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受難の主日の福音と勧めのことば

♰主の平和 

高野教会のお庭の桜が満開です。桜の前のマリアさまも嬉しそうに見えます。

いよいよ聖週間に入ります。皆でよい復活祭を迎えられますように。

■洛北ブロック担当司祭としてお世話になりましたユン・サンホ神父様が、今春の人事異動で教区外へ転出されることになり、高野教会では今日が最後のミサ司式となりました。今までに神父様から頂いた多くの恵みに感謝し、これからの神父様の上に神の祝福が豊かにありますようお祈りください。

■今後の予定 

7日(金)午後3時から聖金曜日・主の受難の典礼、9日(日)午前10時半から復活の主日・日中のミサが行われます。木曜日の主の晩餐、土曜日の復活徹夜祭の典礼はありません。

■今月からミサ中の歌唱が増え、新しい応唱になった部分もあります。まだ譜面をお持ちでない方は、聖堂後ろにコピーを用意してありますのでご活用ください。

■2023年度京都司教区オンライン聖書講座が5月から開講になります。11月までの全12回で受講料は4,000円です。

https://www.kyoto-catholic.net/_files/ugd/8117f0_a1aa1577120b4e00821c1637d06cef17.pdf

■四旬節の献金、トルコ大地震の募金など、引き続きよろしくお願いいたします。

■車で教会にお越しの方は、駐車許可証をフロントガラスに置いてください。お持ちでない方には準備をします。

■京都みんなで捧げるミサ 

https://www.youtube.com/channel/UCcpBMMVYqIT3-LkUVGgNFsQ

■受難の主日のミサの配信はありません。 

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受難の主日 入場の福音 マタイ21章1~11節

一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。

「シオンの娘に告げよ。

『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、

柔和な方で、ろばに乗り、/荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」

弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。

「ダビデの子にホサナ。

主の名によって来られる方に、

祝福があるように。

いと高きところにホサナ。」

イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだ。そこで群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言った。

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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日はイエスさまのエルサレム入城が記念されます。イエスさまがどうして、エルサレムへ行こうとされたのかを考えてみたいと思います。

イエスさまはガリラヤでの宣教活動に終止符を打って、エルサレムに向かわれました。エルサレムへの入城はイエスさまの凱旋のように描かれていますが、事実はそうではありません。イエスさまの旅は、挫折の連続でした。ガリラヤでの宣教活動がうまくいっていると思われた時期もありましたが、それは最初の頃だけです。人々は貧しさに喘ぎ、日々の生活は困窮を極めていました。その人々の苦しみを見て、イエスさまは人々に寄り添い、飢えた民衆にはパンを与え、病に苦しむ人々を積極的に癒していかれました。しかし、イエスさまの神の国の福音は人々に伝わるということはなかったのです。人々がイエスさまに求めたのは、その日一日の食べ物と病からの癒し、苦しみからの解放でした。苦しむ人々にどんなに崇高な神の愛を説いても、神の国の福音を告げ知らせても、そんなものは絵に描いた餅にしかすぎなかったのでしょう。では、どのようにすればこの人々が救われて安寧がもたらされるのでしょうか。イエスさまは人々に寄り添いながら、必死に考えられたのだと思います。それこそが、宇宙開闢以来の神さまの思いであったと思います。この人類の苦しみの歴史にイエスさまはずっと向き合ってこられたのです。

ユダヤ教の厳格な律法を守ることで救われる人は、それでいいかも知れません。難しい律法の解釈や研究のできる人はそれでいいでしょう。でも民衆のほとんどは、難しくて厳格な律法を守ることなどできない人たちでした。それでは、律法や掟を守ることができないこの人たちは、どのようにしたらいいのでしょうか。イエスさまは救いを求めて群がる人々に、自分の出来るすべてのことをしていかれたのだと思います。しかし、イエスさまが感じられたことは、やってもやっても決して終わることがない無力感であったのではないでしょうか。どこまでやっても、全人類がひとり残らず救われるには終わりがない、何もできないことをおそらく痛感されたのではないでしょうか。イエスさまご自身、自分が救い主として、人々を救う側にいて、人々を救っていくというご自身のあり方そのものが分からなくなられたののではないでしょうか。これこそ、イエスさまの最大の挫折だったのではないでしょうか。そこで、イエスさまが選ばれた道がエルサレムへ向かうということであったのではないかと思います。イエスさまは救い主として、自分が救う側ではなく、救い主としての身分を捨てて、救われなければならない人間の身にご自身を置かれたということではないでしょうか。イエスさまは救う側ではなく、救われない側に、救われ難きわたしたちと同じものとして、ご自身の身を置くという大きな決断、転換がなされた出来事、それがエルサレムに向かうこと、エルサレムへの入城ということだったのではないでしょうか。

今日の詠唱にあるように「キリストは人間の姿であらわれ、死にいたるまで、しかも十字架の死にいたるまで、自分を低くして、従うものとなった」、つまり、イエスさまはわたしたち人間となられ、わたしたち人間と同じになられたのです。人間として、病み、老い、苦しみ、死ぬものとなられたのです。しかも人間として、十字架の死という最低の死に方をすることで、すべてのわたしの人生と一致されました。イエスさまは決して、偉大な救い主として、わたしたちを救ってくださる方ではなく、わたしとなって生き、悩み、苦しみ、老い、病み、死なれた。わたしたちとともにこの世界の歴史が終わるそのときまで、わたしとなって歩み続けられるということ、これこそがイエスさまなのです。イエスさまの中で救いというものの意味が根底からひっくり返ったといってもいいかもしれません。栄光のキリストではなくて、十字架へと歩むキリストとなられたのです。こうして、イエスさまは、全人類がひとり残らず救われるそのときまで、わたしとともに歩み、苦しみ続け、決して休むことなく働き続ける愛の働きとなろうとされたのではないでしょうか。これが、イエスさまがエルサレムに向かおうとされたこと、エルサレム入城の意味であり、十字架に向かっていこうとされたイエスさまの思いではないでしょうか。このイエスさまの思いが永遠のものとなったこと、それがイエスさまの復活であるといえばいいのではないかと思います。このイエスさまの思いがわたしたちに知らされることこそが救いなのではないでしょうか。

四旬節第5主日の福音と勧めのことば

♰主の平和 

一気に季節が進み、高野教会のお庭の桜も咲き始めました。心躍る春です。しかし、花冷えの日が続いています。どうぞ体調を崩したりなさらないよう、お気をつけてお過ごしください。

■今後のミサ予定

3月より全地区合同のミサに戻りました。ミサは日曜日10時半の1回だけです。

毎月、第2日曜日のミサはありませんが、4月9日は復活祭で第2日曜日ですが、復活祭のミサは行われます。また、4月7日聖金曜日は、午後3時より主の受難の典礼が行われます。聖木曜日の主の晩さんと復活徹夜祭の典礼は行われません。

■京都教区時報4月号が、教区のホームページに掲載されました。冊子の配布は次週になります。

https://kyoto.catholic.jp/jihou/545.pdf

■2023年度京都司教区オンライン聖書講座が5月11日から開講されます。申込受付が始まりました。多くの方が受講してくださいますように。

https://www.kyoto-catholic.net/_files/ugd/8117f0_a1aa1577120b4e00821c1637d06cef17.pdf

■車で教会にお越しの方は、駐車許可証をフロントガラスに置いてください。お持ちでない方には準備をします。

■京都みんなで捧げるミサ 

https://www.youtube.com/channel/UCcpBMMVYqIT3-LkUVGgNFsQ

■四旬節第5主日のミサ 

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福音朗読 ヨハネによる福音(ヨハネ11章1~45節)

[そのとき、]ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。それから、弟子たちに言われた。「もう一度、ユダヤに行こう。」

弟子たちは言った。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」イエスはお答えになった。「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」こうお話しになり、また、その後で言われた。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言った。イエスはラザロの死について話されたのだが、弟子たちは、ただ眠りについて話されたものと思ったのである。そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った。

さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。彼女が泣き、一 緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、イエスは心に憤りを覚え、興奮して、言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。イエスは涙を流された。ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。

イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。

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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日はラザロの蘇りといわれる箇所です。ここでは、人間、誰もが避けることができない生死の問題を取り上げています。

この世界の生物の中で、人間だけが宗教をもち、古今東西の宗教が等しく取り扱う根本的な問題は生死です。カトリック教会では永遠のいのちということで教えられ、それは死後始まる終わることのないいのちと考えられています。それは、死ななくなるような不老不死のいのちを想像しているのかもしれません。しかし、イエスさまが取り上げられたのは、死ななくなるいのちのことではなくて、人間の生死そのものを取り上げられたのです。

ラザロは病気で亡くなりましたが、イエスさまによって蘇生させられました。しかし、このラザロもその後亡くなっています。イエスさまは、ラザロを死なない体にされたのではありません。ですから、永遠のいのちは、生命体として歳を取ることも、病むことも、死ぬこともないいのちのことを指しているのではないことは明らかです。永遠のいのちを死後のいのちであると考えたり、もはや死ぬことも終わることもないいのちであると考えたりすることは、あまりにも人間的な発想だということなのです。それは天国のために宝を積みなさい的な神さまと駆け引きをする人間的な捉え方であって、救いをそのように考えること自体イエスさまの思いから離れています。

イエスさまを信じ永遠のいのちを得るということは、自分が死ななくなることでも、死んで天国で永遠のいのちがご褒美のように与えられることでもありません。宗教は人が死ななくなる、病気をしなくなる、老いなくなるものではありません。もし、そのようなことを説く宗教があれば、それは似非宗教だといえるでしょう。イエスさまは、わたしたちを生命体として死ななくされるわけではないのです。また、死後のいのちについて何かをいわれたのでもないのです。

コロナ禍の中で、15世紀の蓮如上人の疫癘(えきれい)の御文というのがよく取り上げられました。「当時このごろ、ことのほかに疫癘とてひと死去す。これはさらに疫癘によりて初めて死すにはあらず。生まれはじめしよりして定まれる定業なり。さのみふかくおどろくまじきことなり。しかれども、いまの時分にあたりて死去するときは、さもありぬべきようにみなひとおもえり。これまことに道理ぞかし云々」とあります。最近、疫病がはやって、疫病で人が死ぬといっているが、人が死ぬのは疫病で死ぬのではない。死ぬのは人が生まれたからであって、改めて驚くようなことではないといっています。それなのに、近頃は人が死ぬということを取沙汰しているのはおかしなことだといっているのです。

わたしたちも、自分が元気なときは、自分は決して死なないように思って生活しています。しかし、ひとたび癌であると宣告でもされたら、死んだらどうしようといって騒ぎ始めます。人間、死なない人は誰もいません。生まれたということは必ず死ぬということであり、死にたくないのであれば生まれなければいいのですが、生きている限りそれもできません。つまり、わたしたちは、この生死を一歩も出ることができないというのが、人間に定められた業なのです。

わたしたちは生と死というものの本来の姿を、さまざまな出来事に出会うときに強烈に見せつけられます。わたしたちは、平生は自分のいのちを自分で管理できるように思っています。けれどもそれは人間の願望であり、幻想にすぎません。実際は容赦ない過酷な現実が起こってくるわけで、それは何の祟りでも罰でもありません。人が生きるにあたって、当たり前のことが起こっているだけなのです。それがわたしたちのいのちのあるがままの姿なのです。

生まれてくるときも、死ぬときも、わたしの力を超えていて、自然にそうなるのです。生死だけではなく、わたしの人生の一瞬一瞬も自然のまま、ありのままであって、わたしの力でないものによって営まれているのではないでしょうか。わたしのいのちはわたしの手の外にあるのです。その当たり前のことが分からず、生死の中で右往左往しているのがこのわたしなのです。わたしのいのちはもっと大きないのちのはからいの中にあって、人生の万事はわたしの自由にはならないのです。

しかし、大きないのちのはからいの中でしか、物事は何ひとつ起こらないわけですから、そこには本来は大きな安心と自由と解放感があるはずです。わたしがどのような生き方をしようと、どういう死に方をしようと、すべて大きないのちのはからいの中にあるからです。つまり、わたしの生も死も、イエスさまのみ手の中にあるのです。そのことが「わたしは復活であり、いのちである。わたしを信じるものは、死んでも生きる。生きていてわたしを信じるものはだれも、決して死ぬことがない」といわれていることの意味です。

わたしはすべて大きないのちのみ手の中にあるのですから、自分でくよくよすることなど何もないのです。自分の責任だといって自分を責める必要もない。そうかといって自分の手柄だといってうぬぼれることもない。大きないのちにまかせると、虚栄心も卑下する心もなくなります。反省したり、うぬぼれたりする必要もないわけです。反省したり、うぬぼれたりしても構いませんが、そのようなことによってこの世界は少しも良くならないのです。

人間存在の根底は、人間の力を超えた力にあります。その力、働きによってわたしはわたしなのです。その大いなるいのちなしには、わたしは生きることも死ぬこともできない、その大きないのちに自分をまかせるしかできないことを知ること、それが真の信仰なのです。死んで天国に行くとか、死後の問題だけをまかせている、そしてこの地上のことは自分の力で何とかしようと思っているなら、ただの愚かものでしかありません。

「いだかれてありとも知らずおろかにもわれ反抗す大いなるみ手に」、教育者の九条武子の歌です。永遠のいのちとは、この大いなるいのちのわたしへのはからいと働きを知ること、そのものなのです。「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです(ヨハネ17:17)」といわれているとおりです。死後のいのちとか、わたしの生き方でどうこうなるものではありません。

イエスさまの神の国とは、この大いなるいのちの働きのことなのです。それなのに、わたしたちはこの地上の人間の些末な考え方に囚われているのです。そのわたしたちにイエスさまはいわれるのです。「ほどいてやって、いかせなさい」と。つまり、人々を生死の囚われから解放しなさい。そして、大いなるいのちにまかせなさいといわれているのです。この真実を知ること、これこそがキリスト者の信仰、生き方であり、使命なのです。

四旬節第4主日の福音と勧めのことば

♰主の平和 

四旬節も半ばを過ぎました。京都も例年より早い桜の開花宣言が出されましたが、気温の変化の大きい日が続いています。どうぞ体調を崩したりなさらないよう、お気をつけてお過ごしください。

■今後のミサ予定

3月より全地区合同のミサに戻りました。ミサは日曜日10時半の1回だけです。

毎月、第2日曜日のミサはありませんが、4月9日は復活祭で第2日曜日ですが、復活祭のミサは行われます。また、4月7日聖金曜日は、午後3時より主の受難の典礼が行われます。聖木曜日の主の晩さんと復活徹夜祭の典礼は行われません。

ミサの受付は10時から始めます。早く到着された方は、聖堂内でお待ちください。ミサに来られる際は、引き続き感染防止対策をお願いします。

■新型コロナウイルス感染症についての京都教区の措置(その12)

高野教会での今後の対策方法は、後日お知らせします。

https://www.kyoto-catholic.net/_files/ugd/8117f0_de833e6299234cd382fc9c0925e33868.pdf

■京都教区の出水洋神学生の助祭叙階式が、3月21日㊋㊗、河原町教会で行われます。当日のご出席やお祈りをお願いします。

https://www.kyoto-catholic.net/_files/ugd/8117f0_f9661dc0670e46dfb3ecb842fdb5fe77.pdf

■京都みんなで捧げるミサ 

https://www.youtube.com/channel/UCcpBMMVYqIT3-LkUVGgNFsQ

■四旬節第4主日のミサ 

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福音朗読 ヨハネによる福音(ヨハネ9章1~41節)

[そのとき、]イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である。」こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。

人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。彼は言った。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」ファリサイ派の人々の中には、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言う者もいれば、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言う者もいた。こうして、彼らの間で意見が分かれた。そこで、人々は盲人であった人に再び言った。「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」彼は「あの方は預言者です」と言った。

それでも、ユダヤ人たちはこの人について、盲人であったのに目が見えるようになったということを信じなかった。ついに、目が見えるようになった人の両親を呼び出して、尋ねた。「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は目が見えるのか。」両親は答えて言った。「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。両親が、「もう大人ですから、本人にお聞きください」と言ったのは、そのためである。

さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」すると、彼らは言った。「あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか。」彼は答えた。「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」そこで、彼らはののしって言った。「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。」彼は答えて言った。「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出した。

イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと、イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」

イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。

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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は、生まれつき目の見えない人の癒しの物語です。ここでは、目の見えない人の癒しというより、真の闇とは何かということが取り上げられています。わたしたちは闇というと、光がない状態、暗くて見えないことだと思っています。今日の福音の中のファリサイ人の反応は、本当の闇とは何かを知ることの手掛かりになります。彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」といい、省かれた箇所の中では「それでは、我々も見えないということか」とイエスさまに敵意をぶつけてきます。ファリサイ人の主張することは、自分たちは見えている、分かっている、自分のことは自分で何とかできる、助けられると思っているということです。わたしたちも、自分で頑張って努力して、キャリアを積んで、立派な人間になっていくことがよいことだと教えられてきました。特に日本人は真面目ですから、真面目がいいと思っています。ですから、洗礼を受けて、真面目に教会のミサに通って、教会でお話を聞いて活動して、それで救われると思っています。実際、わたしたちは自分の生活の中で次々といろんな問題が起こってきます。そのことをわたしが信仰することで、何とかしようとしているわけです。ある意味で当たり前のことで、わたしたちは人任せにせず、自分で懸命に生きており、自分の信心や自分の努力、真面目さで、苦しみや悩みを超えていけると思っているわけです。しかし、わたしたちは、このような考え方がどれほど危ういものであるかは考えたこともないのです。

 自分が病気にかかっていることに気がつけば、治療を受け、薬を求めるということもできるでしょう。しかし、病にかかっていながら自分は病でないと思っているなら、治療を受けることはしません。わたしたちの本当の愚かさというものは、自分は真面目にやっている、信仰しているつもりになっている、しかし自分のあり方がずれている、その自分の愚かを知らない愚かさなのです。一応謙遜しますが、自分を愚かであるとは少しも思っていない、だから自分が迷っていることさえ気づかない愚かさなのです。むしろ、自分は信仰深くて、自分こそが教えることができる、人を指導することができると思っています。こうなると病膏肓に入るで、ほぼ治療不可能な重病だということではないでしょうか。わたしたちはこのような深い深い闇を抱えているのです。特に宗教をやっている人たちは、気をつけないと気づかないうちにこの重病にかかっています。そのような人たちは、真面目に信仰して、努力していれば何とかなると思っているのです。そして、人生をそのようにやっていくわけです。祈れば何とかなる、真面目に信仰していたら何とかなる、神さまが助けてくださる、そして自分こそ天国に行ける人間だと思っているわけです。そして信心ぶっている、これこそが愚痴、無明というわたしたちの真の愚かさ、真の闇なのです。そして、わたしが闇の中にいることさえわからないほどの暗さ、愚かさなのです。

 

それでは、わたしたちはどのようにこの己の闇に気づいていくことができるのかというと、イエスさまからの呼びかけを聞くことを通してであるといえます。闇ということばは、門に音と書きます。闇は、すべてに対して門戸を閉ざしていること、自分の思い、自分のはからいの中に閉じこもっていることであるといえます。わたしたちのあり様というものは、光に包まれているのにも関わらず、目を瞑っている状況なのです。光がない、イエスさまがおられないのではなく、光であるイエスさまに対して門を閉ざしているので闇となっているということなのです。目を閉ざしているので光は入ってきませんが、音は入ってきます。そこに「シロアムの池に行って洗いなさい」というイエスさまの声が聞こえてきます。それで、その人が行って洗うと、目が見えるようになりました。イエスさまの声を聞いて、声に従って目を洗うと、わたしがこの光に満ちた世界に対して目を瞑って拒絶していたこと、光の世界にいたことに気づかされるのです。イエスさまは何も区別しておられないのに、わたしが自分で努力して頑張って、信仰して上に行こう、救われるものになろうとしていた、しかし、何のことはない、イエスさまはわたしとともにおられたのだという驚きが、救いということなのです。わたしたちは光の世界にいながら眠っているようなものであるといえるかもしれません。見る目もない、聞く耳もない、そのように眠っている人をどのようにして呼び起こすのかというと、その人の名前を呼ぶことではないでしょうか。人間は意識不明に陥っても耳は聞こえているといいます。人の魂の耳は開いているのです。イエスさまは、死んだも同然のわたしの名を呼び続けておられるのです。

ヨハネ福音書の中で、マリア・マグダレナがお墓の中に死んだイエスさまを探していたのに、復活されたイエスさまはマリアの後ろに立っておられたのと同じです。イエスさまがおられないのではなく、マリアがイエスさまに背を向けて逃げていたのです。暗いのはわたしが目を瞑っているからであって、世間のせいでも、誰かのせいでもなく、わたしのあり方の問題なのです。そのわたしのあり様に気がつかないことを愚かというのです。そして、そのマリアにイエスさまは「マリア」と呼びかけられ、はっと気がつく。わたしたちの愚かさというのは、自分の闇を自分でつくりだして、光の世界に背を向けていることです。しかしながら、イエスさまは、その闇を愛おしんで、目を瞑り続けている、光の世界から逃げ続けているわたしを呼び続けてくださっているのです。そして、はっと気づく、闇が破られ光が射すということが起こります。それがイエスさまの声が届いたということなのです。回心といってもいいでしょう。

しかし、それによって愚かな自分がなくなるということではありません。闇も愚かさもなくなりません。夜が明けたわけではなく、夜明けが来ることが分るということだといえばいいかも知れません。わたしの心がきれいになったり、問題が解決したり、悩みがなくなるのではないのです。自分の心を何とかしようとすることで、救われるのではないのです。救われたいと思う前に、すでに救いはあったのだということ、どんなに状況が過酷であったとしても、わたしを呼びかけておられる方がある、わたしを救い取って捨てないといわれる方があることが我が身に知らされること、これが真の信仰といわれるものです。わたしがわたしの心をどうこうする、わたしの心がどうこうなることではないのです。わたしの心を見ればそこには自分の都合と欲、己のはからいしかありません。わたしの心がどうこうなること、救われたといって心が平和になったり、ありがたい気持ちになったりすることと救いは何の関係もありません。わたしたちのうちにいかにも信者ぶったところがあるなら、それは自分がこしらえた信仰に過ぎません。だから、そのような心は決して長続きしません。そうではなく、わたしを抱き取って決して離さないといわれるイエスさまの心を知らされること、そのイエスさまの思い、働きがわたしに届くことが真の信仰なのです。その信仰は与えられたものであって、わたしたちが作り出せるものではありません。

四旬節第3主日の福音と勧めのことば

♰主の平和 

春の日差しに心が躍ります。先週の日曜日から、3年ぶりの全地区合同ミサとなりました。久しぶりにお会いできた方々と、マスク越しの笑顔を交わし合い、再会を喜び合いました。次のミサは、19日、四旬節第4主日です。

■今後のミサ予定

3月より全地区合同のミサに戻りました。ミサは日曜日10時半の1回だけです。

毎月、第2日曜日のミサはありませんが、4月9日は復活祭で第2日曜日ですが、復活祭のミサは行われます。また、4月7日聖金曜日は、午後3時より主の受難の典礼が行われます。聖木曜日の主の晩さんと復活徹夜祭の典礼は行われません。

ミサの受付は10時から始めます。早く到着された方は、聖堂内でお待ちください。ミサに来られる際は、引き続き感染防止対策をお願いします。しばらく受付での記名は続けます。

■京都教区人事異動のお知らせ

https://www.kyoto-catholic.net/_files/ugd/8117f0_c70e01a3c0b34b578486f71731251631.pdf

■京都チェジュ姉妹教区交流委員会からのお知らせ

コロナ禍のため2020年以降中止していたチェジュ教区の「聖母の夜」行事参加を含めたチェジュ島聖地訪問・平和巡礼の旅を再開し、企画しました。ご参加ください。

https://www.kyoto-catholic.net/%E3%83%81%E3%82%A7%E3%82%B8%E3%83%A5%E5%B7%A1%E7%A4%BC

■京都教区中学生会春の集いの案内が届いています。中学生の皆さんにお知らせください。

3月30日㊍13:30 唐崎メリノールハウスにて

https://www.kyoto-catholic.net/_files/ugd/8117f0_9720c0f5363d43cb96ac6d09081c5c03.pdf

■京都みんなで捧げるミサ 

https://www.youtube.com/channel/UCcpBMMVYqIT3-LkUVGgNFsQ

■四旬節第3主日のミサ 

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福音朗読 ヨハネによる福音(ヨハネ4章5~42節)

[そのとき、イエスは、]ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。

サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」

イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」

ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、「何か御用ですか」とか、「何をこの人と話しておられるのですか」と言う者はいなかった。女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。

その間に、弟子たちが「ラビ、食事をどうぞ」と勧めると、イエスは、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われた。弟子たちは、「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言った。イエスは言われた。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。そこで、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。」

さて、その町の多くのサマリア人は、「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。彼らは女に言った。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」

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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日はイエスさまとサマリアの女の出会いの物語です。聖書朗読は5節からですが、3~4節に「(イエスは)ユダヤを去り、再びガリラヤに行かれた。しかし、サマリアを通らねばならなかった」という興味深いことばがあります。普通、ユダヤ人がガリラヤに行く場合、エルサレムからサマリアを通ってガリラヤに行けば直線距離で近いのですが、わざわざヨルダン川を渡って北上するという遠回りのコースを使っていました。その理由が、今日の箇所の中に「ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである」と書かれています。サマリア人とユダヤ人は数百年に及ぶ怨恨があって、お互いに憎しみ合う関係でした。ですから、ユダヤ人のイエスさまがガリラヤに行くとき、サマリアを通るということは普通ならあり得なかったわけです。それなのに、イエスさまは「サマリアを通らねばならなかった」と書かれています。どうしてでしょうか。

それは、イエスさまが渇いておられたからです。今日の話を表面的に読むと、旅の途中のイエスさまは喉が渇いて、サマリア人の女に水を所望されたぐらいにしか読めません。そこで、このサマリア人の女性と出会って話をして、この女性を信仰に導かれたというのが大まかな話の筋です。しかし、そのように捉えると、イエスさまの渇きというものは一種のきっかけで、それを通してこの女性を信仰に導かれたというような話になってしまいます。

 

しかし、このイエスさまの渇きというのは、単なる身体的な喉の渇きではなく、このサマリアの女への唯一無二といえるイエスさまの魂の渇きなのです。このサマリアの女が特別だという意味ではなく、このサマリアの女は人類のシンボルで、イエスさまは人類の救いに飢え渇いておられる、イエスさまの魂の渇きを現しているといえるでしょう。イエスさまの魂の渇きは確かに普遍的であり、すべての人に対するものなのですが、このサマリアの女と出会わなければならなかったということは、イエスさまの渇きは、同時にまったくわたしひとりのためなのだということでもあるのです。イエスさまは全人類の救い主ですから、すべての人に等しく及びますが、その愛は決して抽象的な絵にかいた餅のようなものではなく、わたしひとりへの愛であるということなのです。教会では、イエスさまはわたしたち全人類を愛しておられるという言い方をしていますが、イエスさまは全人類の中のひとりであるわたしを愛しておられるのではないのです。それだけなら、どこまでいっても、イエスさまの愛は他人事です。わたしたちは、イエスさまのことをぼんやり聞いているだけに過ぎません。

イエスさまが全人類を愛しておられるということは、このわたしひとりを愛しておられ、わたしとの出会い、わたしの愛に飢え渇いておられるということなのです。イエスさまは、必ずわたしひとりの名前を呼んで、「あなたを愛している」といわれているということなのです。イエスさまはわたしたちひとり一人を固有名詞で呼んでおられます。100人の中のひとりではないのです。教会の祈りはすべて「わたしたち」になっていて、教会共同体という意味で、わたしたちは共同体として呼ばれているというのは確かにそうなのですが、イエスさまの愛は本質的にはわたしひとりのためであるということなのです。

歎異抄の中に「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」ということばがありますが、これは決して、神仏の救いをわたしひとりが独占しようということではなくて、この「わたし」というものの実体は、結局は自分のこときりしか考えられない、自分のことで精一杯で、人のこと、まして教会共同体のことなど考えることもできないような、自分だけが救われればいいと思っているような「わたし」であるという意味なのです。わたしが元気なときは、いくらでもそういう綺麗事をいうこともできるでしょう。しかし、いざ自分のいのちが取るか取られるかというとき、さあどうぞとはわたしたちはいえないのが本音です。結局はわたしが一番なのです。そのようなどうしようもない、度し難い、絶対に救われないわたしをどのようにすれば、真の救いへと導き、目覚めさせることができるのかというイエスさまの立場から見たわたしへのイエスさまの思い、それがイエスさまの魂の渇きなのです。だから、このわたしが愛されているというなら、最後のものが愛されていることになるのですから、当然全人類が愛されている、そのようなイエスさまのわたしへの渇きなのだということなのです。

このように考えると、わたしひとりというのは、全人類のひとり、社会の中に生きているひとりという意味ではありません。その他大勢の中のひとりではないのです。まさに、イエスさまの前に立っている、宇宙の中の絶対のひとりのわたしことなのです。わたしは、この広い宇宙の中で一人ぼっちなのです。それが、あのサマリア人の女だったのです。だからイエスさまは、その女性と会わなければならないと仰ったのです。このサマリア人は、この世界のすべてから見捨てられたものでした。わたしたちも、根本的に自分を見つめていくと大なり小なり一人ぼっちです。そのわたしにイエスさまは会わなければならないといわれ、わたしとの出会いに飢え渇いておられた、わたしを愛することに渇き、わたしの愛に渇いておられるのです。

こんなイエスさまの渇きに気づかされたなら、わたしたちはもう他のものは何もいらなくなります。なぜなら、その人は、自分の中にある内なる泉を見つけ、その泉はこんこんと永遠のいのちに至る水を湧き出でさせるからです。その泉がイエスさまなのです。その泉が、今わたしの中で湧き出でているのです。わたしが何かをしてもしなくても、その泉はわたしの中でただ湧き出でているのです。

四旬節第2主日の福音と勧めのことば

♰主の平和 

いよいよ今月からミサが1回になります。地区別ミサが3年にわたって行われたので、お会いできなかった方々もたくさんおられます。みなで一緒にミサを祝う喜びをかみしめたいと思います。1つの共同体として、支え合いながら歩めますように。

■京都教区の出水洋神学生の助祭叙階式が、3月21日㊋㊗、河原町教会で行われます。当日のご出席や、引き続きのお祈り、ご支援をお願いします。

https://www.kyoto-catholic.net/_files/ugd/8117f0_f9661dc0670e46dfb3ecb842fdb5fe77.pdf

■京都教区中学生会春の集いの案内が届いています。中学生の皆さんにお知らせください。

3月30日㊍13:30 唐崎メリノールハウスにて

詳細は教会の掲示版、または教区のホームページでご確認ください。

https://www.kyoto-catholic.net/_files/ugd/8117f0_9720c0f5363d43cb96ac6d09081c5c03.pdf

■心のともしび運動に生涯をささげられたマクドナル神父様の一年祭ミサが、3月30日㊍に河原町教会で行われます。詳細は掲示板をごらんください。

■「トルコ南東部地震救援」

募金箱をミサの時に聖堂に置きます。お寄せいただいた募金はカリタスジャパンを通して被災地域で行われる救援活動のために活用されます。

■今後のミサ予定

明日、3月5日㊐より全地区合同のミサに戻ります。ミサは日曜日10時半の1回だけになります。土曜日のミサはなくなります。今までと同様、第2日曜日のミサはありません。

ミサの受付は10時から始めます。早く到着された方は、聖堂内でお待ちください。ミサに来られる際は、引き続き感染防止対策をお願いします。しばらく受付での記名も続けます。

■3月5日からのミサ朗読当番表を作成し、このメールに添付しました。当番に当たっておられる方はご確認の上、各自でプリントアウトしていただきますようお願いします。作業の効率化と用紙削減にご協力ください。印刷物が必要な方は、典礼部(または役員)までお声掛けください。

■京都みんなで捧げるミサ 

https://www.youtube.com/channel/UCcpBMMVYqIT3-LkUVGgNFsQ

■四旬節第2主日のミサ 

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福音朗読 マタイによる福音(マタイ17章1~9節)

[そのとき、]イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。

一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。

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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の聖書の箇所は、イエスさまがガリラヤでの宣教活動に終止符を打って、ユダヤ教の本山であるエルサレムに向かおうとされる途上での出来事です。主の変容といわれる箇所です。そこでは、イエスさまの栄光が現されると同時に、弟子たちの不信仰ということもあらわにされていく箇所です。山の上で、弟子たちは「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という呼びかけを耳にします。これはイエスさまが洗礼を受けられたときに、イエスさまが内的に呼びかけを聞かれたことばでもあります。

長い教会の歴史の中で、イエスさまはいつから神の子であるかということが議論されてきました。ある人たちは、洗礼のときからだとか、変容のときからだとか、死と復活を通して神の子になられたのだとかいうような議論がなされてきました。もちろんわたしたちは、イエスさまが生まれながらにして、神の子であることを知っています。このことはよく考えれば、人間の場合も同じです。人間は生まれたときにはじめて、誰かの子となるのではありません。子であるということは、難しい言葉でいうと関係概念であって、親があってはじめて子ということばが生まれてきます。わたしたち人間では親にならない人たちというのはありますが、わたしたちは必ず誰かの子です。子であるということは必ず親がいるということになります。子になるということは、生まれたときになるのでも、はじめてお父さん、お母さんの名前を呼んだときになるのでもありません。まして、わたしが子であると意識したときに子になるのではありません。わたしたちは皆、生まれながらにして子として生まれてくるのです。ということは、わたしたちは誰もが子である、つまり生み出されるもの、生かされているものであるということになります。そのことにあるときにはっと気づく、子どもがお母さんの名前を呼んだりするとき、またもっと根源的ないのちの呼ばれていることを意識したときに、自分が子であることに気づくのです。

それでは、その気づきはどのように与えられてくるのでしょうか。わたしたちは自分の力で、子であることに気づくことはできません。お母さんが絶えずわたしを呼び続けているという事実がまず先にあって、わたしはその呼びかけに応えるということによって、その気づきが起こるのです。わたしたちの親子という関係は、わたしたちがイエスさまを通して、根本的な大きないのちによって呼びかけられていることに気づくための予行練習のようなものです。だから、この地上の親子関係はすべてではないのです。つまり、わたしたちが子であるということは、単に人間としての両親がいるということではなく、あなたがたには、あなたがたを生み出し、いのちを与えて、支え続けている真の親がいる、その真の親に自分をまかせなさいといわれているのです。人間の両親は、たまたまその子を預かっただけにすぎないのです。それなのに、子を自分の所有物のように勘違いしている親が何と多いことか、それが現代社会の問題でもあるのです。

ですから、わたしたち人類は皆、生まれながらにして神の子なのです。洗礼によって神の子になるのではありません。子であるということは、生かされているものであるという意味なのです。わたしたちが子であるということは、絶えまなく大いなるいのちで生かされ、はからわれているからに他なりません。わたしが努力して、頑張って子の身分を獲得したのではないのです。子であるということは、すでに永遠において与えられているものなのだということなのです。イエスさまが神の子であるということの意味は、神さまである方が人間となることで、人間の本質を人間に教えてくださった、人間の真実、人間のいのちの根源、人間の歩むべき道をしめしてくださったのです。ですから、イエスさまは「道、真理、いのち」と呼ばれます。イエスさまは人間になって、生まれるものとなって、人間の苦しみ、悩み、迷い、罪となって、わたしの人生となってくださったのだということなのです。

今日の変容の箇所で「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」といわれるのは、イエスさまを通して、わたしたちには神さまが呼びかけている、呼びかけが届いているということなのです。イエスさまを通してわたしに呼びかけが届いていることを確認して、信じるのではありません。イエスさまの呼びかけが届いていることが、真実、信仰なのです。その真実にふれたものは、イエスさまの真実とひとつになります。だから、もはやわたしが信じるのではなく、キリストがわたしのなかで信じるのだといえるでしょう。どうしたら信じられるか、どうしたら呼びかけに応えられるかではなく、何処までもイエスさまから逃げようとする、この逃げるわたしを追いかけてきて決して離さないというイエスさまの真実があり、わたしたちはそのことを知らされる、気づかされるということなのです。もったいないかもしれませんが、真の信仰をいただくと、イエスさまとわたしはひとつです。わたしがどこへ行こうとも、どこに隠れようとも、イエスさまはついて来られます。パウロはそのことを「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです(ガラ2:20)」といいました。この気づきがないなら、洗礼を受けようと、何度ミサに参加しようと、何度聖体を頂こうとも、わたしたちはイエスさまがわからないままです。何と無駄なキリスト者の人生を過ごしていることでしょうか。わたしたちは、頑張って努力して神の子になるのではありません。まして、洗礼を受けた人だけが神の子になるのでもありません。わたしたちは神の子であることに気づかされたから、洗礼を受けたのにすぎないのです。そこを決して勘違いをしてはならないのです。

実に、今日の第2朗読でいわれているとおりです。「神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく、御自身の計画と恵みによるのです。この恵みは、永遠の昔にキリスト・イエスにおいてわたしたちのために与えられ、今や、わたしたちの救い主キリスト・イエスの出現によって明らかにされたものです(Ⅱテモテ1:9,10)」。イエスさまによってすでに明らかにされた真実、生かされているという真実が先にあるのです。わたしたちはそのことに気づかせていただくことがすべてなのです。そして、その真実のことばは、生きとし生けるものを通して、わたしたちに届いているのです。その真実のことばを、わたしたちは聞かなければならないのです。

四旬節第1主日の福音と勧めのことば

♰主の平和 

四旬節に入りました。

豊かなみことばに養われながら、心豊かな四旬節となりますように。

トルコ・シリアの被災地のため、またウクライナのために祈りつつ。

■2023年四旬節教皇メッセージ「四旬節の禁欲と、シノドスの歩み」

https://www.cbcj.catholic.jp/2023/02/24/26555/

■京都教区時報3月号

教区のHPにも掲載されています。冊子は聖堂後ろに置いてあります。https://kyoto.catholic.jp/jihou/544.pdf

■故・村上神父さまの動画公開のお知らせ

昨年度の京都教区聖書講座の動画が公開されています。

■「トルコ南東部地震救援」

募金箱をミサの時に聖堂に置きます。お寄せいただいた募金はカリタスジャパンを通して被災地域で行われる救援活動のために活用されます。

■「毎日のミサ」の冊子の年間購読

継続して購読の方も新規に購読の方も2月末日までにお申し込みください。年間購読料は4600円です。

■黙想会のご案内(先週のメールにチラシ添付)

日時:3月9日㊍14:00~17:00 

場所:望洋庵(西陣教会内)

講師:阿部仲麻呂神父様(サレジオ会)

テーマ:「キリストとともに」 

対象:洛北ブロックの信徒どなたでも(要申込)

申込締切日:2月28日(望洋庵まで)

■京都みんなで捧げるミサ 

https://www.youtube.com/channel/UCcpBMMVYqIT3-LkUVGgNFsQ

■四旬節第1主日のミサ 

■今後のミサ予定

地区別ミサは、今週が最後です。3月5日㊐より全地区合同のミサに戻りますので、ミサは日曜日10時半の1回だけになります。土曜日のミサはなくなります。今までと同様、第2日曜日のミサはありません。

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マタイによる福音(マタイ4章1~11節)

[そのとき、]イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。

「『人はパンだけで生きるものではない。

神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』

と書いてある。」次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。

『神があなたのために天使たちに命じると、

あなたの足が石に打ち当たることのないように、

天使たちは手であなたを支える』

と書いてある。」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。

『あなたの神である主を拝み、

ただ主に仕えよ』

と書いてある。」そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。

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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗

四旬節に入りました。今日読まれる箇所は、ヨルダン川で洗礼を受けられたイエスさまが、霊に導かれて、荒野に滞在される出来事が語られていきます。荒れ野というと、わたしたちはいろいろなイメージをもつと思いますが、日本で荒れ野というと、荒れ果てた土地のことや休耕田などを考えるかもしれません。しかし、イスラエル地方での荒れ野は、まったくいのちを寄せ付けない、人が一度迷い込んでしまうといのちさえ危機に晒され、死と向き合わなければならなくなるような不毛の土地をさしています。そのような荒れ野は、わたしがわたしであると思っているような些末なこと、こだわり、大切にしていること、社会的な地位・役割、家族的な役割、宗教などもすべて役に立たなくなる世界です。

 わたしたちは通常、社会の中で生きているとき、わたしがわたしであるということを、他者との関わりの中で認識して生きています。親であるとか、子であるとか、夫婦、兄弟姉妹といった血縁関係とか、会社では上司・部下、同僚とか、地域ではお隣さんとか、学校では教師・生徒とか、教会では信徒・司祭、司教とか、役員・部代表とか、また性別とか、出身地とか、などです。つまり、わたしたちは自分の住民票に書いてあったり、免許書やパスポートに書いてあったり、名刺に書いてある役職や名前が自分であると思って生きています。しかし、荒れ野というところは、そのような自分、つまり自分が自分だと思っていることが何も通用しなくなるところなのです。通常、わたしたちは、立場だとか、役割だとか、身分だとか、名前だとかが自分であると思って生きています。しかし、それが通用しないところが荒れ野です。イエスさまが、霊によって導かれていかれたところは、そのような場なのです。ですから、そこではイエスさまも神の子であるということが通用しません。

そこで悪魔は「あなたが神の子ならば…」といって誘惑してくるのです。悪魔というと悪いものというイメージがあるかもしれませんが、その本質は「誘惑するもの」です。つまり、わたしたちが自分のことを何ものかと思っている、そのところを突いてくるものだといえるでしょう。荒れ野での滞在を、悪魔の試練のように思われていますが、そうではなく、わたしは一体何ものかが問われる場であるといったらいいでしょう。それが荒れ野なのです。あなたは自分のことを、○○だと思っているかもしれないけれど、それは本当にそうですかということが問われているといえばいいでしょう。この○○には、わたしたちのありとあらゆる、立場、役職、身分、性別、名前などが当てはまります。

 

今日の第1朗読では、創世記から人間の創造が描かれています(創世記2章)。そこで、神さまは人間を土の塵で形作って、その鼻にいのちの息を吹き込まれたと描かれています。まったく寓意的な話であると思われるかもしれませんが、あながち作り話でもないのです。この地球のありとあらゆるものを構成する要素は、酸素、ケイ素、鉄、アルミニウム、リン、カルシウム、マグネシウム、カリウム、ナトリウム、水素などであり、それはさらに細かい素粒子、クオークによって作られています。その最小の構成要素のその時々の集合体のひとつが人間であり、わたしなのです。ですから、わたしがわたしだと思っているようなもの、意識というようなものは、わたしが誕生してから出来たものに過ぎません。わたしが誕生する前に世界はすでにあったのです。

考えてみると、わたしが生まれたときに、わたしなどという意識はありませんし、わたし自身の始まりなどわたしではわかりません。少なくとも親は知っていたかもしれませんが、わたしは何もわかりません。だれも、「俺は、今生まれるんだ」などと確信して生まれてくるということはないのです。すでに、わたしより先なるものがあったということです。そして、わたしより先にあったものに、わたしという自意識ができてきたわけです。わたしが意識したときにわたしが始まったのではなくて、わたしの意識より、先にあるものがあるのです。人間は、意識が生じた瞬間にわたしの意識より先にあったものを、わたしの意識下にあるようにしていく、つまり、自分がそれを支配しているように思うのですが、自意識を超えたものが、絶えずわたしの根底にあるということなのです。それを錯覚して、わたしの意識の世界がすべてだと思い、それを自分の力の統制下におこうとします。これが、自分本位の世界、自己中心性を形作っていくのです。

それに対して創世記は、わたしを形作っているものは、わたしの中にあり、またわたしの外にもある土の泥(素粒子、クオーク)であって、それをわたしはわたしであるといっているだけにすぎないのだといいます。わたしの自意識の根底には、少しも変わることがないわたしを超えたものがあり、それが土の塵の集合体に吹き込まれたいのちの息であり、わたしたちはわかってもわからなくてもそのいのちがわたしを支えているのだといいます。わたしたちがするべきことは、そのいのちに己をまかせることです。それがなかなかわからないで、そのいのちの中で迷い、善悪を決めて、区別したり、幸不幸を作り出したりしているのです。わたしたちはいのちに抱かれているのにも関わらず、そのいのちに抗い、暴れまわっているのです。

四旬節は、霊がわたしたちを荒れ野へといざなう恵みのときです。そこでは、わたしがわたしであると思い込んでいるものが解体されていきます。そうすると、今までわたしだと思い込んでいたわたし、わたしたちのありとあらゆる立場、役職、身分、性別、名前が解体されていきます。そして、そこにある根源的いのちと出会うこと、これが宗教です。わたしがわたしのことをわかって、イエスさまと出会うのではありません。自分が解体されることで、わたしたちはイエスさまと出会うのであり、そのときわたしは根源的にわたし自身に出会うことになるのです。この四旬節、わたしたちは霊の導きに従って歩めるように祈りましょう。

年間第7主日の福音と勧めのことば

♰主の平和 

22日は灰の水曜日で、いよいよ四旬節が始まります。

■カリタスジャパンは「トルコ南東部地震救援」募金の受付を開始しました。高野教会でもミサの際に募金箱を置きます。お寄せいただいた募金はカリタスジャパンを通して被災地域で行われる救援活動のために活用されます。個人でも直接募金ができます。カリタスジャパンのウェブサイトをご覧ください。

https://www.caritas.jp/2023/02/10/6084/

■「毎日のミサ」の冊子の年間購読につきまして

継続して購読の方も、新規に購読の方も、2月末日までにお申し込みください。年間購読料は4600円です。

■黙想会のご案内

日時:3月9日㊍14:00~17:00  場所:望洋庵(西陣教会内)

講師:阿部仲麻呂神父様(サレジオ会) テーマ:「キリストとともに」 

対象:洛北ブロックの信徒どなたでも 申込締切日:2月28日(望洋庵まで)

■京都みんなで捧げるミサ 

https://www.youtube.com/channel/UCcpBMMVYqIT3-LkUVGgNFsQ

■年間第7主日のミサ 

■今後のミサ予定 

2月

19日㊐ BD地区 年間第7主日のミサ   10:30

25日㊏ BD地区 四旬節第1主日のミサ  10:30

26日㊐ AC地区 四旬節第1主日のミサ  10:30

3月5日㊐より全地区合同のミサに戻りますので、ミサは日曜日10時半の1回だけになります。土曜日のミサはなくなります。

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福音朗読 マタイによる福音(マタイ5章38~48節)

[そのとき、イエスは弟子たちに言われた。]「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。

あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」

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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日はイエスさまの宣教される神の国の内実が説かれていきます。イエスさまが弟子たちに、「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ」といわれた義の内容でもあります。今日、イエスさまは弟子たちに、一見不可能と思われる行動を求められます。「右の頬を打つものには、左の頬を向け」「下着を取るものには、上着を与え」「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ」といわれます。キリスト教の中では、これこそが敵への愛であると教え、そのような英雄的な愛を実行した人を聖人としてあがめて、そのような愛を実践することを理想としてきました。確かに、それは立派なことなのですが、これをキリスト教の根本的な教えとして教え、その生き方を推奨するならば、キリスト教は一部の人たちの教えとなってしまいます。それなら、律法を必死で守って実行しようとした律法学者やファリサイ派の人々の義を推し進めた、エリート集団のための教えになってしまうのではないでしょうか。確かに、そのように生きることができる人たちもいるでしょう。コルベ神父やマザーテレサなどはそうなのでしょうが、これがキリスト者の模範で、このように生きるように教えるのがキリスト教なら、すべての人が生きられるでしょうか。キリスト教は、すべての人のためのものであるはずです。

このマタイ5章は、最初に書かれたマルコ福音にはほとんど並行箇所がありません。つまり、どちらかといえば、この箇所はマタイの教会の教えであるといっていいのではないかと思います。マタイ福音書は、おもにユダヤ教からキリスト者に改宗した人々に対して、旧約聖書をふんだんに引用して、わかりやすくイエスさまの福音を説こうとしたものです。しかし、問題点もあります。イエスさまの神の国の福音を正しく理解することができなかった人たちが、イエスさまの福音をユダヤ化、律法化したという問題があるということです。このような律法主義的な傾向に対して、パウロは生涯戦っています。  

マタイ福音書での書き方では、「あなたがたは、隣人を愛し、敵を憎めと律法では教えられてきた」しかし「わたしはいっておく。敵を愛し、自分を迫害するもののために祈りなさい」というように、最初にイエスさまの命令、要求が来ます。そして、その目的、理由が描かれます。それは「あなたがたの天の父の子となるためである」と。そして、その根拠として、天の父の完全性「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」と続きます。これを読んだ多くの人は、あなたがたは頑張って善い人になりなさい。そうすれば天の父の子にしてもらえて、救われるんですよと読んでしまいます。これだけなら、律法を一生懸命守って、神さまに嘉せられると考えた律法学者やファリサイ派の人々と何ら変わりません。敵への愛、犠牲的な愛を実践したイエスさまによって、正義のハードルが高くなったとしか理解できません。たぶん、教会もそのように教えてきたでしょうし、それを実践した人を聖人に列聖し、キリスト者の模範であるといってきたように思います。それはそうかもしれませんが、イエスさまがここで話しかけておられる人々は、本当に貧しい人、小さくされた人、今日一日の生活の糧にもこと欠く人、治ることのない病を負った病人たちです。イエスさまの話を聞くために集まってきた彼らに、イエスさまがそんなことを要求されとは思えません。しんどいときには、そんなこといわれても誰もできないのです。本当にしんどいとき、頑張りなさいとか、祈りなさいといわれても、祈ることさえできないのです。イエスさまの神の国の福音は、よい知らせなのですから、人々にとって喜びであったはずです。犠牲的な英雄的な愛を命令して、それを実践して喜べというのでは、無理があります。

最初に書かれたマルコ福音書を見ていくと、イエスさまは病人や悪霊に憑かれた人を癒し、貧しさに喘ぎ苦しむ人々を心にかけ、どれだけ教えても理解しようとしない無理解な弟子たちにどこまでも寄り添っていかれました。イエスさまが説かれた神の国というものは、イディオロギーとか、新しい倫理観、まして新しい律法ではなく、神さまと人間、世界、宇宙との本来の関わり、真実の姿です。それが、「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」ということばにはっきりと現されています。

イエスさまが来られたのは、「貧しい人に福音を、捕らわれ人に解放を告げるため」であって、ユダヤ教に代わる新しいキリスト教という宗教を教えるために来られたのではありません。イエスさまが告げ知らされたのは、「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」、何ものをも区別、差別しない絶対平等の真理である真実の世界、神の国の働きによって、わたしたちは生かされているということなのです。だから、わたしたちは皆等しく神の子等であり、あなたがたは兄弟姉妹です。それなのに、なぜ争い、憎みあい、殺し合うのか。自分たちのありのままの姿を見なさいということだったと思います。ですから、順番がまったく違うのです。わたしが頑張って、善行をして、神の子になって、神の国に入るのではなく、あなたがたは同じ大きないのちで生かされている子等、兄弟姉妹である。その本来のいのちのあり方が神の国といわれて、神の国がわたしたちを生かし、働いている。わたしが主語で神の方に行くのではなく、神が主語でわたしの方に来られるのです。わたしたちが神の国へ入るのではなく、神の国がわたしたちを包み込んでいる、包み込んでいくということなのです。ですから、わたしたちはどれだけ頑張って、反対のことをやってもうまくはずがありません。それは人間の自力だからです。

イエスさまの神の国の福音を理解できない人たちが、人間が考えた正義でもって、善いことをして頑張って徳を積んで、神さまと駆け引きをしているだけであって、これではイエスさまの福音を何も理解したことになりません。そのこと知らせるために、イエスさまはこの世界に来られたとき、もっとも貧しいもの、もっとも弱いもの、もっとも蔑まれたもののところへ行って寄り添われました。しかも、ただ行って寄り添うだけではなく、自らがその身になってしまわれました。自らがもっとも貧しいもの、弱いもの、愚かなもの、救われ難いもの、呪われたもの、最後のものとなって神の国の真実を証していかれたのです。それがイエスさまの生涯、そして十字架です。

この神の国の働きにわたしたちが己の身を委ねること、これを信仰というのです。しかし、わたしたちが己の身を委ねるのではありません。わたしが己の身を委ねることができるのは、わたしたちに神の国の力が働いているからなのです。わたしの力によるのではありません。これが神の国というものであり、イエスさまがわたしたちに告げ知らせた福音、よい知らせなのです。そして、イエスさまがそのような福音を告げ知らせないではおられなかったのは、イエスさまご自身が神の国の真実に触れ、またイエスさまご自身が神の国の真実そのものであり、その真実は愛であり喜びでしかなかったからなのです。

わたしたちは、今日の福音を本当に正しく聞いていかなければならないと思います。決して、自分のわかるように捉えてはならないのです。イエスさまのわたしへの大いなる働きとして捉えなければならないのです。

年間第6主日の福音と勧めのことば

♰主の平和 

2月11日はルルドの聖母の祝日で、「世界病者の日」です。この日は、全世界の病気で苦しんでいる方に、ふさわしい援助の手がさしのべられるように祈るとともに、病気の人自身が、苦しみの意味をよく受け止めることができるように、奨められています。(女子パウロ会ラウダーテ参照)

ご病気の方々のために、心を合わせてお祈りします。

■2023年「第31回世界病者の日」教皇メッセージ

https://www.cbcj.catholic.jp/2023/01/24/26328/

■ライムンド 出水洋神学生 助祭叙階式のお知らせ

3月21日(火・祝)10時 河原町教会

https://www.kyoto-catholic.net/_files/ugd/8117f0_f9661dc0670e46dfb3ecb842fdb5fe77.pdf

■「教区高校生会春の集い」のご案内

3月31日(金)14~17時 桃山教会

https://www.kyoto-catholic.net/_files/ugd/8117f0_c881c4ab8bdc425e86abe9e24238aa90.pdf

■京都みんなで捧げるミサ 

https://www.youtube.com/channel/UCcpBMMVYqIT3-LkUVGgNFsQ

■年間第6主日のミサ 

■今後のミサ予定 

2月

12日㊐ 第2週につきミサはありません

18日㊏ AC地区 年間第7主日のミサ   10:30

19日㊐ BD地区 年間第7主日のミサ   10:30

25日㊏ BD地区 四旬節第1主日のミサ  10:30

26日㊐ AC地区 四旬節第1主日のミサ  10:30

地区分け

A地区―下鴨、北区、左京区以外の京都市、京都市以外

B地区―高野、田中、北白川、聖護院、浄土寺、吉田、NDシスター

C地区―松ヶ崎、修学院、山端、一乗寺     

D地区―岩倉、上高野、静市、鞍馬、八瀬、大原

ミサ中の先唱、朗読、共同祈願、歌唱などの奉仕をしてくださる方は、どうぞ積極的にお申し出ください。

ミサ参加後2日以内に新型コロナの感染が発覚された方は高野教会の感染専用のメールアドレスにまたは留守番電話にご連絡ください。

感染防止対策の上、基本的にはご自分の地区のミサに与ってください。

また、どの教会も人数制限などの措置を行っていますのでご注意ください。

京都教区では、主日・守るべき祝日のミサにあずかる義務は免除されています。

体調に不安のある方は、ご自宅でお祈りください。

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福音朗読 マタイによる福音(マタイ5章17~37節)

 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕

「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、 あなたがたは決して天の国に入ることができない。

あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。

 あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。

『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。

 また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。

 天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」

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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日、イエスさまは「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファイリサイ派の人々の義にまさっていなければ」といわれます。それでは、律法学者やファイリサイ派の人々の義とは一体どのようなものでしょうか。イエスさまの話は「あなたがたも聞いているとおり」で始まり、「しかし、わたしは言っておく」というスタイルになっています。それは、旧約の律法ではこのように教えているけれど、わたしはこういいますといういい方です。それで、今日の箇所を見ると「殺してはならない」「姦淫してはならない」「偽証してはならない」などという十戒の教えが説かれていきます。十戒の教えは、「目には目を、歯には歯を」でよく知られた同害報復法のハムラビ法典に影響を受けているといわれています。ハムラビ法典は、社会秩序と人間のいのちを守るために、為された行為に対して等価の償いを規定した古代の人間社会の法規です。ハムラビ法典等は、お互いが必要以上の復讐などに発展しないようにするための人間の知恵でもあったわけです。これが一般的な人間社会の正義であり、ユダヤの律法や十戒はその人間の正義をより宗教化し、神法化したものなのです。

しかし、ここでいわれている人間の正義は、どこまでいっても報復的正義、配分的正義であり、わたしたちの今の社会もその正義で成り立っているということができます。つまり、強者がのさばったり、弱者がやられっぱなしになったりしないようにバランスをとるということです。罪を犯したら罰を受ける、また反省する、罪につり合った償いを受けさせるという考え方です。その考え方は勧善懲悪、因果応報という考え方にもなり、多くの宗教がその倫理観にもとづいて教えを説いています。ですから、頑張れば報われる、努力すれば認められるが怠ければ報われない、という非常に単純な考え方等もその典型です。しかし、これはどこまでいっても、人間の頭、理性で考えた正義であって、これが律法学者、ファリサイ人の義であるということです。人間には非常に分かりやすいいし、誰もが受け入れやすい考え方、教えです。

しかし、イエスさまは「あなたがたの義がファイリサイ派の人々の義にまさっていなければ」といわれました。これは一見すると、イエスさまがもっと崇高な、超人的、超自然的な正義観、倫理観を弟子たちに求めておられるかのように聞こえます。「右の頬を打たれたら、左の頬をも向けなさい」的な教えです。イエスさまは、わたしたちに律法学者やファイリサイ派の人々より立派な人になれといわれたのでしょうか。いいえ、イエスさまは、あなたがたは律法学者やファリサイ人より、さらに上の正義を目指しなさいといわれたのではないのです。わたしたち人間の考える正義とは、所詮は人間の頭で考えられる理屈で納得できるような正義なのですが、神の国の正義、イエスさまがいわれる義とは、人間の側からのすべての理由や意味づけなど、まったく及ばないものだということなのです。どういうことでしょう。

パウロはローマの教会の手紙のなかで次のように書いています。「律法が入り込んできたのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました(ロマ5:20)」。パウロは人間の考えでは、罪が増し加われば、それなりに罰も償いも重くなる。しかし恵みの世界では、罪が増し加われば、神の恵みはなおいっそう満ちあふれるのだといいます。これが、神の国の正義なのです。わたしたちは何度となく、このパウロのことばを聞いているかもしれません。しかし、いくら聞いていても、どうしても人間の正義、理屈と合いません。わたしたちは、頑張ればそれなりに認められたいし、悪いことをした人は罰を受けて当然だと思っています。自分の嫌いな、また自分や自分の大切な人を害する人が罰せられることもなく、救わるなどということは、わたしたちは到底受け入れられないのです。また、神さまがいらっしゃるのに、どうしてこんなに悪い酷いことが起こるのかと考えてしまいます。しかし、イエスさまの考え方、神の国の正義は、わたしたちの考えとまったく違っているのです。神の国の正義は永遠の絶対平等性であり、わたしたちはそれを愛と呼んでいます。それは、頑張ったものは報われて、悪いことをした人は罰せられるというようなことがまったく関係ない世界なのです。わたしたちは、やはり頑張った人はほめられて、悪い人は自業自得だと思いたい、その考え方がまったく通用しないのが、イエスさまの正義なのです。だからわたしたちの頭で理解できるはずがありません。

神のみことばは、人間の理屈や皆が納得する話しではないのです。よく、今日のお話はよかったという人がいますが、それは自分が聞いて理解できて、都合がよくて納得したという意味であって、必ずしもイエスさまのことばを聞いているわけではありません。あるいは、お話があんまりにも勧善懲悪的な考え方に偏っていたか、努力して辛抱して頑張りましょう、それがキリスト者の生き方ですよというような表面的な話だったからではないでしょうか。むしろ、今日のお話は難しかったという方がいいのです。もし、よくわかったというのであれば、それは人間界での話であったということなのです。

そもそも神のことばは、人間の理屈が通用しない世界のことを、人間のことばを通して伝えているものです。説教や勧めのことばも、人間のことばを通して、如何なる人間の理屈も通用しない神の世界の真実を伝えるものでしかないのです。だからお話を聞くときに、ことばや理屈だけを聞いているとしたら、それでは神のことばを聞いたことにはなりません。人間のことばとして現れてくださったイエスさまのことばを聞くことが、本当に聞くということです。自分たちに心地よい納得するいいお話を聞いているだけならだめなんです。まして、そのような話し方をするのはもっとだめなのです。

ですから律法学者やファイリサイ派の人々にまさった義というのは、彼らの正義の捉え方の延長線上にあるより立派な正義ではなくて、人間の正義という物差しをまったく超えた義、まったく人間の理由や理屈が通用しない神さまの正義のことなのです。わたしは、なぜイエスさまから愛されているのかを考えてみてください。それは、わたしがイエスさまの愛にふさわしいからではありません。わたしがふさわしいから、愛してもらうと考えるなら人間の正義の捉え方です。イエスさまが愛するとき、与えるとき、ゆるすとき、理由などないのです。それはあたかも水か高いところから低いところに流れるように、ただ愛はそういうものだということなのです。わたしたちは、たとえこの世でどれだけ修行を積んで立派な人間になったところで、宇宙の中では西も東もわからない赤ん坊のようなものです。自分の生死という一大事を前にしたら、わたしたちはみんな赤ん坊です。わたしが生きている理由も死んでいく理由もありません。ただ生きていく、そして死んでいく。理由などありません。生きるということは、自分で考えてどうこうなることではないのです。

本当のいのちの世界は、わたしたちが考える自分と他人の区別がなくなった世界、生と死がなくなった世界です。ですから神の国は、そのようないろいろな区別、隔てがなくなった透明な世界のことを指しています。イエスさまはそのことを、真の義といわれました。自他、生死のある世界は、やはり暗い苦しみの世界でしかありません。自分さえよかったらいいとか、他人のことは知らないとか、いつまでも生きたいとか、そうすると自分が病気になったり、老いたり、死ぬことは悪になります。これは苦しみの世界です。それが人間の考える正義、理屈なのです。しかし、わたしたちはもっと大きないのちそのものに生かされているのです。にもかかわらず、わたしたちは人間の正義という小さな枠組みの中に閉じこもっていることに気づかないでいるのです。人間の正義が全く通用しない大きな正義、愛といってもいい、そのような大きないのちが、この小さなわたしを生かしているのです。それが神さまの義、神の国なのです。

年間第5主日の福音と勧めのことば

♰主の平和 

暦の上では春ですが、寒い毎日です。どうぞご自愛ください。

■今年8月にワールドユースデーがポルトガルのリスボンで開催されます。京都教区は公式日本巡礼団に参加し、5名の参加者を募集します。募集期間は2月下旬から4月20日までです。参加希望者は400字程度の参加理由を添えて、教区本部事務局まで申し込んでください。対象は18~35歳です。

https://www.kyoto-catholic.net/_files/ugd/8117f0_ab10fee0bbfe4a0db3b13de7e1e541b2.pdf

■従来の侍者合宿に代わる研修会「ミサを学ぶⅡ―ミサ、あなたとともに」が、3月25日に開催されます。新5年生以上新中学3年生までが対象で、定員は50名先着順です。教会でまとめて申し込みますので、教育部までお申し込みください。

https://www.kyoto-catholic.net/_files/ugd/8117f0_044a443508034db1998c4b40cba88c9c.pdf

■京都教区時報2月号が発行されました。冊子は聖堂後ろに置いてありますのでお持ち帰りください。

https://kyoto.catholic.jp/jihou/543.pdf

■衣笠墓苑参道 車両通行止めについて 京都司教区本部事務局より 

2月6日(月)は大雪のために作業ができなかった樹木伐採のため、墓苑参道は全面通行止めとなります。ご理解ください。

■京都みんなで捧げるミサ 

https://www.youtube.com/channel/UCcpBMMVYqIT3-LkUVGgNFsQ

■年間第5主日のミサ 

■今後のミサ予定 

2月   

5日㊐ AC地区 年間第5主日のミサ   10:30 

11日㊏ 第2週につきミサはありません

12日㊐ 第2週につきミサはありません

18日㊏ AC地区 年間第7主日のミサ   10:30

19日㊐ BD地区 年間第7主日のミサ   10:30

25日㊏ BD地区 四旬節第1主日のミサ  10:30

26日㊐ AC地区 四旬節第1主日のミサ  10:30

地区分け

A地区―下鴨、北区、左京区以外の京都市、京都市以外

B地区―高野、田中、北白川、聖護院、浄土寺、吉田、NDシスター

C地区―松ヶ崎、修学院、山端、一乗寺     

D地区―岩倉、上高野、静市、鞍馬、八瀬、大原

ミサ中の先唱、朗読、共同祈願、歌唱などの奉仕をしてくださる方は、どうぞ積極的にお申し出ください。

ミサ参加後2日以内に新型コロナの感染が発覚された方は高野教会の感染専用のメールアドレスにまたは留守番電話にご連絡ください。

感染防止対策の上、基本的にはご自分の地区のミサに与ってください。

また、どの教会も人数制限などの措置を行っていますのでご注意ください。

京都教区では、主日・守るべき祝日のミサにあずかる義務は免除されています。

体調に不安のある方は、ご自宅でお祈りください。

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福音朗読 マタイによる福音(マタイ5章13~16節)

[そのとき、イエスは弟子たちに言われた。]

「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」

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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の福音では、「あなたがたは地の塩、世の光である」と言われています。今日の箇所で大切なことは、イエスさまは「あなたがたは地の塩、世の光である」と言われたのであって、「あなたがたは地の塩、世の光になりなさい」と言われたのではないということです。多くの場合、わたしたちは聖書のいろいろな箇所を読むとき、それをイエスさまからの命令、掟、「○○しなさい」、あるいは「○○になりなさい」というように読んでしまっているということです。確かに、聖書の中で「○○しなさい」という箇所もあるのですが、そうするとイエスさまの教えというものは、道徳的な規範や掟を指示したということになってしまいます。道徳を教えるだけであれば、いろいろな時代の偉人たちの教えもあり、旧約聖書の律法だけでも充分なはずです。イエスさまが教えたことは、道徳や人の道ではないのです。今日の箇所も間違って読むと、あなたがたは頑張って地の塩、世の光になりなさい。そうしてあなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。そうすれば、人々はあなたがたの立派な行いを見て、神さまをあがめて、人々が教会に来るでしょう、といった間違った自己中心的な宣教観をもってしまうことになります。その時点で、教会は慈善団体かNPO法人になってしまい、宗教ではなくなってしまいます。

イエスさまが言われたのは、あなたがたは自分の力で頑張って世の光になれ、地の塩になれ、人々の模範になれ、社会貢献しなさいと言われたのではありません。そのようことは、実はイエスさまとの関わりを深めていけば、わたしが世の光、地の塩になるなんてことは間違ってもあり得ないことが知らされてきます。なぜなら、イエスさまと出会えば、わたしたちが自分の心を運んで、イエスさまの方に近づこうとすることそのものが迷いなのだということが知らされてくるからです。いろいろな努力や修行をして自分の心を何とかしていこうというのは迷い、罪の中で最たるものなのです。方向がまるで違うのです。わたしが世の光、地の塩になるのではなく、世の光、地の塩であるイエスさまご自身が、わたしに現れてくることを宣教というのです。イエスさまがわたしの中で働かれることが宣教であって、わたしが自分の心をどうにかしようと思っていることが間違いなのです。その間違いに気づくときに、ふっとわたしの中でイエスさまが働いて、光を輝かせてくださる、塩味をきかせてくださるということなのです。宣教といいながら、わたしというものがあったらそれは自我の匂いがした、バター臭いものになってしまい、イエスさまの何も伝わりません。

「伝わるはよし、伝えんとするは悪し」ということばがありますが、光は自ずから自然と周りを照らしていきます。『「山の上にある町は、隠れることができない」、「ともしびは、燭台の上に置く」。そうすれば、家の中のものをすべて照らすのである』、というときの「そうすれば」は恣意的な結果を誘導することばではなく、「自ずから」という意味です。光は、頑張って周りを照らしてやろうとかいうような、自分の匂い、はからいがありません。「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」と訳されている言葉は不正確な訳であって、本来は「あなたがたの光が人々の前で輝くようにせよ」という意味であって、わたし個人の恣意的な働きを命じるものではなく、わたしに与えられている光そのもののもつ自ずからの働きを発揮させなさいという意味なのです。わたしたちはその働きを妨げないようにということなのです。

イエスさまは「あなたがたは、頑張って、努力して、地の塩、世の光になりなさい。そして、頑張って神の国を言い広めなさい」と言われたのではありません。そうではなく、「あなたがたは気づいていないかもしれないけれど、あなたがたは地の塩、世の光になっている。あなたがいるというそのことだけで、あなたの存在は他の人を生かし、光となっている。あなたは他の人、この世界、この宇宙のためになっている。同じように他の人々も、他のいのちもそうだ。そして、あなたも他の人から生かされ、光を受けているのだ」という意味なのです。このようなわたしたちとこの世界の、この宇宙とのあり方をイエスさまは伝えようとされたのです。塩を塩足らしめているのは、塩味を感じるものです。塩味を感じるものがあってはじめて、塩は世の塩となるのです。光を光足らしめているものは、光を受けるもの、光によって照らされるものによってです。光を感じるものがあってはじめて、光は世の光となるのです。この世界で何も自分ひとりだけで存在しているものはありません。すべては、お互いの繋がりの中に生きているということなのです。

わたしたち人間も、自分ひとりだけで生きていくことはできません。わたしの体内にいる何十兆個の細菌やウイルス、空気、水、光、ありとあらゆる物質を構成する素粒子等を排除し、「わたしが」と意識している存在だけでは生きていくことができないのです。わたしとこの世界はすべて繋がっており、わたしたち人間が勝手に環境と呼んでいる周りすべてのものがわたしを形作っており、環境なしにわたしは存在し得ず、わたし自体が環境、生態系のひとつなのです。そしてこの全宇宙とわたしとは繋がっており、このわたしひとりを生かせるために全力で働いてくれているのです。そのことがはっきりわかると、わたしの中で働いている光も塩味もわたしのものでないことがわかります。そのことに先ずあなたが気づき、わたしたちは生かされている、そしてお互いに生かし合っている、そのことを皆に明らかにしなさいということなのです。その気づきを失わせるものが、「わたしが」という意識であり、その「わたし」という意識が、わたしと「わたしでない」世界とを分け隔ててきているのです。この「わたし」を破る働きが、神の国の福音に他ならないのです。

神の国の福音は難しいことではありません。難しくさせているのはわたしが何とかしようと思うこと、わたしのはからいです。わたしたちが地の塩、世の光にならなければならないと思わなくても、わたしたちはすでにイエスさまの光によって照らされ、塩味をつけられているのです。たとえわたしたちが、照らされている、塩味をつけられていると感じないとしても、確かにわたしたちはイエスさまによって照らされ、塩味をつけられているのです。なぜなら、それはイエスさまの働きであって、わたしたちの思い、感覚とは関係がないからです。そのことを、先ずわたしが気づかなければ、わたしは闇の中に沈んだままです。しかし、そのことに気づき、そのことを味わうときに、光はわたしを通して自ずから広がっていくのです。わたしたちにとって大切なことは、光であるイエスさまによって照らされたままになること、真理であるイエスさまによって塩味をつけられるままになることなのです。

年間第4主日の福音と勧めのことば

♰主の平和 

大雪が続いています。

大雪の降った水曜日の朝、知人が道路で転んで大腿部を骨折されました。

昨夜からの雪が、今朝もたくさん積もりました。

ミサに来られるときは、どうぞご無理のないように、そして転んだりしないように、くれぐれもご注意ください。

■京都教区時報2月号が発行されました。

https://kyoto.catholic.jp/jihou/543.pdf

■1月の最終日曜日は、教皇庁が定められた「世界こども助け合いの日」です。世界中のこどもたちの平和を願い、心と健康が守られますように、皆さまのお祈りと献金をお願いします。

■衣笠墓苑参道 車両通行止めについて 京都司教区本部事務局より 

大雪により当初の予定が延び、1/31(火)まで樹木伐採のため、墓苑参道は一般車両通行止めとなります。​徒歩墓参は可能ですが、足元には注意してください。

■司教年頭書簡 分かち合い募集 京都司教区福音宣教企画室より

『コロナ時代を生きる信仰Ⅲ』―​わたしのシノダリティを創ろう―を読んで気づいたこと、感想などをお寄せください。

https://www.kyoto-catholic.net/%E5%B9%B4%E9%A0%AD%E6%9B%B8%E7%B0%A1-%E5%88%86%E3%81%8B%E3%81%A1%E5%90%88%E3%81%84%E5%8B%9F%E9%9B%86

■京都みんなで捧げるミサ 

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■年間第4主日のミサ 

■今後のミサ予定 

1月

29日㊐ BD地区 年間第4主日のミサ   10:30

2月

4日㊏ BD地区 年間第5主日のミサ   10:30     

5日㊐ AC地区 年間第5主日のミサ   10:30 

11日㊏ 第2週につきミサはありません

12日㊐ 第2週につきミサはありません

18日㊏ AC地区 年間第7主日のミサ   10:30

19日㊐ BD地区 年間第7主日のミサ   10:30

25日㊏ BD地区 四旬節第1主日のミサ  10:30

26日㊐ AC地区 四旬節第1主日のミサ  10:30

地区分け

A地区―下鴨、北区、左京区以外の京都市、京都市以外

B地区―高野、田中、北白川、聖護院、浄土寺、吉田、NDシスター

C地区―松ヶ崎、修学院、山端、一乗寺     

D地区―岩倉、上高野、静市、鞍馬、八瀬、大原

ミサ中の先唱、朗読、共同祈願、歌唱などの奉仕をしてくださる方は、どうぞ積極的にお申し出ください。

ミサ参加後2日以内に新型コロナの感染が発覚された方は高野教会の感染専用のメールアドレスにまたは留守番電話にご連絡ください。

感染防止対策の上、基本的にはご自分の地区のミサに与ってください。

また、どの教会も人数制限などの措置を行っていますのでご注意ください。

京都教区では、主日・守るべき祝日のミサにあずかる義務は免除されています。

体調に不安のある方は、ご自宅でお祈りください。

************************************

マタイによる福音(マタイ5章1~12a節)

[そのとき、]イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。

「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。

悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。

柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。

義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。

憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。

心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。

平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。

義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。

わたしのためにののしられ、迫害され、 身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。」

************************************

<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の聖書の箇所は真福八端といわれる有名な箇所です。あまりにもよく知られた箇所ですが、最初に書かれたマルコ福音書に並行箇所はなく、イエスさまに由来しているとはいえ、マタイ共同体の教えを編集したものであると考えるのが一般的だと思います。マタイ福音書の特徴は、「あなたがたも聞いているとおり、○○と命じられている。しかし、わたしはあなたがたに言う」というように、イエスさまを新しい律法の制定者と描いていることにあります。しかし、イエスさまは律法を守る守らないということで、人を区別し差別するような当時のユダヤ教のあり方に異議申し立てをしていかれました。それゆえに律法の違反者として、十字架刑に送られてしまいます。それにも関わらず、イエスさまを新しい律法の制定者として描くことには違和感があります。ですから、マタイ共同体の固有の状況が強く影響していると考えるのが妥当でしょう。マタイ福音書の特徴の「あなたがたも聞いているとおり、○○と命じられている。しかし、わたしはあなたがたに言う」の言い方がされるのはほぼマタイだけです。

イエスさまの宣教の中心は神の国の告知であって、ユダヤ教の律法に対して新しい律法を制定したり、新しい道徳律を提示したりするような人間的な次元の話ではありません。イエスさまの言われた神の国というものは、人間の努力とか恣意によってどうこうする次元の話ではなく、本来的な神と人との関わり、宇宙や世界とわたしたちの関わり、人と人との関わりにわたしたちを目覚めさせるものであったと言えるでしょう。つまり、すでにわたしたちが生かされてあるところの世界の本質について、イエスさまは語られたのだということです。ですから、神の国は、イエスさまの弟子たちへの命令ですらありません。マタイもルカも省いていますが、マルコは神の国を成長する種として譬えています(4:26)。そこで、神の国は、「ひとりでに」「おのずから」成長していくいのちのダイナミズムとして描かれています。そして、イエスさまはご自分の存在をもって、神の国を体現されていかれます。

わたしたち人間の最大の勘違いは、この世界のすべてを人間が理解し、支配し、コントロールし、努力してやってきたと思い込んでいることです。しかし、この世界に自分で意識して生まれてきた人はいませんし、頑張って死んでいく人もいません。本来のいのちの世界は、「おのずから」なのです。それに最大限に抵抗して抗っている生命体が人間なのです。その抗いは文明の発展をもたらしたかもしれませんが、同時に多くの人々と動植物の犠牲の上に成り立ってきました。そこで、イエスさまはすべてのものの上に等しく昇る太陽や降り注ぐ雨として、神の国の働きを示されました。しかし、人間はそのことが理解できません。イエスさまとともに生活した弟子たちも、イエスさまが生きておられたとき、イエスさまのことを何も理解していませんでした。その様子が、福音書の中には赤裸々に描かれていきます。むしろイエスさまのことは、イエスさまが亡くなった後、復活したイエスさまと出会ったパウロなどによって、イエスさまの神の国の教えとして再構築されていったと言えばいいでしょう。今まで律法を守ることで自分たちは選ばれ、救われ、神によって嘉せられると何代にもわたって教え込まれてきたユダヤ人が、そう簡単にイエスさまの神の国の教えを受け入れられたとは思えません。その弟子たちを大きく変えた出来事が、復活したイエスさまとの出会いです。それは、イエスさまとの直接体験ともいえる出会いの体験でした。それが何であったかを説明することは簡単ではありません。そこで「聖霊」が働いておられるのですが、わたしたちの努力とか修行とは関係がない、まったく関係ないとは言いませんが、人間の行為の結果ではなく、本来の世界である神の国はそうであるということに気づく体験だったと言えるでしょう。

イエスさまの神の国のメッセージ自体は、人間の概念をまったく超えたものです。ですから、真福八端の箇所もこれを道徳やイエスさまの命令であると捉えてしまうと、何も分からなくなります。多くの場合は、努力して修行をして、心の貧しい人になれ、心の清い人になれ、平和を作り出す人になれ、そうすれば神の国に入れるのだと捉えようとします。あるいは、社会貢献して、現代社会を変革していくスローガンとして理解されがちです。マタイ福音書は概してそのように捉えられがちな書き方をするのですが、もちろんそれが大切なのはそうなのですが、神の国の本質はそうではないのです。一般的に、人間は自分が理解できない出来事や事象に直面するとき、そのことをそのまま受け取るのではなく、自分流に解釈しようとします。つまり、自分が納得できるように、物事を解釈し変換しようとします。それがときには、その本質の理解を深化させることにもなりますが、本質を歪曲させることも起こります。

ですから、神の国とは何ということを人間に分かりやすく適応させていくことは、当然リスクが伴うわけです。マタイの真福八端の中にはいろんなものが混在していますから、聞いて分かるものもあるし、分からないものもあります。心の貧しい人、悲しむ人、義のために迫害される人は幸いというのは分かならい。しかし、柔和な人、義に受け渇く人、憐れみ深い人、心に清い人、平和のために働く人は幸いというなら分かる。なぜなら、わたしたちはそのような人になることで神の国に入ることができる、あるいはそれは教会の使命だというように捉えると理解できるからです。しかし、イエスさまが言いたかったことは、努力して頑張ってそのような人になれとか、それは教会の使命であると言われたのではありません。そうではなく、神の国に目覚めた人、そのことを自覚した人はそのようになる、それが幸いであると言われたということなのです。ですから、復活されたイエスさまと直接体験をもった人たちは、神の国の真実に目覚め、福音書という時系列のイエス伝がなくても、生き生きとしたイエスさまとの関わりを保つことができ、人と人とがお互い繋がっていました。しかし、世代が下っていくに従って、神の国の直接体験が言語化され、概念化されていきます。このようにして、マタイ福音書はイエスさまが亡くなってほぼ半世紀後に書かれていくのです。そこでは、神の国の直接体験が伝わっていくのが非常に難しくなっていきます。弟子たちも、イエスさまの復活後、聖霊の介入と助けによって、はじめて神の国の現実に目覚めていきました。

ですから、大切なことは、真福八端を読むときにも、これをイエスさまの命令だとか理想として聞くのではなく、わたしたちを存在の根底において生かし、支えている世界としての神の国の真実として受け取っていくということです。わたしたちが頭で理解することが大切なのではなく、聖霊の促しによって、神の国を自分に引き寄せるのではなく、わたしたちが自分を投げ込んでいくというか、それを体感するということでしょう。そうすると、頭で考えて動くのではなく、体がひとりでにわずかですが動き出していきます。それこそが神の国が、場所とか制度とか掟ではなく、わたしたちを生かしているいのちの働き、営みであるということをわたしたちが体験することであり、神の国の意味がおのずからわたしたちに明らかにされていくのではないでしょうか。

年間第3主日の福音と勧めのことば

♰主の平和 

大寒を過ぎ、寒い日が続いています。

今週は今季最強の寒波が襲来するとか。

コロナに加え、インフルエンザもはやっているようです。

どうぞご自愛ください。

■年間第3主日は「神のことばの主日」です。

https://www.cbcj.catholic.jp/2020/01/24/20015/

■1月18日~25日は「キリスト教一致祈祷週間」です。今年のテーマは、「善を行い、正義を追い求めなさい」(イザヤ1・17 参照)です。

https://www.cbcj.catholic.jp/2022/11/22/25911/

■衣笠墓苑参道 車両通行止めについて 京都司教区本部事務局より 

1/23(月)~28(土) の間、樹木伐採の工事車両通行のため、墓苑参道は一般車両通行止めとなります。​徒歩墓参は可能です。

■司教年頭書簡 分かち合い募集 京都司教区福音宣教企画室より

『コロナ時代を生きる信仰Ⅲ』―​わたしのシノダリティを創ろう―を読んで気づいたこと、感想などをお寄せください。

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■京都みんなで捧げるミサ 

https://www.youtube.com/channel/UCcpBMMVYqIT3-LkUVGgNFsQ

■年間第3主日のミサ 

■今後のミサ予定 

1月

22日㊐ AC地区 年間第3主日のミサ   10:30

28日㊏ AC地区 年間第4主日のミサ   10:30

29日㊐ BD地区 年間第4主日のミサ   10:30

2月

4日㊏ BD地区 年間第5主日のミサ   10:30     

5日㊐ AC地区 年間第5主日のミサ   10:30 

11日㊏ 第2週につきミサはありません

12日㊐ 第2週につきミサはありません

18日㊏ AC地区 年間第7主日のミサ   10:30

19日㊐ BD地区 年間第7主日のミサ   10:30

25日㊏ BD地区 四旬節第1主日のミサ  10:30

26日㊐ AC地区 四旬節第1主日のミサ  10:30

地区分け

A地区―下鴨、北区、左京区以外の京都市、京都市以外

B地区―高野、田中、北白川、聖護院、浄土寺、吉田、NDシスター

C地区―松ヶ崎、修学院、山端、一乗寺     

D地区―岩倉、上高野、静市、鞍馬、八瀬、大原

ミサ中の先唱、朗読、共同祈願、歌唱などの奉仕をしてくださる方は、どうぞ積極的にお申し出ください。

ミサ参加後2日以内に新型コロナの感染が発覚された方は高野教会の感染専用のメールアドレスにまたは留守番電話にご連絡ください。

感染防止対策の上、基本的にはご自分の地区のミサに与ってください。

また、どの教会も人数制限などの措置を行っていますのでご注意ください。

京都教区では、主日・守るべき祝日のミサにあずかる義務は免除されています。

体調に不安のある方は、ご自宅でお祈りください。

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福音朗読 マタイによる福音(マタイ4章12~17節)

イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。そして、ナザレを離れ、

ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。

「ゼブルンの地とナフタリの地、

湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、

暗闇に住む民は大きな光を見、

死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」

そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。

************************************

<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の福音は、イエスさまの宣教活動がどのようなものであったかが語られていきます。イエスさまの働きは、イザヤ書を引用して説明されていきます。「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射しこんだ」と。

ゼブルンとナフタリはイスラエルの12部族であり、ガリラヤ湖の西側の地域を支配していました。いわゆるガリラヤ地方のことになります。ソロモン王の死後、イスラエル王国は北王国と南王国に分裂しますが、ゼブルンとナフタリは北王国に属していました。その北王国の首都がサマリアであり、南王国の首都がエルサレムでした。紀元前722年にアッシリアが攻めてきて、北王国は滅ぼされてしまいます。そのとき、南王国は北王国を助けようとしませんでした。その後、ゼブルンとナフタリには異邦人が入植して、同化政策が進められました。ガリラヤ地方は正統なユダヤ教でないとして、エルサレム中心の正統性を主張するユダヤ人から差別され、神の約束と救いから除外されたものと見なされてきました。ローマの植民地時代に入り、ガリラヤ地方はローマ帝国支配に対するテロ活動の温床となりますが、相変わらずガリラヤ地方は、エルサレムのユダヤ人から見れば、神の救いから退けられ、除外された人々、地域と見なされていました。このように、イエスさまが生まれた時代のユダヤ教は、分断、差別、憎しみという状況を抱えていたのです。

おおよそ、すべての宗教が根底に抱えている問題は、差別、区別という問題です。宗教自体が救いということを主張する限り、宗教は差別という問題を避けて通ることはできません。つまり、救いということを取り上げるということは、救われたものと救われないもの、聖なるものと汚れたもの、こちら側とあちら側という区別を作り出していくことになるからです。あなたは救われたと言われることで、自分は救われたのだ、特別なのだという意識を作り出していきます。そして、自分は特別であると思うことが、人々を幸福にすると錯覚していきます。こうなると宗教は麻薬になっていき、人々はそのような宗教に依存していき、また宗教も人々を依存させることで宗教的グループを護持しようとして、様々な教派や教えを作り出していきます。イエスさまの時代のユダヤ教というのはまさにそのような状況でした。

宗教がこのようなものであれば、そこで考えられる救いは勧善懲悪の世界です。その世界では、自分たちのグループに加わり、掟を守り善いことをした人たちは救われ、そうでない人は救われないという教えが中心になっていきます。ユダヤ人のそのような状況のなかで、イエスさまが説かれたことは、一切平等の救いということです。そのことが「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射しこんだ」ということばで現わされていることです。

そこでは、イエスさまの働きが光として表現されています。聖書の中では、神さまやイエスさまの働きが、たびたび太陽や光として説明されています。「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである(マタイ5:45)」。当時の人々にとって、神さまの何ものも区別しない平等な働きを説明するためには、太陽や光のたとえが分かりやすかったのだと思います。確かに、太陽は小さい草花の上にも、大きな樹木の上にも同じように昇ります。この花には光を注いで、この木には光を注がないということはありません。しかし、太陽の光のたとえでは限界があります。太陽の光は、必ず日向と日陰を作り出します。また太陽が当たった部分は明るくなりますが、その裏は陰になります。その意味では太陽の光は、すべてのものに平等ではありません。

イエスさまが光であると言われるとき、その光は日向と日陰、光と影という区別を一切作り出さない無量無碍の光であるということです。つまり、日向と日陰とか、わたしは特別だとか、救われた救われないとか、清い清くないなどといった区別を一切作り出さない、すべてのものをそのまま包み込み、すべての闇、罪、悪をも貫き通し、いかなるものも妨げとならない光であるということです。それが、イエスさまが光である言われるときの意味です。光というより、すべてを照らし包み込み、すべてを浄める働きであるとも言えるでしょう。影を作り出すような有限な光ではありません。

しかし、そうなると救いというものを主張する宗教は、自分の中に本質的に矛盾を抱えてしまうことになります。なぜなら、善悪の線を引いて、善人の方に来ることで救われると教えるのが多くの宗教の実態だからです。そこからはっきりと分かることは、宗教は特定の人たちだけが救われる特別なものだと考えることや、救われるものと救われないものを作り出すこと自体、宗教として間違いであるということです。宗教でありながら、一部の人々の救いを説くとか、自分の救いだけを考えるということ自体あり得ないことだからです。宗教でありながらそのようなことを言った瞬間に、その教えはまやかしになってしまい、その宗教自体が自己矛盾を抱えることとなってしまいます。イエスさまがされたことは、そのような当時の人たちの間違った宗教観、これこれをした人は救われるとか、こうした人たちは救われないといったような差別や区別を作り出してきた誤った救いの概念を打ち砕くということです。

イエスさまの存在自体が、このように善悪の線を弾いて、自分たちは善人の方に入って安心しているような宗教のあり方への根本的な問いかけであったということができます。それは同時に、現代のわたしたち教会のあり方への問いにもなっているのです。イエスさまの登場によって暗闇に光が射しこんだということは、宗教が作り出してきた救いという境界線を破壊し、人間中心の救いの概念から人々を解放したということなのです。イエスさまが宣べ伝えられた神の国の宣教とは、律法を守った人や洗礼を受けた人だけが救われて入る天国のようなものではなく、そのような誤った囚われを破壊する働きであり、誤った救いからの解放であるということができると思います。そして、そのイエスさまの働きが、すべてのものに遍く注がれる光として述べられているのです。

年間第2主日の福音と勧めのことば

♰主の平和 

高野教会を支えてくださっていた方々が、お一人、またお一人と神様のみもとに行かれます。

高野教会がメリノール宣教会によって1938年に創立されてから、多くの神父様やシスターはもちろんのこと、多くの信徒の方々が教会を支えてくださったのだとしみじみ感じます。

そのおかげで教会は今年85周年、15年後には100周年を迎えることになります。

先人たちに感謝し、祈りながら、できることで教会を支えていきたいと思います。

■衣笠墓苑参道 車両通行止めについて 京都司教区本部事務局より 

1/23(月)~28(土) の間、樹木伐採の工事車両通行のため、墓苑参道は一般車両通行止めとなります。​徒歩墓参は可能です。

■名誉教皇ベネディクト十六世追悼ミサ

1月11日11:00 司式・菊地功大司教(東京大司教区) 関口教会にて

■司教年頭書簡 分かち合い募集 京都司教区福音宣教企画室より

『コロナ時代を生きる信仰Ⅲ』―​わたしのシノダリティを創ろう―を読んで気づいたこと、感想などをお寄せください。

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■京都みんなで捧げるミサ 

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■年間第2主日のミサ 

■京都教区青年のための黙想会のご案内/2月4日(土)

お知り合いの青年にお声掛けください。

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■今後のミサ予定 

1月

14日㊏ AC地区 年間第2主日のミサ   10:30

15日㊐ BD地区 年間第2主日のミサ   10:30

21日㊏ BD地区 年間第3主日のミサ   10:30

22日㊐ AC地区 年間第3主日のミサ   10:30

28日㊏ AC地区 年間第4主日のミサ   10:30

29日㊐ BD地区 年間第4主日のミサ   10:30

2月

4日㊏ BD地区 年間第5主日のミサ   10:30     

5日㊐ AC地区 年間第5主日のミサ   10:30 

11日㊏ 第2週につきミサはありません

12日㊐ 第2週につきミサはありません

18日㊏ AC地区 年間第7主日のミサ   10:30

19日㊐ BD地区 年間第7主日のミサ   10:30

25日㊏ BD地区 四旬節第1主日のミサ  10:30

26日㊐ AC地区 四旬節第1主日のミサ  10:30

地区分け

A地区―下鴨、北区、左京区以外の京都市、京都市以外

B地区―高野、田中、北白川、聖護院、浄土寺、吉田、NDシスター

C地区―松ヶ崎、修学院、山端、一乗寺     

D地区―岩倉、上高野、静市、鞍馬、八瀬、大原

ミサ中の先唱、朗読、共同祈願、歌唱などの奉仕をしてくださる方は、どうぞ積極的にお申し出ください。

ミサ参加後2日以内に新型コロナの感染が発覚された方は高野教会の感染専用のメールアドレスにまたは留守番電話にご連絡ください。

感染防止対策の上、基本的にはご自分の地区のミサに与ってください。

また、どの教会も人数制限などの措置を行っていますのでご注意ください。

京都教区では、主日・守るべき祝日のミサにあずかる義務は免除されています。

体調に不安のある方は、ご自宅でお祈りください。

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福音朗読 ヨハネによる福音(ヨハネ1章29~34節)

[そのとき、]ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」

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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は、洗礼者ヨハネによるイエスさまの証しについての箇所が朗読されます。その中で、「知る」ということが問題にされています。今日の福音の中でヨハネは、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ」とイエスさまのことを証しします。しかし、その証しの中でヨハネは、「わたしはこの方を知らなかった」と繰り返し述べています。ヨハネの母親のエリザベットとマリアは従姉妹同士でしたから、ヨハネがイエスさまのことをまったく知らなかったというのは、少し不思議なことです。しかし、ヨハネは「わたしはこの方を知らなかった」と断言します。どういうことでしょうか。

知るということは、随分深みのある言葉ですが、現代人にとって知るということは、その人またある事柄についてどれだけ情報をもっているかどうか、ということになっているように思います。そして、どれだけ情報をもっているかということが、その人の価値と結びついていくような社会になっています。SNSがこれだけ発達した社会において、情報はいくらでも集めることができます。それでは、SNSで知り得た情報が、わたしたち人間が生きていくうえでのすべてかと言えばそうではなりません。例えば、キリスト教についてどれだけ知っているかということと、信仰を生きていることとは必ずしも一致しません。また同様に、洗礼を受けてキリスト者であるということと、真にキリスト者として信仰を生きていることとも必ずしも一致しないのではないでしょうか。

現在わたしたちが置かれている状況は、わたしたちはキリスト教とは何かがすでに分かっていて、あとはそれをまだよく知らない人に伝えることが福音宣教だ、というような単純なものではないということです。もし、自分が置かれた状況がそうだと思っているとしたら、洗礼者ヨハネが自分の母親の従姉の子であるイエスについて、知っていることを説明しているのと変わらないということだと思います。洗礼者ヨハネが言おうとしたことは、「わたしは母親の従妹の子であるイエスを知っています。自分はイエスのことを知っているつもりだったけれど、しかし、実は何も知らなかったのだ」と告白したということです。ヨハネはイエスさまと会ったこともあったかもしれません。しかしヨハネは、自分はイエスさまのことを何も分かっていなかった、本当に出会ってもいなかったと言っているのです。これこそ、現代の宗教が置かれているわたしたちの状況ではないでしょうか。いうなれば、洗礼者ヨハネがイエスさまと出会って証したことば、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ」ということばを覚えて帰って、それを繰り返しているだけにすぎないということです。それでは、本当の証しとは何でしょうか。

わたしたちがすることは、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ」という教えを暗記して、その教えを伝えることではないということです。それだけなら、単に宗教的なことばを覚えていることを、信じていることだと思い込んでいるだけであって、そこにはいのちはないのです。わたしたちに欠けていることは、ヨハネが自分は知っているつもりになっていたイエスさまと真の意味で出会ったこと、そして生きたことばを紡ぎ出したこと、このイエスさまとの直接体験、イエスさまとの真の出会いであるということができると思います。どの宗教であっても、その根源にあるものは真の普遍的真理との出会いの体験、わたしたちが宇宙という広大無辺なものの力によって生かされているという自覚に他なりません。そして、その瑞々しい感覚を真実のことばとして紡ぎ出していくことです。そしてそのことばは、それさえあれば、現実がどんなに絶望的であっても、我々は生きていけるというような生きたことばであり、わたしたちを瑞々しい体験へと引き入れてくれる生きたことばです。ですから、そのことを人に伝えるには、わたしがイエスさまと真実において出会い、そのような瑞々しい、生き生きとした感性を呼び起こさなければならないのではないでしょうか。

現代、キリスト教はもう一度、このような生きたことばの感覚をもたなければならないと思います。実は、キリスト教もそのようにして受け継がれてきたのです。単に昔の人の言ったことばや教会の教えをそのまま繰り返すのではなく、自分が聞いたそのことばで言われていることを生き生きと体験し、それを新しく言い直すことがまさに必要とされているのだと思います。新しいことば、生きたことばを使わないと、真理というものは伝わっていきません。イエスさまは救い主だとか、世の罪を取り除く神の子羊だと言っても、それだけでは何も伝わらないのです。イエスさまが救い主であることを、世の罪を取り除く神の子羊であることを、生きたことばで言わなければならないのです。今までも、イエスさまは救い主だ、世の罪を取り除く神の子羊だと、繰り返し言い続けてきたのではないでしょうか。しかし、問題はそのことばや教えがあまりにも概念化し、固定化し、生き生きとした体験につながらない空しいことばになっているということが問題なのではないでしょうか。今や、ことばや教えを伝えるだけではまったく足らないということなのです。まさに、普遍的真理で言われていることを生き生きとした体験へと導く生きたことば、そしてその生きた体験が真に必要なのだと言わざるを得ません。

今、わたしたちはそのようなものをもたない貧しいものなのです。そのような貧しいものであるということは、否定的なイメージ、または批判として受け取られるかもしれません。しかし、知らないと謙虚に認められること、欠けていること、あるいは貧しいものであるという自覚は、普遍的真理に触れ向き合うことによってはじめて気付かされるものでもあるのです。もし、そこに何も問題を感じていないとしたら、それは形骸化したことばや教えで満足しているということに他なりません。今、わたしたちは、改めて自分自身を省み、洗礼者ヨハネが立ち帰った原点に立ち、自己批判していく必要があるのではないでしょうか。聖霊によってヨハネがそのことに気づかされたように、わたしたちをイエスさまとの生き生きとした出会いへと導き入れられるように、聖霊の導きと照らしを謙虚に願いたいと思います。

主の公現の福音と勧めのことば

♰主の平和 

2023年、お天気に恵まれ、穏やかな年の始まりとなりました。

皆さまの上に、この1年、神さまの豊かな祝福がありますように。

イエスさまがいつも共にいて、共に歩んでくださいますように。

私たちが聖霊の導きを信じて歩めますように。

今年もどうぞよろしくお願いいたします。

「すべての民の光である父よ、

あなたはこの日、

星の導きによって御ひとり子を諸国の民に示されました。

信仰の光によって歩むわたしたちを、

あなたの顔を仰ぎ見る日まで導いてください。(主の公現の集会祈願より)」

*********************

■名誉教皇ベネディクト十六世が、12月31日に帰天されました。永遠の安息をお祈りします。

https://www.cbcj.catholic.jp/2022/12/31/26205/

■司教年頭書簡 分かち合い募集 京都司教区福音宣教企画室より

『コロナ時代を生きる信仰Ⅲ』―​わたしのシノダリティを創ろう―を読んで気づいたこと、感想などをお寄せください。

https://www.kyoto-catholic.net/%E5%B9%B4%E9%A0%AD%E6%9B%B8%E7%B0%A1-%E5%88%86%E3%81%8B%E3%81%A1%E5%90%88%E3%81%84%E5%8B%9F%E9%9B%86

■京都みんなで捧げるミサ 

https://www.youtube.com/channel/UCcpBMMVYqIT3-LkUVGgNFsQ

■京都教区青年のための黙想会のご案内/2月4日(土)

お知り合いの青年にお声掛けください。

https://www.kyoto-catholic.net/_files/ugd/8117f0_1592923a00914fb791f82f63437828e7.pdf

■今後のミサ予定 

1月

 7日㊏ 第2週につき、ミサはありません

8日㊐ 第2週につき、ミサはありません

14日㊏ AC地区 年間第2主日のミサ   10:30

15日㊐ BD地区 年間第2主日のミサ   10:30

21日㊏ BD地区 年間第3主日のミサ   10:30

22日㊐ AC地区 年間第3主日のミサ   10:30

28日㊏ AC地区 年間第4主日のミサ   10:30

29日㊐ BD地区 年間第4主日のミサ   10:30

地区分け

A地区―下鴨、北区、左京区以外の京都市、京都市以外

B地区―高野、田中、北白川、聖護院、浄土寺、吉田、NDシスター

C地区―松ヶ崎、修学院、山端、一乗寺     

D地区―岩倉、上高野、静市、鞍馬、八瀬、大原

ミサ中の先唱、朗読、共同祈願、歌唱などの奉仕をしてくださる方は、どうぞ積極的にお申し出ください。

ミサ参加後2日以内に新型コロナの感染が発覚された方は高野教会の感染専用のメールアドレスにまたは留守番電話にご連絡ください。

感染防止対策の上、基本的にはご自分の地区のミサに与ってください。

また、どの教会も人数制限などの措置を行っていますのでご注意ください。

京都教区では、主日・守るべき祝日のミサにあずかる義務は免除されています。

体調に不安のある方は、ご自宅でお祈りください。

************************************

福音朗読 マタイによる福音(マタイ2章1~12節)

イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。

『ユダの地、ベツレヘムよ、

お前はユダの指導者たちの中で

決していちばん小さいものではない。

お前から指導者が現れ、

わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」

そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。

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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗

主の公現の祝日は伝統的には1月6日に祝われ、12月25日の主の降誕の祝日より起源が古く、救い主イエスのこの世界への顕現を祝う重要な祝日でした。つまり、古代教会ではイエスさまの誕生そのものよりも、イエスさまがご自身をこの世界に公に現わされたこと自体が重要なことだったのです。それをもっと神学的に、また本質的に示すものは、主のお告げのお祝い日です。これは公会議前までは、マリアへのお告げの祝日として、マリアのお祝い日になっていました。しかし、お告げのお祝い日はマリアのお祝い日ではなく、「神のみことばが人となり、わたしたちの間に住まわれたこと」を祝う、もっとも本質的な主イエスのお祝い日であるということなのです。教会の中でお祝い日というと、聖人方のお祝い日だと思われがちですが、根本的なお祝い日はいわゆる誰かの記念日でもなく、神さまのこの世界への働きかけ、救いの歴史を記念するということです。そうしてみると、現在のカトリック教会の祝日は、救いの歴史から微妙に焦点がずれた祝い方をしているということになります。キリスト教のもっとも根本的なお祝い日である復活祭であってさえも、イエスさまの受難と死によってイエスさまの愛が永遠化されたことを祝いますが、復活によってイエスさまの愛が永遠化されたのではなく、もともとイエスさまの愛は永遠であるということに変わりはありません。

わたしたちは主の受肉の神秘を、主のお告げ、主の降誕、主の公現、主の洗礼として、時系列の中で起こった出来事として祝っていきますが、「ことばは肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た」と書かれていること、つまり神が神であることを神が人類となることでわたしたちに現わされたこと、それが根本にあることであり、主の公現のお祝い日の意味なのです。神さまが神さまであることが公になることが神さまの栄光ですが、ではどのように栄光が現わされるかというと、神さまが人間となってわたしたちの間に宿られたことによってです。つまり、わたしたち人間、またこの世界は神の栄光を現わしているということになります。どういうことかというと、何処の誰であってもその人は神を宿しており、人間と不可分であるこの世界もまた神を宿しているということなのです。洗礼を受けてキリスト者になった人たちだけのことではないのです。神の救いというものは無限です。しかし、どの宗教でも、自分たちの教えが一番正しいとか、自分たちの宗教でしか救われないというようなことを言い出します。そうすると、せっかくのイエスさまの教えを有限なものにしてしまう危険があります。

東から来た占星術の学者たちは、伝統的な絵画では、アフリカ大陸から、ヨーロッパ大陸から、アジア大陸から来た人として描かれています。または老人、壮年、青年としても描かれています。つまり、イエスさまは全世代の、全人類の救い主であることを言おうとしています。ユダヤ人やキリスト教の人たちだけのためではありません。彼らは星に導かれて、真の普遍的真理であるイエスさまを見出しました。この普遍的真理はすべての生きとし生けるものを包み、生かしている真理です。それは誰のものでもない普遍的な真理です。ですから、そのような真理を見出したなら、いかなる権威、地位、学問、制度といった人間的な何かによって認めてもらう必要がなくなります。ですから、占星術の学者たちは、もはやヘロデのもとに戻る必要がありませんから、別の道を通って帰っていきました。しかし、多くの宗教がその真理を証しすることから少しずつ離れ、人間的なものに拘り、教えるための宗教、聖職者のための宗教、教団のための宗教に堕落していきます。それは、自分自身が絶えまなく真理に触れることを怠ったがゆえの結果です。その真理を自分たちのものだと思い込み、自分たちのものとして抱きかかえるとき、その真理はもはや普遍的な真理ではなく、有限な人間の手垢にまみれたものになってしまうのです。それが、宗教の中の分派、派閥、グループ、教義を生み出していきました。

宗教というのは、一定に教義を受け入れて信じるというようなことではなく、わたしたちが大宇宙という広大無辺なものの力によって生かされているということへの自覚に他なりません。イエスさまは、そのような宇宙の広大無辺ないのちそのもの、真理そのものとして、ひとりの幼子のうちにご自身をわたしたちに現わされたのです。わたしたちはキリスト教というひとつの宗教を通して、その宇宙的真理に触れさせていただいているのです。ですから、キリスト教だけが素晴らしいとか、カトリックだけが唯一の救いだという必要はないのです。そのようなことを言い出すと、真理の教えは人間の手垢にまみれた抹香臭い教えになってしまいます。イエスさまの教えに、抹香臭い匂いなどあるはずがありません。しかし、現実には人間の匂いがくっついてくるのです。イエスさまの教えを抹香臭くしているのは、人間の匂い、わたしの匂いなのです。

イエスさまは完全な真理、愛の人であるというのは、この「わたし」という匂いがしなかったということです。その姿が幼子です。幼子は、「わたし」という以前のいのちそのものです。ですから、わたしという匂いがしません。ですから「こうしたら救われる」とか、「ああだから救われる」というような教えにはならないのです。「ああだ」「こうだ」と考えているのは、すべて「わたし」であって、そのわたしが匂いをつけているだけであって、わたしという匂いがなくなった状態を救いというのではないでしょう。わたしたちは自分でこうしよう、ああしようと思ってこの世に生まれてきたわけではありません。そんなことを思わず、ただ自然に生まれてきたのではないでしょうか。真理を見出すということは、この存在自体の安らかさをわたしたちが、もう一度体験することではないでしょうか。イエスさまにまかせる、イエスさまを信頼するというはそういうことだと言えるでしょう。幼いイエスさまは、わたしという匂いのないその姿をもって、真理であるご自身を現わしておられるのだと言えるでしょう。実に、イエスさまは特別なことの中ではなく、自然なことの中に、すべての人の中に、すべてのものの中にご自身を現わしておられるのです。

神の母聖マリアの福音と勧めのことば

♰主の平和 

あけましておめでとうございます。

今年もどうぞよろしくお願いいたします。

神様の祝福に満ちた1年となりますように。

「主があなたを祝福し、あなたを守られるように。

主が御顔を向けてあなたを照らし、あなたに恵みを与えられるように。

主が御顔をあなたに向けて、あなたに平安を賜るように。」

(第1朗読 民数記 6章より)

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■2023年「世界平和の日」教皇メッセージ(2023.1.1)

https://www.cbcj.catholic.jp/2022/12/26/26176/

■京都みんなで捧げるミサ 

https://www.youtube.com/channel/UCcpBMMVYqIT3-LkUVGgNFsQ

■京都教区青年のための黙想会のご案内/2月4日(土)

お知り合いの青年にお声掛けください。

https://www.kyoto-catholic.net/_files/ugd/8117f0_1592923a00914fb791f82f63437828e7.pdf

■今後のミサ予定 1月

  1日㊐ AC地区 神の母聖マリアのミサ  10:30

7日㊏ 第2週につき、ミサはありません

8日㊐ 第2週につき、ミサはありません

14日㊏ AC地区 年間第2主日のミサ   10:30

15日㊐ BD地区 年間第2主日のミサ   10:30

21日㊏ BD地区 年間第3主日のミサ   10:30

22日㊐ AC地区 年間第3主日のミサ   10:30

28日㊏ AC地区 年間第4主日のミサ   10:30

29日㊐ BD地区 年間第4主日のミサ   10:30

地区分け

A地区―下鴨、北区、左京区以外の京都市、京都市以外

B地区―高野、田中、北白川、聖護院、浄土寺、吉田、NDシスター

C地区―松ヶ崎、修学院、山端、一乗寺     

D地区―岩倉、上高野、静市、鞍馬、八瀬、大原

ミサ中の先唱、朗読、共同祈願、歌唱などの奉仕をしてくださる方は、どうぞ積極的にお申し出ください。

ミサ参加後2日以内に新型コロナの感染が発覚された方は高野教会の感染専用のメールアドレスにまたは留守番電話にご連絡ください。

感染防止対策の上、基本的にはご自分の地区のミサに与ってください。

また、どの教会も人数制限などの措置を行っていますのでご注意ください。

京都教区では、主日・守るべき祝日のミサにあずかる義務は免除されています。

体調に不安のある方は、ご自宅でお祈りください。

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福音朗読 ルカによる福音(ルカ2章16~21節)

[そのとき、羊飼いたちは]急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、[彼らは、]この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。

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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の福音は、主の降誕の夜半のミサで朗読された羊飼いへの天使のお告げの続きの箇所です。この箇所は、今でも主の降誕の早朝のミサで朗読される箇所です。主の降誕のミサは、夜半のミサ、早朝のミサ、日中のミサと3回のミサがあり、夜半のミサ、日中のミサは行われますが、現在早朝のミサが行われることはほとんどありません。3回のミサは、夫々別のミサではなく、主の降誕という出来事を、3つの観点から描いているということができます。その頂点は日中のミサのヨハネ福音書の朗読ですが、いずれも人間の救いというものが何であり、それがどのように成されていくのかということが解き明かされていきます。今日の福音は、わたしたちの救いは具体的にどのようなものか、どのように成されていくのかが断片的に描かれていきますから、そのことをお話ししたいと思います。

神の救いは、2千年前のベトレヘムでのイエスさまの誕生によって始まったかのように思われていますが、確かに人間の側から見るとそのように見えるかもしれません。しかし、それはあたかも映画のワンシーンのようなものにすぎません。そもそも救いというものは、すでに完成している永遠の真実であって、それを描いているのがヨハネ福音書です。それに対して、ルカやマタイは映画のワンシーンだけを切り取って、それを断片的に描いているようなものだと言ったらいいでしょう。あるいは広大な自然の風景やいのちの営みの一瞬を描いた絵画や写真のようなものだとも言えるでしょう。救いというものはひとつのシーンではなく、いのちの営みそのものであり、全体であると言うことができます。しかし、時空の中に生きているわたしたち人間にとってはそれが分かりませんから、そのときの状況に合わせて、救いというものを具体的に、つまり分かりやすくワンシーンとして説明しようとします。それが、マタイ、ルカの描き方であり、今日の福音の「羊飼いが探し当てた」、「マリアとヨゼフの間にいる」、「飼い葉桶に寝かせてある」、「乳飲み子」となるわけです。そして、「その名はイエス」であると言われるのです。それでは、人間の救いというものがどのように成されていくのかを今日の箇所から具体的に見てみましょう。

先ず、「羊飼いが探し当てた」ということは、その方は誰もが探し求めることができる方であるということです。当時のユダヤ世界で羊飼いは、人間として最低の仕事でした。ユダヤ人は、元々は遊牧民でしたが、定住生活に移行していくなかで、羊飼いはモーセの律法を守ることができない職業のひとつになっていきます。まず第1に、安息日を守ることができません。生き物である羊相手の仕事ですから、今日は安息日だからと仕事を休むわけにはいきません。ですから羊飼いは、律法を守れない人たちイコウル罪人としてみなされていきました。多くは、エルサレムなどで罪を犯した人たちや奴隷の職業となっていきました。イエスさまを最初に探し当てた人たちが羊飼いであるということは、イエスさまはすべての人が捜し求めることができる救い主であるということです。その人がどういう人であるか、老少善悪を問わないということです。

次に、「マリアとヨゼフの間にいる」ということは、その方はすべての普通の人々、生活者の間におられるということです。イエスさまは特別な人たちのため、選ばれた人たちのためではなく、まったく普通の人々の間におられる方であるということを意味しています。「飼い葉桶に寝かせてある」ということは、その方はすべての人の食べ物としておられるということです。食べ物は自分の存在様式をなくして、他のいのちに変化して他のいのちを養います。この地球上の生き物はすべて食物連鎖の内にあり、いのちを分かち合いながら、もう少しはっきり言うと弱肉強食という食物連鎖によって成り立っています。弱肉強食はいけないという人がいるかもしれませんが、動植物界においては、それは秩序が保たれた食物連鎖です。しかし、人間だけが知恵をもっており、食物連鎖から逸脱した弱肉強食の頂点に立っていると勘違いしています。これが地球規模の環境破壊を作り出しているのです。人間も他の動植物も、他の生命体からいのちを分けてもらって、自分のいのちを保ち、種族を保ってきました。しかし本来、生命体がいのちを分かち合うという食物連鎖をまったく逸脱した、自我に捉われた弱肉強食を是としているわたしたち人間に、イエスさまがご自分のいのちを差し出すことによって、イエスさまがこの世界の食べ物、いのちそのものであるといういのちの本来の姿を示されたのです。

「乳飲み子」というテーマは、イエスさまはひとりの人間として、もっとも弱く貧しく、自分ひとりで何もできない、生きていくことができないようなものとして来られたことを描いています。神さまであれば、上から手を差し伸べて人間を救うこともお出来になったはずです。しかし、イエスさまが望まれたことは、自らが人間自身となること、しかも幼子となることで最も弱くなること、十字架にかかることで最も堕落したものとなること、罪となることによって、人間のすべての人生と一致すること、人間としてすべての苦しみ嘆き、人生に迷い続けるわたしとなられたということなのです。実に、イエスさまはわたしとなられたのです。これが、わたしたちともにおられる神、インマヌエルという意味なのです。

そして、この方をわたしたちは“イエス”とお呼びするということです。イエスという名は、「わたしはあなたを救う」という意味です。ですから、イエスさまがわたしの救いなのです。わたしたちはこのイエスさまと出会うことが、わたしの救いであり、人類の救いであるということなのです。そのことが、今日の福音からわたしたちがいただくことなのです。「みことばは肉となって、わたしたちの間に宿られた」。ここに、キリスト教のすべてが凝縮されています。これ以外の別の教えや教義が何か必要でしょうか。すべてはこの真実を解き明かすためでしかありません。仏教学者の曽我量深のことばを思い出します。「如来は我なり。されど我は如来に非ず。如来我となりて我を救いたもう」。この「わたしはあなたを救う」というイエスさまの呼び声がわたしに届いていることが信仰であり、救いなのです。このイエスさまの呼びかけがわたしに届いている事実を、わたしが信じることで救われるのではないのです。それならば信じることが救いの条件になってしまいます。もしそうであれば、わたしが信じたか信じないか、わたしがどれだけ疑わないで、強く信じられたかという自分のはからいの域から一歩も出ることはできません。信仰はわたしの心のあり方ではなく、イエスさまのわたしへの働きが信仰なのです。だから、わたしはそのイエスさまと出会わせていただくこと以外ないのです。

主の降誕(日中のミサ)の福音と勧めのことば

♰主の平和 

主のご降誕のお喜びを申し上げます。

幼子イエスさまの祝福が、皆さまとご家族の上にありますように。

厳しい寒さとなりました。どうぞご自愛の上、よいクリスマスをお過ごしください。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

■大塚司教様のクリスマスメッセージです。

https://kyoto.catholic.jp/shikyo/2022christmas.pdf

■高野教会便りができました。印刷物はミサの時に聖堂後ろに置きますので、お持ち帰りください。

■京都教区時報2023年1月号が、京都教区のホームページにアップされました。

大塚司教様の年頭書簡が掲載されていますのでお読みください。冊子は聖堂後ろに置いてありますのでお持ち帰りください。

https://kyoto.catholic.jp/jihou/542.pdf

■京都みんなで捧げるミサ 

https://www.youtube.com/channel/UCcpBMMVYqIT3-LkUVGgNFsQ

ご降誕のミサの配信はありません。

■在留特別許可嘆願署名キャンペーンご協力のお願い(中央協議会、京都教区より)

https://www.cbcj.catholic.jp/japan/statements/zairyukyoka/

在留特別許可嘆願署名キャンペーンの電子署名のChang org.のサイトは、通常、寄附をお願いするようになっていますが、寄附をする必要はありません。

■今後のミサ予定 

12月

25日㊐ BD地区 主の降誕日中のミサ   10:30

31日㊏ BD地区 神の母聖マリアのミサ  10:30

1月

 1日㊐ AC地区 神の母聖マリアのミサ  10:30

7日㊏ 第2週につき、ミサはありません

8日㊐ 第2週につき、ミサはありません

14日㊏ AC地区 年間第2主日のミサ   10:30

15日㊐ BD地区 年間第2主日のミサ   10:30

21日㊏ BD地区 年間第3主日のミサ   10:30

22日㊐ AC地区 年間第3主日のミサ   10:30

28日㊏ AC地区 年間第4主日のミサ   10:30

29日㊐ BD地区 年間第4主日のミサ   10:30

地区分け

A地区―下鴨、北区、左京区以外の京都市、京都市以外

B地区―高野、田中、北白川、聖護院、浄土寺、吉田、NDシスター

C地区―松ヶ崎、修学院、山端、一乗寺     

D地区―岩倉、上高野、静市、鞍馬、八瀬、大原

ミサ中の先唱、朗読、共同祈願、歌唱などの奉仕をしてくださる方は、どうぞ積極的にお申し出ください。

ミサ参加後2日以内に新型コロナの感染が発覚された方は高野教会の感染専用のメールアドレスにまたは留守番電話にご連絡ください。

感染防止対策の上、基本的にはご自分の地区のミサに与ってください。

また、どの教会も人数制限などの措置を行っていますのでご注意ください。

京都教区では、主日・守るべき祝日のミサにあずかる義務は免除されています。

体調に不安のある方は、ご自宅でお祈りください。

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福音朗読 ヨハネによる福音(ヨハネ1章1~18節)

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。

神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。

言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。

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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗

先週の待降節第4主日の福音で、「わたしはあなたを救う」というイエスの名、エンマヌエル「神は我等とともに」という名が、わたしたちに啓示されました。今日は主の降誕を祝いますが、その名の働き、つまりイエスさまはわたしたちをどのように救われるのかが明らかにされます。キリスト教の宗教としての本質が語られる非常に大切な箇所です。

ヨハネ福音書1章では、イエスさまがいつどこでどのように生まれるのかとか、マリアとかヨゼフのこととか、羊飼いや東方の占星術師のこととか、ベトレヘムのこととか、わたしたちが普段から聞き慣れているクリスマスの光景ついては一切触れることがありません。永遠である神さまが時間と空間の中に入って来られ、人間となられたことが描かれています。神さまが人間となられたわけですから、その人間としての具体的な時とか場所とか、状況とかはもちろんあるはずです。それが、2千年前のベトレヘムということなのでしょう。しかし、ヨハネはそのような人間の側から見て判断できるような状況については一切触れません。みことばの永遠における存在ということが語られ、そのみことばの受肉という、永遠が時空の中に入ってくることが語られています。

みことばである神が人間となられたということは、単に2千年前のベトレヘムの馬小屋での出来事を指すのではありません。永遠が時間と空間を貫いて時空の世界に入ってくること、みことばが人間となり、世となられたということ、神はすべてとなられたということを意味しています。わたしたち人間は世界内存在であって、この世界とわたしたちはばらばらに存在するものではなく、その関係性は不可分です。わたしたちとこの世界、宇宙は密接に関わりあって、繋がっていて、この世界、宇宙なくしてわたしが存在するということはありませんし、またわたしなくしてこの世界、宇宙は存在するということもありません。わたしはこの世界、宇宙の一部であり、わたしはこの世界、この宇宙なのです。人間同士の存在もそうです。わたしはひとり存在しているのではなく、多くの人々との繋がりの中で存在しています。ですから、神のみことばがひとりの人間となられたということは、神はわたしとなられた、またこの世界、宇宙となったということでもあるのです。

但し、それは神という存在が先にあって、その神がこの世界や宇宙を創造したという意味ではなく、永遠ということは、もとより神はこの世界、宇宙そのものであったということに他なりません。どういうことかというと、2千年前にイエスというひとりの人間によって、この真理がこの世界に啓示されましたが、イエスさまが神さまであるということは、イエスさまは永遠であるということであり、永遠であるということは、時間と空間の次元の外にあって、わたしたちの次元を超えた真理そのものであり、みことばの受肉によってそうなったという意味ではないということです。この真理は、わたしたちが知る、知らないに関わらず、わたしたちが信じる、信じないに関わらず、とっくの昔に発見されているというか、この宇宙の歴史以前というか、歴史という時間軸と空間を超えて、すでに現成している真理そのものなのだということなのです。そして、もとよりわたしたちは真理の内にいるということなのです。みことばの受肉ということを通して、人間に啓示されたということなのです。難しいですが、理解しようとせずに味わってみてください。

アウグスティヌスは、イエスさまとの出会いによって、この真理に気づかされた体験を「これほど古く、これほど新しい美よ、わたしはあなたを愛するのにあまりにも遅かった」と言い、ゲーテは「真理は見出されてすでに久しい。気高い精神たちはこれによって結びついた古き真理が真理をつかんでいる」と言っています。ヨハネ福音書は、イエスさまによってわたしたちに啓示された真理を描いているのです。

多くの人たちは、宗教を信じたり、信仰をもったりすると人間の心が浄められて、悟りの境地に至って救われるというように考えているかもしれません。そして、ひとりでも多くの人がそのような境地に立てるように教勢を広めることが、宗教の役割だと考えています。昨今の宗教2世の話などは、まさにそのような狭い立場に立って宗教を捉えようとしたものであるといえるでしょう。しかし、主の降誕は、人知を超えた真理そのものがひとりの人間となることによって、人類に真理を啓示された出来事であると言えるでしょう。その方法は、真理そのものが人間となる、つまりわたしとなる、世界となるということによってです。そして、その真理は、何かわたしたちを離れた遠いところや別の世界にあるものではなく、またキリスト教だけのものでもなく、その真理はわたしたちの中に、この世界のうちに現成しているということなのです。そして、わたしたちが、その真理に気づくことこそが救いなのです。わたしたちの状況がよくなるとか、幸せになるとか、病気がよくなるとか、自分の思いが叶うというような類のことではないのです。

先週の福音の中で、イエスという名は、「わたしを救う」という名、「わたしはあなたとともにいる」という名であり、そのことばがわたしに呼びかけられていることが明らかされました。そして、わたしたちが、わたしに届けられているその働きに気づくことが救いなのです。「こうしたら救われる」「ああしたら救われる」というわたしのはからいの世界ではなく、みことばの受肉において、永遠においてすでに現成しているそのことに気づくとき、時間を貫いてわたしの中に永遠が入ってくること、そのことが救いなのです。2千年前の話でも、死んでからのことではありません。ただそこのことを知らせるために、みことばは人間となられ、わたしたちの中に救いがあることを教えてくださいました。救いは遠きにあるのではなく、わたしの中にあるのです。

待降節第4主日の福音と勧めのことば

♰主の平和

4本目のろうそくに火がともり、いよいよ待降節第4主日となりました。
寒さも厳しくなってきましたし、コロナの感染者も増加傾向です。
どうぞご自愛の上、良いご降誕祭をお迎えください。

■今後のミサ予定 
12月
11日㊐ 第2週につき、ミサはありません
17日㊏ BD地区 待降節第4主日のミサ   10:30
18日㊐ AC地区 待降節第4主日のミサ   10:30
24日㊏ AC地区 主の降誕日中のミサ   10:30
25日㊐ BD地区 主の降誕日中のミサ   10:30
31日㊏ BD地区 神の母聖マリアのミサ  10:30
1月
1日㊐ AC地区 神の母聖マリアのミサ   10:30
7日㊏ 第2週につき、ミサはありません
8日㊐ 第2週につき、ミサはありません
14日㊏ AC地区 年間第2主日のミサ    10:30
15日㊐ BD地区 年間第2主日のミサ    10:30
21日㊏ BD地区 年間第3主日のミサ    10:30
22日㊐ AC地区 年間第3主日のミサ    10:30
28日㊏ AC地区 年間第4主日のミサ    10:30
29日㊐ BD地区 年間第4主日のミサ    10:30

地区分け
A地区―下鴨、北区、左京区以外の京都市、京都市以外
B地区―高野、田中、北白川、聖護院、浄土寺、吉田、NDシスター
C地区―松ヶ崎、修学院、山端、一乗寺
D地区―岩倉、上高野、静市、鞍馬、八瀬、大原

ミサ中の朗読、共同祈願などの奉仕をしてくださる方は、どうぞ積極的にお申し出ください。
ミサ参加後2日以内に新型コロナの感染が発覚された方は高野教会の感染専用のメールアドレスにまたは留守番電話にご連絡ください。
感染防止対策の上、基本的にはご自分の地区のミサに与ってください。
また、どの教会も人数制限などの措置を行っていますのでご注意ください。
京都教区では、主日・守るべき祝日のミサにあずかる義務は免除されています。
体調に不安のある方は、ご自宅でお祈りください。

■京都教区時報2023年1月号が、京都教区のホームページにアップされました。
司教さまの年頭書簡が掲載されていますのでお読みください。
https://kyoto.catholic.jp/jihou/542.pdf

■年末が近づいてきました。お祈りやご奉仕など、今年も高野教会を様々な形で支えてくださりありがとうございました。今年度の教会維持費をまだお納めになられておられない方は、できるだけ年末までに納入してくださいますようお願いいたします。
維持費納入は、以下のいずれかの方法でお願いいたします。
① ミサの時に献金箱に入れる
② 司祭館のポストに入れる
③ 銀行振込

■待降節第1主日(11月27日)より、ミサの式次第の一部が新しくなりました。新式次第を使用してのミサです。ご自分のミサの式次第の冊子を忘れずにお持ちください。冊子には必ずお名前をお書きください。

■京都みんなで捧げるミサ 
https://www.youtube.com/channel/UCcpBMMVYqIT3-LkUVGgNFsQ

■待降節第4主日のミサ
https://youtube.com/watch?v=7K0iP1MkW5A&feature=shares

■京都教区中学生会/高校生会・冬の集いの案内が届いています。
中学生会 https://www.kyoto-catholic.net/_files/ugd/8117f0_64658d15db054082ac4492bca6a05e25.pdf

高校生会 https://www.kyoto-catholic.net/_files/ugd/8117f0_00f9e19e420944c8ba793d8b62ec17bf.pdf

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福音朗読 マタイによる福音(マタイ1章18~24節)

イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、
二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。
その名はインマヌエルと呼ばれる。」
この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れた。

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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日はマタイ福音書から、イエスさまの誕生の顛末が描かれていきます。わたしたちは、マタイはヨゼフの立場からのイエスの誕生物語であり、ルカはマリアからの誕生物語であるとか、受胎告知とか、聖霊による懐胎とか、イエスさまはベトレヘムで生まれたとかいろんな事を聞いています。しかし、そのようなことをわたしたちが知ったとしても、またいろんな教会の教えを覚えたとしても、実はそれはほとんど意味がありません。わたしたちを救うのは神学や聖書学、教会の教えではありません。それをわたしが覚えて帰ったとしても意味がないのです。聖書は神のことばですが、それは人間の手で編集された物語であり、それをまた聖書学者や説教者が解釈し、人間のことばとして説明します。しかし、そのような話を聞いただけでは、わたしたちは救われるということはありません。すべての宗教には教学や聖典がありますが、それはひとえにわたしたちを信仰に導くためのひとつの方法です。これを仏教では方便と言います。ですからカトリック教会でも、神学や聖書についての知識を深めることと信仰とは同じではないのです。

カトリック教会はいろいろな教義や教えをもっていますが、それは単に教義を守ることが目的ではなく、信仰のためなのです。信仰ということばは、語源からして真理と同義語ですが、その真理-それが宗教の本質ですが-を説明するために、いろんなことを教義として説明しようとしてきました。それがかえってキリスト教の本質が何であるかを見えにくくし、わたしたちに伝えられている真理を複雑にしてしまっています。教義とか聖書についてのわたしたちの捉え方、関わり方について間違えてはならないのです。難しい教義や聖書を理解することが信仰ではありません。いくら、教義を勉強して理解しても、聖書の解釈を知っていても、それは人間の業、人間の頭で考えていることであって、信仰とは関係ないどころか、わたしたちの信仰生活の妨げとなってしまいます。わたしたちは人間のことばを通してしか、真理である神のことばを聞くことはできませんが、ただ人間のことばを聞いているだけでは救われません。よく、今日のお話はよかったとか、分かりにくかったというような反応を聞きますが、それは説教者や講師の話を聞いているだけで、人間のことばを聞いているだけにすぎません。つまり、自分にとって心地よいことばか、そうでないかを聞いているだけなのだということになります。確かに聖書にしても、聖書の解き明かしである説教や講話にしても、人間のことばを通してしか神のことばを聞くことはできませんが、その人間のことばを通して響いてくるものを聞く、つまり人間のことばの中を通って響いてくる神のことばを聞くということが大切なのです。人間のことばを通して、イエスさまが直々にわたしに語りかけてくださる、その“神のことば”を聞かなければならないのです。そのことを聞くものも、語るものも心得ておかなければならないのです。自分の得手に聞き語ることを、重々戒めておかなければなりません。

今日の福音で、天使は生まれてくる子をイエスと名付けなさいと言いました。そこで天使が言ったとか、ヨゼフがどうしたということが大切なのではありません。イエスという名は、「わたしはあなたを救う」という名です。ですから、「わたしはあなたを救う」「その子が自分の民を罪から救う」ということばが、「わたしはあなたを救います」というイエスさまのわたしへの直々の声が聞こえてくること、それが信仰なのです。わたしがどう聞こえたとか、わたしがどう理解して納得したかではないのです。「わたしはあなたを救う」ということが、キリスト教の宗教としての真理であり、その真理がわたしに呼びかけられているということが信仰なのです。信仰というと、わたしが信じることとして理解されがちですが、そうではなく、キリスト教が宗教としてわたしたちに伝えようとする単純な真理を信仰というのです。ですから、わたしたちにイエスさまの真実、真理、真がわたしに届いているその働きを信仰というのです。わたしが、イエスさまを信じますとか、わたしが何かをする以前にある、イエスさまがわたしを救うと誓われた真実が信仰なのです。ですから、ヨゼフがどうの、マリアがどうの、ベトレヘムがどうのということは、わたしたちを真理へと導くための手段、方便であって、わたしたちの信仰と直接関係ないのです。カトリック教会はこの真理周辺のことが多すぎて、何が真理の本質であるかが非常に見えにくくなっているという状況があります。司祭が言ったからとか、司教が言ったから、教皇が言ったからではないのです。誰が言ったのでも構いませんが、とかくすると、聖職者や聖人たちが言ったことをありがたがる傾向が見られます。誰が言ったかが問題ではなく、イエスさまが直々に語りかけてくださること-特別なお告げとかご出現ではなく-、イエスさまがわたしを呼ぶ声が聞こえた、「おまえを救う」ということばを聞くことがすべてなのです。教会は人類をイエスさまへ導くための道具、秘跡、方便であって、教会はそのために奉仕者に過ぎません。イエスさまより、前に出ようとする教会は、人々をイエスさまに導かないばかりか、妨げの石となってしまうのです。イエスという名、「わたしはあなたを救う」という単純な信仰の真理が、キリスト教の宗教としての魂なのです。それを伝えるために、聖書があり、教義があり、教会があるのです。

今日、待降節第4主日にあたって、わたしたちはイエスという名、「わたしはあなたを救う」というイエスさまの声がわたしに届いていることに、改めて気づかせていただきたいと思います。

待降節第3主日の福音と勧めのことば

♰主の平和

待降節も半ばを過ぎました。
待降節第3主日は、昔から「喜びの日曜日」と呼ばれています。
この日、本来ならば、高野教会の祭壇前に飾られたアドベントクランツのばら色のろうそくに火がともり、司祭のカズラもばら色を着用されるのですが、ミサがない週なので残念です。でも、喜びのうちに、祈りのうちに過ごしたいと思います。

喜びの源である父よ、
御子キリストの誕生を心から待ち望むわたしたちを顧みてください。
喜びのうちに降誕祭を迎え、この救いの神秘を祝うことができますように。
(待降節第3主日の集会祈願より)

■今後のミサ予定 
12月
10日㊏ 第2週につき、ミサはありません
11日㊐ 第2週につき、ミサはありません
17日㊏ BD地区 待降節第4主日のミサ  10:30
18日㊐ AC地区 待降節第4主日のミサ  10:30
24日㊏ AC地区 主の降誕日中のミサ   10:30
25日㊐ BD地区 主の降誕日中のミサ   10:30
31日㊏ BD地区 神の母聖マリアのミサ  10:30
1月
1日㊐ AC地区 神の母聖マリアのミサ  10:30   

地区分け
A地区―下鴨、北区、左京区以外の京都市、京都市以外
B地区―高野、田中、北白川、聖護院、浄土寺、吉田、NDシスター
C地区―松ヶ崎、修学院、山端、一乗寺
D地区―岩倉、上高野、静市、鞍馬、八瀬、大原

ミサ中の朗読、共同祈願などの奉仕をしてくださる方は、どうぞ積極的にお申し出ください。
ミサ参加後2日以内に新型コロナの感染が発覚された方は高野教会の感染専用のメールアドレスにまたは留守電にご連絡ください。
感染防止対策の上、基本的にはご自分の地区のミサに与ってください。
また、どの教会も人数制限などの措置を行っていますのでご注意ください。
京都教区では、主日・守るべき祝日のミサにあずかる義務は免除されています。
体調に不安のある方は、ご自宅でお祈りください。

■年末が近づいてきました。お祈りやご奉仕など、今年も高野教会を様々な形で支えてくださりありがとうございました。今年度の教会維持費をまだお納めになられておられない方は、できるだけ年末までに納入してくださいますようお願いいたします。
維持費納入は、以下のいずれかの方法でお願いいたします。
① ミサの時に献金箱に入れる
② 司祭館のポストに入れる
③ 銀行振込

■待降節第1主日(11月27日)より、ミサの式次第の一部が新しくなりました。新式次第を使用してのミサです。ご自分のミサの式次第の冊子を忘れずにお持ちください。冊子には必ずお名前をお書きください。

■京都みんなで捧げるミサ 
https://www.youtube.com/channel/UCcpBMMVYqIT3-LkUVGgNFsQ

■待降節第3主日のミサ
https://youtu.be/tBY_yrgwz0M

■京都教区中学生会冬の集いの案内が届いています。
日時・場所:12月29日(木)14:00・河原町教会
詳細は教会の掲示版のポスターをご覧ください。

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福音朗読 マタイによる福音(マタイ11章2~11節)

[そのとき、]ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」ヨハネの弟子たちが帰ると、イエスは群衆にヨハネについて話し始められた。「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。
預言者以上の者である。
『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、
あなたの前に道を準備させよう』
と書いてあるのは、この人のことだ。はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」

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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の福音では、洗礼者ヨハネの不信という問題が描かれていきます。洗礼者ヨハネは、イエスさまに洗礼を授けるとき、「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」ということばを残しています。洗礼者ヨハネは、イエスさまこそがメシアであると絶大な信頼を表していました。そのヨハネがヘロデに捕らえられ、牢に入れられてしまいます。「ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた」ということばで、今日の福音は始まります。ヨハネは自分の弟子たちを送って、イエスさまに尋ねさせます。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、他の方を待たなければなりませんか」と。ヨハネの動揺が伝わってくる言葉です。ヨハネは、何に動揺したのでしょうか。ヨハネがいのちがけで到来を準備したイエスさまは、自分の思っていたメシアとは、まったく異なっていたのです。ヨハネは自分の確信がガラガラと音を立てて崩れるほどの、深い深い疑いの淵に突き落とされたのです。もはやヨハネは、イエスさまを信じることができなくなってしまいました。そう聞くと、わたしたちは洗礼者ヨハネでもそうだったんだ、だからわたしがそうそう信じられるものではないと安心します。しかし、そうではないのです。そもそも、信じることがどういうことかが問題なのです。

わたしたちは、たいていの場合は、わたしが頑張って、努力して、精進して信仰を強くできるんだと考えます。そして、疑わない心が信仰であると考えています。つまり、信仰はわたしたちの心で起こるわたしの心のもち方であって、その心のもち方如何で救われるのだと思っています。しかし、わたしたちが○○を信じるというときに、信じる対象は必ず不確実なものです。そもそも、確実なもの、目に見えて確認できるものをわたしたちは信じるとは言いません。信じるのは、疑っているから信じようとするのであって、信じることと疑いはコインの表裏のようなものなのです。ですから、信仰をわたしの心のもち方だと捉えている限り、疑いがなくなるということはありません。ただ、教会学校卒業程度で、何となく漠然と信じているだけなら、そもそも疑いは起こらないし、信じるということが問題になることもないでしょう。しかし、わたしたちが真摯に信じようとすればするほど、疑いの闇も深くなっていきます。しかし、それは当然なことなのです。

また、わたしの信仰は確実だとか、あの人の信仰は深いというとき、それはすべてわたしの心の捉え方を基準にしているのであって、それが確実であることを証明するものは何もありません。よく祈れたとか、信仰が深まったとか言っているのは誰でしょう。結局は、わたしがわたしの心を見て、そう思っているだけなのです。そして、わたしたちはどうしたらもっと信じられるようになるのか、どうしたらよりよく生きられるようになるのか、どうしたらイエスさまのことを感じられるようになるのか、全部どうしたらどうしたらということであって、そこに莫大なエネルギーを費やしています。わたしたちの心のあり方が、救われたという救いの証拠にはならないのです。救いとは、自分の心が安定して楽になることでも、自分の心が気持ちよくなることでも、恍惚を体験することでもありません。

しかしながら、わたしたちは、わたしの心を抜きにして信じることはできません。ということは、わたしたちの心から疑いを完全になくすということは不可能だということです。こうすれば疑いがなくなるとか、こうすれば信仰が強くなるとかというような教えは嘘っぱちで、イエスさまはわたしたちに疑わない、信念の人になりなさいと言われたわけではありません。イエスさまのことばには、「信じないものではなく、信じるものになりなさい」というのもありますから、疑いがいけないことだと言われているように思ってしまいます。しかし、イエスさまご自身、十字架の上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という人間として、最大の疑いを吐露しておられるのです。わたしたち人間は疑うものであり、わたしたちの中に疑いなく信じられるような真の心などない、疑いのない信仰などわたしのうちにはあり得ないということなのです。どういうことでしょうか。

イエスさまはヨハネの弟子たちに、「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい」と言われました。イエスさまは見聞きしていることを信じるように言われたのではないのです。自分が見て、聞いたことを信じるのであれば、それはどこまでいっても信仰はわたしの行為に過ぎません。そうではなく、真の信仰とは、わたしが見て、わたしが聞く以前に、「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」こと、救いが起こっているということなのです。わたしの心がどうのこうのいう以前に、わたしの心のもち方とかあり方にまったく関係なく救いが実現していること、わたしの心というはからいが入らないところで、イエスさまの救いのみ業、「福音が告げ知らされている」ことが救いであって、そのことに気づかされることが信仰なのです。信仰は、わたしが救われたいとか、わたしが信じるとか、そのような心が起こるとか、わたしがああしたいこうしたいという望み以前にすでにあったもの、わたしの心が起こしたものではなく、イエスさま側にあって、イエスさまから与えられてきたもの、そのこととわたしがひとつになる出来事、それが信仰という出来事なのです。そもそも信仰と訳されているピステスということばは、わたしが何かを信じるというわたしの行為を指す言葉ではなく、そこに現成している真実、真理を意味することばなのです。

わたしたちは、自分の心から疑いをなくすこともできない、しかし、信じ切ることもできない。どうにもならないのがわたしの心なのです。そのわたしはわたしの心を信頼している、つまりわたしがわたしに頼っているのにすぎないことが、イエスさまによって見抜かれているのです。そのどうすることもできないわたしたち人間というものを知って、それでもわたしを救うと言われる方、わたしの不信仰も罪も裏切りも、すべてご自分のものとして背負っていかれる真の方、その方をわたしたちはイエスさまとお呼びするということなのです。イエスさまはわたしの不信仰、わたしの罪となって、わたしを救っていかれるのです。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という叫びは、イエスさまの叫びですが、わたしの叫びでもあるのです。そして、そのわたしの叫びは、わたしの内におけるイエスさまの叫びでもあるのです。

待降節第2主日の福音と勧めのことば

♰主の平和

12月に入って急に寒くなり、初雪の便りが聞こえてきました。
コロナ禍3度目の待降節、どうぞ体調を崩したりされませんようにお気をつけください。

■今後のミサ予定 
12月
4日㊐ BD地区 待降節第2主日のミサ  10:30
10日㊏ 第2週につき、ミサはありません
11日㊐ 第2週につき、ミサはありません
17日㊏ BD地区 待降節第4主日のミサ  10:30
18日㊐ AC地区 待降節第4主日のミサ  10:30
24日㊏ AC地区 主の降誕日中のミサ   10:30
25日㊐ BD地区 主の降誕日中のミサ   10:30
31日㊏ BD地区 神の母聖マリアのミサ  10:30
1月
1日㊐ AC地区 神の母聖マリアのミサ  10:30   

地区分け
A地区―下鴨、北区、左京区以外の京都市、京都市以外
B地区―高野、田中、北白川、聖護院、浄土寺、吉田、NDシスター
C地区―松ヶ崎、修学院、山端、一乗寺
D地区―岩倉、上高野、静市、鞍馬、八瀬、大原

ミサでの答唱詩編、アレルヤ唱は朗読します。
ミサ中の朗読、共同祈願などの奉仕をしてくださる方は、どうぞ積極的にお申し出ください。
ミサ参加後2日以内に新型コロナの感染が発覚された方は高野教会の感染専用のメールアドレスにまたは留守電にご連絡ください。
感染防止対策の上、基本的にはご自分の地区のミサに与ってください。
また、どの教会も人数制限などの措置を行っていますのでご注意ください。
京都教区では、主日・守るべき祝日のミサにあずかる義務は免除されています。
体調に不安のある方は、ご自宅でお祈りください。

■12月の第1日曜日は「宣教地召命促進の日」です。日本をはじめ、世界中の宣教地における召命促進のために、お祈りと献金をお願いします。

■年末が近づいてきました。お祈りやご奉仕など、今年も高野教会を様々な形で支えてくださりありがとうございました。今年度の教会維持費をまだお納めになられておられない方は、できるだけ年末までに納入してくださいますようお願いいたします。
維持費納入は、以下のいずれかの方法でお願いいたします。
① ミサの時に献金箱に入れる
② 司祭館のポストに入れる
③ 銀行振込

■待降節第1主日(11月27日)より、ミサの式次第の一部が新しくなりました。新式次第を使用してのミサです。ご自分のミサの式次第の冊子を忘れずにお持ちください。冊子には必ずお名前をお書きください。

■京都みんなで捧げるミサ 
https://www.youtube.com/channel/UCcpBMMVYqIT3-LkUVGgNFsQ

■待降節第2主日のミサ
https://youtu.be/cN4hDowfDhE

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マタイによる福音(マタイ3章1~12節)

そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。これは預言者イザヤによってこう言われている人である。
「荒れ野で叫ぶ者の声がする。
『主の道を整え、
その道筋をまっすぐにせよ。』」
ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」

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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は洗礼者ヨハネの活動が描かれていきます。洗礼者ヨハネは、メシア到来を準備する悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。さて、悔い改めの洗礼とは何でしょうか。何を悔い改めなければならないのでしょうか。果たして、わたしたちは悔い改めることができるのでしょうか。わたしたちが何かをすれば、洗礼を受ければ、悔い改めることができるのでしょうか。わたしたちはミサの前にも、「わたしたちの心を改めましょう」と言いますが、わたしたちが心を改めるとはどういうことなのでしょうか。
 
現代人のわたしたちは、わたしたちの心、体、いのちは自分たちのものだと思っています。ですから、自分の心や体、いのちを思いのままにできると考えています。実は、それはわたしたちの心や体、いのち、そしてこの自然界は、神さまからわたしたち人間に与えられたものであるというユダヤ・キリスト教的な発想が根底にあるからなのです。ですから、自分の心や体、いのちを自分のものであると考え、それを支配することができると考えているのです。これが、近代ヨーロッパから始まり、現代社会のものの見方ともなっている世界観でもあるのです。このように、先ずわたしという存在を立てて、わたしたち人類がすべてのものの所有者となり、神の代理者としてこの世界を支配し、統治していくという発想はキリスト教のものなのです。心や体、自然界が、わたしたちに与えられ、わたしたちのものであるということですから、わたしたちは当然、それらを自分の力で支配し、コントロールできると考えていくようになります。しかし、現実はどうでしょうか。自然界の支配者、所有者のような顔をして、自然から搾取し続けてきた結果、今、わたしたちは反対にその自然から反逆を受けています。気候変動はそのひとつです。

わたしたちは、心や体もわたしの所有物としてコントールしようとしてきました。しかし、病気がなくなることもなく、死もなくなりません。人の心もコントロールすることはできません。しかし、キリスト教では、努力して頑張って、反省して罪を避けて、善行をしてよい人間になることが、信仰者の信仰のあり方であると教えてきました。それで、いろんなことがうまくいかないとか、不幸になるとか、病気になったりするのは信仰が薄いからであり、自分の心を修めることで、強い信仰をもてば困難を克服できると教えてきました。あるいは、これは神さまからの試練であるから忍耐するようにと教えてきました。これが、キリスト教の信仰理解なのです。しかし、果たしてわたしたちが自分の心を修めることで、信仰を強くし、わたしたちは何かを変えていくことができたでしょうか。わたしたちの信仰は、わたしたちの心のもち方でどうにかなる問題なのでしょうか。

わたしたちは、自分の意志で頑張って心臓を動かし、血液を体の隅々にまで送っているのでしょうか。また、わたしが頑張って呼吸して、体に酸素を取り込み、食べ物を消化し、栄養としているのでしょうか。わたしたちは、腹を立てないように頑張れば腹が立たなくなり、憎しみの心を抱かないように頑張れば憎しみの心が湧かなくなるでしょうか。わたしの中では、毎日6000億個の細胞が死に再生を繰り返し、体のすべて原子は1年でほぼすべて入れ替わると言われています。わたしが、体に命令してそのようになっているのでしょうか。わたしの心とか意志とかに関係ないところで、自然とそうなっているのではないでしょうか。にも関わらず、「わたしがある」と主張している「わたし」とは、一体何なのでしょうか。わたしの心とか、意志とか、意識とはどこにあるのでしょうか。このように考えていくと、わたしたちという人間がいかに不安定で、絶えず移り変わっていくものであるかということが見えてきます。わたしの心も体も、絶えず変化していて、ひとつの状態に留まっていることはありません。だから、わたしたちは罪を告白してもまた罪を犯しますし、反省しても性懲りもなく同じことを繰り返します。
 
それでは、悔い改めるべきと言われているわたしたちの罪というのは何でしょうか。わたしがわたしであると思っているようなものは、何も永遠なものはないのです。それなのに何か確実なものがあると思い込み、それを真実であるかのように握りしめているのがわたしたちです。それが、物であったり、わたしの考え方であったりします。そして、それを真実であると勘違いし、それを神聖化、絶対化し、それを自他ともに押し付けていこうとします。それが人間の迷いであり、罪であると言えばいいかもしれません。そのようなひとつの固定した状態があると錯覚して、その状態にしがみついてそれに執着する。それが富であったり、権威であったり、地位や名声であったり、よい人間であるということであったり、恩恵の状態であったりします。たとえ、恩恵の状態を握りしめても、すぐに崩れてしまいます。腹も立たない、悪口も言わない、罪も犯さないのであれば、それはロボットになるしかありません。執着というと悪いものというイメージがありますが、わたしがよい人間でありたいと思うのも、わたしが人助けをしたいと思うのも、所詮はわたしの執着に他ならないのです。わたしたちは様々なものに執着していきますが、究極的に最後の執着は、「わたしが」、「わたしの」という我執です。結局は自分を中心にしてすべてを据えて、すべてを理解していこうとする我執が問題なのです。よい人間になりたいと思うのも、所詮「わたし」が思っている限り、わたしの執着なのです。わたしたちは、この我執から離れることができないことこそが、問題なのです。そして、その我執がありとあらゆる罪と傲慢を作り出していくのです。

 ですから、わたしたちは自分で頑張って、努力して悔い改めるのも、わたしが自分でよい人間になりたいと思うのも我執に他なりません。そのような、わたしというものに執着しているわたしの身が知らされること、そしてわたしの我執が破られることこそが、本当の意味での悔い改めなのではないでしょうか。洗礼者ヨハネは「蝮の子らよ」と言って、わたしたちにこの身を知らせ、この我執の身が破られることの必要性を告げ知らせました。しかし、この身が知らされ、この身が破られるのは水の洗礼、つまり人間の業によってではなく、聖霊と火による洗礼、イエスさまの到来によってしか成し遂げられることはないと、ヨハネは宣言しました。ヨハネの時代までは、人の業、力による悔い改めであり、真の悔い改めは人の力によってなされるものではないことが知らされます。ですから、先ずわたしたちが、自分の力で悔い改めることはできないことに気づく、という悔い改めることが必要なのではないでしょうか。こうして、イエスさまの到来、イエスさまとの出会いだけが、わたしたちをこのわが身から、わたしを解き放つことができるということを知らせていくのです。ですから、イエスさまの到来そのものが福音であり、恵みそのものなのです。

待降節第1主日の福音と勧めのことば

♰主の平和

父である神よ、
あなたは救いを待ち望むすべての人とともにいてくださいます。
待降節を迎えたわたしたちの心を照らしてください。
争いや対立が絶えないこの世界にあって、
キリストの光を頼りに歩んでいくことができますように。   
<待降節第1主日の集会祈願より>

■今後のミサ予定 
11月
27日㊐ AC地区 待降節第1主日のミサ  10:30
12月
3日㊏ AC地区 待降節第2主日のミサ  10:30
4日㊐ BD地区 待降節第2主日のミサ  10:30
10日㊏ 第2週につき、ミサはありません
11日㊐ 第2週につき、ミサはありません
17日㊏ BD地区 待降節第4主日のミサ  10:30
18日㊐ AC地区 待降節第4主日のミサ  10:30
24日㊏ AC地区 主の降誕日中のミサ  10:30
25日㊐ BD地区 主の降誕日中のミサ  10:30
31日㊏ BD地区 神の母聖マリアのミサ 10:30
1月
1日㊐ AC地区 神の母聖マリアのミサ 10:30   

ミサでの答唱詩編、アレルヤ唱は朗読します。歌は歌いません。
ミサ参加後2日以内に新型コロナの感染が発覚された方は高野教会の感染専用のメールアドレスにまたは留守電にご連絡ください。詳細は9月17日㊏にお送りしましたメール「ミサ実施要項」を必ずお読みください。
感染防止対策の上、基本的にはご自分の地区のミサに与ってください。
また、どの教会も人数制限などの措置を行っていますのでご注意ください。
京都教区では、主日・守るべき祝日のミサにあずかる義務は免除されています。
体調に不安のある方は、ご自宅でお祈りください。

■京都教区時報12月号が発行されました。冊子は聖堂後ろに置いてあります。京都教区のHPからも読めます。12月号には、花井神父様の記事が掲載されていますので、どうぞご覧ください。
https://kyoto.catholic.jp/jihou/541.pdf

■待降節第1主日(11月27日)より、ミサの式次第の一部が新しくなります。新しいミサの式次第の冊子を忘れずにお持ちください。冊子には必ずお名前をお書きください。

■京都みんなで捧げるミサ 
https://www.youtube.com/channel/UCcpBMMVYqIT3-LkUVGgNFsQ

■待降節第1主日のミサ
https://youtu.be/ug_RnYR5pPw

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マタイによる福音(マタイ24章37~44節)

[そのとき、イエスは弟子たちに言われた。]人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。

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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日から、待降節に入りました。待降節は大きく分けると2つの部分に分かれます。待降節第1主日から12月16日までと、12月17日から24日までとなります。前半は第2の来臨と言われるイエスさまの終末的再臨の希望が祝われ、後半は第1の来臨、つまりイエスさまの降誕に向けた準備の期間となっています。そこで、今日はイエスさまの来臨ということについてお話ししてみようと思います。

カトリック教会の教えにおいては、イエスさまの来臨を2つの来臨として教えます。第1は神のみことばの受肉、救い主であるイエスさまのこの地上での誕生です。第2はイエスさまが審判者として再臨、最後の審判が行われるというものです。その発想自体は、ユダヤ教の終末思想をそのままキリスト教化したものであって、現実がそのようであるかどうかは別の問題です。仏教では真如の世界を教えるために、人間のレベルに合わせて分かりやすく話をすることを方便と言いますが、主の来臨を主の降誕と主の再臨の2つに分けて説明するというのも、ひとつの方便であると言えるでしょう。方便というと、「嘘も方便」ということを考えますが、仏教における方便の捉え方は、嘘の教えという意味ではなく、どこまでも真如の世界を理解できない人間に仏が如来として来て、人間に分かりやすく、その教えを説かれることを言います。ですから、イエスさまが神の国をたとえで話されたことと似ています。神の国のたとえは、神の国そのものを言いあらわしているものではなく、人間の言葉で言いあらわしえない神の国を人間に分かるよう説明しようとするものです。ですから、最後の審判や終末についての教え、主の降誕物語などは、それを事実として捉えるのではなく、真理をあらわすためのたとえ話、方便であると言えばいいでしょう。

わたしたちが聞き慣れているイエスさまのベトレヘムでの降誕物語も、イエスさまが亡くなって半世紀近く経ってから書かれたものであり(マタイ、ルカ福音書)、イエスさまが亡くなった直後の初代教会の人々やパウロたちにとっては問題にならなかった事柄です。時代を経るに従って、人々への教化のために、イエスさまの教えを時系列で描くという福音書という文学類型が成立し-福音書はイエスの伝記ではなく、イエスの生涯を時系列で描くことで福音のメッセージを伝えるという文学様式-、その中で描かれたものということになります。むしろ、主の来臨のもっとも本質的な教えは、ヨハネ福音書1章に描かれていると言えます。「初めに言があった。言は神とともにあった。言は神であった…」と言われる箇所です。そこでは、はじめにみことばがあり、みことばは神であり、みことばによってすべてが成って、みことばはいのち、光であって、光はこの世を照らしていたが、この世は光に背を向けていたことが語られます。そしてついに、「言は肉となって、わたしたちに間に宿られ」と述べることで、わたしたちはいのち、光であるみことばによって救済されることが描かれています。明治時代の仏教学者の曽我量深のことばに、「如来は我なり、されど我は如来に非ず。如来我となって我を救いたもう」というのがあります。そのことばは、キリスト教的に言えば、まさに神の御子の受肉、主の贖いという救いの神秘を解き明かしていると言えるでしょう。

しかし、わたしたちはどこまでいっても、主の来臨を時間の経過の中で、主の降誕と主の再臨との2つに分けて考えることしかできません。つまり、2000年前のユダヤのベトレヘムでの出来事と、その後、いつか将来起こるのであろう主の再臨、最後の審判とに区別していきます。ヨハネ福音書では、みことばである「光は世に輝いている。暗闇は光を理解しなかった」、「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった」と書かれています。そこでは、みことば、光を拒否しているわたしたち人間の姿が描かれ、そのこと自体が裁きとなっていると言われています。ですから、ヨハネ福音書においては、受肉の出来事自体が人類の救いの出来事であり、同時に人類への問いかけ、つまり裁きとなっていることが描かれていきます。ヨハネ福音書の特徴は、人間に分かりやすく説くということではなく、神さまの視点から物事を捉えていこうとすることです-そもそも、神秘を人間に分かりやすく伝えようとすること自体、不可能なことなのですが-。ヨハネにおいては、「永遠における今」ということが強調されますので、救いの出来事を時間の経過の中で描くのでなく、永遠における神の救いの働きそのものが説かれていきます。ですから、イエスさまの降誕は2000年前のユダヤのベトレヘム物語ではなく、今、わたしの中で神のみことばが来てお生まれになること、わたしの魂のうちにおける御子の誕生として捉え、その働きが、今、わたしに届き働いていることが説かれていくのです。

このことは、決してあたり前のことではないのです。皆さんがバチカンに行ったら、教皇様がわざわざ迎えに出てこられるでしょうか。出てこられませんね。出てこられるというのなら、それこそ余程の方である場合でしょう。しかし、たとえ教皇様は出て来られなくても、イエスさまはわたしがどこかに行かなくても、わざわざわたしのところまで来てくださるんです。それが、主が来られるという主の来臨の意味です。教皇様は来られなくても、イエスさまがわたしのところにわざわざ来てくださる、これはよくよくのことだということなのです。ですから、イエスさまの訪れ、誕生をわたしが受け入れないというのは、大変失礼なことにあたりますよね。だから、それを裁きということばで表現したのだということなのです。これもひとつのたとえ、方便なのです。わたしがイエスさまを訪ねるのではなく、イエスさまがわたしのところに来てしまわれるわけです。わたしの罪とか欠点がどうのといったことは何も関係ないのです。わたしたちがイエスさまに背を向けているということが本当はどういうことか、少しイメージができたのではないでしょうか。

またわたしたちは時間の流れの中で考えますから、自分の死のときまで、終末のときまで、イエスさまの訪れが時間的に猶予されていると錯覚してしまい、決して、今というときを生きようとしない危険性が起こってきます。しかし、イエスさまがわたしたちのうちにお生まれになるのは、わたしたちが生きている、今というこのときをおいて他にはないのです。待降節はイエスさまの降誕の準備で、時間の中のこととして強調することによって、わたしたちがイエスさまの来臨を過去の出来事として捉え、過去を回想するようなノスタルジックな後ろ向きの生き方に陥るか、また将来のこととして捉えようとし、物事を先延ばしにするという生き方に陥ってしまいます。わたしたちは、今、待降節のあり方というものを根本的に見直していく必要があるのではないかと思います。わたしたちは確かに時間の流れの中にいますが、わたしが生きているのは過去でも未来でもなく、今というときなのです。