、その敵味方に関係なくともにおられるということなのです。イエスさまのいわれるそんな救いが何であるか、わたしたちがわかるはずがありません。わたしたちは、ロシアが悪いとか、誰それが悪いといいます。自分は正しいと思っているからです。イエスさまにはそういうものがないということなのです。それがイエスさまの信仰です。このような信仰がわたしの中から湧くはずがありません。わたしは、あいつは好きで、あいつは嫌いだといっている、わたしが死んだ後にいくと思っている天国には、わたしが好きで大切な人たちだけがいて、わたしの敵やあの嫌いな奴、ゴキブリかカメムシはいないのです。イエスさまの神の国とは、そのようなことが問題にならない無碍の救いのことなのです。わたしが信じているといっている信仰など、自分が都合よく思い込んだだけであって、それをいくら教会が教えているからとか、聖霊が働いているからといっても、わたしたちは自分中心に、自分勝手にしか信じることができないのです。そのような信仰が果たしてわたしを救うことなどできるでしょうか。 

真の信仰はイエスさまの真実、信仰であって、それがわたしの中で信じるこころを生じさせているだけなのだということがわかります。ですから、これはわたしの信仰だとか、わたしが信じているのだといった瞬間に、それは借り物、偽物になってしまうのです。わたしたちが今日祝う三位一体の神秘は、神さまのこの無碍の救いの働き、愛の働きを祝います。よく三位一体は神秘であるといいます。その通り、人間の救いの概念、範疇をはるかに超えた神の救いの働きを祝うのです。ですから、どこまでいってもわたしたちには神秘です。神さまの救いには、如何なる罪も、如何なる区別も、国境も、性別も、宗派も宗教も妨げにならないのです。勿論カトリックの枠などありません。だから、わたしたちは本能的にそのようなイエスさまの救いを疑ってしまうのです。わたしたちが経験したことも、考えたこともないからです。そして、その信じることができない、不信仰のわたしたちにイエスさまは“近寄って来ら”れるのです。このことがイエスさまの真実、信仰なのです。わたしはその信仰にあずからせていただくのです。

聖霊降臨の主日 勧めのことば

聖霊降臨 福音朗読 ヨハネ15章26~27,16章12~15節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は聖霊降臨の祝日です。弟子たちの上に注がれた聖霊は真理の霊であり、わたしたちを導き、ことごとく真理を悟らす霊であると福音でいわれています。イエスさまご自身が真理そのものですから、イエスさまのことをわたしたちに悟らせるということになります。少し難しいいい方ですが、この霊はイエスさまのわたしたちにおける働きであるといったらいいでしょう。そもそも働きというものは、ものの本質とわけることはできません。つまり、愛そのものであるイエスさまご自身とイエスさまの愛の働きをわけることができないということなのです。ですから、聖霊が注がれるといっても、それは何か突拍子もない出来事なのではなくて、イエスさまのわたしたちへの働きが何であるかを知ることであって、イエスさまの真実を明らかにすることだといってもいいわけです。イエスさまの真実、これを福音というのですが、生前の弟子たちは、イエスさまの真実を何も理解していませんでした。それは、イエスさまが復活された後も変わりませんでした。弟子たちとイエスさまの間に親和性、同じ土俵がないからなのです。復活されたイエスさまと出会った弟子たちは、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、このときですか(使徒1:6)」ととんちんかんな質問をしています。そこで、その無理解な弟子たちの上に聖霊が降るという筋書きになっています。このことは、基本わたしたちも同じで、わたしたちもイエスさまのことがわかっているようで、実は何もわかっていないのではないでしょうか。

イエスさまがその生涯と死をもって人々に告げ知らせようとされた真理、イエスさまの真実、福音を、イエスさまは「神の支配」、「神の国」をという言葉を用いて伝えようとされました。この神の国という言葉は、当時のユダヤ教の中で一般的に使われていた言葉ではなく、イエスさまが独自にお使いになったともいえる言葉です。一般的に神が支配するというと、何か理想的な国家や社会形態を想像しがちですが、そうではありません。また、この地上では見出だしえなかった来世での幸福や天国でもありません。イエスさまが亡くなられた後、ある時代、イエスさまが説かれた神の国を、天国や教会と同一視することが起こりました。しかし、近代の聖書学の発展は神の国の真実を少しずつ明らかにしていきました。

イエスさまが神の国という言葉をお使いになった前提として、目の前にある人々の苦しみ、悲しみ、悲惨があったと思われます。イエスさまは小さいときから、人々の苦しみ、痛めつけられる姿をみてこられました。いつの時代でもそうかもしれませんが、人間にとって生きること、老いること、病気になること、そして死ぬことは永遠の苦しみでした。そして、そこから逃れるために、人々は個人的な自己保身のため、また自分勝手な自己実現のために、政治や社会、宗教のシステムを作り続けてきました(例)。わたしたちも今生どのような立場にあったとしても、その生まれた境涯において、自己保身と自己実現のために構築されたシステムの中に、つまり人間の迷いの世界に投げ込まれているのです。わたしたちの生きている世界では、自分自身を押し広げていくために他者を引きずりおろすということが常習化し蔓延しています。イエスさまは、そのような現実社会の中において、安直に社会変革をしようとか、社会貢献しようとか、弱者救済をしようとされたのではないのです。もちろん神が支配しておられることのしるし、方便として、飢える民にパンを与え、病める民に癒しを与えられました。しかし、イエスさまが語られたことは、人々が泣かなくてもよくなるとか、もはや飢えなくなるとか、皆が幸せで楽になるというような自分たちだけが救われる世界を告げられたのではないのです。弟子たちは、イエスさまの神の国の宣教を単純にそのようなものと勘違いしました。そうではなく、イエスさまはもっと本質的なこと、人間存在の根本的な問題に取り組もうとされたのです。それはいつの時代においても同じように、イエスさまはこの世界に、いのちの真実、真理を明らかにしようとされたのです。しかし、そのイエスさまの真理を人間は理解することはできません。その真理の前には、わたしたちは居心地悪く感じてしまうのです。なぜなら、人間という存在の中にはそのような概念がないからです。

イエスさまは、そのことを「野の花をみなさい。空の鳥をみなさい」といって、大自然の働き、いのちの営みの中において実現しているいのちの真実に気づかせようとされました。ですから、神の国は、人間が何かを支配するという行為や行動をあらわすものではなく、神がわたしたちのうちにおいてすでに実現しておられること、わたしたちのうちに神が働いておられることにわたしたちの目を開かせようとするものでした。このことを、生前ともにいた弟子たちは何も理解することができませんでした。なぜなら、イエスさまの告げる真実は、弟子たちの望んでいるものではなかったからです。弟子たちが望んでいたものは、自分たちを自己実現させ、自分たちを満足させ心地よくさせ、幸福にするものだったからです。弟子たちも、わたしたちも、それが救いであると勘違いしているのです。わたしたちはなぜ教会に来るのでしょう。なぜ、ミサに参加するのでしょう。結局は自分が救われて、楽になって、慰められて、人生に納得して気持ちよくなるためではないでしょうか。イエスさまは、「真理はあなたがたを自由にする」といわれました。確かにイエスさまの真理はわたしたちを自由にしますが、真理はわたしたちをハッピーにするものではありません。

イエスさまがわたしたちに明らかにされた真理、それは、わたしたちは生まれて、老いて、病気になって、死んでいく身であるということです。それがいのちの実相、真実の姿であるということなのです。わたしたちはどのようにしても、そこから逃れられることができない、救われることのない身であることを明らかにされたのです。イエスさまの生涯、特に十字架は、端的にそのことをわたしたちに教えています。「野の花をみなさい。空の鳥をみなさい」というのは、まさにそのことなのです。野の花や鳥や獣は、当然のように、他のいのちから自分のいのちの糧をもらって生きていますが、また我が身を他のいのちとしても与えていきます。“ダーウィンが来た”をみる方が分かりやすいでしょう。そのことを、あるがまま自ら、自然のこととしてやっているわけです。それが、わたしたち人間にはできないのです。イエスさまの復活は、死んだあと、よく頑張ったといって別の世界が待っているということを教えるのではなく、そのように生き死んでいくことがいのちの本質であること、わたしたちは生死を超えたもっと大きないのちの流れ、働きの中に生かされていることを、わたしたちに示されたのです。わたしたちがこの真理の知恵の光に照らされるとき、救われるとか救われないというようなことではなく、ただそのことさせ知らぬ愚かな愚かなわたしがおり、その愚かささえも知らぬ我が身が知らされ、そのわたしが尚も大きな慈悲の光で照らされ、包まれていることに気づかされます。たとえ気づいたとしても闇でしかない、しかし、もはや救われる救われないとか、信じることで楽になるとか助かりたいと思っている愚かなわたし、そのことしか願っていないわたしの自我、自己中心性が破られていく、それが真の救いであることに気づかされるということなのです。ですから、キリスト教の救いは、苦しみから救われたいともがいている、救われれば楽になると思っている救いから解放されること、救いからの救いであるといったらよいと思います。楽になって救われるための宗教だなどと思っているなら、それはインチキです。イエスさまが告げ知らせた回心とは、そうしたわたしたちの自分勝手な救いから、真理において回心することを意味しているのです。聖霊とは、まさにその大きないのちの働き、愛の働きであって、わたしたちにそのいのちの真実、真理をあきらかにし、真理の知恵の光でわたしたちの闇を照らすのです。

これが、イエスさまがいのちをかけ、十字架の死と復活を通してわたしたちに告げ知らせようとされた神の国、神の支配、神のいのちの愛の働きなのです。わたしたちは、その神のいのちの中に生かされています。聖霊は何か特別なものとしてわたしたちに与えられるのではなく、わたしたちは聖霊の働き、愛の働きの中に飲み込まれ、生かされていることを悟らせるのが、今日の聖霊降臨の祝いです。

復活節第6主日 勧めのことば

復活節第6主日 福音朗読 ヨハネ15章9~17節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の箇所は、イエスさまが弟子たちとの別れの食事の席で、弟子たちの足を洗い、新しい掟として相互愛の掟をお与えになった箇所です。それまでは、旧約聖書の律法を要約するものとして、神への愛と隣人愛の掟が教えられてきました。共観福音書の中では、この神への愛と隣人愛の掟が、もっとも大切な掟として描かれています。イエスさまは、「律法全体と預言者は、この2つの掟に基づいている(マタイ22:40)」といわれ、神への愛と隣人愛は旧約聖書の教えのまとめであるといっておられます。旧約の教えはこの2つの掟にまとめられますが、イエスさまはこの2つが「新しい掟」であるとか、「わたしの掟」であるといわれたことはありません。それにもかかわらず、キリスト教全般において、この2つの掟がキリスト教の教えであるかにようにいわれてしまっています。この2つの掟は旧約の掟であり、古来どの宗教においてもみられるような万人共通の教えであって、キリスト教の専売特許ではありません。「自分にしてもらいたいことを、他人にもしなさい」とか、「自分にしてもらいたくないことは、他人にもするな」などという教えです。どうして、このような初歩的な間違いがなされているのでしょうか。

先ず、「自分自身のように」隣人を愛するのと、「わたしがあなたがたを愛したように」互いに愛し合うというのでは、出発点に決定的な違いがあることを指摘したいと思います。隣人愛の出発点は“わたし”です。しかし、相互愛の出発点は“キリストの愛”です。旧約が隣人愛と説くならば、新約の特徴は相互愛です。イエスさまはその根本的な相違を乗り越えていくために、先ず敵への愛を説かれました。善人にも悪人にも雨を降らせ、太陽を昇らせる父親のような慈悲深い神の愛を説き、それを敵にまで及ぶ愛として説かれていきます。「敵を愛し、自分を迫害するもののために祈りなさい…父は悪人も善人にも太陽を昇らせ…だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全なものとなりなさい(マタイ5:44~48)」。そして、そのような敵への愛や無償の愛を実行した殉教者や証聖者を聖人と崇め、模範と教えてきたのが伝統的なカトリック教会です。確かに、隣人愛を敵への愛にまで昇華させたということは立派かもしれませんが、これはすべての人のための道ではありません。霊的エリート、聖人君主のための教えです。それにわたしが愛するというのであれば、愛の一方向しかいわれていません。イエスさまが説かれたのはキリストの愛に基づく相互愛であって、愛の一方性を徹底化した隣人愛ではありません。それを気をつけないと独善的となり、上から目線、傲慢、新しいファリサイ主義になりかねません。現在のカトリック教会の一般的な教えは、このようなところから出ているのではないでしょうか。

愛というものはその本質からして、一方向の愛だけでは完成されません。愛は、愛するものと愛されるものがいて、はじめて完成するものです。神は愛することしか知らないというのは事実ですが、神がわたしたちを愛してくださったのは、わたしたちが神を愛するようになるためなのです。救いというのは愛の完成ですから、救いは救うものと救われるもの、愛するものと愛されるものがあって、その相互性、一致によってしか成立しないのです。ですから、イエスさまがどれだけわたしたち人類を救いたい、愛したいと思われていても、わたしたちがその救いを、愛を受け入れないのであれば成立しないのです。今までのキリスト教は、神の無償の愛、敵のために祈りゆるす愛、相手への一方的な愛しか説いてこなかったように思います。マタイ福音書を用いて、キリスト者の聖性を、わたしたちが完全なものとなること、イエスさまの無償の愛にわたしたちがひたすら倣うこと、敵への一方的な愛を実践することであると教えてきたのではないでしょうか。それはわたしたちがイキガミさまか、生き仏にならなければできない至極難しい、特別な人だけが歩むことのできる至難な道であり、一般信徒はイキガミさまのおこぼれにあずかる的な信仰形態を作ってしまったように思えます。そうした後ろめたさから、祈りをする、献金をする、ボランティアをする、犠牲をするというキリスト教的な業の実践に結びついてきたように思えます。今の教会で教えられ、説教されていることはほとんどこのことではないでしょうか。しかし、幼いイエスのテレーズは、このようなあり方を、皆が結局神さまと駆け引きしているだけだといっています。

神への愛と隣人愛が、律法を完成する最大の掟であることについては否定しません。イエスさまは「正しい答えだ。それを実行しなさい(ルカ10:28)」といわれました。そして、「あなたは神の国から遠くない(マルコ12:34)」といわれましたが、遠くないということは「近くもない」ということなのです。話されていることの出発点、次元が根本的に異なっているということなのです。善きサマリア人のたとえでは、「(隣人愛を実行すれば)、命が得られる(ルカ11:28)」といわれましたが、イエスさまは永遠のいのちが得られるとはいわれませんでした。そもそも永遠のいのちを得るために神への愛、隣人愛を実行するのであれば、それは自分のためであり、命を得られても、それは永遠のいのちではないといわれたのです。イエスさまはわたしたちに、盗賊に襲われたそのかわいそうな人を助けるよい人になりなさいとか、その人に隣人愛を実行しなさいといわれたのではありません。その盗賊に襲われた人は、わたしが隣人愛を実践するための対象ではないのです。イエスさまがいわれたのは、その人の隣人、友となりなさいといわれたのです。これがイエスさまの相互愛でいわれていることとの違いです。その人はあなたの友であり、そのことに目覚めなさいといわれたのです。

愛はその本質からいって、愛するものと愛されるものがあってはじめて成立し、愛されるものは愛するものと等しくされ、同じ愛を共有することによって、その愛の交わりは無限に深められていきます。しかし、愛するということは、わたしの方が出向いていってできることではなく、先ずイエスさまがわたしの方に来られる働きがあってのことだといわれるのです。それが、「わたしがあなたがたを愛したように」といわれていることです。わたしたちは普通自分というものから世界を考えます。自分から世界へ出ていこうとするわけです。しかし、イエスさまがいわれたことは、反対に自分という一点に向かって世界が向かってきている、「わたし(神)があなたを愛する」という世界が、本来の世界の構造であるといわれたのです。このわたしが隣人愛を実行するなどというのは、大きな思い違いです。わたしが愛され、生かされていることが根本であって、自分が愛している、生きているなどというのは思い上がりです。この世界にわたしが生まれてきたのであって、わたしの後から世界ができたわけではありません。わたしは神さまの愛の中に生まれてきたのです。ですから、わたしが愛するという努力によって何かができるというのではないのです。そのことに気づかされることが相互愛の出発点なのです。

ですから、イエスさまのお望みは、十字架のヨハネの言葉をかりていうならば、「神の唯一のお望みは、わたしたちの霊魂を高めることである」といわれています。イエスさまが望まれていることは、わたしたちをご自分と等しいものとされること、それだけを望まれているのです。わたしたちをご自分と等しいものとするということ、それはわたしたちから愛されること、わたしたちを愛された同じ愛をもってイエスさまを愛することなのです。なぜなら愛の特徴は、愛するものをその愛の対象と等しくすることだからです。ただ、それがおできになるのは、イエスさまだけです。「あなたがたのうちには、神への愛がないことをわたしは知っている(ヨハネ5:42)」。しかし、「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたから(ヨハネ15:15)」といわれます。ですからキリスト教の本質は、わたしが神を愛するとか、隣人愛を実践するとかいうわたしの自己中心性が破られて、神がわたしたち人類、世界に働きかけてくださったという神中心性こそがこの世界のあり方であり、愛の本質であることを知らせていただくことなのです。それが相互愛の掟、イエスさまの新しい掟のあり方であり、わたしたちはこのキリストの愛から出発することしかできません。そして、そのキリストの愛は、すべての人をひとり残らず救い取らずにはいられない愛の広がりそのものなのです。

お知らせ:主の昇天の勧めのことばはお休みです。

復活節第5主日 勧めのことば

復活節第5主日 福音朗読 ヨハネ15章1~8節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日はぶどうの木のたとえ話です。これは何のたとえ話であるかをよく見極めなければなりません。ここで非常に大切なことは、イエスさまは、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」といわれたということです。わたしたちは、この箇所を聞くと、無意識にイエスさまが幹で、わたしたちは枝のように考えてしまいます。枝が幹につながっていることで、多くの実を結ぶことが出来るのだから、わたしたちもイエスさまにしっかりとつながっていましょうといって、「教会と繋がるとか、秘跡と繋がることを大切に」的な説教がなされます。

しかし、イエスさまは、“わたしはぶどうの木である”といわれ、“わたしはぶどうの幹である”とはいわれませんでした。ぶどうの木というのであれば、幹も枝も葉も根も、すべてを含んでいる木全体を指しています。わたしたちはその枝だといいわれたのですから、枝もぶどうの木です。ここで、イエスさまは、実はすごいことをいわれているのです。あなたがたは、わたしキリストであるといわれたのです。どういうことでしょうか。枝とぶどうの木は別個の生命体ではなく、同じいのちを生きるひとつの生命体です。もしイエスさまが、わたしはぶどうの幹で、あなたがたはその枝といわれたのであれば、意味が変わってきます。幹と枝であれば、それはぶどうの木の部分の分類、役割、機能です。そのような見方で考えると、枝は幹につながる限りにおいて、その役割を果たし、ぶどうの実を実らせることが出来る。しかし、イエスさまがぶどうの木全体で、枝もぶどうの木ですから、わたしたちもぶどうの木そのものであるということになります。わたしたちは気をつけないと、このぶどうの木のたとえを読むときに、イエスさまと自分の関わりを機能的に捉えてしまう危険性があるということです。ちょっとした違いですが、これはイエスさまとわたしたちの関わりを捉えるうえで、信仰上の根本的な誤解の元となります。

イエスさまが、幹でわたしたちが枝だという機能的な捉え方は、一見すると分かりやすいものです。しかし、その捉え方は、二言論的な「役に立つか立たないか」、「損か得か」という分別を前提にした見方になってしまいます。ですから、実を結ぶことが目的になり、実を結ばない枝は切ってしまえということになります。実を結ぶことは結果であって、わたしたちはそのために道具ではありません。そのことをわたしたちに当てはめると、よく祈って、教会に頑張って行って、よい信者になることが目的になってしまいます。実は、今までそういう信仰教育がなされてきたのではないでしょうか。キリスト教を信じることは「よい信者になって、人々の模範になって、そのご褒美として天国にいく」的な教育です。まさに、いい子になる教育です。そのようにしてきた教会のあり方が問題ですが、そのような信仰観、価値観こそ、まさに頑張ったものは報われて、頑張れないのは自分の責任だと決めつける現代の風潮そのものでもあるのです。社会貢献できないようなものは、報われるに値しないという考え方です。これは、イエスさまの考えとはまったく違っています。

しかし、ぶどうの木と枝との関わりを、いのちの関わりとして捉えると、実が結ぶかどうかということは、それはぶどうの木としてのあくまでも結果であって、ぶどうの木自体は同じ樹液で生かされていて、枝と幹というような木の機能的な違いではなく、ただひとつのいのちで生かされているという現実が浮き彫りにされてきます。だから、枝が切られたら、ぶどうの木全体が痛むのです。それを機能的な関わりとして捉えてしまうと、パウロがコリントへの手紙で警告しているように、「お前は要らない」とか、「お前は役立たずだ」という発想になっていきます。そのような、発想に陥りがちなわたしたちに、パウロは、「あなたがたはキリストの体であり、また、ひとり一人はその部分です(Ⅰコリ12:27)」といい、わたしたちは、ひとり残らず同じ大きないのちを生きる共同体、同朋であることに意識を向けさせようとします。

わたしたちは一人ひとりが、同じいのちを生きるものとして扱われなければならないのに、いつの間にか人間を人間と見ないで、役に立つか立たないかという人材として見てしまってはいないでしょうか。わたしたちは皆、人間として生まれているにもかかわらず、いつの間にか周りからも「人材」として見られてしまっているということです。人材は言葉の通り、人間としての材料で、はっきりいうと“商品“です。商品はお金に換算したとき、どれだけの値打ちがあるかで、その価値が決まってしまいます。わたしたちは、どこかそのように商品として育てられてしまっているのではないでしょうか。社会貢献が出来て、周りの役に立つとか、使えるかというような雰囲気が社会に満ちているわけです。教会の中もその例外ではありません。そうすると、実を結ぶ枝か、結ばない枝かで選別されます。それが会社であれば、会社に役に立つかどうか、教会であれば、教会に役に立つかどうかで選別されるということです。そのような誤った信仰観や価値観の中から、本当によいものが出てくるはずがありません。これは、教会の中であっても例外ではないのです。

ぶどうの木のたとえを通して、わたしたちは改めて自らの価値観が問われているといえるでしょう。これだけ世界で情報が飛び交う中で、かえって自分のことしか考えられない人間自身の姿がますます露呈されているように思います。ひとりの人間を、無限のいのちの繋がりの中で見ていくか、数、統計の対象として見ていくかです。わたしたち人類、いやこの世界、地球、宇宙は、神のいのちで生かされているひとつの大きな生命体のようなものでといえるでしょう。だから、枝が切られれば、ぶどうの木すべてが痛む。指にけがをすれば、わたしのすべてが痛むのと同じです。パウロは、「ひとつの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、ひとつの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです(Ⅰコリ12:26)」といいます。わたしが苦しめば、他のすべてが苦しむ。わたしが喜べば、他のすべてが喜ぶ。誰かが苦しめば、皆すべても苦しむ、わたしも苦しむ。そこにはもはや自他の区別はない、同じいのちを生きているひとつの大きな生命体としての姿があります。だから、イエスさまはすべての人が救われるまで、その十字架の苦しみは終わることがなく、安息に入られることもないのです。

バタフライエフェクトということばがありますが、ある気象学者の「蝶がはばたく程度の非常に小さなかく乱でも遠くの場所の気象に影響を与えるか」という仮説を立てたことに由来します。つまり、あるところで起こったことが、生態系全体に大きな影響、変化を引き起こすことがあるという考え方です。日本のことわざにある「風が吹けば桶屋が儲かる」というのと同じです。日本では突拍子もないことのたとえとして使われていますが、実はこの世界はすべて繋がっているということをいい表すためのたとえであるともいえるでしょう。わたしの指のけがでわたしが痛むというのはわかりますが、わたしの痛みなど誰も感じていないというのが普通の一般の感覚です。しかし、イエスさまはわたしの指の痛みを痛んでおられるということなのです。これがいのちの感覚です。古来、日本人は地域の共同体や宗教観の中で、そのような感覚をもっていました。それが、「いただきます」とか、「お互いさま」、「させていただきます」ということばに日本人のいのちの感覚が現れていました。しかし、明治以降導入された欧米の教育や価値観は、キリスト教に由来する個人主義に裏打ちされたものでした。多くの日本人は、そのキリスト教に由来する個人主義だけを受け入れ、元来日本人がもっていたいのちの感覚を少しずつ失っていったのではないでしょうか。そして、キリスト教を土台とする西洋文明自体がいのちの感覚を失った結果として、エコロジーやSDGs、ラウダート・シなどが出てきたのです。

今日、あらためて、わたしたちのなかにいのちの感覚をイエスさまが呼び起こしてくださいますように祈りましょう。

復活節第4主日 勧めのことば

復活節第4主日 福音朗読 ヨハネ10章11~18節 

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日はよき牧者の主日です。「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」といわれ、よい牧者であるイエスさまの知り方とわたしたちの知り方が取り上げられます。しかし、イエスさまがわたしを知っておられるのと、わたしがイエスさまを知っているのとは同じ知り方ではありません。イエスさまの知り方は、わたしを愛し抜き、わたしのためにいのちを捨てるような知り方です。

それに対して、わたしたちがイエスさまを知っているというのは、洗礼を受けて信者を何年やっているとか、イエスさまについて勉強をして情報や知識をもっているとか、そういうことではありません。わたしたちがイエスさまを知っているというのは、わたしたちがイエスさまと出会っているかどうかということだといえるでしょう。わたしたちの中で、どれだけの人が本当の意味でのイエスさまとの出会いを体験しているでしょうか。イエスさまを知るということは、わたしたちを知っておられるイエスさまの愛と出会うということです。洗礼を受け何年信者をしていても、たとえ修道者や聖職者になった人たちでも、イエスさまと出会ったことがない人たちがいるのではないでしょうか。確かに、ミサに熱心に参加して、決められた祈りをし、教会活動をするかもしれません。イエスさまや教会についての教えや知識、典礼や神学についての知識もあるかもしれません。でもそれが、イエスさまと生き生きとした関わり、真の信仰をいただいている証拠にはなりません。イエスさまについていろんなことを知っていても、教会のことを一生懸命やっていたとしても、イエスさまと「わたしとイエス」という個人的出会いをしていないのであれば、信仰を生きているとはいえないのです。今、このことを聞いてピンとこないのであれば、真の信仰を得ていないのかもしれません。それをダメだといっているのではありません。もしそうであるならば、「わたしはあなたを愛している」といっておられるイエスさまとの出会いをイエスさまに願ってください。決まった祈りや形だけの祈りをするだけでは足りません。「あなたを愛している」といわれているイエスさまと、沈黙のうちに、わたしたちのこころのうちにおられるイエスさまと日々親しく出会えるように願ってください。それがイエスさまを知るということなのです。

実際に、わたしたちのなかで多くの人が、イエスさまといわず、神さまといっているのではないでしょうか。その神さまというのは誰でしょうか。もしそうであれば、おそらくイエスさまと出会ったことがないのかもしれません。イエスさまの復活とは、イエスさまがいつどこの時代にも、そこで生きている人と出会うことができる方であるという意味なのです。イエスさまが生きておられたときには、特定の時代、特定の場所、特定の人としか出会うことができませんでした。しかし、イエスさまの復活によって明らかにされたことは、イエスさまは時間と空間を超えて、すべての人の主、すべての人の救い主であるということなのです。すべての人の救い主であるということは、「わたしはあなたを救う」というお名前のイエスさまが、わたしを愛し抜き、わたしを救われるということなのです。愛したということは、救ったということです。愛するということは、そのままのわたしを愛しておられるのですから、イエスさまの愛に制限はありません。おまえは不格好だから、もう少しきれいになって、罪を洗い清めてからきなさいとはいわれないということなのです。わたしたち日本人は忖度をし、このままでは申し訳ないとか、相手はきっとこう考えているだろうからとか余計な計らいをします。しかし、イエスさまが愛するといわれるとき、そのままのわたしを愛されるのです。そのままで来なさい、あなたの中のあらゆる欲望や、妬みのこころ、腹を立てるこころ、そのような迷いをそのままもって来なさいといわれているのです。わたしはあなたをそのまま救うと仰っているのです。イエスさまがわたしを知る、愛するということはそういうことなのです。そのイエスさまの愛に、「はい」と答えることが信仰です。せめて、もう少しよくなってからとか、罪を犯さなくなったらとかいうのは、イエスさまの愛を、救いを疑っていることに他なりません。イエスさまはこのような罪深いわたしをお救いになれないとか、これは自分のことを卑下しているようですが、実はイエスさまの愛を疑っていることに他なりません。また、イエスさまはあの人のような罪人はおゆるしになるまいというのは、日本人の心情としてよくわかるのですが、これはわたしたちの高慢であり、イエスさまの救いの力を人間と比べて制限して疑っていることなのです。

わたしたちがイエスさまの愛、イエスさまの知り方をどれだけ想像しても、せいぜいわたしたち人間の力や考え方を最大限に延長したぐらいしかできないのです。このような人間の計らいや忖度が、わたしたちをイエスさまの真実の愛に触れるのを妨げているのです。わたしがイエスさまから愛されるために、わたしが変わる必要はないのです。イエスさまはそのままのわたしを愛しておられる、救われるのだと単純に信じることだけを望んでおられるのです。ときとして、わたしたちが自分を受け入れることができないと思うときでも、イエスさまはわたしを受け入れてくださっているのです。しかし、わたしたち人間はそのように人と関わり、人を愛し、人を知るということができません。ですから、イエスさまがそのようにわたしに関わり、愛し、知っておられることを信じることができず、本能的に疑ってしまうのです。そこで、イエスさまはわたしたちにご自分の十字架をもって、わたしたちにその愛の大きさ、深さが永遠であることを示し、復活して、わたしが何であっても何でなくてもわたしとともにいることを明らかにしてくださったのです。その真実に気づかされることを、信仰というのです。わたしがイエスさまの愛にふさわしくなるとか、清くなることに努めることが信仰生活でもないし、イエスさまがわたしのところに来ていただくように頑張ることが信仰ではないのです。そのままのわたしのところへ、復活されたイエスさまが来てくださることを信仰というのです。わたしの力で信仰心を起こすのではなく、イエスさまがわたしのところへ来てくださることによって、わたしの中に信仰が湧き起こるのです。

イエスさまはわたしを愛し、その愛をわたしたちが受け入れることに渇いておられます。イエスさまがどれだけわたしを愛したい、わたしをゆるし、救いたいと思われても、それをわたしが受け入れなければ、イエスさまはわたしを愛することはできないのです。わたしたちが回心しなければならないのは、わたしのあれやこれやの罪や欠点、弱さやを直すことではありません。そのようなわたしを、イエスさまはそのまま愛し、ゆるしておられることを信じないわたしたちの頑なさです。イエスさまはわたしを愛することを望み、渇いておられます。イエスさまは、今のわたしと出会うことを望んでおらます。わたしたちができることは、イエスさまの愛をそのまま、今、受け入れることなのです。わたしたちは、そのようにしてイエスさまとの出会いを深めていくことができるのです。

復活節第3主日 勧めのことば

復活節第3主日 福音朗読 ルカ24章35~48節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の福音の中で、復活されたイエスさまと弟子たちとの出会いが語られます。復活節に読まれる聖書の箇所では、「イエスご自身が彼らの真ん中に立ち」ということばが度々繰り返されます。今日は、その意味を考えてみたいと思います。

まず「イエスご自身が真ん中に立ち」といわれていることです。復活されたイエスさまと弟子たちとの出会いのイニシャティブは、イエスさまご自身です。弟子たちが望んだのではありません。ルカ福音書では、今日の朗読箇所の前にエマオへの旅人の話が置かれています。使徒ではなかった2人の弟子たちは、イエスさまの十字架の死という出来事で、すべてが終わったと思って、エルサレムを後にしてそれぞれの生活に戻ろうとしていたのかもしれません。その旅の途中に、「イエスご自身が近づいてきて、一緒に歩き始められます」。弟子たちには、それが復活されたイエスさまであることがわかりません。つまり、復活されたイエスさまは、もはや弟子たちが知っていたような生前のイエスさまではなかったということなのではないでしょうか。生前のイエスさまであれば、わかったはずです。しかし、あたかも別の人であるというか、わたしたちが通常に認識できるような方ではなかったということだと思います。その理由は「二人の目は遮られていて、イエスだとはわからなかった」とあります。

イエスさまの復活は、イエスさまがお墓を開いて出てこられたとか、死者の中から蘇ったとかいった人間の頭の領域で理解できるような出来事ではないわけです。イエスさまの復活というのは、神の領域においてというか、永遠のうちにあることなのです。だから、わたしたちにわかるわけはないのです。それを教会はあたかも絵にかいた出来事のように教えてしまいました。イエスさまの復活は、蘇生物語のようになってしまったのです。もちろん、人間は物語を通して、つまり人間の語る言葉を通して、その奥にある神秘に触れていくのですが、物語そのものが事実であるかどうかが問題ではなりません。教会は多くの場合、物語をそのまま史実であるかのように教えてきました。

エマオへの旅人と歩き始められた復活されたイエスさまは、弟子たちに「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書かれていることを説明された」とあります。イエスさまの復活を、わたしたちが頭で理解できるということはありませんが、人間が言葉をもってこの世界を理解している限り、言葉でもって物事を説明していくしかないのです。復活されたイエスさまもそうされました。しかし、人間が理解する言葉であるということは、どこまでいっても不完全で相対的なものであり、物事の一面だけを言い表すものでしかありません。イエスさまの復活ということも、マリア・マグダレナたちがイエスさまを納めたお墓にいくと遺体がなくなっていたとか、天使が「ガリラヤにいきなさい。そこであの方と出会うことができる」といったとか、11人の弟子たちに現れたとか、人間にわかる言葉で説明することしかできなかったのです。しかし、人間の言葉である以上、それは不完全な相対的な言葉であって、イエスの復活という人間の領域を超えた神の世界での出来事の一部しかいい現していないということに注意しておく必要があります。

人間の世界での出来事であれば、あるところまでは人間の言葉で説明し、解き明かすことができます。それでも、わたしの体験したことを、また相手の体験したことを、他の誰かが完全に理解できるということはありません。わたしたちは、人の気持ちがわからないとか、自分は理解してもらえないとかいいますが、それは当たり前のことなのです。わたしのことはわたししかわかりませんし、わたしがわたしのすべてをわかっているわけでもないのです。まして、人間の世界ではなく、神の領域において起こったイエスの復活という出来事を、人間の言葉で、また人間の理解で捉えることができるはずがありません。それが、エマオでの弟子たちが、復活されたイエスさまがわからなかったといわれていることなのです。

それでは、わたしたちは復活されたイエスさまと出会うことができないのかというと、そうではないということが今日の福音だと思います。復活されたイエスさまは、弟子たちの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」といわれます。それでも、弟子たちはその方がイエスさまだとは信じられません。おそらく生前のイエスさまのようではなかったのでしょう。しかし、その方の手と足には十字架の傷跡が残っていました。それでも弟子たちは、それがイエスさまだとわからず不思議がっています。つまり、わからないのです。そこでイエスさまは、エマオでの旅人にされたように、聖書を悟らせるために、「彼らのこころの目を開かれた」と書かれています。そのとき、弟子たちは復活されたイエスさまと一緒にいましたが、目が遮られていました。弟子たちはすでにイエスさまの復活の光に包まれていたのですが、彼らのこころの目が遮られていて、その真実-イエスの復活-が見えなかったということなのです。それは、あたかもわたしたちが日の光を浴びながらも、その光が見えないのと同じです。光があるということがあまりにも当たり前すぎて、不思議を不思議と思えない、そのことと同じです。わたしたちもイエスさまに目を開いていただかなければ、その光であるイエスさまを見ることはできないということなのです。

しかし、その光が何であるかを理解するのは、人間の言葉を通してです。わたしたちは言葉を通してしか、自分の身に起こっていることを理解できないからです。そして、そのことを解き明かす場として、聖書があり、パンを裂く式(ミサ)があるわけです。しかし、聖書を勉強して研究していればイエスさまがわかるとか、ミサに出ていればイエスさまがわかるということではないのです。その反対です。わたしたちが気づかせていただいたことを、言葉でわたしたちは理解するだけなのです。わたしたちは、イエスさまに光によってわたしたちの無明、闇を破っていただくこと、こころの目を開いていただくことが絶対的に必要なのです。イエスさまがそうしてくださらなければ、わたしたちはイエスさまに触れることも、理解することも出来ないのです。イエスさまが道、真理、いのちといわれる理由はそこにあります。イエスさまの方からわたしの方に来てくださる以外の道はないのです。

イエスさまという道を通して、真理、いのちであるイエスさまに触れさせていただく、気づかせていただく、わたしたちがいのちのうちに、光のうちに生かされているという真理に気づかせていただくことができるのです。そして、今自分たちが体験していること、これが復活されたイエスさまであり、永遠のいのちであるということを、言葉で教えていただくのです。そのとき、そのような人間を通して語られる言葉は、もはや人間の言葉ではなく、人間の言葉を通して働かれる、いのちのみことばがわたしのところにきておられることに気づかされるのです。

復活節第2主日 勧めのことば

復活節第2主日 福音朗読 ヨハネ20節19~31節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の福音では、イエスさまが十字架の上で亡くなられた後の日曜日の夕方の出来事が描かれます。弟子たちは、すべてが終わってしまった、自分たちの先生は十字架につけられてしまった、今度は自分たちに追手が及ぶのではないかと恐れて、家の戸に鍵をかけて閉じこもっています。その弟子たちは、怖くなってイエスさまを見捨てて逃げてしまった弟子たちです。そして、その弟子たちと復活されたイエスさまとの出会いが描かれていきます。家の戸に鍵をかけて閉じこもっている弟子たち、これはまさしくわたしたち人間の姿でもあります。弟子たちは、イエスさまを裏切ってしまったということで自分たちを責め、また今度は追手が自分たちに及ぶかもしれないという二重三重の恐れと後悔に苛まれています。イエスさまが十字架の上で死んでしまった以上、もはやイエスさまに許しを乞うとか、和解するという、自分たちからのすべての手立てをなくしてしまった状態です。

わたしたちはいろいろな困難に直面するとき、それなりにやり過ごしていく業を身に着けています。しかし、わたしたち人間の力だけではどうしてもやり過ごすことができない状況というものを、人生の中で何度となく体験します。聖書ではそれを闇とか、罪とか、死とか表現し、わたしたちのことばでいえば老病死がそうでしょう。どのようにしても、わたしたちの力が及ばず、わたしたちからそれを突破する手立てがなくなった状況です。このような中で、わたしたちはどうするのでしょうか。わたしたちの方から手立てが何もなくなったとき、あちら側から手が差し伸べられてくるということ以外にはないのです。それが、イエスさまの方がわたしに出会いに来られる、関わって来られるということです。イエスさまを知らない人であれば、真理が明らかにされることといってもいいでしょう。

今日、描かれる弟子たちとイエスさまとの出会いは、決してわたしたちが普通に誰かと出会うような次元の話ではありません。わたしが望んだから、わたしが頑張ったからできるようなものではないのです。ただ、一方的に与えられてくるものなのです。今日の朗読箇所にあるような出会いは、聖書の中で描かれている具体的なものであったかどうかはわたしたちにはわかりません。多くの場合、聖書の記述があたかもそのまま起こった物語のように解説されてしまいます。最初のときトマスはいなくて、一週間後にトマスがいて、トマスがイエスさまの手とわき腹の傷跡に手を入れるとかいう生々しい話です。それをまた、そのままあったかのようにリアルに説明する。しかし、そのようなことがあったかどうかということは、わたしたちにとって重要なことではありません。それなのに、そのようなことを体験できることをお恵みだとか、特別なことだとか考える、愚かなことです。そんなことがあったとしても、それがイエスさまであると誰も証明することはできないのです。単に自分がそうであると思い込んでいるだけなのです。それは信仰ではないのです。

わたしたちは誰も生前のイエスさまと直接に出会った人はいません。わたしが出会うのは復活されたイエスさまです。復活されたイエスさまであるということは、いつでもどこでも、どの時代に生きていても、すべての人が出会うことができる方であるということです。しかし、より正確にいうならば、わたしたちの方からイエスさまと出会えるための手立てというものは何もありません。イエスさまが復活されたということは、イエスさまは二千年前の、ユダヤの一部の限られた人としか出会うことができなかったイエスさまではなく、時間と空間を超えて、イエスさまはすべての人のイエスとなられたということなのです。つまり、すべての人はイエスさまによって関わられている、イエスさまの働きがすべての人に及んでいるということなのです。わたしたちの方からイエスさまと出会うことを望んでも望んでいなくても、またイエスさまことを知っていても知らなくても、イエスさまはすべてのところのすべての時代の人々に関わっておられるということなのです。イエスさまによって関わられていない人は誰もいない、イエスさまによって愛されて、救われていない人は誰もいないということなのです。このことがわたしの何かによって変わるということはありません。また、わたしの努力とか精進によってどうこうなることでもありません。イエスさまがわたしのことを知っておられ、愛し、ゆるし、関わっておられる、イエスさまは愛の働きとして、その働きはすべての生きとし生けるものに及んでいるのです。そのイエスさまと出会うこと、それはわたしが出会いにいくのではなく、イエスさまがわたしに出会いに来られるということなのです。

これは、特別な体験を意味していません。そのようなことが稀にあるかもしれませんが、わたしたちはそのようなことを体験せずとも、イエスさまと出会う力がわたしたちの内に賦与されているのです。ただそれはわたしの力ではなく、イエスさまがわたしと出会いたいと願い、わたしとの出会いに飢え渇いておられる、その渇きがわたしたちに振り向けられているということです。わたしの方から、イエスさまと出会うための手立ては何もありませんが、その渇きがわたしの中に振り向けられており、それがわたしの中で起動させられるとき、信仰という形をとるということなのです。だから、わたしが信じるのではないのです。わたしの信仰ではありません。イエスという名は、「わたしはあなたを救う」という働きであり、イエスさまがわたしたちを救い取って捨てない、最後の最後のひとりが救われるまで働き続けるというイエスさまの名乗りが、わたしたちに届いていることが救いであり、信仰なのです。ですから、わたしたちを信じさせるよう働いておられるのはイエスさまに他ならないのです。

わたしたちはイエスさまのことを知って、考えて、信じて助かるのではないのです。わたしはあなたを救うといわれている方の名を聞くことによって救われるのです。キリスト教は、イエスさまというありがたい救い主を知って、勉強して、洗礼を受けて救われると思っているのであれば、その人はイエスさまのことを何もわかっていませんし、自分のこともわかっていません。イエスさまを思うとか、信じるといいながらも、わたしたちは悲しいかな、結局はイエスさまを信じている自分を信じているに過ぎません。わたしたちの罪、わたしたちの闇の根っこにあるのは、そのことなのです。家に鍵をかけて閉じこもっている、そこには自分しかいませんし、自分にかがみこんでいるわけですから、そこには自分の陰でできた闇しかないのです。だからそのようなわたしがイエスさまを信じるとか、イエスさまのことを考えるなどということは不可能なのです。ただ、わたしが頭の中でイエスさまのことをぐるぐる考えているだけです。わたしの方からイエスさまに向かう道はないのです。イエスさまの方からわたしの方に来てくださる道だけしかないのです。もちろん、イエスさまを知らない人にわざわざイエスさまといわなくても、真理といってもいいでしょう。真理の前に、わたしの方から何かできるということなどすべて錯覚です。犠牲とか、祈りとか、隣人愛を実践することで、わたしがイエスさまに向かっていこうとすることは、本来わたしの方からできるものではないのです。怖いのは、そのようなことで自分はイエスさまの方に向かっているのだ、それが信仰だと勘違いしていることです。

わたしたちの信仰生活において、わたしからイエスさまの方へいく道などないのです。わたしたちがどういうふうにイエスさまの方にいくかというのは、すべて方便、方法論でしかありません。本質的にいって、キリスト教はすべて、真理であるイエスさまがわたしたち人間の方に来られるという、ただひとつの大道しかないのです。そのことを今日の福音は語っているのです。わたしたちがエゴを離れるという必要性や方法論があるのはそうでしょう。しかし、キリスト教では、いずれにしてもイエスさまの方から来ていただく道しかないのだという根本を、今日改めて抑えておきたいと思います。

復活の主日・復活の聖なる徹夜祭 勧めのことば

復活の主日・復活の聖なる徹夜祭 マルコ16章1~7節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今年の復活徹夜祭では、マルコ福音書が読まれます。マルコ福音書は、今日読まれる16章8節で終わっています。結びの部分は後代の加筆、補遺であるといわれています。8節は次のような言葉となっています。「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、誰にも何も言わなかった。恐ろしかったからである」。

最初に書かれた福音書であるマルコは、空の墓の物語で終わっています。つまり、マルコ福音書には、イエスさまと弟子たちの再会については何も書いていないことになります。しかし、天使は婦人たちに「あの方は、あなたがたより先にガリラヤに行かれる…そこでお目にかかれる」といい、ガリラヤでイエスさまと出会えると告げました。弟子たちがガリラヤでイエスさまと再会したかどうか、何も書かれていません。ただ、天使は、ガリラヤであの方と出会えるといったのです。そのガリラヤとは何でしょうか。それは、弟子たちが、イエスさまから呼びかけを聞き、イエスさまと出会い、イエスさまとともに生きたガリラヤ、そしてエルサレムへ向かうことを決意されたガリラヤです。そのガリラヤの日々の生活の中で、イエスさまと出会えると天使はいったのです。別のいい方をすれば、あなたがたの今の日常の生活の中で、あなたのガリラヤでイエスさまと出会える、そこにイエスさまがおられるということがいわれているのではないでしょうか。わたしたちの人生にイエスさまがおられる、わたしたちはイエスさまの光に包まれているということだと思います。

そもそも、人類の歴史が始まって以来、人間の生老病死は、人間にとって最大の謎でした。どれだけ科学や医学が進歩したとしても、人間の生老病死という現実をなくすことはおろか、コントールすることさえできません。ある程度、長くしたり、苦しみをやわらげたりすることはできるでしょう。しかし、人間の力ではどうすることもできないのが現実です。仏典の中に、「人、愛欲の中にありて、独り生まれ、独り死し、独り去り、独り来る。身みずから之れを当(う)くるに、代わる者あることなし」と述べ、人はひとり残らず、生まれてくるのも独り、死ぬときも独り、わたしはその身を引き受けていくしかない、その現実を誰も代わってもらうことはできないと述べています。実際、イエスさまが十字架の上で人類の罪を引き受けて、死なれ、復活された日も、その翌日も、同じように日が昇り、人々の苦しみが取り去られるということはありませんでした。また、生老病死という現実がなくなるということもありませんでした。

イエスさまの復活は、この人間の世界から生老病死をなくすことではありませんでした。そうではなく、人間が生まれ、老い、病み、死んでいくことが、人間として生きることそのものであるということを、イエスさまご自身が人間として生き切って、わたしたちにいのちの実相、いのちの真実を見せてくださったということではないでしょうか。復活のいのち、永遠のいのちというものは、わたしたちがもはや老いることも、病むことも、死ぬこともなくなるとか、来世での不老不死のいのちだとか、天国のいのちのことではありません。そこを、教会は間違って教えてきたように思います。人間は生まれ、老い、病んで、死んでいく、そのことそのものがいのちの営みであり、真実である。その現実の中に神のいのちが宿っているというか、わたしたちは大きないのちの真実の中に生きている。生をもはや苦として、謎として捉えるのではなく、その現実をそのまま引き受け、生きていくことができるようになる、それが復活されたイエスさまと出会わせていただくということであり、それは同時に、わたしたちがすでに永遠のいのちの中にあるということを知らせていただくということではないでしょうか。

イエスさまが、「空の鳥を見なさい。野の花を見なさい」といわれたとき、自分の生老病死で悩み、そのことに囚われている人間たちに、いのちであることを生き切っていくことを大自然に学びなさいといわれたのではないでしょうか。天国行きを目標にして、びくびくし、犠牲をし、掟を守ってちまちまと生きるのではなく、空の鳥のように、野の花のように、生き生きとのびやかにいのちを生きなさい。与えられているいのちを生き切りなさいといわれたのだと思います。

生きとし生けるものは、大きな神のいのちの計らいの内にあり、そのいのちを生きている。それなのに、どうしてあなたがたは、そのいのちを自分のいのちであるかのように握りしめ、苦悩するのか。いのちを自分のものとして握りしめること、これこそが人間の苦しみ、迷い、闇であり、そこからありとあらゆる欲と怒り、無知、罪が出てくるのです。イエスさまは人間としてのいのちを生き切ることで、この人間の我への捕らわれ(我執)を、ご自分の愛をもって打ち砕き、わたしたちにもっと広い世界、大きないいのちの世界を垣間見させてくださいました。自らに十字架を引き寄せるということで、自分というものを打ち砕いて、自分というものから脱出していかれた、過ぎ越していかれたのです。これが主の過ぎ越しです。ある人の「生のみが我らにあらず。死もまた我らなり」ということばを思い出します。死んでも復活のいのちがあるという間違った教えではなく、また死ななくなるのが永遠のいのちであるというのでもなく、死と生を対立さている二元論的な人間の分別の世界を越えて、わたしたちの生も死もすべて、大いなるいのちに包まれてあることに目ざめさせていただくこと、それが復活されたイエスさまに出会うということなのです。そのときわたしたちは、すでにすべてが永遠のいのち、大いなるいのちに飲み込まれていることに気づかされるでしょう。

この地球に生命体が誕生して38億年といわれます。その長い長い、気の遠くなるような生命の歴史の中で、生きとし生けるものはその生命をつないできました。この脈々と続く生命の営みの中で、この生命を生み出した真の光を、永遠の光をわたしたちは永遠のいのちというのでしょう。そして、この生命の歴史の中で、人間だけが、自分が大いなるいのちで生かされていることを知ることができるのです。わたしたちが生きていると思っているちっぽけな生命は、わたしたち生命体がこの宇宙に誕生するはるか昔より、すでに永遠のいのち、永遠の光に包まれてあることを、今一度、気づかせていただきたいと思います。宗教はその真実に気づかされるためにあるのです。自分の小さな宗派の中に閉じこもるためではありません。

主の受難 勧めのことば

主の受難 ヨハネ18章1節~19章42節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は、昨日の主の晩餐の夕べのミサで記念されたことを、イエスさまが実際に自分の身をもって生きられたことを記念します。つまり、イエスさまが晩餐の夕べのミサの中で、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさいと(ヨハネ13:34)」といって、相互愛の新しい掟をお与えになるにあたって、イエスさまがどのようにわたしたちを愛されたかを見るわけです。その愛し方は、敵味方、加害者被害者、善人悪人、聖人罪人の区別なく、すべての人々のために、ご自分の体を裂いて、血を流して、自分のいのちを与え尽くすこと、十字架につけられるものになることでした。多くのことを説明する必要はないと思います。イエスさまが、「わたしがあなたがたを愛したように」といわれたその愛し方が、十字架であるということです。

それでは、わたしたちが、実際に新しい相互愛の掟を実践できるのかといえば、「はい、できます」とは誰もいえないでしょう。「できます」といえる人がいるとしたら、その人は嘘つきです。なぜなら、人間は誰もイエスさまの愛を完全に理解し、実践することは不可能だからです。結局は、自分が可愛い、自分の幸福や利益を求め、自分の世界から一歩も出られないわたしというのが現実だからです。しかし、ただ「わたしたちが愛を知ったのは、あの方がわたしたちのために自分のいのちを捨ててくださった(ⅰヨハネ3:16)」からですと、ヨハネが手紙の中で書いているように、イエスさまの十字架によって、人の知恵をはるかに超えた、イエスさまの「愛の広さ、長さ、高さ、深さ(エフェソ3:18)」を垣間見させてくださいました。

仏教では、人間の愛はどこまでいっても小さな愛、小悲であるといいます。人知を超えた方だけが、真の大悲、大慈悲といわれる愛そのものであって、死ぬことの真の意味をわたしたちに知らせてくださいます。わたしたちは、そのイエスさまの愛に触れることによってのみ、「わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています(Ⅰヨハネ4:16)」といわれる真実の信仰がわたしたちの内に、イエスさまの側から呼び覚まされてくるのではないでしょうか。

実は、キリスト者であるわたしたちは、イエスさまについて何も知らないのです。わたしの信仰は、わたしのものではありません。わたしの信仰と呼んでいるものは、単なる自分の身勝手な思い込みでしかなかったことが、イエスさまの十字架を見つめるときに明らかにされるのではないでしょうか。信仰はわたしの信仰ではなく、イエスさまの願い、イエスさの真実がわたしのなかで引き起こさせた信仰であり、わたしが愛するとしたら、それはわたしではなく、わたしの内でイエスさまなのです。

[聖なる過越しの3日間]主の晩餐の夕べのミサ 勧めのことば

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

[聖なる過越しの3日間]

聖週間の「聖なる過越しの3日間」は、1年間の典礼暦の頂点です。この「過越しの3日間は、主の晩餐の夕べのミサから始まり、その中心を復活徹夜祭におき、復活の主日の『晩の祈り』で閉じる」と典礼総則に記されています。この説明から分かるように、この「3日間」は、イエスさまの受難、死、復活を時間をかけて、ひとつの流れとして体験し、味わっていくことにあります。

主の晩餐の夕べのミサ ヨハネ13章1~15節

主の晩餐の夕べのミサと翌日の金曜日に行われる主の受難の祭儀は、本質的に同じことを記念しています。木曜日は主の晩餐ということで、わたしたちの食べ物となって、パンとしてご自分のいのちを人類の救いのために与えられたことを記念します。翌日の主の受難の祭儀では、イエスさまが十字架の上で、実際にご自分のいのちを全人類の救いのためにお与えになったことを記念します。今日、主の晩餐の夕べのミサで読まれるのは、ヨハネ福音書の箇所で、イエスさまが弟子たちの足を洗われる場面が朗読されます。共観福音書にみられるような、聖体の制定の箇所ではありません。それもわざわざ、「過越祭の前のことである」ということで、ヨハネ福音書に描かれる食事は、過越祭の食事ではなく、前日の弟子たちとの別れの食事であったことが強調されています。そうすることで、イエスさまの十字架を「真の過越しの生贄の子羊」として描こうという意図があったと思われます。どうしてでしょうか。ヨハネ福音書が書かれた紀元90年代は、当然のように教会の中で典礼としての聖体祭儀が行われていました。しかし、ヨハネ福音書は共観福音書にある聖体の制定の箇所を省き、イエスさまの洗足の話をもってきていました。それは、イエスさまによって制定されたミサという儀式よりも、ミサの本質を問わなければならない必要があったからです。

実は、ヨハネの教会の中でも、すでにいろいろの問題がありました。パウロも当時の教会の中で、派閥争い、勢力争いが絶えなかったことを書いています。「あなたがたの間で仲間割れがあると聞いています…それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにはならないのです(Ⅰコリ11:18~20)」。また、古代のある教父は、「主の晩餐に与りながら、貧しい人のことを考えないなら、主の晩餐に与ったことになりません」ということばを残しています。さらに、パウロは激しい口調で「主の体のことをわきまえずに飲み食いするものは(聖体拝領すること)、自分に対する裁きを飲み食いしているのです(11:29)」、といって、当時の人々のあり方を厳しく批判しています。つまりミサを行いながら、それとまったく違った生き方をしていたということです。イエスさまが聖体の秘跡を制定されたのは、イエスさまのこころを残すためであって、ミサという儀式や荘厳な典礼形式を残すためではありません。また、わたしたちが聖体拝領するためでもありません。ヨハネ福音書が、イエスさまによる聖体の制定についての記述を省いたのは、聖体を軽視したのではなく、聖体を聖体たらしめるもの、つまりミサの本当の意味を共同体に再確認してほしいという思いが強くあったからだといえるでしょう。キリストの体とは、いわゆる「ご聖体」のことをいうのではなく、キリストのいのちを生きるキリスト者の共同体自体であり、聖体は教会の生き方そのものであることを思い起こさせるためだったということです。

イエスさまは洗足の場面で、「わたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない(13:14)」といわれました。そのイエスさまのことばは、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である(13:34)」といわれたイエスさまの新しい掟と同じ意味です。この「わたしがあなたがたを愛した」、「わたしがあなたがたの足を洗った」といわれていることが、イエスさまが人生とその死をかけてわたしたちに示されたいのちの真実です。イエスさまは全世界の人々を、ひとりとして漏らすことなく救い、十字架に付けられる側の人も、十字架に付ける側の人も、ともに救われていく世界を願って神の国を始められたのです。しかし、わたしたちの現実はどうでしょうか。日々、些細な争いや妬み、憎しみ、党派争いが絶えることはありません。ヨハネの共同体は同じ問題を抱えていました。しかし、それでも平気でミサがおこなわれていたということです。それなりの善意の人たちの集まりでしたが、そこに争いや妬みがうごめいていました。わたしたちも同じではないでしょうか。わたしたちキリスト者はどうしても、自分たちは善意で、自分こそが正しいと思ってしまっています。わたしたちは悪人ではない、誰かを十字架に付けるようなことは絶対しない、という信念をもって生活しています。誰かを十字架に付ける側の罪人にわたしは絶対にならないと思っているのです。

今、世界でいろいろな紛争が起こっていますが、もしわたしがその国に生まれていたならば、それは他人ごとではなかったはずです。わたしは否応なくその現実に巻き込まれ、殺す側にも殺される側にもなっていたのです。今、わたしたちが殺す側に立たないでいられるのは、たまたまわたしがそのような状況にいなかったからであって、状況が変われば、わたしは殺す側にも殺される側にもなってしまうのです。わたしがキリスト者で、今そのような立場にいないのは、たまたまそのような環境に生まれなかったのにすぎないのです。それなのに、わたしたちは常に被害者側の立場に立ってものをいう、そこにわたしたち人間のもつ業、闇の深さを感じさせられます。人間は状況が変われば、十字架に付ける側にも、付けられる側にもなる、殺す側にも、殺される側にもなるということに思いが至らないのです。教会は常に自分たちは絶対正義で、正義と倫理の擁護者、番人であるかのように振舞っています。

イエスさまがわたしたちに残されたのは、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい(ヨハネ13:34)」という新しい掟、相互愛の掟です。イエスさまはもはや、心を尽くして、思いを尽くして、神を愛し、隣人を愛しなさいとは教えらません。わたしが、自力で神を愛し、隣人を愛するというような思い上がりを捨てなさいといわれたのです。わたしたちは皆お互い様であって、足を洗う側にも足を洗われる側にもなる、だからお互いに足を洗い合いなさいといわれたのです。もっと謙虚になりなさいということなのです。わたしは、いつも足を洗う側、奉仕する側だという思い上がりは、イエスさまの中には微塵もありません。イエスさまが愛するといわれるとき、敵味方、加害者被害者、善人悪人、聖人罪人の区別や差別はないのです。いろいろ困難な状況の中であっても、お互いに足を洗い合い、ゆるし合い、仕え合うこと、それが相互愛であり、イエスさま自身がその身をもって模範を残してくださいました。それなのに、たとえそれがよいことであったとしても、わたしたちは自分を絶対正義だと思い込んでいるのではないでしょうか。そのような思い込み、自分にしがみついているわたしたちが問題なのです。そのようなわたしたちにとって、形式だけのミサ、聖体拝領に何の意味があるのか、ヨハネはそのことを問題にしたのです。

わたしが自分の正義を肯定し、自分のやり方を肯定するためのミサであれば、どんなに荘厳で美しい典礼であっても、何回聖体拝領しても、わたしたちは何も変わらないのです。わたしたちのなかに、絶対といえるものは何もないのです。だから、お互いに足を洗い合わなければならないのです。相手の足を洗うだけでは足らないのです。足を洗ってもらわなければならないのは、このわたしなのです。だから、互いに足を洗い合うのです。

聖木曜日に、形だけの洗足式をおこなっても意味がありません。今日、わたしたちは、人類のために、このわたしのためにいのちをかけてご自分を与え尽くされたことを、イエスさまのミサの制定として記念します。古代教父の「あなたがたは、ミサで記念しているものとなりなさい」という、呼びかけを今一度、謙虚に心に留めたいと思います。

四旬節第5主日 勧めのことば

四旬節第5主日 福音朗読 ヨハネ12章20~33節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

 今日の福音の中でイエスさまは「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきりいっておく。ひと粒の麦は地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ」といわれました。栄光というのは、その人がもっともその人らしく輝くときのことをいっています。人の子、つまりイエスさまがもっとも自分らしくなる時が来たといわれたのです。そのたとえとして、「ひと粒の麦は地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ」と教えられました。わたしたちは、このたとえを、一粒の麦はそのまま取っておいたらひと粒のままであるが、これが蒔かれて地に落ちると、そのひと粒の麦は失われるが、そこから芽が出て多くの実を結ぶようになるというふうに捉えています。しかし、そこでいわれている意味はもっと深いものがあるように思います。つまり、一粒の麦は取っておかれたらそのままだけれど、地にまかれたら多くの実を結ぶということだけのたとえなら、それは当たり前のことをいっているだけであり、普通の自然現象を現しているのに過ぎません。しかし、「死ねば多くの実を結ぶ」という意味を、もっと根本的に捉えることができるのではないかと思います。つまり、これは単なる種まきの話ではなく、一粒の麦が地に落ちて死ねばという意味は、種もみの形態が失われて芽が出て麦になろうが、種がそのまま腐って地の肥やしになろうが、いろいろな意味で、ある存在様式が失われることによって、多くのいのちを養い、新しいいのちとなるといういのちの姿を意味していると捉えることができるのではないかと思います。

今、NHKの大河ドラマで京都の鳥辺野という地名が出てきましたが、鳥辺野は古来、京都の人々の鳥葬、風葬の地でした。日本の仏教美術の中に九相図(くそうず)というものがあります。それは、嵯峨天皇の后であった橘嘉智子が仏教に深く帰依して、自分が死んだあと皇族として葬るのではなく、自分の遺体を道端に放置して、鳥や獣に与えるようにと遺言したという話に由来します。自分の体を鳥や獣の飢えを救うため餌として与え、この世のありとあらゆるものは移り変わり永遠なるものはひとつも無いという「諸行無常」の真理を、自らの身をもって示して、人々に菩提心を呼び起こさせるためであったといわれています。そして、遺体は道端に放置され、その遺体は腐乱して蠅がたかり蛆がわき、鳥や獣に食べられて、白骨化していく様子を人々に示し、またそれを絵師に描かせたものが九相図というものです。いろいろな九相図がありますが、イエスさまの「一粒の麦」のたとえ、また「自分のいのちを愛するものはそれを失うが、この世で自分のいのちを憎むものは(失うものは)、それを保って永遠のいのちに至る」といわれたことばと相通ずるものがあるように思います。たとえ自分の肉体は滅びても、そのいのちは他のいのちに受け継がれていく、もっと大きないのちへとひとつになっていくということではないでしょうか。

人間は霊長類として食物連鎖の頂点に君臨し、ありとあらゆるいのちを、自分のいのちを保つために摂取してきました。そのためであれば、あらゆる動植物を乱獲し、そのためであれば他の人間のいのちを殺めることさえも厭いません。食物連鎖の頂点に君臨し、あらゆるいのちの王であるようにふるまっているのが人間です。仏教に深く帰依した橘嘉智子は、そのような人間の業とういうものに深く思いをいたし、せめて自分が亡くなった後、そのからだを他の生き物のための食料として与えることによって、他の人々にいのちの大切さ(菩提心)、いのちの真実を説こうとしたのではないでしょうか。人間だけが、すべての生き物を利用し、食料として摂取していきますが、人間は他の生き物の何の役にもたっていません。遺体は大切に埋葬され、カトリック教会であれば、聖人ともなればその遺体を切り刻んで聖遺物として崇められます。からだの復活を教義としている、もちろんそうかもしれませんが、それは人体の復活ではありません。そう考えると、自然界の中で人間とは何と自分勝手で、自分たち人間のことしか考えていない愚かな存在なのでしょうか。せめて、からだを土に返して、他のいのちを養うための栄養となることさえしようとしないのです。

藤原新也という写真家の「メメント・モリ」という写真集があるのですが、そのなかで、ガンジス川で水葬された遺体を食べている野犬を撮った写真があります。グロテスクといえばそうですが、これこそイエスさまが自分のいのちを他に与えようとした行為に他なりません。わたしたち人間にとって、死はわたしたちの人生を揺るがす一大事です。しかし、わたしたちはその死ぬというプロセスを通して、与えられたいのちを生きるのだということをイエスさまはご自身をもって教えてくださったのではないでしょうか。死は生の反対語ではなく、いのちには生も死もなく、いのちのひとつの流れの中に生があり、死があるということなのではないでしょうか。そして、イエスさまはそのいのちの諸相の中で、死がもっともいのちがいのちらしくなる、つまり自分を壊してそのいのちを他に与えようとするとき、それを栄光のときとして示されたのです。死というものは人間にとって動揺であり、苦しみ、心騒ぐときであることに変わりはありません。しかし、死は人間にとって、もっとも人間らしいことなのでということを語っておられるのです。死も、大きないのちの営みの中にあること、すべてはイエスさまのみ手の中にあることを教えてくださったのだといえるでしょう。そして、そのことをわたしたちは、生きてある今、このときに知らせていただいているのです。このことは、生きている今にしか聞かせていただくことはできません。死んでしまえば聞くことはできません。生きている今こそ、いのちの意味を聞かせていただくときなのです。

聖週間をまじかに迎えようとしているわたしたちに、わたしの小さな思いや思惑を突き抜けて、わたしのいのちの全体が、途方もなく大きなイエスさまのいのちの計らいに支えられ、抱かれているという真実を味わわせていただきたいと思います。

四旬節第4主日 勧めのことば

四旬節第4主日 福音朗読 ヨハネ3章14~21節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日のヨハネ福音書の箇所は、イエスさまとファリサイ派のニコデモとの対話で、福音の核心ともいうべき箇所が朗読されます。「神は、その独り子をお与えになるほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠のいのちを得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである(3:16)」。ここに、イエスさまの福音のすべてが要約されているといっていいでしょう。

ここで、まず注目すべきことは、「神は、その独り子をお与えになるほどに、世を愛された」といわれていることです。「独り子を世に与えた」、「世を愛された」ということは、ナザレのイエスという人物において実現した歴史的事実を指しています。その歴史的事実とは、ナザレのイエスという方が、わたしたち人間とまったく同じように、生まれ、成長し、生きて、悩んで、苦しんで、死んだという具体的なひとりの人間の人生を意味しています。しかし、その出来事は、単に過去の出来事として終わってしまったことではなくて、わたしたちが生きている今現在においても続いている普遍的な真理として述べられているのです。確かにイエスさまが、この地上にいらして人間として生き、ご自分のいのちを十字架上で全人類のためにお与えになったことは、2千年前の歴史的事実です。しかし、そのイエスさまの人生は、復活という出来事によって、現在、過去、未来にわたって、人間の相対的な時間を超えて、永遠の真実としてすべての人に及んでいるということなのです。つまり、イエスさまにおいて自分を与えるという救いの出来事は、イエスさまの復活によって、永遠における真実として啓示されたということです。2千年前の十字架と復活という出来事によって、救いが永遠のものとなったというより、すでに永遠であった救いの真実が、イエス・キリストという出来事によって顕かにされたということでしょう。そして、その目的が、「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠のいのちを得るため、救われるためである」といわれています。つまり、イエスさまがこの世界に来られた目的は、わたしたち全人類の救いであるということなのです。わたしたちにとっては、何度も聞かされ当たり前のことかもしれませんが、これこそがイエスさまの願い、悲願であると言ったらいいでしょう。ひとりとして救われない人がいる限り、イエスさまの願いは果たされないということなのです。わたしが、救われたいと願うはるか以前に、すでにイエスさまによって起こされた永遠の願いであるということなのです。その救いの真実が示されました。

しかし、ここでひとつの問題が出てきます。「独り子を信じるものが」ということが、あたかも条件であるかのように述べられています。しかし、イエスさまを信じることが、永遠のいのちを得、救われるための条件であるとか、信じない者を排除したりしているのではないということです。イエスさまの救いは、すべての人を分け隔てなく救うことです。そもそも、救いに条件があるとか、救われたものと救われていないものがあるという隔てがないことが真実の救いです。ですから、「独り子を信じるものが」というのは、イエスさまを信じることを条件としているのではなく、イエスさまはすべての人を漏れなく救われるという真実を信じるようにという呼びかけであると捉えることができるのではないでしょうか。わたしたち人間はイエスさまを信じるといいながら、結局は自分に都合よく、自分勝手に信じている。そして、何かあるとすぐ信仰が揺らいでしまうわたしたちです。そのようなわたしたちが、そもそもイエスさまを一心に信じるということが可能なのかということが問われているのです。つまり、イエスさまを信じないということは他人事ではなく、わたしの問題として捉えなさい、ということだと思います。わたしたちが、自分のことを振り返ってみるとすぐ分かることですが、自分に都合よく信じてみたり、こんなに頑張っていますといってイエスさまと駆け引きをしてみたり、何か大変なことがあると信仰が直ぐに揺らいでしまう。また、人を心から信じることができない、そうした己の現実を見たとき、こんなに勝手なわたしであるのにもかかわらず、わたしたちをひとりとして漏らすことなく救おうとされるイエスさまの願いに気づかせていただくことが信仰であるといえるのではないでしょうか。

ですから、ここでいわれている「信じる」ということは、「信じない人たち」のことを排除するという意味ではなく、そこまでして全ての人類を救おうとされるイエスさまの願い、悲願の広さ、高さ、深さを指しているのだといえるでしょう。イエスさまが、自分のことを信じる人は救うが、信じない人は救わないといった、そのような了見の狭いことをいわれていると考えること自体不可能です。勿論、洗礼の有無に関わりなく、信じる、信じないに関係なく、全人類を一人も漏らすことなく救い取らずにはいられない、イエスさまの願いを述べているのだといえるでしょう。こうして、今日の第2朗読で、わたしたち人類が救われたのは、「自らの力によってではなく、神の賜物です。(わたしたちの)行いによるのではありません」といわれることが明らかにされていきます。これが、イエスさまの救いの真実であり、わたしたちに賜っている信仰なのです。このイエスさまから賜った信仰をそのままいただくことが、わたしが信じるということなのです。

イエスさまの救いのみ業は、このようにすでに永遠において成就しているわけです。イエスさまの十字架と復活によって、全人類はひとりとして余すことなく救われていくことが示されました。イエスさまを信じる者だけが救われるというのではなく、救われがたい、このわたしをも余すことなく救うというイエスさまの願いを聞くこと、それがイエスさまを信じるということなのだということが明らかにされたのです。そもそも、信仰は、わたしたちのこころの持ち方や精神論ではありません。つまり、わたしの努力や自分の力ではなく、イエスさまからわたしたちに届いているひとり残らず救うという救いの願いが、わたしのこころの中で信仰として呼び起こされているのだといったらいいでしょう。信仰とは、全ての人を救いたいというイエスさまの願いが、呼びかけとしてわたしのうちに届き、その絶対的な呼びかけが聞こえたということが真の信仰に他なりません。だから、わたしが自力で信じるのではなく、信じること自体が恵み、神の賜物なのです。信仰は、わたしたちがイエスさまにご加護を願ったり、自分の身勝手な欲望をかなえてもらったりするというような信心ではなく、また自分の力で頑張るとか、自分の根性で強くするような信念でもありません。わたしたちがイエスさまと出会うとき、いつもそのような自分の思いから一歩も出られない、わたしたちの根本的なあり方に気づかされます。その己の姿にもかかわらず、イエスさまの救いの願いに気づかされるとき、「ああ~そうであったのか」と、わたしたちは信仰をいただくのです。これが永遠のいのちを生きるということなのです。

ですから裁きというものも、イエスさまがわたしたちを裁かれるのではありません。わたしが自分の思いで、救われるだろうか、救われないだろうかと算段したり、また同じように他の人のことも判断する、これがイエスさまの救いの真実を疑うということであり、これがわたしたちの迷い、闇の中にいるということなのです。しかし、そのような闇の中にあってもわたしたちは光に包まれています。西洋では闇は光の欠如として説明されますが、そうではなく闇こそが光の実在を証しし、その闇の中に光が届いていることこそが救いなのだといったらいいでしょう。「光は暗闇の中で輝いている(1:5)」といわれています。わたしたちが光を意識するのは、昼間ではなく漆黒の闇においてです。わたしたちの苦しい、また困難の多い、罪深い人生のただ中に、イエスさまが光としておられることこそが、わたしたちがイエスさまによって救い取られているという真実に他ならないのです。