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年間第17主日 勧めのことば

年間第17主日 福音朗読 マタイ13章44~46節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日のたとえ話は、イエスさまのたとえ話というものを理解していくための大切な視点が描かれています。多くの聖書の釈義や説教では、畑に隠された宝、高価な真珠は神の国であり、わたしたちがすべてにおいてそれを捜し求めなければならないというふうに説明されます。確かに神の国がわたしたちの間に到来しており、すべてにおいてそれを探し求めなさいという主張からすると、そのように解釈されるのが普通でしょう。また、マタイの教会の置かれていた状況から考えると、すべてのものを売り払ってでもそれを手に入れたいと願う、それが神の国なのだと説明するのが当然かもしれません。そして、その喜びということが強調されるのでしょう。しかし、普通ならそんなに素晴らしいものであれば、どんなことをしてでも手に入れるということは、理屈にかなっており、そのことに誰も反対する人はいないでしょう。でもよく考えると、誰もが納得できる話をなぜわざわざ、イエスさまはたとえ話で話す必要があったのでしょうか。人々に神の国の素晴らしさを説明するために、わざわざ、このようなたとえが用いられたのでしょうか。そのままいえばわかるのではないでしょうか。

わたしたちは、このたとえ話の中で、畑を買う、また真珠を探し求めて買うというときの主語を、わたしたちだと思い込んでいるのでないでしょうか。神の国のたとえは、いつも神さまの働き、その神秘をわたしたちには解き明かすために用いられてきました。それであれば、その主語はわたしたちではなく、イエスさま、神さまではないでしょうか。あらためてイエスさまを主語にして、このたとえを読み直してみたいと思います。そうすると、宝を探す人、商人はイエスさま、そして、宝が隠されている畑、高価な真珠は、わたしたち人間のことになります。事実、イエスさまはわたしたちのために、自分の持っているものをすべて売り払って、わたしたちを買い取ってくださいました。これがイエスさまの十字架の意味です。パウロは、「あなたがたは、代価を払って買い取られた(Ⅰコリ6:20)」「神の畑(同3:9)」なのです、といっています。わたしたちは、イエスさまからみたら、高価な真珠、宝が隠されている畑なのです。先々週の種まきのたとえで、種がまかれている畑、その畑がどのような畑であっても、その土地には種がまかれているということがいわれました。その畑が荒れ地で、茨の地で、ごつごつした岩だらけの土地であれば、わざわざそれを買おうとする人はいません。しかし、イエスさまにとっては、わたしたちは皆、宝が隠されている畑なのです。どんなに酷い土地であろうと、また豊かな実りをもたらす畑であろうと、もたららさない畑であろうと、宝が隠されている、つまりイエスさまにとって愛おしい土地なのです。そのことをイザヤは「あなたを創造された主は、あなたを造られた主は、今こういわれる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ...わたしの目にあなたは値高く、尊く、わたしはあなたを愛する...恐れるな、わたしはあなたとともにいる(イザヤ43)」といいます。わたしたちは、かけがえのない価値のある、大切なものなのです。イエスさまは決して、わたしたちを上から目線で救ってやろうというのではなくて、すべてを投げうって畑を買って、自分が泥まみれになってでも、わたしを探しておられるのです。イエスさまにとっては、わたしは大切なものなのです。わたしが素晴らしい豊かな土地だからそうしておられるのではないのです。

わたしたちは競争と区別、結果と評価の世界に生きています。だから、競争に勝って選ばれ、より優れたものになり、結果をだして認められなければ価値がないというような価値観を生きさせられています。一般の社会でもそうなのに、宗教の世界にまでその価値観が持ち込まれてしまっています。洗礼を受けて、神さまに選ばれたものにならなければならないとか、たくさんお祈りして、施し善行をして、社会貢献しなければならないとか、もちろんそれらのことは素晴らしいことには違いありませんが、そのこととイエスさまがわたしたちを愛されておられることとは何の関係もありません。イエスさまは、わたしがしたこと、しなかったこと、わたしが罪人であったか、なかったかに関係なしに、わたしを愛し、大切にしておられます。イエスさまは、わたしをわたしであるということだけで、わたしを愛しておられるのです。そのために、自分のすべてを売り払って、血を流して、わたしを探し求め、わたしを買い戻してくださった、わたしたちを地獄の淵から引き出し、解放してくださったのです。それは、わたしたちが魂の深みにおいて、愛され、受け入れられ、認められ、大切にされることに飢えかわいているからなのです。なぜなら、わたしたちは拒否され、拒絶され、傷つけられ、心のうちに寂しさと孤独、絶望と闇をかかえていることを、イエスさまはだれよりもよく知っておられるからなのです。イエスさまは神さまなのです。わたしたちに何が本当に必要なのかを知っているのは、わたしではなく、イエスさまなのです。このイエスさまがご自身の愛を全人類に知らせるためには、たとえで話すしかないのです。体験したことも、考えたこともないものに、真実を話してもわかるわけがありません。だから方便として、イエスさまはたとえを用いられたのです。それが、宝が隠された畑、高価な真珠のたとえなのです。そして、イエスさまは、真実の愛を具体的に知らせるために、わたしと同じ人間となって、血を流して、十字架にかかられたのです。それは、そこまでしなければ、競争社会に生きさせられ、結果を出すことを求められ、駆け引きの世界で生き、拒否され、拒絶され、傷つけられて、傷ついて、自己の中に閉じこもって、“それがすべてだと思い込んでいる”わたしたち人類に、真実の愛を伝える方法が見つからなかったからなのです。

神の国が素晴らしいからそれを手に入れるために頑張りなさいというのであれば、小学生でもわかります。そして、教会でもそのように教えられてきたことで、イエスさまの話を聞いてわかっているつもりになっているだけで、結局はこの世の競争原理と何も変わらない価値観をわたしたちは生きているのです。わたしたちは、イエスさまのことをわかっていると思い込んでいる、しかし、実はイエスさまのことを何もわかっていない、その大きなずれに気づかないほど愚かなのです。ですから、わたしたちはイエスさまにあわれんでもらうしかできないあわれな、愚かな罪人なのです。イエスさまの本当の愛が知らされることで、わたしたちは自分の本当の罪、無明について知らされます。本当の罪とはこのイエスさまの真実を知らないで、駆け引きでイエスさまと何とかやり取りをしようとしていること、それを信仰生活だと錯覚していることなのです。イエスさまを知らされれば知らされるほど、わたしたちは自分の中にある愚かさ、闇が知らされ、イエスさまにあわれんでいただくことしかない罪人であることが見えてきます。イエスさまを知るということは、自分を知るということであり、自分を知るということは、イエスさまを知ること、イエスさまと出会うことなのです。このことを人間にそのままいってもわかりません。だからイエスさまはたとえで話されるのです。

年間第16主日 勧めのことば

年間第16主日 福音朗読 マタイ13章24~30節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日のたとえ話は、善悪という問題をどのように捉えるかということです。実は、今日の毒麦のたとえはマタイ福音書だけにみられるものであり、共観福音書のマルコ、ルカには見られないものです。ですから、今日の箇所はイエスさまに由来するたとえ話というより、マタイの教会の問題が背景にあって、マタイが独自に書いたものであるということができます。マタイの教会の抱えていた問題は、すでにエルサレムの都が滅亡して、自分たちこそ正統なイスラエルの民の後継者であると主張しつつも、ユダヤ教とは袂(たもと)をわけていかざるを得ない状況にあったということです。ですからマタイは、イエスに由来するマルコのたとえ話を受け入れながらも、自分たちの都合の悪いものは削除し、自分たちの主張を展開していくことになっていきます。それがまさにマルコ福音書にだけ出てくるテーマ、よい麦と毒麦、賢いおとめと愚かなおとめ、羊と山羊という区別をするということです。これは、ユダヤ教の中でファリサイ人が自分たちを「わけられたもの」として、自分たちのアイデンティティを作っていった同じ発想です。マタイの教会も、“わける”ということで自らのアイデンティティを形成しようとしていったということです。

そこで、元々マルコ福音書にあった「成長する種のたとえ(4:26~29)」を作り変えたものが、今日の毒麦のたとえであるといえるでしょう。マルコの「神の国は次のようなものである。人が土に種をまいて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそのようになるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂は豊かな実ができる」というたとえ話は、マタイの教会にとっては都合が悪かったのでしょう。ユダヤ教と対立し、自分たちのアイデンティティを確立していかなければならないときに、種は人の知らないところで元気に自ずと成長していくというたとえ話は適切ではないと考えたのでしょう。だから、よい麦と毒麦というたとえにすり替えがおこなわれます。からし種とパン種のたとえは残しますが、「成長する種のたとえ」は、マタイ福音書からも、ルカ福音書からも省かれてしまいます。おそらく、神の国はすべてのものに等しく及んで、働いているというイエスさまの主張は、初代教会においてはほぼ理解されなかったのでしょう。事実、その後のキリスト教は、他を排除していくということによって、アイデンティティを確立してきました。確かに自分たちに反対していくものに対峙していくことは、大変難しいことです。しかし、結局、キリスト教は自分たちと意見の異なるものと対話し調和していく道ではなく、彼らを異端として排除していく道を選んでいくのです。これがキリスト教の歴史です。

しかし、イエスさまの救いというものは、老若男女、善悪の差異を超えた平等の救いであったのではないでしょうか。キリストはすべての人のために死なれたのではないのでしょうか。それとも毒麦にたとえられる人や愚かなおとめ、山羊にたとえられる人のためには死なれなかったとでもいうのでしょうか。毒麦をまいたのは敵の仕業だといいますが、敵を作り出しているのは一体だれなのでしょう。それは他ならぬこのわたしなのではないでしょうか。わたしたちはいつも自分の都合を中心にして、愛するものと憎むもの、味方と敵、内と外、上と下といったあらゆる区別と差別、境界線を作り出していきます。「あの人も、この人も、あの悪い人も、このよい人と同じように救われるのですか」という質問がよく、教会の中でもなされます。わたしたちの考えている神の国は、わたしの好きな人だけが集まった世界、わたしの嫌いなあの人、わたしをいじめたあの人、わたしの敵を受け入れない世界なのです。そんな自分たちに都合のいい神の国がどこにあるのでしょうか。わたしたちは無意識のうちに善悪を判定する判定者になって、自分は善でも悪でもないところに立って考えている、このようなわたしは一体何者なのでしょうか。わたしがよい麦にも毒麦にもなる、何が善か悪かもわからないわたしが、一体どのようにして救われるというのでしょうか。

わたしたちは善人だから、よい結果をだしたよい麦だから、賢明な判断をしたよいおとめだから、もっとも小さいものに施したものだから救われるのではないのです。そんなことさえわからないわたしなのです。わたしたちは生きていくときに善だけで生きられるということはない、また悪だけという人もいないのではないでしょうか。善いことをおこなえる状況にあれば、よいことをいったり、したりすることもできるでしょう。しかし、悪を行わざるを得ない状況に置かれたら、どんな悪いことでもしてしまうのが人間なのです。わたしがよい心の人間だから悪いことをしないのではないのです。たまたま、そうなのです。イエスさまの話を聞いて、感動に打ちひしがれるときもあれば、何にも感じないときもある、たいそう立派な美しい心になったと思えるときもあれば、自分の心のどす黒い醜さに絶望してしまうときもあるのではないでしょうか。わたしの心が善くなり、清くなったから救われるのでしょうか。わたしの心が醜い、また罪人だったら救われないのでしょうか。そうではありません。イエスさまは「わたしはあなたを救う」というお名前です。イエスさまが、「わたしはあなたを救う」といわれるからわたしたちは救われるのです。救いはイエスさまの働きです。それなのに人間が善悪の区別を作り出したり、山羊や羊の区別を作り出したりして、イエスさまの救いを人間が決めるような小賢しいことをすること自体、愚かなことであり、イエスさまのお心に沿うことではないのです。救いは人間の善し悪しによって決まるのではなく、イエスさまのすべての人を救うというお約束によるのです。イエスさまご自身がすべてのものをもれなく救うと誓われたご自身への誠実が、わたしたちの救いの根拠なのです。 

イエスさまはわたしたちを救われるのは、わたしたちの中には何かよいものがあるからではありません。わたしたちはイエスさまによって救っていただかなければ、あわれんでもらうことしかできない存在なのです。わたしたちはイエスさまにあわれんでもらうしかない、何をしでかすかわからない、あわれな罪人なのです。別にあれやこれやの罪を犯したということではなくても、何でもしてしまう得体の知れない存在なのです。その罪悪深重の凡夫を救うといわれるイエスさまの誓い、そしてそのイエスさまのご自身への誠実によって、わたしたちは救われるのです。それなのに、わたしたちは我が身の善し悪しをはかり、小賢しい小手先のわざでイエスさまの救いを推し量ろうとするのです。唯々愚かとしかいいようがありません。わたしの善し悪しやわたしの小賢しい理屈など何の足しになるというのでしょうか。わたしはよい麦で、他の誰かが毒麦とでもいうのでしょうか。マタイの教会のときから、そんなことをやってきたのがわたしたちなのです。単に、わたしたちをいつくしんでくださいなどとはいえないのです。どうぞ、主よ、わたしをあわれんでくださいとしかいうことができないのが、わたしたちなのです。

年間第15主日 勧めのことば

年間第15主日 福音朗読 マタイ13章1~9節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は種まきのたとえです。今日のたとえ話は何をたとえているのでしょうか。多くの人は、わたしはどのような土地かと考えるのではないでしょうか。イエスさまがされたこのたとえ話は、おそらくすべての土地に種がまかれているということのたとえであったと思われます。しかし、後代の教会は「種がまかれている」という事実ではなく、「種がまかれた土地」に関心が移っていったと思われます。そもそも、イエスさまがたとえで話される目的は何なのでしょうか。それはたとえでしか話すことができない、人知を超えた真実だからでしょう。しかし、今日の聖書の中ではすでに「天の国の秘密を悟ることがゆるされているもの」と「ゆるされていないもの」という区別が現れてきます。人間が境界線を作り出したとき、もう真実は本質からずれてしまっています。真実は人々を分け隔て、区別、差別しませんし、境界線を引きません。本来の宗教のあり方もそのはずです。なぜならば、それがイエスさまの願い、イエスさまの救いであり、それが神の国であるからです。

イエスさまは一部の選ばれた人々のためにだけ、話されたのでしょうか。イエスさまは一部の選ばれた人々のためにだけ、十字架にかかられたのでしょうか。いいえ、イエスさまは全人類の救い主です。全人類の救い主であるということは、文字通り「救われたもの」と「救われないもの」がないということです。神の国はすべての人のものであって、そこには善い人悪い人、大きいもの小さいもの、善い人生と悪い人生、幸せと不幸、救われたものと救われないもの、天国と地獄という区別がない世界です。しかし、わたしたちはこの世界をすべて区別して、境界線を引くことで理解できるのだと考えているのです。ですから、すでに種がまかれているという現実ではなく、どのような土地であるか境界線を引いて捉えようとしていきます。今日の箇所では、土地をよい土地と悪い土地に区別し、悪い土地をさらに道端の土地、石だらけの土地、茨の生えた土地というふうに区別していこうとします。この境界線を引いた内側にいることを内といい、境界線の外側にいることを外といい、内側にいる人を味方、仲間、同朋、身内、友人といい、外側にいる人を敵、嫌いな人、都合が悪い人というのです。その境界線は何処に引かれているのかというと、わたしの都合というわたしの物差しの上に引かれているのです。

この境界線の中にいることは心地よい守られた世界ですが、閉じられた世界であり、どこまでもわたしの都合の世界です。このような境界線を引くことを迷い、罪といいます。人間社会は必ず境界線を作り出していきます。そして、どの宗教も境界線を引き、救われた世界と救われない世界を作り出していきます。カトリック教会もそうです。そして、自分たちは救われた世界にいると主張して、救われていない世界にいる人たちを自分たちの世界に呼び込むこと、救われた世界の仲間に入るように勧めることが宣教であると勘違いしています。これほど愚かなことはありません。カトリック教会は何百年間もそうやってきましたし、今でも上層部の指導者の方々は本音ではそう思っているのではないでしょうか。しかし、こんな宗教は偽っぱちだとイエスさまはいわれたのです。だから、ときのユダヤ教の宗教的指導者たちによって十字架に送られてしまったのです。イエスさまがいわれたことは、すべての人に種がまかれているということでした。

イエスさまのたとえはすべて神の国のたとえですが、神の国とはそのような境界線をもたない世界、人間の作り出す境界が破壊された世界です。神の国が完成するとき、もはや教会はありません。神の国は、あたかも球体のようなものであるといえるかもしれません。球体には上下、左右、東西南北はありません。自分のいる場所から見れば、それらの区別があるように見えますが、球体そのものにはその区別はありません。人間が自分たちの都合で、北極、南極、経緯緯度を決めているだけなのです。いのちとしての地球は、本来そのようなものではないといえるでしょう。それがみんな自分を中心にして、上下、左右、東西南北を決めているだけであって、このわたしという起点がすべてなくなった状態を神の国というのです。神の国は、わたしがすべて、すべてがわたしとなった状態です。これを教会は神秘体験と呼んできました。

神秘体験とは何か不思議なことを体験するとか、お告げがあるというようなことではありません。わたしと世界はひとつであることを体験することなのです。よく考えたらわかるのですが、わたしは決してわたしだけで存在することはできません。わたしが存在するためには、両親が、またその両親が、もっと遡っていくと、それはこの地球、この世界、宇宙と繋がっていきます。そして、わたしの周りにあるもの、人や社会、空気や水など環境といわれるものすべて、もし何かがひとつでも欠けていればわたしという存在はないのです。種がやがて大きな木になるためにも、水、土地、太陽、空気、蒔く人などいろんな要素が必要になります。そしてその水があるためには、水素と酸素が必要で、夫々のためには、夫々すべてのものが必要になります。種はやがて大きな木となるすべての本質をそのうちに含んでいますが、それだけで、芽が出て木となることはできないのです。すべてのものが総動員して、そのいのちを生かしているのです。それはわたしたちも同じです。わたしというひとりを生かすために、この世界がすべて総動員して働いているのです。そして、そのわたしも他のいのちを生かすための働きとなっています。このように考えると、わたしという存在はすべてのいのちによって生かされており、いのちそのものと繋がっていることがわかります。わたしたちを生かしている根本的な大きないのちを、わたしたちは永遠のいのちとか、真理とか、神の国とか呼んでいるのです。わたしがどんな土地であるのかといった、そんなみみっちい話ではないのです。まして、自分の周りに境界線を作り出して、その内側に引きこもるような話ではないのです。そのような自分の世界に閉じこもること、これが地獄であるといったらいいでしょう。わたしたちは救い、解放を求めていながら、境界線を引いて自分の内に閉じこもるのであれば、わたしの救いという淵に中に沈んでいってしまうのです。

年間第14主日 勧めのことば

年間第14主日 福音朗読 マタイ11章25~30節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

「これらのことを知恵あるものには隠して、幼子のようなものにお示しになりました。そうです。これはみ心にかなうことでした」とイエスさまはいわれます。ルカでは「そのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれていわれた」となっています。この場面で、いかにイエスさまがお喜びであったかがわかります。それではイエスさまの喜びとは何でしょうか。それは、神さまの本当のお姿が知られることです。聖書の中では、イエスさまは、父と子という関係性で、神さまのお姿、本質を説明しようとされました。おそらく、イエスさま自身もユダヤ教の人々にも、神さまのまことのお姿を伝えるのに親というイメージが一番わかりやすかったのでしょう。このイメージは、後代には、三位一体という教えになっていきますが、イエスさまの意図は三位一体の教義を教えることではなく、まことの神さまのお姿を皆に伝えることにありました。イエスさまのお苦しみは、本当の神さまが知られていないこと、まことのお姿が知られていないことです。イエスさまは、まことの神のことば、人となったまことの神、愛の神さまです。ですから、神さまのお苦しみは、イエスさまのお苦しみでもあるのです。イエスさまは愛の神さまですから、それなのに本当のお姿が知られていないということは、どれほどのお苦しみだったでしょう。

それまで、人々は本当の神さまのお姿を知りませんでした。当時のユダヤ教の人々が知っていた神さまというものは、自分が与えた律法を守るものには祝福を、律法を破るものには罰をもって報いる勧善懲悪の神さまでした。これを旧約の世界では契約と呼んでいます。契約についてはいろいろと解釈がされており、本当は愛に基づく関わりであり、イエスさまによって新しい契約が交わされたのだと説明しています。普通に神さまの愛を知らせたところで、人間には理解できないので、方便として律法を与えて、契約を結んだのだという解釈です。この考え方は、とても分かりやすく、人間にとって納得がいくものだったと思います。人間は頭で考えてすべてを分け隔てていく存在ですから、物事を単純明快な原則で理解したいという根本的な願望があります。これこれをすれば、こうなる。これこれをしなかったので、こうなるという考え方です。もちろん、原因があって結果があるということは真理なのですが、それはわたしたちが考えるほど単純なものではありません。しかし、わたしたちは、たくさんお祈りしたら、たくさんお恵みをいただけるとか、悪いことをしたので、罰を受けるといった非常に分かりやすい、1+1=2のような単純な考え方、教えを好みます。これなら誰でも納得させることができるのだと思うのでしょう。しかし、現実の世界は、必ずしもわたしたちが考える勧善懲悪では動いていません。どうしてあんなにいい人がこんなに苦しむのかとか、どうしてあんなに悪い奴がのさばっているのか等々です。それをわたしたちは不条理だとか、想定外だといっているのです。わたしたちは、そうした現実を受け入れることができないし、納得もできないのです。だから、神さまは必ず勧善懲悪の神さまだと信じたいのです。しかし、これはわたしたち人間の単なる願望の投影に過ぎません。

そうなると人間はどうなるかというと、神さまによって認めてもらうために、駆け引き、数で取引をするようになります。たくさん善をおこなえば、神さまによく思われる。たくさん祈れば、天国に迎え入れてもらえる。罪を犯しても悔い改めれば、償えばゆるしてもらえる、というよう考え方です。一見すると説得力もあって、よい教育方針だと思われるかもしれません。事実、ほとんどの宗教がこのような教えに変貌していきます。平安時代、鎌倉時代に貴族や武士がこぞって、お寺を保護し、寄進したのは、自分たちの罪滅ぼしのためだったのです。ユダヤ教も、まさにそのような神さまと駆け引きをする状況だったわけです。そこにイエスさまが登場して、今までにないまったく新しい、ほんとうの神さまの姿を知らせたのです。

そして、イエスさまがユダヤ教の人々に神さまのまことの姿を知らせようとしたとき、その姿を親としてたとえられました。当時のユダヤ教の世界で、人々にとって最もわかりやすく、そして自分のことを無条件で守ってくれ、認めて、大切にして愛してくれ、自分のためであれば自分のいのちを投げ出すこともいとわない存在に一番近いものは親だったのでしょう。考えてみると、親は子どもを理屈で育ててはいません。赤ちゃんは笑っても泣いてもよしよしといわれ、お腹がすいて泣いても、うんちをしてもよしよしといわれて育てられます。これが大人であればそうはいきません。失敗をすれば叱られ、ミスをしたら注意されます。結果を出せば褒められ、役に立てば認められます。わたしたちは大人になるにつれて、いつの間にか、努力をしろ、結果をだせといった勧善懲悪の価値観を生きさせられているわけです。社会ではこれを教育と呼んでいます。何をしてもゆるされるのは赤ちゃんのときだけです。イエスさまは、神さまのまことのお姿というのは、この赤ちゃんに対する親のようなものだといわれたのでしょう。だからといって、神さまはわたしたちが何をしてもいいといわれたのではなく、わたしたちはひとり残らず、この神さまの大きなみ手のうちにあってよしとされているということなのです。人間はみんな違っています。いろいろな人がいます。それと同じように神さまの子どもたちもいろんな子どもたちがいます。人間的に見たらよい子も悪い子もいます。しかし、神さまはその子どもたちをひとりとして嫌わず、区別することなく、同じように、その子ひとりしかいないかのように慈しまれているということなのです。そのまことの神さまの愛に触れたとき、わたしたち人間の中に変化が起こります。但し、その変化が起こることが目的ではありません。どの子どもたちも同じように慈しまれていること、そこに何の分け隔ても、優劣も、差別もないということ、これが神さまのお姿、真実なのです。

ですから、大切なことは、イエスさまがまことの親としてたとえられた、その神さまの愛にわたしたちが触れることがすべてであるといったらよいでしょう。その愛に触れることによって、神さまのまことの姿がわかります。すべては、そこからしか始まりません。子どもたちの中のいさかいを調整しても、うまくいきません。駆け引き、計算することで育てられてきた人間が、共生できるはずがありません。結局は、すべての人がまことの愛、慈悲、慈しみに目覚めることなのです。しかし、そのすべての人といっている人は誰かといえば、結局は他の誰でもないこの“わたし”がその愛に、慈悲に触れ、目覚めさせていただくことなのです。皆一緒にというのは美しい理念ですが、うまくいきません。単なる理想やスローガンで終わってしまいます。このわたしが目覚めさせていただくことなしに、皆が目覚めていくということなどあり得ないのです。その逆も然りで、皆が目覚めることをないがしろにして、わたしの目覚めもないのです。だから、わたしが他の人に教えようとする前に、わたしが目覚めさせていただくことしかないのです。これは、パウロが「イエスはわたしのために死なれた」といったことであり、親鸞が「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなり」といったことなのです。これはだれの問題でもなく、わたしの問題なのです。他の人に説教するようなことではないのです。ですから、わたしたちは説教で皆さんに話していますが、わたしは皆さんに話しているのではなく、実はわたしに話しているのです。今日も皆さんに説教しているのではなく、わたしに話しているのです。こうして、わたしは皆さんに話しならが、イエスさまに聞かせていただいているのです。

年間第13主日 勧めのことば

年間第13主日 福音朗読 マタイ10章37~42節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日はいのちというものをどのように捉えていくかという大きなテーマが取り上げられます。いのちというものは、どの宗教でも取り扱われる根本的な問題です。どの宗教でもいきつくところは、いのちとは何かということだと思います。人間は生きている限り、必ず死というものと直面しなければなりません。死には第三者の死と第二者の死、それに第一者の死があります。第三者の死というものは三人称の死で、わたしたちはそれをほぼ数字で知らされます。第二者の死というのは、二人称の死でわたしが名前を知っている家族や友人の死で、わたしたちは少なからず動揺させられます。しかし、第一者の死は、わたしの死ですから、わたしが体験することはありません。わたしが死んだとき、わたしの意識はないのですから、それが何であるかを説明することはできません。しかし、人間は説明できないこと、わからないことを非常に恐れます。そして、特に第二者の死からわたしたちは大きく影響を受けますから、死が大変なものであると想像してしまいます。しかし、それは想像の域を出ません。でも、どうも大変なことのようだという印象がありますから、それをなるべく遠ざけようとする、見ないようにする、それが迫ってきたときできるだけ先延ばしにしようとします。これは結局、いのちとは何かという問いに他なりません。現代の科学や社会を見ていると、いのちという根源的なものを問うことなく、現世の生命現象にばかりスポットを当て、出来るだけ死を回避することにエネルギーを裂いているように見えます。もちろんそれは大切なことなのですが、目に見える生命現象を解明して、コントロールするだけでは何も変わりません。古来、宗教は、わたしたちが生きるとはどういうことであり、どうしたら本当に生きることができるかを取り組んできました。

いのちについては、特にヨハネ福音書が取り上げています。イエスさまは「わたしは復活でありいのちである。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きているものでわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことがない(11:25)」といわれました。神さまとは、イエスさまと何か。神さまとは、イエスさまとは、本当のいのちである、いのちそのものであるということがそこではっきりといわれています。ですから、本当のいのちを生きるということは、イエスさまを信じること、その大きないのちに自分をまかせることであるといわれています。本当のいのちとは、死後のいのちではなく、わたしたちが今生でこのいのちを生きること、信じるとはそのいのちをいただくこと、そしてそのいのちを生きて、大きないのちそのものの根源に帰っていくことであるといえると思います。これを永遠のいのちといっています。

今日の箇所で、自分のいのちを得ようとするならば、自分のエゴを捨てて、イエスさまの本当の大きないのちに自分もまかせて生きることであるといわれます。わたしたちが、わたしのいのちと思っている小さな身体的生命に執着するならば、かえってそのいのちを失ってしまうといわれています。わたしたちがイエスさまの大きないのちにまかせて生きるならば、死んでも死なないのだといわれます。それを、ヨハネでは「わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きているものでわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことがない」といわれています。しかし、この地上の生命体である限り、わたしたちの身体的生命は必ず死を迎えます。この地上での生命尊重だけを説くのであれば、普通の現代人が考えている生命観に留まってしまいます。かといって過去の教会のように、この地上の人生は仮の宿と捉えて、天国にいくことを目的にしたような生命観も違います。この地上のいのちを説くにしても、天国でのいのちを説くにしても、いずれも自己中心としたいのちのあり方から一歩も出ていないからです。この地上で生きながらえたいのはどうしてでしょうか。わたしが死にたくない、わたしが生きたいからです。天国のいのちを望むのはどうしてでしょうか。わたしが救われたい、わたしが永遠のいのちを手に入れたいからです。この地上であるか来世であるかの違いだけで、いずれのいのちの捉え方も、自分のいのちをながらえたいという自己中心な願いから出たものであって、これでは本当のいのちを生きることはできません。生きたい生きたいと願っている個人のいのちを引き延ばすことは、信仰でも、宗教でもないのです。そうではなく、イエスさまこそがまことのいのちであり、いのちそのものであるということなのです。

そのまことのいのちは、イエスさまの生き様に現されています。そのいのちは、個体のうちにある生命現象を超えていくというところにあるのです。つまり、本当のいのちというものは、自己の中に留まらず、個体の外に溢れ出ていくところにその本質があるということです。いのちの本質は愛ですから、愛は自分のすべてを絶え間なく与えることにあります。ですから、まことのいのちそのものであるイエスさまは、自分のいのちを他者に与えるということにおいて、己を十字架に釘付けにするということにおいて、いのち本来の姿を生き抜かれます。ですから、イエスさまにおいては生きるとは、自分のいのちを失うこと、自分のいのちを捨てること、自分を超えていくことであるといえるでしょう。ですから、わたしの個体だけがいのちだと思っている限り、本当のいのちをわたしたちは知ることはできません。死んでしまったらお終いだという考え方も、死んで魂は天国にいくとい考え方も、いのちを物のように捉えています。いのちを自分の中だけに留まらないものにしていく、自分という枠を超越していくことによって初めて、本当のいのちに値するものになるのではないでしょうか。

実は、わたしたちはこのいのちというものを直接に知っているはずです。なぜなら、わたしたちはいのちを生きているからです。どこまでも生きたいと願うのはわたしですが、わたしは自分という小さな枠を出ていくことの大切さも知っています。もちろんイエスさまがそれをはっきりと教えてくださいましたが、そのことをわたしたちは生まれながらに知っています。とっさのとき、わたしたちは自分のいのちを守ろうとしますが、同時に自分のいのちを省みず他のいのちを守ろうともします。これが人間なのです。わたしたちのうちに、すでにいのちの根本的な願い、まことのいのちの働きが与えられているのです。そのいのちの働きに気づいていくこと、ここに信仰の本質があるのです。そして、この信仰はわたしたちが作り出したものではなく、このいのちの働きに中にすでに与えられているイエスさまの真実でもあるのです。

年間第12主日 勧めのことば

年間第12主日 福音朗読 マタイ10章26~33節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の福音の中で「覆われているもので現わされないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい」とイエスさまは使徒たちにいわれました。少し不思議な箇所です。あなたがたが暗闇でいわれたことを、耳打ちされたことを、明るみでいい広めなさいというのであれば、その耳打ちされたことの内容が話されても不思議ではありません。しかし、その耳打ちされた事柄については何も述べることなく、明るみでいい、屋根の上でいい広めなさいということだけがいわれます。それも、恐れることなく、確信をもってそうしなさいといわれます。やっぱり、不思議な箇所です。イエスさまが使徒たちに暗闇でいわれ、耳打ちされたこととは何なのかと考えてしまいます。しかし、その中身が何であるのかは一切語られていません。

実は、多くの宗教での聖典がこのような形態を取っています。つまり、真の真理、真実は明らかになっているが、人間の知性や理性で理解し把握できるものではないので、その真実の壮大さについて述べるか、その真実をたとえで話すという手法が用いられます。宗教は、今までなかった新しい真理を発見して教えたり、また人としての生き方である道徳や戒律を教えたりするものであると思われがちですが、そうではないのです。むしろ、宗教は、すでに明らかになっている真実をわたしたちに解き明かし、それに気づかせる働きであるといえるでしょう。そのことをマタイは次のように語っています。「イエスはこれらのことをみな、たとえを用いて群衆に語られ、たとえを用いないでは何も語られなかった。それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『わたしは口を開いてたとえを用い、天地創造の時から隠されていたことを告げる。』(マタイ13:34~35)」その箇所から見ると、イエスさまが伝えようとされたことは、天地創造のときから隠されていた真実であり、それをイエスさまはたとえを用いて語られたということになります。つまり、ここでいわれていることは、イエスさまはすべてをたとえで話されたということなのです。聖書に書かれていることをそのまま受け取り、そのまま信じることが大切だと思われているようですが、イエスさまがおっしゃったのは、聖書で書かれている言葉を文字通りに読むことではなく、その言葉の奥にある真実、真のことばを聞くようにといわれているのです。わたしたちが文字の字義に囚われてしまうと、ことばの本当の字義から離れてしまうのです。イエスさまはどのようにパンを増やされたとか、どのように湖の上を歩かれたとか、イエスさまがどのように病人を癒されたとか、たとえで話された教えをそのままに捉え、それらの言葉自体に拘ってしまうとイエスさまの真実から離れてしまうということなのです。

ゲーテのことばに「真理は見出されてすでに久しい。気高い精神たちはこれによって結びついた。古き真理が真理をつかんでいる」ということばがあります。つまり、宗教というものは、改めて何か新しい真理を発見して、新しい教義が語られるのではないということなのです。真実は、わたしたちが発見し、気づく前からすでにわたしたちに明らかにされており、わたしたちを生かし包み込んでいるということなのでしょう。そのことを述べた詩編があります。「天は神の栄光を語り、大空はみ手の業を告げる。日は日にことばを語り継ぎ、夜は夜に知識を伝える。ことばでもなく話でもなく、その声は聞こえないが、その響きは地を覆い、その知らせは世界に及ぶ。神は天に太陽の幕屋をすえられた。太陽は花婿のように住まいを出て、勇士のようにその道を走る。その果てから姿を現しその果てまで巡りゆき、夜の住まいへの道をたどる(詩編19)」そこでは神が何であるかは語られません。神の栄光はことばでもなく、話でもなく、その声も聞こえることはなく、この宇宙万物がすでに神の栄光を語っているというのです。ピラトがイエスさまを尋問したとき「真理とは何か」と聞かれても、イエスさまはお答えになられませんでした。イエスさまが真理について話されるとき、真理とはこういうものであるとはお話にならず、すべてたとえで話されました。なぜでしょうか。真理は人間の言葉でも、人間の知性でも、人間の感覚でも捉えることはできない、色も形もないものだからです。もっとはっきりいうと、イエスさまご自身が人となった真理、真実だからです。ですから、イエスさまは「わたしが真理である」といわれ、イエスさまご自身が真理について説明する必要などないということなのです。

聖書の中では、イエスさまが具体的に何を話されたか、何を教えられたかということよりも、聖書の言葉を通して語っておられる真理そのものである神のことば、イエスさまに聞くこと、そのイエスさまと出会うことが大切なのです。大切なことは、「わたしは救う」というお名前のイエスさまと出会うことなのです。「わたしを救う」というお名前のイエスさまこそが、真実であるということなのです。その真の真実であって、人となられたのがイエス・キリストだということです。日本では古来、真実となった人間のことを、命(いのち)と書いて“みこと”と呼んできました。命(みこと)とは、まさに人間となった真のいのちです。ですから、イエスさまは“みこと”そのものであるといったらよいでしょう。みことは、命(いのち)と書きますし、また本当に尊いものという意味で、尊とも書き、真実の偽らないことばという意味で「御言」とも書かれます。そのことを伝えるために聖書があったり、教義があったりするのですが、伝える言葉はやはり人間の言葉を用います。しかし、その言葉を聞くのではなく、その言葉を通って響いてくるいかなる人間の言葉でないまことのことばを聞くということなのです。このことばが聞こえてくる、それを聞くことを信仰というのです。「お前を救う」といわれる真実が、わたしに届いている、つまりわたしたちがイエスさまを信じるということは、お前を救うといわれている真実を聞くことが即信仰になるのです。どんなに難しい教義を知っていても、どんなに難解な聖書釈義をしたところで、それは信仰ではないのです。それだけでは人間のはからいが多くなるだけで、惑いが深くなるだけです。教義や釈義は必要ですが、それはひとえにわたしたちを真のことばであるイエスさまとの出会いに導くため、「わたしはお前を救う」といわれる単純な真実とわたしが出会わせていただくためのものなのです。わたしの方からイエスさまに出会っていくのではありません。そうれならば、どこまでいってもわたしの都合です。そうではなく、わたしの方に来てくださるイエスさまがわたしの中で明らかになってくださること、それを真のことばを聞くということなのです。その呼びかけは、わたしたちが右往左折している日々の生活の中に響いています。

今の季節、庭の虫の鳴き声が聞こえてきます。虫の鳴き声を「声」として聞くのは日本人だけだといわれます。外国人には虫の声もただの雑音に聞こえてくるようです。水の音、海の波の轟、蛙の鳴き声、鳥の声、すべてはわたしたちに響いてくるイエスさまの呼びかけなのです。それは、わたしが苦しんでいるときも、どうにもならないと嘆いているときも、相変わらずに響いてきているのです。わたしたちも、日々の生活のただ中で、イエスさまの声を聞かせていただきたいものです。

年間第11主日 勧めのことば

年間第11主日 福音朗読 マタイ9章36~10章8節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の福音はイエスさまが、12使徒を選ばれる箇所です。イエスさまは、人々が「飼い主のいない羊のように弱り果てて、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれ」、12人の弟子を呼び寄せて「汚れた霊に対する権能をお授けになった」とあります。「汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった」とその理由が書かれています。イエスさまのすべての業の動機は、苦しむ人々へのあわれみから始まります。12人は、自分から志願してイエスさまの使徒になったわけではありません。ただイエスさまの使命を果たすため、イエスさまが呼ばれたのです。そして、イエスさまの使命を果たすために力を授けられた人たちでした。しかし、わたしたちは、数ある弟子の中から、選ばれるべき素質を供えているから12人が選ばれたのだ、選抜されたのだと考えがちです。

聖書の中で「選んだ」ということばが使われていますが、このことばが曲者です。わたしたちは選んだと聞くと、大勢の中からある人たちが特別に選ばれたのだと考えてしまいます。わたしたちは、選ぶということを聞くと、反射的に選ばれたものと選ばれなかったものがいると考えます。この世界は、物事を分け隔て、より分けることで成り立っているとわたしたちは考えているからなのです。男と女に分けたり、国籍を分けたり、大人と子どもとか、優秀な人と劣っている人を分けるなど、わたしたちは普通のこととしてそのようにしています。多い少ないということでも、何かに比べて多い少ないということであり、そこに何かが基準になっています。そうしたあらゆる区分、多い少ないなどを判断しているのは誰かというと、“わたし”なのです。“わたし”がすべての基準になっているのです。では、そのわたしとはいったい誰なのでしょうか。

わたしというものは、誰かがいることで成り立っている存在です。わたしたちは、先に親がいて子どもがいる、先に先生がいて生徒がいると考えるかもしれません。しかし、子どもなくしては親になれませんし、生徒なしには先生になることはできません。そして、その反対も同様です。世界の中でのわたしという存在は、相手がいて初めて成り立つものであるということが見えてきます。そして、その相手との関係性の中で、わたしの呼び名が変わってくるということもわかります。親子、先生生徒、夫妻、上司部下など、わたしたちは、相手との関係性や状況のなかで起こってくる自分の役割の名前がわたしであると思っています。そして、そのような名前に拘っていきます。そこからさまざまな状況のなかで、苦しみがおこってくるのです。親であれば、子どもが思うようにならないとか、子どもであれば、親がわかってくれないということでしょうか。でも親であること、子どもであることはわたしのすべてではありません。わたしは親だというときに、わたしは子どもに対してだけ親であって、親でない自分というものも当然あるはずです。

もっとわかりやすい例は老人とか病人とか、死人でしょう。わたしは病人ですというときに、わたしは健康な人に対して病人といっているのですが、それでは病気はわたしであるかというとそうではありません。例えばわたしの中のある部分が癌になって、わたしは苦しんでいる。その癌はわたしなのかというと、そうであるともいえるし、そうでもないともいえるでしょう。癌があればわたしは病人ですが、手術で癌を取ってしまえば、それは摘出された悪腫という細胞になります。もっと簡単にいえば、爪を切る前まで、爪はわたしでしたが、切ってしまえばゴミになる。その最大の現象が排泄です。数秒前までわたしであったものが、数秒後には汚物になるのです。そうなると、わたしというものは一体、どこまでがわたしで、どこからがわたしでないのかが分からなくなります。わたしたちは死ねば土に返り、他の生きものを生かす栄養になります。それを昔の人は、草葉の陰から見守るといいました。

わたしたち人間はこのような不安定な状態でいることに耐えられませんから、そのときたまたま自分が置かれている状況のなかで付けられた名前にしがみつきます。社長とか大臣とか、親とか先生とか、司祭であるとかなど、それもその場の名前でしかありません。それはたまたまその人がそういう状態であったからであって、その立場がその人ではないのです。聖書の中に出てくるファリサイ派のファイリサイということばは、「分けられたもの」という意味だそうです。ファイリサイ派の始まりは、神さまとの関わりの中で純粋に神さまを求めていこうとすることが、彼らのあり方でした。それがいつの間にか、わたしは他の人とは違うんだ特別な存在なんだ、わたしはより神さまに近いのだと錯覚し、それ以外の人たちを見下すようになっていきました。12使徒が選ばれたと聞くと、わたしたちは多くの弟子たちから選りすぐられて使徒になったのだと考えがちです。だから使徒はわたしたちより偉くて、わたしたちを指導する立場なんだと本人も考え、周りもそう考えがちです。しかし、そうではないのです。ただ、彼らはイエスさまとの関わりの中で、イエスさまの使命を果たすためにだけ使徒なのです。ですから、イエスさまなしの使徒はあり得ません。わたしたちにイエスさまの関わりを体感させてくれるもの、それが本来の使徒のあり方でしょう。使徒として選ばれたということは、イエスさまから愛されているということ以外の何ものでもありません。

その意味からいえば、わたしたちはすべてイエスさまの使徒、イエスさまに愛されたものです。そのようなイエスさまとわたしの関わりについて、誰からどうこういわれることではありません。使徒というのは、イエスさまの使命を果たすためにだけ使徒であって、人間同士の関わりにおいて、上下や優劣などの区別を生じさせるものではありません。しかし、そのことを12使徒もわからず、自分たちの中で誰が偉いのかを議論していました。このようにわたしたちは自分を他人と比べることでしか、自分を認識でないのです。そのことをイエスさまはわかっておられましたから、12使徒の中にイエスさまを裏切ることになるユダが入っていたのでしょう。わたしたちは必ず、自分は他の人より特別に選ばれたのだと自惚れ、選ばれなかったダメな奴だと落ち込むからです。ですから、このユダは、イエスさまを裏切ったあのユダではなく、わたしの中にいるユダのことを意味しているのです。

わたしたちは、たまたまこの地上に生まれて、たまたまこの時代にいのちを与えられて、夫々のいのちを生きています。その中で夫々の場があって、たまたまその名前がある立場にいるだけなのです。わたしたちが親から付けられた名前であってもそうです。たまたまであるということは、わたしの望んだこと、わたしが選んだことではなく、すべて与えられたものであるということなのです。そのことを忘れ、その名前にしがみつこうとするとき、わたしたちはユダである、イエスさまを裏切るものであるということなのです。ですから、このような不安定なわたしですから、イエスさまを裏切ることはある意味では当然、自然に起こりうるということでもあるのです。そのことを知らしめるために、ユダが12使徒の中に入っていたのでしょう。しかし、たとえわたしたちがユダであったとしても、それでもわたしたちは使徒であり、わたしたちはイエスさまから呼ばれたもの、愛されたものなのです。その真実は永遠に変わることがありません。

この地上のものはすべて過ぎ去っていきます。しかし、イエスさまとの関わりは決して過ぎ去ることがありません。このイエスさまとの絶対的な本来のあり方を見失い、わたしというものに拘り続けているわたしを目覚めさせていこうとする働き、それが使徒の本来の使命であるといえるでしょう。ですから、使徒というのは役職ではなく、わたしたちのうちにおける神の働きであるといえばいいかも知れません。わたしたちは改めて、使徒の捉え方が見直すように望まれているのではないでしょうか。

キリストの聖体 勧めのことば

キリストの聖体 福音朗読 ヨハネ6章51~58節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

三位一体の主日の翌週である今日は、キリストの聖体をお祝いします。三位一体のお祝い日に、わたしたちを根底において生かしている大いなるいのちの働きについて黙想しました。わたしたちの信じている神さまというのは、遠いどこか、雲の上の天国におられる神さまではなく、わたしたち生きとし生けるものを根底において支え、わたしたちをそのいのちで生かしておられる方であることを味わいました。ですから、神さまといってもどこかに他所におられるということではなく、大きな神さまがわたしを包み込んでおられるというか、同時にわたしの内にも神さまがおられる。あたかも大海を泳いでいる魚のように、神さまの中にわたしがいる、そして神さまがわたしすべてを満たしているといえばいいのかもしれません。そして、絶え間なくわたしを支え、いのちを与えておられる。それも、ご自分のいのちを失うことによって、わたしたちを生かしておられるということを、イエスさまはご自分の生涯、特に受難、死、復活によって示してくださいました。

わたしたちのからだを構成する細胞は、一日に何億個もの細胞が死んで、新しい細胞に生まれかわります。わたしたち個体は古い細胞が死ななければ、わたしたちの生を保つことはできません。つまり、死があってはじめて生があるというのが、いのちの本来の姿なのです。ですから、わたしたちが生きるということは、いつも死と一緒に生きているのです。この地球自体も、過去からの無数の生きものたちの死体が積み重なって出来ており、わたしたちはお墓の上に生活しているようなものです。化石燃料にしてもそうで、わたしたちは死者によって生かされているのです。このように、わたしたちは他のいのちによって生かされているのです。ですから、わたしたちは決して自分ひとりで生きているのではありません。わたしたちはいのちを分け合っていくことによってしか、生きていくことはできないのです。はっきりいうと、この地上においては、すべての生きとし生けるものは自分以外の他のものからいのちをいただくことによってしか、そのいのちの営みを続けていくことはできないのです。

そのわたしたちが、いのちを保つための根本的な行為が食べるということです。食べなければ死んでしまいます。昔は、食べられなくなるとお迎えが近いといったものです。しかし、わたしたちが食べるということは、必ず他の生きものからいのちをわけてもらうことなのです。生き造りなんていいますが、結局は殺して食べています。この地球上でもっとも酷い殺生をしているのは人間です。人間はありとあらゆるものを食べています。牛や羊は草しか食べません。それなのに、わたしたちは牛肉をおいしいおいしいといって食べているわけです。多くの生きものの食べ物になっている植物は、人類が誕生する何十億年も前から、光合成というシステムを取り入れて進化し、現生命体の中ではもっともエコな持続可能な生態を造り出してきました。植物は、まさにSDGsそのものです。しかし、そのSDGsにもっとも反しているのが人間なのです。それに今頃になって気づいて、エコだとか、SDGsだなどというのは、他の生きものから見たら本当に恥ずかしいことなのではないでしょうか。

人間以外の生命体は、他の生命体から必要な分だけのいのちをわけてもらって生きています。弱肉強食という生態系を取っていますが、かといっていのちを無差別に無意味に狩るということはありません。しかし、知性をもった人類だけが、必要以上のいのちを狩り、搾取し、強奪し、乱獲するようになってしまいました。そして、その欲望はとどまるところを知りません。しばしば、その欲望は競争、暴力となり、それがわたしとわたしの親しい周りの人以外のすべてのいのちに向けられていくようになりました。それが人間に向けられていくとき、富の独占と搾取という形態を取り、貧困、飢餓問題になっていきます。また、自己の優位性を主張し、他者を隷属させるという形態を取っていくと、支配被支配の構造を作り上げ、権威権力を握り、パワハラから始まって、ありとあらゆる暴力、犯罪行為になっていきます。その究極が戦争という名を借りた殺人、植民地支配です。どうして知性をもっている人間だけが、このように酷いことができるのでしょうか。わたしはキリスト者ですから決してそういうことをしませんというかもしれません。しかし,大なり小なり、わたしたちはやっているわけです。むしろ、わたしの中にある自己中心性ということについて、わたしの思いが至らないということが、ありとあらゆる問題を引き起こしているのだということに気づく必要があると思います。わたしがよい人間だから、キリスト者だから殺さないのではないのです。それはたまたまであって、わたしという人間は、状況が変われば百人千人でも殺す身となるのです。親鸞が「わがこころのよくて、殺さぬにはあらず」といったのはそのことなのです。わたしは殺す身にもなり、また殺される身にもなるのです。わたしという人間のもつ不安定さ、何をしでかすかわからない不気味さに気がつかないでいること自体が、大きな問題なのではないでしょうか。支配被支配という上下関係を生きている限り、その問題がなくなることはありません。現代の社会はまさに、支配被支配の構造そのものであり、わたしたちはその中に組み込まれているのです。わたしは知らないとか、わたしは関係ないとは誰もいえないのです。

こうして、わたしたちは、イエスさまを2千年間食べ続けているのです。それなのに、わたしたちはまだ何もわからないのです。ここまで食べても、まだ食べ続けようとするのです。わたしは決して食べられる側にはまわろうとはしないで、食べつづける側にいつづけようとするのです。どうして、これをおかしいと思わないのでしょうか。イエスさまを食べ続けて、ミサに与って、それをお恵みだという、こんな愚かなことがあるでしょうか。わたしたちは、どうして、「イエスさま、どうぞわたしをお食べください」といえないのでしょうか。わたしたち人間の闇のなんと深いことでしょう。聖体の祝日とは一体何でしょうか。イエスさまがわたしたちのための食べ物、飲み物となってくださったことを記念して感謝します。もちろんそうでしょうし、ミサはお恵みでしょう。しかし、同時にわたしたちは平気でイエスさまを食べ続けている、この餓鬼のような、畜生のような愚かな己に思いを致すことを忘れてはならないのではないでしょうか。でなければ、ミサは感謝の祭儀でなくなってしまいます。ご聖体をいただいて当然、いただくことがお恵みであるという、自分勝手な思いから、わたしたちは永遠に出ることはできないのです。

今日、わたしたちは改めてわたしたちの愚かさ、闇の深さを思い起こしたいと思います。そして、それにもかかわらず、わたしたちのことを決して諦めることなく、わたしたちを養い続けようとされるイエスさまのこころをいただきたいと思います。そのイエスさまのこころは、わたしたちにいのちの本来の姿に生きてくれという願いそのものなのです。わたしたちはいのちを生きさせていただいているのですから、わたしが望みさえすれば、いのちの姿を何からでも聞き気づかせていただくことができるのです。「ほろほろと鳴く山鳥の声聞けば、父かとぞ思う、母かとぞ思う(行基)」

三位一体の主日 勧めのことば

三位一体の主日 福音朗読 ヨハネ3章16~18節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は三位一体のお祝い日です。聖霊降臨の翌週にわたしたちは、三位一体のお祝いをしますが、それは無関係にお祝いしているのではありません。聖霊降臨の主日においては、わたしたちはわたしたちのうちに注がれているというか、わたしたちを根底から生かしている神のいのちをお祝いしました。それに対して、今日はその神のいのちの働き方をお祝いします。ですから、結局は同じ事をお祝いしているのです。この大いなるいのちは、あまりにも大きくてわたしたちには理解も、把握することもできないのと同時に、わたしたちが生きているいのちですから、あまりにも当たり前で、わたしたちが意識しないほど日常的になっているいのちでもあります。海の中にいる魚は、海を離れては生きられないのですが、だからといって自分が生きている海というものを意識することはないのと同じようなものです。そのいのちのあり様が父と子と聖霊、三位一体といわれています。

わたしたちは、わたしたち生きとし生けるものを根底から支え生かしている大いなるいのち、この世界、この宇宙を成り立たせている根本的ないのちについて、わたしたちは見ることも、知ることも、把握することもできません。それは海の魚が、自分が泳いでいる海を意識することができないように、わたしたちを生かしている大いなるいのちを意識することはできません。「いまだかって、神を見たものはいない(ヨハネ1:18)」と聖書でも述べられているように、わたしたちは、神ご自身の実体を見ることも知ることも、理解することもできないのです。いのちそのものの実体は、色もなく、形もありません。しかし、そのいのちが限られた個体の中に宿るとき、そのいのちをわたしたちは生身のものとして認識することができます。この大いなるいのちそのものが、地上の限りある人間として宿られたのがイエスさまです。ですから、イエスさまは人間によって知られることとなられた神、いのちの主なのです。つまり、己がいのちであるのにもかかわれず、いのち本来の姿を捨てて、いのちの還流に逆らっている人間に、限りある人間となって、いのちの本来の姿、あり様を示してくださったのがイエス・キリストです。

そのイエスさまが第一にいわれたことは、大自然に聞くことでした。「野の花を、空の鳥を見なさい」ということが代表的ですが、それ以外にさまざまな自然界のたとえ話を話されました。成長する種のたとえ、種まきのたとえなどです。そして、次にはいのちを生きている人間の姿をさまざまなたとえ話で教えられました。よきサマリア人のたとえや放蕩息子のたとえなどです。そして最後には、ご自分の生き様で、いのちの姿を示されました。それが受難、死、復活です。それによって、いのちは、自分のいのちを他のいのちに与えることによってのみ、本来のいのちになることができるということを示されました。わたしたちは神仏に、家内安全や健康長寿、また大願成就などといって願いますが、それらはいずれも自分のいのちが安泰で、一日でも長く生きながらえること、そのためであれば他のいのちを利用してでもながらえることです。このように、最後まで自分のいのちを握りしめているのが人間なのです。しかし、それはいのちの本来の姿ではありません。聖霊降臨の説教でもお話ししましたが、わたしたちは、宮沢賢治の銀河鉄道の夜に出てくる、いたちに追いかけられて井戸に落ちるまで自分の身勝手さに気づかなかった蠍のようなものです。でも、蠍は井戸で溺れかけて「ああ、わたしはいままでいくつのもののいのちをとったかわからない、そしてそのわたしがこんどはいたちにとられようとしたときはあんなに一生けん命にげた。それでもとうとうこんなになってしまった。ああなんにもあてにならない。どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちにくれてやらなかったろう。そしたらいたちも一日生きのびたろうに。どうぞ神さま。わたしの心をごらんください。こんなにむなしくいのちをすてずどうかこの次はまことのみんなの幸いのためにわたしのからだをおつかいください」と祈ります。蠍をもってそのように祈らせたのは蠍ではなく、蠍を生かしていたいのちであって、そのいのちと同じいのちがわたしたちの中にも流れているのです。そのいのちの流れ、その働きをわたしたちは聖霊というのです。

聖霊はすべての生きとし生けるものを生かしているいのちであり、蠍をそのように祈らせたいのちなのです。自分さえよかったらいいと思いで生きてきた蠍が、死の間際に井戸の中で自分のいのちに目覚めさせたそのいのちの働きを聖霊というのです。誰かに教えてもらったわけでもなく、本を読んでわかったのでもありません。自分の内なるいのちに目覚めたのです。三位一体とは、この大いなるいのちの流れであり、色もなく、形もなく、認識することもできないいのちを、イエスさまを通して人間が認識することができるようになったいのちです。そして、その大いなるいのちの働きを知らしめる働きとなって、他に働きかける働き、このいのちの大いなる還流こそが、三位一体であるといえばいいと思います。

ですから、三位一体というのはわたしたちと別のところにあるとか、わたしたちとは関係ないものではなく、わたしたちは三位一体のいのちの還流のただ中におり、そのいのちを生きており、そのいのちに気づくよう呼びかけられているのです。ですから、わたしたちの周りにある生きとし生けるものはすべて、わたしをいのちの目覚めさせようとしているいのちであることがわかります。そして、そのいのちに気づかされたわたしたちは他のいのちに働きかけ、ともにこの大いなるいのちを生きていくように呼ばれていることもわかります。そうなるとわたしの個人のこだわりや個人の死は大きないのちの中に飲み包まれてしまいます。それと同時に他のいのちを限りなく大切にしていくことの意味もはっきりしてきます。キリスト教は自分が救われて天国にいく宗教ではないのです。この生きとし生ける衆生、全世界とともに救われることなくして己の救いはない、これがキリスト教なのです。

聖霊降臨の主日 勧めのことば

聖霊降臨の主日 福音朗読 ヨハネ20章19~23節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

わたしたちは50日間にわたって、イエスさまの復活を記念してきました。そして、今日、イエスさまの復活の頂点でもある聖霊降臨を祝います。イエスさまの復活は、わたしたち生きとし生けるものを根底から生かしている大きないのちの本来の姿を、わたしたち人類に、イエス・キリストという出来事を通して示されることであったといえるでしょう。そして、そのいのちの本来の姿をわたしたちに気づかせ、そのいのちに生きるようにと願っておられるイエスさまの呼びかけであるともいえるでしょう。その大きないのちの本来の姿というものは、自らのいのちを他に与え、自らのいのちを失うことによって、そのいのちの本質を生きていくことです。それをイエスさまは、大自然のいのちの営みを通して教えられました。それが「野の花、空の鳥を見なさい」といわれたことです。野の花も、空の鳥も、この世界からいのちを受けて生かされ、またこの世界に自らのいのちを与えて生きています。つまり、死と再生という大きな生命の還流を生きていくことで、この大いなるいのちを生きています。空の鳥は、この地上の花や木の実、虫たちからいのちをもらい、そのいのちを次の世代に繋ぎ、あるいは天敵にいのちを奪われることで他のいのちとなっていきます。野の花も同じことでしょう。

宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」の中に、“蠍の火”という話が出てきます。ある日、蠍はいたちに追いかけられて井戸に落ちてしまいます。そして溺れそうになったとき、神さまに祈ります。「ああ、わたしはいままでいくつのもののいのちをとったかわからない、そしてそのわたしがこんどはいたちにとられようとしたときはあんなに一生けん命にげた。それでもとうとうこんなになってしまった。ああなんにもあてにならない。どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちにくれてやらなかったろう。そしたらいたちも一日生きのびたろうに。どうぞ神さま。わたしの心をごらんください。こんなにむなしくいのちをすてずどうかこの次はまことのみんなの幸いのためにわたしのからだをおつかいください」すると、蠍は自分の体が真っ赤な美しい火になって、夜空を照らしているのを見たという話です。何もこれ以上説明する必要がないほど明らかないのちの姿を描いています。これがいのちの本来の姿でしょう。このいのちの本来の姿をイエスさまは、ご自分の生涯、特に受肉、受難、死によってわたしたちに示されたのです。そして、蠍の火は夜空を照らす星となったように、そのようなイエスさまの生き様が復活としてあらわされているといえるでしょう。そして、今日祝う聖霊降臨は、このいのちの働きが、わたしたち生きとし生けるものを生かし、その働きがわたしたちのうちにすでに与えられていることを記念するのです。

わたしたちが生きているということは、わたしたちのうちにこのいのちの本来の働きが備わっているということを意味しています。今日の第2朗読の中で、聖霊はわたしたちを生かす働きであると述べられているのはそのことなのです。聖霊は、洗礼を受けた人にだけ働いているのではありません。聖霊はすべての生きとし生けるものを生かし、わたしたちを夫々の場における働きとして生かしています。そして、聖霊は、わたしをその場における他の人、他のものの必要のための賜物として生かしている働きであるということなのです。これこそが聖霊の賜物なのです。この賜物は、わたしたちが生かされている夫々の場において、家族、地域、国に留まらず、この世界の中で、この大自然の中の一員として、宇宙の中におけるわたしとしての場を与えられているのです。そこで、わたしたちは同じいのちを生きるものとして生かされているのです。夫々の役割や場は違っているというか、わたしたちはひとつとして同じものはありません。皆夫々違っていて、ユニークな存在であって、夫々の場があります。どの動物も植物も分類することはできるとしても、ひとつとして同じものはありません。それがいのちの豊かさなのです。そして、わたしたちは、そのいのちをお互いに分かち合いながら生きているのです。それなのに、人間だけがこの豊かないのちを独占しようとしてきました。人や国を支配し、人間以外のいのちにも名前をつけ、それを支配し搾取してきたのです。このいのちは人間だけのものではありません。そして、わたしが“わたしのいのち”といっているいのちも決してわたしのものではないのです。そのことがわからなくなっている、これが人間の罪ということなのです。

イエスさまの復活は、そのようなわたしたち人類にいのちの本来の姿を示すことでした。そして、聖霊降臨は、わたしたちがみな同じいのちによって生かされており、しかもそれぞれの文化、言語、背景、個性をもちながら、それでも同じいのちによって繋がっていることをあきらかにした出来事です。今日の聖霊降臨は、そのいのちの多様性と、わたしたちが同じいのちによって生かされていることを祝います。わたしだけ、特別ないのちをいただいたのではありません。わたしはわたしであって、他と入れ替えることはできません。しかし、そのわたしとわたし以外のものも生かしているいのちは同じいのちなのです。そのいのちに優劣、差別、区別はありません。人間だけが自分を特別視し、他と優劣をつけ区別して優位に立とうとします。愚かなことです。しかしながら、今生で、そのいのちの真実の姿を認識することができるのは人間だけなのです。ですから、わたしたちが心の目を開き、耳を傾ければ、わたしたちは生きとし生けるすべてのものから、いのちの真実を聞かせてもらうことができるのです。わたしたちはすべてのいのちあるものとともに、このいのちの真実に目覚め、このいのちを生きていくようにと呼びかけられているのです。だから、わたしだけが救われていくような教えは、イエスさまの教えではありません。わたしが善い人になって、ミサに参加して、自分の安寧、自分の救いだけを求めていくのであれば、わたしはイエスさまを信じているとはいえません。わたしひとりが救われていくということなど、あり得ないのです。そうではなくて、わたしひとりが救われることと、すべての生きとし生けるものが救われていくことがひとつとなるような教え、それがイエスさまの真実であり、そのイエスさまの真実に出会わせていただくことが、わたしが信仰を頂くということに他ならないのです。このことは、大抵は自分の考えや計画、予定が思い通りにならないという出来事を通して、その真実が示されます。自分のやりたいことや思いを通して、それを神さまが助けてくださった、お恵みだといって神に感謝というのであれば、それは単なる自己実現をしただけで終わってしまっており、イエスさまの業は何も実現されていないのです。わたしたちは、自己実現のためにイエスさまを利用しただけなのです。

日本では我流はいけないといわれますが、宗教も我流となりがちです。キリスト教とかカトリックという名はついていても、自分の考え思い、自分の信じたい教え、自分の解釈、自分の得た知識、自分のやりたいこと、自分の慈善活動やボランティア、自分のはからいを中心とした“我教”、自分教になりがちです。いずれも善意かもしれませんが、これはキリスト教ではありません。なぜなら、始まりはよかったとしても、結局は自分に向かっているからです。井戸に落ちるまで、我が身の身勝手さに気づかなかった蠍と同じです。わたしというものが絶えて、イエスさまが中心にならないのであれば、それはただの人間の業で終わってしまうのです。聖霊はそのようなわたしたちに、イエスさまの真実を教え、わたしたちを自己中心性から解放し、浄め、わたしたちをイエスさまの真実へと向かわせてくださるのです。今日、聖霊降臨の主日にあたって聖霊の照らしと導きを祈りましょう。

主の昇天 勧めのことば

主の昇天 マタイ28章16~20節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は主の昇天のお祝い日ですが、主の昇天が何であったかを解説すること自体あまり意味がありません。主の昇天とは、主の復活という出来事を体験した弟子たちが、自分たちの復活体験を表現したひとつであるといえるでしょう。むしろ、今日の箇所で「弟子たちは…そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑うものもいた」と書かれています。そこで、信じることと疑うこと、これがいったいどういうことかということが問題提起されています。今日はそのことを深めていきたいと思います。

わたしたちは、福音書にそのように書かれているのを読むと、イエスさまの弟子たちの中にも不信仰ものがいたのかと思い、弟子たちはそうだったのかと不思議に思ったり、別の意味で安堵したりします。なぜなら、わたしたちも同じ問題を抱えているからです。わたしたちも信じきれないとか、信仰が薄いとか、信仰が篤くならないといって、どうしてどうしてと嘆くのです。それは、わたしたちは信じることというのは、わたしの心の問題で、疑うこともぶれることもない、確固とした信念の中に留まることができるようにならなければならないと考えているからではないでしょうか。そして、イエスさまの直弟子たちは、きっと素晴らしい確固とした信仰をもっていたに違いないと勝手に想像しているのです。

キリスト教では、信仰というと人間の意志の行為を強調しますが、そもそもわたしたち人間が疑いなく信じるということができるのでしょうか。たとえ疑いというものがあっても、疑いが消滅して、疑いなく一心に信じることができるようになるのでしょうか。また、そのように信じることができたとしても、そのような状態を持続することができるのでしょうか。なぜそのような問いが出てくるのかというと、わたしたちは信仰をわたしの心の状態だと捉えているからでしょう。昔の公教会祈祷文の中に信徳唱というのがあって、「真理の源なる天主、主は誤りなき御者にましますがゆえに、我は主が公教会に垂れて、我らを諭し給える教えを、ことごとく信じ奉る」と唱えていました。ガリレオの時代ならそれでも通用したかもしれませんが、現代で、教会が教えていますからわたしは信じますなどというのは、単なる危ない集団ではないでしょうか。また、たとえ信じることができたとしても、その信じていることが本当であると誰が証明してくれるのでしょうか。過去の教会は、教会が教えていることを疑うこと自体が罪であると教え、力で信徒に信仰を強要してきました。疑いなどもたないで、そのまま信じることがよい信者だと教えてきました。どうして、そのようになってしまったのでしょうか。

そのようなことが起こってくるのは、信仰宣言の中でも「わたしは…信じます」と唱えているように、信仰の主体をわたしたち人間であると捉えることから起こってきた問題なのです。信仰を人間のもの、つまりわたしの信仰であると考えると、信仰はわたしの所有物ですから、わたしの力でどうにかなるということになります。だから人間の意志で、つまりわたしの力で、信仰を強めることができるということになります。しかし、実際のところ、信仰はわたしの力ではどうにもなりません。それなのにわたしたちは自分の力で何とか信仰を強くしようと頑張るのです。しかし、人間の力でどうにもならないので、今度は権力とか権威で強要するようになってしまいました。少し正直に自分の心を見ればわかることなのですが、わたしたちは信じようとすればするほど、疑いが起こってきますし、無理強いすればするほど、反発する心が起こってきます。頑張って聞いていけば信仰が深まるどころか、聞けば聞くほど疑いが深くなるというのが偽らざる人間の心の姿ではないでしょうか。わたしたちは自分の心の中に信仰の確証や救われた証拠を求めるのですが、わたしの心自体が自分の力でどうにもならないのに、わたしの心が信仰において確固としたものとなるなどあり得ないのです。わたしたちは、わたしの心が満たされることや、自分が楽になること、平和な気持ちになることを求めているだけであって、それならわたしの心のあり様の問題にとどまっているだけです。しかし、信仰はわたしの心の問題ではないのです。信仰をそのように捉えている限り、わたしたちは真実に触れることはできません。

大切なことは、そのような不信仰な、心の定まらないわたしたちにイエスさまが近づいて来られたということです。「イエスは、近寄ってきていわれた…わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいる」。このイエスさまのことばだけが真実なのだといえるのではないでしょうか。わたしが信仰深かろうが、不信仰であろうが関係ないのです。イエスさまが近寄ってきて、わたしとともにおられるのです。このイエスさまの真実が信仰なのです。信じるという漢字の「信」という言葉は、もとは真理の「真」と同じ意味であるといわれています。信号機という交通標識がありますが、信号機は嘘をつきません。もし信号機が信用できないのであれば、誰も安心して道路を渡れません。そのときの信号機の信は、“真(まこと)”という意味なのです。この信号機は信じられるだろうか、信じられないだろうかと考える人はいません。わたしがどう思うかというわたしの考えや心に関係なく、信号機はいつも真実です。ですから、いつも安心して道路を渡ることができます。いくらわたしがどうしたら救われるだろうか、この方を信じていいのだろかとわたしの心で算段しても、信仰は決して確固たるものにはなりません。それが、信仰をわたしの心の問題だと考えているということなのです。救いはわたしの問題ではなく、「わたしを救う」という名のイエスさまのなさることです。イエスさまの真実、イエスさまの信の問題なのです。だから、わたしたちが何であってもなくても関係ないのです。

そのことがわからないので、わたしは救われるだろうか救われないだろうか、わたしの心で考え続けます。また、わたしはゆるされるだろうかゆるされないだろかとか、ゆるしの秘跡に行かないとゆるされないのではないかとか、わたしが自分の心で考えているだけなのです。イエスさまが救う、イエスさまがゆるすと仰っているのに、それをわたしが真実か真実でないかをわたしの心で算段しているのです。これはイエスさまを信じているといいません。イエスさまと駆け引きしているだけか、イエスさまを試しているだけであって、これほどイエスさまに失礼なことはありません。教会は、人間の努力や功徳、はからいによって、救われるか救われないか、ゆるされるかゆるされないかが決まるかのように教えてしまいました。そのような教え方をしてきたこと自体が大きな問題でした。救い、ゆるされるのはイエスさまです。イエスさまが世の終わりまでいつもあなたがたとともにいるといわれたのですから、わたしたちが救われ、ゆるされるのは永遠の昔から決まっています。そのことを、わたしが今このとき、今生で、そのイエスさまのみことばを信じること、それが真の信仰を生きるということなのです。ですから、イエスさまを信じるということは、わたしのはからい、算段を捨てること、わたしを捨てるということなのです。今というこの刹那のときにおいて、わたしが無我となることなのです。わたしたちはいつまで、旧約の世界でうろついているのでしょうか。

復活節第6主日 勧めのことば

復活節第6主日 ヨハネ14章15~21節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は、イエスさまが“わたしの掟”についてお話になります。わたしの掟とは、イエスさまの願いです。イエスさまの願いとは何でしょうか。それは、イエスさまが愛しておられるように、わたしたちが愛することです。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である(15:12)」といっておられます。イエスさまが愛しておられるようにイエスさまを愛し、イエスさまが愛しておられるように友を愛することです。よくイエスさまの相互愛について話されるとき、「互いに愛し合いなさい」ということだけがいわれます。しかし、今日の箇所をよく読んでみると、「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する人である」と書かれています。イエスさまの願いは、わたしたちがイエスさまの願いを聞き入れること、つまり、わたしがイエスさまに愛されること、そのイエスさまの愛に基づいてわたしたちが互いに愛し合うこと、そのことがイエスさまを愛することであるといわれているのです。イエスさまに愛されること、友を愛すること、イエスさまを愛することとは別々のことではありません。同じひとつのことだといわれているのです。

イエスさまの第一の願いは、わたしたちを愛することです。なぜなら、イエスさまは愛そのものですから、愛さないでいることはできません。愛と訳されている日本語が適当かどうかはわかりませんが、イエスさまの本質は愛ですから、愛さないでいるということができません。しかし、愛の本質は、愛することだけではなく、愛されることでもあります。愛するだけの愛はありません。それはただの一方通行の、自己本位の愛になる可能性を含んでいます。だから、愛は、愛し愛されることによってのみ成立します。しかも、その愛は決して完成されることはありません。愛の本質は、自らのすべてを与え、それを受けるものがすべてを受け取り、また受けたものがそのすべてを返すという終わることがない、いのちの循環が愛だからです。イエスさまの願いは、先ずこの愛を受け取ってほしいということなのです。わたしたちが何かをしたから、何かができたから愛されるのではありません。愛は無償です。頑張って祈って、洗礼を受けて、信者になったから、罪を犯さないような立派な人間になりましたので愛してくださいということではないのです。それなら、わたしは計算して、イエスさまと駆け引きをしているだけです。聖書の中の「天に宝を積みなさい」という言葉は、教会の中で間違って説明されてきました。イエスさまはそのような愛し方はなさらないのです。わたしをわたしであるというそれだけの理由で愛されるのです。

なぜなら、わたしたちのもっとも根源的な願いは、愛されることだからです。結局、わたしたちは認められたい、大切にされたい、尊重されたいという自分の小さな我欲の中で蠢いているのです。わたしたちは愛されたいのです。そして、愛したいのです。そのわたしをまったく何もなしに、そのまま愛するとイエスさまはいわれるのです。その愛は何かができたら愛してあげる、というような条件付きの愛ではないのです。水が高いところから低いところに流れるように、自然なものなのです。その愛をいのちといっていいかも知れません。イエスさまは、その愛を受けてほしいと願われているのです。実は、これができなければ一歩も前に進めないのです。愛されたことがわからない人が、どうして愛することができるでしょうか。イエスさまの願いは、この愛を受け取ってほしい、そしてこの愛をもって互いに愛し合ってほしいというのです。イエスさまの願いは、単にわたしがよい人間になるとか、洗礼を受けるとかそんなことではありません。イエスさまの願いは、愛を受け取って、愛を生きてほしい、つまり、わたしと同じ願いをもって、わたしと同じことをしてほしいと願われているのです。これが、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」ということの意味なのです。その愛に何の条件もありません。

イエスさまは、お前を救ってやるとか、恵みを与えてやるとかそういうことをいっておられるのではないのです。今までは、わたしとお前たちは、主人と僕の関係だったけれど、もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人の顔色だけを窺っていて、主人の本当の願いを知らない。しかし、わたしはわたしのすべてを知らせた。わたしの掟、わたしの思い、わたしの願いをすべて話した。そして、そのようにあなたがたを愛してきた。だから、あなたがたはもう僕ではない。友である。わたしとあなたはひとつ、同体である。だから、あなたがたは、わたしの願いを自分の願いとし、わたしと同じ働きをするようになると。イエスさまの根本の願いは、わたしとひとつになってくれ、同じになってくれという願いなのです。その願いに目覚めたものの名前がキリスト者ということなのです。ですから、イエスさまの本当の願いを知らず、その願いに気づいていないのであれば、いくら洗礼を受けていてもキリスト者ではありません。洗礼を受けていなくても、イエスさまの願いに気づき、それを生きているならばキリスト者なのです。キリスト教徒即キリスト者ではない、洗礼の有無など関係ないのです。

そのイエスさまの願いが実現するとき、愛する側と愛される側、救う側と救われる側、助ける側と助けられる側、こちら側とあちら側という区別がない世界が出現するのです。もはや天国地獄の区別もありません。というか、元々そのような区別などないのです。ただ、人間がその区別を作り出してきただけなのです。そして、そのような区別が絶えた世界、これを神の国というのです。イエスさまは、単なるカトリック教会という名を借りた慈善団体やNPO法人になれといわれたのではありません。イエスさまは、わたしの願いを生きてくれ、あなたがたの心の底にある本当の願いに気づいて、生きてくれということなのです。これがイエスさまの新しい掟なのです。わたしたちはこのようなイエスさまの大きな願いのうちに収め取られているのです。

復活節第5主日 勧めのことば

福音朗読 ヨハネ14章1~12節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日、イエスさまはご自身を「わたしは道であり、真理であり、いのちである」といわれました。そのことを今日はじっくりと黙想してみたと思います。

そもそもいのちとは何でしょうか。わたしたちは当たり前のように問いますが、そのようにいわれると答えるのは難しいのではないでしょうか。わたしたちがいのちというものをもっとも意識させられるのは、自分に近いものの死や自分の死に直面したときでしょう。人類が誕生して以来、人間は死というものと直面してきました。そして人類は、わたしたちはなぜ生き死ぬのかという問題を解決できないままでいます。誰もが死にたくないという思いの中で、一番身近にいのちを感じているのではないでしょうか。死にたくないというのは、生への執着心ですが、その根底にあるのは生きたいというわたしたちの根源的な願いです。では、生きたいと願っているそのいのちとは何でしょうか。改めて問われると答えられません。いのちはあまりにも身近にあって、毎日それを生きていて、あえていうならば、限られた個体の中で、ある期間だけ起こっている現象であるといえるかもしれません。しかし、わたしたちが知っているいのちは、そのようなものでないことは何となくわかっています。

今日の福音の中で、イエスさまは「わたしはいのちである」といわれました。イエスさまは、ご自分が真のいのちであるといわれたのです。つまり、イエスさまこそが本当のいのちで、イエスさまが生きとし生けるものを生かしている根源的ないのちであるといわれたのです。大宇宙といってもいいかも知れません。そのいのちとは、もともと初めもなく終わりもない、無限のいのちであり、わたしたちが普通考えているいのちは、個体の枠に閉じ込められた有限のいのちということになります。いのちそのものは、人間の考え得るなかで最も大きな何かです。仏教ではそれを、空とか真如といっています。それは決して、人間のことばで説明できるものではないし、人間が把握できるものでもありません。それを何か言葉で表現したとき、表現した瞬間に、そのものではなくなってしまう何かです。わたしたち人間が知ることも、把握することもできないもの、しかし、生きとし生けるものを生かしている根源的ないのち、そのいのちが人間となってこの世界に来られたのがイエスさまです。イエスさまはひとりの人間、個体になられました。つまり、死にたくない、永遠に生きたいと願うものになられたということなのです。

そして、人間となられたということは、言葉、つまり名前のあるものとなられたということなのです。名前のあるものになられたということは、人間が具体的に「耳で聞いて、目で見て、匂いを嗅いで、味わって、手で触れて」感じることができるものとなられたということです。それがイエス、「わたしは救う」というお名前です。わたしたちは、この世界を言葉で認識しています。言葉で認識するということは、すべて名前があるということです。わたしたちは、名前がないものはその実体がわからないので、認識することはできません。ところが、わたしたちが自分のものと思って握りしめているこの“いのち”という名前のものは、わたしのものではありません。わたしのものであれば、わたしの思うようにできるはずです。しかし、このいのちはわたしの思うようになりません。わたしたちの力で長くも短くもできません。それなのに、わたしたちは自分のものだと握りしめて、それを何とか自分の思うようにしようとします。これが、人間がもっている自己中心性の根っこにあることなのです。だから、まことのいのちである方は、あえて、わたしたちと同じものとなることで、いのちのもっている本来の有様を、わたしたちとなってわたしたちに示されたのです。

わたしたちは、自分という有限な個体の中でしか、いのちを体験することはできません。いのちは個体になることによってはじめて、死にたくない、生きたいと願ういのちというものを、人間として意識することができるからです。しかし、そのいのちはわたしという個体の枠に留まっているかぎり、いのちは本来のいのちの姿ではないのです。わたしという形をとったいのちは、わたしという個体を超越していくとき、本来のいのちになるのです。そのことをイエスさまは、「野の花、空の鳥を見なさい」といわれました。野の花や空の鳥は、他からいのちをわけてもらい、また自分も他のいのちとなって、いのちを繋いでいきます。自分のいのちを超えていくという、いのちの本来のあり方を自然に当たり前に生きていきます。ただ、人間だけがわたしという個体に拘り続けます。そのもっともわかりやすいものが、死にたくないです。そのわたしたち人間にイエスさまは、「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分のいのちを愛するものはそれを失い、この世で自分のいのちを憎む人は、それを保って永遠のいのちに至る(12:24,25)」と教え、「わたしは復活であり、いのちである。わたしを信じるものは、死んでも生きる。生きていてわたしを信じるものはだれも決して死ぬことがない(11:25,26)」といわれました。イエスさまを信じるということは、自分というエゴイズムを出ることに他なりません。それが、生きるということであると教えられました。イエスさまを信じることで、天国に行けるとか、永遠のいのちを得られると思っているなら、それはイエスさまを信じていることにはなりません。それは、ただ自分のエゴイズムの中に沈んでいるだけなのです。

わたしたちが自分の個体に閉じ込められているいのちを、大きないのちのうちに解放することによってのみ、真のいのちに至ることができることをイエスさまは、わたしたちに示されました。大自然はそのようにいのちをありのまま、自然に生きています。イエスさまは、その大きないのちの本来の流れに、己を委ねよといわれているのです。いのちから、いのちへという大きな生命の還流こそがいのちのダイナミズムで、それがすべての生きとし生けるものの歩み、すなわち道であり、そのすがたこそが真実なのだということを、イエスさまはご自分の生涯、特に受肉、受難、死をもって端的に示されたのです。別のことばでいえば、あなたが生きるということは、死ぬということであると自覚しなさいということだと思います。他の生命体が生きていることを、人間だけが生きることができない。だから、死ぬこともできない。しかし、いのちというものを自覚できものは人間であるあなただけである。だから、あなたは本当のいのちを生きてほしい、それがイエスさまの願い、今生のわたしに向けられた大いなるいのちの願いでもあるのです。そして、その願いは、いのちを生きているわたしたちの中にある根源的な願いでもあるのです。すでに、わたしの中に、道、真理、いのちがある。わたしの中に答えがあるのです。

復活節第4主日 勧めのことば

福音朗読 ヨハネ10章1~10節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は「よき牧者の主日」といわれ、羊飼いと羊のたとえを使って、知るということの意味について語られます。知るということがどういうことかを考えてみたいと思います。

今日の社会の動きを見ていると、知るということを、単に情報を手に入れることだと捉えているように思われます。司祭仲間の話によると、チャットの機能を使えば、「復活節第4主日のカトリック教会の説教」と入力すると、その主日に相応しい説教が出てくるそうです。内容も、その主日の聖書の箇所やカトリック教会の教えを踏まえたものになっているそうです。そうすると、司祭の役割もなくなり、聖体だけを配ればいいのではないかなどという話になりました。AI(人工知能)ができることは、今日の箇所であれば、羊飼いが羊についてのあらゆる情報を知って、飼育するということになります。確かにAIは、羊の夫々の状況、健康状態などあらゆる情報を把握することはできるでしょう。そして、羊飼いとして羊に対する適切な対応をプログラムして、羊を管理していくことも可能なのでしょう。実際、人間の食品となる動植物でそのような人工栽培、飼育もおこなわれています。そうなると、人間の羊飼いなどいずれ必要なくなるのかもしれません。

今日の箇所で問題になっているのは、この“知る”ということです。羊飼いは羊を知り、羊も羊飼いを知っているというときの知るということは一体どういうことなのかということです。よくこの箇所を、司祭と信徒の関係にたとえる人がいますが、それは根本的に違うように思います。大体、自分は羊飼いで、信徒は羊だという発想自体、上から目線で嫌なものです。イエスさまがいわれたのは、そういう上から目線で、管理するような関わりではなく、イエスさまとわたしたちの真実の関わりです。イエスさまがわたしたちを知っているといわれたときの知るという意味は、わたしたち個体の情報を知っているという意味ではありません。イエスさまは、確かにわたしのすべてをご存じです。でも、わたしたちは情報ではありません。教会は毎年、教勢調査といって、教会の信徒の数、洗礼、初聖体、結婚、死亡数等を、ローマに報告しなければなりません。教会は、ダビデが人口調査をして、神さまから怒られて打たれたことを忘れているのではないでしょうか(歴代誌上21章)。イエスさまはわたしたちを100名の中のひとりとして、統計上のひとりとして知っておられるのではありません。イエスさまはわたしを、いのちとして知っておられるのです。いのちには温かみがあります。イエスさまの知り方は、このいのちの温かみがあるそのような知り方なのです。

親が子どもを知っているというときの知は、肌で触れ合ったその温かみのある知なのです。その知り方は、子どもについての情報ではなくて、子どもと同じいのちを生きているところからくる知り方です。イエスさまのわたしへの関わり方、イエスさまがわたしを知っておられるというときのそれも同じであるといえるでしょう。わたしがイエスさまを知っているということも、聖書をよく知っているとか、カトリック教会の教えを知っているとかということではないのです。イエスさまとわたしの知り方は、同じいのちが触れ合うような、そのような知り方なのだといえばいいでしょう。それをわたしたちは祈りといったり、イエスさまとの関わりといったり、イエスさまとの親しさというふうにいっています。単にミサに参加することとか、聖書を読むとか、決まった祈りをするということだけではありません。もちろん、それらが大切で助けになることは確かです。しかし、イエスさまとの関わりは生き生きとした、いのちの交流です。同じいのちを生きているので、相手が苦しんでいれば自分も苦しくなるし、相手が痛んでいれば自分も痛くなる。相手がうれしければ、自分もうれしくなる。隣人を愛することが掟であるから、イエスさまの命令であるから、相手を大切にしたリ、愛したり、助けたりするのではないのです。今の教会を見ていると、弱い立場の人、貧しい人々と連帯しなければいけないから、スローガンを掲げていろいろやっている、どうもポーズとしてやっているようにしか見えません。

海を見ることなく、海の中に入らなくても、海について語ることはできるでしょう。しかし、わたしが海の中に入ってこそ、海を語ることができるのではないでしょうか。海に入ることはリスクです。海がわたしを飲み込んでしまうかもしれません。しかし、海に一度も入ることなくして海について語るのであれば、それは唯の絵空事となってしまいます。ときどき、教会の教えはこのような絵空事になってしまってはいないでしょうか。だからといって、皆で海に頑張って入りましょうといわれても、できる人はいいでしょうが、できない人はどうしたらいいのでしょう。イエスさまは、皆で海に入りましょうというのではないのです。たとえわたしが飛び込んでいく勇気もなく、入っていく気力さえないほど弱っているとしても、わたしが頑張って入っていくのではなく、イエスさまという大きな海がわたしたちを包み込んでいる、イエスさまという大きな海の中に、大きないのちの中にわたしたちはすでに受け入れられているのだということなのです。わたしが何もしなくてもいいといっているのでありません。出発点はわたしではなく、イエスさまなのです。わたしたちは、皆自分中心ですから、自分をすべて起点としてものごとをやっていくことが好きなのです。実はこれが問題なのです。できる人はいいでしょうが、すべての人ができるわけではないし、そうすることが宗教ではないのです。多くの人はそのことにさえ気づきません。このように自分で何でもできるなら、宗教もイエスさまもいらないはずです。

真の宗教は、それこそわたしが入っていくのではなくて、イエスさまが入って来られるというか、わたしはすでにイエスさまの中にある、いのちの中に入れられているということに気づくということなのです。この視点の転換を回心(心を回す)というんです。人間がやろうとするのは心を改める改心であり、イエスさまがしてくださるのが心を回す回心です。わたしたちはそのことがわからないので、ときどきイエスさまはみことばとして、聖体として、わたしたちの中に入ってきて、そのことに気づかせようとしてくださいます。また人の温かみや優しさを通しても、わたしの人生の出来事を通して、気づかせようとしてくださっているのです。わたしが自分で知ることができるようなものは、すべて過ぎ去っていきます。たとえすべてが過ぎ去っても、決して過ぎ去らないイエスさまがわたしを知ってくださっていること、そのことに信頼することきりしか、わたしたちにはできないのではないでしょうか。そのことを信仰というのです。

復活節第3主日 勧めのことば

復活節第3主日 福音朗読 ルカによる福音(ルカ24章13~35節)

<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日はエマオへ向かう弟子たちに復活したイエスさまが現れたという物語です。これは、当時の初代教会の中で、復活されたイエスさまと出会う場は何処であるかということが問題にされています。当時の人々は、聖書のみことば、感謝の祭儀、分かち合いの中で、復活されたイエスさまと出会うことができると考えました。それが今日の聖書の物語の中で、イエスさまによる聖書の解き明かし、エマオでの会食、3人の分かち合いとして描かれています。これは、現代においても通用することで、わたしたちが聖書を読み、その解き明かしを聞くとき、感謝の祭儀を祝うとき、わたしたちが分かち合うとき、その中にイエスさまがおられます。この3つの場は、復活されたイエスさまと出会うことができる場として教会が大切にしてきたものです。しかし、この場があれば、自動的に復活されたイエスさまと出会えるかというとそうではありません。イエスさまとの出会いは自動的ではないからです。ですから、聖書を一生懸命勉強して聖書の知識を身につけることで、欠かさずにミサに与ることで、分かち合いすることで、自動的にイエスさまと出会い、心が燃え上がるかというとそれは少し短絡的すぎます。それに心が燃え上がるというのはあくまでも、わたしの心の状態の問題であって、心が燃え上がるということがイエスさまと出会っているという証拠にはなりません。

わたしたちは、とかくすると信仰を心の問題として捉えがちです。しかし、わたしの心はひとときもじっとしていません。あるときは燃え上がり、あるときは意気消沈し、あるときは何ともないというのがわたしたちの心です。わたしの心は絶えず疑いと信仰の間で揺れ動き、それがひとつになることなく、またその思いが持続することもありません。そのようなわたしたちの心の中に、イエスさまとの出会いの証拠や確証などあるはずがありません。それなのに、わたしたちはこのようなわたしの心のどこかに、イエスさまとの出会いや救いの証拠、確証を見出そうと躍起になります。また、ある人たちは自分の心を整えていくことで、イエスさまとの出会いが叶うと主張します。教会が大切にしてきた3つの場を実践し、自分がイエスさまとの出会いに相応しいものになることが大切で、そのようなわたしにイエスさまは当然会いに来てくださると考えます。普通そのように考えるのは、もっともなことだと思います。しかし、そうではないのです。イエスさまとの出会いは、わたしの心の問題ではありません。信仰もわたしの心のもち方でもありません。会いに来てくださるとはイエスさまなのです。わたしたちが何かができるわけではないのです。その訪れはいつも前触れなく突然で、わたしの心の状況などほぼ関係ないのです。

今日の物語で、2人の弟子はイエスさまと出会うために相応しい心の準備をしていたでしょうか。2人はむしろ、イエスさまの十字架に絶望してエルサレムから逃げていく途上だったのではないでしょうか。彼らは、追手が自分たちに及ぶのを恐れ、イエスさまのことなどそっちのけで逃げ出してきたのでしょう。彼らの心はイエスさまを受け入れるようなものは、ひとかけらもなかったのです。さっさとエルサレムをあとにして、自分たちの新しい生活を探していたのではないでしょうか。わたしたちもそうでしょう。結局は自分ことしか考えていないのがわたしです。聖書では「イエスご自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた」とあります。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとはわかりません。イエスさまが一緒に歩いてくださっていて、ともに歩んでくださっていても、彼らは気づかなかったのです。それは、彼らの目が遮られていたからだとあります。そのとき、弟子たちはこの見慣れない旅人と出会って、旅の道連れとしてすでに歩んでいたのです。しかし、それがイエスさまであることに気づきません。にもかかわらず、イエスさまはわたしとともに歩いておられたということなのです。

彼らの目が開かれて、イエスさまであることに気づいたとき、イエスさまは見えなくなってしまいます。その気づきのきっかけになったことが、上で述べられた3つの場でした。しかし、それはきっかけであって、それ自体はイエスさまを指し示すものであるとしても、イエスさまそのものではありません。多くの人は、イエスさまと出会ったきっかけにしがみつきます。そして、そのきっかけがイエスさまであると錯覚していくのです。そして、イエスさまと出会ったという体験を自分の心で握りしめようとします。確かにそのきっかけで、わたしの心に何かが起こったかもしれませんが、わたしの心はイエスさまではないのです。また、その体験がイエスさまでもありません。わたしたちはいつも勘違いします。そんなちっぽけなわたしの体験やわたしの心の中にイエスさまはおらないのです。イエスさまだと気づいた瞬間に通り過ぎていかれるのです。

わたしたちは、イエスさまであると気づかせていただくと、そのことをわたしの心で握りしめ、またその気づきを絶対化していこうとしまいます。しかし、わたしの心でイエスさまを握りしめようとしても、その体験は長続きしません。やがて、その体験は薄れていき、疑いの淵へと沈んでいきます。いっとき雲が晴れたように思いますが、しばらくすると、今までと何も変わらないわたしを発見するだけなのです。にもかかわらず、わたしたちは自分の心に拘り続け、自分の心の中にイエスさまとの出会いの痕跡を探し続けるのです。わたしがイエスさまのことを感じられるとか、わかったとか、納得したとかではないのです。それならどこまでいってもわたしの心のもち方の問題で終わってしまいます。

そうではなく、大切なことは、自分に拘り続け、自分の心の中に信仰の確証を探し求めて、また疑いと迷いの淵に沈んでいるそのわたしとともに、イエスさまは歩み続けておられるということなのです。このような愚かなわたしとともに“イエスさまが”歩んでおられるということだけが真実、まことの信仰なのです。イエスさまは、教会が大切にしてきた3つの出会いの場を通して、生きとし生けるすべてのものを通して、わたしたちの人生のすべてを通して、わたしをはるかに超えたはからいと働きをもって、イエスさまはわたしに絶え間なく働きかけてくださっているのです。

復活節第2主日 勧めのことば

復活節第2主日 福音朗読 ヨハネによる福音(ヨハネ20章19~30節)

<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日、復活節第2主日の朗読では、聖書というものが書き残された目的というものが記されています。「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであることを信じるためであり、また、信じてイエスの名によりいのちを受けるためである」と書かれています。つまり、聖書が書かれたのは、わたしたちがイエスさまを通して、真のいのちと出会うためなのです。ですから聖書の言葉を通して、その奥にあるみことばにわたしたちが触れること、出会うことが、わたしたちが復活されたイエスさまと出会うことであるといったらいいでしょう。聖書に書かれているのは、いわゆる物語であって、物語を解釈するのではなくて、その物語の奥にある真実にわたしたちが触れることがいのちなのです。その点から、今日の物語を見ていきましょう。

今日の物語では、復活されたイエスさまと弟子たちとの出会いが描かれています。弟子たちは、イエスさまが亡くなった後、追手を恐れて家に鍵をかけて閉じこもっています。その真中にイエスさまが来られました。そこで、弟子たちは復活されたイエスさまとの出会いを体験します。しかし、その現場に居合わせなかったトマスは、他の弟子たちから話を聞いても信じようとしませんでした。イエスさまは復活されたのですから、どこにでもおられるはずです。その現場にいなかったから、トマスには分からなかったのでしょうか。イエスさまは、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである」といわれました。しかし、そうであれば、わたしたちは誰一人としてイエスさまを見た人はいませんし、現場に居合わせた人はいません。でもどういうわけか、わたしたちはイエスさまを信じています。これは、もうわたしの力によるのではなく、イエスさまの恵みであるとしかいえません。それならば、すべての人はイエスさまと出会っているのではないでしょうか。

ヘレンケラーの話で、サリバン先生はヘレンの手に水を注ぎながら、もう一方の手に水という字を綴りました。そのときヘレンは手に注がれている液体は、ウォーターという名前をもっていることに初めて気づきます。もちろんそれまでもヘレンは水と出会っていました。しかし、ことばがないから何と出会っているのかわからなかったのです。それが、この自分の手にあたっている冷たいものが、ウォーターという名前があること、この名前こそが水であることがわかったのです。そのとき、すべてのものには名前があることを知って、そこで初めて彼女に世界が生まれたといえるでしょう。ヘレンは今まで暗闇の中に生きていましたが、その世界に光が射しこんできたのです。

わたしたちもイエスさまのことは教会学校で習い、教会でも聞いて、頭ではわかっているでしょう。しかし、それにもかかわらず、わたしたちはイエスさまという存在が、復活されたイエスさま、つまりわたしを救うという現実とひとつであることがなぜか、なかなかわからないのです。イエスさまのことを頭で考えていることが、イエスさまと出会うことだろうぐらいに思っているのです。だからイエスさまのことをしたり顔で話す聖書学者や神学者、聖職者は、さぞイエスさまのことをよく知っているのだろうと思ってしまいます。しかし、イエスさまについて知っていることと、イエスさまと出会うことは全く違っているのです。彼らがイエスさまと本当に出会っているかどうか、誰もわかりません。ほとんどは知識を蓄えることで、出会ったつもりになっているだけかもしれません。

わたしたちは言葉の世界に生きています。言葉がなかったら、人は一日たりとも生きていけません。にもかかわらず、その言葉に苦しめられています。人の心ない言葉に傷つき、嘘の言葉によって騙され、その場限りの言葉に右往左往させられています。言葉巧みな人はそれで得意になっているかもしれませんが、わたしたちはまたその言葉によって傷ついたり絶望したりして悩むわけです。その人たちは、あなたたちがそうなのは神さまへの信仰が薄いからだとか、祈りが足らないからだとか、努力が足らないからだ等々という心ない言葉でわたしを傷つけてくるのです。いくら頑張れと励まされても、そこには本当の喜びが感じらません。この世の言葉は、いくら本当らしく見えても、必ず嘘が含まれています。それが人間世界の現実、限界なのです。しかし、その世界に真実のまことのことばが来てくださったのです。永遠に変わることがない真実のみことば-わたしたちはその方をイエスさまとお呼びしますが-その意味は「わたしはあなたを救う」という名前です。このイエスさまがわたしを救おうと、わたしとの出会いに飢え渇いておられるのです。十字架上のイエスさまの渇き、それはまさしく人類をひとり残らずに救うために、この“わたし”との出会いに飢え渇いておられるイエスさまの叫びなのです。それはわたしへのイエスさまの呼び声でもあるのです。

遠藤周作は『深い河』のなかで、“神”という言葉に拘らないで、それはトマトでも、玉ねぎでもいいといいます。遠藤は、神を愛の働く塊りであるといっています。その大きな愛のいのちの働きがわたしたちを生かしているといいます。それを、わたしたちは唯、言葉で、“神”と呼んでいるだけに過ぎません。その大きないのちの愛の働きが、真のいのちのことばとなったのが、イエスさまです。イエスさまは、わたしを救うといわれる名前なのです。そして、このわたしを救うといわれるイエスさまと出会うことが救いなのです。別に“イエス”という名前が問題ではないのです。トマトでも、玉ねぎでも、何でもいいのです。言葉の世界に傷つき迷うわたしたちに、真実のことばとなって、わたしに呼びかけてくださる方があることに気づかせていただくこと、これが信仰です。この信仰は、すべての人に働き、届けられているのです。イエスさまが復活して生きておられるということは、世の終わりまで人類をひとり残らず救い取るまで、すべての人にその真実のことばが届けられているということ以外何ものでもありません。このことにわたしたちは気づかせていただいたのです。これこそ、イエスさまのわたしへの愛の働きです。わたしたちは、この愛の働きに自らを委ねるように呼ばれており、またそれを人々とともに分かち合うように呼ばれているのです。

復活の主日の福音と勧めのことば

♰主の平和 

主の復活のお喜びを申し上げます。皆で迎える復活祭です。聖歌も歌えるようになり、4年ぶりの復活の続唱です。

キリストを信じるすべての者よ 主の過越をたたえよう(中略)
私の希望 キリストは復活し ガリレアに行き待っておられる
ともにたたえ告げ知らせよう 主キリストは復活された
勝利の王キリストよ いつくしみをわたしたちに アーメン アレルヤ

復活されたイエスさまの祝福が、このホームページを見てくださった方々の上に豊かにありますように。

■今後の予定 

高野教会のミサは、第1、第3、第4日曜日10:30からです。第2、第5日曜日は、ミサも集会祭儀も行われませんので、4月30日(日)、5月14日(日)のミサはありません。

■2023年度京都司教区オンライン聖書講座が5月から開講になります。11月までの全12回で受講料は4,000円です。申込者限定配信で、3か月間いつでも何度でも聞くことができます。どうぞお申込みください。

https://www.kyoto-catholic.net/_files/ugd/8117f0_a1aa1577120b4e00821c1637d06cef17.pdf

■車で教会にお越しの方は、駐車許可証をフロントガラスに置いてください。

■京都みんなで捧げるミサ 

https://www.youtube.com/channel/UCcpBMMVYqIT3-LkUVGgNFsQ

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福音朗読 ヨハネによる福音(ヨハネ20章1節~9節)

 週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。

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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗

 今日、わたしたちは主の復活をお祝いします。主の復活の意味を理解するためには、聖木曜日から記念さわれてきた主の晩さん、主の受難、主のご死去、そして主の復活の全体を理解していく必要があります。主の復活はイエスさまが死者の中から蘇られたことを祝いますが、それは単なる死人の蘇生ではなく、イエスさまの奇跡でもありません。イエスさまの復活については、いろいろ想像されたような絵画やイメージが流布しており、それが間違った復活理解や勘違いを作り出しています。イエスさまの復活を正しく理解することは、わたしたちの信仰を見直すこと、またわたしたちの救い意味を正しく問い直すことでもあります。今日は、そのことを少し見てみましょう。

 わたしが小学生のとき、お寺の日曜学校で聞いた話です。ある国の慈悲深い王子は、森で飢えて動けなくなった母虎と子虎に会いました。王子は母虎に自分の体を食べさせて、母虎が子虎たちにお乳をやれるようにと決心します。しかし、王子は目の前に体を差し出しても食べる元気もない母虎を見て、崖から身を投げて流れた血を母虎に飲ませます。その血を飲んだ母虎は気力を取り戻して、王子の体を食べて子虎にお乳をやることができという話です。そして、この王子は生まれ変わって釈迦となって悟りをひらいたという話です。それが法隆寺の宝物の玉虫厨子の側面に描かれている「捨身飼虎(しゃしんしこ)」というお釈迦さまの前世譚の物語です。わたしはその話にとても心動かされたことを思い出します。現代人なら、そんなことをすれば血の味を覚えた虎がまた人を襲うのではないかとか、いろいろな反論をすることであろうと思います。しかし、これは真実の世界を描いたひとつのたとえ話です。

 わたしたちが聖木曜日の主の晩さんのミサで祝ったイエスさまの聖体の制定は、この話そのものであるといえるでしょう。これ以上、何か説明する必要があるでしょうか。そして、虎を養うために崖から身を投げるという行為は、イエスさまの十字架そのものであるといえるでしょう。宇宙開微以来、すべての生物体は食物連鎖によっていのちを繋いできました。その食物連鎖は、「弱肉強食」という姿をとっています。そして、その食物連鎖の頂点にいるのが人間です。しかし、人間の世界も動物と同じ「弱肉強食」の競争社会で、食うか食われるかの世界です。わたしたちは他の誰かの何かを奪って生きていかない限り、生きていけないのが人間社会なのです。そのことが、人間社会に様々な問題を引き起こしてきました。しかも、わたし個人の死は、わたしのもっとも大切なもの-いのちが奪われる最大の出来事なのです。このことを誰も制御することはできません。この現実が、人間が常に抱えている根本的な問題であり、そのことが競争、貧困、飢餓、戦争等という歪んだ形をとって人間社会に問題として現れてきているのです。この捨身飼虎の物語は、この弱肉強食の世界を出離したところに真の真実があることを説いています。しかしながら、人間である限り、決してこの弱肉強食の世界から出離することはできないのです。

 だからこそ、イエスさまはその人間をあわれみ、ご自身が人間となり、人間の食糧となって、わたしたちに食べられることで、わたしたちを世の終わりまで養おうとされるのです。その真実を、イエスさまは人間となってわたしたちに現わしてくださったのです。この王子が我が身を母虎に与えた行為は尊いものですが、その真実は人間が理解できるみことばによってしか、わたしたちに明らかにされることはないのです。ですからイエスさまは真実のみことばと言われているのです。

 イエスさまの受難、死、復活は、この真実を人間に明らかにするためでした。それは、わたしたちがこの真実をみことばを聞いて信じるようになるためです。つまり、生きとし生けるものを生かすために、つまりわたしたち人間を最後のひとりまで残らず救い取るまで、イエスさまはその救いの業を永遠に続ける愛の働きとなって、わたしたちに働きかけて続けておられること、これが主の復活の意味なのです。単なる死人の復活とか、死後のいのちのことではないのです。このイエスさまの業は永遠に終わることがない、愛の働きです。この聖なる過越しの3日間は夫々別のことを祝っているのではなく、イエスさまの永遠の愛の働きを3つの側面、受難、死、復活からから記念しているのです。それをわたしたちは、毎週の日曜日で祝い、1年間に1度だけ、それを特別の聖なる過越しの3日間として祝っているのです。

 わたしたちはこの大いなるいのちのよって生かされていますが、わたしたちはいのちの外にあります。わたしはわたしのいのちを自分でどうすることもできないからです。わたしたちのいのちはわたしのはからいの外にあり、わたしはそのいのちに生かされているのです。わたしたちは、この大いなるいのちの働きに気づかされ、その大いなるいのちの働きに委ねるように、その大いなるいのちの働きはわたしの内にあって、イエスさまのもとに行こうと絶え間なくわたしに呼びかけているのです。その愛の働きにわたしたちが目覚めることが救いであり、わたしたちの死からの解放、復活のいのち、永遠のいのちなのです。

受難の主日の福音と勧めのことば

♰主の平和 

高野教会のお庭の桜が満開です。桜の前のマリアさまも嬉しそうに見えます。

いよいよ聖週間に入ります。皆でよい復活祭を迎えられますように。

■洛北ブロック担当司祭としてお世話になりましたユン・サンホ神父様が、今春の人事異動で教区外へ転出されることになり、高野教会では今日が最後のミサ司式となりました。今までに神父様から頂いた多くの恵みに感謝し、これからの神父様の上に神の祝福が豊かにありますようお祈りください。

■今後の予定 

7日(金)午後3時から聖金曜日・主の受難の典礼、9日(日)午前10時半から復活の主日・日中のミサが行われます。木曜日の主の晩餐、土曜日の復活徹夜祭の典礼はありません。

■今月からミサ中の歌唱が増え、新しい応唱になった部分もあります。まだ譜面をお持ちでない方は、聖堂後ろにコピーを用意してありますのでご活用ください。

■2023年度京都司教区オンライン聖書講座が5月から開講になります。11月までの全12回で受講料は4,000円です。

https://www.kyoto-catholic.net/_files/ugd/8117f0_a1aa1577120b4e00821c1637d06cef17.pdf

■四旬節の献金、トルコ大地震の募金など、引き続きよろしくお願いいたします。

■車で教会にお越しの方は、駐車許可証をフロントガラスに置いてください。お持ちでない方には準備をします。

■京都みんなで捧げるミサ 

https://www.youtube.com/channel/UCcpBMMVYqIT3-LkUVGgNFsQ

■受難の主日のミサの配信はありません。 

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受難の主日 入場の福音 マタイ21章1~11節

一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。

「シオンの娘に告げよ。

『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、

柔和な方で、ろばに乗り、/荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」

弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。

「ダビデの子にホサナ。

主の名によって来られる方に、

祝福があるように。

いと高きところにホサナ。」

イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだ。そこで群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言った。

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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日はイエスさまのエルサレム入城が記念されます。イエスさまがどうして、エルサレムへ行こうとされたのかを考えてみたいと思います。

イエスさまはガリラヤでの宣教活動に終止符を打って、エルサレムに向かわれました。エルサレムへの入城はイエスさまの凱旋のように描かれていますが、事実はそうではありません。イエスさまの旅は、挫折の連続でした。ガリラヤでの宣教活動がうまくいっていると思われた時期もありましたが、それは最初の頃だけです。人々は貧しさに喘ぎ、日々の生活は困窮を極めていました。その人々の苦しみを見て、イエスさまは人々に寄り添い、飢えた民衆にはパンを与え、病に苦しむ人々を積極的に癒していかれました。しかし、イエスさまの神の国の福音は人々に伝わるということはなかったのです。人々がイエスさまに求めたのは、その日一日の食べ物と病からの癒し、苦しみからの解放でした。苦しむ人々にどんなに崇高な神の愛を説いても、神の国の福音を告げ知らせても、そんなものは絵に描いた餅にしかすぎなかったのでしょう。では、どのようにすればこの人々が救われて安寧がもたらされるのでしょうか。イエスさまは人々に寄り添いながら、必死に考えられたのだと思います。それこそが、宇宙開闢以来の神さまの思いであったと思います。この人類の苦しみの歴史にイエスさまはずっと向き合ってこられたのです。

ユダヤ教の厳格な律法を守ることで救われる人は、それでいいかも知れません。難しい律法の解釈や研究のできる人はそれでいいでしょう。でも民衆のほとんどは、難しくて厳格な律法を守ることなどできない人たちでした。それでは、律法や掟を守ることができないこの人たちは、どのようにしたらいいのでしょうか。イエスさまは救いを求めて群がる人々に、自分の出来るすべてのことをしていかれたのだと思います。しかし、イエスさまが感じられたことは、やってもやっても決して終わることがない無力感であったのではないでしょうか。どこまでやっても、全人類がひとり残らず救われるには終わりがない、何もできないことをおそらく痛感されたのではないでしょうか。イエスさまご自身、自分が救い主として、人々を救う側にいて、人々を救っていくというご自身のあり方そのものが分からなくなられたののではないでしょうか。これこそ、イエスさまの最大の挫折だったのではないでしょうか。そこで、イエスさまが選ばれた道がエルサレムへ向かうということであったのではないかと思います。イエスさまは救い主として、自分が救う側ではなく、救い主としての身分を捨てて、救われなければならない人間の身にご自身を置かれたということではないでしょうか。イエスさまは救う側ではなく、救われない側に、救われ難きわたしたちと同じものとして、ご自身の身を置くという大きな決断、転換がなされた出来事、それがエルサレムに向かうこと、エルサレムへの入城ということだったのではないでしょうか。

今日の詠唱にあるように「キリストは人間の姿であらわれ、死にいたるまで、しかも十字架の死にいたるまで、自分を低くして、従うものとなった」、つまり、イエスさまはわたしたち人間となられ、わたしたち人間と同じになられたのです。人間として、病み、老い、苦しみ、死ぬものとなられたのです。しかも人間として、十字架の死という最低の死に方をすることで、すべてのわたしの人生と一致されました。イエスさまは決して、偉大な救い主として、わたしたちを救ってくださる方ではなく、わたしとなって生き、悩み、苦しみ、老い、病み、死なれた。わたしたちとともにこの世界の歴史が終わるそのときまで、わたしとなって歩み続けられるということ、これこそがイエスさまなのです。イエスさまの中で救いというものの意味が根底からひっくり返ったといってもいいかもしれません。栄光のキリストではなくて、十字架へと歩むキリストとなられたのです。こうして、イエスさまは、全人類がひとり残らず救われるそのときまで、わたしとともに歩み、苦しみ続け、決して休むことなく働き続ける愛の働きとなろうとされたのではないでしょうか。これが、イエスさまがエルサレムに向かおうとされたこと、エルサレム入城の意味であり、十字架に向かっていこうとされたイエスさまの思いではないでしょうか。このイエスさまの思いが永遠のものとなったこと、それがイエスさまの復活であるといえばいいのではないかと思います。このイエスさまの思いがわたしたちに知らされることこそが救いなのではないでしょうか。

四旬節第5主日の福音と勧めのことば

♰主の平和 

一気に季節が進み、高野教会のお庭の桜も咲き始めました。心躍る春です。しかし、花冷えの日が続いています。どうぞ体調を崩したりなさらないよう、お気をつけてお過ごしください。

■今後のミサ予定

3月より全地区合同のミサに戻りました。ミサは日曜日10時半の1回だけです。

毎月、第2日曜日のミサはありませんが、4月9日は復活祭で第2日曜日ですが、復活祭のミサは行われます。また、4月7日聖金曜日は、午後3時より主の受難の典礼が行われます。聖木曜日の主の晩さんと復活徹夜祭の典礼は行われません。

■京都教区時報4月号が、教区のホームページに掲載されました。冊子の配布は次週になります。

https://kyoto.catholic.jp/jihou/545.pdf

■2023年度京都司教区オンライン聖書講座が5月11日から開講されます。申込受付が始まりました。多くの方が受講してくださいますように。

https://www.kyoto-catholic.net/_files/ugd/8117f0_a1aa1577120b4e00821c1637d06cef17.pdf

■車で教会にお越しの方は、駐車許可証をフロントガラスに置いてください。お持ちでない方には準備をします。

■京都みんなで捧げるミサ 

https://www.youtube.com/channel/UCcpBMMVYqIT3-LkUVGgNFsQ

■四旬節第5主日のミサ 

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福音朗読 ヨハネによる福音(ヨハネ11章1~45節)

[そのとき、]ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。それから、弟子たちに言われた。「もう一度、ユダヤに行こう。」

弟子たちは言った。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」イエスはお答えになった。「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」こうお話しになり、また、その後で言われた。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言った。イエスはラザロの死について話されたのだが、弟子たちは、ただ眠りについて話されたものと思ったのである。そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った。

さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。彼女が泣き、一 緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、イエスは心に憤りを覚え、興奮して、言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。イエスは涙を流された。ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。

イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。

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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日はラザロの蘇りといわれる箇所です。ここでは、人間、誰もが避けることができない生死の問題を取り上げています。

この世界の生物の中で、人間だけが宗教をもち、古今東西の宗教が等しく取り扱う根本的な問題は生死です。カトリック教会では永遠のいのちということで教えられ、それは死後始まる終わることのないいのちと考えられています。それは、死ななくなるような不老不死のいのちを想像しているのかもしれません。しかし、イエスさまが取り上げられたのは、死ななくなるいのちのことではなくて、人間の生死そのものを取り上げられたのです。

ラザロは病気で亡くなりましたが、イエスさまによって蘇生させられました。しかし、このラザロもその後亡くなっています。イエスさまは、ラザロを死なない体にされたのではありません。ですから、永遠のいのちは、生命体として歳を取ることも、病むことも、死ぬこともないいのちのことを指しているのではないことは明らかです。永遠のいのちを死後のいのちであると考えたり、もはや死ぬことも終わることもないいのちであると考えたりすることは、あまりにも人間的な発想だということなのです。それは天国のために宝を積みなさい的な神さまと駆け引きをする人間的な捉え方であって、救いをそのように考えること自体イエスさまの思いから離れています。

イエスさまを信じ永遠のいのちを得るということは、自分が死ななくなることでも、死んで天国で永遠のいのちがご褒美のように与えられることでもありません。宗教は人が死ななくなる、病気をしなくなる、老いなくなるものではありません。もし、そのようなことを説く宗教があれば、それは似非宗教だといえるでしょう。イエスさまは、わたしたちを生命体として死ななくされるわけではないのです。また、死後のいのちについて何かをいわれたのでもないのです。

コロナ禍の中で、15世紀の蓮如上人の疫癘(えきれい)の御文というのがよく取り上げられました。「当時このごろ、ことのほかに疫癘とてひと死去す。これはさらに疫癘によりて初めて死すにはあらず。生まれはじめしよりして定まれる定業なり。さのみふかくおどろくまじきことなり。しかれども、いまの時分にあたりて死去するときは、さもありぬべきようにみなひとおもえり。これまことに道理ぞかし云々」とあります。最近、疫病がはやって、疫病で人が死ぬといっているが、人が死ぬのは疫病で死ぬのではない。死ぬのは人が生まれたからであって、改めて驚くようなことではないといっています。それなのに、近頃は人が死ぬということを取沙汰しているのはおかしなことだといっているのです。

わたしたちも、自分が元気なときは、自分は決して死なないように思って生活しています。しかし、ひとたび癌であると宣告でもされたら、死んだらどうしようといって騒ぎ始めます。人間、死なない人は誰もいません。生まれたということは必ず死ぬということであり、死にたくないのであれば生まれなければいいのですが、生きている限りそれもできません。つまり、わたしたちは、この生死を一歩も出ることができないというのが、人間に定められた業なのです。

わたしたちは生と死というものの本来の姿を、さまざまな出来事に出会うときに強烈に見せつけられます。わたしたちは、平生は自分のいのちを自分で管理できるように思っています。けれどもそれは人間の願望であり、幻想にすぎません。実際は容赦ない過酷な現実が起こってくるわけで、それは何の祟りでも罰でもありません。人が生きるにあたって、当たり前のことが起こっているだけなのです。それがわたしたちのいのちのあるがままの姿なのです。

生まれてくるときも、死ぬときも、わたしの力を超えていて、自然にそうなるのです。生死だけではなく、わたしの人生の一瞬一瞬も自然のまま、ありのままであって、わたしの力でないものによって営まれているのではないでしょうか。わたしのいのちはわたしの手の外にあるのです。その当たり前のことが分からず、生死の中で右往左往しているのがこのわたしなのです。わたしのいのちはもっと大きないのちのはからいの中にあって、人生の万事はわたしの自由にはならないのです。

しかし、大きないのちのはからいの中でしか、物事は何ひとつ起こらないわけですから、そこには本来は大きな安心と自由と解放感があるはずです。わたしがどのような生き方をしようと、どういう死に方をしようと、すべて大きないのちのはからいの中にあるからです。つまり、わたしの生も死も、イエスさまのみ手の中にあるのです。そのことが「わたしは復活であり、いのちである。わたしを信じるものは、死んでも生きる。生きていてわたしを信じるものはだれも、決して死ぬことがない」といわれていることの意味です。

わたしはすべて大きないのちのみ手の中にあるのですから、自分でくよくよすることなど何もないのです。自分の責任だといって自分を責める必要もない。そうかといって自分の手柄だといってうぬぼれることもない。大きないのちにまかせると、虚栄心も卑下する心もなくなります。反省したり、うぬぼれたりする必要もないわけです。反省したり、うぬぼれたりしても構いませんが、そのようなことによってこの世界は少しも良くならないのです。

人間存在の根底は、人間の力を超えた力にあります。その力、働きによってわたしはわたしなのです。その大いなるいのちなしには、わたしは生きることも死ぬこともできない、その大きないのちに自分をまかせるしかできないことを知ること、それが真の信仰なのです。死んで天国に行くとか、死後の問題だけをまかせている、そしてこの地上のことは自分の力で何とかしようと思っているなら、ただの愚かものでしかありません。

「いだかれてありとも知らずおろかにもわれ反抗す大いなるみ手に」、教育者の九条武子の歌です。永遠のいのちとは、この大いなるいのちのわたしへのはからいと働きを知ること、そのものなのです。「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです(ヨハネ17:17)」といわれているとおりです。死後のいのちとか、わたしの生き方でどうこうなるものではありません。

イエスさまの神の国とは、この大いなるいのちの働きのことなのです。それなのに、わたしたちはこの地上の人間の些末な考え方に囚われているのです。そのわたしたちにイエスさまはいわれるのです。「ほどいてやって、いかせなさい」と。つまり、人々を生死の囚われから解放しなさい。そして、大いなるいのちにまかせなさいといわれているのです。この真実を知ること、これこそがキリスト者の信仰、生き方であり、使命なのです。